住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

みてくれの大切さ2

2006年09月05日 16時10分45秒 | 様々な出来事について
インドで見聞したことを題材に前回は、みてくれも大切で、そこには内面の充実、しっかりした精神的な裏付けも必要だということを書いた。だが、日本でも勿論見るからに立派な人というのはいるだろう。たとえば大正から昭和初期にかけて名を馳せた肥田春充という方がある。

この方は子供の頃とても身体が弱く、親も兄弟もみんな虚弱で死んでいってしまう。こんなことでは折角生まれてきたのにお国に申し訳が立たないということで、一念発起して医者であった父親の医学書から健康に関する古今東西の書物を手当たり次第に研究し、肥田式強健術という独自の壮練健康法を考案。丹田を中心に気を込めて腰腹均等に力を入れる姿勢にこだわった人あり、肥田仙人とも言われた。

人の身体は細胞が数ヶ月で全部入れ替わるのだから、鍛え方次第で肉体は壮健になるはずであるとして、筋骨隆々になる体操法と腹式胸式の呼吸法などを考案した。著書は天覧本にもなった。茅棒から哲人に、身体を生まれ変わらせて超能力を身につけ、さとりの階梯にもたどり着いたと言ってもいい。

孫が飼っていたカブトムシが居なくなり、祖父春充に尋ねると、どこどこで死んでいるよ、と言うので見に行くとその通りだったとか、孫娘さんを寝かせて気合いを入れると浮き上がらせて回転させたとかいう逸話が残っている。また戦前戦中にはその強健術が軍隊の体操に採り入れられ、軍隊に入っても上官から一度もビンタを食らったことがなかったとか。政治家らの相談にも乗っていたようだ。

余談はともかく、肥田春充氏の写真はどれも凜として堂々としたものばかりだ。まさに生きた仏像が立って歩いてくるようだと感想を残している人もある。その姿は、自ら切り開いた方法論に基づいた生き様と修養、そのものがにじみ出ていると言ってもいい神々しさがある。

仏教では、すべてに因縁ありといって、何事にも原因があり、それが結果してまた原因となるというように、すべてのことが原因結果を繰り返しつつ今に至る。瞬間瞬間積み重ねていった、心で考え思うことも含めて自らの身口意の行い、行為(業・カルマ)の集積した結果が今であると考えている。春充が身体が入れ替わると考えたように、私たちの将来もこれからの行い次第で入れ替えられる、だれもが変身可能ということになろうか。

前回インドの人々の歩く姿の美しさを述べた。それに引き替え日本人の歩く姿は、せせこましく、落ち着きがなく、慌てたような、どちらかと言えば猫背の姿勢に特徴があると言えようか。そこには、私たちの心、抱えているというか背負っているものの重たさを思わざるを得ない。そんなところに現代日本人の国民性を見る思いがする。

子供の頃から何か晴れ晴れとしない、目に輝きを失って、因縁づけられた人生を進まされ、したくもない勉強漬けになって、やっと入った学校でもいじめにあったり、会社に入っても競争の毎日。こき使われてお金に執着する経営者を批判も出来ない。ちょっとした息抜きに羽目を外して人生を台無しにする人も後を絶たない。

子供の頃からああせいこうせい、こうあるべきだとか、あの君はこうしたと比較される。みんな言われすぎて自分で決めることも、何をしたいのかさえも分からなくなってしまっているようだ。考えすぎて自分の気持ちを封じ込めてしまっているのではないか。

決められた世間のレールに乗るだけが人生じゃない。ボロを着ててもいい、目が輝き、胸を張れる生き方が出来たら、それでいいのではないか。少しぐらいコンプレックスがあっても、負い目があっても、不安があっても、それで普通じゃないかと開き直ったらいい。みんな本当はそうしたものを抱えているのではないか。私も沢山コンプレックスがあって、落ちこぼれじゃないかと思うこともある。 

インドの人々も、誰もが自分の人生を自ら選択し自由に生きているわけではない。かえって少数派ではないか。今は随分改善されてきたようではあるけれどもカーストがあり、ヴァルナと言って職業カーストがある。それぞれが親から引き継いだ仕事をするのが当たり前の人生を歩んでいる。今だに一度も会ったこともない相手と結婚させられる風習もある。

自分のしたくない仕事につかねばならない人も多いはずで、それでもみんなヴァガバット・ギーターにあるように、それぞれの立場で各々の義務を果たすべく、たとえば生まれついた家系の仕事を神に捧げるものとして孜々として倦まずになすことを生きる道として受け入れているのであろう。しかしだからといって、インドの多くの人たちは生きる意味がない、つまらない人生だとは思わない。

生きることの意味は、学歴や職業、収入や財産によって決まってしまうようなものではなく、それらによって人生の価値が決まってしまうようなものでもない。それぞれの生まれついた環境の中で何かをなしつつ、人様の役に立ち、そうして何を学び、何を次の生に、つまり来世に残せるかが大事なのではないか、多分そう思っているのであろうと思う。

着る物や身につける物で心が変わることもある。立つ姿勢、歩く姿勢で心も変わる。インドの人たちを見習って、だから何だというくらいの開き直った態度でどんな境遇にあっても堂々とした生き方をしたいものだと思う。何があっても、上を向いて胸を張って歩こうではないか。それがよい原因となり、次第に内面の裏付けのある本当のみてくれになるはずだから。

(画像は、昭和2年頃の肥田春充氏・壮神社刊・実験根本的健脳法より)

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