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ボクとおじいちゃんの仏教談義

再掲載 2010年12月03日投稿




仏さまとは

おじいちゃんは、毎日朝起きると仏壇にご飯を上げます。三年前におばあちゃんが亡くなってから、それは一日たりとも欠かしたことはありません。仏壇を置いた部屋には、おばあちゃんと二人で出かけた四国遍路の本尊様の御影を八十八枚貼り合わした額が飾られています。おじいちゃんは仏飯とお茶湯を二組上げると、手を合わせて「般若心経」を静かな声で唱えます。

その姿はとても美しいものに思えました。だからボクはその姿を見たくて、早起きをしてはおじいちゃんの後ろで一緒に座っていました。あるとき一番上に祀られている木彫りの像のおでこに、光るものがあることに気がつきました。「おじいちゃん、あの光ってるものは何なの?」

おじいちゃんは「あれはね、仏さまの白毫だよ、みんなのところに分けて下さる仏さまの智慧の光を表しているんだ」と教えてくれました。「へー、仏さまって、何?」
「そうだな、仏さまは亡くなった人、生きている人、みんなの目標と言えるかな。でも二年生には、ちょっと難しい話しだね」
「目標?」ボクにはその時まだそれが何を意味するのかちっとも分かりませんでした。

 お墓とは

おじいちゃんは仏壇に毎朝手を合わせるだけでなく、お墓にもよくお詣りします。下校途中で会うこともしばしば。おじいちゃんはわざとボクの帰りの時間にあわせてお墓に行くのかな。今日もおじいちゃんはお墓にいます。バケツの水を上から掛けて、花にもあげて、ロウソクと線香に火をつけて、手を合わせます。

「おじいちゃん、おばあちゃんはこの下にいるの?」最初おじいちゃんは困った顔をしていましたが、「そう思うかい?おばあちゃんはここにはいないよ。ここにはお骨があるだけなんだ。死ぬとみんなからだと心が離れて、心は次の世界に生まれ変わるんだよ」「おばあちゃんがいないのに何で手を合わせるの?」

「お墓はただの石じゃないんだ、仏塔というこの間教えた仏さまの教えのシンボルなんだよ。で、とってもありがたいものだから、それを建てて、そのよい行いの徳をおばあちゃんにあげて供養するんだよ。次の世界でもよりよくあって下さいとね」「へー、お墓におばあちゃんはいないんだ」

 供養とは

ボクは供養って何だろう、そう思ったのでしたが、お墓でいつまでもお話ししているのはいけないように思って黙っていました。そして帰ってから、おじいちゃんのところに行って、「供養って何?」と聞きました。

おじいちゃんは、「その前に仏さまのことをちゃんとお話ししないとね。前に目標と言ったけど、みんな誰も生きていると悩みがあったり、悲しいことがあったり、怒ったり。また、ときに不安だったり人をうらやんだりするだろ。でも仏さまはそんなものが何もない。この世の中のことがすべて分かっておられるから、いつも幸せな誰にもやさしい心でいられる人なんだ。だから、仏さまを信じて生きる人は、みんなそんな立派な人になれるようにと目標にして生きるんだよ」「それで供養というのはね、亡くなった人がその目標に一歩でも近づけるようにとみんなで手助けしてあげることだと思ったらいいよ」と教えてくれました。

半分くらい分かったような気になって、ボクは「フーン」と言って、おじいちゃんの部屋を後にしました。

 一番の供養

おばあちゃんは、交通事故で亡くなったのでした。大きな道路の横断歩道でないところを渡ろうとしていて、走ってきたオートバイにはねられたのです。オートバイには若い学生さんが乗っていて、それも医学生。将来、人の命を預かる人がそんな事故を起こしてと、たいそう反省して大学を辞めて働いて慰謝料を払いますと言ってこられたのでした。

最初おじいちゃんはそれを黙って聞いていましたが、次の日、そんなことしてお金をもらっても亡くなったおばあちゃんは喜ばないのではないか、横断するところでないのに渡ったのも悪いのだからと、その学生さんに、そのまま大学に残り、しっかりと勉強してくれることをお願いしました。学生さんもおじいちゃんの願いを聞き、これを教訓に命を大切にする医者になろうと、勉強に励むことにしました。そして、おばあちゃんの命日やお彼岸に来ては仏壇に線香を上げ、その時々のことを報告してくれるのだそうです。

あるときその学生さんが来ているとき、たまたまボクも一緒にいたら、おじいちゃんが「君がいい医者になってくれることが一番の供養になるんだから・・・」と言いました。

あとでボクは、おじいちゃんに「一番の供養ってどんなこと?」と聞きました。おじいちゃんはまた困った顔をして、「そうだな、死んだおばあちゃんが一番喜んでくれることをしてあげることかな」と言いました。

仏壇の前に置かれたおばあちゃんの写真は、いつも笑っているのに、今日は少し泣いているように見えます。きっと、うれしくて泣いているんだね、ボクにはそう思えたのでした。

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水子の葬儀について

先日、水子のお葬式をさせていただきました。水子は葬儀をしなくてもよいもの、供養のためには墓所に地蔵尊を祀りそこに遺骨を納めたらよいという程度に考えていました。しかし、この度、若いお父さんから、たとえ14週までであっても母親のお腹の中で命をともにした赤ちゃんをきちんと一人の子として考えたいとの切実な真面目な思いを聞くにしたがい、きちんとお葬式をしてあげたいと思うようになりました。そしてまずは、どのように水子の存在を捉え葬るべきかと考えました。

調べをしてみると、医学的な死産というのは妊娠22週以降のことだそうですが、妊娠12-22週の流産の場合にも死産届の提出と火葬の義務があります。この家族の場合、14週でお腹の中で亡くなったので流産ということになりますが、死産届を提出し火葬許可証を取得する必要がありました。死産の子のための小さな棺を用意し、特別に火力を抑えて火葬され、遺骨もわずかであっても小さな骨壺に入れられるとのことでした。

因みに、妊娠22週以降は死産・早産という扱いになり、死産届の提出と火葬の義務があります。これは妊娠12週から22週までの場合と同様ですが、誕生後亡くなりますと、出生届を出す必要があります。また、妊娠24週を超えると通常人が亡くなったとき同様に、死産後24時間たたないと火葬することはできません。

ある統計によれば、6ヶ月までの死産では6、7割の方が火葬のみですが、8ヶ月あたりから火葬のみの方は1、2割程度となり、ほとんどの家族がお葬式をされているということです。しかし、赤ちゃんの月齢に関係なく、ご家族がお葬式を希望されるならそのお気持ちを尊重してあげるべきだと思います。(下記・水子供養のすべて[まとめ]知らないと困る死産の時の火葬の手続きから葬儀・供養 参照)

ところで、水子は生まれ出ていないのだから、純粋な存在であり、煩悩がない、清らかなのだからお葬式は必要ないと考える方もあるようです。それは、本当でしょうか。生まれ出たばかりの赤ちゃんも純真で何の汚れもないようには見えますが、そんな赤ちゃんであっても、今生に生まれる前からの沢山の業を抱え持って生まれてくるんだと、仏教では考えます。

私たちの命は今生が初めてのものではありません。また、たった一度の人生でもありません。生きとし生けるもの、衆生はみな六つの世界に流転し、何度となく生死を繰り返してきています。みんな違う顔をして、違った才能を持ち、違った好み嗜好を持って生まれてくるのも、そうした過去の生涯での蓄積がみんな違うからです。お釈迦様のような最高の悟りを得ずに、全ての煩悩を消滅させ得なかった凡夫衆生は、死に際に、もっと生きたいという煩悩が起こり、この輪廻の世界にまた生まれ出てしまうのです。

いま私たちは、生まれがたき人間という恵まれた世界に生きていますが、それは前世までの行いが比較的良好で、善業の蓄積があり、そのお蔭でお母さんのお腹の中に入り、命の宿った身体と一体となって、人として生まれ出てくることが出来ました。ですから、残念ながら今回はお母さんのお腹の中で十分に成長することが出来なかった水子も、少なくとも人間に生まれる業はあったと考えられます。

また、仏教はなにごとにも因縁ありとも言います。すべてのことは原因と結果するための様々な条件が合致してはじめて生起します。人との出会いも、因と縁が重なり生まれるものです。であるならば、この度、残念ながら死産になってしまった水子の心もこのお母さんお父さんのもとに生まれる因縁があったと考えられます。

であるならば、もう一度頑張って、身体の健康を回復されて、また、精神的にも落ち着いた中で、お父さんお母さんに命を授かることで、この度お母さんの中に入ったのに生れ出てくることのできなかった水子に、再びお母さんのお腹の中に入ってもらって、今度こそ元気な産声を上げてくれるようにと願うことこそが水子が望んでいることでもあり、最も水子が喜んでくれることではないかと考えました。

お葬式では、ご家族の予め用意されていたお名前を入れた六字戒名も用意させてもらい、本堂に祀られた地蔵尊の前に特設の祭壇を設け、位牌、遺骨壇、御供えをし、引導作法をして、戒名を授け、諷誦文を読み上げて、読経しました。前世でも人間界で死後お葬式をしてもらっているかもしれませんが、改めて水子の縁によって、仏式にて三帰五戒をお授けしました。近い身内だけの小一時間のお勤めでしたが、十分に喪主ご家族には心通じるものがあったように感じられ、残念ながらこの度は生まれ出ることが出来なかった水子の心に、次に繋がる何かを感得いただけたようにも思われました。

この度の妊娠、そして死産という悲しい出来事によって、若い父母の心にはこれまでになくいろいろな思いが去来し、命、家族の尊いつながりやありがたさ、そして亡くなった命を供養する心を学ばれたことでしょう。小さな位牌も用意されて、小さな骨壺を祀り日々供養されることと思います。私自身もこの度の思わぬ水子の葬儀を依頼されて、迷いながらもいかにあるべきかと思考し、あるべき水子の葬儀を執り行うことが出来ましたことに感謝申し上げたいと思います。関係された諸氏にも、このような機会をいただきましたことに御礼を申し上げます。


(参照)
水子供養のすべて
[まとめ]知らないと困る死産の時の火葬の手続きから葬儀・供養
http://水子供養方法.net/shizan-sougi.html#comment-2


(参考文献)
『子どもは親を選んで生まれてくる』池川明著・日本教文社

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宇宙の真理とは

宇宙の真理とは何ですか、と問われました。それは、宇宙を成り立たせている法則、摂理のことでしょうか。この大宇宙を成り立たせているエネルギーのもとのようなものでしょうか。毎日お日様が上がり、朝が来て昼間があり夜が来て。春夏秋冬の季節をもたらす地球の歩み。そうした宇宙の営みを通じていのちが生まれ成長し進化して私たちがあります。そうした生命の営みを成り立たせている規則正しい自然界の秩序ともいえましょうか。

実は、この質問は、月例行事であるお話会で、真言宗の常用経典理趣経の解説書、松長有慶先生著『理趣経』(中公文庫)を皆さんと読んでいて、その途中で発せられたものでした。この経典の中にある平等という言葉を解説(同書150頁)する部分に「平等とは仏と自分が一体であることです。千円札を両替機にくずしても値打ちは変わらないという意味の平等ではありません。自分と宇宙の真理、自分と絶対者が一つだということが平等です」とあり、そこにある「宇宙の真理とは何ですか」と素朴に質問されたのでした。

そこで、それはお日様であれば、遮られることのない温かな光りであり、いのちを育み、実りをもたらす働きということになりますが、この理趣経の教主である大日如来そのものがそうした働きを象徴する仏様ということになりますかね、とお答えしました。そして、そのときは、大日如来であれば、その智慧を四つに分けられるというような話は既にいたしましたね、と申し上げるにとどまりました。が、それは宇宙の真理、そのものを象徴する仏が大日如来といわれるが故の答えでした。(同書79頁)

そのページには、「法は仏教の真理ですから、真理は常にあるという考え方が仏教にはあります。釈尊がこの世にお生まれになって、自分自身で作り出した真理ではなく、この永遠の宇宙の真理を釈尊がこの世にお説きになったのだと考えるわけです」また、「釈尊の悟られた真理そのものを仏さまと考えた、それが大日如来ということです」ともあります。

そこで、お釈迦様がお説きになった法、つまり永遠の宇宙の真理とは何かといえば、それは生涯お釈迦様がお説きになられた三法印または四法印といわれる「諸行無常・諸法無我・(一切行苦)・涅槃寂静」でありましょう。そして、それらを総合した「縁起の法」があり、それを理論的実践的体系として説かれた「四聖諦、苦諦・集諦・滅諦・道諦」でありましょう。

一方、お釈迦様が悟られ説かれた真理そのものを仏とした大日如来の功徳とは、「除闇遍明、能成衆務、光無消滅」と言われます。暗い中で光を点す、それは智慧の輝きを表しており、それは誰にも普く温かさをもたらすというお徳を表しています。そして、一切に行きわたるお勤めをしてすべての者を育てていく役割を通じてその慈悲の働きを、消えることのない光とはその真理の永遠で不滅であることを表しているといわれます。(同書98頁)

そういう徳、性格をもつ大日如来は金剛界の曼荼羅の仏さまの世界では、その中心となり、周りには四人の仏が取り巻き、それぞれ大日如来の智慧を分け与えられているとされています。四つに分けるのでこれを四智といいます。東に阿閦如来、南に宝生如来、西に阿弥陀(無量寿)如来、北に不空成就如来となり、それぞれ大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智という智慧を表し、大日如来の智慧は特に法界体性智というとのことです。

大円鏡智とは、水があらゆるものを映しとるように一切のものを映しとる智慧で、平等性智とは、水に高下なく平等に映すようにいろいろなものの中に共通した性格を見つけ出す智慧。妙観察智は、水は平等にいろいろなものを映し出すけれども、それぞれ違った色形を映す、その違いを見つけ出す智慧、そして、成所作智は水が一切のものを育て、はぐくむ行動、活動を起こすもとになる智慧のことです。そして、法界体性智はそれらの智慧を一切の所に遍満することであるとあります。(同書110頁)

ではこのお釈迦様の説いた法、四法印と四智とはいかなる関係となるのでしょうか。

ところで、私たちには五官の表面的な感覚を捉える心である前五識があり、その五識の結果を認識するとき以外にも特別の禅定や睡眠時以外常にはたらいている第六意識があります。さらに、その表層の心理である意識の背後に深層の心理として、思いによって自我意識を構成する心である末那識があり、さらにその背後に前世の業の蔵としてのアーラヤ識があるとして、こうした心の構造分析を行う考え方を唯識といい、3世紀から4世紀、インド大乗仏教における実践思想として起こり、その展開として密教も発展していきました。

平川彰著『インド仏教史』下巻第四章後期の大乗仏教・第五節唯識の教理(150、162頁)によれば、前世の業の結果として成立したアーラヤ識は遺伝や性格記憶などが種子として保存され個人の人格を形成する、人格の主体となる心であり、この心が阿羅漢という最高の悟りを得ると転じて大円鏡智になるとあります。また、意識の背後にあって絶えず自我意識を構成している末那識は自我への執着に汚れているが、悟りを開き我執がなくなると平等性智に転化するということです。そして、自心の相や実我の見をおこす、また身体や心を自我と見るとらわれをおこす第六意識が転じると妙観察智、五官に入る対象を感覚として認識する心である前五識が転じると成所作智になるとあります。

一番深いところにあってその人の人格そのものとしてあるアーラヤ識が、遺伝したもの性格として作用するもの、記憶によって様々に影響をその上の心に及ぼすものが無くなってしまうと、真っ平らな鏡の様な全てのものをありのままに映し出す智慧・大円鏡智に転化するということです。自意識の元になる末那識の自我への執着が無くなると、全てのものに個々の長所・価値があり、その良いところが見えてきて皆平等に価値あるものが見える智慧・平等性智に転化するということです。そして、様々な思い、感覚から自分自分という思いの中にある第六意識から誤った見解がなくなると、全てのものをよく観察することができるようになり、それぞれの違い、特徴、本質が見えてくる智慧・妙観察智に転化するのです。さらに自分という思いとともに感覚をとらえる前五識はその自分というとらわれから脱すると、すべてのものをよくとらえ、それらをはぐくみ育てる智慧・成所作智に転化するということです。

さて、この唯識思想では心の構造について分析する他に実際の精神活動についても独特の言葉を用いて思想を展開しています。心の働きについて、まず外から入るものによって心の作用が生じることを依他起性といいます。次にその心の作用は言葉によってあれこれと思索し妄想していることを遍計所執性といいます。それから、そうした迷った心が全て消え去った真実なる認識のことを円成実性といい、これら三様の心のあり方を三性といいました。

平川彰著『インド仏教史』下巻(159頁)には、「依他起の識が煩悩に染ぜられているから、遍計所執性の世界が出現するが、この依他起において煩悩がなくなれば、識は無垢識となって円成実性が顕現する。すなわち転依とは、識の質的転換をいう。・・・大菩提は八識を転じて四智を得ること」であるとあります。

また、水野弘元著『仏教要語の基礎知識』(165頁)には、「心は染浄の両者にわたる依他起性を、仏は悟界のプラス価値を示す円成実性に、衆生は迷界のマイナス価値を示す遍計所執性にあたると見れば、依他起性は縁起一般と、遍計所執性は流転縁起と、円成実性は還滅縁起と関係していることが知られる」とあります。

ここで、唯識思想の展開が、お釈迦様の説かれた四法印と重なり、依他起性は諸行無常と諸法無我、遍計所執性は一切皆苦、円成実性は涅槃寂静を言い換えたものと捉えることができます。密教思想の中に説かれる真理は、お釈迦様の説かれた初期仏教における真理・四法印の言葉を換え、捉え方が変わりながらも継承したものであると考えることができるのです。

すべての現象が無常であることをつぶさに観察すること(諸行無常)によって、それぞれのものたちの変化違いをとらえることができ(妙観察智)、すべてのものが無我である知ること(諸法無我)によって、みなそのものの実体なきものとしての共通性を見出すことができる(平等性智)。一切の現象が苦であるとさとること(一切皆苦)によって、良き活動の原点となり(成所作智)、静かなる悟りに至れば(涅槃寂静)、ありのままにすべてのものを見通すことができる(大円鏡智)でありましょう。

いずれにせよ、私たち自身もその真理の故に生まれきて、その恩恵により育まれ生き、その真理にのっとり生きているということであり、その宇宙の真理と一体であるからこそ、いまこうして生きているということになるのであろうと思います。



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法話 敬う心-御先祖様の示された教え

敬う心

今という時代は、敬うということが世の中からだんだんと失われているように思います。敬うなどという言葉自体が死語になりつつあるのかもしれません。大企業やお役所でも、政治家でも、何か不祥事を起こしたり、事故を招いたりして謝罪会見などというものが行われ、それがテレビで放映され、インターネットでいろいろとプライベートまで暴かれたりと、誰を敬っていいのか解らない時代と言えます。ですが、私は、この敬うということ、とても大切なことであると思っています。今日はこの敬うということをテーマにお話し申します。

お寺の住職として

お寺の住職として、敬うということについて、先ずお話し申しますと。仏様に対しては勿論のことですが、今は亡き先代住職を敬い、これまでなされてきたことを尊重することも大事なことであると思っています。それからまた、やはり亡くなられた檀家さんに対して、敬いの心をもって弔いをする、お葬式をするということであろうかと思います。通夜のお経の後そんな意味からも、その檀家さんがどのような方であったか、思い出などを語り、お寺にもどのような貢献をして下さって功徳を積まれたかと、お話し申します。

ですが、長患いをしたりで、そう簡単に話が出来ないケースもあります。どんなことか、二つのケースの話をしたいと思いますが。たとえば、國分寺の檀家の奥さんで、八十歳の時交通事故に遭い、脳挫傷で半植物状態となられた方があります。ほとんどベッドの上で横になり、話も出来ず11年間寝て亡くなられました。その間、向島に住む次男さん夫婦が盆に帰ってきてくれて、盆参りを毎年しておりました。

一年に一度お会いする度に、お母さんの様子を教えてくれるのですが、お二人どちらかか毎日一度は施設に参り様子を見るが全く反応もない日も多いとのことで、それでも、お二人ともとても明るく、「心臓が強いんですかね、頑張ってくれてます」といわれていました。若い奥さんは自分が乳癌になったりしたのに、お母さんの心配してたら癌がどこかに消えてしまったとのことでした。そうして、通夜の晩、お二人に、長いことご苦労様でした、だけではねぎらいにもならないと思いどう話すべきか考えました。

そこで、植物状態になった方の医学的な研究について調べをしてみました。すると、イギリスの医師で、エイドリアン・オーエンという博士が、植物状態の患者さんのMRIを測定しながら語りかけ、これからする質問にイエスならテニスをしていることをイメージして下さい。ノーなら家の中を歩いていることをイメージして下さいと指示すると、イエスの時には運動野、ノーの時には海馬が活動することを利用して、事故当時から意識がありましたかとか、見舞いに来た人のことが分かりますかといった質問をすると、とても意識的にイエスノーを使い分けられていることが分かったとのことでした。

通夜のお経の後、その話をして、お母さんは、お二人の献身的な看護も分かっておられたし、この十一年の歩みは決して無駄では無かった。仏教の修行の中に座禅という身体を動かさずにじっとして意識を保ちつつ心を静寂にする行があるわけですが、それと同じように心の修行を11年なされて、得心されて来世に旅立って行かれたのではないでしょうか、ご本人にとり、とても意味のある11年だったと思いますとお話し申しました。

またこの方よりも少し前のことですが、國分寺の総代を20年もされた方で、六十才から八十才まで、女子中学高校の校長をされて退職し、やっとこれから自分の好きなことをしようと思っていた矢先に、ALSという筋萎縮性側索硬化症、ルーゲーリック病になられた方がありました。お祖父さんお父さんは半農半僧の生活をされた一家であり、ご自身も信仰深い方で、得度されて修行したいと言われているところでした。徐々に筋肉の働きが失われて、寝たきりとなり、言葉も発せず、最後は瞼しか動かなくなるという病気なのですが。南岡山医療センターに入院されていて、私も度々こちら方面に来たときにはお見舞いに寄っておりました。

この方は寝たきりになり四年後に亡くなられました。亡くなられてやはり通夜でどのようにその四年間についてお話するか思案しました。そのときには、学校の先生ですから、生涯に何千人という生徒たちに言葉で教えを垂れてきて、最後に四年間も無言の行に入られ、このたびその行を成満されて来世に旅立たれたのではないかと話をいたしました。

このように、亡くなられた壇家さんを敬い、どのようにその方の人生を讃え、いかに価値ある一生であったかと話し、沢山の功徳を積んできたことを改めてご本人にもお知らせをして、お送りするということがとても大切なことではないかと私は思っております。

敬うから学べる

ところで、昔スリランカ人のお寺さんに、御縁ありいろいろと教えを受けていた時期があるのですが、「人間は人間から学ぶものです。そして、敬いの心が無ければ学ぶことはできません」と教えられたことがあります。そのお寺さんに対する私の敬いが足りないということだったのかもしれませんが、今ではその方は日本に来て40年、日本語で説法され、テレビにも登場し大変に有名になられ、本も沢山お出しになり、もう近よりがたくなくなりましたが、もっと敬うべきであったのだと思います。敬う心があるから、立派なお祖父さんのようになりたいと思い、お祖父さんの背中に何事かを学んでいくということになります。敬う心があるからその方から学び、努力して成長できるということになります。

敬う心と供養

人として向上するには敬う心が不可欠だということですが、では次に仏教的に敬うということについて考えてみたいと思います。今日は皆さん、塔婆供養をお参りに来られたわけですが、供養とは、インドの言葉で、プージャーと言います。インドでプージャーと言いますと、神さまの前に沢山のお供えをして香を焚き、礼拝し延々とお経を読んだりいたします。ですから、供養とは、御供えする、礼拝する、祈る願うということになります。ですが、このプージャーという言葉は、もう一つ大切な意味があります。それは尊崇する、敬うという意味です。

インドに行くと、学校の前などでよく目にする光景あります。子どもたちが学校の先生に会ったりすると、先生の前でしゃがんで右手で先生の足に触れて、その手を自分の額に持っていきながら立ち上がり、合掌して挨拶するのです。日本とは大違いですが、まさにそうして敬いの心を表す行為が礼拝ですが、全身で敬う心を表す行為が礼拝であり供養であるということです。私たちも仏様を敬い尊敬する気持ちがあるからこそ、御供えし礼拝するのです。

仏様の心

わたしたちにとって、敬い礼拝する対象とは、仏様です。その仏様とは、私たちにとって、どのような存在なのでしょうか。日本では様々な仏様がおられます。大日如来様、観音様、・・、そのおおもとにはお釈迦様の悟りがあり、その功徳御利益がそれぞれに分け与えら名前をいただいている。インドでは仏陀といいますが、仏陀とは目覚めた者という意味です。何に目覚めたかというと、この世の中の真実のあり方、それが分かるとすべての煩悩が無くなり静かな心になるそうです。仏様の心とは、大きな波の起たない海のような心だと教えられたことがあります。

大きな海のような心なので、何を投げ込まれても、大きなものでも尖ったものでも、一瞬にして心の波が消えてしまうんだそうです。高飛び込みという競技がありますが、上手な選手が飛び込むと波がほとんど起たないようにですね。そして、鏡のように何でもありのままに映し出してしまう大きな海のような心とも言われてました。

どうですか、私たちは小さな石ころのようなものを投げられても、いつまでも波が消えず、余計に波たたせたり、濁っていて、自分勝手にいろいろなものを色眼鏡で見ていたりしますね。何があっても、どんなときも堂々と落ちついて静かな満たされた心でいたいものです。が、つい先のことを考えて不安になり、心配して落ち着かなかったり、過去のことを何度も思い出してはクヨクヨして苦しんだり、イライラして怒ったり。そういうことがまったくない仏様のような心になりたいものだと、私は思いますが、皆様もそうだと思います。

ですから、仏様というのは、私たちにとっての、理想的な心をもつ方、目標とでもいえるのではないかと思います。敬うべき存在であり、私たちもそのような心を持つ人になりたいものだと思わせる存在といえます。ですから、私たちは、亡くなられた人にもそうあって欲しいと思って、通夜葬儀の時に焼香するときに「どうぞ早く成仏して下さい」、法事の時には、「何回忌の菩提のために」と、亡き人、故人に成仏や菩提を願うのではないでしょうか。

仏壇は敬う心を養う場

ところで皆さん、突然ですが、テレビで水戸黄門、大変な長寿番組ですが、毎日再放送をご覧になっている方もあると思いますが、どのようなシーンが記憶にございますか、この紋所が目に入らぬか、お銀の入浴シーンでしょうか。水戸黄門といえば、仏壇がよく出て来ると思いませんか。武家でも商家でも、何かお家の大事というと仏壇の前に行き、今は亡き先代や御先祖様に相談されたり指示を仰いだり、許しをもらったりするシーンがよく登場します。仏壇はそれほどに日本人にとって、この上なく大事なものであることがわかります。そこで、次に仏壇から敬うということを学んでみたいと思います。

皆さんは、その仏壇とはなんだと思いますか。生まれたときからありますから余り特別に考えることもないかもしれません。たとえば、お孫さんが外国の友達を連れて家に来て、一番上等な部屋に案内したらそこに仏壇があったとして、その友達がこれは何ですかと言われたらなんとお答えになりますか。仏様を祀るものですよと、では、こちらの家はブッディストの家なんですねということになります。つまり仏壇とは仏教徒のシンボルといえるものです。

そして、そこには御先祖様が祀られています。仏壇の前に行けば御先祖様に語りかけることができると思われています。少なくとも水戸黄門ではそのような設定になっていて、そのことに違和感なく私たちは水戸黄門を楽しんでいます。ですから、私たちもそのような感覚で生きています。仏壇には御先祖様がおられて、自分があるんだと感じ取ることができると思うのですが。

今という時代は、何でも自分で出来ると思いがちな世の中ですが、実はすべて御先祖様や先代が残して下さったものにより生活し、周りの人たち、生き物たちのお蔭で恙なく生きているということに気づかせていただく、そういう謙虚な気持ちになり感謝と報恩の心、敬う心が生じて来る場所であります。周りの人たちにも敬いの心をもって接することになり、自然と信頼されて、人間関係も良好になります。敬う心を養う場、そういう場所が仏壇ではないでしようか。

仏壇から教えられること

さらに、仏壇からいろいろなことを学ぶことが出来ると言われるのですが、どんなことを学ぶことが出来るでしょうか。全体の形はいかがでしょうか。仏壇は形も大きさも様々ですが、古い仏壇はたいてい、このように上と下に末広がりで、七つほどの段になり、開放部が一番幅が狭くなっています。また、このように上がもう少し段が多いものもありますがとにかく上下が広く末広がりになった形です。この七つの段々になった形は七界を表しています。地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天界の六つの衆生世界と仏界で七界となります。

地獄は、地の底にある牢獄のような世界で、熱地獄、寒地獄、孤地獄とあり、他の命を奪ったり、人の大事なものを盗んだり、嘘を言って人を陥れるようなことをすると地獄に行きます。
餓鬼は物欲しそうに指をくわえて暗いところに醜い姿で佇んでいるイメージがありますが。餓鬼には、食べること飲むことに執着して、嫉妬したり憎しみをもったりすると行かされるところです。寿命がないので、仏教ではよく施餓鬼というのをしてあげるわけです。
畜生は、畜養の生類との意で、食べるために殺し合いを辞さない死と隣り合わせの生き物たちの世界です。

修羅とは、あの興福寺で有名になった阿修羅ですが、争いの心の強い荒々しい殺伐とした戦闘の神々の世界です。
そして私たちの人間界、一番生まれ変わりにくい世界で、善悪を自らの意志で決められ、功徳を積むことの出来る唯一の世界でもあります。
天界は、恵まれた幸福感をずっと味わえる世界ではありますが、毎日快楽の世界で幸せを味わっていないといけない。それに飽きてしまったり寿命があり下に堕ちてくるときには地獄の36倍もの苦しみを味わうと言われています。

私たちはお釈迦様のように悟って仏界に行くまで、この六つの衆生世界をその業によって何回もグルグル生まれ変わると考えられ、仏壇の形はそうした仏教の生命観を表しています。こう考えるとやはり何度も人間に生まれ変わり徳を積んで心を清める人生を重ねることが大事だと分かります。

ところで、この生まれ変わるということ、輪廻と申しますが、2年ほど前ある家の法事でそんな話をしておりましたら、生まれ変わるなんて妙なことを言うといわれました。この中にも不審に思われる方もあるかも知れませんが、生まれ変わりの研究は今世界的に進んでおりまして世界中で沢山の事例が報告されています。アメリカではヴァージニア大学で、前世の記憶をもとにその人物の実在を確認し過去世の人格を特定するという研究が進められ、日本でも、産婦人科医の池川明さんという博士が胎内記憶や前世を記憶する子どもたちの研究を行っており、このような「前世を記憶する日本の子どもたち」という本を書かれています。

私たちは死んで終わりと考えがちですが、死は体と心の分離と考えます。関連しまして、臨死体験という言葉聞いたことがあると思いますが、身体が事故や病気で仮死状態になって、身体から心が離れて、病室の上の方から自分の身体を見ていたりという体験のことです。昔四国で出会った青年はオートバイの事故の時、電柱にぶつかった瞬間に体から心が出て上のほうからスローモーションのコマ送りのように自分の体が転がっていくのを見たんですよと話してくれました。

また檀家の奥さんで大腸のポリープの手術をするのに麻酔を打ったら、気が付くとお花畑の中にいて、向こう側に川が流れていて、すっと近づくと向こう岸には亡くなった人がたくさん立って居て行きそうになったら、亡くなった旦那さんの声で「おーい芋を見にいけよ」と言われて、気が付くとベッドの上でしたと話されました。身体を離れて私たちの心は存在するということなのです。体の寿命が終えると体から心は離れて四十九日の間この三次元の空間にいて満中陰の法要の功徳をもって来世に旅立っていくのです。

そしてその仏壇の開放部は、丁度人間界に当たり、中は上中下三段ありますが、それぞれどのようにお祀りされていますか。一番上に仏像や仏様の掛け軸。中段に位牌、下段にはいろいろなお供えがきていますね。こちら側から、下の段に御供えをして、上段の仏様を拝み法楽を捧げ、中段に祀られた御先祖様やお位牌の精霊の成仏を願い廻向します。

そして、今生きている私たちも、いずれは位牌になり仏壇の中段に祀られます。そうなりますと、こちら側に座る遺族家族から手を合わされて成仏を願われる存在になります。つまり仏壇の中段から上段にある仏様に昇っていくようにと願われるわけです。

こちら側から御供えをしていた立場から、中段に上がり、さらに上段に昇っていくべき私たちの生き方、あり方を示してくれています。ですから、何度生まれ変わったとしても仏様になるように生きよ、と御先祖様が仏壇にその願いを込めて、代々大事に継承してこられたのだと思います。

仏壇のお供えに学ぶ

そして、そこにはどのようなお供えをいたしますか。皆さん、花、灯明、香、飯食、茶湯をお供えされてると思いますが、さらに塗香という、身を清める塗る御香を入れて六つお供えすると、それを六種の供養といい、この六つは、六波羅蜜という大乗仏教を行ずる時のわきまえるべき内容を表します。

六波羅蜜とは、学ばれたことがあるかとは思いますが、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧という具合になります。

先ず布施をして功徳を積むことが大切だというのですが、金品を施すだけでなく周りの人たちがよくあるように手助けをしてあげたり、優しい言葉をかけたり、にこやかな笑顔を施すことなども含んでおります。

次に持戒は、十善戒などを守り清らかな生活をするということですが、これらの戒をきちんと守って生活しておりますと、来世人間界以上に生まれること間違い無しと言われます。

忍辱は、人生いろいろなことがありますが、イジメにあうこともあるかもしれませんが堪え忍んで、思い詰めるようなことないようにということですが、なぜここに忍辱が入っているかというと、人生には堪え忍ぶべき事態が突然にやってくるものだと弁えなさいということだと思います。

また精進は、悪しきことをせず善きことに励むことですが、善いことをしたと憶えておくことも大切です。2500年前のインドの話ですが、コーサラ国パセーナディ王の妃マッリカーは死ぬ寸前に生涯一度だけついた嘘を思い出し暗い心で死に餓鬼の世界に行ったのですが、しばらくして「なんでたくさん功徳を積んだ自分がここに来たのか」と思った瞬間に、都卒天に転生したということです。皆さんもお寺にたくさん寄進をし布施をした功徳をいつも忘れずにいなくなていけないということです。そして万が一下の世界に転生したら、マッリカーのようになんで自分はこんなところに来たんですかと言えるように自分の功徳をきちんと覚えておくことが大切です。

禅定は、時に座禅などをして心穏やかに平静な心でお過ごしをいただくことですが、大事なことは、今ここにある自分の行いに意識があるということです。どういうことかといいますと。インドのサールナートで住み始めたばかりの頃いろいろなことに慣れず言葉もなかなか通じなくて悶々としていた時期に、日本人の学生たちがたまたま泊まり、彼らの食べ終わった沢山の食器を一人洗うことに心を傾注していると、そのことに専念して、皿を洗うだけの自分がそのときありました。何も考えていない自分に気づくと、これでいいんだ考えても考えなくても同じ、と思え、その瞬間に心が晴れ、その後は何もかもがうまく進行し難なく一年を過ごすことができました。そのように、今ここにある行為だけに心を向ける、なりきることが禅定で、その時に気づいた思いにより心が楽になったりする、その気づきが智慧であり、それにより煩悩が薄くなっていきます。

このように、この六波羅蜜は、私たちの生き方、歩み方を示してくれています。

仏壇というハード、法事というソフト

このように仏壇とは、私たちの仏教的世界観、仏教的生き方を表現したものであり、そうした教えを大切に生きよと御先祖様が子孫に伝えようとされているとも受け取ることが出来ます。こう考えると、仏壇とは御先祖様の思いを受け取る大事な場所ということにもなります。仏壇の掃除から毎朝の御供えお勤めもすべてお祖母さんひとりの仕事という家も多いかもしれませんが。ご家族皆様がそこからなにがしかの力をいただくことのできるものだと思います。今の言葉では、一家のパワースポットと位置づけられます。

また、私たちは、水戸黄門の仏壇が登場するシーンにあるように、今でも、様々な場面で人生の岐路に立って悩んだり、迷うことがあると、仏壇の前に行き、亡くなったお父さんお祖父さんに語りかけたり相談したりしているのではないでしょうか。また祝い事を報告してみたり。このように、迷った自分に力をもらったり、悩んだ心を癒やす仏壇の役割もあります。そういう仏壇の役割について、アメリカの宗教学者デニス・クラスという人が、20年ばかり前に日本に来て古い家庭に入り調査をして、仏壇とは人類の資源であると高く評価しています。

また、その先生は、日本人が先祖から伝え今も行っている法事について、亡き人を弔い、身近な親族友人が集い、心の喪失感を癒やすために行う儀礼として、西洋にない、誠に理に適った、よいシステムであると西洋に紹介してもいます。キリスト教徒が、日本の法事の時期に合わせて、49日や一周忌に、みんなで集まり儀礼をして、お茶を飲み亡き人について語り合うことで心癒やす会が開かれるようにもなったということです。

ところで、皆さん携帯、スマホを持っていると思いますが、機械であるハードの中にソフトが入っていていろいろな機能がうまく作動します。これと同様に、仏壇はハードウエア、法事はソフトウエアであると思います。ハードである仏壇は、敬う心を養い、私たちの仏教的世界観、生き方を示してくれている場所です。一方、ソフトである法事は、身近な人の死にあたり心の癒やしをえるとともに、仏様御先祖様にお供えしお勤めすることで、敬う心を表し、周りの親族とともに功徳を届けるシステムといえます。

御先祖様の示された教え

このハードとソフトによって、私たち日本人は、心の健康を得て、敬いの心を育て、他と折り合う、ともによくありたいという優しい、穏やかな性格を現代においても保っていられるのではないかと思います。災害時にパニックにもならず助け合い、混乱無く落ち着いて対処出来る、他国にない日本社会を作ったのはこうした御先祖様から大切な仏壇と法事というシステムを継承し培ってきた心あってこそではないかと思います。これからも仏壇と法事、大切になさっつて欲しいと思います。

本日は敬うということをテーマにあれこれ仏壇を中心にお話しさせていただきました。その仏壇の大元には檀那寺があります。檀那寺を大切に、敬うことの大切さを是非若い人たちにも説いていただきまして、益々家門繁栄なされますことを願っております。皆様にとり何かご参考になることがありましたならばありがたく存じます。長時間ご傾聴ありがとうございました。


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法話 禅のすすめ-しあわせのための肝心かなめとは 

神辺町からまいりました、國分寺の横山でございます。◯年前にもこちらでお話しをさせて頂いておりまして、二回目になりますが、本日もどうぞ宜しくお願いいたします。ところで、前回、どんなお話をしたか、もうお忘れかと存じます。勤行次第の解説をさせてもらったかと思いますが、皆さんお忘れなら同じ話をしてもよいのですが。確か最後に、毎朝仏壇に御供えして読経の後に、仏壇の仏様のように十分間座ってみて下さいというような話をしたと思います。

そこで今日は前回の話しに引き続いて、仏様のように座るということ、座禅ということですが、この禅ということをテーマにお話したいと思います。禅に関するお話をしながら、幸せのための肝心要とはどんなことかというお話も申し上げたいと思っております。お手元のプリントは専門的な言葉が分かりやすいように、ホワイトボード代わりにプリントにしてあります、ご覧になりながら、どうかお付き合いをお願い致します。

ところで、國分寺も真言宗のお寺ですが、毎月第一土曜日に座禅会を開いています。禅宗のお寺でもないのにおかしいと思われる方もあるかも知れませんが、私自身が、これまでずっとこの禅、座禅と関わりを持ってきており、自分でも座禅をしたいと思い座禅会を開いているのですが、もうかれこれ10年以上になります。WINKという、福山地区の、このような情報誌がありますが、昨年一月の「お寺と神社で事始め」という特集に1頁掲載されました。今では毎月十人ばかりお越しになっています。

仏道の中の禅

ひろく仏教の実践、仏教を行じるということ、その歩み方には、布施戒定慧という順序があります。布施をして徳を積み、戒を守り清浄な生活をしていると心落ち着き、座禅をして禅定に入り、智慧を獲得するという流れになります。ですから、禅というのは、そもそも仏教には不可欠なものだということになりますが、檀家様である皆様は、施しをする人のことですからお寺に御布施をなさる、そして戒を守り清浄な生活をしておられる、ならばその次には座禅をやはりしなくてはならない時期にあるといえるのかと思います。

ただ、そんなに専門的に何時間も座禅をしなくてはいけないかというとそうではなくて、誰にでも行えるように、たとえば、私たちが日常している、読経も、御宝号や真言読誦、念仏、唱題、これは南無妙法蓮華経と経題を唱えることですが、これらなども唱えながら心を練る、集中して心を統一するということでは、みな禅と言えるものです。例えば読経時の脳波を計ると座禅をしたときと同じ脳波が出ていることが分かっております。

また、昔、浄土宗の大本山で東京の芝増上寺に参りましたとき、本堂で、お寺さんが一生懸命木魚を叩き念仏していました。正にトランスに入ったような、心が仏様の所に飛んでしまったような恍惚の表情で唱えられていました。念仏も仏を念じて一つになる禅なのです。また真言宗には阿字観という瞑想法があり、阿と梵字で書かれた掛け軸を前にそれと一体になるという瞑想をいたします。また、法会の際にも為される仏様を供養する供養法も、お導師さまが壇の前に座られて作法をなされますね、そのなかに四無量心観、入我我入観、正念誦、字輪観があり、みなそれらも瞑想法なんです。ですから本来、仏教全般にこの禅や瞑想という要素が入っており、これがなくては仏教ではないとも言えます。ですから、皆さんにも、仏壇の前で座って下さいと申し上げたわけなんですが、禅を身近に捉えて下さい。

お釈迦様のさとり

インドの言葉で禅は、ディヤーナといい、瞑想、凝視、直観という意味になりますが、そもそも、お釈迦様も、このディヤーナ、座禅瞑想して悟られたのです。29歳の時お城を出て出家されて、ウルヴェーラのセーナー村にやってきて、六年間、呼吸を止めたり断食をしたりの苦行の末、スジャータ村の娘が供養する乳粥を食べて体力を整え、深い瞑想に入られます。

お悟りになる晩、お釈迦様は静かに瞑想に入って行かれると、先ず心身共にものすごい楽しく喜びにつつまれ、強烈な楽しみに考えることもできなくなり、自分という存在感もなくなり喜びに浸り、苦も楽も喜びもない安定した平静な幸福感に包まれるという四禅を経て、その深い瞑想状態の中で、自分の過去世、過去の生存に思いを巡らされたといわれています。次々に何千生何万生という、何回も何回も生まれ変わってきた過去世を思い出され、それぞれの名前、食べ物、苦と楽、寿命を具体的に思い出されました。

それから、他の生ける者たちがどのように死にどのように生まれ変わっていくかと思い巡らされると、天眼によって、劣った者も優れた者も、幸福な者も不幸な者も、みなその業によって生まれ変わる様子をご覧になったのです。悪行あり邪な業を引き受けている者は苦処地獄に生まれ、善行あり正しい見解による業を引き受けている者は善処天界に生まれ変わるのを克明に、いくつもいくつもの再生をご覧になられました。

そして、煩悩を滅する智慧に心を向けると、苦と煩悩について、それらが起こり滅していく様を如実に知り、智慧が生じて、欲の煩悩、生存の煩悩、無明の煩悩からも心が解脱して、つまり、すべての煩悩から解放されて、お悟りになられたと、古い経典、大サッチャカ経などに記されています。

ですから何度も何度も生まれ変わりして功徳を積み、今生にお釈迦さまは悟るべくしてお生まれになったと言えます。ですが、私たちも前世までにどれだけの修行をし功徳を積んできたのかわかりません。ですから、いまからでも頑張って修行するとすぐに結果が現れてくるということも考えられます。

このお釈迦様のお悟りこそが私たち仏教徒の目指すところでありますが、悟りとは、どんなことかと言えば、苦しみの世界からの脱出、悩みや苦しみのもとである煩悩がすべてなくなることです。そこに一歩一歩、何度生まれ変わっても、たとえ時に後ずさりしながらも、前進する生き方を教えるのが仏教という教えになります。お釈迦様の教えはすぐに結果の現れるものです。ですから、お釈迦様の真似をして座ってみる。お釈迦様の教えられるように少し頑張ることで、実は、とても簡単に、日常のストレスが減り、悩みも早く解決したり、人間関係もうまくいくようになるのです。

海外の禅ブーム-マインドフルネス

そこで、今、この仏教の禅、瞑想が現代人のストレス解消に大変に効果があるからと、世界的に、特に西洋世界で、十年ほど前から一大ブームとなっています。マインドフルネスという言葉を聞いたことはないでしょうか。お医者さんから心理療法士、学校の先生、企業幹部たちが血眼になって、そのエッセンスを習得せんと瞑想しています。

マインドフルネスと名づけられたこの瞑想法は、アメリカのマサチューセッツ大学医学部のジョン・カバット・ジンという先生が始められたのですが、1970年代の末ころから、南方仏教の瞑想法を習い、そこから宗教性を排除して、その瞑想技法のみを用いたストレス低減法として採用したことに端を発するといわれています。

マインドフルネスとは、「今のこの瞬間に体験していることを、意識的に、評価せず、とらわれずに、ただ観ていること」、と定義されていまして、いま自分がしていること思っていることに気づいていること、を意味します。座って瞑想するときも、日常でも、そのように過ごすことが、様々な場面で、落ち着いて心穏やかに、集中して的確に行うことが出来る技法として注目されているのです。

心臓病、癌、肺疾患、高血圧、頭痛、慢性的な痛み、不眠症、皮膚病、鬱病、不安・ストレスの改善に繋がるともいわれます。アメリカ政府の2007年の統計によると、アメリカ本土2000万人が健康のためにマインドフルネスを含む何らかの瞑想を行っており、2009年にはマインドフルネス関連で年間42億ドルも費用が使われたとしています。

新聞テレビラジオ雑誌が取り上げ、有名企業、たとえば、グーグル、アップル、ゴールドマンサックス、食品会社ゼネラル・ミルズ、保険会社エトナなどが、本社の敷地内の建物すべてに瞑想室を設けていたり、社内で瞑想することが日常的に行われ、従業員の健康管理コストの軽減につなげたり、画期的な製品の開発に利用されていたりということです。

教育機関では、精神的な落ち着き、いじめや暴力の緩和などのために行われ、病院では、ストレスの軽減、鬱病の再発防止にこの瞑想を用いた認知療法が取り入れられています。さらに、刑務所や軍隊でもこの瞑想を採用して、退役軍人の心的外傷後ストレス障害PTSDのケアに用いられていると報告されています。

禅を日常にいかす

こんな風に海外の様子を紹介しますと、そんなに専門的には出来ないと思われるかも知れません。がしかし、私たち日本人は実は、すでに、先ほども申しましたように、身近にこのマインドフルネスと言いますか、禅というものを行っているのです。例えば、お茶、お花、剣道であるとか弓道もそうでしょう。お茶のお点前の時には、作法に集中し、一挙手一投足にわたり気をつけておこないますね。そうして、既に皆さんも禅に触れながら生きていると言えます。

ですが、こうした禅をその時だけでなく、日常生活の中にもいかしていくことが大切なのです。それはなぜかと申しますと、私たちは、考える葦であると言われ、(フランスの17世紀の哲学者パスカルの言葉ですが)、考えることはよいことと思って、常に何か頭の中で考えてます。外から入る刺激、なにか見ても、聞いても、臭いをかいでも、また思い出したりしても、その刺激に反応して、あれこれ考えたり。ですが、そうして野放図に考え続けていること、つまり妄想することは、仏教的には、煩悩のままに心を遊ばせていることであると考え、あれこれ考えて私たちは頭の中で考えが回転し続け、心を浪費していると考えます。

いろいろな欲や怒りで先のこと未来のことを考え心配し悩み、嫉妬したり、後悔したりして過去のことを思い出しては苦しんでいます。うまくいかないことがあったり、人に何か言われて、クヨクヨと落ち込んだり、あれやこれやと、ずっと頭の中は話し続けて自ら悩み苦しんでいます。あるいは頭の中で歌を歌っていたり。妄想して、考えて、いつも頭が回転してますから、忙しい忙しいと言い、一日を終えるときには疲れ切っています。頭を妄想に明け渡したような状態といえます。ですから、人生は妄想に埋没している、人生とは妄想との格闘である、とも言えるのかもしれません。

そこで、法句経という古い経典の33偈には「心は動揺し不安定にして守りがたく抑えがたい、賢者はこれを直くす、弓師の箭を直くするが如し」とあります。少し飽きてきた人もあると思いますので、パーリ語でお唱えしてみます、パンダナンチャパランチッタン ドゥーラッカンドゥンニバーラヤン ウジュンカローティメーダービー ウスカーロージャテージャナンとなります。また、35偈には、「心は制しがたく、軽挙にして、欲望のままに走り回る、心を制御するはよきことなり、心を制御せば安楽なり」とあります。

では、心を制御するとはどういうことか、どうしたらよいのか、ということですが。マインドフルネスに生きる、今していることに常に気づいていたらよいのですが、そう簡単ではありません。そこで、今自分のしていることをひとつ一つ言葉で細かく確認していくと、妄想せずに、考えずに、今ここにある自分を生きられます。自分のしていることを実況中継するような感じで確認を入れていきます。日常生活の中でどんな風にするのかといいますと。

私は、朝のお勤めの前に仏飯お茶湯をお供えしますが、その時にはこのようにおこないます。小さな皿に取り置いた仏飯のお盆を持つときに、持ちます、歩きます、右、左、・・扉を開けます、入ります、扉を閉めます、皿を持ちます、運びます、置きます、移動します、皿を持ちます、運びます、置きます、とこんな具合に心の中で言いながら致します。お茶湯も、お湯の入ったやかんを持ちます、移動します、湯飲みを取ります、注ぎます、戻します、移動します、という具合にしますと、その間に雑念妄想が湧くことなく、とても静かな心で行うことができ、落ち着いた心でお勤めに入っていけます。

ご飯を食べるときも、手を合わせます、いただきます、箸を取ります、汁椀を取ります、口を付けます、飲みます、芋を挟みます、口に入れます、嚙みます、飲み込みます、汁椀を戻します、という具合にしますと、他のことを考えずに食事に専念して食べることが出来ます。そうしますと、とても美味しく、ひと噛みひと噛み味わっていただくことができます。他のことを考えながら食べるのと違い、楽に消化吸収されて、少量で満腹感がありますから、ダイエットにもよいかもしれません。

このようにして、一日ずっと隙間なく実況中継するのが理想ですが、たいへんですから、たとえば、朝仏飯を仏壇に御供えするときとか、掃除するときなどからはじめていただけたらよいかと思います。また心がそぞろで落ち着かないとき、悩み事があって頭から離れないようなときに、意識的にやってみますと、そうした時間を持つだけで、心をさっと入れ替えることが出来ます。心をリセット出来ます。歯を磨くときも、歩くときも、車を運転するときにも、こうしたひとつ一つの行いに気をつけて行うとよいかと思います。

そうした、妄想しない考えない習慣のために、定期的に瞑想することが大切になるのですが、このような具合に日常生活すべてにこのマインドフルネス、今行っていることに心を集中する、その時の感覚を感じる、気づきつつあること、これを仏教的にはサティ、念と言いますが、八正道の中の正念に該当します。これを不放逸ともいいまして、放逸の状態とは、先ほど申しましたように妄想に心を明け渡し、過去や未来のことに心遊ばせ今に心がない状態のことです。そこで、きちんと今の自分の行いや思いに気づきつつ過ごす、不放逸に生活することが大切だというのです。

またパーリ語の偈文を唱えてみます。アッパマドーアマタパダン パマードーマッチュノーパダン アッパマッターナミーヤンティ イェーパマッターヤターマター これは、法句経21偈ですが、意味は、「不放逸は不死の道、放逸は死の道である。不放逸な者たちは死すことなく、放逸なる者たちはあたかも死者の如し。」となりまして、不死の道とは悟りへの道、幸せへの道です。つまり、今ここに居て、行っていること、体験していることに心を向けて、妄想しない、考えないことが幸せに至る道であり、放逸に妄想のまま過ごすことは不幸への道であるということです。この正念、不放逸ということ、妄想を停止して今に生きることこそが幸せのための肝心かなめ、最も大事なことなのです。

(Wikipedia仏教では妄想を「もうぞう」と読むことが多い。妄想は心を曇らして煩悩を増幅せしめる最大の原因として厳しく戒められている。精神医学でいわれる病的なものとは異なり、仏教における妄想は範囲が広く、健常者が日常的に行っていることである。過去を悔やんだり、未来をあれこれ気にしたり、主観的な価値判断や断定をしたり、考えてもわからないことを頭の中であれこれ思考することなど多岐に及ぶ。)

座禅の実際

それでは次に、國分寺の座禅会ではどんな風に座禅会を進めているかお話します。まず、座禅会の本尊様タイのお釈迦様の御像を前に、皆さんで心経を唱えてから、歩く瞑想を十分間行います。広間の南北を行ったり来たりしますが、手を前か後ろに組み、右足上がります、運びます、下ろします、左足上がります、・・と心で言いながら、足の離れる感触、床に付くときの感覚などに気をつけながら、すべての動作をスローモーションのようにゆっくりゆっくり、一足ずつ歩きます。壁まで来ましたら回りますと言ってから、右足左足と同じようにいたします。

普段何気なく歩いてますが、こうして自分の動作を確認しながら歩くというのはぎこちないものになったりします。歩くというのは結構複雑な動作を伴う難しいものだなと思えます。これも歩く動作を言葉で確認して妄想しない考えないという練習なのですが、日常の雑念から離れ、座禅するにあたり、心を静めていくためにいたします。

十分歩きましたら、次に座禅三十分を二回致しますが、お尻の先だけ少し高く小さな布団を置いて胡座をかき、右足を左の腿の上に置いて、両手を腹の前に重ねて背筋を伸ばします。正面を向いて、目を閉じますが、顔が緊張しないように、リラックスして座ります。呼吸を一つ二つと数えたり、お腹の膨らみへこみを観察したり、鼻の先の息の出入りを観察したりいろいろな方法がありますが、余計なことを考えず、ずっと呼吸に意識を保ちながら座ります。あちらこちらに心が飛んでいきましたら、すぐに気づき、また呼吸に意識を戻します。

そのままお釈迦様のように、私たちも悟れたら苦労しませんが、ジッとしているというのは難行苦行です。いろいろなことを考えてみたり、妄想したり、足が痛くなったり、寝てしまったり、滝の音や鳥のさえずりに心が動いたりします。できれば早くそのことに気づいて、いいとか悪いとか判断分析せずに、雑念・・、傷み・・、睡眠・・、音・・、というように言葉で確認を入れて雑念などを切って、もとの瞑想に戻るようにします。そうして、少しでも、心穏やかに、なにも考えない、ストレスのない、妄想しない時間を三十分の内のわずかでも経験するだけで、終わった後は、とても爽快で、心地よく、元気になっている自分を実感できるものです。


以上、禅をテーマにお話ししてまいりました。今私たちは、長年国に預けてきた大事なものが勝手に減らされ、出るものばかりが多くなり、生活が苦しくなる一方で、さらに隣国から何か飛んでくると脅かされて、不安な日々を余儀なくされています。危ない時代にさしかかっているのかも知れません。そこで、幸せのための肝心かなめ、余計なことは考えない、惑わされない、踊らされない。そのために禅ということを意識して、まずはこの後立ち上がるところから、実況中継はじめていただきたいと思います。立ちます立ちます、歩きます、右左ですから。よろしくお願いします。ありがとうございました。

(参考文献 自分を変える気づきの瞑想法 A・スマナサーラ著)


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仏教の実践と供養

仏教とは、日本では、特に先祖の供養や亡くなった方の葬儀の際に必要なもの、または死後の安楽のためにあるように思っている方もあるかもしれません。ですから、仏様は私たちの理想であり、最高の目標として敬いの心を表し礼拝するのであって、私たちも何度生まれ変わってもそこに至るべく頑張るのが仏教徒の生き方ですと突然いっても、ちょっと引いてしまう方もあるかもしれません。先に、そもそも仏教とはいかなる教えかということをお話ししなくてはいけません。

仏教は神々を超える

仏教は信じるだけでよい、何か唱えたらよい、わきまえておればよい、という教えではありません。信仰というよりは一生かけておこなう実践の道ゆきともいえましょうか。崇高なる存在を崇拝する、礼拝する、御名をお唱えする、信じる、期待するという、それだけでよいものではありません。

ですから、いわゆる宗教と言われるものとは次元の違う教えであるべきものが仏教であり、お釈迦様の教えの基本にあります。いわゆる神を最高の尊格とする他の教えがそれへの信仰を説くのに対し、仏教は最高の尊格であるとする仏に私たちも至ることが可能だとする教えであり、そのための具体的なプロセスを説く教えです。

法句経94偈に、「馭者のよく馴らせる馬の如くに己の感官を静め高慢もなく汚れなき人を神々さえもうらやむ」とあるように、神々をさえ超えた位置に仏が位置すると考えます。多くの経典に、お釈迦様のところに神々が夜な夜な来たり教えを請う場面が説かれますが、仏教では最高の悟りを得た阿羅漢と言われる人たちは神の次元をも超えた人たちなのです。

仏教の生命観

仏教の生命観は、個々の生命である衆生は、お釈迦様のように悟らぬ限り何度も何度も生まれ変わり、その行いによって業が生じ、その業の蓄積によって定められた心の次元によって五つないし六つの世界があるとします。いわゆる地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六つで、この上に仏界が位置します。これ以外にたとえば極楽などというあいまいな場所はなく、それは天界ととらえるのが妥当でしょう。この六つの世界を表す形で作られているのが仏壇であり、また六つの世界のどこに生まれ変わっても教えを説いて下さるお地蔵様が六体セットで祀られている所以となっています。

法句経126偈には、「ある人は再び母胎に生まれ、悪をなせる者は地獄に生じ、善をなせる者は天界に生じ、汚れなき者はニッバーナ(悟り)に入る」とあります。仏教は、いま人としてあるのは何事も自らの意志で出来る恵まれた位置にあることを理解し、下の世界に堕ちることなく、出来ればより上位に生まれ変わりつつ最終的には仏様と同じ悟りに至るように学び精進するための教えです。

ですから、仏教徒とは人生の最終的な目標として、お釈迦様と同じ最高の悟りを得られるようにと願い励む人々をいうのであって、それは何度生まれ変わっても少しずつでも仏様に近づいていくのだと生きる人々のことをいいます。お釈迦様はお悟りに成られた晩に、先ず自らの過去世を何万回も何十万回も思い出されたといいます。それぞれ、どこに、何という名前で、どのような生業をしていたか、どのような理由で死んだかを克明に回想されていかれました。そして、他の人々がその業によって生まれ変わっていく様子をご覧になり、煩悩のあり様を知り、智慧を生じてお悟りになられた。

ですから、何度も生まれ変わり、それだけ沢山の功徳を積まれて最後の生涯をインドのルンビニというところでお生まれになったのです。けっして六年間の苦行の末の瞑想だけで悟られたわけではない、少しづつ徳を積み、善業を重ねられてお釈迦様となるべくお生まれになったと考えた方がよいのでしょう。私たちも過去世でどれだけ修行を積んできたのかは分かりません。ですから、何事も一所懸命なされれば、意外とすぐに結果が現れるかもしれません。

仏事の意味

亡くなるというのは、仏教では体と心が分離することをいい、身体は寿命に至り死して火葬に付されるわけですが、心は来世に逝くまでに、しばし四十九日の間この三次元の空間に留まります。(死の瞬間に来世に逝くと考える、ないし七日間は留まると考える仏教徒もあります) その間に通夜葬儀七日参りなどを通じて、たとえば、自分の葬儀に来てくれた会葬者の姿を上方から見て自らの人生を振り返り、親族が掛け軸の仏様方や祭壇に額ずく姿に触れ、また仏道に精進する様子を見て、改めて仏教の教えに帰依する心を確かにして来世に旅立っていただくのです。

葬儀などで焼香するとき、私たちは亡くなった人にどうぞ成仏して下さいと願います。法事では、板塔婆に書かれてあるように、何回忌の菩提のために建立するとありますように、その回忌毎にさらにさらに来世で生まれ変わった先に向けて、悟りに近づいてもらうようにと功徳を手向けます。

成仏ないし菩提とは、正にお釈迦様と同じ悟りを得ることであり、天界の上の仏界に至ることをいうのですから、ふだん私たちも知らず知らずのうちにそのように亡くなった人に最高に善きところである仏様方の悟りに至ってもらうことを願っているのです。来世に旅立った先にも功徳を手向け、少しでも悟りに近づくように、悟りという最高のよい状態に一生でも早く到達されますようにと願い仏事がなされているのです。

ですが、このところ都会では、人が亡くなっても葬儀もしない、祭壇も祀らず、火葬され埋葬してしまう。また法事もなされないことがあるようです。生前のいろいろな行いを誰も回想してくれることもなく墓に埋められてしまった人の心はどんなに寂しく、無念なことでしょうか。何をたよりにあの世に身罷ったらよいのかと不安なままに旅立つことになるのではないかと思えます。

そして、いまは元気に過ごしている私たち自身も、いつその立場になるか分からないのですから、今のうちから生と死、その後のあり方を考え、準備しておくことも必要でしょう。ご先祖が代々家の中の一番上等な部屋にすえて子々孫々に継承してきた仏壇や日本人が大切にしてきた仏事の意味について知ることは大事なことであると思えます。

仏教の実践と供養

人間生きていればいろいろなことがあります。とても自分が仏教の実践なんてと思われる方もあるかもしれませんが、先ほども申した通り過去世でどれだけ功徳を積み修行を済まされているのか誰にもわかりません。法句経173偈に「たとえ悪しき行いをなせども善にてこれを償わばよくこの世間を照らす、雲を出でたる月の如し」、また183偈には「すべて悪しきことをなさず、善きことを実践し自己の心を浄むること、これ諸々の仏陀の教えなり」とありますように、たとえ悪いことをしたとしてもそれを上回る善きことで償い、心を清めていくことが大切なことです。

では、いかがなしたらよいのか、その実践の道は、ふつう布施・戒・定・慧といわれ、布施により徳を積み、戒を守り清浄な生活をして、坐禅瞑想して禅定を経験し、智慧を得るものとされています。ですが、ここでは真言宗の仏前勤行次第にのっとりその実践について述べてみます。仏前勤行次第を読誦したり、その内容を吟味して実践していただけたら、その基本は学んでいけるものと考えます。

はじめに、合掌礼拝、これは正に、自らが生きる最高の理想、目標である仏様に敬いの心を身を以て表す。自らの人生にとって価値あるものをきちんと定めることです。本当にありがたい存在と思えるようになるとよいと思います。

懺悔、まずは自己の足下を見つめること、日々の行いが煩悩だらけで過ち多きことを知り反省することです。人のことではなく己の行いいかんが大切なことであることを教えてくれています。

三帰三竟、仏と教え、それを継承し実践する清僧に、今世も来世も身と心を任せ、精進していく人生の目標をきちんと定めたことを表明し確認することです。日々精進努力し続ける力となるものです。

十善戒、戒を守り清浄な生活を送ることは心の安定につながるものですが、さらに生きる上で大切にすべきことを示している教えと受け取らねばなりません。命あるものを大切に育み、あまねく施しの心をもち、身を清らかに保ち、正直を旨とし、相手を尊重し、柔らかく話し、他と和合し、足るを知り、怒らずたえ忍び、正しい智慧をもって生きることを教えられています。

このあと、発菩提心、三摩耶戒の真言を唱え、悟りを身近に捉え精進すべきことを確認し、般若心経を読誦します。心経は、大般若経のエッセンスを写したものととらえられがちですが、お釈迦様からの仏教の要諦をコンパクトにまとめたものともいえます。五蘊・十二処十八界・十二縁起・四聖諦が説かれていますが、五蘊・五つの要素に過ぎない私に執着せず、十二処十八界・五官や心の中に受けた刺激にとらわれず、十二縁起・苦しみに至る十二の行程に知悉して因果の連鎖に陥ることなく、四聖諦・無常苦無我の真理をさとり、苦しみの無い状態に至るために八つの実践に励む、そうして、最終的には言葉や概念の壁を越えていくために真言の読誦を教えています。

そして次第の最後には廻向文を唱え、その功徳を自分自身と生きとし生けるものの悟りのために手向けます。こうした実践を説く教えであるからこそ功徳があり、そうした教えを唱えるだけでも自らにとっても功徳となり、御先祖様にも廻向することができるのです。自らの人生にとり、仏様とその教えがかけがえのない存在であり教えであるからこそ唱え実践することで、亡くなった人やご先祖様の供養にもなるのだと言えましょう。


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礼拝するこころ 昨日の法事から

昨年の六月○日にお亡くなりになり、早いもので一年が経ちました。通夜、葬儀、満中陰とお勤めをされて、いろいろな相続関係の手続きなどをしておりましたら瞬く間の一年であったかと思います。遠くからもご親族が集まられ、こうして盛大に一年の法事を営まれまして、誠にご苦労様に存じます。

亡くなられた○○居士は、生前、地域のお世話役として、またその前には早く亡くなられた御父様に代わって一家の柱として家族を支え、またお寺の総代としても沢山のご功徳を積んで、来世に旅立ち、何の心配も無くお過ごしのことと存じております。

ところで、昨年の満中陰忌ではどんなお話をしたか憶えておいででしょうか。私も記憶がありませんで、メモしたものを見ましたら、故人は今生では長患いする因縁が解消されて、来世では健康で長生きをしてくれるはずだというような話をしました。総代三年目かに倒れられ、その後入退院を繰り返され、車椅子で長く不自由な生活を余儀なくされました。そうした長く患う因縁が今生できれいになり、その分来世では健康に寿命を全うしていただけるのではないかと思っております。

みんな生まれてくるときは真新しい赤ちゃんとして生まれて来るわけではありますが、それぞれみんな違う過去世の因縁、業をもって生まれてきます。ですから、みんな兄弟でも、双子であっても、物の考え方、好き好きが違います。生き方が違います。そうした過去世から抱え込んできたたくさんの業を、今生で善いことをたくさんして、少しでも、善い業、清らかな業を増やしていく、別の言い方をするなら徳を積む、そのために仏教の教えもあるわけなのです。

只今、法事の前と終いに、礼拝を致しました。「礼拝」と言われ、頭を下げられたかもしれませんが、礼拝とは敬う心を表すことです。こちらに生身の生きた仏様がおられる、お釈迦様がおられると思って礼拝をするということが大切であろうかと思います。ここには掛け軸の仏様が祀られていますが、それは、一つのシンボルであって、紙の仏様に礼拝するのではなく、その先に本当に大切にすべき生きた仏様がおられると思って自ずから頭が垂れるという気持ちにならねばならないのだろうと思います。

例えば、二千五百年前にお釈迦様に会いに行った人は、お釈迦様の前に行き、隣のおじさんに挨拶するようなわけにはいかなかったわけです。私も以前とても修行の進まれた立派なスリランカのお寺様にお会いしたときには自然と跪きかしこまって、頭を下げておりました。皆さんも例えば、天皇陛下の前にお出になったとしたら、普通の日本人は、身を低くして頭を下げて、とても気安く言葉など掛けられないのではないでしょうか。

当時お釈迦様に拝謁した人たちは、お釈迦様の周りを三返ほど右回りに合掌して回り、正面に来て三度投地礼をして、それから丁重に挨拶したものだといいます。そういう心持ちになって手を合わせ礼拝するということが大切なのでしょう。たとえそれが掛け軸の仏様であろうと、仏壇の仏様であっても、そのような気持ちでなされるようにならねばならない。仏壇は、先祖代々その家の一番上等なところに大切に祀り、毎朝御供えまでして代々継承されてきたものです。

なぜなのでしょうか。仏様とは、最高の完璧な人格を具えた方であり、私たちの理想です。この世の中の成り立ち、すべてのことに精通され、ひとかけらの煩悩もない、何がなくても幸せで、誰にもいかなる生き物にもやさしく接しられるお方です。世の中がどうあろうとも、人に何を言われても、心煩うこともない。

そんな立派な人格に自分も近づきたい、一歩でもその方向に前進する人生を過ごしたいと思う、たくさんある人生の目標の先の先には仏様がいらっしゃる、それこそが自分の最高の目標として生きる、だからこそ、仏壇の上段に祀り、中段には先祖代々、また各精霊の位牌を祀り、先に亡くなった方々にも何度生まれ変わってもいずれは仏様になっていただくようにと成仏を願うのではないでしょうか。単に地位や権力、お金に振り回されるような、煩悩だらけの人生ではなく、そんなものに頓着しない、正しい、あるべき生き方を子孫代々に大事にする、仏様を最終の目標とするような人生を歩ませたいと思われて、御先祖様方は仏壇を大事に継承してこられたのではないでしょうか。

先ほども焼香をしていただきましたが、通夜でも葬儀でも、焼香するときにはしぜんと、どうぞ早く成仏して下さいと心の中で思い、なさったのではないでしょうか。成仏する先が善いところ、最高の理想の場所だと私たちはそのDNAにでもきざまれたものがあるように思います。ですから、本当は皆さんわかっておられるのです。ただ、それが自分の人生とどう繋がるのかということを意識して考えたことがないということだけなのではないでしょうか。

私たちもいずれ、何年か何十年か先には同じ立場になります。あちら側に逝き、皆さんから合掌され、焼香される、その時には成仏して下さいと願われる存在なのです。そこで、仏様とは自分にとってどういう意味のある存在なのか、などということについて今のうちにすこし頭にめぐらしていただきまして、仏様に自ずと頭が垂れるというお気持ちになっていただけましたらありがたいと思います。そうしてこそ、また、こうした法事の意味、といいますか、意義も深まろうかと思います。

本日は、丁寧なご法事をいとなまれ、誠にありがとうございました。

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読経のすすめ

毎朝四時四十分に起きます。洗面を済ませ、本堂に御供えする三十五ヶ所分の仏飯、お茶湯の準備をして、午前五時の鐘を撞きます。はじめに一つ撞き始めの鐘を撞き、余韻の終わる間隔を空けながら五回撞いて庫裏に戻ります。仏飯を乗せたお盆を本堂に運び、次に衣を着て御茶湯を接ぐ薬缶を持って本堂に参ります。各所に御供えをして、燈明に火を入れ、点香してから、四十分ほどのお勤めをいたします。常用経典である理趣経の前後に讃を唱えたり、偈文を唱えたり。その日該当する月命日の檀徒戒名を読み上げ馨を鳴らして追善といたします。それが、土日祝日にかかわりなく、國分寺の毎日の習慣となっています。

僧にあってはごく当たり前のことではありますが、こうして毎日続けるということは誠によきことであって、それを毎日しなくてはいけないという受け取り方ではなく、お寺に住まうことで良き習慣に自らの生活が守られていることは誠にありがたいことであると思うのであります。

そして、特に毎日のお勤めの中で経文を読誦するということは格別に功徳多きことであって、ほんとうは誰もが家の仏壇に向かって、読経し、仏様御先祖様方に供養のまことを捧げることは大事な勤めでもあります。読経は、仏前勤行次第をお唱えいただきましても、また時間の限られたときには般若心経だけでもよいのです。とにかく毎日声を出してお唱えするということが大切であり、明るく健康な生活を送る上でも欠かせないことであろうかと思います。

読経は、姿勢を正し、お腹をふくらませて息を吸い込み、声を出しながら長く息を吐くことになります。これは一つの呼吸法であって、またありがたい経文をお唱えするわけですから、余計なことを考えることなく、心清々しく、落ち着いた心をもたらすものです。
ところで、座禅の要諦に調身、調息、調心があります。調身とは、背筋を伸ばし安定した姿勢を保つことです。調息とは、お腹をふくらませて息を吸いお腹をへこませて息を吐く、それをリズミカルに行うことです。調心とは、一つのことに心を集中させることです。実は読経は、この三つの座禅の肝心なことをすべてクリアしてしまうものだという研究結果があります。

脳内ハピネス神経と呼ばれるセロトニン研究の第一人者有田秀穂先生によれば、座禅も読経も脳内の変化は同じことが起こるのだそうで、声を出す呼吸法が読経であり、声を出さないのが座禅であるということです。読経中、字を一生懸命追いかけるということは、想念がそこから湧いてくることはなく、読むことに集中していなくてはなりません。難しい漢字をリズムよく読むことを繰り返すことは、ひたすらに読むこととなり、それはつまり自然と集中した精神状態を作り出すことになるというのです。

読経は、なんの想念も湧かないリズミカルな集中であり、集中してやる呼吸法の一番楽な方法であるともいいます。そのことによって、すっきり爽快な意識をつくり、平常心を維持し、交感神経を適度に興奮させ、痛みを軽減させて、よい姿勢を維持する。よいことずくしの幸福感をもたらすセロトニン神経を働きを高める効果があり、だからこそ読経するとさわやかな清々しい心持ちとなるのです。

同じ声を出すならカラオケがいいとお考えになる方もあるかも知れません。が、歌詞があると言語脳が働いて、セロトニン神経の活性には繋がらないのだとか。毎朝仏壇に御供えし、金を叩くだけでなく、十分程でも良いので、読経を毎日の習慣にしていただきましてはいかがでしょうか。読経して、是非幸福感一杯の毎日をお過ごしいただきたいと思います。

(参考文献 瞑想脳を拓く 有田秀穂・井上ウィマラ 佼成出版社)


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『仏説父母恩重経』を読む 2

 前回に続き『仏説父母恩重経』を読んでまいりましょう。
                 
『もし子あり、父母をして、かくのごとき言(ことば)を発せしむれば、子はすなわち、その言とともに墜ちて、地獄・餓鬼・畜生の中にあり。一切の如来・金剛天・五通仙も、これを救い護ることあたわず。』

 かくのごとき言(ことば)とは、年老いていく親を思いやることなく邪険にする子に対して、親が子を産みはしたもののその望みは外れたという言葉を言わせたりしたらということです。そんな言葉を吐かせるような子は、地獄餓鬼畜生の住人と同じであり、死後その世界に堕ちたとしても、一切の仏も、天界の神も、いかなる神通力を持つ仙人といえども助けることはできないとあります。この意味するところを、誰もが一人の子として心して読まねばならないところであります。

『父母の恩重きこと、天の極まりなきがごとし。善男子・善女人よ、わけてこれを説けば、父母に十種の恩徳あり、何をか十種となす。 一には、懐胎守護(かいたいしゆご)の恩。二には、臨産受苦(りんさんじゆく)の恩。三には、生子忘憂(しようしぼうゆう)の恩。四には、乳哺養育(にゆうほよういく)の恩。五には、廻乾就湿(かいかんじゆしつ)の恩。六には、洗灌不浄(せんかんふじよう)の恩。七には、嚥苦吐甘(えんくとかん)の恩。八には、為造悪業(いぞうあくごう)の恩。九には、遠行憶念(えんぎようおくねん)の恩。十には、究竟憐愍(くきようれんみん)の恩。父母の恩、重きこと天の窮まりなきがごとし。善男子・善女人よ、かくのごときの恩徳、いかにしてか報ずべき。仏、讃して宣わく。
(懐胎守護の恩) 悲母(ひぼ)、子を胎(はら)めば、十月の間に、血を分け、肉を頒(わか)ちて、身、重病を感ず。子の身体(しんたい)、これによりて成就す。
(臨産受苦の恩) 月満ち、とき到れば、業風催促して、徧身疼痛(へんしんとうつう)し、骨節解体して、神心悩乱し、忽然(こつねん)として、身を亡ぼす。
(生子忘憂の恩) もしそれ平安なれば、なお蘇生し、来たるがごとく、子の声を発するを聞けば、己(おの)も生まれ出でたるが如し。
(乳哺養育の恩) その初めて生みしときには、母の顔(かんばせ)、花のごとくなりしに、子を養うこと数年なれば、容貌(かたち)すなわち憔悴(しようすい)す。
(廻乾就湿の恩) 水のごとき霜の夜(よ)にも、氷のごとき雪の暁(あした)にも、乾ける処(ところ)に子を廻(まわ)し、湿(しめ)れる処に己(おの)れ臥(ふ)す。
(洗灌不浄の恩) 子、己が、懐に不浄を漏らし、あるいは、その着物に尿(いばり)するも、手づから自(みずか)ら洗い灌(そそ)ぎて、臭穢(しゆうえ)を厭(いと)うことなし。
(嚥苦吐甘の恩) 食味を口に含みて、これを子に哺(ふく)むるにあたりては、苦き物は自ら飲み、甘き物は吐きて与う。
(為造悪業の恩) もしそれ子のために、止むをえざることあれば、躬(み)づから悪業を造りて、悪道に墜つることを甘んず。
(遠行憶念の恩) もし子、遠く行けば、帰りてその面(おもて)を見るまで、出でても入りてもこれを憶(おも)い、寝ても覚めても、これを憂う。
(究竟憐愍の恩) おのれ生きている間は、子の身に代わらんことを思い、己れ死にさりて後は、子の身を護(まも)らんことを願う。』

 そして、父母の重恩について十の具体的な内容が説かれていきます。簡潔に申し上げれば、子を身籠もり、懐妊中身を削るがごとくに子を守り、陣痛の苦しみに耐え、子の誕生したれば我が喜びとし、心を砕いて養育し、たとえ自らはよごれた所に臥しても子はきれいな所に寝かせ、汚れをいとわず子の排泄を清め、自分はにがいものを食しても子には美味しいものを与え、子の過ちに自ら地獄に墜ちることもいとわず子を救わんとし、遠くにゆきし子の無事を願い、子の危うきときには身代わりにならんと欲し自ら死しても子の身を守らんとする。そういう父母の心根(こころね)を知り、その恩の重きことにあたらめて思いをいたしたいところであります。

『かくの如きの恩徳如何にして報ずべき。しかるに長じて人となれば、声を荒らげ、気を怒らして、父の言(ことば)に順(したが)わず、母の言に瞋(いかり)を含む。すでにして妻を娶(めと)れば、父母に背(そむ)き違うこと、恩なき人のごとく、兄弟を憎み嫌うこと、怨(うら)みある者のごとし。妻の親族来たりぬれば、奥の間に迎え入れて、饗応(きようおう)し、己れが室に入れて歓談す。嗚呼(ああ)噫嵯(ああ)、衆生顛倒(てんどう)して、親しき者は、かえりて疎(うと)み、疎(うと)き者は、かえりて親しむ。父母の恩重きこと、天の極まり無きがごとし。』

 このような恩徳に報いるべき子でありながら、大きくなれば、かえって父母に背いて言葉も少なくなり、嫁を娶れば妻の親族には気を遣い実の父母には愛想をしないという、今の時代にもよく見聞きすることではありますが、本来のあるべき姿からは転倒した様子をここで鋭く指摘されています。

『このとき、阿難、座より起(た)ちて、偏(ひとえ)に右の肩を袒(はだぬ)ぎ、長跪(ちようき)合掌して、すすみて仏にもうして曰(もう)さく。世尊よ、かくのごとき父母の重恩を、われら出家の子は、いかにしてか報ずべき、つぶさに、そのことを説き示し給えと。
 仏、宣(のたま)わく。汝ら大衆、よく聴けよ。孝養の一事は、在家出家の別あることなし。出でしとき、新しき甘果(かんか)を得れば、持ち去りて、父母に供養せよ。父母これを得て歓喜し、自ら食らうに忍びず。先ずこれを三宝(仏・法・僧)に廻(めぐ)らし施さば、すなわち菩提心を啓発せん。父母病あらば、牀(とこ)の傍(そば)を離れず、親しく自ら看護せよ。一切のこと、これを他人に委ぬることなかれ。ときを計り、便宜を伺い、懇(ねんご)ろに粥飯(しゆくはん)を勧めよ。
 親は子の勧むるをみて、強いて粥飯を喫(きつ)し、子は親の喫するをみて、まげて己が意(こころ)を強くす。親しばらく睡眠すれば、気を静めて息を聞(か)ぎ、眠り覚むれば医者に問いて、薬を勧めよ。日夜に三宝を恭敬(くぎよう)して、親の病の癒(い)えんことを願い、つねに報恩の心を懐(いだ)きて、片時も亡失することなかれ。』

 ここで、常にお釈迦様の近くにあってお世話をする役目のアーナンダ尊者が登場し、出家者は孝についてどう捉えたらよいのかと質問していきます。アーナンダ尊者は、衣を改めて両膝立ちになり合掌して、では出家の身にあればいかがなすべきでしょうか、と問われます。
 すると、お釈迦様は親孝行に出家も在家もないとされ、四季折々の新しい美味しい食べ物を得たれば、持ち帰り父母に供養しなさいといわれます。
 供養とは亡き人にだけするものではなく、尊敬の念をもって施すことをいいます。生きているときに敬いの心なく、死してはじめてその気持ちを起こすなどということのないよう、生きておられるときにこそ供養すべきなのだということでしょう。
 そうして子から得た食べ物を、父母は自ら食べる前に三宝にめぐらし施すとあります。めぐらし施すとは、その子から施された食べ物を、三宝に、そして御先祖様方に廻向することによって、より大きな功徳として、子の幸せなることを願い、また供養することの大切さも教えて下さっているのです。
 そして、だからこそ、父母の病となれるときには、片時も離れず看護し他人にゆだねず、お粥、薬を勧めて、日夜三宝に祈念しなさいとあります。

『このとき、阿難また問いていわく。世尊よ、出家の子、よくかくの如くせば、もって父母の恩に報ずとなすや。
 仏宣わく、否(いな)、未だもって父母の恩に報ずるとはなさざるなり。親頑闇(かたくな)にして、三宝を奉ぜず。不仁にして物をそこない、不義にして物を盗み、無礼にして色に荒(すさ)み、不信にして人を欺き、不智にして酒に耽(ふけ)らば、子はまさに極諌(ごくかん)して、これを啓悟(けいご)せしむべし。もしなお闇(くら)くして、いまだ悟ること能わざれば、すなわち、ために譬(たとえ)をとり、類(たぐい)をひき、因果の道理を述べ説きて、未来の苦患(くげん)を救うべし。
 もしなお頑(かたく)なにして、未だ改むること能わざれば、啼(てい)泣(きゆう)歔欷(きよき)して、己が飲食(おんじき)を絶(た)つべし。親頑闇(かたくな)なりと雖(いえど)も、子の死なんことを懼(おそ)るるが故に、恩愛の情に牽かれて、強いて忍びて道に向かわん。』

 それだけのことをしたならばはたして父母の恩に報いたと言えるのかとのアーナンダ尊者の問いに、お釈迦様はすげなく否と言われます。
 そしてこの後のお釈迦様の説法こそ、前回紹介した初期経典の『父母報恩経』にある内容であります。
 もしも父母に信仰心なく、五戒すら守らないならば、その非を戒め、前世から現世、そして来世へと続く因果の道理を諭すべきであるというのです。
 それでも改めないならば、悲痛な声でむせび泣きつつ、食を断つならば、どんな親であっても、子の死にそうな姿に翻意するであろうとあります。

『もし親、志を遷(うつ)して、仏の五戒を奉じ、仁ありて殺さず、義ありて盗まず、礼ありて婬(いん)せず、信ありて欺かず、智ありて酔わざれば、すなわち家門の内、親は慈に、子は孝に、夫は正に、妻は貞に、親族和睦し、婢僕(ひぼく)忠順に、六畜虫魚(ろくちくちゆうぎよ)まで、あまねく恩沢(おんたく)を被(こうむ)りて、十方の諸仏、天竜鬼神、有道(ゆうどう)の君(きみ)、忠良の臣より、庶民万姓にいたるまで、敬愛せざるはなく、暴悪の主(あるじ)も、佞嬖(ねいへい)の輩(やから)も、兇児(きようじ)妖婦(ようふ)も千邪(せんじや)万怪(ばんかい)も、これをいかんともすることなけん。ここにおいて父母、現世には安穏に住し、後世(ごせ)には善処(ぜんしよ)に生じ、仏を見、法を聞きて、長く苦輪(くりん)を脱せん。かくのごとくして、始めて父母の恩に報ずる者となすなり。』

 ここでは仏教の五戒を儒教の説く徳目である五常とからめて教えを展開しています。万民を愛し利己的な欲を押さえる仁によって殺生をなさず、利欲にとらわれない義によって偸盗をなさず、道徳的規範を重んじる礼によって邪淫をなさず、他を欺かず忠実である信をもって妄語せず、物事の道理を知り正しく判断する智によって飲酒せずと説いていきます。
 このように心を改めて父母が五戒を謹んで勤めるならば、親は慈しみ、子は孝行となり、夫は行い正しく、妻は貞淑となりて、親族は仲良く、家に仕える者たちも誠実に仕え、家の家畜虫までもがよくその恩恵にあずかるということです。
 そればかりか、神仏のご加護があり、あらゆる人々から愛され、暴悪の者も含めどんなに悪い悪魔といえどもどうすることもできない。父母は現世にては安穏に暮らし、来世にも善い所に生まれ変わり仏にまみえ法を聞くことが出来るであろう。そうしてこそはじめて父母の恩に報いることが出来るのだと説かれています。

『仏さらに説(せつ)を重ねて宣わく。汝ら大衆、よく聴けよ。父母のために、心力を尽くして、あらゆる加味(かみ)・美音(びおん)・妙(みよう)衣(え)・車駕(しやか)・宮室(きゆうしつ)等を供養し、父母をして、一生遊楽に飽かしむるとも、もし未だ三宝を信ぜざらしめば、なおもって不幸となす。いかんとなれば、仁心ありて施しを行い、礼式ありて身を正し、柔和にして辱(はずかし)めを忍び、勉強して徳に進み、意(こころ)を寂静(じやくじよう)に潜(ひそ)め、志(こころざし)を学問に励ます者と雖(いえど)も、一度(ひとたび)酒色(しゆしよく)に溺(おぼ)るれば、悪魔たちまち隙(すき)を伺い、妖(よう)魅(み)すなわち便りを得て、財を惜しまず、情を蕩(とろ)かし、忿(いかり)を発(おこ)し、怠(おこたり)を増し、心を乱し、智を晦(くら)まして、行いを禽獣に等しくするにいたればなり。
 大衆よ。古(いにしえ)より今におよんで、これによりて身を亡ぼし、家を亡ぼし、君を危うくし、親を辱(はずか)しめざるはなし。この故に、沙門は独身にして、偶(つれあい)なく、その志を清潔にし、ただ道をこれ務む。子たる者は、深く思い、遠く慮(おもんぱか)りて、もって孝養の軽重緩急(けいじゆうかんきゆう)をしらざるべからざるなり。およそこれらを父母の恩に報ずるのこととなす。』

 父母のために、世間の享楽をいくら施して一生安楽に暮らさせたとしても、そこに三宝への信、仏教へ心からの帰依がなければ不幸と言わざるを得ないとあります。
 なぜかと言えば、たとえ仁によりて布施を行い、礼によりて身を直くし、柔和によりて辱(はずかしめ)を忍び、学んで徳を蓄え、心静めて、学問を志す者といえども、確たる三宝への信なく、ひとたび酒色におぼれてしまえば、様々に心乱されて、行い禽獣に変わらぬ状態となるからである。それによって、家を亡ぼし親を辱めるにいたるというのです。
 いつの時代にもこうして身を持ち崩す例は枚挙にいとまなく、それがゆえに、道を求める修行者である沙門は独身を貫くのではあります。が、子は一般に深くこのことに思いをいたして、三宝への信を確立し、孝道をつくして、父母を供養するべきであると教えられています。

『このとき、阿難、涙を払いつつ、座より起(た)ち、長跪(ちようき)合掌して、すすみて仏に申してもうさく。世尊よ。この経は、まさになにと名付くべき、またいかにして奉持(ぶじ)すべきや。
 仏、阿難につげ給わく。阿難よ、この経は、父母恩重経と名付くべし。もし一切衆生ありて、一度(ひとたび)この経を読誦せば、すなわちもって乳哺(にゆうほ)の恩に報ずるに足らん。もし一心に、この経を持念(じねん)し、また人をして持念せしむれば、まさにしるべし、この人はよく父母の恩に報ずることを。一生にあらゆる十悪・五逆・無間(むけん)の重罪も、みな消滅して、無上道を得ん。
 このとき、梵天・帝釈・諸天の人民・一切の集会(しゆうえ)、この説法を聞きて、ことごとく菩提心をおこし、五体地に投じて、涕涙(ているい)雨のごとく、進みて仏の み足を頂礼し、退(しりぞ)きて、おのおの歓喜奉行(かんきぶぎよう)したりき。』     仏説父母恩重経

 この経は父母恩重経と名づけ、一度でもこの経を唱えるならば、赤ん坊の頃お乳を飲ませていただいた恩にも報いるものだというのです。さらにこの経を心に深く銘記してその感動を他の人にも浴させしめるならば、その人をも父母への恩に報いさせることとなり、一生のあらゆる十悪、五逆、無間の重罪までもがみな消滅するほどの功徳があるというのです。十悪は、十善戒の不の字をとったもので、殺生、偸盗、邪淫、妄語、悪口、両舌、綺語、貪欲、瞋恚、邪見。五逆罪、無間の重罪は前回述べた通りのおそろしい罪です。
 そして、この説法を聞いたあらゆる人々が悟りを得たいと心を起こし、心底から喜び、感激して、この教えを実践することを決意したとあり、この経は終わります。
 是非、一度、声を出して初めから通して、この経典を読み上げて、その功徳を味わっていただけますようお願い申し上げたいと存じます。



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「アナガリカ・ダルマパーラ著シャキャムニ・ゴータマブッダの生涯」に学ぶ 3


 前回に続き、ダルマパーラ師のブッダ伝を読んで参りましょう。

「その同じ時に、将来かの妻となる、ラーフラの母として知られるヤショーダラー王女が生まれ、馬のカンタカ、宮廷使用人カルダーイー、二輪戦車の馬使いのチャンナ、ブッダガヤの菩提樹が生まれました。そして、一万世界の神々が、未来のブッダが生誕した日を祝福いたしました。」

 多くの神々が祝福せるその日に、お釈迦様の人生の中で、とても深い因縁を持つ人や馬も、また菩提樹と後に言われるようになるお悟りを開かれるブッダガヤのアッサッタ樹までもこの日に生を受けたということです。
 出家の時、お城から馬に乗るその馬がカンタカであり、その時の御者がチャンナでした。
 カルダーイーは、父王の家来であり友人だった人です。お釈迦様出家後、父王はたくさんの使者を派遣して帰城することを勧めるのですが、ことごとくみな、お釈迦様の説法で入信出家してしまうのです。ですが、カルダーイーだけは出家後もカピラヴァッツに帰ることを進言して、お釈迦様が父王にまみえることに成功するのです。

「未来のブッダが生まれて七日目には母が死に、都率天にまれ変わりました。そしてこの神聖なる子は、スッドーダナ王の二番目の妃であり、王妃の妹であつたマハーパジャパティによって養育されました。スッドーダナ王は、王子が使うために、夏と雨期と冬のために一つずつ三つの宮殿を神々の住居のように作ったのでした。この三つの宮殿についてはアングッタラニカーヤ(増支部経典)の注釈に詳しく述べられています。
 十六歳の時、王子シッダールタは王女ヤショーダラと結婚しました。彼らが二十九歳になるまでは、まことに幸せに暮らしましたが、王女が一人の男の子を産むと、その晩に王子シッダールタは世界を救済する道を探求するために偉大なる出家をしたのでした。」

 お釈迦様は若い頃は身体が弱く華奢で、衣類はすべてカーシー産の軽い絹のものを身につけ、邸内を散歩するときには白い傘が差し掛けられ、日射しを避け雨露をしのぎ、塵ホコリが落ちてこないようにされていました。雨期の四ヶ月は雨期用の宮殿で、外に出ることなく毎日美しい女たちの奏でる歌舞音曲を楽しんだということです。が、そうした享楽の生活の中にあってなお体質的なものもあり、沈思黙想を好まれ、疑問は何事も徹底的に解決しなければ済まないところがありました。特に実母を亡くしていることも影響してか、老病死について深く思惟して苦悩されることも多く、その解決のためには王宮の中にあって恵まれた生活の中では果たし得ないと考えられて出家されたのでありました。

「偉大なる出家をなされてから菩薩王子は、黄色い布をまとい、釈迦族の国境から、マガダ国の首都へと歩いていきました。彼は街に出て人々に食を乞い、一人パーンダヴァ山の渓谷に戻り、それを食べ滞在していました。すると、そこへビンビサーラ王がお越しになり、若き王は、菩薩にここにとどまり、この王国の半分を統治するがよいと、仕官することを促しました。しかし、王子は、自分は太陽の種族の出自であり、コーサラ国に属する釈迦族の王子であります。されど、真理を探究する聖なる目的のために王宮での享楽を離れたのであります、と告げました。」

 ここは、出家してまもなくに、マガダ国の首都ラージャガハの街を托鉢する王子の姿を見た王が、ただならぬ修行者と見抜いて家臣に後を付けさせ、訪ねていったという有名な場面です。断られた王は、「ではもしも目的を達し悟られたならば真っ先に自分に教えを垂れ自分を救済して欲しい」と告げたといわれています。

「ラージャガハを後にすると、菩薩は、一人、尊い清らかな修行を成し遂げた仙人を求めてさまよい、アーララカーラーマとウッダカラーマプッタという二人の偉大な仙人のもとにしばらく滞在しました。そこで無色界の禅定についての教えを学びましたが、非想非非想処定に導く瞑想の境地に満足できず、菩薩は苦行生活を送るためウルヴェーラにいたり、六年間、最高の至福に到達することを目標に身体をさいなみ続けました。厳格な断食によって彼の身体はほとんど骸骨のように骨と皮だけとなり、とうとうある日彼は意識を失い倒れてしまいました。彼の近くで修行していた友たちは、彼が死んだものと考えましたが、神々は彼は真理を見いだすまで死なないであろう、と言いました。そして、気絶から覚めた菩薩は、遂に苦行の道を捨てることを決断しました。」

 無色界の禅定とは、言葉による認識を越えた世界の瞑想で、非想非非想処定とは、心が何かを認識する想(概念として捉えること)の働きがあるのでもなくないのでもないという究極の心の統一された状態のことです。教えられて、その境地にすぐに達せられたお釈迦様は、それをも不十分と思われ苦行に臨まれるのです。が、過去にも未来にも誰よりも過酷な苦行に挑まれ、それでもなお目的に達せられるものではないとお考えになられたのでした。

「菩薩は、父王の王宮に居た頃幸せだったのはどんなときであったかを回想しました。幼少の頃カピラヴッツの田園風景とともに、それは一人ジャブーの樹の下で座り心の目を開いたときであったことを思い出されました。そして、赤子の時にはすべてを適度に行うことが肝要であるように、享楽と苦行の間の道を行くことはいかがであろうかと考えました。この幼少の頃の心理分析が、菩薩が涅槃を模索する修行者の歩みとして中庸の道を選び行ずることに繋がりました。彼がこの中道を選択し、長い間続けてきた断食を止めて食べ物を口にすると、それまで彼に従っていた五人の修行者たちは、菩薩を離れていきました。そして彼は一人になったのでした。」

 五人の修行者は、父王が出家された王子を心配されて派遣したバラモン階級の子弟でした。しかしここでは苦行を止め食事をし始めた菩薩に、贅沢に陥ったものと誤解して去っていくのでした。

「彼は毎日昼間に食べ物を摂るようにして、ゆっくりではありましたが体力を回復していきました。そしてヴェーサカー月(四、五月)の満月の日にアジャパーラバニヤン樹の根元で、スジャータ村の娘から乳粥を供養されると、その晩、彼は涅槃の智慧を悟らないうちには決して立ちあがらないと誓いを立てて菩提樹の下に座りました。
 まず夜のはじめ初夜に、数え切れないほどの幾百万年もの過去世を思い出す、人知の及ばない知識を獲得しました。その次に中夜に、やはり人知の及ばない未来を見る洞察力を得て、それによって、人は死していかにして生まれ変わっていくのかを見ました。人が死んで再び生まれるのは、その人の苦楽の行い業によることを如実に知ったのでした。夜明けごろ後夜には、全知なる偉大な光明を悟り、因と果という大いなる法の真理の働きがあきらかとなり、そして、彼は正等覚者となりました。」

 この正にお悟りに成られた晩に、お釈迦様はどのような思惟のもとで明智を得られていったのか、私たち仏教徒にとって誠に大切な場面であります。ですが、残念ながら日本には、明瞭にこの部分の事情について教えられた仏伝がありません。
 ここにありますように、先ず初夜に自らの過去世をご覧になられています。何十何百何万という過去の生存について、その時の名前、食べ物、苦楽の経験、寿命などについて思い出されたのでした。
 つぎに中夜に、沢山の生けるものたちの生まれ変わる様子をご覧になり、それらの業に応じて生まれ変わっていくことを知られたのでした。
 そして後夜には、苦と煩悩が生じ滅する因と果を如実に知り、それによって煩悩を滅する智慧が生じ、心が解脱し、正に最高の悟りに到達されたのでした。

「それから七週の間、彼は菩提樹の近くに場所を変えつつ、最終的な解放者としての至福の楽しみの時を過ごしました。もはや彼は輪廻することはない、阿羅漢になりました。永遠なる涅槃の至福を発見したのです。二度と生まれることなく死もありません。苦は絶対に起こらず、ただ、慈愛と智慧だけがありました。」

 仏教の悟りとは、つまり仏教の最終のゴールとは、ここにありますように、輪廻しない、生まれ変わらない永遠なる涅槃の至福を体験することだとわかります。つまり、それまでは何度も何度も生まれ変わり、苦しみ多い生存を繰り返すのだということなのです。

「そこへ、天界の死神マーラが来たり、「聖なる方、いま如来は最終の解放を得たり、清寂の中にあり、一人安息を楽しむべし」とのべました。それに対し聖者は、「死の友よ、私はひとり平安を求め涅槃の安穏に留まるべきではないだろう、規律をもって善男子善女人を諭して比丘・比丘尼とし、教えを在家の男女に授け、彼らに教えを広めさせのであろう。誤った教えを止めさせ、そうしてから、私は最終的な安息を求めるであろう」とお応えになりました。ブラフマー神からは、教えを説くことを懇請され、涅槃へ導く、忘れられた道筋を説く教えを説き導くべきであると懇願されました。ブッダはその願いをこそ受け入れ、慈愛と智慧によって、罪と悲しみから世界を救う教化の人生を始めようと考えられました。」

 仏伝文学では、成道時に死神マーラ他種々の悪魔が来襲したとされていますが、いずれも菩薩の清浄なる智慧によって撃退されています。またブラフマー神とは世界の創造主、宇宙の根源とされる神ですから、一切の衆生を代表して、お釈迦様に説法を懇願したということになります。このブラフマー神は、後に梵天として仏教に取り入れられ護法神となるのですが、いずれにせよ、このインド世界を代表する神の願いを入れてお釈迦様は法を説かれることになるのです。

「聖者はブッダガヤから歩いて、かつてウルヴェーラで一緒に苦行に励んだ五人の修行者たちが今ベナレスに居ることを知って、彼らのもとへ向かいました。彼らは今ではサールナートと呼ばれる仙人たちが集う鹿野園にいることがわかりました。
 ブッダは、彼らに、中道の教え、四つの聖な真理を説き、無我の教義を授けました。その三ヶ月後、十月には、罪と悲しみから解放された六十人の比丘が誕生していました。彼らは、はじめよく中ほどよく終わりよい教えを、多くの人々の幸福のため、幸せのため、よりよくあるように、慈悲をもって宣布する役割を与えられたのでした。この六十人の阿羅漢は六十の方角に進んで行き、聖者はガヤとウルヴェーラに戻って行きました。」

 次回は、いよいよお釈迦様の教化活動がスタートいたします。 


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