住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

篠崎書林『自我の終焉-絶対自由への道』J・クリシュナムーティ 抜き書き

2015年05月04日 18時53分32秒 | 仏教書探訪

【30年もの前に読んでいた本である。傍線を引いた重要箇所の中から核心的なものを抜き書きしてみた】

私たちの思考の大部分は、自己防衛的な本能から生まれるのではないでしょうか。

あなた自身を知るためには、精神は絶えず張りつめていて、敏感でなければなりません。そしてこういう精神は、あらゆる信念や理想化されたものから自由なのです。なぜなら、信念や理想は色眼鏡に過ぎず、正しい知覚を歪めてしまうからです。

理想を求めるということは、実は、あるがままのものに面と向かい合うのを引き延ばしているだけなのです。

あるがままのものというのは、「あるがままのあなた」のことであり、「こうありたいと思っているあなた」ではありません。それは理想ではないのです。なぜなら理想は虚構だからです。

あるがままのものを理解するためには、私たちが絶え間なく考え、感じているものをじっと見つめていなければならないのです。そのようなあるがままのものが現実に実在しているものであって、他のいかなる行為も、理想も、観念に基づく行動もすべて実在ではないのです。すなわち、あるがままのもの以外のものになろうとするのは、願望であり、架空の欲望に過ぎないということなのです。

自己を理解するというのは、一つの結論を得たり、目的地に達したりするようなものではありません。それは関係という鏡-「私」と財産や、ものや、人間や、観念との関係を鏡にして、そこに映った「私」の姿を刻々に観察することにほかならないのです。

私たち個人の中に根本的革命を引き起こすためには、私たちと他のものとの関係の中で、私の思考や感情の動きの全体を理解しなければならないのです。

あなたが観念の形成なしに行動するのは、どういうときでしょうか。過去の経験の結果ではない行為はいつ起こるのでしょうか。経験に基づいた行為とは、すでにお話した通り、行為を制限するものであり、従って行為の障碍になります。観念の結果ではない行為は、自然で自発的なものであって、そのような場合には、経験に基づく行為の過程は、行為を抑制していないのです。というのは、精神が行為を抑制しないとき、経験から独立した行為があるということなのです。

観念がどのようにして生じるのか、行為はどのようにして観念から出てくるのか、またどのようにして観念は行為を抑制し、その結果感覚に依存しながら行為に制限を加えるのか、ということを注意深く観察しなければなりません。

観念は真理ではありません。真理は刻々に、直接経験されなければならないものなのです。というのは、そういう経験は単なる感情に過ぎないからなのです。

精神はその背後に、信念や、安全でありたいという欲望や衝動、知識、力の蓄積などを持っています。しかし、たとえあなたの精神がどんなに力強く優れたものであっても、もしあなたがあなた自身で考えることが出来なければ、この世界に平和は存在しえないのです。

真に満足している人間というのは、あるがままのものを理解し、それに正しい意味を与えている人です。それが本当の満足なのです。それは物を少ししか持たないとか、たくさん持つという問題ではなく、あるがままのものの全体の意味を理解することなのです。この理解は、あるがままのものを変えたり修正しようとしているときには決して生まれるものではありません。あなたがそれをあるがままに認識し、自覚するとき、初めて生まれるものなのです。

自我を理解することは出来るでしょうか。私たちは自我を消滅させようとしたり、あるいはそれを助長したりせずに、ただ見ることができるでしょうか。それが問題なのです。もし私たち一人一人の心の中に、権力地位、権威、持続、自己保存などに対する欲望をいだいた「私」という中心が存在しなければ、私たちの問題は確実に消滅してしまうのです。

変革はあなたがそれを求めないときにやってくること、また創造的な空虚の状態は育成されるものではなく、ただそこにあるだけで、別に招きもしないのに、いつの間にかそこにきているのだということに気づかれるでしょう。その状態の中にのみ、新生と改新と革命の可能性が開かれるのです。


https://www.youtube.com/watch?v=ZEBbFFmpBhU

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする