住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

『大アジア思想活劇』を読んで

2009年05月31日 16時44分46秒 | 仏教書探訪
明治時代、それは日本仏教にとって未曾有の衝撃に襲われた時代である。皇室の保護、国家の体制に護られ、また各時代の為政者に師事されてきた仏教、そして江戸時代には国教と言える地位にあった仏教が、天地逆転して賊教にまで貶められたと言っては言いすぎであろうか。明治初年の神仏分離令から肉食妻帯解禁の布告が出るまでの五年間ほどは各地で寺院が廃合され、僧侶が還俗させられたり、仏像経巻も焼却廃棄された。こぞって僧職が還俗して神官になり、神社に遣えた大寺もあった。そういう時代である。

『大アジア思想活劇―仏教が結んだ、もうひとつの近代史』(平成20年9月サンガ刊)は、その激動の明治仏教から戦後までの近代の仏教について、アジアの多くの国が経験した植民地支配を仏教の復興によって国民に仏教徒としての誇りを取り戻すことによって独立運動へと志気を高めていったスリランカという誇り高き仏教国との交渉から紐解いていく。そしてその交渉史によって、あたかも今日の日本仏教に興っている一つの大きな変革がその流れの中にあることを示唆しているかの展開となっているように思えるのは私だけであろうか。

もちろん、そのことにまだ多くの人は気づいていないだろう。しかし、現在日本で、にわかに興りつつあるこの大きなうねりは、つまりこの大乗仏教の国にいま正に上座仏教直伝のお釈迦様の教えがかなり本格的に浸透しつつあるという、大げさに言えば一つの思想啓蒙運動は、それは一人のスリランカ僧の来日から30年という時間をかけて醸成されたものではあるが、それがかなりはっきりとした兆しを見せ始めている現在、スリランカと日本仏教の関係が昨日今日始まったわけではないというこの歴史の必然性を学ぶ意味でも、この大著を読んでおくことは決して無駄なことではないだろう。

本書は、日本テーラワーダ仏教協会事務局長の佐藤哲郎氏の大学の卒論に、その後もたゆまぬ研究心を燃やし続け、更なる研鑽の末に実現した600ページにも及ぶ労作である。インターネットでは既にその全貌を数年前から読むことができた。私もかなりの部分をネットで拝見していたが、やはりズッシリと重い本を持って読んだ実感はかなり重厚なものがあった。毎日少しずつ読み進んだのではあったが、思ったよりもわけなく読み終えることができたのは、著者の軽快な文体や冒頭に取り上げた野口復堂というその黎明期にインドに出かけて行き深く関係を結んだ教談家のそのコミカルな人柄に幸いしたのであろうか。

それにしても明治初期に英語を軽快に扱い、明治26年のシカゴの万国宗教会議の前から単身アメリカに仏教布教行脚しその会議では、キリスト教批判の演説までしたという仏教者平井金三などの先駆については初めて知るところとなるなど、学ぶところが多かった。また神智学協会と英国の植民地であったスリランカの仏教徒との関係についてもわかりやすく解説されている。特にその前過程としてのハイライトであるパーナドゥラでの仏教とキリスト教の論争による仏教徒の勝利からスリランカの人々が自信を取り戻し国民運動と化していく過程が一人の革新的な仏教徒で、後にインドの仏蹟復興に乗り出すシンハラ仏教徒ダルマパーラ居士の生涯を詳細に記すことで理解されるように構成されている。

神智学協会の創設者の一人で仏教に帰依した米国人オルコット大佐が明治22年来日し大歓迎されるのだが、当時の疲弊した日本仏教徒を鼓舞せんがための来訪と単純に受け取った当時の仏教関係者の無邪気な歓迎ぶりも目に見えるようであるが、それだけ当時の日本仏教の窮状はひどいものであったと窺い知ることができる。単なる親善のためではなく、日本仏教への注文、特に戒律に無頓着である点に関する批難、多岐に分かれる宗派の統一、また南北仏教の統一にまで触れていたことはあまり伝えられていないであろう。

またダルマパーラと日本人仏教徒との関係から、釈雲照、釈興然、釈宗演、土宜法龍、鈴木大拙、河口慧海の明治仏教界の重要人物各師も登場し、それぞれの知られざるエピソードなどを様々な文献を渉猟されて引用し、解説される。ちなみに釈雲照は江戸後期の慈雲尊者の後継者であり、明治の元勲らに師と仰ぎ拝された明治を代表する傑僧である。

その甥、興然は単身スリランカに渡り日本人として初めて伝統ある上座仏教の戒律を受け本式の比丘・仏弟子となった人である。彼はダルマパーラと共に釈尊成道の聖地ブッダガヤの大菩提寺の土地をヒンドゥー教徒から買い戻す運動を企てた人としても知られている。帰国後も黄色いスリランカの袈裟を纏って終生脱ぐことなく亡くなった、私の尊敬する、釈尊一人をこよなく崇敬された純朴な人であった。

また釈宗演は慶應義塾卒後臨済宗から興然修行のスリランカの寺で研鑽を積み、35歳で円覚寺管長となり、シカゴ万国宗教会議に招かれた。今日世界に知られた禅を海外に布教した先駆者であり、弟子の鈴木大拙に米国での活動を促したのも彼であった。その彼とシカゴ万国宗教会議に出席した真言宗の土宜法龍は、その後ヨーロッパに渡り各地で講演をなし仏教を布教した。河口慧海は、黄檗宗から出て正確な仏典を求めてチベットに潜入する前に興然にインド事情を学んでいた。様々な登場人物たちの繋がりが分かりやすく楽しく読み進むことができた。

初転法輪の地サールナートでのダルマパーラの晩年を語る中に、大の日本称賛者であったダルマパーラがムルガンダ・クティ・ビハーラの壁画・釈尊一代記を描かせるのは、日本人画家の他にないとこだわり、その地に至った画家野生司香雪との印相一つの言い争いやその完成に至るまでの苦労話など、全く知られざる逸話もよく調べ上げてあった。願わくば私は、この本を読んでからサールナートに滞在すべきであったと思った次第である。

さらには戦後の日本が戦禍の中で復興をしていくその基点として、昭和25年(1950)のコロンボでの世界仏教徒連盟の創設があり、そこで図らずも称賛されつつアジアの仏教徒の一員としての位置を占め、翌年のサンフランシスコ講和会議でのセイロン代表からの演説に結びついた。つまり世界から疎まれ主権さえも制限されようとしていたその会議で、仏教という絆によってアジアが同じ仏教徒としての日本を見捨てられないという趣旨の演説によって日本は救われたのであった。

唯一の国際社会復帰のよりどころとして仏教があったというこの忘れ去られた事実を掘り起こしてくれている。そして1952年には、第二回世界仏教徒連盟会議が日本で開催されるが、それは戦後間もない占領下の日本にとって国際社会に復帰する原点となり、スリランカ代表によってもたらされた貴重なルンビニ出土の仏舎利が原爆投下の広島にもたらされ広島市に平和塔を建立して奉安されることも決議されたということもあまり知られていない。

スリランカという仏教世界の盟主が、明治期からのダルマパーラの日本称賛を引き継ぎ戦後日本にも多大な精神的支援者であったことを改めて知るところとなった。特にその会議に際して毎日新聞に掲載された世界仏教徒連盟総裁マララセケーラ博士の手記は現代日本にも当てはまる痛烈な批判を込めた日本国民に向けた激励であり指南であろう。

仏教よりも価値の低い理想を求めたが為に悲惨な結果を生んだ、単なる物質の繁栄では人々は幸せにはなれない、世界からも尊敬されない。何よりも精神的なバックボーンとしてかつてそうであったように仏教を位置づけて世界の指導者たる資格を得よと迫っている。そして、そのためには仏教教育の幼児期からの必要性を説き、さらには自国の利益を求めてすり寄る見せかけの友人たちではなく仏教国と交際し共に前進せよと指摘する。そのまま今の私たちに向けた言葉として受け取るべき至言であろう。

以上のように本書の内容は、近代におけるアジアの中の日本仏教史ではあるが、それによって、いまの日本という国にとってもどれだけ仏教が必要か、意味あるものかを知らしめてくれている。そしてそれが近代においてはスリランカというアジアの同じ小島の仏教国との友好によって提示されてきたものであることを教えてくれている。(欧州経由の近代仏教も元を正せばスリランカで教育された欧州の研究者によるものと考えられよう)

中国朝鮮からの仏教しか知らなかった日本人が、おおもとのお釈迦様の仏教に触れ、そのインドの香り高い仏教によって、近代仏教が形成された。明治大正戦後間もなくまでアジアの仏教徒との交流も盛んであったが、戦後の高度成長期を経て疲弊していた日本の姿が経済大国に変貌し、その自信の回復と共に仏教も忘れ去られ、仏教そのものも宗派仏教に逆戻りしてしまった。

しかしバブル経済とその崩壊を経験しなお今世界同時の大不況によって寺院離れが都会から一層顕著になる中で、著者が事務局長を務める日本テーラワーダ仏教協会の精舎や講演地は増え続けている現実は、日本仏教にとって大きな変革期が突然口を開け訪れたとは言えまいか。中心となるスリランカ・シャム派日本大僧伽主任長老であるスマナサーラ師のご活躍は正に明治期のダルマパーラの世界に向けた影響力を彷彿とさせるものではないか。現在に通じる近代仏教の流れを学ぶ意味で本書は欠かせない必読書であると言えよう。

(↓よろしければ、クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村




コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

善光寺ご開帳に参詣す 3

2009年05月15日 08時34分58秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
それでは定額山善光寺の諸堂並びに諸尊について述べてみよう。まずその伽藍配置は、真北に進むと仁王門、山門、金堂がある配置で堂宇が南北線上にある古代の伽藍形式。現本堂は、宝永4年(1707)の再建。高さ約27メートル、間口5間約24メートル、奥行14間約53メートルで、桧皮葺、国宝に指定されている木造建築の中で3番目に大きいといわれている。 昭和28年(1953)3月、国宝に指定。建物は撞木(しゅもく)造りと呼ばれる屋根を持っている。撞木とは鉦、鐘などを打つT字型の法具のこと。入母屋造りの屋根をTの字に組み合わせた構造である。

入って回廊の前に賓頭廬尊者、外陣左に閻魔大王、内陣前には、来迎二十五菩薩、右に地蔵菩薩、左に弥勒菩薩、内々陣前に、向かってやや左側の瑠璃壇、こちらに御本尊が祀られ、正面には御三卿つまり、中央に善光寺開山の祖とされる本田善光卿像、向かって右に善光の妻弥生御前像、左は息子の善佐卿像が安置されている。瑠璃壇の御本尊は、一光三尊阿弥陀如来像。綱吉の生母桂昌院寄進の御宮殿の中の厨子に納められている。中央に阿弥陀如来、向かって右側に観音菩薩、左側に勢至菩薩が一つの光背の中におられる。

御本尊は白雉5年(654)孝徳天皇の勅命で絶対秘仏とされた。先にあげた『善光寺縁起』によれば、善光寺如来は、遠くお釈迦様在世の時にインドで出現し、その後百済に渡り、欽明天皇十三年(552)、日本に仏教が伝来した時に、百済より贈られたと伝えられる。古来より「生身の如来様」といわれ、人肌のぬくもりを持ち、人と語らい、その眉間の白毫から智恵の光明を発しているという。奈良の法隆寺には「善光寺如来御書箱」という、聖徳太子と善光寺如来様が取り交わした文書を入れた文箱が現存している。

善光寺の御本尊の印相は、中央、阿弥陀仏は、右手は手のひらを開きこちらに向けた施無畏印、左手は下げて人差し指と中指を伸ばし他の指は曲げるという刀印と言うが、薬指と親指が着いている。下品下生の印と言われている。左右の菩薩の印は梵篋印、胸の前で左の掌に右の掌を重ね合わせる珍しい印相。その掌の中には真珠の薬箱があるという。また、三尊像は蓮の花びらが散り終えて残った蕊が重なった臼型の蓮台に立っている。

今回ご開帳のお前立ちは、銅造像高42.4㎝脇侍は30㎝。鎌倉時代初期に御本尊を精緻に写したとされ、重文。7年ごとに御三卿の間の左に宮殿を設けてご開帳される。本堂では床下の真っ暗な通路を通り、本尊の阿弥陀如来が安置されている瑠璃壇の真下にあるとされる「極楽浄土への錠前」に触れる「戒壇巡り」が500円で入場券を購入し阿弥陀如来へ祈祷後に体験できる。

三門(山門)は、寛延3年(1750)に建てられた重文。高さ20メートル幅20メートルの楼門。平成19年(2007年)に修復工事がなされ、大正から昭和にかけての修理で檜皮葺きになっていた屋根が、創建当初の栩葺き(とちぶき)に改められた。栩葺きとはサワラの板材で屋根を葺く方式。扁額は鳩が五羽隠された鳩文字。輪王寺宮公澄法親王の字。昔は楼上に木像百羅漢像が安置されていた。今は、文殊菩薩に四天王像。また、江戸時代から昭和に至るまでの参拝者による落書きが多数残されている。

経蔵は宝暦9年(1759)落慶の重文。方15メートルの宝形造り。江戸時代の鉄眼版一切経6771巻を納める輪蔵がある。輪蔵は、腕木を押して回すと、一切経を読誦した功徳ありという。中国南北朝時代に輪蔵を発案した傳大士(ふだいし)と二人の息子の像がある。釈迦如来、如意輪観音を祀る。

梵鐘は、寛永9年(1632)の銘がある鐘が破損して、寛文7年(1667)に新鋳したのが現在の銅鐘。高さ180センチ。この他沢山の文化財がある。善光寺造営図 1巻 源氏物語事書(大勧進所有)重要美術品。銅造地蔵菩薩坐像(通称:濡仏)享保7年(1722)銘。釈迦涅槃像銅造166㎝。鎌倉時代重文。出開帳の時には前立本尊と共に各地に運ばれた。善光寺参道(敷石)史跡(市指定)1714年完成。当時の敷石の枚数は7777枚、現在では6千枚強。算額 天保3年(1832)3月 吉田玄魁堂門人田原小野右衛門忠継他5名奉納。 算額 天保4年(1833)仲秋 武内担度道門人山下喜総太宣満他4名奉納。

なお、ご開帳には、寺がある場所で開催する『居開帳』の他に、大都市に出向いて開催する『出開帳』があった。出開帳には、江戸、京都、大阪で開催する『三都開帳』や諸国を回る 『回国開帳』がある。何れも、境内堂社の造営修復費用を賄うための、一種の募金事業として行われた。

今回の善光寺のご開帳の正式名は、「善光寺前立本尊御開帳」。7年に1度(開帳の年を1年目と数えるため、実際には6年に1度の丑年と未年)、秘仏の本尊の代りである「前立本尊」が開帳される。普段、前立本尊は本堂の脇にある天台宗別格寺院の大勧進に安置され、開帳の始まる前に「奉行」に任命された者が、前立本尊を担いで本堂の中まで運ぶという。

期間中は前立本尊と本堂の前に立てられた回向柱が五色の紐で結ばれ、回向柱に触れると前立本尊に触れたのと同じ利益があるとされる。回向柱(えこうばしら)は、松代藩が普請支配として建立されて以来の縁により、代々松代町(藩)大回向柱寄進建立会から寄進される。2003年は赤松が使用され、2009年は小川村産の樹齢270年の杉を使用。

また、釈迦堂前にも小さい回向柱が立てられ、堂内の釈迦涅槃像の右手と紐で結ばれ、回向柱に触れることにより釈迦如来と結縁し、現世の幸せが約束されるとされる。故に、この二つの回向柱に触れることにより、現世の仏様である釈迦如来と来世の仏様である阿弥陀如来と結縁し、利益・功徳が得られると言われる。

江戸時代の居開帳は、1730年から始まり、八年から十数年の間をおいて開帳されてきた。今日のような七年に一度のご開帳は明治以後であり、 丑年と未年開催が慣例となるのは1955年から。 2003年には同時期に甲府市の善光寺(甲斐善光寺)、長野県飯田市の元善光寺、稲沢市の善光寺東海別院の四善光寺同時開帳となり、今回は、岐阜市の岐阜善光寺、関市の関善光寺を加えた史上初の六善光寺同時開帳となる。

なお、寺内に、寛慶寺という大寺が位置しているが、このお寺は、浄土宗総本山知恩院の末寺にして、寿福山無量院寛慶寺という。はじめ、治承4年(1180)九月栗田城主 、戸隠山顕光寺(現戸隠神社)別当栗田範覚に依り栗田の地にお寺が建てられ栗田寺といったが、栗田氏は代々戸隠山別当を世襲し寛覚の代に至り、鎌倉幕府より更に善光寺別当をも任じられた。以来、代々、善光寺・戸隠両山別当を世襲。栗田寛慶、明応5年(1496)十二月没するとその子寛安は、父の遺言に依り栗田寺を善光寺東門(現在地)に移し、父寛慶の名を以て寺号とした。天正10年(1582)洞誉春虎(どうよしゅんこ)和尚を招じ開山第一世とし、以来二十世四百年連綿法灯を継承という。

なお、西国巡礼のお礼参りに古来善光寺と北向観音に参る習慣があるが、現在では、高野山にお礼参りする人もあるという。しかし、平安後期頃から教えを聞くだけでなく、自ら善行功徳を積むべきであるとの考えから、霊地霊蹟へ参る習慣ができはじめると、いつの時代からか、たとえば東国から入る場合に、西国参りの前に伊勢神宮に参り、熊野詣でを済ませてから観音巡礼をスタートし、最後にお礼参りとして善光寺に参って帰路につくという誠に長期の参詣の旅が一つの定型となっていったようだ。

当時既に浄土教が浸透していた時代でもあり、観音の聖地に修行して現世の利益を願い、その観音の母体とも言える阿弥陀如来に最後参って来世の極楽往生を願うというときに、やはり、日本最古の霊験あらたかな善光寺如来に参詣しなければという気持ちに巡礼者を誘ったものだと言っても不都合はあるまい。それだけ当時から善光寺は有名であり、またその威徳は高かったのだと言えよう。

(↓よろしければ、クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村



コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

善光寺ご開帳に参詣す 2

2009年05月13日 11時55分32秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
以上がおおよその善光寺縁起であるが、はじめは今の長野県飯田市でお祀りされ、後に皇極天皇元年(642)現在の地に遷座したらしい。皇極天皇三年(644)には勅願により伽藍が造営され、善光の名を取って「善光寺」と名付けられた。おおよそ11世紀前半ごろから貴族を中心に浄土信仰が盛んになり、しだいに善光寺聖と呼ばれる念仏聖が本尊のご分身仏を背負い、この縁起を絵解きして、全国津々浦々を遍歴しながら民衆の間に善光寺信仰を広めていったのだった。

善光寺縁起は、後に作られた物語にせよ、実際に善光寺の周辺からは、白鳳時代の瓦が度々発見されているという。大正十三年と昭和二十七年には境内地から白鳳時代の川原寺様式を持つ瓦が発見され、7世紀後半頃にはかなりの規模を持つ寺院がこの地に建立されていたことがわかっている。また、平安後期12世紀後半に編集された『伊呂波字類抄』は、8世紀中頃に善光寺の御本尊が日本最古の霊仏として中央にも知られていたことを示す記事を伝えている。

鎌倉時代になると、源頼朝や北条一族は厚く善光寺を信仰し、諸堂の造営や田地を寄進した。善光寺信仰が広まるにつれ、全国各地には新善光寺が建立された。現在では全国善光寺会という組織ができ、200以上の寺社が加盟して2年に一度善光寺サミットが開催されている。また、鎌倉時代には東大寺再建の勧進聖として有名な俊乗坊重源をはじめ、浄土真宗の宗祖・親鸞聖人、時宗の宗祖・一遍上人なども善光寺に参拝した記録が残っている。

戦国時代に入ると、善光寺平では甲斐武田信玄と越後上杉謙信が信濃の覇権を巡り川中島の合戦を繰り広げた。当時善光寺平は上杉の支配にあり、謙信は寺宝のいくつかを本拠地に移した。しかしその後、弘治元年(1555)、武田信玄は御本尊や多くの什宝、寺僧に至るまで、善光寺を組織ごと甲府に移す。その地が現在は甲斐善光寺となっている。現在は浄土宗。

その後快進撃を続けた武田家だったが信玄歿後、織田・徳川連合軍に敗れると、信長は御本尊を岐阜に遷座させてしまう。その三ヶ月後に本能寺に信長は没して、美濃の所領を分割された信雄(のぶかつ)は、尾張清洲城近くの甚目寺(じもくじ)に遷座させるも、信雄と同盟を結んだ家康が、その翌年には、浜松の鴨江寺に移す。しかし家康の夢枕に善光寺如来が立ったとのことで、また、甲斐の善光寺に再び遷座、十数年を過ごす。

しかしその後天下人になった豊臣秀吉が京都に奈良の大仏よりも大きな大仏を建造した方広寺の造営に当たり、地震で落慶目前に倒壊した大仏の代わりに御本尊として善光寺如来を移し祀った。しかし、それ以来京には疫病が流行り、秀吉の周辺でも不幸が続き、自らもにわかに病に罹る。秀吉は如来の祟りと思って、信濃善光寺へ善光寺如来をお還しすることにして、善光寺如来が京を出発したその翌日秀吉は伏見城で亡くなったという。こんな風聞がまた庶民の信仰を煽ったのであろう。

42年振りにご本尊が戻った善光寺は戦乱の時代に巻き込まれ、荒廃を余儀なくされた。しかしその後江戸幕府開府に伴い、徳川家康より寺領千石の寄進を受け、次第に復興を遂げた。泰平の世が到来すると、「一生に一度は善光寺詣り」との言葉が流布して、念仏を唱えて一心に祈る者を皆極楽浄土に導いくれる、男女平等、地位や身分の上下にかかわらず人々の救済を説く寺院として知られていった。

ところで、女性の参拝者が多いことが善光寺詣りの特徴であり、当時の絵馬にも、女性の信者の姿が数多く描かれているという。創建以来十数回の火災に遭い、江戸時代に入ってからも火災に遭っているが、御本尊様の分身仏である前立御本尊を奉じて全国各地を巡る「出開帳」によって浄財が寄せられ、宝永四年(1707)には現在の本堂を落成し、続いて山門、経蔵などの伽藍が整えられた。

現在善光寺は、天台宗本坊大勧進とそれに属す25院、そして、浄土宗大本願14坊が護持している。大勧進貫首と大本願上人が共に住職を兼務している。しかしそれは明治以後のことであって、おおもとには宗派のない時代を経て、宗派ができると八宗兼学と言われるように各宗の僧侶が滞在したであろう、しかし大本願の伝承では、そもそも皇極天皇の命により蘇我馬子の娘・聖徳太子妃が出家され尊光上人と称し開山上人として、代々女性の上人が住職してきたのだと言う。

善光寺住職でもある善光寺上人は、かつては宮中から上人号と紫衣着用の勅許を賜った称号で、尼僧では信州善光寺、伊勢神宮の慶光院、熱田神宮の誓願寺が近世において日本三上人と称されていた。現在では善光寺上人のみが法燈を伝承し、住職晋山時には宮中参内が慣例になっている。現在の善光寺上人は第121世鷹司誓玉大僧正(たかつかさせいぎょくだいそうじょう)。

一方、弘仁8年に伝教大師が信濃路巡錫の際、善光寺に参籠され、それより天台の宗風により善光寺は護持されたともいう。この僧たちが、ある時期から浄土信仰をもって、善光寺の営繕修理護持のために全国に勧募する権限を持つ組織である大勧進として善光寺の全般について管理してきたものと考えられよう。

江戸時代、慶長6年(1601)徳川家康によって大本願を歴代住職とし、大勧進は経理面を担当するように制度化された。明治9年(1876)県より大本願は浄土宗・大勧進は天台宗として寺務を分掌され、明治26年(1893)大本願と大勧進の争論が県により調停されたと大本願のホームページに記されている。おそらく、これによって、両者が共に住職を兼務する現体制になったのであろう。なお、二宗管理の寺としては、当麻寺が真言宗と浄土宗の二宗で管理している。つづく

(↓よろしければ、クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

善光寺ご開帳に参詣す 1

2009年05月11日 19時45分57秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
5月26~28日、朝日新聞愛読者企画「日本の古寺めぐりシリーズ」特別編として、七年に一度の善光寺ご開帳にあわせ、善光寺、北向観音はじめ周辺の霊場を参詣する。善光寺は、昔一度だけ松本に行った折に帰りしなによって、駅から歩き参詣したことがある。長い仲見世通りを歩いた印象しかないが、多くの参拝者で賑わっていたことはよく記憶している。

長いバス旅の中でじっくりと参詣寺院の縁起などについて解説するよすがに、少し調べを進めてみよう。それにしても善光寺は凄い。今でも毎年600万人もの人が参るという。その秘密は奈辺にあるのであろうか。よくよくいろいろな文献をさらってみると、どうも、女人に古来開かれたお寺だからというところにあるらしい。

女が参れば男も参る。女性に優しい、誰でも受け入れる懐の広さ、皇室や貴族のためでなく一般庶民の為に開かれたお寺、それに最も古い部類に入るお寺の由来の確かさも起因しているだろう。牛に引かれて善光寺参りの主人公も女性だった。善光寺のホームページによれば、以下のような物語がその原型だという。

『昔、信濃の国、小県の里に心が貧しい老婆がいました。ある日、軒下に布を干していると、どこからか牛が一頭やってきて、その角に布を引っかけて走り去ってしまいました。女はたいそう腹を立てて、「憎たらしい。その布を盗んでどうするんだ。」などと怒りながらその牛を追いかけていきました。

ところが牛の逃げ足は早く、なかなか追いつきません。そうする内に、とうとう善光寺の金堂前まで来てしまいました。日は沈み牛はかき消すように見えなくなりました。ところが善光寺の仏さまの光明がさながら昼のように老婆を照らしました。ふと、足下に垂れていた牛の涎(よだれ)を見ると、まるで文字のように見えます。その文字をよく見てみると、

「うしとのみ おもひはなちそ この道に なれをみちびく おのが心を」

と書いてありました。女はたちまち菩提の心(仏様を信じて覚りを求める心)を起こして、その夜一晩善光寺如来様の前で念仏を称えながら夜を明かしました。昨日追いかけてきた布を探そうとする心はもうなく、家に帰ってこの世の無常を嘆き悲しみながら暮らしていました。

たまたま近くの観音堂にお参りしたところ、あの布がお観音さんの足下にあるではないですか。こうなれば、牛に見えたものは、この観音菩薩様の化身であったのだと気づき、ますます善光寺の仏さまを信じて、めでたくも極楽往生を遂げました。そしてこのお観音さまは今、布引観音といわれています。これを世に「牛に引かれて善光寺参り」と語り継いでいるのであります』ということである。

『善光寺縁起』なるものがある。それによれば、善光寺の一光三尊阿弥陀如来は、なんとインドのお釈迦様の時代にまでその起源があるとしている。おおよその物語は以下のようである。

お釈迦様が、ヴァイシャーリーという街におられたとき、托鉢に回っても何も差し出さなかった長者が、娘が疫病に罹り薬も効かず、お釈迦様に救いを求めたところ、「西方極楽世界におられる阿弥陀如来様におすがりして南無阿弥陀仏と称えれば、この如来様はたちまちこの場に出現され、娘はもちろんのこと国中の人民を病から救ってくださるであろう」と言われた。(勿論これは大乗の浄土経典に基づくお話しになっている)

そこで、長者が一心に念仏すると、西方十万億土の彼方からその身を一尺五寸に縮められ、一光の中に観世音菩薩・大勢至菩薩を伴う阿弥陀三尊の御姿を顕現され大光明を放った。たちまち娘の病は癒されたが、長者はその三尊を止め置くことをお釈迦様に頼み、目連尊者が竜宮に行き、竜王から閻浮壇金(えんぶだんきん・経典に出てくる想像上の最も高貴な金)をもらい、それを手にした長者は、また一心に阿弥陀如来の来臨を乞うと出現し、閻浮檀金は変じて、三尊仏そのままの御姿が顕現した。この新仏こそ、後に日本国において善光寺如来として尊崇を集める如来様であったという。

時は流れ、百済国では日本に仏教を伝える聖明王の治世を迎えた、この王はこの阿弥陀如来を顕現した長者の生まれ変わりで、百済国に顕現し教化の後、如来様は次なる教化の地が日本国であることを自ら告げた。そして、欽明天皇十三年(552)、この尊像は日本に渡ることになった。

天皇は蘇我稲目にこの尊像をお預けになり、稲目は屋敷を向原寺と改め、如来様を安置し、毎日奉仕した。これが我が国仏教寺院の最初である向原寺であった。しかし、国内でにわかに熱病が流行ると、物部尾輿はこれを口実として、向原寺に火を放った。が、如来様は不思議にも全く尊容を損うことがなく、ついに尊像を難波の堀江に投げ捨てた。

後に、聖徳太子は難波の堀江に臨まれ、沈められた尊像を宮中にお連れしようと祈念されると如来様は一度水面に浮上し、「今しばらくはこの底にあって我を連れて行くべき者が来るのを待とう。その時こそ多くの衆生を救う機が熟す時だ。」と仰せられ、再び御姿を水底に隠した。

ある時、信濃国の本田善光が国司に伴って都に参った。この難波の堀江にさしかかると、「善光、善光」と、いとも妙なる御声がどこからともなく聞こえてきた。そして、驚きおののく善光の目の前に、水中より燦然と輝く尊像が出現した。如来様は、善光が過去世にインドでは月蓋長者として、百済では聖明王として如来様にお仕えしていたことをお話になった。

そして、この日本でも多くの衆生を救うために、善光とともに東国へお下りになられることをお告げになる。善光は歓喜して礼拝し、如来様を背負って信濃の我が家に帰り、西のひさしの臼の上に安置。やがて御堂を建てて如来様を移したが、翌朝、最初に安置した臼の上に戻っていた。そして、善光に、「たとえ金銀宝石で飾り立てた御堂であろうとも、念仏の声のないところにしばしも住することはできない。念仏の声するところが我が住みかである」と仰せになったという。

善光は貧困で灯明の油にも事欠く有様だったが、如来様は白毫より光明を放たれ、不思議なことに油の無い灯心に火を灯された。これが現在まで灯り続ける御三燈の灯火の始まりという。如来様の霊徳は次第に人々の知るところとなり、はるばる山河を越えてこの地を訪れるものは後を絶たなかった。

そこで、時の天皇である皇極帝は、善光寺如来様の御徳の高さに深く心を動かされ、善光と善佐を都に召されて、ついに伽藍造営の勅許を下された。こうして、三国伝来の生身の一光三尊阿弥陀如来を安置し、開山・善光の名をそのまま寺号として「善光寺」と称した。以来千四百年以上の長きにわたり、日本第一の霊場として全国の老若男女に信仰されるようになったのだという。つづく

(↓よろしければ、クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

若々しくあるために

2009年05月10日 15時36分21秒 | 様々な出来事について
先日ある方から、若々しくあるためにはどうしたらいいですかと質問を受けた。その瞬間、これは初めての質問内容だなと思ったが、とっさに「まあ、身体は毎日というか、一瞬一瞬老化していっていますから、それはやむを得ないと思って下さい」と言った。私たちは生まれ落ちた瞬間から老病死を生きている。老いつつあり、病気になり、死していく。それはもうどうしようもないことわりだと言っていい。

しかし心の方は日々新たに生まれ変わり生まれ変わり新鮮な心を常に蓄えていることは可能だろう。その時次に上げる三つのことを申し上げた。深く考えて言ったことでもないので、不足のこともあろうし当たっているかは別としてここに述べてみよう。

まず第一に、今に生きるということ。私たちはどうしても過去にこだわり未来に希望や望みを託す。そして今がおろそかになる。「一夜賢者経」という経典にお釈迦様が教えられているように、過去は既に過ぎ去り、未来は未だ来たらず。ただいまなすべきことを正になせ。これである。

あれこれ過去のことを後悔したり、また過去の栄光に酔ってみたり。過去は過去であって、今のあなたではない。また、先のことを心配し、将来の絵空事に胸を沸き立たせるということもあるかもしれないが、それも今のあなたではない。

今にあなたがいないから今のあなたがもの足りない空虚感に苛まれている。あなたは今ここにしかいないということを知るべきであろう。今のあなたが充実して楽しく明るい心であったなら、日々若々しい心でいるということになるのではないか。

第二に、自分のこと、周りのこと、とにかく好奇心をもって様々な物事やその変化に気づくこと。漫然と時を過ごしていては、楽しいことはない。人の言うこと、周りの情勢に流され鵜呑みにしていては、自分自身にとって何の発展も成長もない。日々、何事かに気づき、疑問に感じ、自ら考える。気づくということ。好奇心旺盛であれば、常に心若々しく過ごせるであろう。

第三に、年を忘れるということ。年を意識することで閉鎖的な発想に陥る。年だから何とかというのが口癖になったりする。身体とは相談しなくてはいけないかも知れないが、そうでなければ年を意識せず何にでもチャレンジする元気が必要だろう。

また、年を忘れるというのは、誰をも平等な目で見られるということでもある。年による上も下もなく、みんなを分け隔てなく見ることが必要だろう。年で相手を見るということは自分の年を意識しているということだから、そこからは若々しい心は生まれない。

ところで、仕事別に長寿度を測定すると、やはり、僧侶や医者というのが最も長寿ということになるらしい。昔、「童心は道心なり」と言われ、インドで貧しい子供たちの成長を楽しみにボランティアを続けておられる長老がいる。

はたして、あの良寛さんもそう言われたかどうかは知らないが、良寛さんは、飄々と小さな庵に住まい、托鉢して暮らしていた。良寛さんも、近くの子供たちとは、まこと自分を忘れて、童心そのものになって遊んだと言われている。

自分を忘れるというと、「忘己利他」という言葉が思い出される。自分自分という思いが私たちの苦しみの根源にあり、それを忘れ他と共に生きることができれば幸いであろう。

自分という思いが過去の記憶だとするならば、やはり、過去ではなく今に生きることが大切だということにもなる。それは、年を忘れるということにもつながる。まずは目の前の現実を見つつ、様々なことに気づき、今に生きる。とっさに答えたことではあったが、結局は、仏教の瞑想をそのまま日常にいかすということが、もっとも、若々しい心で生きることができるということに結論づけられたようである。


(↓よろしければ、クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四国遍路行記-19

2009年05月03日 19時54分04秒 | 四国歩き遍路行記
結局お昼ご飯も御接待いただき、Sさんと金剛福寺の前で別れた。一人石段を登る。朝から雨がポツポツ降っていたが、風もにわかに吹いてきた。沢山の参拝者の間を透明人間の如くにすり抜けて、本堂に向かう。金剛福寺は、弘法大師が弘仁年間にこの地を訪れ、千手観音を感得して嵯峨天皇に上奏し、「補陀落東門」の額を賜り創建された。境内は観音菩薩の補陀落渡海の地に相応しく、足摺岬の荒波に揉まれた岸壁を見下ろす。

本堂前で千手観音のお姿を思い理趣経一巻。本堂の石段を下り、西の奥に大師堂。大師堂では、小窓から内部を覗くと、御厨子の中で綺麗なお大師様がこちらを向いておられた。ありがたい尊顔を拝みつつ心経一巻。

思ったより雨がしっかり降っていたようで、土の境内がぬかるんで草鞋の足に土がまとわりつく。石段を下り、雨だというのに観光バスから降りてきた沢山の参詣者の中を抜けて、左へ中村方面に向かう。海沿いの車一台が通れるほどの道をポンチョをまとい歩く。山側は岩場からシダが生い茂り、蔓が絡まるトンネルのようなところをぬけて進む。雨降りのどんより空のせいで真っ暗だ。

そんな道をすぎると、このあたりも新しい道を作っているところが所々あって、幅の広いアスファルトの道が急に現れる。雨の日にはアスファルトの道も悪くない。途中保育園があり、子供たちが部屋の中で走り回っている。外にトイレがあった。柵の中に入り、断りを入れトイレを借りる。子供たちが歓んで手を振っている。ニコニコして合掌している子もいる。

どんより雲の海はどす黒い。網代から雨がしたたる。こんな日は暗くなるのが早い。まだ4時過ぎだというのにあたりが真っ暗になってきた。坂を下ると、舟をつり上げるクレーンが岸近くに並んでいた。漁師町の窪津だった。このあたりまで来たら、急に雨脚が強くなってきた。

早くどこか宿に入りたいところだが、お店らしきものもない。このあたりに民宿かお寺はありませんかと、丁度歩いてきたご婦人に問うと、「このあたりのお寺はどこも無住じゃから、うちに来んさい」そう言われて、家々の間をぬってずっと奥まで先導されて歩いた。雨と汗でびっちゃりの衣を脱ぐと、「まあ、風呂に入りねぇ」と言われてお風呂へ。ご主人を亡くされていて、亡くなったご主人の着ていた浴衣やら丹前を着せてもらった。

まだ夕刻ということもあり、温かいコーヒーを入れて下さり沢山のパンも添えられていた。朝Sさん宅で作ってくれたおむすびを夕飯に食べる。あんまり干渉してはいけないと思われたのか、広い座敷に一人。この数日のことを反芻しつつ日記を書き、また親元に手紙を書いた。

今日は雨のせいもあり、道にミミズやら小さなカニが出てきて出迎えてくれたが、行き交う車に潰されてしまったものも多くかわいそうに思えた。車のない社会であれば、こんなことにはならないものをと思いつつ歩いたことが思い出された。

今日も含め本当に四国に来てから苦労知らずで、車のお接待やら善根宿やらと誠に身に余る施しにありがたさがしみじみ込み上げてくる。楽をさせていただき、あまりしっかりと歩いているという実感もないままに来ていることに焦燥感もないではなかった。が、何事もありのままに受け入れてこれで良しとするしかない。明日から何もないということも考えられるのだし、その時その時の境遇を有難く受け取ろうと思った。

翌日も大雨。時折強い雨が降っていた。洪水波浪注意報まで出ていた。午前中は、そのまま外にも出られず、テレビを見て過ごす。朝から天ぷらのご馳走。昼には鯵の干物を食べさせていただいた。昼過ぎには日が差し込むほどに天候が回復してきたので、亡くなったご主人の遺影が見下ろす仏壇に心経をお唱えし、お礼を申して善根のお宿を辞した。

暗かった海が嘘のように日を浴びて青々と、白い砂浜や岩肌、それに波のしぶきのコントラストに見入った。足摺の海のなんと雄大なことか。美しさか。たくましい自然の力強さを感じさせた。大岐の浜はまた殊の外美しい。夏はさぞかし若者たちで賑わうことだろうなどと考えながら先を急ぐ。昼過ぎから4時間くらい歩いただろうか。中村の町に入らずとも、下の加江から次の延光寺に向かう遍路道があるということで、安宿(あんじゅく)という遍路宿にお世話になることにした。

明るいうちに宿に入りのんびりする。四国に入り5回目の剃髪もゆっくり風呂場で済ますことができた。四国へ入る前はいろいろな人から四国はこう歩くのだというような固定したものが頭にあったが、やはり人それぞれ、その人なりの歩き方、遍路があるように思えてきた。無理してすべて歩くこともないし、外に寝なくてはいけないということもない。そんなことを思った。

(↓よろしければ、クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする