明治時代、それは日本仏教にとって未曾有の衝撃に襲われた時代である。皇室の保護、国家の体制に護られ、また各時代の為政者に師事されてきた仏教、そして江戸時代には国教と言える地位にあった仏教が、天地逆転して賊教にまで貶められたと言っては言いすぎであろうか。明治初年の神仏分離令から肉食妻帯解禁の布告が出るまでの五年間ほどは各地で寺院が廃合され、僧侶が還俗させられたり、仏像経巻も焼却廃棄された。こぞって僧職が還俗して神官になり、神社に遣えた大寺もあった。そういう時代である。
『大アジア思想活劇―仏教が結んだ、もうひとつの近代史』(平成20年9月サンガ刊)は、その激動の明治仏教から戦後までの近代の仏教について、アジアの多くの国が経験した植民地支配を仏教の復興によって国民に仏教徒としての誇りを取り戻すことによって独立運動へと志気を高めていったスリランカという誇り高き仏教国との交渉から紐解いていく。そしてその交渉史によって、あたかも今日の日本仏教に興っている一つの大きな変革がその流れの中にあることを示唆しているかの展開となっているように思えるのは私だけであろうか。
もちろん、そのことにまだ多くの人は気づいていないだろう。しかし、現在日本で、にわかに興りつつあるこの大きなうねりは、つまりこの大乗仏教の国にいま正に上座仏教直伝のお釈迦様の教えがかなり本格的に浸透しつつあるという、大げさに言えば一つの思想啓蒙運動は、それは一人のスリランカ僧の来日から30年という時間をかけて醸成されたものではあるが、それがかなりはっきりとした兆しを見せ始めている現在、スリランカと日本仏教の関係が昨日今日始まったわけではないというこの歴史の必然性を学ぶ意味でも、この大著を読んでおくことは決して無駄なことではないだろう。
本書は、日本テーラワーダ仏教協会事務局長の佐藤哲郎氏の大学の卒論に、その後もたゆまぬ研究心を燃やし続け、更なる研鑽の末に実現した600ページにも及ぶ労作である。インターネットでは既にその全貌を数年前から読むことができた。私もかなりの部分をネットで拝見していたが、やはりズッシリと重い本を持って読んだ実感はかなり重厚なものがあった。毎日少しずつ読み進んだのではあったが、思ったよりもわけなく読み終えることができたのは、著者の軽快な文体や冒頭に取り上げた野口復堂というその黎明期にインドに出かけて行き深く関係を結んだ教談家のそのコミカルな人柄に幸いしたのであろうか。
それにしても明治初期に英語を軽快に扱い、明治26年のシカゴの万国宗教会議の前から単身アメリカに仏教布教行脚しその会議では、キリスト教批判の演説までしたという仏教者平井金三などの先駆については初めて知るところとなるなど、学ぶところが多かった。また神智学協会と英国の植民地であったスリランカの仏教徒との関係についてもわかりやすく解説されている。特にその前過程としてのハイライトであるパーナドゥラでの仏教とキリスト教の論争による仏教徒の勝利からスリランカの人々が自信を取り戻し国民運動と化していく過程が一人の革新的な仏教徒で、後にインドの仏蹟復興に乗り出すシンハラ仏教徒ダルマパーラ居士の生涯を詳細に記すことで理解されるように構成されている。
神智学協会の創設者の一人で仏教に帰依した米国人オルコット大佐が明治22年来日し大歓迎されるのだが、当時の疲弊した日本仏教徒を鼓舞せんがための来訪と単純に受け取った当時の仏教関係者の無邪気な歓迎ぶりも目に見えるようであるが、それだけ当時の日本仏教の窮状はひどいものであったと窺い知ることができる。単なる親善のためではなく、日本仏教への注文、特に戒律に無頓着である点に関する批難、多岐に分かれる宗派の統一、また南北仏教の統一にまで触れていたことはあまり伝えられていないであろう。
またダルマパーラと日本人仏教徒との関係から、釈雲照、釈興然、釈宗演、土宜法龍、鈴木大拙、河口慧海の明治仏教界の重要人物各師も登場し、それぞれの知られざるエピソードなどを様々な文献を渉猟されて引用し、解説される。ちなみに釈雲照は江戸後期の慈雲尊者の後継者であり、明治の元勲らに師と仰ぎ拝された明治を代表する傑僧である。
その甥、興然は単身スリランカに渡り日本人として初めて伝統ある上座仏教の戒律を受け本式の比丘・仏弟子となった人である。彼はダルマパーラと共に釈尊成道の聖地ブッダガヤの大菩提寺の土地をヒンドゥー教徒から買い戻す運動を企てた人としても知られている。帰国後も黄色いスリランカの袈裟を纏って終生脱ぐことなく亡くなった、私の尊敬する、釈尊一人をこよなく崇敬された純朴な人であった。
また釈宗演は慶應義塾卒後臨済宗から興然修行のスリランカの寺で研鑽を積み、35歳で円覚寺管長となり、シカゴ万国宗教会議に招かれた。今日世界に知られた禅を海外に布教した先駆者であり、弟子の鈴木大拙に米国での活動を促したのも彼であった。その彼とシカゴ万国宗教会議に出席した真言宗の土宜法龍は、その後ヨーロッパに渡り各地で講演をなし仏教を布教した。河口慧海は、黄檗宗から出て正確な仏典を求めてチベットに潜入する前に興然にインド事情を学んでいた。様々な登場人物たちの繋がりが分かりやすく楽しく読み進むことができた。
初転法輪の地サールナートでのダルマパーラの晩年を語る中に、大の日本称賛者であったダルマパーラがムルガンダ・クティ・ビハーラの壁画・釈尊一代記を描かせるのは、日本人画家の他にないとこだわり、その地に至った画家野生司香雪との印相一つの言い争いやその完成に至るまでの苦労話など、全く知られざる逸話もよく調べ上げてあった。願わくば私は、この本を読んでからサールナートに滞在すべきであったと思った次第である。
さらには戦後の日本が戦禍の中で復興をしていくその基点として、昭和25年(1950)のコロンボでの世界仏教徒連盟の創設があり、そこで図らずも称賛されつつアジアの仏教徒の一員としての位置を占め、翌年のサンフランシスコ講和会議でのセイロン代表からの演説に結びついた。つまり世界から疎まれ主権さえも制限されようとしていたその会議で、仏教という絆によってアジアが同じ仏教徒としての日本を見捨てられないという趣旨の演説によって日本は救われたのであった。
唯一の国際社会復帰のよりどころとして仏教があったというこの忘れ去られた事実を掘り起こしてくれている。そして1952年には、第二回世界仏教徒連盟会議が日本で開催されるが、それは戦後間もない占領下の日本にとって国際社会に復帰する原点となり、スリランカ代表によってもたらされた貴重なルンビニ出土の仏舎利が原爆投下の広島にもたらされ広島市に平和塔を建立して奉安されることも決議されたということもあまり知られていない。
スリランカという仏教世界の盟主が、明治期からのダルマパーラの日本称賛を引き継ぎ戦後日本にも多大な精神的支援者であったことを改めて知るところとなった。特にその会議に際して毎日新聞に掲載された世界仏教徒連盟総裁マララセケーラ博士の手記は現代日本にも当てはまる痛烈な批判を込めた日本国民に向けた激励であり指南であろう。
仏教よりも価値の低い理想を求めたが為に悲惨な結果を生んだ、単なる物質の繁栄では人々は幸せにはなれない、世界からも尊敬されない。何よりも精神的なバックボーンとしてかつてそうであったように仏教を位置づけて世界の指導者たる資格を得よと迫っている。そして、そのためには仏教教育の幼児期からの必要性を説き、さらには自国の利益を求めてすり寄る見せかけの友人たちではなく仏教国と交際し共に前進せよと指摘する。そのまま今の私たちに向けた言葉として受け取るべき至言であろう。
以上のように本書の内容は、近代におけるアジアの中の日本仏教史ではあるが、それによって、いまの日本という国にとってもどれだけ仏教が必要か、意味あるものかを知らしめてくれている。そしてそれが近代においてはスリランカというアジアの同じ小島の仏教国との友好によって提示されてきたものであることを教えてくれている。(欧州経由の近代仏教も元を正せばスリランカで教育された欧州の研究者によるものと考えられよう)
中国朝鮮からの仏教しか知らなかった日本人が、おおもとのお釈迦様の仏教に触れ、そのインドの香り高い仏教によって、近代仏教が形成された。明治大正戦後間もなくまでアジアの仏教徒との交流も盛んであったが、戦後の高度成長期を経て疲弊していた日本の姿が経済大国に変貌し、その自信の回復と共に仏教も忘れ去られ、仏教そのものも宗派仏教に逆戻りしてしまった。
しかしバブル経済とその崩壊を経験しなお今世界同時の大不況によって寺院離れが都会から一層顕著になる中で、著者が事務局長を務める日本テーラワーダ仏教協会の精舎や講演地は増え続けている現実は、日本仏教にとって大きな変革期が突然口を開け訪れたとは言えまいか。中心となるスリランカ・シャム派日本大僧伽主任長老であるスマナサーラ師のご活躍は正に明治期のダルマパーラの世界に向けた影響力を彷彿とさせるものではないか。現在に通じる近代仏教の流れを学ぶ意味で本書は欠かせない必読書であると言えよう。
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『大アジア思想活劇―仏教が結んだ、もうひとつの近代史』(平成20年9月サンガ刊)は、その激動の明治仏教から戦後までの近代の仏教について、アジアの多くの国が経験した植民地支配を仏教の復興によって国民に仏教徒としての誇りを取り戻すことによって独立運動へと志気を高めていったスリランカという誇り高き仏教国との交渉から紐解いていく。そしてその交渉史によって、あたかも今日の日本仏教に興っている一つの大きな変革がその流れの中にあることを示唆しているかの展開となっているように思えるのは私だけであろうか。
もちろん、そのことにまだ多くの人は気づいていないだろう。しかし、現在日本で、にわかに興りつつあるこの大きなうねりは、つまりこの大乗仏教の国にいま正に上座仏教直伝のお釈迦様の教えがかなり本格的に浸透しつつあるという、大げさに言えば一つの思想啓蒙運動は、それは一人のスリランカ僧の来日から30年という時間をかけて醸成されたものではあるが、それがかなりはっきりとした兆しを見せ始めている現在、スリランカと日本仏教の関係が昨日今日始まったわけではないというこの歴史の必然性を学ぶ意味でも、この大著を読んでおくことは決して無駄なことではないだろう。
本書は、日本テーラワーダ仏教協会事務局長の佐藤哲郎氏の大学の卒論に、その後もたゆまぬ研究心を燃やし続け、更なる研鑽の末に実現した600ページにも及ぶ労作である。インターネットでは既にその全貌を数年前から読むことができた。私もかなりの部分をネットで拝見していたが、やはりズッシリと重い本を持って読んだ実感はかなり重厚なものがあった。毎日少しずつ読み進んだのではあったが、思ったよりもわけなく読み終えることができたのは、著者の軽快な文体や冒頭に取り上げた野口復堂というその黎明期にインドに出かけて行き深く関係を結んだ教談家のそのコミカルな人柄に幸いしたのであろうか。
それにしても明治初期に英語を軽快に扱い、明治26年のシカゴの万国宗教会議の前から単身アメリカに仏教布教行脚しその会議では、キリスト教批判の演説までしたという仏教者平井金三などの先駆については初めて知るところとなるなど、学ぶところが多かった。また神智学協会と英国の植民地であったスリランカの仏教徒との関係についてもわかりやすく解説されている。特にその前過程としてのハイライトであるパーナドゥラでの仏教とキリスト教の論争による仏教徒の勝利からスリランカの人々が自信を取り戻し国民運動と化していく過程が一人の革新的な仏教徒で、後にインドの仏蹟復興に乗り出すシンハラ仏教徒ダルマパーラ居士の生涯を詳細に記すことで理解されるように構成されている。
神智学協会の創設者の一人で仏教に帰依した米国人オルコット大佐が明治22年来日し大歓迎されるのだが、当時の疲弊した日本仏教徒を鼓舞せんがための来訪と単純に受け取った当時の仏教関係者の無邪気な歓迎ぶりも目に見えるようであるが、それだけ当時の日本仏教の窮状はひどいものであったと窺い知ることができる。単なる親善のためではなく、日本仏教への注文、特に戒律に無頓着である点に関する批難、多岐に分かれる宗派の統一、また南北仏教の統一にまで触れていたことはあまり伝えられていないであろう。
またダルマパーラと日本人仏教徒との関係から、釈雲照、釈興然、釈宗演、土宜法龍、鈴木大拙、河口慧海の明治仏教界の重要人物各師も登場し、それぞれの知られざるエピソードなどを様々な文献を渉猟されて引用し、解説される。ちなみに釈雲照は江戸後期の慈雲尊者の後継者であり、明治の元勲らに師と仰ぎ拝された明治を代表する傑僧である。
その甥、興然は単身スリランカに渡り日本人として初めて伝統ある上座仏教の戒律を受け本式の比丘・仏弟子となった人である。彼はダルマパーラと共に釈尊成道の聖地ブッダガヤの大菩提寺の土地をヒンドゥー教徒から買い戻す運動を企てた人としても知られている。帰国後も黄色いスリランカの袈裟を纏って終生脱ぐことなく亡くなった、私の尊敬する、釈尊一人をこよなく崇敬された純朴な人であった。
また釈宗演は慶應義塾卒後臨済宗から興然修行のスリランカの寺で研鑽を積み、35歳で円覚寺管長となり、シカゴ万国宗教会議に招かれた。今日世界に知られた禅を海外に布教した先駆者であり、弟子の鈴木大拙に米国での活動を促したのも彼であった。その彼とシカゴ万国宗教会議に出席した真言宗の土宜法龍は、その後ヨーロッパに渡り各地で講演をなし仏教を布教した。河口慧海は、黄檗宗から出て正確な仏典を求めてチベットに潜入する前に興然にインド事情を学んでいた。様々な登場人物たちの繋がりが分かりやすく楽しく読み進むことができた。
初転法輪の地サールナートでのダルマパーラの晩年を語る中に、大の日本称賛者であったダルマパーラがムルガンダ・クティ・ビハーラの壁画・釈尊一代記を描かせるのは、日本人画家の他にないとこだわり、その地に至った画家野生司香雪との印相一つの言い争いやその完成に至るまでの苦労話など、全く知られざる逸話もよく調べ上げてあった。願わくば私は、この本を読んでからサールナートに滞在すべきであったと思った次第である。
さらには戦後の日本が戦禍の中で復興をしていくその基点として、昭和25年(1950)のコロンボでの世界仏教徒連盟の創設があり、そこで図らずも称賛されつつアジアの仏教徒の一員としての位置を占め、翌年のサンフランシスコ講和会議でのセイロン代表からの演説に結びついた。つまり世界から疎まれ主権さえも制限されようとしていたその会議で、仏教という絆によってアジアが同じ仏教徒としての日本を見捨てられないという趣旨の演説によって日本は救われたのであった。
唯一の国際社会復帰のよりどころとして仏教があったというこの忘れ去られた事実を掘り起こしてくれている。そして1952年には、第二回世界仏教徒連盟会議が日本で開催されるが、それは戦後間もない占領下の日本にとって国際社会に復帰する原点となり、スリランカ代表によってもたらされた貴重なルンビニ出土の仏舎利が原爆投下の広島にもたらされ広島市に平和塔を建立して奉安されることも決議されたということもあまり知られていない。
スリランカという仏教世界の盟主が、明治期からのダルマパーラの日本称賛を引き継ぎ戦後日本にも多大な精神的支援者であったことを改めて知るところとなった。特にその会議に際して毎日新聞に掲載された世界仏教徒連盟総裁マララセケーラ博士の手記は現代日本にも当てはまる痛烈な批判を込めた日本国民に向けた激励であり指南であろう。
仏教よりも価値の低い理想を求めたが為に悲惨な結果を生んだ、単なる物質の繁栄では人々は幸せにはなれない、世界からも尊敬されない。何よりも精神的なバックボーンとしてかつてそうであったように仏教を位置づけて世界の指導者たる資格を得よと迫っている。そして、そのためには仏教教育の幼児期からの必要性を説き、さらには自国の利益を求めてすり寄る見せかけの友人たちではなく仏教国と交際し共に前進せよと指摘する。そのまま今の私たちに向けた言葉として受け取るべき至言であろう。
以上のように本書の内容は、近代におけるアジアの中の日本仏教史ではあるが、それによって、いまの日本という国にとってもどれだけ仏教が必要か、意味あるものかを知らしめてくれている。そしてそれが近代においてはスリランカというアジアの同じ小島の仏教国との友好によって提示されてきたものであることを教えてくれている。(欧州経由の近代仏教も元を正せばスリランカで教育された欧州の研究者によるものと考えられよう)
中国朝鮮からの仏教しか知らなかった日本人が、おおもとのお釈迦様の仏教に触れ、そのインドの香り高い仏教によって、近代仏教が形成された。明治大正戦後間もなくまでアジアの仏教徒との交流も盛んであったが、戦後の高度成長期を経て疲弊していた日本の姿が経済大国に変貌し、その自信の回復と共に仏教も忘れ去られ、仏教そのものも宗派仏教に逆戻りしてしまった。
しかしバブル経済とその崩壊を経験しなお今世界同時の大不況によって寺院離れが都会から一層顕著になる中で、著者が事務局長を務める日本テーラワーダ仏教協会の精舎や講演地は増え続けている現実は、日本仏教にとって大きな変革期が突然口を開け訪れたとは言えまいか。中心となるスリランカ・シャム派日本大僧伽主任長老であるスマナサーラ師のご活躍は正に明治期のダルマパーラの世界に向けた影響力を彷彿とさせるものではないか。現在に通じる近代仏教の流れを学ぶ意味で本書は欠かせない必読書であると言えよう。
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