住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

法話・しあわせに日々生きるために

2014年10月28日 19時00分52秒 | 仏教に関する様々なお話
はじめに 四苦八苦の人生

ご紹介いただいた國分寺の横山全雄です。本日はご縁日法会にあたり、こうしてたくさんの皆様の前で法話できますことは誠にありがたく光栄に存じます。「僧侶は遠方より来たる」という言葉があります。中国の言葉ですが、遠くから来た僧侶はありがたい、近くの人はありがたみが無いということのようです。神辺からでは近すぎたかもしれません。が、お役目ですのでお話しをさせていただきます。

本日の、この席で何をお話しするか、この半年、いろいろ考えまして、このような一枚のプリントにまとめてみました。皆様の聞きたい内容かどうか解りませんので、はじめに、こういう席では必ず申し上げているのですが、何か質問がありましたらお伺いします。突然言われても困るかもしれませんが、ございませんか。

昔若い頃にチベット仏教の瞑想会に参加したことがあります。チベット人のお坊さんが登場すると、開口一番、何か質問して下さい、とだけ言って黙ってしまったのです。若気の至りで一番前に座ってしまったのでとても緊張を強いられる時間を過ごし、ぼそぼそとチベットのお坊さんの話が始まりました。そのとき仏教は問いから始まるということを教えていただきました。

ですから、皆様も何かご質問があったら、いつでも手を上げて下さい。一方的に話をしましても面白いことはございません、できれば、双方向で対話をしながらお話しを進めて参りたいと存じます。こちらから質問をするかもしれませんので、そのときには遠慮せずにお答え下さい。それでははじめさせていただきます。

はじめに、こちら様と私ども國分寺とは、先代から誠に深い交流があったようです。実は、國分寺の先代名誉住職は昨年の10/29に遷化いたしました。ですからちょうど明日が命日に当たり、一周忌法要を予定いたしております。こうしてこの場で話をさせていただいているというのも、先代のお蔭、先代からのご縁によるものと深く感謝いたしたいと存じます。

さて、急に老僧が亡くなってみますと、日頃檀家の葬儀に立ち会っているのとは違い、やはり身近な人が亡くなるというのは寂しいものだなと感じます。人の生と死ということをまざまざと考えさせられまして、今頃は法事でもどこででも、人とは生老病死、四苦八苦を生きているという話をいたしております。

生まれ、老いて、病になり、死すというのは人として生まれたからには付いて回る掟のようなものですが、そこにさらに四つの苦しみがまとわりついているのです。生老病死を四苦といい、それと別に四つを足して八苦と申します。

五つ目の苦しみとは、愛別離苦、まさに身近な愛する者とは誰でも一緒にいたいわけですが、そうはいかないですね、ずっと一緒にはいれないのですし、いずれは別れ離れになる苦しみ。それに対して、怨憎会苦というのがあり、恨んだり憎んだり、逆に恨まれたり憎まれたりする相手が必ず現れて苦しまされる。それも人間として宿命のようにあります。皆さんよくご存じです。つまり好き嫌いの感情をもつと、好きな人にも嫌いな人にも、私たちは苦しまされるということです。

それから、七つ目には、求不得苦といって、求めても得られない苦しみがあります。無い物ねだりといいますか、才能や体格もそうですが、たくさん持っていても自分に無いものが欲しい、だけど得られないという苦しみです。それから五蘊盛苦という、般若心経に出てくる五蘊、これは私とは何かということですが、私とは体と心の働きですよということで、五蘊盛苦はそれらに執着して苦しみを自ら作り出している苦しみのことです。私たちは、何かにとらわれると、無いものにも有るものにも苦しまされるということでしょうか。

私が國分寺に来て、15年になりますが、来た当初は厳しい老僧に毎日のように怒りをかっていたように思うのです。朝からピリピリと5時に撞く鐘の付き方、お供えのつぎ方や運び方から始まりまして、いつも厳しい眼差しにさらされておりました。その頃はこの四苦八苦に当てはめてみますと、怨憎会苦の日々だったかなとも思えるのです。が、それも五年、十年となり、やっと気持ちが通じ合いお互いに本当に良い関係になった頃に、昨年急に亡くなられて、今は愛別離苦の苦しみを味わっているのであります。

同じ人に対してもそうして時間と共に変わってくる、苦しみというのはそう考えますと決して無駄なものではなくて、心がそれだけ変化し成長するための糧としてあるのだということが解ります。

そうして仏教では、誰もが四苦八苦の苦しみの人生を生きていると考えるのですが、私たちが幸せになりたいと思うのも、現実にはいろいろ大変なことばかり、つまり苦ばかりだからなのです。それを何とかするのが仏教の教えであり、人の一生のことすべてに本当は関わる、問題解決に役立つ教えなのだろうと思います。それは洋の東西を問わず、古今東西の人々に有効な教えでもあります。実は今、アメリカやヨーロッパで、仏教がものすごく熱い注目を浴びています。

海外で注目される仏教

仏教はアジアの宗教と皆さん思っておいでだと思うのですが、欧米のキリスト教文化圏で仏教が大変な勢いで普及しております。ヨーロッパで百万人、アメリカには三百万の仏教徒がいるそうです。もちろんそこには、アジアから移民した人たちも含まれておりますが、多くは白人たちが、過酷な競争社会の中で、何とかそのストレスを解消するために、言い換えれば四苦八苦から逃れるために、東洋の宗教、特に仏教の座禅や瞑想に強い関心が注がれております。

西洋と仏教との直接的な関わりは、200年ほどの歴史があります。今では沢山のアジアのお坊さんたちも欧米に行き、キリスト教徒に教えを説き、たくさんの座禅や瞑想のセンターができています。数年前の調査によれば、南方の仏教系の瞑想センターだけでも300にのぼるということであり、サラリーマンが会社帰りに座禅をしたり、チベット仏教の瞑想所に寄って帰るなどということが普通に行われています。

そして、近年、精神医学に仏教の瞑想が取り入れられ、精神科医たちが一生懸命ヴィパッサナーという瞑想をして、患者にも教えています。これは「マインドフルネス認知療法」という本ですが、鬱病患者への仏教の瞑想レッスンについて書かれた本の日本語訳です。このように鬱病やストレス障害、様々な精神障害に効果があると学問的に評価され、たくさんの本が出版されています。

また、フェイスブックという世界的なSNSのサイトがありますが、それなどを見ておりましたら、「ハーバードビジネスレビュー」というアメリカのビジネス情報に、グーグルやアップル、ゴールドマンサックスという大企業の幹部のために仏教の瞑想を研修にとりいれ実習しているとありました。とても人気が高く、申し込んでも数週間待ちということもあるということです。

これが実際にその関連記事が掲載された日本版のつい先月の「ハーバードビジネスレビュー」です。マインドフルネスという言葉が使われて、気づきの瞑想と訳されますが、エレン・ランガーというハーバード大学の女性の教授が「今マインドフルネスが注目される理由」という記事を執筆しています。

さらには、こうした瞑想実践とは別に、実は日本の法事という仕組みが今欧米で真似され、身近な人が亡くなった悲しみを癒やす機会として、日本の法事のように、何回忌何回忌という時期に合わせ、定期的に親しい人たちが集まり儀式をして語り合うということが行われるようになったということなのです。

19世紀から20世紀にかけて活躍したジグムント・フロイトというオーストリアの有名な心理学者がおられますが、彼は精神分析の立場から、亡くなった人をいつまでも悲しみ心悩ますのは病気であり、死は忘れるのが良いと教えたのです。ですが、人間はそんなに強くはない。簡単に身近な人の死を無かったことにすることはできないものです。そこで多くの人が心を病む時代となります。

そして、20年ほど前のことですが、アメリカの宗教心理学者デニス・クラスという人が日本に来て、仏壇や法事について研究し西洋社会に紹介したところ、身近な人を亡くした人たちが、日本の法事のように集い、心を癒やす機会を設けるようになったということなのです。まさに海外では仏教のエッセンスを習得して精神医学や心の癒やしにまで応用しているといえます。

私たちにとっての仏さま

このように西洋では仏教を様々な分野で貪欲に活用しているのですが、それに対し、本家本元の私たち日本人は、仏教伝来以来1500年にもなるのですが、いま、いかがでしょう、仏教のエッセンスを味わっていると言えるでしょうか。仏教によってストレスを解消しようとしている人はあるかもしれませんが、鬱病を仏教で治そうとか、企業の経営上の問題解決のために仏教を役立てようと考える人はおられないのではないでしょうか。また、法事などの仏事が心の癒やしのためと認識している方がどれだけいるでしょうか。

仏教まで西洋に、アメリカに持っていかれたような気がして、とても癪に触ります。そうは思いませんか。そこで、今日は、私たちもしっかりと仏教を味わうことを考えてみたいと思います。現代の私たち日本人は、仏教とは葬式法事、仏事のためという固定観念があります。そのために、仏事の形だけを受け継いでしまって、そうした大事な本来の意味を省みることもなく、ただ大変なこと、面倒なことと思い負担に感じているのではないでしょうか。古くさい、現代に役に立たないと思っていないでしょうか。

ですから、今日は、仏事にまつわる基本的なこと、プリントに取り上げてある項目の一つ一つの内容を今一度確認して、私たちの人生にとって仏様はどういう意味があるのかをテーマに話を進めて参りたいと思います。

○仏壇とは
そこでまず、私たちの一番身近にあるもの、なんでしょうか。仏壇ですね。先祖代々大事にされてきた仏壇とは何でしょうか。毎朝お供えをして線香を点し、チンと金をついていますね。仏壇は、一家の一番上等な部屋に置かれていますが、それは、とても大事なものだということです。

たとえば、息子さんや娘さんが青い目の外国の友達を連れて家に来たとします。まあ、お茶でもと上等な部屋に通したら、立派な仏壇があった、興味を示されてこれは何ですか、と問われたらどう答えられますか。仏様とご先祖様を祀る箱ですと言ったとします。すると、お宅はブッディストの家ですね、ということになります。ということは、仏壇とは仏教徒のあかし、シンボルということになる訳です。

先ほど紹介したデニス・クラスという先生は、日本人にとっての仏壇は、人類の貴重な資源だとまで言っています。なぜかというと、日本人は、何かあるたびに仏壇に亡くなったお父さんやお祖父さんに語りかけたり、いろいろ報告することによって、心の安寧を得てきたからだと言います。何か迷っていることがあったら仏壇に語りかけて心の中でその答えを聞いたり、亡くなったお祖父さんならこうしたに違いないという気持ちになって自信が得られたりということがあるからだというのです。それは私たちの精神を豊かなものにしてくれる資源なのだということでしょう。

ですから、仏壇は、仏教徒のシンボルである、と同時に私たちの心の安らぎのためにあるということなのです。

○仏壇の本尊様とは
では次に、その仏壇の本尊様ですが、ありがたいなぁ、と思われますか。思わず手を合わしてしまうという敬虔な思いが生じますでしょうか。いかがですか。皆様の家の仏壇にはたぶん、大日如来様が座っておいでです。こんなお姿をしています。インドでは、右手はきれいな手、左手は不浄の手です。右は仏様の手、左は衆生です。右手でこうして左の人差し指を握ることで、衆生すべてと仏様とが一体であることを表しているのです。

が、こうした教えも沢山の仏菩薩様方もすべては、今から2550年前、インドブッダガヤでのお釈迦様のおさとりに端を発しています。仏教はすべてお釈迦様から発祥しているのです。

今から20年ばかり前のことですが、その頃インド・カルカッタのお寺にインド僧の一人として住んでいたことがあります。そのとき、日本人の浄土宗のお寺さんが訪ねてこられて、インド人のお坊さんと話がしたいというので、少し通訳をしたことがあります。盛んに阿弥陀様の御利益の話をされて、念仏をしたらご縁によって阿弥陀様の浄土に死後いけますという話をされるのです。するとインドのお坊さんはニコニコして、阿弥陀仏・アミターヴァ・ブッダとはたくさんあるお釈迦様の名前の一つで、名前を唱えて念じる念仏も、同じブッダの徳を念じる修行が私たちにもあるからとてもいい修行をされていると思います、と言われました。

ですから、沢山ある仏菩薩様方はそのお釈迦様のさとりの徳や智慧をそれぞれ分け与えられて、名前をいただかれているのだと私は考えています。

○お釈迦様とは 
では、私たちの身近な仏様の大元である、お釈迦様とはどんな方だったのでしょうか。皆さんご存知の通り、お釈迦様は、紀元前5世紀に、2500年以上前、この地上に実在し、未だにインドが生んだ最高の聖者と、ヒンドゥー教徒たちにもこれ以上ないさとりに到達されたと信じられ、あがめられています。アジアにも、また西洋にも沢山の仏教徒がいて、世界全体の仏教徒が約四億弱ですからそれだけの人たちが、未だに、お釈迦様を自らの最高の理想として敬い崇めています。

ルンビニという、今ではネパール領になっていますがインドネパールの国境付近の村で、釈迦族の王子としてお生まれになり、29歳のとき出家され、6年間の苦行ののち、無師独悟と言って、先生に習うことなく一人試行錯誤の末にさとられたのです。それが35歳の時のことで、以来45年間ガンジス河中流域の町など、灼熱の大地を裸足で歩いて旅をしながら、縁あった人々、弟子となった人ばかりでなく、出家者だけでもなく、バラモン教の信者や托鉢で出会ったりした人たちにも教えを説かれています。

なぜ生涯あまたの人々に教えを説かれたのかと言えば、そうして縁あった人たちに早く自分と同じさとりを得られるように、本当の幸せというものを味わって欲しいという願い、慈しみの心からであろうと思います。そのお蔭で私たちは仏教にまみえ、その教えをたよりに亡くなっていくことができるのです。

○死とは
そして、仏様となってその最高の境地にある、最高の幸せを味わっているお釈迦様であっても、老病死からは逃れることはできませんでした。老いて病いになり、80歳の時クシナガラという北部の村で、沙羅双樹に囲まれ、頭北面西と言って、頭を北に西を向いて亡くなられていきます。私たちも、みんな、いずれはその時を迎えるわけですが、それでは、人の死ということを仏教はどのように考えるのでしょうか。死とはどういうものなのでしょうか。

臨死体験という言葉を聞いたことがありますか。かれこれ20年前ほどになりますかテレビでも取り上げられてブームになりました。先月にもNHKスペシャルで立花隆さんが紹介していました。ご覧になった方もあるのではないでしょうか。病気や事故で仮死状態になった人が、身体から心が抜け出て外側から自分を見たり、さらにその先に、死の世界にまで行ってしまい、また戻ってくるという体験のことです。

昔、歩き遍路をしたことがあり、いろいろな人との出会いがありましたが、結願してお礼参りに高野山に行くために、和歌山駅まで行ったところ、夜になったので、偶然出会った若者たちに、このあたりに安宿はないですかと尋ねたところ、二時間もかけて高野山まで車のお接待をしてくれたことがあります。そのとき、その中の一人が、実はと、オートバイの事故での体験を話してくれました。車とぶつかった瞬間に心が身体から出て、身体が空中に投げ出され転がっていく様子を上の方からスローモーションのように一コマ一コマを見たのだと、そして気がついたら病院のベッドの上だったそうです。突然の事故で身体から心が抜け出たという体験談ですが、結構、このような経験をされている人は多いと思います。

また、今年のお盆のお参りで、ある檀家さんが大腸のポリープの手術で麻酔をかけ手術中に、気がつくとそれはきれいなお花畑にいて、三途の川が見え、たくさんの人たちが向こう側で手を振っていたのだそうです。ですが、おーい芋を見に行けよという亡くなった檀那さんの声がして、こちらの世界に帰ってきたと笑い話のような話を真顔でされていました。ちょうど一週間前に芋の苗を畑に植えたところだったそうです。芋を植えてなかったらそのまま逝っていたかもしれないですね、ですが、死後の世界を見てきたお蔭で、死ぬのが怖くなくなりましたと言われていました。

ですから、死とは、身体の寿命が終えて、心が身体から抜け出てそのまま逝ってしまった状態のことを言うのです。仏教では、死とは身体と心の分離であると考えます。身体は荼毘に付されますが、心は49日の後、来世に逝くのです。ですから、死とは、来世への旅立ちでもあるとも言えます。

つまり、死んだらおしまい、あとは何も無いということではないということです。ですから、葬式も法事もする意味があるのです。

○法事とは
日本では、最近「葬式は要らない」などという宗教学者もあります。ですが、仏教徒が亡くなればどの国のお坊さんもお葬式をしています。私もインドで何度となくお葬式の読経に加わり、また、法事も他のお坊さんたちと一緒にお参りしてきました。

インドの法事は、サンガダーンと言って、僧団への施与という意味ですが、四人以上のお坊さんを招待して行います。大きな法事では17人ものお坊さんが来ている法事もありました。法事では、長老のお坊さんから三帰五戒が授けられ、その後、お坊さんたちで短いお経をあげ、簡単な法話があります。その後、施主がコップの水をお盆に注ぎつつ、その功徳が生きとし生ける者たちに行き渡るように祈りの言葉が唱えられ、法事は終了します。そして、その場ですぐに皿が並べられご飯とカレーが盛られていき食事をします。食べきれないほどのご馳走が盛られることも多く、そうして沢山のご馳走をお坊さんたちに食べてもらうことが功徳になると考えられていました。歯ブラシやタオルなど日用品、それにお布施をいただいて帰ってくるのです。

私たちの法事でも、最後に唱える回向文に「この功徳をもって、遍く一切に及ぼし我らと衆生と皆共に仏道を成ぜん」とあるように、法事とは、自分のため、亡くなった精霊も含め、生きとし生けるものたちのために功徳を積むことと言えます。

○功徳について
それでは、その功徳とはどういうものなのでしょうか。功徳とは何ですか。功徳にまつわる2500年前のインドの話を紹介してみましょう。先ほども申しましたように、お釈迦様には沢山の弟子がいたのですが、在家の弟子の一人にコーサラ国のパセーナディという王様がいました。この王様は経典には何度も名前を残すほどにお釈迦様の所に足繁く通った立派な仏教信者でした。ですが、元々王様はそんなに信仰深くはなかったのです。そのように王様を仏教に感化した、マッリカーという王様お気に入りの王妃がいました。

マッリカー妃は、大変聡明で美しく信仰心厚く、沢山のお坊さんたちに食事を供養したり、毎日のように法話を聞き多くの功徳を積んだと言われております。ですが、若くして亡くなってしまいます。それで、誰もがあれほどの功徳を積んだマッリカー妃は、さぞかし善いところに生まれ変わるに違いないと思っていました。ですが、死ぬ寸前に、生涯で一度だけついた嘘を思い出し暗い心になって、餓鬼の世界に転生してしまいます。

しかし少しして、自ら「何で自分はこんな所にいるのですか、自分はあれだけ沢山の善きことをしてきたではないか」と思った瞬間に兜率天に生まれ変わったといいます。兜率天とはお釈迦様が前世でおられたところで、弘法大師も亡くなる時に自分は兜率天に生まれ変わると言われたところでもあります。

この話は、どれだけ沢山徳を積んでも、死ぬ一瞬の心でどこに生まれ変わってしまうかわからないという恐ろしい話ではありますが、この話でわかることは、功徳とは善いところに生まれ変わって逝くために不可欠なものだということなのです。そして、マッリカーのように、なんでこんなところに、あれだけの徳を積んできたのにと思えるためには、善いことをしたらその功徳を憶えておくことが必要だということなのです。

○帰依礼拝とは
そして、その善き行いの、一つ一つの行為が心から本当にありがたい功徳ある行為と思えるためには、それがどういう意味のある行為なのかと知ることが必要です。たとえば、私たちは、勤行次第では三宝に帰依するということをお唱えはしているのですが、帰依するとはどういうことを言うのでしょうか。

三宝帰依は仏教徒の条件と言われますが、それは皆さんの人生にとって、どういう意味があるのでしょうか。まったく生きること、私たちの人生に関わりの無いことならば、仏様に帰依する必要もない、仏壇にお供えをすることもないことになると思うのですが、いかがですか。

昔インドにおりました頃、毎日のように目にした光景の一つに、子供たちがする学校の先生に対する挨拶があります。インドの子どもたちは、目がキラキラしてまして、とても元気にニコニコと飛び跳ねるように歩いてきて、右手で先生の足に触れて、その手を額にいただき、そして合掌してナマステと挨拶していました。それは、どんな意味があるのかというと。正に、み足を頂戴して、その先生を敬い尊んで、自らを無にして、先生に学ばせて頂きますという気持ちを表す行為なのです。

まさに、その行為と同じように、ナマステは南無、帰命するということですから、仏様に帰依礼拝するとは、仏様、お釈迦様を心から尊敬し、自らの人生の理想として学びつつ、少しずつでもお釈迦様のこころ、さとりの心へ近づいていこうとする姿勢、目標を掲げることなのです。帰依とは仏様に学ぶことです。

私たちには沢山の願い、人生の夢、目標があります。それらの先の先に、いつでもお釈迦様のさとりがあると意識して生きるのが仏教徒としての生き方であるといえます。私たちが、亡くなった方に成仏を願い、法事では何回忌の菩提をと願うのも、私たちが帰依する仏様のところ、私たちにとって最も善いところに逝って下さいということなのです。

そして、そう思えれば、朝仏壇に仏飯を差し上げるという行為も、自分の理想とする仏様に差し上げるありがたい行為となります。ありがたい功徳になるということなのです。
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いかがでしょうか、いろいろと申して参りましたが、ここまで、私たちの日常している仏事に関する項目について一緒にみて参りました。

帰依する対象である仏様のところに近づいていくために必要なのが功徳であり、帰依するためにはその対象である仏様のことをやはり知らねばならず、また、私たちが生きること死ぬこととはどういうことかを知ることによって、はじめて私たちにとって、それはより切実な意味あるもの、人生の課題となるのです。

仏教徒のシンボルである仏壇を護り、毎朝仏飯お茶湯を差し上げて供養している皆様は、是非、仏様を自分の人生の中に、きちんと位置づけるということ。言い換えますと、仏壇の仏様やお寺の本尊様と自分とが深く関係した人生を生きているのだとお気づきいただけたらありがたいと思います。

私たち日本人は、仏壇という装置(ハードウエア)、仏事という仕組み(ソフトウエア)によって、ご先祖様からずっとつながっている人生を生き、その先には理想の存在として仏様がおられるという人生観を養い、こころの安寧を得てきたのだと思います。

ですが、いまどうでしょうか。先ほども申しましたが、葬式は要らないとか、直葬とか、墓じまいと言われる時代です。この先私たちの子供たちが糸の切れたタコのように、ご先祖様からの恩恵を受け取ることなく、心不安定にさせられる日が来るのではないか、もう来ているのではないかと懸念いたしております。そのことを防ぐためにも、今一度今日申し上げたことの意味を反芻していただき、ご家族にも説いていただけたらありがたく存じます。
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それでは、最後にもう一つお願いですが、できましたら、朝、仏壇にお供えしてお参りしたら、すぐに立ち上がらず、少しそこに静かに座ってみて欲しいのです。一番上におられる仏様のように、その幸せそうなお顔や落ち着いたお姿の真似をして、すがすがしい気持ちになって、何も考えずに、呼吸に意識を置いて座ってみて下さい。呼吸に意識があるということは今という瞬間に生きているということです。これは、仏教のとても大事なポイントとなるものです。

朝ご飯の用意やら忙しいかもしれませんが、少なくとも十分くらい座ることをおすすめしたいと思います。仏様の真似をして幸せな気持ちになって10分間の仏様になる。一日気持ちよく過ごせます。そして、毎日毎日の積み重ねによって心清らかな幸せを実感されることと思います。

実はそうして、仏様に、ほんの少し近づいていくことで、日常感じる悩み、ストレス、苦しみが、すっと軽くなり、イライラしたり、クヨクヨすることもなくなります。仏様に少し近づくだけで、とてもすばらしい御利益があるということなのです。

冒頭で申し上げた、西洋の人たちが本気になって座禅や瞑想に取り組んで求めているものも実はそういうものなのです。彼らは、スリランカやタイ、ミャンマーでお坊さんたちがしているのと同じ、さとりのための座禅瞑想に励んでいる過程で、既に様々な心の解放を味わい、鬱病から回復したり、精神障害が消えてしまったり、ビジネスのために役立てています。是非皆様も励んでいただきたいと存じます。

それでは、最後に、プリントに、法句経という最も古いと言われるお経をいくつか紹介してあります。簡単に言うと、善いことをしたら良い結果があり、幸せになれる、人間ですからたとえ何か悪いことをしても、より多くの善きことによって償えばよい。そうして、心を浄めて、最高の幸せであるさとりに至れ、ということです。仏教の教えのエッセンスと言えるかと思います。

インドの仏教徒たちも、過酷な気候、環境の中で、みんな何回生まれ変わっても、仏様の所に行くことを目標に、小さな功徳を積む人生を一生懸命に生きています。

仏教徒である皆様も、仏様の所に近づいていく人生を生きているのだと思って、日常の小さな善行に、幸せを感じて、心晴れやかに日々お過ごしをいただきたいと存じます。

学び、そして、たくさんの徳を積み、お寺を大切に、益々ご精進いただければありがたく存じます。本日は誠にありがとうございました。
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<資料> しあわせに日々生きるために(26/10/28)

一、四苦八苦の人生
○生・老・病・死=四苦
 四苦+愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦(五取蘊苦)=八苦
○仏教は人の一生に適合、洋の東西を問わず、すべての人に役立つ教え

二、海外で注目される仏教
○ヨーロッパ百万人、アメリカ三百万人の仏教徒人口。
 今日、欧米で仏教の瞑想が、鬱病など精神医学の分野に活用され、
 アップル、グーグルなど大企業の幹部研修に採用され人気あり。
○アメリカの宗教心理学者デニス・クラス氏、日本の仏事を高く評価し西洋社 会に紹介。仏壇を人類の貴重な(精神的な)資源と評した。

三、私たちにとっての仏様 
○日本仏教、約1500年の歴史あるが、今その真髄(エツセンス)を味わっているか?
仏教は、葬式法事など仏事のためとの固定観念から、その形だけを継承して きたのではないか。身近なところから本来の意味を検証してみましょう。

○仏壇とは、仏教徒の証、シンボル、心の安らぎの場
○仏壇の本尊様とは、お釈迦様のさとりの智慧を分け与えられている
○お釈迦様とは、紀元前5世紀に実在した聖者、無師独悟、29・35・45・80
○さとりとは、一切の煩悩が滅し、生存欲も無く、とても清らかな心の状態
○仏様とは、最高の幸せを味わっている人、私たちの理想像
○死とは、体と心の分離、来世への旅立ち
○法事とは、功徳を積み、精霊を含む一切の衆生にその功徳を手向ける善行
○功徳とは、善き来世のために不可欠な善行とその果報
○礼拝とは、敬う気持ちを形に表すこと
○帰依とは、仏様を人生の最高の理想として生きることを表明すること
 仏様を私たちの人生の中に位置づける
 仏壇という装置(ハードウエア)と仏事という仕組み(ソフトウエア)によって、ご先祖様とつながった人生を 生き、その先には理想の存在としての仏様がおられるという人生観を養い、心の安寧を得る生き方 
「一日十分の仏運動」毎朝十分、仏壇前で静かに呼吸を意識して((今という瞬間に生きる))座って下さい
□法句経(Dhammapada・渡辺照宏訳)□
○善きことをなせる者はこの世にて喜び、死後にも喜び、いずれにても喜ぶ。
  己の行為の清らかなるを見て、喜び楽しむ。(法句経16)
○すべて悪しきことをなさず、善きことを実践し、
   自己の心を浄むること、これ諸々の仏陀の教えなり。(同183)
○たとえ悪しき行為をなすとも、善にてこれを償わば、
   よくこの世間を照らす。雲を出でたる月のごとし。(同173)
○健康は最上の利益、満足は最上の財産、
   信頼は最上の親族、涅槃は最高の安楽なり。(同204)


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