住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
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四国遍路行38

2015年11月02日 19時11分28秒 | 四国歩き遍路行記
根来寺を後にして、次なるは四国第八十三番一宮寺に向け歩き出す。五色台みかん園から、車道を一時間ほど歩くと鬼無の駅が見えてきた。

駅前のよろず屋でパンを買い食べる。食べながら家に手紙を書き、駅前のポストに入れた。小さな駅だが、ロータリーの周りに新しく草花を植え整備されていた。さらに車道を歩いて香東川を渡って、一宮寺へ。

一の宮・田村神社の大きな鳥居の前から左に出ると一宮寺の仁王門が見えてきた。

一宮寺は、もともと奈良仏教隆盛の基を開いたとされる義淵僧正が奈良時代初期に開創したといわれ、当時は法相宗に属し、大宝院と称していた。

義淵は唐に留学して沢山の経典を持ち帰り、光明皇后に仕えて後に國分寺制や東大寺を創建する知識を授けたと言われる玄や國分寺の境内にも祀る行基菩薩の師にあたる人である。

後にその行基がこちらに来訪して、堂宇を建造し、田村神社の別当職となり一宮寺と改称した。

そして弘法大師が大同年間に巡錫の折に聖観音菩薩を刻み本尊に据えた。戦国時代には、この一宮寺も長宗我部元親の兵火にかかり、灰燼と化し、後の住僧らによって再建したという。

正面に進み、本堂でゆっくりと理趣経を一巻、そして、多くの燈籠が吊された大師堂の中に入り、香の香りに包まれながら心経を読み上げた。

どこからともなく子供たちの遊ぶ声が聞こえてきた。一宮寺はどこからがお寺なのかがわからないような敷地の中に堂宇が点在する。わざとそのような設営なのかもしれない。神社からお寺へと広々とした空間が広がる安らぎの中で楽しそうに子供たちが賑やかにするのは何ともいいものだと思えた。ゆっくりしたかったが、先を急いだ。

第八十四番屋島寺までは、十四キロほど。四時間はかかるだろうか。ひたすら車道を歩く。作り始めの高速道路の高架の下を通り、高松の賑やかな街中を歩く。なるべく下を見て歩いていたが、高野山讃岐別院という看板があった。

このときには立ち寄らなかったが、この翌年に遍路したときには丁度夕刻にさしかかり、一夜の宿を願い、名乗ったところ、高野山の師匠に電話をされて、なればどうぞと客間に案内され、かえって冷や汗をかくことになった。

しかし、翌朝本堂でお勤めをしてから賄いのおばさんが昼食を用意してくれたので食していると、そこへ、総代で弘法大師の著作もある中橋健氏がお参りに来られ、折良く、光明真言を二百万遍唱えた話やいろいろと弘法大師信仰についてご教示賜ったことはさすがに有り難い遍路の功徳と思ったことである。

このときには、ただひたすら前を通り過ぎ、琴電の踏切を越えて屋島寺への道を急いだ。山道に入ると、蛇腹の道が続く、小さな祠や地蔵が所々に現れだしたら、屋島寺の入口にさしかかっていた。

屋島寺は、唐から日本に正式な授戒作法を伝えるために、国禁を犯し五回も渡航に失敗した末に、十一年も掛けて来朝した鑑真和上が、太宰府から奈良に入る途中、天平勝宝五年(753)に立ち寄られて屋島の北嶺に普賢堂を建てられたことに由来する。

後に弘法大師が、弘仁六年に訪れて、北嶺から南嶺にお寺を移して本堂を建立、千手観音を刻み本尊とした。慶長十六年、元禄二年、そして昭和にも解体修理が施された、本瓦葺きの本堂は、現在、国の重要文化財となっている。

柱が白くなった本堂前で理趣経一巻、そして、大師堂に参る。

源平の合戦の地でもあり、また瀬戸内海が見渡せる風光明媚な高台でしばしのんびりしたいところであった。が、多くの観光客で賑わっていて、なぜか場違いな雰囲気を感じ、隠れるように遍路道に入り、八栗寺へ向かう。

屋島ドライブウェイを横切るあたりで振り返ると、まさに屋根のような屋島の地形が目の前に迫っていた。

途中、清盛の娘建礼門院の子で壇ノ浦で平家一族とともに入水した安徳天皇を祀る、安徳天皇社の前を通り、八栗寺登山口手前あたりで暗くなりかけ、丁度土手下にあった遍路宿にやっかいになることにした。


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コメント (5)
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