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住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

西洋世界の仏教への目覚め

2025年06月17日 19時43分39秒 | 仏教に関する様々なお話
西洋世界の仏教への目覚め



幕末から明治にかけて、大きく変わっていく時代の様相は、決して日本だけの話ではなく、西洋世界でも同様であった。世界は大きくリンクしているのである。ご存じの通り、イギリスでは17世紀半ばに市民革命がおこり、18世紀後半には産業革命が起こり進展していく。1776年にアメリカが独立し、1789年にはフランス革命がおこり、その後次々と近代国家が成立していった。そして帝国主義と言われる時代になると西洋列強が領土の拡大と経済的な利権の獲得のために植民地を求めて劣った国々に進出した。

インド世界では、東インド会社が拠点となりイギリスのインド経営が進み、フランスを抑えて実質的にインドを支配していく。はじめ胡椒や香料からスタートした東インド会社ではあるが、その後インド木綿や茶が加わり、商業から恐喝、略奪に近いものに変じていったとされる。1757年にベンガル地方のプラッシーで現地土着の太守の争いが起こると、それにイギリスとフランスが援軍しイギリスが勝利したことで、徴税取り立て権を獲得。そして次第に領土と治政権まで奪われていく。そうしてベンガルからビハール、オリッサの軍事的支配を獲得して植民地経営者となり替わっていったという。

そして丁度百年がたち、1857年におこった南インドを除く、インド亜大陸全体に及ぶ広大な民族運動であるセポイの反乱により、結果的に英領インドが完成してしまう。蜂起した民衆がデリーに詰めかけ皇帝のもとに集結し、一時ムガール皇帝はイギリスに奪われていた統治権を取り戻す。しかしそのあと、イギリス軍のデリーへの総攻撃によって皇帝は捕らえられ、インド全体の統治が成立。直接インド政府による植民地支配、つまりイギリス領インド帝国が誕生する。
 
実は皮肉なことに、このインドが植民地になることによってヨーロッパを中心とする近代の仏教学が花開くことになる。1784年、つまりプラッシーの戦いによって得たベンガルの徴税権や行政的な諸問題のために設けられた最高裁判所の判事に任ぜられたサー・ウィリアム・ジョーンズなる人物がインドに到着すると、まもなく彼はアジアの学問、特に言語、歴史、古代文化に関する広い知識を得るために「アジア協会(The Asiatic Society)」を組織する。

そして、ここでのインド言語の研究により、当時ギリシャ語とラテン語に限られていたヨーロッパの言語研究は近代の学としての言語学の成立へと向かう。この言語学の成立にかかわったインドの言葉はサンスクリット語とパーリ語であった。インド古代・中世の文献ないし大乗仏教の文は、「作られた言葉」を意味するサンスクリットで書かれているものが多いが、原始仏教の文献である三蔵は自然発生的俗語であるマガダ語系の言葉で伝えられ、それがセイロンにいたり、パーリ語として調えられた。因みに、パーリとは聖典という意味である。
 
そして、1826年頃、ブライアン・ホジソンという人がネパールにて大量のサンスクリット仏典を発見し、ブリティシュ・ミュージアムにその半分を収め、残り半分を研究のためにユージン・ビュルヌフ(1800-94)に托したという。この人はフランスの東洋学者で、コレージュ・ド・フランスのサンスクリット講座の教授となる人である。1845年には、西洋における仏教に関するまとまった最も早い著作である『仏教史序説』を著した。

この人の弟子にドイツ生まれのマックス・ミューラー(1823-1900)があり、東洋諸国に残る主たる古聖典の集大成となる『東方聖書』の編纂事業をなした人である。そして、オックスフォード大学の言語学の教授となり、グラスゴー大学では宗教学を講じた。この人は東本願寺の学僧南条文雄師や髙楠順次郎など幾人かの日本人学者を育て日本にとても縁の深い人でもある。
 
パーリ語の分野では、セイロンへ司法官として赴任し、その間にパーリ語を学んで、イギリスに帰って学者の道に入ったリス・デヴィッズ(1843-1922)が第一人者である。彼は、ロンドン大学などでパーリ語を講じた。そして、1881年にオルデンベルグらとともにパーリ聖典協会(pali text society)を設立、会長となって、パーリ三蔵経典の校訂刊行がなされ、それらすべての英訳も成し遂げた。オルデンベルグ(1854-1920)はドイツのインド学者で、リグ・ヴェーダ研究の第一人者であり、かつパーリ語聖典の特に律蔵を研究した人である。
 
こうして言語学としての好奇心からブッダその人と教えや教団について関心が移り、その他ウパニシャッドやヴェーダ文献などインドの宗教への興味が欧州にてもてはやされるようになっていった。十九世紀後半にはショーペンハウアやニーチェら哲学者が、仏教は神への信仰によることなく人生の苦について道徳実践によりその解明を説く現実的実証主義的なものであると言及。1879年には英国人エドウィン・アーノルドが『アジアの光』と題してブッダの生涯と教えについての長編の叙事詩を刊行し百万部を超える大ヒットとなった。また1893年には、シカゴ万国宗教大会においてヒンドゥー教、仏教など東洋の宗教が高い評価を受けた。

中国経由の漢訳仏典によって仏教を語っていた日本の仏教も、こうした近代の仏教学を学ぶ多くの日本人学者たちが現れ、明治後半以降は、もとより大乗仏教が優れたものと思い込み原始仏教を小乗と貶称してきたわが国の仏教の捉え方が大きくかわる時代となっていく。

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雲照律師という人

2025年06月16日 16時41分04秒 | 仏教に関する様々なお話
雲照律師という人




明治時代全般を通じて、僧界を見わたすに、行誡上人と雲照律師が「仏教界の二大巨星」であるという言いかたがなされる。また、「明治の三傑僧」といえば、行誡上人、雲照律師に宗演老師であるという。

行誡上人(1809-1888)は、幕末から明治時代に活躍した浄土宗の僧で、仏教学者、歌人でもあった。明治維新期に神仏分離や廃仏毀釈で混乱した日本仏教界を指導し、僧侶はまず自戒内省して仏僧本来の面目に帰ることが必要であり、広く他宗の教えを学ぶ兼学を提唱した。傳通院、増上寺貫首として、縮刷大蔵経の刊行にも着手。「仏法を以て宗旨を説くべし、宗旨を以て仏法を説くなかれ」と誡められた。

宗演老師(1859-1919)は、慶応義塾に学び、セイロンの僧院に3年間滞在、帰国後32歳で臨済宗円覚寺派管長となり、シカゴ万国宗教大会に日本代表の一人として出席した。弟子の鈴木大拙に禅籍の英訳をさせ、その後自身も渡米して、諸大学で禅を講じ、米大統領とも世界の平和について対談した。その後の海外での禅ブームの先駆をなした。


釈雲照和上(1827-1909)は、その学徳と僧侶としての戒律を厳格に守る生活姿勢、そしてその崇高なる人格に山県有朋、伊藤博文、大隈重信、沢柳政太郎など明治の元勲や皇室の方々、学者、財界人などが帰依し教えを請うたという。殆ど生き仏のような感じを一般に与えていた。眉毛が長く眼光鋭く人を射り、烈日厳霜の如き風貌の方、近づきがたい人との人物評(『一滴の水』壬生雄舜著昭和16年)もある。そして、世の人は畏敬の念をこめて「雲照律師」と呼んだ。

僧侶の呼称としてはむかしから和尚、和上、上人や聖人などとあり、現代では方丈さんとかお住持さん、住職さん、院家さんといわれる。江戸後期に今釈迦と言われ賞された高僧慈雲は尊者と呼称され、より遡れば奈良時代の僧行基には菩薩が好まれて使われる。だが、雲照和上にはやはり律師と当時多くの外護者たちからも呼ばれたようであり、ここでもその生き様をそのままに伝え、教えをわずかでも継承する立場から尊敬と親しみをこめて律師と呼ばせてもらうことにする。

そもそも律師とは、仏教世界の僧としての行儀・戒律に堅実な徳の高い僧のことである。雲照律師は特別な儀式を除いて普段は木綿の衣を着し、毎日の食事は一食。朝は七時にカルルス煎餅三枚とお茶一杯、昼前に納豆汁と煮豆など質素な菜食を摂ると正午過ぎには一切固形物は口にされなかったという。外出先で昼食が正午過ぎに出されたりすると戒律に従い箸をとることはなかったと言われている。晩年はたった二時間の睡眠しか取らず、午前2時から6時間から9時間もの修法をつづけられた。
 
だから明治38年に雑誌『ホトトギス』に連載された夏目漱石の小説『吾輩は猫である』にも、こんな具合に律師の名前が登場する。 「…その静岡第一の呉服屋の番頭が甚兵衛といってね。いつでもお袋が三日前に亡くなりましたというような顔をして帳場のところに控えている。甚兵衛君の隣には初さんという二十四、五の若い衆が坐っているが、この初さんがまた雲照律師に帰依して三七二十一日の間蕎麦湯だけで通したというような青い顔をしている。初さんの隣が長どんで…」と。何の説明書きも無く名前が登場しても理解されるほど、既に当時知名度も高かったということだろう。
 
雲照律師が生きた、江戸時代幕末から明治にかけて時代は大きく様変わりをしていく。幕府の権威は失われ、明治維新によって世の中の制度や人々の暮らしが変わっていくが、それは僧侶の世界でも同様であった。幕府の官吏と化した僧侶たちは安逸を貪り地位名誉を競い酒色に耽っていたと言われている。今日お寺には家族があり、当然のことながら妻帯していることに何の不思議も私たちは感じていない。だが、江戸時代までは僧尼令により厳しく僧の異性間交渉は犯罪として取り締まれ、遠島や晒の上破門とされていた。

そうした事情が変わっていくのもこの時代のことであった。もちろんそれは江戸時代が特に寺院をキリシタン禁制のために、寺檀制度によって、すべての国民が地元の寺院の檀家とならねばならなくなった。そして、お寺は今日の役所の住民課さながら、「宗旨人別帳」という、過去帳ならぬ現在帳でその家の家族構成から経歴まで把握した。婚姻や引っ越し、出生、通行手形の届けから臨終時の引導までお寺に担わせていたので、お寺や僧侶にも厳しく戒律の遵守を課したのであった。

そもそも、戒律は如来正法の命根であるとされ、まず守るべきものであり、その上で教えあり修行あり証果ありとなる。戒とは一般に僧として仏教の教団内に所属する際に守るべき基本的な倫理事項のことで、一般の在家の仏教徒でも五つの戒(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒)がある。出家しても二十歳に至らなかったり、正式に僧侶となる前の見習い期間には沙弥の十戒(不殺生・不偸盗・不淫・不妄語・不飲酒・香を塗ったり装飾をつけない・歌舞音曲を避ける・大きな立派なベッドに寝ない・正午以降固形物を摂らない・お金や財物に触れない)を守る必要があり、正式に僧侶になるときには二百五十戒というさらに沢山の数の守るべき条項がある。そして、律とは、教団内で取り決めた生活規範で、儀式、行事に関する規定のことである。
 
その戒律が幕末から明治にかけて大いに乱れ、幕府の官吏として安逸に暮らし、幕府の眼が届かなくなった幕末には、名聞を誇り奢り酒色に耽る僧侶が多きを数えたと言われる。そうした中にあって、一人雲照律師は、決然と世間の流れに抗して釈迦直伝の戒律をもって身を正し、修学に勤しみ、修禅観法に徹しられた。そして、明治の世になると一人宗門のために立ち、政府勅使をも恐れずに抗弁を垂れて誤りを正し、己の信じる仏道をひたすら説いてその本道を歩き通された。さらにその後、宗派を離れて一仏徒として護法運動に一生をささげられたのであった。

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雲照律師との縁

2025年06月14日 19時15分41秒 | 仏教に関する様々なお話
雲照律師との縁 




そもそも私が僧侶の道を志したのは、40年も前のことになるが、精神世界の話を大学生の頃からともにしてきた友人から、ある雑誌に「日本一小さなお寺」と紹介された東京都東大和市観音寺の話を聞いた。私は、早速東大和市役所に電話をしてお寺の電話番号を聞き電話をした。直ぐに来なさいと言われ、その日のうちに東京の東の端から西の端に向けて、電車で2時間も掛けてお訪ねしたのであった。

自宅を改造されてお寺を建立された御住職浅田哲彦師は、大学は仏教科をお出になられたが一度金融機関にお勤めの後高野山に登り僧侶になられた方だった。ご自身も在家からの出身だったこともあり、そのときとても親切に、また丁寧に僧侶になる手ほどきをしてくださった。直ぐにでも僧侶になりたかったが、親の反対もあり、それから、3年ほどを要した。

その間に年末年始の休暇を利用して高野山の塔頭寺院に宿泊し、雪の降る奥の院を訪ね、また専修学院の様子を拝観した。その後両親の理解も得られ、観音寺の浅田師より師匠の寺に当たる新宿区西早稲田の放生寺五島祐康住職を紹介いただいた。そして、さらに放生寺様のご紹介で、昭和60年高野山高室院齋藤興隆前官様に弟子とさせていただき全雄という僧名を授かった。そして、26歳の時、昭和61年6月に高野山大学の集団得度式に加えてもらって、阿倍野竜正金剛峯寺座主戒師のもとに出家を果たした。そしてその翌年4月には専修学院に入学するべく、10月末にはサラリーマンも辞して準備を進めていた。

そうした頃のことであった。昭和61年11月15日、東京沼袋の明治寺住職草野栄龍師が急逝された。観音寺の浅田師と明治寺の副住職栄應師が高野山専修学院の同期であった御縁から親しくされており、そのとき後学のためにと私も密葬の通夜葬儀に連れて行かれたのであった。もちろん式衆の後ろに付け足しのように座らせていただく随喜参列である。常用経典の読誦も習いたての身であったのに、誠に申し訳なく肩身の狭い思いもあったが、今思えばそれは大変な御縁の繋がりの始まりだった。

実は、亡くなられた栄龍師は、雲照律師が明治20年に建立された那須野雲照寺住職を兼務され、当時真言宗東寺派管長でもあられた。そのため、通夜葬儀には遠方からも多くの高僧が参列されておられたのだが、その密葬に集まられた方々は皆明治の傑僧・雲照律師に縁深い方々ばかりなのだと浅田師からうかがった。それからというもの、誰からともなく、この偉いお坊様がどんなに有り難いお方だったのかという知識が自然と充填されていった。

その後私は専修学院で一年を過ごし、昭和63年高野山専修学院を卒業した。そして、西早稲田放生寺の役僧として勤める間に、浅田師から教えられたのだと思うが、湯島の中山書房仏書林という仏教書ばかりを置いている書店であり、また出版も手がけている本屋さんを訪ね、度々本を買いに通った。そして、店主の中山晴夫氏から、東大前の山喜房仏書林で丁稚奉公した話など昔話をよく聞かせてもらった。そんなこともあったからか、高価な草繋全冝師著『釋雲照』三冊を買うと、それからしばらくして中山氏から、大覚寺本の『雲照大和上伝』(草繋師著)を寄贈された。

また、放生寺で役僧を務めている間に、浅田師と同じく放生寺先々代哲雄師の弟子となる倉敷宝嶋寺釈子哲定院家をお訪ねしている。通された客殿には雲照律師の肖像画があり、明治7年頃から雲照律師が住職を勤められたお寺である。そして院家様からは雲照律師にまつわる様々な逸話をその後度々お伺いさせていただくことになる。また高野山で高室院に滞在していた頃の友人僧を訪ねて栃木県黒磯に行った際に、なぜか那須野雲照寺に連れられていかれ、御住職より『雲照寺の百年』という記念誌を頂戴し、雲照律師像も拝ませていただいた。

そして、その後、私は東京で托鉢をしながら生活し4月には四国遍路を歩いた。その四国では石手寺で「雲照律師供養塔」を礼拝し、十夜が橋の橋の下に律師の名前の刻まれた石碑を拝んだ。そして、縁あってインド・コルカタのベンガル仏教会で再出家して上座仏教比丘としてインドと日本を往来する生活を3年半ほど過ごす間に、律師の甥興然師がセイロンで日本人初めての上座仏教比丘となられていたことを知る。捨戒して帰国後、やはり3年ほど居住した東京深川の冬木弁天堂の堂守時代に宝嶋寺院家様の仲介をいただき備後國分寺に入寺する。

そして、実はここ備後國分寺の先々代住職の猪原泰雄師は、雲照律師からの正法律の系譜に連なる人なのであった。泰雄師師は昭和初期に大覚寺門跡や高野山管長を歴任する福山市草戸明王院院家龍池密雄師の高弟であり、昭和9年密雄師遷化後明王院に晋山している。神辺町道上出身の龍池密雄師は、雲照律師から正法律を受けられおり、生涯持戒堅固な清僧であったことは夙に有名である。師匠のなされたとおりにするというのが口癖だった泰雄師も、妻帯せず律僧を貫き、生臭は口にされなかったことでもよく知られている。

さらに備後國分寺の現在の本堂は、元禄7年に再建されるのだが、中興一世となる快範師は、晋山する前に住職であった福山市芦田福性院を辞して國分寺再建にあたってくれたのだが、その福性院で明治27年得度した、神辺町の隣町加茂町出身の草繋全冝師は、明治31年宝嶋寺に開設された雲照律師創設の連島僧園で2年間学んだあと、明治35年東京の目白僧園に入学して雲照律師の薫陶を受けられている。律師遷化のあと、先に述べた『釋雲照』を上梓され、高野山などの重役を歴任後、戦後國分寺の本山でもある京都の大本山大覚寺の門跡、真言宗大覚寺派の初代管長になられている。

今この備後國分寺に住する私は、誠に僭越ながら、以上のように、いくつもの雲照律師とのご縁を感じるのである。
 

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戒名とはなにか

2025年05月01日 17時03分32秒 | 仏教に関する様々なお話
戒名とはなにか




いま私は生まれたときの名前と、苗字も下の名前も違う名前で生きている。各宗本山などで出家をし僧名を授かり度牒というものをいただくと、度牒証明書を発行してくれる。それを家庭裁判所に提出すると、戸籍の名前が僧名に変更される。

こちらに来てから先代に催促され、家裁に度牒証明書を提出して戸籍の名前が換わった。ただ、その時はまだ苗字はそのままだった。そのあと、先代がやはり養子になってもらうと言い出されて、これで苗字も換わって上も下も換わってしまったのだ。

本来戸籍の名前というのは、そう簡単には変更できない。先の戦時下で首相をされた広田弘毅さんは親のつけてくれた名前が気に入らず、わざわざ出家されて仏門に入り改名した人だった。

過去には戦国時代に活躍された武将の中には、信玄、謙信など出家をされて僧名で世に知られている人も多い。常に死と隣り合わせにある時代に、死を覚悟して日々真剣に生きるという意思表示だったのだろうか。

そこには、出家して俗世間を離れ霊験を得たいという思いもあったかもしれないが、当時すでに天皇皇室の方々が生前に出家をされたり、死の間際に出家をしたり、間に合わず死後出家をしたことにして、野辺の送りをするということが、最高の葬送だったことと無関係ではないだろう。

つまり僧になって名を改める、それは戒名を受け戒律を授かり生き直す、さらにはいつ死んでも後悔などすることなく、潔く逝くことを意味していたのであろう。僧として逝くことで、確かなところ、善きところに、つまり仏の道を歩むという迷いない道しるべとして出家があったのではないか。それが最高の身罷り方だったということだろう。

しかし、これは死に方について特別こだわりを持つ、非常に日本人的な発想からきているではないかと思う。実は他の仏教国では仏教徒が亡くなったからと戒名をつけて葬るということはしない。どんなに在家の戒を守り修行したとしても、若いときに一時出家をしたりしても、一度捨戒して一般人になったら、俗名のまま葬られる。

インドの僧院にいるころ、よくニマントランという仏教徒の家にお呼ばれして行ったものだが、昼食のもてなしのあと、短いお経を唱え帰ってきたが、仏像や仏画はあるが、戒名がないわけだから位牌のようなものはなく、食事したその場でお経を唱えた。

因みに法事はきちんとなされていて、亡くなって初七日、半年、一年目、二年目などになされている。そのときはサンガダーンと言って、必ず四人以上の僧が招かれ、先にお経を唱え法話があり、施主らが大きな金属のお盆に水を注ぎ、その間短い偈文を唱え功徳を廻向する。そのあとすぐにその場で昼食が振る舞われるが、お経よりも施食に重きを置いているようだった。

脱線ついでに、今日インドの仏教聖地の復興を成し遂げたスリランカのアナガリカ・ダルマパーラという方がおられたが、この人はアナガリカという、仏教のために仕事をする在家居士のまま晩年まで過ごされた人だった。しかし、亡くなる三ヶ月前に出家して比丘となり袈裟を纏ったまま亡くなっている。

これと同じようなことを日本でされたのが平安中期の公卿・藤原道長であり、やはり亡くなる八年前に出家して僧となり、彼は自ら九体阿弥陀堂を本堂とする大寺院を建立し、死ぬ間際には阿弥陀如来の手に結び付けた五色の紐を握りつつ、多くの僧に読経させ自らは念仏を唱えつつ亡くなられたという。

一般在家の人が亡くなって略式の得度式を執り行い戒名を付けて葬るというのは日本だけの作法だが、いまに至る歴史背景があり存続しているのだろう。天皇皇室のなされてきたことを一般庶民もそれに倣い行われるようになってきたのである。江戸時代に、寺檀制度によって、すべての国民が仏教徒となって寺院の檀家になるよう強要され、亡くなれば当然のように戒名をつけ引導を渡された。さらに明治になり神道国教化となって一時神葬祭がなされた時期もあったが、その後仏事に関することは寺院が分担することとされて存続した。

そして、戦時下では、英霊には特別立派な九文字の戒名が本山から授与され、戦後亡くなった祖父母方は英霊の戒名にならって長い戒名が付けられることが一般化した。昭和から平成、令和の時代になっても、未だに、江戸幕府のキリシタン禁制から発せられた民衆統制のために制定された寺檀制度がほぼ継承されてきている。何の縛りがなくても続いているということは、それが日本人にとって一番相応しい、しっくりくる作法だということなのかもしれない。

決して悪い習わしではない。普段あまりお寺に出かけないような人であったとしても、亡くなるときにはきちんと戒を授かり俗名を捨て名を改めて生き直す、生まれ変わる作法として意味ある儀礼なのだと言えよう。願わくは、その意味をよく了解して受け入れていただければ有り難いと思うのだが。



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仏飯御茶湯の効用

2025年04月26日 13時17分16秒 | 仏教に関する様々なお話
仏飯御茶湯の効用




毎朝、鐘をついて仏飯、御茶湯を三十数ヵ所差し上げ、燈明お線香を灯しお勤めする。5時に鐘をついて、お勤めが始まるのが5時25分。もうこれを毎日、土日祭日なく25年間続けているだろうか。午後にはそれらを下げて、香華など明日のお勤めの準備をするのは、毎日の日課。

皆さんも仏壇にお供えしお勤めされていると思うが、皆さんのご家庭でも何十年と続けられていることだろう。勿論御供えは仏飯御茶湯に限られたものではなく、常に花は勿論、果物や饅頭などもあがっているとは思うが。

毎日換えられるのは仏飯御茶湯であろうか。毎日毎日、なんで御供えするのだろうか? 習慣になり、何でなどと考えることもないかもしれない。お母さんに言われたとおりしてきて何の疑問も感じずにしているかもしれない。

四恩という言葉がある。様々な解釈があるようだが、一般には父母・国王・衆生・三宝の四つとされる。だから、まず第一には私たちが恩を感ずべき対象である亡き父母への供養のためということもある。

お釈迦様は、善き人、良識ある人の立場とは、自らの恩恵に気づいている人だと言われた。自らがいまこうしてあるのは誰のお陰か、何によっていまにいたっているのかと、考えたとき、いまは亡き先祖、御縁有った人々ということになろうか。お寺では先師、歴代住職、そしてお寺を守ってきてくれた檀信徒、その先祖代々、そして本尊様、仏様方ということになる。

そうした皆様に、毎朝少しずつの仏飯ではあるが、今あることの感謝の気持ちを顕す、今あるのは自分たちの力でなどないのだと確認する意味でも大切な行いであろう。

そうして行う功徳が自らの善業となりよい未来をもたらし、よき家族身内の幸福繁栄をもたらすということになる。

報恩謝徳という言葉があるが、それは単に対象となるお世話になった人や神仏に対するばかりか、四恩の中に衆生とあるように、ありとあらゆるものたちのお陰でいまあることへ思いをはせ、感謝を捧げることを含むのではないか。とても幅広い意味として受け取るべき言葉であろう。

つまり、この言葉からは、生きとしいけるものがよくあって欲しい、幸せでありますようにという思いが自然と湧いてくるものであろう。そこには国や人種や宗教も、年も性別も関係ない、人も動物も昆虫も微生物も、化生も、あらゆるいのちがよくあって欲しいそういう差別のない思いを作る言葉であるとも言えようか。

家に仏壇や神棚がない方もあるだろう。それでも、日々先祖や亡き父母に感謝の気持ちを表すために、何かお供えするような習慣はあった方がよいだろう。家に祀るものがなければ近くのお寺神社に詣るとか、仕事の合間に通りかかった寺社に参ったり。

昔親兄弟を立て続けに亡くされた方があって、自然と亡き人たちの戒名を紙に書いて棚に置き、毎朝出がけに手を合わせていたという。それから、そこに何か御供えを置くようになり続けていたら、自然と自分が何かあっても守られていると感じるようになったと言われていた。その方はその後末期のガンにもなるのだが、そのお蔭か奇跡的に最先端の医療者と出会い、痩せられはしたが今も元気に活躍されている。

そんな先祖や周りの生きとし生けるものに感謝するなど当たり前ではないか。そう考える人もあるだろう。また、心で思っていたら良いと言われる方もあるかもしれない。が、やはり形に顕して初めて果報が期待されるものではないだろうか。これからも毎朝の仏飯御茶湯をひとつ一つ大切に御供えさせてもらおうと思う。


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大日如来とは何か2

2025年04月23日 11時06分23秒 | 仏教に関する様々なお話
大日如来とは何か2




同じような話をいくつ書けば気が済むんだと言われそうだが、先月のことにはなるが、大日如来とは何かと話をした際に、皆さんキョトンとされていたのを思い出し、仏さんってどうなのって言う感じで気楽に書きはじめてみたい。

みんな、それぞれに仏さんに対する思いは違い、それぞれ信じられているように、そのままに信仰されるのが本当は一番なのだ。昔チベットのお坊さんが、こんな話をしていたのを今も思い出すのだが。毎日観音様の真言を唱え歩いているお婆さんが居て、頭の上を見れば観音様がずっと見守っておられたという。

だが、そのお婆さんの真言を聞くとどこかおかしい。それであるとき、いやいやそれはこう唱えるのだと間違いを正してあげたら、その正しい真言を唱えながら歩き出したお婆さんの上から、それまでいた観音様の姿が消えていたという話。正しい真言を唱え、それがしっくりとそのお婆さんの真言になっていけばまた観音様が現れるということもあるかもしれないけれども、その人なりのお唱え、仏さまへの向き合い方を尊重すべきということなのだろう。

仏さんとは私たちに救いをあたえ、願いを叶えてくれるものと思い、そこで仏さんとは、形あり実在するものと思ってしまう。だが、もともと仏さまは真理真如と一つになった者のことのことだそうで、お釈迦様は真理真如を発見し、そのものとなられ悟られた。つまり仏とは真理真如のことであり、悟りの智恵であり、それによるご利益、働きのことだということになる。

実在した仏さんはお釈迦様だけであり、お釈迦様はこの世の真理を発見され悟り、それを集まりきたる弟子や有縁の人々に教えた。それが仏教の教えとなっていく。お釈迦様は三法印といわれる仏教の標示たる無常・苦・無我の真理、縁起とも空とも言われる法、真理を発見され、私たちにもそれを見つけられるように教え諭されたのだ。心経に言うように、すべてのものが空であり、空だから存在しているという。

悟った弟子は沢山いたが、そうした事例も含め、仏滅後400年大乗の教えが興起すると、様々な教えが展開して、各々の智恵働きご利益が名前をもらって、沢山の仏菩薩を誕生させ、○○如来、○○菩薩となる。悩み苦しみ困りはてた人がきても、少しお釈迦様の言葉を聞いただけで救われ安心し満ち足りて帰る。そして、その人が亡くなった先まで心配されて一言二言アドバイスされる。そういうお釈迦様の智恵、教え、働きが各々様々な仏さまに姿を換えていったのだ。

誰でも癒されてしまう徳はお薬師さまとなり、観音さまなら人々の心の声を聞いて身近な存在に姿を換えてお救いくださるというように。阿弥陀さんなら、亡くなった信者を救ってあげよう浄土に迎えてあげようという慈悲心が形になったものであろう。そうして、お釈迦様の智恵、教えが、それぞれの仏さんとなる。その様々な仏さんの総体となるのがヴィルシャナ如来、大日如来であり、お釈迦様の真理真如に基ずく教え、その真理の言葉が虚空に満ちていると考え、その全体を体とするもの。

そして、大日如来の真言でもあり、また仏菩薩すべての総呪と言われるご真言に光明真言がある。「オン・アボキャ・ベイロシャノウ・マカボダラ・マニ・ハンドマ・ジンバラ・ハラバリタヤ・ウン」という。これはインドの聖典語サンスクリット語ではあるが、中国に来て漢字で表記され、さらに日本語なまりになった読み方で、本来の読み方は、「オーン・アモーガ・ヴァイローチャナ・マハームドラー・マニ・パドマ・ジュヴァラ・プラヴァルッタラ・フーン」となる。

オーンは、聖なる音で、神仏に御供えをするようなときに唱えられる呼びかけの言葉。アモーガは、空しからざる。ヴァイローチャナは、遍照なる大日如来のこと。マハームドラーは、どの仏さんも特徴的な手の組み方があるけれども、それを印相といい、マハーは大きなという意味で、マハームドラーで大印あるものとなり、偉大なる働きをなす者という意味となる。

マニは、摩尼宝珠という言葉があるように、宝珠のことで、願いを叶え、福寿安楽をもたらすことを意味する。パドマとは、蓮花のことで、蓮のように汚れの中にも穢れなき花が咲くように、世間の中に清らかな仏の心を有すること。ジュヴァラとは、光明のことで、永遠に光り輝く智慧を表す。プラヴァルッタラは、転ぜしめよとの意味で、迷い穢れを転じて悟りに至ること。フーンは、力を込めて祈り願うこと。

この光明真言にある、大印と宝珠と蓮花と光明は、つまり、仏さんとは、偉大な働きであり、宝珠のように願いを叶えて下さり、清らかな存在であり、永遠なる輝く智慧を有するということであろう。光明真言が総呪であることから、これらはすべての仏さんに共通するお徳、特徴とも言えようか。どの仏さん菩薩さんも、そのお姿に表れるように、働きを表す印を備え、願いを叶えてくれて、蓮花に乗り、光背を有する存在なのであるから。

けっして、遠く離れたところにおられるととらえずに、森羅万象も、作られたものも、私たち生きとしいけるものも、こうした仏さん方の働きやその智慧、真理により存在し、その因果応報の真理のままに生きている。つまり仏さんは身近な存在であり、私たちの心の中にあるとも言える。実はそう思って、そう自覚して、そう思えるようになったら、つまり仏さんと実感できたら、それが即身成仏といわれるのだとか・・・。


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四国遍路とは何だろう

2025年04月20日 19時33分22秒 | 仏教に関する様々なお話
四国遍路とは何だろう



先週18日東京のお寺の御開帳法会に参加させてもらいました。一時間ほどの法会のあと恒例の四国霊場のお砂踏みをしました。きれいにお寺の名前が書かれた一尺四方ほどの布団に御砂を入れられ、一番札所から八八番へ、そして最後に高野山の御砂を踏んで結願となる御砂踏み霊場が本堂内陣に特設されていて、参詣の皆様と共に御宝号をお唱えしつつ歩きました。

実は、こちら國分寺でも十年ほど前までは4月の21日にお砂踏みをしていました。本堂内外陣にぐるっと八十八箇所のお砂を置いて掛け軸をその前に取り付けて、護摩供の後皆さんで御宝号を唱え巡っていました。

また、30年も前になりますが、実際に四国を歩いて遍路したのも4月でした。4月の後半から、一度目は36日、二度目は39日かけて歩きました。その間車の御接待なども受けたりしましたから、それがなければ余計に三、四日は要していたでしょう。そんなこともあり、4月になると四国霊場を思い出し、またゆっくり歩きたいと思います。

二度目に歩いて遍路したとき、妙絹尼を愛媛の番外札所・鎌大師に訪ねたことがありました。お四国病で尼にまでなってしまいました、そう言われてました。関東から毎年、春になると四国にきて、公共のバスや電車で近くまで行き、あとは歩いて遍路するという方法で歩かれた方でした。気がつけば尼になり、縁あって鎌大師の庵住さんになられていたとか。

団体参拝のバスや車での巡拝は点を結ぶ巡拝ですが、歩いて巡ると、線となり面や立体として四国のお参りを体感することができます。お大師さんが歩かれた道であり、その前には行基さんや沢山の修験者、数数え切れないお遍路さんたちが修行した道です。そうした古の遍路行者たちの霊気をいまも感じられる遍路道を踏み歩くと、ふとタイムスリップして、現実世界から抜け出したように感じられるものです。

今もお遍路さんは菅笠をかぶり白装束に金剛杖をもって歩きます。バスで巡拝する方々も同様に皆さん白装束で参るのが慣習となっています。これはご存じのとおり、死装束で、杖は途中で息絶えたら墓標にしました。そうした昔からのお遍路さんのスタイルが今に伝わっているのですが、それはどういうことかと言えば、四国遍路とは、つまり生き直す、生まれ変わるための旅だったということです。お大師様への信仰心ばかりか、生きるのに疲れ、人生に絶望し、救いを求めて訪れる人も多かったことでしょう。

だから四国巡拝はいまも絶大な人気があり、人々の関心を失わないのではないかとも思われます。海外からも精神世界に関心のある方たちが歩きに来る場所でもあります。私も以前インドのリシケシで出会った外国の人とばったり遍路道で出会ったこともありました。

遍路道を歩くと、四国の人たちは何かしら御接待として、果物や菓子、飲み物を下さったり、時には小銭をそれらにのせて下さったりします。それは自分ができない遍路を外から来てして下さっているお遍路さんへの、供養であり、賛同する気持ちを添えられています。日常を離れ、四国に来て信仰をもって修行する、遍路する人に対する励ましであり、同じ気持ちをもって生きていることを表すものなのかもしれません。

私たちも時に日常を離れ、自分ひとりになり、ものを考える、人生を振り返る、日頃の我のあり方に思いをはせる、そんな時間が必要ではないかと思います。毎日の生活に埋没して、あっという間に年をとっています。気がつけば還暦をすぎて、年金までもらう年になってしまいます。生きるとはなにか、どういうことなのか、静かに人生を振り返ることも必要であろうかと思います。

旅は誰かと何人かで行きたいと思い勝ちですが、四国の遍路は、特に歩き遍路は一人で参ることをお勧めします。一人になり考える、考えて考えて何も考えられなくなり、ただ足下だけを見て歩く、そうした体験もよいものです。

私ももう一度ゆっくり四国を歩いて遍路したいと思います。




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大日如来とは何か

2025年03月11日 16時27分38秒 | 仏教に関する様々なお話
大日如来とは何か




真言宗の檀信徒の家なら仏壇の上段には、10㎝ほどの大日如来を祀っていることでしょう。胸の前で、左の人差し指を伸ばして、その指を右手の手のひらで包み、人差し指と親指の爪を付けています。どの仏さまも印相といって、両手の組み合わせ方によって、その仏さまの誓願なり御利益を表しています。

インド世界では右手は清らかな手、左手は不浄の手とされていて、箸やスプーンなどを使わずに手を使って食事する習慣のあるインドでは、食べ物を口に入れる手は右手であり、左手は逆に、トイレで用を足して水を掛けて洗うときに用います。大日如来の左手を右手で包む手の印相は、浄と不浄、聖と俗、善と悪、美と醜など二つに分けて捉えがちな私たちの認識の仕方を超えて、すべてを一つなるものとして全体なるものを表しています。

大日如来は宇宙の真理そのものをあらわす仏であり、すべてのもの、自然界も生ある者も皆大日如来の現れなのであるという言い方をいたします。昔そう言われたとき、今ひとつその意味が分からず、途方に暮れたものですが、あるとき高野山の先生にうかがったことですが、お釈迦様は35歳で悟り、それから80で入滅するまで45年間にわたり有縁の人々に向けて法を説かれたわけです。

お釈迦様は睡眠時間は一日二時間、起きて二時間瞑想されて、その日悟れる人が居るとその人の所に現れて説法して悟らせ、訪ねてきた人に法を説き、弟子らに法を説いて、まったく無駄のない、濃密な生涯を過ごされたとされています。その法は、三法印と言われる仏教の仏教たる所以とされる、無常・苦・無我に凝縮されるものであり、そこから展開していく八万四千とも言われる教えでした。

この世の無常なることは誰もが実感することではありますが、自分も含めた、すべてのもの、自然も作られたものも、硬く頑丈に見えるものも、一瞬も留まることなく変化している、それは原因となるものとその条件により、いまそう見えているに過ぎず、常に変化しつつある。それは苦と認識され、不完全な不満足な不安定なものの連続に過ぎない。だから、そのものをそれと認識できるような実体すら見いだせないものであるということになります。

そうした真理のことばを45年にわたり説かれた教えは、ダンマと言われる法であり、教えであり、自然界の法則、摂理、真理そのものであると考え、それは宇宙に放たれ、今も虚空に遍満していると捉えるのだそうです。それは自然、宇宙そのものでもあり、その法則とも見ることができ、私たちを幸せに導く教えであり、その恩恵とも受け取れるわけですが、その全体なるもの、虚空に遍満している教えそのものを身体とする仏が大日如来なのだというのです。仏壇の中の仏さまは10㎝でも、本当の大きさは宇宙大ということなのです。ですから、この世のものはすべて大日如来のあらわれであるということになるのだとか。

ところで、大日如来はインドでの名前をヴァイローチャナブッダといい、漢訳して毘盧遮那如来と言われる仏であり、奈良の大仏も同じ毘盧遮那如来です。そして、奈良の大仏と諸国國分寺の本尊釈迦如来は、華厳経に説く、華蔵思想によるとされています。華蔵思想とは、仏の世界を千葉に開く蓮華にたとえ、毘盧遮那如来はその千の蓮華世界の中心に位置する仏であり、周りのそれぞれの蓮花世界には釈迦如来がいて、法を説いている。それぞれは別々の世界でありながら、互いに相関して存在し、重々無尽にその関係性は続いていて、個々の蓮華世界は全体の縮図であり、そのひとつ一つに変化ある時には全体に変化が及ぶとされます。

こうした思想のもとに都の國分寺である東大寺に毘盧遮那如来を造り、諸国に釈迦如来を祀る國分寺を造っていったわけで、聖武天皇は、それによって日本の国土を華蔵世界そのものに造り換え、争いなく天災のない、人々が幸せに暮らせる日本にしたかったのだと思います。お釈迦様の説かれた教えは、虚空に遍満し、それは無数の仏の世界を造り、今も法を説いている、その全体なる世界を毘盧遮那如来とみて、無数の仏の世界の中心に存在するものと想定されたのだと言えましょう。


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正見ということ

2025年02月21日 16時42分24秒 | 仏教に関する様々なお話
正見ということ


二月二十一日、寒い中早朝よりご参詣ありがとうございます。沢山の添え護摩を書いて下さり、今月も大きな護摩を焚かせていただきました。月一回、お薬師様にご供養の護摩の火で、ひと月の間に心にわだかったものをみんな焼き払ってもらって、きれいさっぱりさわやかな気分になっていただけたことと存じます。

今日は、正見ということについて少しお話申します。お釈迦様の教えに、八正道という、八つの聖なる中道の道という教えがあり、その第一番目に正見という教えがあります。正しい見解、見方ということですが、これは、物事をありのままに見るということで、何か見るとき、聞くとき、先入観なく、固定観念を持たずに、そのものをあるままに見る、事実のみ観察すると言うことです。

昔毎日新聞の佐藤健さんという有名な記者さんがおられまして、その方が臨済宗のお寺に入門する、掛塔という作法についてルポルタージュを書くために、自分が実際にそれを体験されたことがあります。玄関で数日、また部屋に入り数日、本当に入門の意志があるのか確かめられる期間が続きます。その間に様々な思い、怒り、後悔、葛藤が交錯するわけですが、部屋に通され数日して出されたお茶を飲み、小窓から庭を見た時、それまでの思いがすべてなくなり、ただただその庭の美しさに感動したと書いていました。何の思いもなく、ただありのままに庭を観れたということでしょう。

ですが、私たちがしがちなのは、何かものを見るときでも、何か話を聞いても、こういうものという先入観をもって見たり聞いたりしています。出来事や国やその指導者などにも、こういうこと、こういう国というような固定観念、印象を持って見たり聞いたりしているのではないでしょうか。頭に入っている情報の違いにより、皆一人一人同じものを見ても聞いても、みんな自分色に脚色して見ているということです。ありのままに真実を見るということからは、ほど遠い見方を、普段私たちはしているということです。

また、森章司さんという先生がある本に書いていたことですが、戦後間もなくのことで、みんな貧しく南京虫に悩まされていた時代の話ですが、ある人たちが、芦屋のお屋敷町に南京虫の駆除剤を売り歩いたことがあったのだそうです。新聞にも載っていたと思いますが、この度ハーバード大学と東大の共同研究で作られたものでと、亀の甲羅のような化学式を書いて説明すると飛ぶように売れたそうです。

ですが、大阪の長屋に行って同じように説明すると、ハーバードってなんや、東大がどうしたと言われ、南京虫を捕まえてきて試してくれと言われて、まったく売れずに逃げ帰ったのだという、そんな話があったとか。これなどは、正に芦屋の奥様たちの知識、先入観が禍して、そんな大学の研究によるものなら効果があるはずとだまされてしまった訳ですが、大阪の長屋の女将さんは、余計な知識、先入観もなく、その事実だけを見て見分けようとされたという一例です。

ところで、一月には、今年は巳の年で、蛇のように新たな飛躍の年にして欲しい、アメリカの大統領も代わって、世界も平和になり、豊かになっていくと申しました。そうしましたら、後から、何人かの方に、アメリカの新しい大統領はあまり良い人と思えないし、どうなってしまうか不安だと話されました。私の話に違和感があり、不審に思われたようです。

新しいアメリカの大統領に対する、先入観は成り上がりの不慣れな政治家、奇抜なことをする何をするか解らないというような、日本の新聞テレビからの偏った固定観念からそのような反応になったのではないかと思います。余計なことですが、彼はキリスト教保守派の福音派の熱狂的支持を集めるとても深い信仰心の持ち主と聞いています。

もちろん、私も事実だけを見なければならないわけですが。日本の首相も代わって三ヶ月四ヶ月経ちますが、アメリカの方では既にひと月の間に、比較にならないほどの変革を成し遂げられています。国民のためにならない財政の無駄を省き、戦争ばかりだった世界を平和に導こうとしています。

このように、何か人から言われたとき、何をこの人は言っているのかというような捉え方をされたなら、そこに、自分の思い込み、自分の認識こそ正しいという自我にとらわれていることを表してもいます。ああ、そうなんですかね、と言うような身軽な発想にしていくことで強固な自我からの解放が期待できるのではないかと思います。

そして、真実そのもののありようをありのままに見るということが、仏教者として私たちには必要なのですが、なかなか難しいことではあります。ですが、何事も因と縁、原因と条件によって、いま仮に成立している、存在している、と仏教では考えます。ですから常に変化している訳です。

なので、もとから、固定観念、先入観というものは成り立たないものなのだと理解して、何事もニュートラルに見ていく習慣を身につけることで正見としての見方を養っていく必要があるのかと思います。そうすることで、これからの世界の劇的な変化に対してもストレスなく受け入れることができていくのではないかと思います。

来月もお誘い合わせの上、沢山の皆様のご参詣をお待ちしています。ありがとうございました。


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いまに生きるー医王如来について

2025年02月17日 08時01分36秒 | 仏教に関する様々なお話
昨日の法事後の法話の主旨をわかりやすく説く
いまに生きるー医王如来について




こちらの本堂の正面に大きな扁額が掛けられていて、そこには醫王閣とあります。本尊が薬師如来ですから、お医者様の王様で藥師如来なのだから醫王とある訳ですが、もともと、と言ってもお釈迦様の時代までさかのぼれば、醫王とはお釈迦様ご本人を指していたとも言われています。

誰が行っても、右回りに三回回って正面に座り三礼して一言二言御挨拶されるだけで、どんなにつらい悩み苦しみを抱えていった人でも気持ちが和らぎ別に深刻な話をするまでもなく癒やされて満足して帰るのだとか。そんなお釈迦てすから、医王と言われたとも言えるわけですが、お釈迦様の説かれる教え、そのものが当時のお医者様の診断処方に則っていたからとも言われています。

お医者様は、まず患者の症状を診て、その原因を探り、処置したあとの状態を想像し、そのために処方処置されます。この四段階に則り、お釈迦様の説法も四段階を踏んでいたといいます。悟られてから最初に法輪を転ぜられたとき、そのことを初転法輪というのですが、そのとき、五人の修行者に向けてなされた説法を四聖諦といいます。

四聖諦とは、四つの聖なる真理と言う意味です。その内容は、心経にも、苦・集・滅・道と訳されていますが、解りやすく言えば、現実の真理、原因の真理、理想の真理、方法の真理となります。

現実の真理とは、この世の中の現実をよく見て下さいということ。みんな思い通りにならないことばかりでしょう。周りの人は思うように動いてはくれないし、自分の身体もしんどかったり痛いところがあったりと思うようにはならない、世の中も嫌なことばかり起こる、それを苦と言ったわけです。

原因の真理とは、その原因は何かと言うことで、自分がよくありたい、自分は正しい、思い通りであって欲しいという思いがあるからです。

理想の真理とは、何があっても、何がなくても何とも思わない、動じない、考え込まない、必要なことはさっとわかり対処できる。悩むことなく、困ることなく、苦しむことがないことです。

方法の真理とは、悪いことをせず、周りのためになることをして、今に生きる。今という瞬間の、していること、すべきことに気をつけて、そのことだけに生きることです。

私たちはあれこれ悩み苦しむのは過去にあったことを思い、人のしたこと、しなかったことを憤り、怒ったり、文句を言ったり、自分の過去の行いや言ったことに後悔したり、落ち込んだり、周りの評価や風評を心配したり、また未来にやってくることに心躍らせたり、逆に不安になったり。

これらはすべて過去や未来のことに過ぎず、その思いのようになるものではありません。それなのにあれこれ思い、考えてくたびれてしまって、現実のことが疎かになってはいないでしょうか。

みんな幸せでありますようにと祈り、夢いっぱいの希望通りになるように願うわけですが、現実は願い通りになることはなく、たとえかなったとしてもその現実はさらに厳しい過酷なものであったりします。何か挫折があればこんなはずではなかったと後悔してみたり。

ですが、もとから人生とは苦しみ多いものだと、娑婆という言葉の意味が忍土、耐え忍ぶべき場所という意味から考えれば、人生とは思い通りにならない、いつも大変な厳しい中で忍耐をしいられるものなのだとの前提で生きていたら、逆にになにかよいことがあったときにそんなこともあるのだと心から喜べたりということもあるでしょう。

悟られた方は考えないのだと聞いたことがあります。必要なことは瞬時に答えが分かるので只今に生きられるのだそうです。私たちも人生とは思い通りにならないものと心得て、今の瞬間に生きることで思い悩まない人生を送りたいものです。



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