西洋世界の仏教への目覚め
幕末から明治にかけて、大きく変わっていく時代の様相は、決して日本だけの話ではなく、西洋世界でも同様であった。世界は大きくリンクしているのである。ご存じの通り、イギリスでは17世紀半ばに市民革命がおこり、18世紀後半には産業革命が起こり進展していく。1776年にアメリカが独立し、1789年にはフランス革命がおこり、その後次々と近代国家が成立していった。そして帝国主義と言われる時代になると西洋列強が領土の拡大と経済的な利権の獲得のために植民地を求めて劣った国々に進出した。
インド世界では、東インド会社が拠点となりイギリスのインド経営が進み、フランスを抑えて実質的にインドを支配していく。はじめ胡椒や香料からスタートした東インド会社ではあるが、その後インド木綿や茶が加わり、商業から恐喝、略奪に近いものに変じていったとされる。1757年にベンガル地方のプラッシーで現地土着の太守の争いが起こると、それにイギリスとフランスが援軍しイギリスが勝利したことで、徴税取り立て権を獲得。そして次第に領土と治政権まで奪われていく。そうしてベンガルからビハール、オリッサの軍事的支配を獲得して植民地経営者となり替わっていったという。
そして丁度百年がたち、1857年におこった南インドを除く、インド亜大陸全体に及ぶ広大な民族運動であるセポイの反乱により、結果的に英領インドが完成してしまう。蜂起した民衆がデリーに詰めかけ皇帝のもとに集結し、一時ムガール皇帝はイギリスに奪われていた統治権を取り戻す。しかしそのあと、イギリス軍のデリーへの総攻撃によって皇帝は捕らえられ、インド全体の統治が成立。直接インド政府による植民地支配、つまりイギリス領インド帝国が誕生する。
実は皮肉なことに、このインドが植民地になることによってヨーロッパを中心とする近代の仏教学が花開くことになる。1784年、つまりプラッシーの戦いによって得たベンガルの徴税権や行政的な諸問題のために設けられた最高裁判所の判事に任ぜられたサー・ウィリアム・ジョーンズなる人物がインドに到着すると、まもなく彼はアジアの学問、特に言語、歴史、古代文化に関する広い知識を得るために「アジア協会(The Asiatic Society)」を組織する。
そして、ここでのインド言語の研究により、当時ギリシャ語とラテン語に限られていたヨーロッパの言語研究は近代の学としての言語学の成立へと向かう。この言語学の成立にかかわったインドの言葉はサンスクリット語とパーリ語であった。インド古代・中世の文献ないし大乗仏教の文は、「作られた言葉」を意味するサンスクリットで書かれているものが多いが、原始仏教の文献である三蔵は自然発生的俗語であるマガダ語系の言葉で伝えられ、それがセイロンにいたり、パーリ語として調えられた。因みに、パーリとは聖典という意味である。
そして、1826年頃、ブライアン・ホジソンという人がネパールにて大量のサンスクリット仏典を発見し、ブリティシュ・ミュージアムにその半分を収め、残り半分を研究のためにユージン・ビュルヌフ(1800-94)に托したという。この人はフランスの東洋学者で、コレージュ・ド・フランスのサンスクリット講座の教授となる人である。1845年には、西洋における仏教に関するまとまった最も早い著作である『仏教史序説』を著した。
この人の弟子にドイツ生まれのマックス・ミューラー(1823-1900)があり、東洋諸国に残る主たる古聖典の集大成となる『東方聖書』の編纂事業をなした人である。そして、オックスフォード大学の言語学の教授となり、グラスゴー大学では宗教学を講じた。この人は東本願寺の学僧南条文雄師や髙楠順次郎など幾人かの日本人学者を育て日本にとても縁の深い人でもある。
パーリ語の分野では、セイロンへ司法官として赴任し、その間にパーリ語を学んで、イギリスに帰って学者の道に入ったリス・デヴィッズ(1843-1922)が第一人者である。彼は、ロンドン大学などでパーリ語を講じた。そして、1881年にオルデンベルグらとともにパーリ聖典協会(pali text society)を設立、会長となって、パーリ三蔵経典の校訂刊行がなされ、それらすべての英訳も成し遂げた。オルデンベルグ(1854-1920)はドイツのインド学者で、リグ・ヴェーダ研究の第一人者であり、かつパーリ語聖典の特に律蔵を研究した人である。
こうして言語学としての好奇心からブッダその人と教えや教団について関心が移り、その他ウパニシャッドやヴェーダ文献などインドの宗教への興味が欧州にてもてはやされるようになっていった。十九世紀後半にはショーペンハウアやニーチェら哲学者が、仏教は神への信仰によることなく人生の苦について道徳実践によりその解明を説く現実的実証主義的なものであると言及。1879年には英国人エドウィン・アーノルドが『アジアの光』と題してブッダの生涯と教えについての長編の叙事詩を刊行し百万部を超える大ヒットとなった。また1893年には、シカゴ万国宗教大会においてヒンドゥー教、仏教など東洋の宗教が高い評価を受けた。
中国経由の漢訳仏典によって仏教を語っていた日本の仏教も、こうした近代の仏教学を学ぶ多くの日本人学者たちが現れ、明治後半以降は、もとより大乗仏教が優れたものと思い込み原始仏教を小乗と貶称してきたわが国の仏教の捉え方が大きくかわる時代となっていく。
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幕末から明治にかけて、大きく変わっていく時代の様相は、決して日本だけの話ではなく、西洋世界でも同様であった。世界は大きくリンクしているのである。ご存じの通り、イギリスでは17世紀半ばに市民革命がおこり、18世紀後半には産業革命が起こり進展していく。1776年にアメリカが独立し、1789年にはフランス革命がおこり、その後次々と近代国家が成立していった。そして帝国主義と言われる時代になると西洋列強が領土の拡大と経済的な利権の獲得のために植民地を求めて劣った国々に進出した。
インド世界では、東インド会社が拠点となりイギリスのインド経営が進み、フランスを抑えて実質的にインドを支配していく。はじめ胡椒や香料からスタートした東インド会社ではあるが、その後インド木綿や茶が加わり、商業から恐喝、略奪に近いものに変じていったとされる。1757年にベンガル地方のプラッシーで現地土着の太守の争いが起こると、それにイギリスとフランスが援軍しイギリスが勝利したことで、徴税取り立て権を獲得。そして次第に領土と治政権まで奪われていく。そうしてベンガルからビハール、オリッサの軍事的支配を獲得して植民地経営者となり替わっていったという。
そして丁度百年がたち、1857年におこった南インドを除く、インド亜大陸全体に及ぶ広大な民族運動であるセポイの反乱により、結果的に英領インドが完成してしまう。蜂起した民衆がデリーに詰めかけ皇帝のもとに集結し、一時ムガール皇帝はイギリスに奪われていた統治権を取り戻す。しかしそのあと、イギリス軍のデリーへの総攻撃によって皇帝は捕らえられ、インド全体の統治が成立。直接インド政府による植民地支配、つまりイギリス領インド帝国が誕生する。
実は皮肉なことに、このインドが植民地になることによってヨーロッパを中心とする近代の仏教学が花開くことになる。1784年、つまりプラッシーの戦いによって得たベンガルの徴税権や行政的な諸問題のために設けられた最高裁判所の判事に任ぜられたサー・ウィリアム・ジョーンズなる人物がインドに到着すると、まもなく彼はアジアの学問、特に言語、歴史、古代文化に関する広い知識を得るために「アジア協会(The Asiatic Society)」を組織する。
そして、ここでのインド言語の研究により、当時ギリシャ語とラテン語に限られていたヨーロッパの言語研究は近代の学としての言語学の成立へと向かう。この言語学の成立にかかわったインドの言葉はサンスクリット語とパーリ語であった。インド古代・中世の文献ないし大乗仏教の文は、「作られた言葉」を意味するサンスクリットで書かれているものが多いが、原始仏教の文献である三蔵は自然発生的俗語であるマガダ語系の言葉で伝えられ、それがセイロンにいたり、パーリ語として調えられた。因みに、パーリとは聖典という意味である。
そして、1826年頃、ブライアン・ホジソンという人がネパールにて大量のサンスクリット仏典を発見し、ブリティシュ・ミュージアムにその半分を収め、残り半分を研究のためにユージン・ビュルヌフ(1800-94)に托したという。この人はフランスの東洋学者で、コレージュ・ド・フランスのサンスクリット講座の教授となる人である。1845年には、西洋における仏教に関するまとまった最も早い著作である『仏教史序説』を著した。
この人の弟子にドイツ生まれのマックス・ミューラー(1823-1900)があり、東洋諸国に残る主たる古聖典の集大成となる『東方聖書』の編纂事業をなした人である。そして、オックスフォード大学の言語学の教授となり、グラスゴー大学では宗教学を講じた。この人は東本願寺の学僧南条文雄師や髙楠順次郎など幾人かの日本人学者を育て日本にとても縁の深い人でもある。
パーリ語の分野では、セイロンへ司法官として赴任し、その間にパーリ語を学んで、イギリスに帰って学者の道に入ったリス・デヴィッズ(1843-1922)が第一人者である。彼は、ロンドン大学などでパーリ語を講じた。そして、1881年にオルデンベルグらとともにパーリ聖典協会(pali text society)を設立、会長となって、パーリ三蔵経典の校訂刊行がなされ、それらすべての英訳も成し遂げた。オルデンベルグ(1854-1920)はドイツのインド学者で、リグ・ヴェーダ研究の第一人者であり、かつパーリ語聖典の特に律蔵を研究した人である。
こうして言語学としての好奇心からブッダその人と教えや教団について関心が移り、その他ウパニシャッドやヴェーダ文献などインドの宗教への興味が欧州にてもてはやされるようになっていった。十九世紀後半にはショーペンハウアやニーチェら哲学者が、仏教は神への信仰によることなく人生の苦について道徳実践によりその解明を説く現実的実証主義的なものであると言及。1879年には英国人エドウィン・アーノルドが『アジアの光』と題してブッダの生涯と教えについての長編の叙事詩を刊行し百万部を超える大ヒットとなった。また1893年には、シカゴ万国宗教大会においてヒンドゥー教、仏教など東洋の宗教が高い評価を受けた。
中国経由の漢訳仏典によって仏教を語っていた日本の仏教も、こうした近代の仏教学を学ぶ多くの日本人学者たちが現れ、明治後半以降は、もとより大乗仏教が優れたものと思い込み原始仏教を小乗と貶称してきたわが国の仏教の捉え方が大きくかわる時代となっていく。
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