1月29日に投稿した「救われるということ」を、先日、寺内行事・仏教懇話会にて、檀家さんたちと読んで少し解説をしました。解説しつつ皆さんの顔色を見ながら、様々なことに思い至ることになりました。それはどんなことかというと、私たち日本では人が亡くなることを仏になった、成仏されたと言ってしまうことによって、仏教の悟りということと死ということが混同されているようなのです。
人が亡くなると仏さんのところに行ったなどと表現をしてしまうこともあります。だから、その後皆さんで少し話し合ってもらったときも、普通に死ねたら救われたと思っていいのではないかというような話になってしまったのです。孤独死や不慮の事故というようなことではなく、普通に遺族に見守られ死ねることが救われるということだという解釈の仕方です。
何十年もこのような解釈、つまり、人の死はイコール仏になるという表現をされることに慣れてしまうと、そのこととお釈迦様の悟りということを別のものとして捉えられないということなのでしょう。これまで、何度も何度も悟りについて、またお釈迦様の教えについて語ってきたのですが、いざ自分の死について考えたり、身近な人の死ということになると、これまでの仏教の話とは整合せず、過去に人が亡くなった時に何気なく語った、死者を前に成仏されましたと言ってしまうことや、お墓に仏さんに会いに行こうというような表現によってもたらされた思いがどうしても先に立つということなのでしょう。
亡くなった人に仏さんと言うことは、日本人が様々な場面で忌み嫌う言葉を避けて真綿にくるんだようなものの言い方をすることの典型と言えるでしょう。このような表現の仕方が、特に死については全国民に同じような表現の仕方が浸透し、そのことによって、さらに仏教者も同様な表現をしてしまうことで、相乗的にさらに一般の人々には仏教というものが分からなくなっているのではないかと思えます。
またこのような受け取り方の根本には、人は亡くなるとみんな仏になるということを漠然と思うような風潮があります。みんな浄土に身罷る、曼荼羅の世界に行く、仏の世界に行くというような表現がなされ、お葬式や法事の場面でも何気なく仏教者自身もそのような安易な表現を使うことによって、漠然とそのように思っているということもあるようです。鎌倉時代の新仏教によって、みんな浄土に行けるのだという思いが、おそらく布教者の意図とは別に日本全国に染み渡り、それを旧仏教も批判できずに相乗りするかたちで安易に仏教者が浄土に誰でもが行けるとする教えにくみしてしまったことが大きな原因としても上げられるでしょう。
だからこそ、前回には、「仏の世界とは快適なのだろうか」という副題も掲げたわけではありますが、そのようなことと自分のこととが結びつかないという印象を持つに至りました。このことは一般的な問題として日本人に本来の仏教を説くことの難しさを思い知らされるのです。特に、何度も家族の死を看取ってきた人たちには難解のように思えます。
遠藤周作氏の「沈黙」という小説があります。江戸時代初期にキリスト教の宣教師が何人も日本に布教に来るわけですが、いずれも布教がなった、沢山の人々がキリシタンになったと思っても、日本人キリスト者の多くが自分たちの信仰による、つまり自分たち本意の解釈によるキリスト教になっていて、日本という土壌は自分たちの思いとは違う沼地のようなものだというのがこの小説の言わんとしたところなのです。
どんな苗を植えてもその沼地は根が腐り葉が黄ばんで枯れていくと。正に、仏教自体も日本人の日本人独特の解釈になる日本教に成りはててしまっているかの印象を再認識させられた思いがするのです。この問いかけは新潮文庫『日本仏教史・思想史としてのアプローチ』(362頁より366頁)で末木文美士先生が指摘されていて、それを読み「沈黙」も読む機会を与えられたのでしたが、正に先生の言われるとおりであると肯んぜざるを得ないのです。
日本仏教とは何なのか、何が仏教かという定義も難しいような現状ではありますが、ただこの死に関する問題について言えば、やはりはっきりと仏教者が、死ぬことと仏教で言う成仏とは違うのだと言うべきでしょう。みんな死後は輪廻するのだという世界の仏教徒の常識を語るべきなのです。世間的な言い方に惑わされ、安易に仏教者が、みんな仏の国に行く、浄土に行くとしか言えないというのが問題なのです。
あたかも輪廻とは非科学的なインドの伝承に過ぎないと捉え、お釈迦様は当時のインドの民間信仰を使って布教されただけである、無我を説くのだから輪廻などしないなどという解釈をあたかも現代の知識人として当然であるかの物言いはそろそろ止めた方がいいでしょう。前世の記憶がないから前世がないなどという仏教学者もいますが、お釈迦様の神通力でご覧になれたことを単なる凡夫が簡単に前世の記憶があるとかないとか言う方がおかしいのです。(宮本啓一『仏教かくはじまりき・パーリ仏典大品を読む』春秋社参照)
現在、世界の仏教徒と交流する各宗派にあって、国際化の時代のその交流に物足りなさを感じるのは私だけでしょうか。資金援助が国際交流などではありません。同じ仏教徒として思いをぶつけ、考え方をすりあわせて現代に向けて共に手を携えてはじめて国際化の意味もあるのではないでしょうか。そうしてこそ日本仏教の歪さ、不思議さが自ずから分かろうというものです。
そして、関連して死に方がよければ救われるという考え方について申し上げるならば、たとえば、震災で多くの非業の死を遂げた方たち、津波で瞬く間に死に追いやられた人たちはそれでは救われないのかということが問題になります。仏教ではすべてのことに原因があるとします。ですから、そのような不慮の事故に遭われた方々にはそれなりの原因があったことでしょう。
それは今世のというよりは前世のいやもっと過去の過去世からの因縁だったのかもしれません。それがこの度の不意に起こった災害によってそれが縁となり結果したと考えるのでしょう。ですが、亡くなられて身罷られたところ、来世では、その悪業が消えられてより善いところに行かれているものと考えられるのです。突然の事故、災害によって、今生での生を突然失われたショックはあることでしょう。
ですが、誰しもその危険性がある現代社会の中で私たちは生きています。小学生の通学の列にトレーラーが突っ込んで何人もの子供たちが亡くなる現実、小学校に精神錯乱者が刃物をもって侵入して殺害された子供たちもいました。それらも同様に考えなくてはいけないのでしょう。そのような社会を私たち一人ひとりが作っているのだということも考えなくてはいけないでしょう。
みんな一度きりの人生だとしたならば、そのような不慮の事故、災害で亡くなってしまった人たちをどのように考えるのでしょうか。残された遺族の救いはどこのあるのでしょうか。みんな来世があるのだ、突然亡くなったとしても、みんな、この世でしっかり生きていたら、決してそれが無駄になることなどない、善いことをしていたら、それらの善きことが来世で報われる、きっと今生で過ごした沢山の楽しい思い、家族と共に過ごした幸せな時間もそれが善き業となって、来世には善いところに生まれ変わり、新しい家族の中できっと幸せに過ごしてくれるはずだと、そして前世の家族である自分たちも亡くなった人と共にこの世でしっかり生きていこうという気持ちになれるならば、何もない、ただ無為に命を無くした、何のために短い人生があったのかなどと思うよりも、亡くなった人も遺族もきっと救われるのではないかと思うのです。
もちろんそう思えるようになるには時間は必要でしょう。ですが、そのように考えることによって私たちは納得し希望を持つことが出来ます。『久しく遠くにありし人、無事に帰来せば、親戚朋友、これを歓迎するがごとく、善業をなして現世より来世にいたる者は、その善業に迎えられる。親戚、その愛する者を迎うるがごとく』(法句経219・220)とお釈迦様が教えられています。輪廻するというのは、ですから、救われる思いを導くことの出来る教えなのであります。
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人が亡くなると仏さんのところに行ったなどと表現をしてしまうこともあります。だから、その後皆さんで少し話し合ってもらったときも、普通に死ねたら救われたと思っていいのではないかというような話になってしまったのです。孤独死や不慮の事故というようなことではなく、普通に遺族に見守られ死ねることが救われるということだという解釈の仕方です。
何十年もこのような解釈、つまり、人の死はイコール仏になるという表現をされることに慣れてしまうと、そのこととお釈迦様の悟りということを別のものとして捉えられないということなのでしょう。これまで、何度も何度も悟りについて、またお釈迦様の教えについて語ってきたのですが、いざ自分の死について考えたり、身近な人の死ということになると、これまでの仏教の話とは整合せず、過去に人が亡くなった時に何気なく語った、死者を前に成仏されましたと言ってしまうことや、お墓に仏さんに会いに行こうというような表現によってもたらされた思いがどうしても先に立つということなのでしょう。
亡くなった人に仏さんと言うことは、日本人が様々な場面で忌み嫌う言葉を避けて真綿にくるんだようなものの言い方をすることの典型と言えるでしょう。このような表現の仕方が、特に死については全国民に同じような表現の仕方が浸透し、そのことによって、さらに仏教者も同様な表現をしてしまうことで、相乗的にさらに一般の人々には仏教というものが分からなくなっているのではないかと思えます。
またこのような受け取り方の根本には、人は亡くなるとみんな仏になるということを漠然と思うような風潮があります。みんな浄土に身罷る、曼荼羅の世界に行く、仏の世界に行くというような表現がなされ、お葬式や法事の場面でも何気なく仏教者自身もそのような安易な表現を使うことによって、漠然とそのように思っているということもあるようです。鎌倉時代の新仏教によって、みんな浄土に行けるのだという思いが、おそらく布教者の意図とは別に日本全国に染み渡り、それを旧仏教も批判できずに相乗りするかたちで安易に仏教者が浄土に誰でもが行けるとする教えにくみしてしまったことが大きな原因としても上げられるでしょう。
だからこそ、前回には、「仏の世界とは快適なのだろうか」という副題も掲げたわけではありますが、そのようなことと自分のこととが結びつかないという印象を持つに至りました。このことは一般的な問題として日本人に本来の仏教を説くことの難しさを思い知らされるのです。特に、何度も家族の死を看取ってきた人たちには難解のように思えます。
遠藤周作氏の「沈黙」という小説があります。江戸時代初期にキリスト教の宣教師が何人も日本に布教に来るわけですが、いずれも布教がなった、沢山の人々がキリシタンになったと思っても、日本人キリスト者の多くが自分たちの信仰による、つまり自分たち本意の解釈によるキリスト教になっていて、日本という土壌は自分たちの思いとは違う沼地のようなものだというのがこの小説の言わんとしたところなのです。
どんな苗を植えてもその沼地は根が腐り葉が黄ばんで枯れていくと。正に、仏教自体も日本人の日本人独特の解釈になる日本教に成りはててしまっているかの印象を再認識させられた思いがするのです。この問いかけは新潮文庫『日本仏教史・思想史としてのアプローチ』(362頁より366頁)で末木文美士先生が指摘されていて、それを読み「沈黙」も読む機会を与えられたのでしたが、正に先生の言われるとおりであると肯んぜざるを得ないのです。
日本仏教とは何なのか、何が仏教かという定義も難しいような現状ではありますが、ただこの死に関する問題について言えば、やはりはっきりと仏教者が、死ぬことと仏教で言う成仏とは違うのだと言うべきでしょう。みんな死後は輪廻するのだという世界の仏教徒の常識を語るべきなのです。世間的な言い方に惑わされ、安易に仏教者が、みんな仏の国に行く、浄土に行くとしか言えないというのが問題なのです。
あたかも輪廻とは非科学的なインドの伝承に過ぎないと捉え、お釈迦様は当時のインドの民間信仰を使って布教されただけである、無我を説くのだから輪廻などしないなどという解釈をあたかも現代の知識人として当然であるかの物言いはそろそろ止めた方がいいでしょう。前世の記憶がないから前世がないなどという仏教学者もいますが、お釈迦様の神通力でご覧になれたことを単なる凡夫が簡単に前世の記憶があるとかないとか言う方がおかしいのです。(宮本啓一『仏教かくはじまりき・パーリ仏典大品を読む』春秋社参照)
現在、世界の仏教徒と交流する各宗派にあって、国際化の時代のその交流に物足りなさを感じるのは私だけでしょうか。資金援助が国際交流などではありません。同じ仏教徒として思いをぶつけ、考え方をすりあわせて現代に向けて共に手を携えてはじめて国際化の意味もあるのではないでしょうか。そうしてこそ日本仏教の歪さ、不思議さが自ずから分かろうというものです。
そして、関連して死に方がよければ救われるという考え方について申し上げるならば、たとえば、震災で多くの非業の死を遂げた方たち、津波で瞬く間に死に追いやられた人たちはそれでは救われないのかということが問題になります。仏教ではすべてのことに原因があるとします。ですから、そのような不慮の事故に遭われた方々にはそれなりの原因があったことでしょう。
それは今世のというよりは前世のいやもっと過去の過去世からの因縁だったのかもしれません。それがこの度の不意に起こった災害によってそれが縁となり結果したと考えるのでしょう。ですが、亡くなられて身罷られたところ、来世では、その悪業が消えられてより善いところに行かれているものと考えられるのです。突然の事故、災害によって、今生での生を突然失われたショックはあることでしょう。
ですが、誰しもその危険性がある現代社会の中で私たちは生きています。小学生の通学の列にトレーラーが突っ込んで何人もの子供たちが亡くなる現実、小学校に精神錯乱者が刃物をもって侵入して殺害された子供たちもいました。それらも同様に考えなくてはいけないのでしょう。そのような社会を私たち一人ひとりが作っているのだということも考えなくてはいけないでしょう。
みんな一度きりの人生だとしたならば、そのような不慮の事故、災害で亡くなってしまった人たちをどのように考えるのでしょうか。残された遺族の救いはどこのあるのでしょうか。みんな来世があるのだ、突然亡くなったとしても、みんな、この世でしっかり生きていたら、決してそれが無駄になることなどない、善いことをしていたら、それらの善きことが来世で報われる、きっと今生で過ごした沢山の楽しい思い、家族と共に過ごした幸せな時間もそれが善き業となって、来世には善いところに生まれ変わり、新しい家族の中できっと幸せに過ごしてくれるはずだと、そして前世の家族である自分たちも亡くなった人と共にこの世でしっかり生きていこうという気持ちになれるならば、何もない、ただ無為に命を無くした、何のために短い人生があったのかなどと思うよりも、亡くなった人も遺族もきっと救われるのではないかと思うのです。
もちろんそう思えるようになるには時間は必要でしょう。ですが、そのように考えることによって私たちは納得し希望を持つことが出来ます。『久しく遠くにありし人、無事に帰来せば、親戚朋友、これを歓迎するがごとく、善業をなして現世より来世にいたる者は、その善業に迎えられる。親戚、その愛する者を迎うるがごとく』(法句経219・220)とお釈迦様が教えられています。輪廻するというのは、ですから、救われる思いを導くことの出来る教えなのであります。
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