住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

Metis『人間失格』を聞いて仏教を思う

2011年04月27日 19時58分18秒 | 様々な出来事について

この曲に出会ったのは、Youtubeで、『日本で放送できない報道できない震災の裏側』という動画のバック音楽に使われていたからだ。この動画自体が「NewyorkTimes」の写真サイトから取られた画像を何百枚も用いてそのまま使い、なかなか日本では隠されて見ることのないあからさまな映像となっていることに対する拒否反応や著作権などに問題があるとのコメントが多数寄せられている問題のある投稿であるが、それらのことはここでは置いておきたい。

その映像を見ながらこのバックの曲に、つまり『人間失格』という曲に、最初はとても違和感を感じた。震災の悲惨な映像そのままをそのままに見せた方がよいのではないかと思ったのだ。しかし、その曲を聴けば聞くほどに、その歌詞の力、声の力、魂の問いかけに心動かされるものを感じた。ここにじっとして震災の被災者の方々のことを思うだけでいいのだろうか。何かすべきことがあるのではないか。心騒ぐものを甘受するにはあまりにも心に突き刺さる歌詞を無視できなくなっていた。

この曲は3月2日にリリースされた。その一週間あまり後に地震があったことになる。だから、この曲自体は震災について書かれたものでは勿論ない。しかし今こうして地震の映像と共に聞くとき、正にこの震災を予感し、この事態に及んで、私たち日本人の心にそのままでいいのですか、何かすべきことがあるのではないですか、変わらなくてはいけないのではないですかと問われているようにも感じられるのだ。

「涙を忘れていませんか、大事なことから逃げてないですか、自分に嘘ついてませんか、諦めることに慣れすぎてませんか、夢を忘れてていませんか、道を外れていませんか、大切な人涙してませんか、家族を大事にしてますか・・・」という問いかけが延々と続く。

http://www.youtube.com/watch?v=xPfm80lZdFA

この曲を書き歌うMetisは、1984年広島市に生まれた27歳のソウル系の女性シンガーソングライターだ。3歳の時両親は離婚し、お母さんの手一つで育った。親戚の家々を渡り歩きながら育った時期もあり、いつもいい子でいなくてはいけないと思って、自分の心を偽りうわべだけいい子を装ったことも。そんな自分にお母さんはいつも絶大な愛と勇気を与えてくれたという。

そんな生い立ちのせいだろうか、その曲作りには聞く者たちに良くあって欲しい、元気になって欲しい、明るく幸せであって欲しいという思いが感じられるものばかりだ。子供たちに命の大切さを知って欲しいからと小学校に出前授業をしたり、病院に出向き輸血なしに生きられない若者たちを励まして歩く。そしていま震災の被災地に行き炊き出しを手伝う。

そんな彼女ではあるが、時に深く悩み苦しむこともあった。そんなとき、いいことばかりの明るい曲を歌っても虚しさしか感じられない。そして出会ったのが太宰治の「人間失格」だった、それを読んで、彼女は人間が迷いもがき葛藤する姿に美しさを感じたという。さらにある人から言われた「涙を忘れていませんか」との言葉に動かされ書いたのがこの『人間失格』という曲だという。

前回「想定外ということ」に書いたとおり、いいことばかり、総花的な、耳障りのいいことばかり言ったり考えていたりしても、それではダメだということであろう。オブラートに包んだような表現を使いたがる私たち日本人のやりがちなことを、Metisのこの歌は正にぶち壊すような曲だとも言えようか。しかし、今このときにこのような試みこそ求められているのかもしれない。

私たち日本の仏教はいかがであろう。正にMetisが陥った息のつまるようなものになってはいまいか。良いことばかり、耳障りのいいことばかり、みんな仏様ですよ、死んだらみんな仏様の世界に逝くんですよ、この世は素晴らしい仏様の世界ですよ、そんな言い方に誰もが辟易しているのではないか。言われたときにはそのように思えても、まったく心に深く残ることのないこのような表現に誰もが仏教など無意味に感じ無関心になっているのではないか。

仏教とは、そもそもそんなものではない。そんなものであったならば2600年も続いてこなかったであろう。仏教とは、この世の現実、真実を何よりも大切にぐっさりと突きつけてくるものではないか。自らの行い、業そのままの結果を予測しそのために今この瞬間にいかにあるべきかを迫る教えであろう。大事なことから逃げてはいけない。正に、Metisが謳うその歌詞そのままに自らの心を問いつつ、日々葛藤する中で自らの道を糺していく教えなのではないか。

仏教が総花的なことばかりになり、本当のことを説かなくなった。沢山の宗派に別れバラバラとなり、そして自らをも律していく姿勢が失われていることこそが、何よりもこの国のだれた馴れ合いの無責任な社会を作ってきてしまった根本的な原因ではないか。私にはそう思えてならない。勿論私もその加害者であることは言うまでもないが。仏教者は皆その自責の念を今このときに自覚する必要がある。

仏教とは本来それだけの力ある教えなのではないか。仏教の力で、今のこの国の窮地を救おうではないか、そんなことを言っても少しもおかしくない、それだけの力ある教えのはずである。奈良時代の聖武天皇、平安時代の嵯峨天皇の事跡を上げるまでもなく、仏教によって日本はその国難を何度も乗り越えてきた歴史がある。私たちは、その力あるはずの仏教を貶めてきた、それが故に今こうしてあることを思わねばならないのではないかと思う。何よりも、真実を見る、この世の現実を、誰が言ったからではない、本当のことを自ら探求し多くの人たちがより良くあれるようにすべき智慧ある仏教の本来の教えを自覚すべきであろうと思う。

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想定外ということ

2011年04月21日 18時46分22秒 | 様々な出来事について
今回の震災に関連して、想定外という言葉が乱用されている。もちろん、想定外なら何でも許されるということではないだろう。その道の専門家であるお歴々がそう簡単に使う言葉でもない。地震、津波、原発事故。どれをとっても想定内のことばかりではないか。何十年かに一度は起こってきた地震。津波も過去に何度も経験してきた土地でもある。原発はそもそも最悪のケースを想定して様々な危機に対処すべきものでもある。

それなのに何故こうも簡単に想定外を口にするのか。それも皆その専門分野の権威ばかりである。そして今頃になって想定外について様々な意見が発せられるようにもなってきたようだ。が、そもそも何故口々に想定外と語ってしまったのであろうか。

日本人は忌み言葉を嫌う。死や不浄など、あって欲しくないものには蓋をする。触れない。その言葉を口にするとそれが現実になるように思え、その言葉も嫌って口にしない。それこそ『千の風になって』が流行るまで、死そのものについて語ることはタブーであったように。受験生の前で、滑ったの落ちたのと言うことも嫌われてきた。

以前ある浄土系のお寺さんと話をしていて、地獄に行くような人は居ませんかと尋ねたとき、そういうことを考えることも避けるべきだということを言われたことがあった。考えなければそれが避けられるというものだろうかとその時思ったのだが、正に今回の震災の様々な場面でこのことが現実のこととなったように感じる。

想定外は、想定もしたくなかったのであり、想定するとあたかもそのことが現実となるような恐れの気持ちから、避けてしまったとは言えないだろうか。縁起でもない。悪いことを考えるとそれが起こる。起きて欲しくないから甘い想定をしてそれ以上については思考停止してしまう。だからこそ生ぬるい地震や津波の予測を設定して、防災対策が不備のまま今にいたり、緊急時にも後手後手の対応となってしまったのではないか。

もちろんそれなりに過去のデータから厳しく地震や津波を想定すれば、それだけの莫大な費用を要する設備設計のやり直しを迫られるであろう。余分な経費から利益が吹っ飛んでしまうということもあっただろう。様々な思惑の元に長年推進されてきたものの根本が揺らぐということも考えられよう・・・。

イヤなことはなるべく考えずによいことだけ考えて努力する。そして、喉もと過ぎて熱さを忘れ、何でもイヤなことは水に流す。そんな日本人の性質が決して悪いと言いたいのではない。それはとてもさわやかな印象を人々に与え、新しいことに向かってひたむきに努力するためには欠かせない長所とも言えよう。だからこそ、日本人はこれまでも度々過酷な災害や戦禍に見舞われながらも、そのつど復興し凄まじいばかりの発展を遂げてきたのだとも言える。

そのことを『NEWSWEEK』(4/20号)の『日本人を襲う震災トラウマ』と題する評論の中で、ジョージ・ボナンノ、コロンビア大学臨床心理学教授は、「人間は本質的に(危険や被害にあっても)再起力を持つが、なかでも日本人は飛び抜けて大きな再起力を持っているようだ」と語っている。

そこには、考えることは現実となる、だから悪いことは考えない、良いことだけを考えてひたすら努力する、という日本人の美点が作用してもいるだろう。素晴らしい特性ではないかと思う。しかし、何事も善くも表れ、悪くも展開するのが現実だ。想定外と語られた多くの事々は、既に述べてきたようにおそらくそれが悪い方向に展開したからであろう。

そしてこれからの復興においてはそれが善い方向に表れるべく、新たな未来に向けて発想を切り替え進むことが求められているのかもしれない。しかし努々甘い想定にとどまり、想定しなければ現実とならないなどと言わんばかりの発想は、この世の現実の前には役に立たないことを肝に銘じて、国民一人一人が今後は何事にも厳しい目で見定め意思表示することが何より大切であるということは忘れてはならないであろう。

悪いことを考えると現実になると考えるのなら、悪いことがたとえ起こっても善くあれるように考えることも現実となるのであろうから。

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(追記あり)震災一月に思う (付[ ボランティア奮闘 ]95年2月記) 

2011年04月10日 18時13分11秒 | 様々な出来事について

東日本大震災から、ひと月が経とうとしている。今日も近くのお寺の法要に参加し、東日本大震災の被災者の皆様の一日も早い復興と亡くなられた方々への追悼のために経を唱えてきた。被災地では今もって物資が足りない、瓦礫の整理が進まない、遺体の身元も確認できない、その中で痛んだ遺骸を葬らねばならないなど、様々な問題が山積していることと思う。何事もうまくいかない、焦燥の中に困り果てている方もあるかもしれない。しかし、これだけの大惨事にすべてが上手く進むと考える方がどうかしているとも言えるのかもしれないし、それでも、もう少し何とかなっても良さそうなものだと思わざるを得ないという方もあるだろう。

原発事故のその後の推移もまったくテレビ報道がなされなくなると判断が付かない状況にある。新聞から海水へ汚染された水が漏れ出たというが、その後意図的に低濃度の放射能汚染水一万トンを放出したという。これは、明らかにロンドン条約という国際的な廃棄物の海洋投棄に関する条約に違反していると指摘する方もある。私たちは国家犯罪に荷担している国民なのだという方もある。これから海外の環境問題に関する諸団体から糾弾を受けることになるのではないか。とにかく放射能の大気や海洋への汚染を食い止めることを最優先して即刻手段を講じて欲しいものである。

そんな中で、この震災による私たちの生活への影響ばかりか、経済にものすごい悪影響が及んでいる。この震災があったばかりに多くの中小企業が部品が届かない、商品が引き取られない、受注が止まった、キャンセルの嵐だと、資金繰りに困りはてている。余りにも日本全体が萎縮してはいまいか。何もかも取りやめ、自粛では日本経済が沈没する。これまで通り、なるべく普通にすべきことをすることによってしか、日本は元気になれないし、被災地の経済も活性化しない。

そんな中、復興計画が審議されつつあり、その財源に連帯税なる考えが浮上している。日本全体が被災し、疲弊し、経済的にも困り果てている人たちが多く出つつある現状に増税があってよいものか。先頃新聞(朝日新聞4/5)にも、会計検査院審議官が言われていたように、昨年の決算剰余金30兆円を使えば増税などせずにすぐに復興に使えるという。このような真っ当な発言が出来る官僚をこそ政治家はブレーンとして大切にして新しい国造りを考えて欲しい。

被災した三陸海岸地方の復興計画の青写真はもう既にできていると言われる。参議院議長が言われるように会議を開いて悠長なことをしているときではない。早く優秀な官僚の智慧を結集して国の方針を発表すべきではないか。

4月6日に行われた民主党国会議員勉強会での上杉隆氏の原発事故を中心とする官邸と報道機関のあり方並びに東電の対応などについて問題点を鋭く指摘している会見。是非ご覧下さい。
http://www.youtube.com/watch?v=O0CRuajD6C8

ならびに同日別室で行われた上原春男佐賀大学元学長(原発設計者)の官邸とのやり取りを交えた原発事故の終息に向けた提言。必見の価値あり。
http://www.youtube.com/watch?v=B1aAYwCnRt8&feature=related 

 

以下の文は、阪神大震災の折、何度かボランティアに入った先での体験談である。今多くの人たちがボランティアとして活動されていることと思うが、この地から何のツテもなくボランティアに入ることを躊躇している身として、少しでも応援したい気持ちから掲載させていただく。何か参考になることがあれば幸いである。
  

[ ボランティア奮闘 ]  


 今回の阪神大震災に関連して延べ三十万人ものボランティアが活躍しているといわれている。

 一口にボランティアといってもその形態立場はまちまちで、団体に属し数人の単位で行動しているもの、まったくの個人で駆けつけて来るものなどさまざまである。

 私の場合も、知人の紹介によって避難所に寝泊まりし、避難所を中心として活動した。全国からこうしたボランティアが毎日五人から十人は本山南中学には来ていた。多すぎて区役所内に設けられた情報センターに問い合わせてもらうケースも多かったようだ。

 一週間くらいの長期の人もあれば一日だけという人も多い。高校生から社会人まで。大半は大学生。出身地で目立ったのは、大阪、千葉、東京、北海道。一度中学生が自転車で大阪から来たというケースもあった。

 団体で活動する場合も、代表的には、医療担当の医者や看護婦のグループのように専門職を持つ人と、炊き出しなどの仕事を担当するために道具を持参で避難所を回ってくれている団体の人たちもある。

 これらは労働組合、青年会議所の人たちが多かった。また、洗濯のサービスや理髪師美容師のグループ。風呂や仮設トイレを設営してくれるグループもある。また、炊き出し用の大鍋や網を運んでくれる人、街角でテントを出す便利屋のようなボランティアまである。さらには、救援物資を地方から運ぶ運送屋さんのボランティアまでいる。

 本当にみんなの気持ちが暖かい、優しい、嬉しいのである。何かしたい。その一心でここに飛び込んで来た人たちばかり。駅の貼り紙を見たり、人に聞いて来たという人たち。何でも必要なことをしよう。その純粋な気持ちで結ばれた人たちの仕事によって避難所に暮らす人たちの生活が支えられていく。

 物資が市役所から届くと一斉にボランティアが集まり荷を下ろしていく。自衛隊の給水車が来ればポリタンクに水を移し運ぶ。一日二度の物資の配分。そして炊き出し。朝夕のお湯の準備。小さな子供たちの世話。子供たちを校庭に出させて一緒に遊ぶのもボランティアの仕事。

 私も呼ばれてドッチボールをしたり、バスケットボールをしたり。遊ぶ中で、子供は元気になっていき、大人たちも外に顔を出すようになって来た。

 そうして、この次に待っていたのが、災害弱者といわれる老人のケアーの問題。こちらのほうは私の担当になり、避難所の周りの各家々を一軒一軒三人四人で手分けして回っていく。

 避難所以外の比較的損壊の少なかった家やマンションに暮らす人たちの状況調査である。その中に老人だけの家庭もあり、水や食料に事欠く家が無いかどうか調べて回るのである。本来であれば行政の仕事であろうが、そこまで手の回る段階に無いことから、我がボランティアチーム独自の調査に乗り出したという訳なのであった。

 初めは何か押し売り的な気分がして気後れしていたが、ドアを開けてくれる人それぞれがやはり誰かと話したいという気持ちで質問する以上のことを語ってくれた。話をするということがこれ程までに求められているのを実感することができた。

 ボランティアに来る人の中には、学校内の様子を見て、自分にはやることが無いからすぐ帰りますという人もいる。せっかく遠くから来たのだから何かしていけば。と言っても何もありませんと言う。何でもいいんだよと言うとよけい困惑してしまう。

 何か生きるか死ぬかの状況の中で、作業をし人を救うことがボランティアと勘違いしているようなのだ。ボランティアとは本来、自主・自立ということで、自分で判断し自分で責任を持つということだそうだ。

 自分の判断で自由に仕事を見つけ行動すること。人から指図されていて楽しいことは無い。自分で見つける自主的にやるからいきいきできる。楽しいし自分のためになる。ボランティアに限ったことでも無いだろうが。

 また、長くいると、こんなに俺たちはやっているのに住民は何も手伝わない。疲れて来てそうぼやき出す人も多い。被災住民が主で我々ボランティアは補佐する立場なのに主導になってはいないかとの反省も聞かれる。初心を忘れないということはいかに難しいことか。

 何かしたい。そう思って来たのにいつの間にか、こんなにしてやっているのにという気持ちになって来てしまう。ボランティアに期待し感謝してくれている人がほとんどなのに被災者と接していないがためにそのことを知らずに過ごしてしまったのである。たくさんの被災者と接すれば、してやっている、という気持ちは吹き飛んでしまうだろう。

 大切なのは、その仕事を通じて被災者と接し、そこから自分自身が何かしらを学んでいくことではないかと思うのである。被災者のためになることをさせていただき、あくまでそのことは自分のためである。

 そして、被災者が地震で何を得たのかを知り、学び取って帰ることで、地元の多くの人と話し考えてもらう必要があるのではないのか。そうして初めて、この地震が神戸のものだけでなしに広く日本人全体の問題として捉え始めるのではないかと考えるのである。

 人間は本来ボランティアではなかったであろうか。お金のために毎日奔走する姿が人間の本来の姿では無かろう。困った人を見つけたら、黙って馳せ参じて救ってあげる。何の恩着せがましいことも無く。ただ当たり前の行為としてできたこれらのことが、今では特別のものとなってしまった。

 人の痛みを分かること、これほど今の私たちに求められていることは無い。この震災を契機にこれだけ多くの若い人たちが被災地に集結したことに勇気を感じ、ただただ熱い気持ちが胸に込み上げて来るのである

 

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