住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

なぜ私はここにいるのか 私的因縁物語1

2006年09月28日 09時30分58秒 | 様々な出来事について
今、ここ國分寺の住職となって、5年目を過ごしている。何のゆかりもなかったこの地に来て、こうして檀家さんがたはじめ周囲の皆様のお蔭で暮らしている。前に書いたように坊さんとは、ほんらい比丘(びく)であって、ヒンディ語でBhikshビクシュという。ビクシュとは、Bhikhariビカーリーという物乞いを意味する言葉と同義語である。

つまり人様からいただく物で生活している者を言うのであって、偉いわけでも何でもない。生産活動をせずに、周りの皆様のお陰で生きさせていただいている存在のことである。本来は、そうした供養に値する清浄な生活をし修行に生きているからこそお寺に住まうことが出来たのであろう。

私のような、そもそも仏教にも、この土地にも縁もゆかりもなかった者がこうして、この地に来て、当たり前のようにこの大きなお寺に住まわせていただいているのは誠に勿体ないことだと思う。しかし、仏教では、何事にも因縁ありなどと言って、すべてのことには原因と縁があるのだということを言う。私がこうしてここにいるのにも深い因縁があるということだろうか。そう思って考えてみると、実はいろいろと思い当たる節があることに気がついた。

まず私の名前とこのお寺に関する因縁からお話ししてみよう。そもそも私の僧名全雄(ぜんのう)というのは、お寺の生まれでもなく親戚にお寺があるわけでもない東京生まれの私が、26歳の時高野山で出家得度式を受ける際に、元宝寿院門主・高野山専修学院院長で高野山高室院(たかむろいん)の前官(ぜんがん)・齋藤興隆師に弟子入りして付けていただいた名前である。

しかし、前官さんはこの時既にかなりのご高齢で持病を抱えており、実は弟子入りした年の年末に亡くなられてしまっている。そこでそのとき、事前に希望する名前があったら、書き出してきなさいと言われていた。それで、いくつか自分で好きな文字を並べ、組み合わせた名前を用意していた。その中から前官さんが決めて下さった名前がこの全雄という名前であった。

勿論その時、20年も後にこうしてこの地にいることなど思いもよらなかった。しかし最近、この名前こそがこの地に私を引き寄せたのではなかったかと思うようになった。なぜなら、「全」の字は、同じ結衆寺院の老僧の名にあり、また同じ郡内で近隣出身の草繋全宜(くさなぎぜんぎ)師の一文字でもあるから。

全宜師は、明治16年に生まれ、幼少の折この國分寺を元禄時代に再建した快範師の出身寺院福性院の弟子として出家された。そして、明治の中頃、倉敷連島の宝島寺が、釋雲照律師創設の連島僧園として持戒堅固な清僧を養成する戒律学校としてあった時代に、全宜師は若き日をそこで過ごしている。

実は私をここ國分寺に御案内下さり仲介の労を執って下さったのは、現宝島寺ご住職なのである。それから全宜師は東京の目白僧園に出て、雲照律師の膝下で薫陶を受けられる。その後大正昭和と本山の様々な要職を経て戦後國分寺の本山である京都大覚寺門跡になられた。

そしてまた、「雄」の字は、國分寺の先々代住職泰雄(たいおう)師の名にあり、またその師の龍池密雄(りゅうちみつおう)師の一字でもある。密雄師は、明治の揺籃期に当時まだ一つであった真言宗の各本山独立の機運があった折に、その機に乗じて高野山の東京主張所長として高野山興隆のために気を吐いた。

後に福山の明王院に戻られてから、大覚寺門跡に担ぎ上げられ、当時高野山と大覚寺それに仁和寺が共に三派合同の古義真言宗管長を輪番で務めていたことから、後に高野山に登られ管長にもなられている。

全と雄の二文字が、ただ偶然この土地出身の高僧方と結びついたにすぎないのかもしれない。が、私にとっては、何か因縁浅からぬご縁を感じるのである。名前を付けたから因縁が生じたのか、もともとあった因縁に名前が誘発されたのかは分からない。しかしいずれにせよ、名前が私の今に結びついていることは確かなようだ。毎日書いたり読んだり呼ばれたりする名前は私たちの性格や人生に、実はとても大きな影響を与えているのではないかと思えるのである。・・・つづく

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