住職のひとりごと

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2/2/15涅槃会法話 〈お釈迦様の遺言〉

2020年02月15日 15時29分50秒 | 仏教に関する様々なお話
2/2/15涅槃会法話   〈お釈迦様の遺言〉




お釈迦様は梵天の勧めによって法を説くことを決意されて、灼熱のインドの大地を歩いて歩いて四十五年に亘って教えを説かれ、今日2月15日にお亡くなりになられました。ところで今年は2563回目のお涅槃です。仏暦では今年は、2563年ということになります。西暦に543年足すと仏暦になります。タイなどの仏教国では未だにこちらが主流です。昔は日本も皇紀何年という、明治五年から西暦よりも660年大きい年号を普通に使っていました。神武天皇即位紀元ということなんですが。戦後は西暦つまりキリスト教暦があたりまえになってしまいました。

世界中で、多少の時期の違いはありますが、今もこのお釈迦様の入滅を記念して法会が行われています。南方の国々では、ウェーサカといい、誕生と悟りとこの入滅の日の法会を同じ日にするためか、御祝いのようにお祭りをする様な感じになるのです。ですが、そもそも、お釈迦様は既に35歳の時にお悟りになられていたのです。そのことを本来は涅槃といいます。ですが、まだ身体的な作用が残っているので、身体があるが故のかすかな煩悩があるとされたため、80歳で入滅されて、すべての煩悩が滅したとして大般涅槃という様になって、お亡くなりになったことは悲しいことではあるのですが、最高の完璧な悟りに至ったとして後々の人々が祝い讃嘆する日となったのです。

私どもの地元神辺のお寺さん方では毎年どこかの寺で涅槃会を行うことになっていまして、各お寺は六年に一度涅槃会が回ってきます。どのお寺でも朝9時ころから涅槃会を行い、それからみんな金襴の大きな七条袈裟に着替えて参道の入口に移動し、御詠歌隊の次に稚児、そしてお坊さんたちが行列して練り歩き本堂にお詣りして、記念写真を撮ります。稚児は金襴の衣装に男の子は烏帽子、女の子は冠を頭にかぶります。皆さん一生の思い出になり、歳を取ると孫にさせようと思ってくださって、六年に一度、少子化の時代ではありますが、たくさんご参加くださいます。

高野山などでは、この涅槃会のことを常楽会と言いまして、「常」と「楽」の文字は、煩悩を滅し涅槃を得たお釈迦様の特性を表す四徳(常・楽・我・浄)を表していて、私たちは無常で、苦で、無我で、不浄の世の中を生きていますが、お釈迦様は常楽我浄なんだというわけなのです。高野山の常楽会では、前日の2月14日の晩11時頃から法会が始まり、法要の後、四座講式という鎌倉時代の高僧明惠上人が作られた、節の付いた語り物を読み上げます。涅槃講、羅漢講、遺跡講、舎利講の四座に分かれています。これらはみな節をつけて読み上げるのに2時間3時間かかるものばかりで、神辺では毎年この中の一つだけを唱えるのですが、高野山は四座すべてを一晩のうちに読むので、結局常楽会の終わるのは次の日の昼頃になるのです。

まずは涅槃講は、お慕いしていたお釈迦様が入滅され、涅槃に入られた悲しみを語り、羅漢講は、十六羅漢たちが、残された尊い教えを広く伝えたことに対し、その恩徳を述べます。遺跡講は、誕生(ルンビニ)、成道(ブッダガヤ)、初転法輪(サールナート)、入滅の地(クシナガラ、サールナートから北東に170kmネパール国境に近い田舎町)これら四大聖地に思いを馳せ、その尊さを述べ、舎利講は、お釈迦様の遺骨・舎利シャリーラを崇め奉る思いを述べていきます。

ところで、皆さん舎利と言えば、お寿司屋さんにあると思っているかも知れません。なんでですか、日本ではご飯のことを舎利と言うんですね。仏舎利はとても尊く、なおかつ小さな白いものだったので、日本ではいつの頃からか米粒のことを舎利というようになったのだとか。

実は私は、このお釈迦様の舎利、本当の仏舎利を間近に拝ませてもらったことがあります。1994年、今から26年前のことですが、当時はまだインドの仏教教団ベンガル仏教界の比丘(僧)として、他のインド人の比丘たちと一緒にカルカッタのインド博物館で、仏舎利を礼拝し読経しました。その日インド国立博物館からお寺に電話があり、仏舎利を特別展示するに当たり、インドのBikkhuSangha、仏教の僧たちに拝んで欲しいとのことでした。総長から早速全比丘が召集されて、7,8名だったと思いますが、みんなで車に乗り合わせて駆けつけ、裏玄関から入り、正面のメインホール中央のガラスケースに入った真骨をみんなで間近に見て合掌し、丁重に礼拝して、礼拝文、仏の十徳、法の六徳、僧の九徳を唱えました。ナモータッサーバガバトーアラハトーサンマーサンブッダッサー・・・こんな経文を唱えて、名残惜しくも帰りました。

ところで、1898年、十九世紀末に、インドがイギリスの植民地だった時代のことですが、英国人駐在官であったウイリアム・ペッペがウッタルプラデーシュ州のビルドプル、カピラバストゥの南13キロのピプラワー塔(高さ6.9m周囲35m)を発掘し、下5メートルの所に大きな石棺を発見します。壺が出てきて、中に舎利が入っていて、壺には、ブラフミー文字で「聖なるブッダの舎利を釈迦族の親族が埋葬した」と書いてありました。それまで西洋の人々はお釈迦様の実在を信じていませんでした。こんなに完璧な聖者があろうはずもないと考えたのです。ですが、この発見によってお釈迦様の実在が証明されたのです。その後この遺骨は、インド政府から仏教国タイに寄贈され、その後タイ王室からスリランカ、ミャンマーの他、日本にも寄贈されて、超宗派で創られた名古屋の覚王山日泰寺の舎利塔に祀られています。その時博物館で拝んだ真骨もそのときのものと思っていました。

しかし、その後、いろいろ調べてみますと、1972年にインド政府考古局スリバスタブ氏が同じピプラワーの塔を再発掘して、ペッペ発掘の石棺の下に新たに石棺を発掘して、その中から二つの石鹸石の径7㎝9㎝の壺に入った遺骨が出てきて、あきらかにペッペ発掘の壺よりも古いものだったため、インド政府はペッペ発掘の遺骨は複製品であって、その下から出たものが真骨であるとしました。

ですから、私が拝んだ仏舎利も、インドの博物館がお釈迦様の真骨というのですから、ペッペの発掘した遺骨ではなく、スリバスタブ氏の発掘したインド政府公認の仏舎利だったと思われるのです。そう考えてみますと、日泰寺の舎利塔に収められた舎利、タイ国王の寄贈された仏舎利はどうなるのかという事になりますが、・・・。そのこと、つまりどれが真骨かはもはや誰にもわからないということで、これに関してはもう誰も何も言われていないのが実情です。

ところで、明惠上人が四座講式を書かれたときにたぶん参考にされただろうと思われるのが、大般涅槃経です。最後のとても大事な1年の事蹟が、このパーリ長部経典『大般涅槃経』に記録されています。ラージャガハから、ナーランダー、ヴェーサーリー、クシナーラーへと旅をしながら、最期の説法をしていくのです。この中には私たちにもとてもためになる教えがたくさん残されています。

◯まず、この経典の編者は、やはり教団の存続ということが一番気がかりなことであったということを伝えようとします。マガダ国の都ラージャガハでのお話しですが、マガダ国の王さまがワッジ国という共和制をしく国を攻略しようとしていることを知り、お釈迦様が国の永続そして、僧団の永続のためにどうあるべきかを説いていきます。ワッジ国が今もお釈迦様の教えを守りこれらのことを実行しているなら、そう簡単には亡びることはないと話されるのです。

ワッジ国はよくお釈迦様の教えられた七不衰退法を今も守っていると語ります。七不衰退法とは、①よく集会する②仲良く和合する③制定されているとおりに行う④古老を尊敬し言葉を尊重⑤女人を連れ去らない⑥霊域を守る⑦阿羅漢に往来させ保護すること、とあります。そして、同様に比丘僧団の永続のために比丘たちの七不衰退法を説きます。①~④同じ⑤再生をもたらす渇愛に支配されない⑥森を修行場とする⑦同じ修行者をこころよく受け入れる。

◯次に、ナーランダーからパータリ村にいたり、男性の在家信者たちにむけて教誡します。戒を守る功徳について、つまりしっかり一日一日道徳的に暮らすことが幸せの道であると語ります。持戒者の徳という教えですが、①大きな財産②よい評判③どこに出てもおどおどせず自信④迷わず死を迎える⑤死後天界に生まれるとあります。在家の戒はご存知の通り、不殺生不偸盗不邪淫不妄語不飲酒ですね。きちんと守れば生前には裕福によく生きられ死後には天界に生まれるということです。

◯次に、多くの仏教徒が暮らすナーティカ村にいたります。死後困らないためにはどう生きるべきかと諭されるのですが、この村で亡くなった人たちが死後どこに再生したか問われます。お釈迦様はそれぞれの名前を言われ躊躇なく一人一人がどのように亡くなったかを答えていきます。不還果に50人一来果に90人預流果に500人であると語り、預流果という初歩の悟りに至れば死後悪趣に堕すことのないので、そのために必要なのは絶対的な信仰と持戒であると語ります。

これは法の鏡という法門ですが、死後地獄・餓鬼・畜生に身を堕すことのない境地を得る為の見極めは、仏・法・僧に絶対的な信仰があるか、禅定に導くほどの汚点のない完璧な戒をそなえているかを自ら確認することで可能であるということが述べられていきます。

◯次に、ヴェーサーリーに近いベールヴァ村で、雨安居に入るとお釈迦様は重病となられ、そして説かれるのが、自灯明法灯明の教えです。もっとも大事なことは自分を知ることであるということです。自灯明法灯明といいますと、他の人の意見判断に委ねることなく、自分で考え決めることが大切だという解釈がなされることがあります。自分が決断してこそ責任ある行動ができるというように。自分を信じて、そして、法はたよりにすれば良いが自分の次に来ているから、完全に信頼できないのだから自分の価値観を信じて行動せよということだという話がネットでも沢山掲載されています。ですが、これは誠に勝手な解釈といえます。

お釈迦様は、自灯明法灯明に続けて、身体・感覚・心・真理について自己を観察し、教えを理解し真理をたよりにその他のことをたよりにせず修行に精進することを説いています。身体について自己を観察するとは、例えば呼吸の出入りについて細かく観察する、立ったり歩いたり何かを持ち上げたり、日常するすべての行為についてもその都度きちんと意識して確認して行います。感覚とは、楽であるとか苦しいとか暑い寒い痛いかゆいなど身体に感じる感覚について気づきを入れていきます。心とは、今心に貪りの心があるなら貪りの心があると知り、怒りの心があるなら怒りの心があると知る、というようにそのときどきの心について観察します。真理とは、五官に入る情報に好ましいものなら欲の心が生じ、別のものに関心がいけばその欲が滅するというように、欲が生じたり滅することを観察して無常の真理を発見するというように自己を観察していくのです。これは四念処という修行なのですが、お釈迦様が最も推奨された悟りへの近道とされています。

◯次に、ヴェーサーリーに滞在されているころ、二大弟子、サーリプッタ尊者、モッガーラーナ尊者が入滅してしまいます。お釈迦様は二人のために舎利塔を作り供養してあげています。そして、お釈迦様ご自身も寿命を放棄されます。四ヶ月後には涅槃に入ると語ると、多くの弟子は香や花を供え延命を祈願したといいます。その中で、アッタダッタだけは一人洞窟に籠もります。アッタダッタはお釈迦様が入滅される前に最高の悟りを得ようと精進していました。そこで、お釈迦様は、修行のお供えこそブッダを尊敬供養することになると教えられています。(これはこの経典ではなく他の出典となります)

◯そして、周りにいた比丘たちに、すべての教え、戒・定・慧・解脱の聖なる教えを説き終わると、もはや生存への渇愛が断たれたとして、ボーガ市にいたり、教えが死後誤り伝えられないよう、誰彼から師の教えであると聞いたものだと言われても経と律にその教えが合致しているか確認せよと語ります。この教えを四大教法といいます。ある比丘がブッダから、僧団から、長老比丘方から、一人の長老比丘から、このような法や律を聞いたと言っても、それが、経や律に照らし合わせ、合致しているかを確認してから受け取るようにと教えられました。

◯パーヴァに近い鍛冶工金細工師の子チュンダのマンゴー林まですすまれると、昼に食事の招待を受けます。ここで、スーカラ・マッダヴァの供養を受けます。既にこの時かなり体力を消耗されていたお釈迦様はこの上質な豚肉料理の供養を受けた後、血を吐くほどの重病になり下痢を繰り返します。そして、これによってお釈迦様の生命が絶たれたとチュンダが非難されてはいけないと考えられ、成道前に供養された乳粥と般涅槃に入る前のこの供養は同等の功徳があるとチュンダを讃えています。

◯死ぬほどの激痛を念の力で堪え忍ばれ、クシナーラーにいたると花が時ならぬのに満開となり、弟子たちから亡くなると心を向上させてくれる存在がなくなるとの問いに答えて、ブッダ亡き後は、心清まる聖地があり、塔を建立すべしと語ります。四つの聖地とは、誕生・成道・初転法輪・入滅というブッダの四大事の地であり、見て畏怖すべき地、それらの霊地巡礼により、心清まり、死後は天界に生まれるであろうと語ります。そして、塔建立に相応しい者として、ブッダ、独覚、仏弟子、転輪聖王をあげ、塔を建立するに相応しいとするのは塔を供養礼拝することで心清まり死後天界に逝けるからと語ります。また、アーナンダの質問に答え、修行の妨げになりかねない女人に対しては、見ない、話さない、念の確立(年上の女性には母と思い、同じくらいの女性には姉妹、年下の女性は娘という心を起こす)が必要だと教えられています。

◯その頃クシナーラーに高貴な生まれのバラモン・スバッダが滞在しており、お釈迦様をお訪ね、最期の弟子となり出家します。そして、彼への教えとして、仏教こそ確かな悟りへの教えであると説かれています。八正道という実践道をそなえた教え、仏の教えのみが聖者の四段階(阿羅漢果・不還果・一来果・預流果)をすすむ悟りに導くと説かれます。これまでこのような説き方は控えておられたのですが、最後にきちんとこの教えこそ悟りに至ると述べています。

◯そして遂に、最後の言葉を残し入滅されるのですが、ブッダの死後は経と律が師、つまり自分の代わりとなると伝え、『いかなるものも移ろいゆく、怠ることなくつとめよ』と言い残し、ご入滅なされるのです。諸行は無常である、みんないずれ私同様に死を迎える、日々向上し、一日もはやく悟りなさいということであろうと思います。

◯沙羅の木の花は満開となり、天上世界からは曼荼羅華の花が降り注ぐ中、たくさんの神々、仏弟子たち、多くの人々動物たちが取り囲む中、頭北面西右脇臥といわれる一番理に適った寝方で横になられ深い禅定に入り、入滅されると、同時に大地震が起こり、雷鳴がとどろきます。雷の神・帝釈天は「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽」と偈を唱えたと言われ、このパーリ語偈文は、南方の仏教国ではいまも葬式で唱えられています。

◯クシナガラのマッラ族は遺体を香と花輪で飾り、あらゆる楽器をかなで歌い、踊って供養します。当時のインド社会では遺体は不浄なものと考えられていましたが、遺体は聖なるものとして敬うことが事細かく記されていきます。七日目に町の南から出て南にある広場で火葬しようとしますが、何人で持ち上げようとしても持ち上がらず、天眼第一のアヌルッダ尊者に尋ねると、神々の意向と違っているからだというので、神々に従うとマッラ族の人々が言い、神々の意向で、北の門から入り中央を通り、都の中央にいたり、東の門からマッラ族の王の儀式が行われるマクタ・バンダナというマッラ族の霊地に遺体を運びます。そして、新しい布で包み、よく打たれた綿で包み、さらに布で包み、これを五百重して、鉄の油槽に入れそれを別の油槽で覆う 香木で火葬薪を作り遺体をその上に置きます。そうして、火を入れようとするのですが、何度しても火が付かないので、また神に問うと、今マハーカッサパが五百人の比丘とともにこちらに向かっている、彼らが礼拝しないうちは火が付かないであろうということでした。

◯そしてしばらくして到着したマハーカッサパと五百人の比丘が遺体の周りを三回右肩を見せて回り、足下で三回礼拝するとで自然に点火し荼毘にふされたということです。燃え尽きると虚空と沙羅樹から水流が放たれ、マッラ族も水をかけて消すと、煤灰はなにも残らず舎利のみが残されたと言います。そして、それからさらに七日間、踊り、唄、あらゆる楽器による音楽、花輪、香により供養がなされたということです。そこに王族やバラモンたちが駆けつけ、仏舎利は八つに分配され、舎利を納めていた壺と、残った炭も持っていき、すべてで十基の仏塔ができたということです。すべてに配慮がなされたお釈迦様らしい完璧な最期でありました。

お釈迦様は入滅により、生ける者は必ず死を迎えるという実相をお示しになられました。そしていかに生きるべきかをもきちんと教えられて入滅なされたのでした。私たちも、お釈迦様のこの遺言をしっかり胸にとどめ生きてまいりましょう。


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続 薬師如来の真言はなぜ「オンコロコロ・・・」なのか

2020年02月09日 11時36分26秒 | 仏教に関する様々なお話
続 薬師如来の真言はなぜ「オンコロコロ・・・」なのか



前回、薬師如来の真言について見解を綴った後に、ある方から、「いやいやセンダリマトウギは、そういう意味ではあるけれども、転じて仏教を外護する役割をもつようになったんだよ」とご意見をいただいた。勿論そのようなことも存じてはおり、だからこそ前回冒頭にも述べたこの真言の訳し方の事例の中にあったように「センダリやマトウギの福の神」にもなるし、「降伏の相に住せる象王」という表現にもなるのではあるが、はたしてそのような解釈でよいのであろうかと考えてのことなのである。

田久保周誉先生の『梵字悉曇』(平河出版社)P215には、「唵 喜ばしきことよ。旃蛇利・摩登祗女神は(守護したまえり)」と訳された上で、?マークが付加されている。解説には、「この真言は『薬師如来観行儀軌法』等に見える薬師如来の小呪である。呼鑪呼鑪は歓喜の間投詞である。戦駄利(旃蛇梨正しくはcandali)は古代インド社会階級のうち、最下層に属する卑族旃陀羅の女性名詞、摩蹬祗はその別名であり、悪徳者と見做されていたが、仏の教化によって衆生の守護者に転じたと伝えられる女神である。・・・この真言に薬師如来の尊名がなく、鬼女神の名のみを挙げてあるのは、薬師如来の生死の煩悩を除く本願力を、鬼女神擁護の伝説に喩説したものであろう。」とある。このように、仏の教化によってチャンダリ・マータンギ鬼女が衆生の守護者に転じたとあるのだが、だが、だからといって、なぜ教化せしめた側がその者の名前をわざわざ真言の中に、それも、その者の名前だけを入れ込まねばならないのかが問われねばなるまい。

そもそもこの真言の出典が『薬師如来観行儀軌法』などとあるように、密教儀軌に由来する。密教的要素が多分に含まれるとされる『薬師本願功徳経』など薬師経は、五世紀頃中国で漢訳されているが、近年中央アジアなどで発見された薬師経写本も五世紀頃までさかのぼることができるという。それよりも一世紀ほど早い三世紀末成立とされる、雑密経典に『摩登伽経』がある。これが田久保先生も記される卑族旃陀羅教化の出典であろうか。

『大正新修大蔵経』までたどれないが、それからの引用である『佛弟子傳』P512(山邊修学著無我山房刊)よりその内容を要約すると、お釈迦様の侍者であったアーナンダが旃陀羅種のマータンギの娘から水を飲ませてもらったことに起因して、その娘がアーナンダに恋慕の情を募らせる。そこで、その母親である呪師によって、牛糞を塗って壇を築き護摩を焚いて呪を唱えながら蓮華を108枚投じる呪術がなされると、アーナンダがこころ迷乱してその家に誘導されていった。天眼をもってそのことを知ったお釈迦様が「戒の池、清らにして衆生の煩悩を洗ふ。智者この池に入らば無明の闇消えむ。まこと此の流れに入りし我ならば禍を弟子は逃れむ。」と偈文を唱えてアーナンダを救ったという。

その後も、娘のアーナンダに対する恋慕は止むこと無く、町に出たアーナンダの歩く後ろに付き従い祇園精舎にまで足を踏み入れると、それを知ったアーナンダはその恥ずかしさ浅ましさを感じ、そのことをお釈迦様に申し上げた。すると、お釈迦様は娘に、アーナンダの妻になるには出家せねばならぬと語り、父母にもたしかめさせてから髪を剃り出家せしめた。そして、「娘よ、色欲は火のように自分を焼き、人を焼く。愚痴の凡夫は、灯に寄る蛾のように炎の中に身を投げんとする。智者はこれと違い色欲を遠ざけて静かな楽しみを味わう。・・・」などと様々に教化された。すると、白衣が色に染まるように娘の心の垢が去って清涼の池に蘇り、遂に悟りを開いて比丘尼となったという。

こうした話が仏典にもあり、またこれより後には、呪術をつかさどる力あるものとして伝承されたためか、ヒンドゥー教ではいつの時代からかチャンダリマータンギは女神としての尊格を与えられる。そして、最下層の人々が礼拝していたとされるマータンギー女神となり、穢れを嫌わぬ禁忌のない音楽芸術をつかさどる神としてダス・マハーヴィディヤー(10人の偉大な知識の女神)の一尊としても尊崇されているという。

しかしだからといって、薬師如来の真言に、その女神の名が用いられたとするのはいかがなものであろうか。ましてや、その神としての力を念じて、その力によって人々の病魔を除き給え、心病を除き給えと念じるというのは、仏教徒として余りにも情けない解釈とは言えまいか。教化した仏が教え諭した者の名前を唱えて、そのヒンドゥーの女神の呪力によって人々の願いを叶えるなどという解釈はあり得ないことであろう。

私がこのように解するのは薬師如来はお釈迦様と本来同体と考えるからである。『密教辞典』(法蔵館刊佐和隆研編)P680薬師如来の項に「医王善逝などの名は本来は釈迦牟尼の別称で、世間の良医に喩えて釈迦が迷悟の因果を明確にして有情の悩苦を化益する意であるが、釈迦の救済活動面を具体的に表現した如来である。世間・出世間に通じる妙薬を与える。」とある。薬師如来というよりも医王、もしくは薬師仏としての原初に返って、お薬師様を捉えてはいかがであろうか。そう考えるならば、両部曼荼羅に薬師如来が不在なのもこれで了解できよう。薬師如来が十二の大願をもって如来となったという大乗経典にある説は後世の人々にとっての願いをこの如来に託しつくられたものであろう。

では、「オンコロコロセンダリマトウギソワカ」をあらためていかに解すべきかと考えるならば、やはり前回述べたような解釈とするのが最善ではないだろうか。「オーン、フルフルと速疾に、社会の中で最下層のセンダリ・マトウギたちに、幸あらんことを、(そしてすべての生き物たちが苦悩なく幸福であらんことを)」との意味から、お薬師様の誓願として、次のように意訳してみたい。「すみやかに最下層にある者たちが救われ、すべての生きとし生けるものたちがもろともに痛みなく、悩みなく、苦しみなく、しあわせであらんことを」と。

お釈迦様が何の躊躇もなく、まさに世間では卑しく蔑まれていた旃陀羅種のマータンギの娘を教化された、その教化せんとされた思いは、四姓の別なくすべてのものたちがよくあってほしいと願われる心から生ずるものであり、心病による苦は癒やされ、安楽なることを願う、衆生に利益を与えんとされる医王であるお釈迦様の心、それこそがお薬師様であり、その心に随喜して、私たちもともに念じさせていただくのだと思って、この真言をお唱えしたいと思うのである。

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