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住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

薬師如来の真言はなぜ「オンコロコロ・・・」なのか

2020年01月26日 17時17分46秒 | 仏教に関する様々なお話
薬師如来の真言はなぜ「オンコロコロ・・・」なのか



これは長年の難問であった。薬師如来の真言は意味不明であり、なぜ仏様の前でこの真言を唱え拝むのか、理解できなかったからである。お薬師様の真言とされる「オンコロコロセンダリマトウギソワカ」は、いろいろな訳し方をされる。「仏様よ、早く人々の願いを成就したまえ」「帰依し奉る、病魔を除きたまえ払いたまえ、センダリやマトーギの福の神を動かしたまえ、薬師仏よ」「速疾に速疾に暴悪の相を有せるものよ、降伏の相に住せる象王よ、わが心病を除きたまえ、成就あらしめよ」などさまざまである。

Wikipediaには、藥師真言として、以下の三種が掲載されている。
小咒「オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ」
(oṃ huru huru caṇḍāli mātaṅgi svāhā)
中咒(台密)「オン ビセイゼイ ビセイゼイ ビセイジャ サンボリギャテイ ソワカ」
(Oṃ bhaiṣajye bhaiṣajye bhaiṣajyasamudgate svāhā)
大咒「ノウモ バギャバテイ バイセイジャ クロ ベイルリヤ ハラバ アラジャヤ タタギャタヤ アラカテイ サンミャクサンボダヤ タニヤタ オン バイセイゼイ バイセイゼイ バイセイジャサンボリギャテイ ソワカ」
(Namo bhagavate bhaiṣajyaguru vaiḍūryaprabharājāya tathāgatāya arhate samyaksambuddhāya tadyathā oṃ bhaiṣajye bhaiṣajye mahābhaiṣajya-samudgate svāhā)

小咒はかなり一般的なので、違いは無いが、中咒大咒は、真言宗では読み方が違う。
中咒「オン バイセイゼイ バイセイゼイ バイセイジャ サンボリギャテイ ソワカ」
大咒「ノウボウ バギャバテイ バイセイジャ クロバイチョリヤ ハラバ アランジャヤ タタギャタヤ アラカテイ サンミャクサンボダヤ タニャタ オン バイセイゼイ バイセイゼイ バイセイジャサンボリギャテイ ソワカ」

Wikipediaには残念ながらこれらの意味まで記載していないので、手元の『真言事典』(平河出版刊八田幸雄著)をひもといてみよう。小咒については、訳として「帰命、普き諸仏に。オーム、フルフル(欣快なるかな)、チャンダリ・マータンギ鬼女よ、スヴァーハー。」とあり、これは解説に、不空訳『仏頂尊勝陀羅尼念珠儀軌法』の無能勝真言では、nama samanta-buddhānāmuを冠す、とあることから、冒頭に「帰命普き諸仏に」と挿入されているようだ。

では、チャンダリとは何であろうか。candāliを『梵和大辞典』(山喜房仏書林)には、旃陀羅家女とあり、candālaには、社会の最下層の人(シュードラの男とブラフマナの女との間に生まれた混血種姓にして一般に蔑視し嫌悪せられる)とあり、漢訳では、屠種、下賤種、執暴悪人などとある。現代ヒンディー語でチャンダーラと言えば、不可触の一種姓を指す。また、マータンギは、mātangaを大辞典で引けば、象、または象たる主な最上の者とはあるが、最下級の種姓の人[candāla]ともあって、漢訳にはやはり下賤種、旃陀羅摩登伽種とあり、チャンダリとマータンギはインド社会の中で最も虐げられた下層の人々を指すと考えられよう。なお、スヴァーハーとは、svāhāを大辞典で引けば、幸あれ、祝福あれと訳すようだが、現代ヒンディー語では、供儀の際に発する言葉であり、(神に)捧げ奉ると訳す。

もとより調べをしてみればこのような意味合いとなることを存じていたので、冒頭にあげたように訳されている意味合いにどうしたらなるのか、いかなる解釈を付けるべきか解らなかったのである。しかし今朝本尊薬師如来の供養法を修法していて、ふとこれらの疑念が一瞬にして溶解した。その時、頭にひらめいたのは、これは薬師如来の心の底から起こってくる願い、誓願であって、社会の最下層の人々、虐げられて痛ましいチャンダリマータンギの人々こそ救われて欲しい、その人たちが救われるならば、すべての者たちもより良くあるはずである、そしてすべてものたちの悩み苦しみがなくなり、生きとし生けるものたちが幸せであって欲しいというお薬師さまの願いを最も短い言葉で表現したものに違いないと思ったのである。

やや専門的な話になって恐縮だが、供養法の中で、入我我入観にひたった後、正念誦を修すが、その際唱える真言はどちらが相応しいのか。つまり、小咒か中咒かという問題がある。中院流では小咒であり、三宝院流では中咒となる。國分寺は代々三宝院流のため、これまで中咒を唱えていたのだが、次第にしっくりこないものを感じていた。本尊と一体不二となりながら中咒では不具合を起こすと言えばお解りがいただけるであろうか。そして今朝、入我我入観から正念誦にうつる時、お薬師様の願いはと心を向けた瞬間に小咒の意味するものが了解されたのである。

中咒は大咒をつづめたものに他ならないので、大咒の意味を確認してみれば、『真言事典』の大咒の訳には、「帰命し奉る、世尊薬師瑠璃光如来、阿羅漢、等正覚に。オーム、医薬尊よ、医薬尊よ、医薬来生尊よ。スヴァーハー」とある。つまり、これでは、自分と別の対象として、薬師如来に向けて唱えることになる。であるから、入我我入観の後に唱える正念誦は小咒でなければいけないのであろうと考えるのである。本尊薬師如来と一つにその願いをともに口に唱え念じることが肝要ではないだろうか。

では、一般に、小咒「オンコロコロセンダリマトウギソワカ」を唱えることをどう考えたらよいのか。これはお薬師様の心からの誓願をともに随喜して唱え願うことで、すべてのものたちに思いを拡げ、その思いやる中の一人として、この私も当然含まれているのだから、ともにこのすべての生きとし生けるものがよくあれとの真言を唱えることで、自分自身の願いも叶うと思いお唱えさせていただくのだと考えてはいかがであろうか。

そう考えれば、このお薬師様の真言はいかに訳すのがふさわしいのかが自ずと解るであろう。「すみやかに最下層にある者たちを救い、すべての生きとし生けるものたちがもろともに痛みなく、悩みなく、苦しみなく、しあわせであらんことを」と訳してはいかがであろうか。こう思ってお唱えすることで、私たちも、お薬師様の広大な慈悲の心に包まれ一体となって、その願いをともに念じさせていただくのだと思ってオンコロコロ…とお唱えしてほしいと思う。


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なぜ葬儀は必要か-初護摩後の法話より

2020年01月21日 18時46分38秒 | 仏教に関する様々なお話
初護摩後の法話

背中にお日様のあたる良い天気の中こうして皆様からお申し込みのたくさんの添え護摩木を焚かせてもらって今年最初の初護摩、初大師を誠に有り難くお勤めさせていただきました。ありがとうございます。いい正月をお過ごしいただけましたでしょうか。

年初には、イランの民兵組織の最高司令官スレイマニ氏がアメリカのドローン攻撃によりイラクで殺害され、その五日後には、イランがアメリカのイラク駐屯地を爆撃するという報復によって、あわや第三次世界大戦勃発かとの憶測が流れ、どうなることかと思われましたが、何とか穏やかに終息は致しました。また、国内的には年末にカルロスゴーン被告が国外逃亡劇を演じたことがワイドショー的な注目を浴びたりと、賑やかな年初であったなという印象です。

本当に何が起こるかわからないという様な年の始まり方ではなかったかと思うのですが、昨年は國分寺の壇家さん方にはご不幸が重なり、あれよあれよという間にこの時期既に数件のお葬式をしていたかと思います。今年はお陰様で平穏でありがたいのですが、最近葬儀社の方とお会いしましたら、この神辺でも、数年前から葬儀もせず、会館で一晩寝かせて火葬するという家が出始め、昨年は特に多くなったと言われていました。

都会ではかなりそうした直葬が増えているとは聞いていましたが、割と古い家が多く近所との関係が濃い土地柄と思っていましたので、この神辺で直葬があるとは驚くばかりなのですが、知り合いのお寺さんでは、盆参りに行ったら、いつもすぐに出てくるお婆さんが居ないから尋ねると、実は亡くなったのですが、…とのことで、急遽仏間で簡略の葬儀をして戒名を付けてあげたということがあったと聞きました。

ではどうしてお葬式をしなくてはいけないのでしょうか。私が思うには、人はどのように一生を過ごしてきたのだろうかと考えなくてはいけないと思うのです。人は一人では生きられません。一人が生きるには、家族だけでも、親族だけでもなく、沢山の周りの人たち、衣食住に関わるすべての人たちのお蔭で長い人生を生きてきた訳です。それを死にましたらからと、もう居ませんから関わりが無くなりました。という訳にはいかないのが人間ではないでしょうか。長年皆様のおかげで生きてまいりました、故人に代わり御礼申し上げ、故人亡き後もご交誼を願うのが本来ではないかと思うのです。

今頃はペットとして可愛がられた動物でも葬儀をして火葬にし、さらには供養までする時代です。それを何十年も生きてきた人が亡くなって、何も周りにも言わずに、直葬で済ませましたというのは、余りにも故人に気の毒であり、近隣の人たちにとって礼を欠く行為ではないでしょうか。亡くなった方は何を頼りにみまかるのでしょうか。残された遺族や親しかった人は、どのように心の悲しみを癒やすのでしょうか。

そもそも私たち日本人は、後生がいい、悪いという言葉があるように、自分の死後のことを気にかけて生きてきました。ですが、現代人は今のこの刹那のことにばかりに気を取られ、まったく余裕もなくゆとりのない生き方をしているが故に、自分の後生はもとより、身近な人の死後のことも気にかけてあげられないというのが実際ではないでしょうか。

後生がいいか悪いか。死後の行き先がよいかわるいか、それは生前の行いにもよりましょうが、ともに生きてきた家族親族の方たちにとっては、その故人が死後もよりよくあって欲しい、よいところに逝って欲しいという思いを託す場として葬儀がありました。祈り手にその思いを託し、死後の安楽を願う場です。直葬で、という方にはそれなりの深刻な事情があることもありましょう。

ですが、何かできるはずです。今風に立派な会館でしなくても、小さな会場でも、家ででも、近い人たちだけの心のこもったお葬式はできるはずです。是非、身近な方で葬儀のことでいろいろと悩んでいる方があったら、こんな話をしてあげて欲しいと思います。私たちも、自分の後のことを考え、家族の後のことを思いやれる、ゆとりを持った生き方をしたいと思います。

来月もまた皆さん21日朝早くからで大変とは思いますが、お誘い合わせの上お参り下さいますように、この一年もどうぞ宜しくお願いいたします。

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『構築された仏教思想 空海』(2019年12月15日佼成出版社刊)を読んで

2020年01月12日 16時18分14秒 | 仏教書探訪
『構築された仏教思想 空海』(2019年12月15日佼成出版社刊)を読んで



大正大学名誉教授の平井宥慶先生による空海論である。これまでにも時あるごとに、その生涯や思想については読んできたつもりなので、総復習のつもりで気楽に読み始めてみたのではあるが、一ページ目から、平井先生の豊富な学識を思い知らされる硬質な文面に出会うことになった。

わが国で国家レベルで仏教の受容が始まるのは聖徳太子の時代とあり、近時この太子の存在自体に疑義がもたれ、歴史学でもてはやされたことについて、現存資料どうしの錯誤によって極言したものであり、それは歴史学の横暴であると切り捨てられる。そして、もし太子的存在がなければ以後の日本社会の歴史はよほど変わったものになっていただろうとされる。さらには壬申の乱を経て倭国は日本国になったとあり、空海の生年についても、同時代的資料はないと断言されるなど、確かな確証を追求しつつ歴史と対峙されてきた先生であることがこれらの書き方だけで、よく解る。

そして、鎌倉時代の法然上人こそ八万四千の教えの中から浄土教を選択(せんじゃく)した、選択のもとのように思われているが、日本仏教における選択は平安時代の空海こそが大本であるといわれる。空海は都で儒学を学んでいたのに仏教を選択し、仏教の中でも密教を選択してその教えをこの日本で花開かせた人なのである。それまでの日本思想界にあって思想の選択をするなどということはなく、選択するということは空海の思索人生のすべてを通じて終生の必須事であったとも言われている。だからこそ『十住心論』などという、すべての教えを自らの思想体系の中に包摂する思想体系を築けたのだともいえようか。

そして、空海入唐の事情についても、単にたまたま延暦23(804)年の遣唐船に乗船したのではなく、24歳からの知られざる不明の七年間に、入唐の目的を確実にかなえるために、かの地の情報を新羅や渤海の知人を頼り収集していたのではないかとされる。その目的とは最高の祖師から密教の奥義を授かり灌頂を受けることであると断言されている。特に伝法灌頂を受けるというのは三ヶ月程度の準備でできるものではなく、現在の様な伝授の作法本がある時代でもないので、両部の曼荼羅は青龍寺にあるものを使用するにしても、自ら伝授の次第を大日経や金剛頂経、儀軌などを参考に作成し、作法に要する仏具から、支具のすべてを用意しなければならなかったであろう。

とすると、かなりの準備時間と修練が必要になる。作法ごと、主尊ごとの真言と印と観想を修養するのにどれだけの時間が必要であろうか。今高野山で伝法灌頂を受けるには少なくとも百日間の修行を要する。恵果阿闍梨を驚かしむるほどに、既に真言や印相を習得されていた空海はそれだけの準備をして、さらには空海が伝法灌頂を受法した翌年には入滅される恵果阿闍梨の寿命幾ばくも無いことを知って、この時期に急ぎ駆けつけていくほどに唐の仏教事情についても情報収集していたというのである。

空海は、唐にて20年の修学を命ぜられて入唐したのに、わずか足かけ三年、実質的には1年半ほどで帰朝することになったとされているが、その20年というのは空海の認めた『御請来目録』にあるのみで、公の資料にはないのだという。さらに帰朝後三年間九州の地に留め置かれたのも、観世音寺にと思われているが、そうした伝は観世音寺にはなく、留め置かれたのも国禁を犯したためではなくて、桓武天皇が崩御し、次の平城天皇即位するものの「伊予親王の変」が起こったりと当時の政局に争乱が重なってのことに過ぎないとされている。

奈良仏教と争う天台の最澄師とは違い奈良勢力ともよい関係にあった空海は、東大寺の第14世別当つまり住職となっている。今日もある真言院を創り、灌頂道場も勅許を得て建立している。また入滅二三前年からの行跡が大変詳しく記されているのには大変勉強になった。その頃からすべて死期を察して準備していく確かな足取りが目に浮かぶ様である。

天長9(832)年には「高野山万灯会願文」にて有名な「虚空尽き衆生尽き涅槃尽きなば我が願いも尽きなん」という名句を残し、高雄山寺や東寺、高野山を弟子らに託し、承和元(834)年には宮中真言院の正月御修法を上奏し、東寺に三綱(上座・寺主・都維那)を設置、翌2年には宮中で後七日御修法が実施され、真言宗に年分度者が三人認められ、金剛峯寺が定額寺として認められて、官寺と同格となっている。そして、3月15日弟子らに遺言(御遺告)がなされて、21日に禅定に入るが如くに入滅している。これを後には「入定」という、とある。

ここまでが「波瀾万丈の生涯」第一章である。第二章は、仏教の起こりからどのように密教が構築されていったのかをあきらかにする「真言密教の確立」、第三章には「曼荼羅世界の魅力」と題して、主に空海の独特なる精神世界の見取り図・十住心論について解りやすく説いていく。さらには、第四章「日本文化への道」では、空海の弘法大師としての文化的な広がり、その御像の様々なバリエーションについて述べ、空海の著作についてのコメント、また近代からの文化人の空海評や近年における空海を題材とする小説についてのコメントも辛みが効いて読んでいて面白い。

以上、179ページの小さな著作ではあるが、その内容は誠に重厚である。ひとつ一つの内容に先生の持つ確たる主張が隠されていて読んでいて誠に勉強になった。冒頭に書いたように総復習のつもりが新たな発見の連続で、なおかつ空海密教に関する確かな知識をこの一冊で習得できる。是非御一読をお勧めしたい。

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『アジア的融和共生思想の可能性』第一章「梵天勧請思想と神仏習合」に学ぶ

2020年01月11日 16時32分29秒 | 仏教書探訪
『アジア的融和共生思想の可能性』第一章「梵天勧請思想と神仏習合」に学ぶ



昨年12月20日刊行の中央大学政策文化総合研究所研究叢書の一冊である。編著者の中央大学国際情報学部教授の保坂俊司先生は、これまでにも世界レベルの論文をいくつも世に問うてこられた。インドのヒンドゥー教とイスラム教が融合したシク教と大乗仏教との相似に関する研究、大乗仏教興起発展に関する西域から来たる異民族多民族統治のイデオロギーとしての思想展開論、インド世界から仏教がなぜ亡んだかということについてイスラム資料を渉猟されて仏教徒が非暴力を貫くが故に改宗していったとの推論、またイスラム教の宗派の中にあってインドに伝わるスーフィーという神秘主義者たちの思想による穏健なイスラム教徒の存在に注目すべきであるとする論文など、枚挙に遑ない。

そしてこの度は、本書第一章「梵天勧請思想と神仏習合」において、これまで保坂先生ご自身が、インドにおいて仏教が衰滅したのはなぜかと探求されてイスラム教側の資料である『チャチュ・ナーマ』に着目されて到達された推論には実は完全にはご納得が得られていなかった部分があり、その後も思索され続けたことにより、仏教の根幹ともいえる他宗教にない最も独特なる思想を見つけられ、それこそが仏教を広く世界宗教に押し上げたのであり、かつ、逆に衰滅にいたらせることになったのだと結論される。

その仏教の根本たる独特なる教えとは、そもそもの仏教の発端ともいえる「梵天勧請」にあるのではないかと言うのである。梵天勧請とは、ご存知の通り、お釈迦様成道後に、この悟りは深淵にして欲望燃えさかる世間の者たちには理解し得ないであろうから説くまいとされたお釈迦様の前に、インド世界の最高神である梵天が舞い降りて、このままでは世間は滅びてしまう、この世の中には欲薄く心清き者もあり、その者たちに教え諭すならばきっと最高の悟りを得られる者もあろうから法を説いてくれるようにと説得を受ける。そして、ならばもう一度この世の中を見てみようと天眼通によって世間の者たちを眺めてみるに、確かに心清き者たちの存在があることを知り、お釈迦様は法を説くことを決心したというエピソードである。

私自身は、この教えは、お釈迦様に対してインドの当時の宗教世界の最高神自らが教えを乞う、つまりは神々の立場よりもお釈迦様の悟りは上位にあり、その存在はより崇高なものであることを示す教えとして受け取ってきた。しかし、先生は、その教えはそれだけにとどまらず、他者からの働きかけが不可欠であるという仏教の性格、特に他宗教との融和融合共生を示すものであり、これこそが他の宗教にない、最も仏教的なる、独特なるものなのだとその意味を説いていかれる。

かつて『インド仏教はなぜ亡んだのか』(2003年北樹出版刊)において推論された、当時の仏教徒らが不殺生非暴力の教えを大切にするが故にイスラム教徒に改宗していって、それがためにインドにおいて仏教が亡んだのであれば、同様にジャイナ教という非暴力を説く教えも亡んでいなければならないが、未だに少数ながらジャイナ教は今日迄存在し続けている。その矛盾を解く鍵として、この梵天勧請があるのではないかと着目されたのであった。

先生は、この話はお釈迦様自らが早い段階から弟子たちに説いたのではないかと推量されている。パーリ経典中の「サンユッタ・ニカーヤ」、漢訳経典の「増一阿含」に収録されている『梵天の勧請』に経典としてまとめられていくのは、もちろんお釈迦様没後のことではあるが、お釈迦様自らこうしたエピソードを語り伝えてきていたのであり、それは他宗との共存協和共生のために必要不可欠なものであった。そして、これこそが仏教の伝統ともいえる、他を受け入れ自らを変容してでも融和して一体となって繁栄する相利共栄の思想になったといわれるのである。

当時バラモン教が主流だったインド世界にあって、仏教勢力が世間の中で一定の位置を得て、托鉢し、また昼食に招待されつつ社会の中に留まるためには、こうした教えに基づく融和共生の立場はとても大切なものであったのだと思われる。初期経典を読んでみれば当時のバラモンらがこぞってお釈迦様に疑問をぶつけ、討論しては論破され、教え諭されて信者になったり弟子となり出家をしている。

大乗仏教も、先生の他の著書(『国家と宗教』2006年光文社新書)にて学ばせていただいたことではあるが、西域からやってきた異民族による王朝の多民族を統治するイデオロギーとして、誰をも分け隔てなく受け入れる原理として自らを絶対視しない互いに他を尊重する教えとして空を説いた。そして、西域の文化を取り入れ誰もが菩薩であるとの平等思想を説き、民衆のために聖典の読誦や仏像ストゥーパを信仰し礼拝することを行とする現実的な教えを説いていくことで繁栄した。

そして、イスラム教徒のインド侵攻に際しても、もちろん当時のヒンドゥー教徒からの圧力に対抗する意味合いもあってのことではあるが、イスラム教徒との融和共生を模索するが故に、改宗と見られる様な立場となりながらも不殺生非暴力の教えを守ることになる。しかし、そこには仏教徒としての矜持として、仏教の教えをその中で活かし誇示する行動も記録されているという。八、九世紀の中央アジアでの事例として、改宗したかつての仏教徒一族がブッダ伝をアラビア語に訳したり、メッカのカーバ神殿の儀礼に仏教的な儀礼を導入したらしいといわれていると記される。

そしてこの梵天勧請という思想構造は、私たち日本人にとっての「神仏習合」に他ならないのだと解りやすく説いていかれる。梵天勧請とは、仏教側に他宗教が教えを乞い、それによって相手を救済していくという構造にある。百済からもたらされた仏教が蘇我氏によって進んで取り入れられはしていたが、用明天皇によって帰依を受けることによって初めて公認された宗教となったのであり、神道の最高なる主宰者としての天皇が帰依することによって法が説かれ、神社に仏が祀られ、寺院に神が祀られてともに発展繁栄していく。この神仏習合の形態は正に梵天勧請と同じ構造と言えるのだという。これは比較宗教学を専門とされつつも日本仏教文化に精通された保坂先生の慧眼による一学説となるものであると言えよう。

そして、日本において江戸時代まで国教の立場にあった仏教が今日の様な位置に貶められた切っ掛けとなった明治の神道国教化に基づく仏教排斥も、正にインド仏教が亡んだように、自分の中に他の宗教と融和し共生するが故にその内包した他者によって内部から破壊されると大変もろく衰亡に繋がる一事例に他ならないと説明されている。

最後に、先生は、こうした仏教の特質は、今日の宗教間の確執によって抗争する国際情勢にあって、「異なる他者を受け入れ、自己犠牲を厭わず、平和裏に共生関係を持とうとする仏教の教えは再評価する意義があるのではないか」といわれる。これは正に仏教の他にない最も大切なアピールポイントであって、だからこそ今世界的に仏教の瞑想が普及し得たとも言えようか。先生も近年欧米でもてはやされる「マインドフルネス」と喧伝される仏教瞑想が普及することで仏教の平和思想への共感が急速に高まっているといわれていると指摘される。単にビジネスに活用するスキルとしての瞑想ではなく、根本の仏教思想にまで彼らの関心が及び、これからの世界を平和に導く原動力となることを先生共々に願いたい。今回こうした最先端の仏教論文を読ませていただき、仏教の仏教たるゆえんを新たに知ることができましたことに感謝申し上げます。

最後にはなるが、皆様には、是非この中央大学の研究叢書『アジア的融和共生思想の可能性』を直接手に取り、先生方の論文からさらに多くのことを学んで欲しいと思う。


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令和二年元旦護摩後の法話

2020年01月01日 06時25分19秒 | 仏教に関する様々なお話
令和二年元旦護摩後の法話

明けましておめでとう御座います。今年もこうして皆様の読経を聞きながら、元旦の護摩を焚き新年を迎えることができました。誠に有り難いことと存じます。令和となって最初のお正月、今年の干支は子年であり干支の始まりの年でもあります。子年はネズミが沢山子を産むことから繁盛の年繁栄の年とも言われます。また夏にはオリンピックも東京で開催されることになっており、様々なことの新たな幕開けの年と位置づけられても居ます。

そうした一年のスタートに当たり、この神辺にあって、私たちはいかにあるべきか、生きるべきかと考える訳ですが、そう特別なこともなくただ地道に生きるしかないのだとは思いますが、できれば徳を積み、何かあるときその功徳によって少しでも良い方向に因果が転んでくれる様に願うことが一番であろうと思うのです。

ところで、奈良に天武天皇開基の藥師寺という大きなお寺があります。近年高田好胤さんというテレビマスコミでも活躍された有名な管長さんが居られ、全国からくる修学旅行者にマイクもなしで毎日法話され、百万巻の写経により金堂や塔を再建されましたが、そのお師匠さんに橋本凝胤老師という、この方もいろいろな文化人と討論したりして、また当時の奈良仏教界の金看板の様な高僧といわれるほどに傑出した学僧が居られました。昭和十四年に藥師寺の住職となり、四二年に好胤師に後を頼み、五三年に八二歳で遷化されています。

この凝胤老師が晩年に開山されたお寺があります。丁度五十年前のことになりますが、長野県蓼科に聖光寺というお寺が開創されています。この寺は交通安全と交通事故による死者への供養と負傷者の回復を願う特別な寺で、創られたのはトヨタ自動車販売の初代社長の神谷正太郎さんという方です。この人は、トヨタ自動車系ディーラーの礎を一代で築き上げ、その豪腕から「販売の神様」と称された方ですが、昭和四十年代、戦後の高度経済成長を牽引する自動車産業の中にあって、性能の良い車を作れば作るほど沢山の交通事故が起こる、どうすべきかと考え、藥師寺の橋本凝胤老師を訪ね相談した所、公表せずに寺院を建立し供養しなさいと言われ、全国のトヨタの関係会社から寄付を募り、蓼科に寺院を建立されたのです。そして今日迄、年に二日幹部役員が集合して交通事故死者の供養をし、交通安全を祈願して藥師寺管長の法話を聞くということを毎年続けているのだそうです。

だからこそ今日のトヨタの繁栄もあるのかとは思いますが、そのことに共鳴したのが、ギル・プラットという方です。現在世界の自動車業界はAI等を駆使した自動制御システムの先端技術の粋をこらした技術開発競争のまっただ中にありますが、この方は平成13年5月アメリカのマサチューセッツ工科大学の電気工学・コンピューターサイエンス准教授、平成13年9月オーリン工科大学電気工学・コンピューターサイエンス准教授、平成18年1月同校電気工学・コンピューターサイエンス教授、さらに平成20年9月同校副学長Faculty Affairs and Research担当を経て、平成22年1月には米国国防総省国防高等研究計画局国防科学戦術技術室ロボット工学および神経形態学的システムプログラム・マネージャーなどを歴任した、ロボット工学、またAI研究の第一人者であるとのことです。

当然のことながら世界中の自動車製造各社から自動運転の技術構築のために引く手あまただったそうですが、この聖光寺の話を聞かれ、トヨタに協力することを申し出られたのだとか。今では、人工知能技術に関する先端研究、商品企画を目的として平成28年1月にトヨタ自動車により設立された研究所であるトヨタ・リサーチ・インスティチューションのCEOとなってトヨタの事故を起こさないクルマ作りのために、運転者を補助する自動運転技術の開発、さらにはクルマと次世代の都市空間の創造のために新たな試みが進められているのだとか。

これによって今後もトヨタは世界の企業の中で重要な位置を確保していくことと思われますが、私たちも、人知れず陰徳を積んで、いざというときに新たな飛躍を遂げられるべく日々地道に努力することを大事にして今年も精進してまいりましょう。本年もどうぞ宜しくお願い致します。

(参考文献・令和元年十二月号大法輪リレー講演・中央大学保坂俊司教授「罪としての労働と慈悲行としてのはたらく」)

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