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住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

わかりやすい仏教史①ーお釈迦様の時代 1

2007年03月31日 19時55分11秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
(大法輪誌平成十三年七月号掲載)

私たち日本人の多くは、海外などに行って「あなたの宗教は?」と聞かれたとき、自分でも多少の疑問を感じつつも、「仏教徒です」と答えてしまうそうです。そして、それがアジアの仏教国であれば、その問いかけがきっかけとなり、そこで目にした仏教と自国の仏教の違いを少なからず感じられることでしょう。同じ仏教でありながら、どうしてこんなにも違うのかと疑問に思うかも知れません。

ところで、今日世界で行われている仏教は大きく三つに色分けすることが出来ます。日本の仏教は様々な宗派がありますが、どれもが中国や朝鮮から海を越え、もたらされた大乗仏教です。インドから北西部のヒンドゥークシ山脈を越えてシルクロードを通り、さみだれ的に伝えられてきた経文や仏像によって形成されていく北伝仏教と言われているものです。これらの仲間には中国、韓国、台湾、それにベトナムが入ります。

そして、チベットやモンゴル、ネパールの一部、また日本の真言宗と天台宗の一部は大乗仏教の中でも、特に密教と呼ばれる仏教です。

これに対しスリランカやタイ、ミャンマー、ラオス、カンボジア、マレーシア、ネパール、バングラデシュ、インドなどで行われている仏教は、教科書などで小乗仏教という名で教えられている南方経由の仏教。ですが、小乗仏教というのは正しい表現ではなく、正確には上座仏教と言われています。

こちらのお坊さんたちは国の違いにもかかわらず、みな同系の茶褐色の袈裟を身に纏っています。また今日ではアジア諸国ばかりか、上座仏教はイギリスやアメリカ、オーストラリアなどでも、自国のお坊さんも誕生し、まじめに実践されているということです。

今ではこのように、世界中で実践されているこれらの仏教が、どのような変遷のもとに違いを生じてきたのかを探るために、お釈迦様から私たちの仏教にいたる『仏教のルーツ』を、ここで皆さんと一緒に学んでいきたいと思います。時代背景やお坊さんたちの暮らしぶりなどを中心に、まずは仏教を教え説かれたお釈迦様の時代から歴史をスタートさせていこうと思います。

「お釈迦様の時代」

お釈迦様の時代は、すでに農耕牧畜が営まれ、かつ貨幣が早くも流通して商工業が盛んになり、城壁に囲まれた都市を中心に、マガダ、カーシー、ヴァッジー、マッラ、コーサラなど十六の王国、共和国が生まれていました。

当時絶対の権威をもって振る舞っていた聖職者バラモンは、自分たちの階級の神聖さを誇り、ヴェーダ聖典の権威を主張し、祭祀儀礼を司っていました。彼らは、人の運命とは生け贄を供える厳格な祭儀を盛大に行うか否かにあると主張しておりました。

また一方では、そうした姿勢を批判し、己の行いにより幸不幸が決まるとする業報説や、それが次の世にも及ぶとする輪廻説を主張するバラモンも現れるようになっていました。

そして、さらに自ら家を出て輪廻からの解脱を求め、自由に修行し思索に励む、沙門と呼ばれる人々も数多く現れていました。お釈迦様も、その中の一人として出家され、家族、財産、地位、身分を放棄しつつも、その後の人生において、二千五百年経た今もなお、インドにおいて誰もが認める最大の聖者として崇められる生涯を送られました。

誕生と出家

お釈迦様は、紀元前六世紀頃、今のネパール中央南部からインド国境地方にかけてあった、コーサラ国に隷属する小国釈迦国の王子として、ルンビニでお生まれになりました。長ずるに従い俗世の生活に疑問を感じられ、妻と生まれたばかりの子息を残して二九歳のとき出家。

きらびやかな王宮の服を脱ぎ剃髪して、人里離れた森に入られました。そして、そこから六〇〇キロ離れたマガダ国の都ラージャガハ近郊にやって来られ、止息や断食など誰よりも徹底した苦行を行ったと言われています。

菩提樹下のさとりー成道

そうした苦行を経て、ネーランジャラー河で沐浴し、スジャータ村の娘から受けた乳粥で体力を回復され、ピッパラ樹(菩提樹)下で禅定に入り、苦しむ生の連続、輪廻からの解脱を成し遂げられたのでありました。この時、御年、三五歳。ウルヴェーラー村セーナー(今のブッダガヤ)での成道でした。

このときお釈迦様は、この世のすべてのものは原因(因)と多くの条件(縁)によって起こると、のちに∧縁起の法∨と呼ばれるこの世の存在のあり方、法則を観察されたと言われています。また、生まれ、老い、病み、死すものである私たちの苦しみがいかに生じ、いかにそれを滅するべきかを思索されたとも伝えられています。

最初の説法ー初転法輪

そして、そこから二五〇キロ離れたカーシーの都バーラーナシーの北八キロに位置するイシパタナ・ミガダーヤ(今のサールナート)で、初めての説法を成功させ、五人のお坊さんによる僧団が誕生いたしました。

これによって、仏教徒にとって帰依の対象となる〈仏・法・僧〉の三宝が成立したのです。そして、この記念すべき最初の説法を初転法輪といい、このとき、お釈迦様は〈四聖諦〉の教えを説かれたとされています。

四聖諦は苦諦、集諦、滅諦、道諦を内容とする四つの聖なる真実をいい、私たちが今をどう受けとめいかに生きるべきかを説く実践の体系であります。

〈苦諦〉とは、生老病死に代表されるように総じて人生のありようは苦であり、その現実をありのままに知るべきであるということです。私たちのまわりのものすべては、移ろい変わりゆく無常なるものであり、完全なもの満足の出来るものなど何一つありません。自分も自分のものも、すべてのものは様々な原因、ある条件の下に成り立っている不確かなものばかりです。それが故に思い通りになるものなどなく、私たちは常に苦しみを感じつつあるのです。

そして、〈集諦〉とは、その苦しみをもたらす原因をいい、それは私たちがものごとの因果法則をたとえ知りつつも認めようとしない心、今ないものを求め今あるものに満足できない欲、渇愛にあり、それを厭い離れるべきこと。

〈滅諦〉とは、そうした苦しみをもたらす渇愛に代表される、貪り、怒り、妬み、おごり、恨み、物惜しみ、嫉妬などすべての心の汚れ、煩悩の火を消し去った状態を証ずべきであること。

そして、〈道諦〉とは、そうした清らかな心にいたる八正道という実践法を修習すべきことであります。八正道は中庸の道とも言われ、苦行や贅沢な欲ばかりの生活など極端な生き方を超越し、私たちがいかに生きるべきかを説いたものです。またお釈迦様の教えの中核となる教えであり、仏教のシンボル・法輪は、この八正道を表したものだと言われています。

八正道は、
〈正見〉偏見や断定をやめ、四聖諦をよく知り理解すること、
〈正思惟〉欲や怒りの心を離れて考えること、
〈正語〉嘘、悪口、汚い言葉を用いずに話すこと、
〈正業〉殺生、盗み、邪淫、博打など悪行を止め、なすべきことをすること、
〈正命〉自然や社会、生き物を育むような仕事により生計を立てること、
〈正精進〉悪い習慣をやめ善い習慣を行うように努めること、
〈正念〉そのときそのときの行い思いに気づいていること、
〈正定〉こころの落ち着き、安定、安らぎ、をその内容とします。

お釈迦様は、これらの教えをお坊さんたちをはじめ、在家の弟子にも、その人の修行の段階に応じ、様々なレベルでお説きになりました。つづく

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仏教という教えの核心

2007年03月26日 17時55分14秒 | 仏教に関する様々なお話
ある先生との往復書簡の私からの回答をここに掲載します。この中に、仏教の核心が述べてあると考えますので、ご参考までにお読み下さい。

「・・・先生には、インドへ行かれたとのこと、多くのことを見聞なされたことと拝察いたします。インドには何度も行ける人と一度行って二度と行かないと言う人とあるようです。人によっては、インドには呼ばれないと行けない、だから行ける人と行けない人があるなどと神がかったことを言う人まであります。

幸い私は何度もインドに呼ばれて行く機会を得たことは、仏教を学ぶ者として誠に幸運であったと思っています。インドはしばらく暮らしておりますと、それはそれで誠に素晴らしい人々の合理的な営み、人種差別はあれど、それでも貧しい者が生きやすい知恵をもった国だと思えます。

ところで、私の狭小な知識で申し上げますことを御理解の上でお受け取りいただきたいのですが、先生の仏教に対するご認識には同意できない点がいくつかございますので申し上げさせていただきます。

先生の先日のメールの中に、『仏教は「無常」(つねなるものはない)などではなない。無我(むが、おのれの存在の否定)そのものだ。縁起(えんぎ)や、中観(ちゅうがん)ですらない。それらも、ブッダ本人は言っていない。』とお書きになっていますが、無我という言葉はその言葉だけで存在するものではなく、縁起や無常ということと切り離して考えることのできない教えだと思います。

また、『空(くう)とは、絶対的に、無 のことである。これ以外の解釈はすべてウソだ。 死ねば一切が、消える。ずべては、無だ、という思想です。ただし、激しい修行(苦行)などするな、という一点で、悟った。悟り(正覚)というには、解脱(げだつ)で、ブッダが35歳で到達したのですが、この「解脱」というのは、ヒンドゥーの思想そのものであって、仏教に中には、それに相当する言葉がない。』ともお書きになっておられますが、このようなお考えに至る資料などがおありでしたらお教えいただきたいと存じます。

私は、以前にも申し上げましたように空は無であるとは思えません。死ねば一切は消えるとも思えません。すべては無であるなら、何をしても意味がない、私たちは意味のない人生を歩んでいることになります。

死ねば何もないのであれば、何をしてもよい、悪いことをしても生きている間だけいい思いをして死ねればいい。つまり悪いことをしても捕まらずに済めばそれで済むという悪事ばかりがはびこる世の中になるでしょう。

そんな簡単なものではないよと、死んでも残るものがある次の世に行ったときに大変なことになるよと考えるのがインドの智慧です。業や輪廻の考えはインド世界に古くあったと言われますが、その思想を深く展開され単なる生まれ変わるということではない、それを生命観にまで高められたのはお釈迦様だと言われています。

解脱という言葉はジーヴァンムクタと言って、ヒンドゥー教の人たちも使うわけですが、だからといって、仏教の言葉ではないと言うことは出来ません。解脱とは、輪廻しないさとりを得らたということであって、大乗仏典ではない初期経典(南伝上座部所伝のパーリ仏典)に解脱という言葉はたくさん出てまいります。

『ブッダの80歳での死のことを、涅槃(ねはん、ニルヴァーナ)と言って、入寂、仏滅ですが、こっちのことを、本当の悟り(understanding )というのではないですか。』ともお書きなっています。

が、これは確かに、入滅したときを「無余涅槃」と言い、完全なさとりとも言うようですが、身体が死滅して生存に対する諸欲もなくなったという意味であって、だからといって生きておられたときが本当の悟りではないと言うことではありません。

『仏教には、悟り(解脱)というのは、無いはずです。 仏教(釈迦の教え、ブッダの言葉)は、徹底的に、死ねばすべてがおしまい、消えてなくなるのだ、という思想です。ブッダのあとから現れた、アホたちが、のちのちの高僧どもとなって、何を言ったかは、一切、問題ではない。ブッダがしゃべった言葉だけが、本物の仏教だ。それ以外は、ずべて、ウソだ。でっち上げです。』

これについても沢山の初期仏典にお釈迦様ご自身の言葉として私はさとったと言われていますので、先生がどのような見解からこのようにおっしゃられるのか理解できません。

『日本で、空海、最澄、親鸞やら、日蓮やら、道元やら、を崇拝するなら、どうぞ。それがその人の宗教ですから。「しかし、お釈迦様本人は、そんなことは、どこにも言っていないからな」「証拠を出してみろ」という、私からの、攻撃を彼らは受けることになります。 』

このことは先生のおっしゃるとおりです。私も同感です。ですが、もう一言いわせていただけば、輪廻など無い死んだら無に帰す、何もないという考えは、実は今の日本仏教の多くの学者、僧侶の取っている見解です。

明治までの学僧はみな輪廻ということをきちんと理解していました。現代の仏教者たちは、死ねば何もなくなる、仏の世界に行けるなどと簡単に言うことで世間に媚びている。だから、日本の仏教は何も意味のある真に仏教の仏教たる根幹を説けなくなった。仏の世界に誰でも葬式をすれば行けるなどと言って、仏教の教えを貶めているのです。

『私は、ゴータマ・シッダールダ本人が、しゃべった言葉、以外は、絶対に、仏教(ブッディズム)ではない、と原理的に、決め付けます。そして、一切のウソを排除します。』

お釈迦様本人の言葉というのがどこにあるかということが大問題でして、文献学上、私は、南伝上座部所伝のパーリ仏典中の相応部経典、増支部経典、小部経典、また中部経典であろうと考えております。スッタニパータ、ダンマパタ゜は小部経典に含まれます。そして、この姿勢から仏教を捉えますと、輪廻転生(つまり三世因果)、無常苦無我、縁起ということが仏教の中心課題になってまいります。

決して仏教はその人の短い人生に冷水を浴びせるようなものではありません。苦しみばかりの人生に意味を与え、明るく生き生きと過ごせるようになる教えです。仏教を学べば、悪いことが出来なくなり、善いことをしたくなり、自然と心が清らかに安らぎを感じる。そのような教えであると私は確信いたします。・・・」

みんな死んだらみんなおしまい、消えて無くなるなら、みんな生まれたときに違う環境に生まれてくることをどう説明できるのでしょうか。私たちはみんな生まれたときから違う人生を歩み、思いも行いも違います。だからこそ一人一人生きる意味がある。

その違いを説明するためにはみな違う原因を生まれてくるときに既に持っているからだと仏教では考えます。その原因がすでに生まれたときに存在するのは、その前世で死するときに心に抱え込んだ原因があったからだとします。その原因は、いわゆる業と言われるものであり、その人の行いの蓄積として抱え込んだ心に残されたエネルギーです。

そのエネルギーをよりよいエネルギーとするために仏教の教えがあります。今生で間違いのない人生を歩み、来世もより良いところに転生するため、少しでも心をキレイにしてよい業を蓄積するために。

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第二回日本の古寺巡りシリーズ「のどかな大原の里をゆく-陽春の三千院・寂光院」

2007年03月21日 12時35分14秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
一昨日、19日朝7時にお寺を出て、バスに乗り込む。東に国道を進み乗り合わせた同行39人とともに一路京都大原を目指して山陽自動車道を駆ける。笠岡インターから高速に乗り、道中祈願。般若心経に今日各お堂でお唱えする諸尊のご真言をお唱えする。

三千院・寂光院は天台宗のお寺。先だって電話で問い合わせると、心経でよろしいとのこと、また真言は真言宗と同じ平安時代に開かれた天台密教であるから同じようだ。しかし回向文が場合によったら、変更の可能性があり、「願以此功徳・平等施一切・同発菩提心・往生安楽国」もお唱えしておく。

今回はバスの中で、インドの話を中心に話をする。インドへ行かなくては仏教は分からない、そう考えて一度目のインド巡礼では、リシケシというヨガのふるさとでインドの宗教を垣間見て過ごしたこと。そして、僧としてどうあるべきかと考え始めたとき、二度目のインドに行く機会を得たこと。

そしてその時サールナートの後藤師に会い、インドの仏教が13世紀に消滅したのではなかったことを知り、インド僧になる覚悟をすること。そして、インドで体験した様々な仏教行事や日常のことをお話しした。

そのあと、今社会現象にまでもなっているという「千の風になって」と言う歌を取り上げたNHKのクローズアップ現代の録画ビデオを見た。皆さんとても感銘深くご覧になられたようだった。そして三千院寂光院の解説をして現地に到着。

私にとっては30年ぶりの大原。全くイメージしていた様子と違っていた。呂川に沿って緩やかな坂道を上がる。土産物屋が賑やかに客引きをしていた。三千院前まで参るとちらちら小雪が舞いだした。身震いするほどの緊張の中、三千院の御殿門を入る。

靴を脱いで内拝。客殿宸殿と参り、読経。往生極楽院では読経の後、駐在のお坊さんからお話を伺う。丈六の阿弥陀さんに観音勢至の両菩薩。観音さんは両手で蓮の台を持つ。この蓮台に乗って阿弥陀浄土に旅立つのだという。躊躇せずにその時には飛び乗らにゃいけませんよと言われた。軽妙なお話しにみな和んで話を聞いた。

それから不動堂や観音堂などを参り、そして寂光院まで長い道のりを歩いて参拝。陽春のはずが寒行となってしまった。建礼門院が住まいしていた頃もやはり寒い里であったのだろう。苦労が偲ばれる。29才で大原に入り、その7年後には亡くなられているのだから。

思えば三千院の往生極楽院を建立された真如房尼も29才で主人を亡くしお堂を建て、常行三昧の行に菩提を願った。ともに若くして人生の悲哀を舐め、過酷な行に生きることに救いを求めた。

仏法を分かりやすく、面白可笑しく現代人に説くことも必要だろう。しかし、それが度を超し、今ではどの宗派も耳朶に心地よいことしか言わない風潮が出来てしまってはいまいか。

今私たちの現前にその威厳をもってまた偉容をもって感銘深き姿を、お堂であるとか仏像を、残して下さった、いにしえの人たちがそれらをお造りになったときの思い、厳しさ、激しさに思い至る必要もあるのではないかと思う。

ただお参りして心経を唱えて、はいその蓮のうてなに乗れますよ、という簡単な話ではなかろう。念仏し、弥陀三尊の回りを何日も何日も歩いて浄土への思いを高めていった過去の人々の功徳にすがるだけではいけないであろう。浄土へ思いを馳せるというのはそんなに簡単なことであるなら、それらの人たちがそれだけの厳しい思いをする必要もなかったということになってしまう。

亡くなった人が「千の風になって吹き渡っています」という詩も、身近な人が亡くなって、打ちひしがれる人にひとときの癒しとなり、新たな人生のスタートにしてもらうものとしてそれは素晴らしい内容を持つものであるに違いない。

どんな宗教観を持つ人にも、世界中の人たちにも受け入れられていることは他にない魅力でもある。お経を聞いて心癒されるという時代ではなくなってしまったのかも知れない。

しかし、それだけに終わることなく、人の死ということ、生きるということをさらに探求していく一里塚と受けとめて欲しい。死は再生である、と番組の中で詩の訳者である新井満さんがいみじくも言われていた。

つまり、この詩は既に亡くなった人のことをうたっているだけでなく、正に死というこれまで縁起でもないと封印されていたテーマについて語り、死を自分自身のこととしても探求していく糧であって欲しいと思う。

そんなことを帰りのバスの中で、インドの死生観をテーマに遠藤周作さんが著した「深い河」の映画を見てから、みなさんとお話しした。京都市内の渋滞を避け、琵琶湖西岸を通り帰ってきた。

今回も参加した皆さんが気持ちよくお参りできるように微に入り細に入り心配り下さった倉敷観光金森氏に御礼申します。来週また二便目に参加する。どんな話が出来るだろう。今から待ち遠しく思う。

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インドという国

2007年03月16日 17時56分50秒 | 様々な出来事について
今インドは、IT産業花盛りで、経済発展ばかりが取り沙汰されているが、私の滞在していた10年前のインドの印象について語ってみよう。

①インドは暑い国と思っているかも知れないが、冬もあり凍死する人も出る。路上生活者もいるからだ。気候が暑いだけでなく、インドは人の心も篤いし、熱しやすい。バスや電車でも気軽に話しかけてくる。

それに、好奇心旺盛。そして議論好き。電車の中で隣り合わせた者同士で、口角泡を飛ばして悪政を論じたりする。そんなインド人の気質も幸いして、経典なども膨大な量が残されたのであろう。

②伝統を重んじる。衣服、音楽。インド伝統の服、丈が腰まであり丸首でボタンの付いたクルター、一枚の布で腰に巻くルンギー、長い布を左右の足に巻き垂らすドーティ。女性ならご存知サリー、上下服のパンジャビーなど。日本にも勿論和服はあるが、正月など特別なときに限られる。

しかしインドでは特に歳を取るとみんな普通に伝統服を着る。政治家はみんなインドの国の誇りを象徴するが如くにインド服。女性は若い人もインド服が多いし、歳を取ってふくよかになると洋服はまず着ない。歳を取られても色鮮やかなサリーがよく似合う。

そして、音楽も踊りも伝統的なものが今もって第一に演じられる。弦楽器シタール、ヴィーナー、小ぶりの太鼓のタブラ。またマハーバーラタ、ラーマーヤナなどの古い物語が未だにドラマにされたりして熱狂する。

③国家を重んじる。英国から大きな民族運動を起こし独立した国だけに、国旗、国歌に対する思い入れが強い。伝統あるインド国民であるという誇り高い国民性をもっている。

④食も保守的、伝統食が第一。ほぼすべてがカレー味。サブジ(野菜)、チキン、マトンのカリーなど、他にダールという豆のスープ、かまどで焼くタンドーリ、インドパンのナン、チャパティ、プーリなど。手で食べるのが普通。右手を使い、左手は補助程度。中華をたまに食べに来る家族もあるが、ほとんど外国の食を食べない人が多い。

⑤包容力ある国。多民族国家だけに、何でも受け入れる。懐が深い。マニプールなど異民族も特別地区として保護しているし、チベット人も受け入れ援助している。ラジブガンディの妻ソニアを国民会議派の党首にしている。首相になる可能性のある選挙時にインド人に問うと、イタリア出身でも何も問題ないと言っていた。

⑥貧困層に優しい国。カーストの問題は残るものの、金持ちは貧しい者に施して当然との観念がある。最低の生活する者でも生きられるように食品や綿ものの衣類などの物価は誠に安い。近年職業カーストの解体が起こっている。

長年カーストに甘んじ職替えできずにいたような人の仕事がトラックや通信その他多くの近代化によって奪われ、相対的に職業の固定化が難しくなった。またカーストよりも学歴、コネ、英語が話せるかどうか、今ではパソコンが扱えるかどうかなどが職業選択採用に幅をきかせているであろう。

⑦産業豊か。アジアですべての生活物資を国産できる国は、日本とインドだけ。農業も盛んで豊かな国土。それに、鉄道王国、6万キロを超える営業鉄道があり、世界第2位。昔駅で切符を買うのは一日仕事だった。それだけで疲れ果てもう何も出来ない。しかし今では遠距離はすべてコンピューター発券できる。

また、昔インドから日本に小包を送ると殆どの品物が中身を開けられ、ぐちゃぐちゃになって何ヶ月もかかって到着した。しかし郵便も、外国へ送る小包はコンピューター管理で安心で誠に素早く手続きをしてくれる。これは近年のIT王国の名に恥じない発展を国内でも示している。

そして、インドは映画王国でもある。年間制作本数800本以上。世界一。日本にもいくつもインド映画か紹介され、人気を博した。

まあ、こんなところだろうか。とてもいい国だ、是非一度行かれることをお勧めする。立派なプール付きのホテルも沢山ある。そんな贅沢なホテルに今でも日本のビジネスホテル感覚で泊まれるであろう。そんなところに泊まれば何も問題ない。

是非、ご夫婦でリゾートにインドへ行かれては如何であろうか。勿論仏蹟の一つもご参詣いただければ、また格別の旅になるであろう。

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京都 三千院・寂光院散策3

2007年03月13日 08時09分20秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
往生極楽院をあとにして、弁天池を南に進むと、延命水の井戸があり、その先には弁財天が祀られている。弁財天は、インドの河の神サラスワティで、人々に豊饒と実用的な智恵を与える。インドでは学問の神となっている。

庭を回遊して、先に進むと平成元年に建立された大きな金色不動堂が見えてくる。周辺にはしだれ桜、あじさいなどが多く植えられている。弘法大師の甥で天台宗比叡山に入り唐にも行って修学し天台密教を大成した円珍が比叡山で感得して刻んだという金色不動明王立像を本尊とする。木造97センチ。

さらに進むと、一番奥には観音堂があり、その北には来迎二十五菩薩示現の庭がある。また金色不動堂の北には、律川を渡って炭を焼き始めた売炭翁(ばいたんおきな)旧跡と伝えられるところに鎌倉時代の大きな阿弥陀石仏が祀られている。225センチ。

なお、三千院の三千とは、天台宗の教義中にある一念三千という言葉からきているもので、それは、自身のこの一念の中に地獄から仏までのありとあらゆる心が備わっているという教え。

三千院の緑の万華鏡によって醸し出される清浄なる空気を吸い、そして緑の光に照らされ、心を阿弥陀さんの眼差しに留めるとき、私たちは自ずと既に浄土にあるような心地に至るのではないか。

寂光院参拝

次なる目的地、寂光院へは、三千院から呂川沿いに戻り、田園の道を西の山へ向かう。土産店が建ち並び始めたら木々に覆われた高倉天皇皇后徳子陵(大原西陵)と出会う。

皇后徳子とは平清盛の二女で、高倉天皇の皇后として安徳天皇を産んだ建礼門院(けんれいもんいん)のことで、宮内庁が管轄しているが、五輪塔の仏教式で珍しい御陵の一つである。寂光院はこの西に並んで建ち、多くの観光客は、寂光院を目指しここを素通りするという。
 
寂光院は、天台宗の尼寺で、承徳年間(1097~99)に良忍が再興するが、創建は推古天皇(593~618)の時代、聖徳太子が父用明天皇の菩提のために建立したと伝えられる。

初代住職は、聖徳太子の乳母で玉照姫が敏達13年に日本で初めて出家された三人の比丘尼の一人となり、ここ寂光院に住職した。代々高貴な家門の姫がたが法灯を守り続けたと言われる。

寂光院と自然石に刻んだ門から参道石段を上がると、右手(東)の建物は庫裡であろうか。その先左(西)には昨年落慶したばかりの宝物殿があり、右には孤雲と名付けられた茶室が佇む。さらに上がると中門があり、右手は客殿であろうか。

その先本堂手前右側の庭には秀吉寄進の南蛮鉄の雪見灯籠が桃山城から移設されている。本堂左(西)側の庭園には、平家物語に語られるままに、汀の池(みぎわのいけ)と言われる心字池があり、苔むした石、汀の桜、そして樹齢千年の姫子松がある。

この松は、平家物語に建礼門院徳子が、壇ノ浦で滅亡した平家一門と両天皇の菩提を弔うために終生この地で過ごされるが、平家物語のなかで、建礼門院を後白河法皇(夫高倉天皇の父)が訪ね対面するときに登場する松であるという。残念ながら、この松は本堂の火災の折に傷み、平成16年に枯れて、歌碑を建ててご神木として祀られている。

そして、この時法皇が詠われた「池水に汀の桜散り敷きて 波の花こそ盛りなりけり」に因んで汀の桜、汀の池と名付けられた。汀の池の手前には、平家物語で語られる諸行無常の鐘楼がある。

本堂北側の庭園は、回遊式四方正面の庭で、石清水を引いた三段の滝を「玉だれの泉」と称して、一段一段高さ角度が異なる三つの滝がそれぞれ異なる音色が合奏するかの趣がある。

そして、桃山時代に建立された三間四面の寂光院に相応しい小降りの本堂は、平成12年5月消失後、内陣、柱は飛鳥様式、藤原様式、下陣は豊臣秀頼が修理させたときの桃山様式と消失前の本堂に忠実に復元されたという。往時の姿を取り戻した内陣は、漆塗りの黒い柱に赤、青、金色の極彩色で唐草模様が描かれている。中央には、高さが2mを越える鮮やかな彩色の本尊六万体地蔵菩薩像が安置されている。

火災時に、元のご本尊は本堂の屋根が崩れすべてが焼けてしまった中、全身を焦がしながら凜として屹立していたと言われる。さいわい、像内の願文、経文、小地蔵尊など納入品は無事であったため、今もって重文のまま収蔵庫に安置されているという。

新しい本尊は、国宝修理所の小野寺仏師によって復元制作された。彩色でうつくしく、日本で一番背の高い大きな地蔵尊。他には、建礼門院徳子の像と建礼門院に仕え大原女のモデルとされる阿波内侍(あわのないじ)像が祀られている。

この阿波内侍が里人の貢ぎ物の夏野菜(ナス、キュウリ)を、チソの葉と一緒に漬け込んだ漬物が「しば漬」の始まりとされ、みやげ物として茶店で売られている。

本堂落慶並びに本尊開眼供養は平成17年6月2日に行われた。本堂左(西)側には建礼門院が実際にお住まいになっていた御庵室跡と書かれた石標が立っている。平家物語の里は今も昔の趣のままに私たちを迎えてくれることであろう。


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京都 三千院・寂光院散策2

2007年03月12日 15時57分24秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
三千院参拝

春や秋の観光シーズンには三千院への細い参道は多くの観光客で賑わう。参道の片側には、小さな呂川が流れ、反対側には大原で有名なしば漬けなどの店が並ぶ。細い参道をしばらく登っていくと、突然眼の前が広がり、三千院の石垣が見えてくる。この石垣は、石工で名高い近江坂本の穴太(あのう)の石工(いしく)が積んだものだという。

来た参道をまっすぐにさらにさかのぼると、そこには良忍が声明の道場とした来迎院があり、その先に「音無しの滝」がある。良忍は類い希な美声の持ち主で、声明を唱えると、魚も鳥も静まり、滝の音さえも音を潜めたと言われている。

三千院は、南に呂川(りょせん)、北に律川(りつせん)に挟まれていて、その川の名も声明の音律「呂と律」からのものだ。石段を登ると門前には「三千院門跡」とある。門跡とは、皇室から格式高いお寺の住職としてお入りになる方を言う。

そのはじめは嵯峨大覚寺であった。元々嵯峨天皇の離宮であって、譲位後お住まいになられた。その後寺格を設けて皇族方が出家され門跡として住した。

天台宗三門跡のはじめが三千院(梶井門跡)であった。御殿門をくぐって中に入るとそこには大きな客殿が姿を現す。靴を脱いで中に参内する。大正元年に修繕され、各室の襖には、今尾景年、鈴木松年、竹内栖鳳など当時の京都画壇を代表する画家が桜、蓮池、芦雁といった花鳥を描いた。客殿の東・南側には庭園・聚碧園(しゅうへきえん)が広がる。

三千院は境内すべてが庭園であると言われる。高木の深い緑、低木の濃い緑、そして苔の輝くような緑色。しっとりと落ち着いた緑の万華鏡のような境内が展開する。

聚碧園は、江戸初期の茶人で、宗和流の始祖・金森宗和の作庭と伝わっている。池泉鑑賞式庭園で、東部は、山畔を利用して二段式となっており、南部は、円形と瓢箪型の池泉をむすんだ池庭となっている。

そこから宸殿に向かう。宸殿は大正15年、御所の紫宸殿を模して作られ、正面五間背面八間、中央は板敷きで畳を回り敷きにしてあり、本尊は伝教大師作秘仏薬師如来。他に阿弥陀如来、四天王寺創建時の本尊を模したと言われ、飛鳥白鳳時代の古式が見られる重文・救世観音半跏像(1246年造)が祀られる。

このお堂は、後白河法皇が宮中の仏事として保元2年(1157)に始めた御懺法講(おせんぼうこう)を修するために作られた。これは、法華経を読誦して六根を懺悔して罪障消滅して九品往生を祈る行法で、昭和の再興時から、小さな厨子に安置した後白河法皇像を開扉して始まり閉扉して終わる。雅楽の演奏が添えられ声明と共に奏でられる。毎年5月30日にここ宸殿で行われている。

宸殿東北にある玉座の間には、下村観山作虹の襖絵がある。この虹には7色のはずが一色少ない。赤がない。秋に紅葉の明かりが襖に映ると七色揃う仕掛けだという。宸殿を降り、外から往生極楽院に向かう。北側に有清園がある。石楠花がその季節には赤い鮮やかな色を付ける。

中国南朝宋の詩人謝霊運の詩「山水に清音あり」から名付けたとされる。池泉回遊式庭園で、山畔を利用して三段の滝を配して池に注ぐようにしつらえ、池には亀島鶴島がある。杉苔の絨毯から垂直に檜や杉が伸びている。見事な造形美を表現している。

往生極楽院は、平安時代、真如房尼の建立。29歳の若さで夫高松中納言実衡(さねひら)を亡くした真如房尼は、この往生極楽院(はじめ常行三昧堂と言った)を建立し、90日間休まずひたすら念仏を唱えながら、仏の周りを回る常行三昧の行を行ったといわれる。

常行三昧とは、右廻りに弥陀の回りを行道(歩きつつ)しつつ三昧(心を一つに専念せしめること)する。 歩歩声声念念(ぶぶしょうしょうねんねん・口に念仏を称えながら歩く)しつづけ、いわば陶酔の境地にまで至る。

そんな歴史を持つお堂ゆえに、今の世でも多くの女性を引きつけるのであろうか。因みに、作家の井上靖氏は、「東洋の宝石箱」と称したという。

奥行き四間正面三間の単層入母屋造りの柿(こけら)葺き。天井は山形に板を貼った船底天井。重文。堂内には、国宝阿弥陀三尊像。久安4年(1148)造立。金色のこの弥陀三尊は、信者の臨終に際して極楽浄土から迎えに来られる様子を表現している来迎相。でっぷりとふくよかな優しげな、ありがたいお顔をしている。

阿弥陀如来は丈六仏。194.5センチ。阿弥陀如来の印相は、来迎印で、上品下生。上品上生から下品下生まで、阿弥陀如来の極楽には行者の罪業と修行に応じて九品に区別されていると言われている。本尊背後に小さな2枚の開き戸があり、内部の胎内仏を拝むようになっていたらしい。

脇侍の蓮華をささげる観音菩薩、合掌する勢至菩薩は、ともに正座から少し前に乗り出したような倭坐り(やまとすわり)と言われる珍しいお姿をしている。132センチ。観音菩薩が慈悲心をもって人々の苦しみを救うのに対して、勢至菩薩は、智慧の強い力で迷いの世界にある人々に仏性を開かせ一気に悟りに至らしめると言われる。

往生極楽院はまた壁画が平安時代の作で重文。蓮華文の装飾や千仏図、飛天などが見られる。来迎壁の壁画は、現在は正面に胎蔵曼荼羅、金剛界曼荼羅の両曼荼羅が、背面に来迎図が描いてあるが、元は来迎図が正面を向いており、曼荼羅は描かれていなかった。

船底天井、小壁、垂木には5色の極彩色で極楽の花園の画が描かれている。奥州の藤原清衡はこれを見て驚嘆し、わが故郷もこれで飾ろうとしたのが平泉の金色堂であるといわれる。

そして大事なことはこの往生極楽院は、お堂がそのまま須弥壇となっている。だから目の前に仏像がおられる。須弥壇ということは、仏の座に同座しているのと同じ構造になっている。

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[中外日報掲載]釋興然② 南方僧団移植事業

2007年03月09日 08時58分35秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
中外日報3月8日付『近代の肖像』危機を拓く第107回

 釋興然② 南方僧団移植事業

明治四十三年、興然は釋王殿建設を発願した頃、『釈尊正風』という冊子を発刊している。

それによれば、当時の仏教を批判して、「今日の如く仏教を世道から厄介視せられ、教育に於いて関係なきが如く思わしめるようになったのは何故かと云うに、多くは之れ教導者の罪である。僧侶の教えない咎である」と述べた。

決して仏教が衰退したからではなく、日本仏教が分裂多岐にわたり正道を見失い迷ったからであるとして、「仏教に南北の教系を異にし、宗派に千百の別はあるが、その最初の開教法主は仏陀釈尊である。(中略)だから真に仏教の仏教たる所以を明らかにするには、どうしても釈尊の仏教そのものの生命に帰らなければならぬ」と釈尊の教えに回帰する必要を説いた。

そして、興然は、釈尊時代の初期仏教の伝統を保持すると言われる上座(テーラワーダ)仏教によって信仰の統一、行動の一致、目的を明白にすべきだと主張している。

この確信に満ちた筆致に、自らがセイロンで受けた上座部所伝のパーリ律による尊い戒律の護持とスマンガラ大長老のもとで修行した上座仏教の瞑想修行、そして経論を学ぶためのパーリ語修得など、これらに対する興然の並々ならぬ自信の程が窺い知れる。

昭和五十三年に三会寺のパーリ写本を調査したパーリ学仏教文化学会の前田惠學・愛知学院大学名誉教授は、「興然師が有名経典の多くや基本的な戒律、一部論蔵にまで研究が及んだことが分かる。特に戒律とサティパッターナ(四念処)の瞑想法を重視したことが写本リストを見ても窺われる」(『前田惠學集』三)と述べている。

セイロンでは、後に臨済宗円覚寺派管長となる釋宗演師が一時期同じ僧院で共に修行に励み、また明治二十八年頃、河口慧海、鈴木大拙らも三会寺で、パーリ語やインド事情を興然から学んだ。

仏教学研究の基礎を築いた高楠順次郎や宗教学の創始者姉崎正治も、パーリ語で分からないことがあると生徒を連れて興然のもとを訪れていたという。

興然が、帰国早々に満を持して創立した「釈尊正風会」は、南方僧団移植を目的としていた。第一期から第四期まで五名の僧侶をセイロンに派遣。何れもセイロンで比丘となり日本での活躍を期待されたが、結局、ソービタ鳥家仁度、アーナンダ吉松快祐の二名のみが比丘として残った。

その後、比丘興然は、たとえ僧団の移植はかなわずとも、釋王殿を建設し、北伝仏教しか知らない日本仏教徒に、南伝仏教による釈尊の教えを宣布する本拠となることを願っていたであろう。

叔父である雲照は、仏教の根本教理を戒律とともに重視することを説いた。しかるに興然は、セイロンの南方上座仏教の戒定慧の三学すべてをそのまま移植することを念じた。

平成にいたって、スリランカやミャンマーの比丘、またタイで出家した日本人比丘が来日して上座仏教を布教する時代となった。昨年はスリランカのシャム派など長老比丘が多数来日され、上座仏教により正式に認定された「戒壇」ができた。

正に隔世の感がある。しかし、かくなる時代の推移を最も歓ばれているのが、誰あろう興然その人ではないかと思う。

やっとヨーロッパ経由で近代仏教学を輸入し始めた明治時代に、一人南方上座仏教の真価を見出した興然は、余りにも時代を先取りしすぎたのかもしれない。

興然は、日本が近代国家に変貌していく時代に、仏教も世界基準の仏教たるべしとの信念を抱き、釈尊直伝の教えをもってそれに換える運動をしたのだと言えよう。終


◎この度は、伝統ある「中外日報」紙に、5回に亘り小生拙稿をご掲載いただけましたことに感謝申し上げます。益々同紙による仏教並びに宗教宣布により、より良い国家社会が実現されますことを念じます。

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京都 三千院・寂光院散策1

2007年03月07日 17時20分42秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
「朝日新聞愛読者企画-備後国分寺住職と巡る日本の古寺巡りシリーズ第二弾・のどかな大原の里をゆく陽春の三千院・寂光院」が企画され、この3月19日と28日に参拝する。どちらも天台宗の寺院。ここ真言宗とは同じ平安仏教ではあるけれども、少々趣が違う。その辺も含め、この度は楽しみおおい旅となりそうだ。

私自身、三千院は二度目である。ただ、30年も前に行ったきりなので、思い出そうにもなかなかその全体がイメージできない。思い出すのは、周りの風情豊かな畦道や、往生極楽院、それにその時お坊さんが面白可笑しく話をして下さったことくらいだ。

大原の里

「京都、大原、三千院・・・」と歌われて有名な三千院ではあるが、三千院は、その曲によって有名になり今日のような賑わいを見せるようになった。それまではひっそりした静かな里であったという。京都の北東の奥、大原にある。比叡山の西北の麓に位置している。賀茂川に流れ込む高野川を10キロさかのぼると山々に囲まれた小さな盆地大原に出る。

そもそも大原の仏教は、平安初期、唐に留学して天台宗の密教を大成する円仁(794-864)が五台山の五会念仏の節をもとにした天台声明の根本道場として大原寺(たいげんじ)を開創して開かれた。だから、こここそが仏教音楽、声明のふるさと、日本の音楽、和楽の発祥の地とも言われる。

そして平安時代中期には、「往生要集」という日本浄土教のもととなる著作をなした恵心僧都源信らの影響から宗門に疑問を感じる僧たちが山を下りて、官僧を辞して遁世し修行に打ち込む里となった。その一人良忍は(1072-1132)天台声明中興の祖と言われ、比叡山から大原に遁世して勝林院の永縁(ようえん)につき、それから来迎院を中興して声明の道場とした。

良忍は、尾張の出身で母は熱田神宮の大宮司の娘だった。12歳で比叡山に入り、東塔の常行三昧院で不断念仏を唱えた。23歳で大原に遁世し、毎日6万遍の念仏を唱え、京都市中で融通念仏を広めた。良忍以来大原は宮中の法要儀式はじめとする天台声明伝承の中心として、多くの門下をかかえ、草庵を結び別所と呼ばれ、最盛期には四十九の子院があったと言われる。

後に、湛智が出て、雅楽の理論で天台声明を理論化して大原を、中国の三国時代(221-265)の英雄曹操の第四子曹植が山東省魚山で天上から楽の音を聞きそれを中国梵唄(声明)のもととしたことから中国梵唄発祥の地と言われる魚山の名を付けた。そして魚山という言葉は、後に声明と同義語として使われるようになる。

そして、多くの洛中を喧騒を嫌い逃れた貴族文人達の隠棲の地としても有名である。女人禁制の比叡山延暦寺に対し、仏門を志す女性に開かれた場でもあった。

三千院の歩み

天台宗を開く最澄が、比叡山に根本中堂を建立する際、東塔南谷に構えた一堂宇、円融院(またの名は一念三千院)が三千院の起源で、後に近江の東坂本梶井に移り、円徳院と称した。この円徳院の歴代住職や縁故者の霊を祀る持仏堂を三千院と言った。

1118年最雲法親王が梶井に入室し、1130年、最雲法親王が三千院の門跡(住職)となり、梶井宮門跡となる。最雲法親王は後に天台座主となっており、その後もしばしば三千院の門跡が座主となっている。そして、このころ応仁の乱などで大原にも様々な行者が集まり、秩序を乱すことから、大原に比叡山は来迎院、勝林院、往生極楽院を管理する政所を置いて取り締まった。

その後本房を焼失した三千院の梶井門跡の仮御殿をこの政所に置いたことから、現在地との関係が出来た。だから、今でも三千院の建物は武家屋敷的な構えとなっている。そして、その後も梶井門跡は所在を転々とする。

つまり、三千院は、今では大原の里にひっそりと佇む静かな寺院だが、もとは、比叡山にあり、それから近江や洛中へと7回も8回も転々と所在を変えて、現在の大原に落ち着いた。そして今日のように三千院門跡を名乗る明治4年までは洛中京都御所の東にあった。

そしてその時まで皇室から門跡を迎えていた。だから、とても格式高く重んじられる寺格を有していたことになる。そしてだからこそ、所在を転々としながらも、妙法院、青蓮院とともに天台三門跡の一つとして、声明音律を統括し、比叡山の根本中堂、法華堂、常行堂などを管轄したのであった。

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[中外日報掲載]釋興然① 略伝

2007年03月06日 14時45分02秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
中外日報3月6日付『近代の肖像』危機を拓く第106回

 釋興然① 略伝

釋興然師(一八四九-一九二四)は、混迷する仏教界から一人セイロンに渡航し、日本人として初めて南方上座仏教の比丘となった人である。 

興然は、明治仏教界の第一人者であった釋雲照律師の甥にあたり、嘉永二年、現在の島根県出雲市塩冶町に生まれた。十歳のとき雲照の実兄宣明について得度。十三歳で真言宗の初歩の修行である四度加行を修し、十八歳で高野山に登り宗学を学んだ。

十九歳の時明治維新を迎えた興然は、政府当局に建白を重ねていた雲照に随順し、この頃から薫陶を受けていたであろう。明治七年雲照が勧修寺門跡となり、大教院派遣の講師として諸国教導職指南のために布教して歩いた時期にも随侍して講義を聴いた。

明治九年、二十八歳の時には教部省から少講義に任ぜられ、明治十三年、前年の大成会議で制定された真言宗統一の中学林を、雲照が東京に設立した際にも、興然は助手として随った。

明治十五年三十三歳の時、横浜鳥山の中本寺・三会寺に住職する。そしてこの頃既に興然はインド遊学の志を持っていた。翌十六年には本山にインド渡航を願い出ており、十七年には総黌の学費から旅費を捻出することを請願している。

明治十九年、東京に出て目白の新長谷寺に落ち着いた雲照は、インド人からブッダガヤの地が荒廃していることを聞いた。そこで、直ちにインドへ憧憬を寄せる興然をセイロンに派遣する。

興然は、セイロン南部の港町ゴール近郊カタルーワ村のランウエルレー・ヴィハーラで南方仏教の沙弥としてパーリ語の学習と仏道修行を開始。一年余り後にはコロンボのシャム派最大の寺院ウィドヨーダヤ・ピリウエナ・ヴィハーラのヒッカドゥエ・スマンガラ大長老のもとに修学の場を移した。

そして、渡航五年目の明治二十三年六月、遂に興然は、キャンディのシャム派総本山マルワトゥ・ヴィハーラでスマンガラ大長老より具足戒(パーリ律二二七戒)を授けられた。興然グラナタナ比丘四十一歳。ここに日本人で初めて、南方上座仏教の比丘が誕生した。

翌二十四年興然は、セイロン人で後にインドの仏蹟復興をはたすダルマパーラ居士と共にインドのブッダガヤに参詣する。釈尊成道の地は当時既にヒンドゥー教徒が管理していたが、興然とダルパーラはこの地を買収して仏教徒にとって最も神聖なる場として再生することを誓う。

各仏教国からも募金し国際仏教会議を開催するものの、英国政府から仏教徒の支配のために仲介することは出来ないとの回答があり断念した。

明治二十六年、興然は南方仏教の黄色い袈裟を纏い比丘のまま三会寺に帰り、南方僧団移植のために「釈尊正風会」を結成。後に西園寺内閣の外務大臣となる林董が会長となった。

当時一級の知名人、学者、宗教者など八百名が会員となり、数度にわたりセイロンに若い優秀な僧侶を派遣。受戒に要する五人の比丘僧団を組織することを期した。しかし、志を貫くことの難しさに戦争も影響し、二人のみが比丘に留まった。

五十九歳の時当時最も持戒堅固な清僧としてシャム国に招待を受け、弟子らと共に一年間各地に高僧を訪ね歓待された。

この時五十余体の大小釈尊像を下賜され、末寺に配し、中でも一番立派な像を本尊に南方風の釋王殿建設を発願。

南方僧団移植の本拠とすべく寄付を募ったが、既に雲照も亡く、大檀那林董も他界。第一次世界大戦特需後の不況で寄付も十全に集まらず断念した。大正十三年、震災の明くる年に、比丘興然遷化。釈尊を一途に思う七十六年の生涯だった。

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インド思い出話8-無料中学設立とパーリ語の特訓

2007年03月03日 13時17分45秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
7月の晴れた日曜日、めでたく仮校舎もでき、無料中学校が開校した。20名ほどの赤と白の柄シャツに薄茶のズボンとスカートの制服を着た学生が入学し、式の後、近隣の多くの子供たちに施食が行われた。

こういうときは小さめのプーリーというパンを油で揚げる。なかなか美味しいのでつい食べ過ぎて腹をこわす。結婚式や葬式でも人が大勢集まるときには作られるようだ。

学生達が毎日やってきて賑やかになる。朝は毎日朝礼で、「ナモータッサバガバトーアラハトーサンマーサンブッダッサー」とお釈迦様に挨拶し、「ブッダンサラナンガッチャーミ、ダンマンサラナンガッチャーミ、サンガンサラナンガッチャーミ」と三度唱え、仏教の三宝に帰依する。

みんなヒンドゥー教徒の子供達だが、仏教の学校に入って、仏さんに供養された寄附金で運営されている学校で学ぶのだから、誰も親たちも文句を言わない。

それから各教科の授業にはいる。私は、一人図書室で、パーリ語のダンマパダ(法句経)を水野弘元先生の辞書と長井真琴先生の文法書で毎日一偈ずつ四苦八苦して調べ自分で訳文を作り、今度はヒンディ語の辞書を片手にヒンディ語に訳した。勿論、ヒンディ語訳のついた現地で手に入る数種類のダンマパダを参照しながらではあるが。

それが終わるとサールナートに寄付を乞うために自転車で出かけ、夕方には、後藤師のパーリ語の指導を受けた。後藤師は、日本では有名な小栗堂仏教研究会を主催して、毎年夏に一週間のパーリ語の講習会を開いていたことで知られている。この講習会は今でも、愛知県安城の慈光院戸田忠先生が引き継ぎ行われている。

後藤師の日本語は茨城訛りがあり、だから、ヒンディ語もパーリ語もどこか訛ってはいるが、教え方は天下一品だった。何も分からなかった私が、一年間で、法句経423偈すべてを自分で辞書を頼りに訳し、ヒンディ語訳も作れるようになった。インドのノートで、5冊ある。私の宝物の一つである。今でも後藤師には感謝している。

しかし、ヒンディ語はというと、なかなか上達しなかった。それでも8月になって、東京から知り合いやら母親がインドに来るので、カルカッタに迎えに出た。ハウラーから急行のコンパートメントに初めて乗り、ベナレスに同行し、サールナートのお寺やらを案内して、お寺の無料中学の紹介ビデオを作ったりして、また、カルカッタに送り、サールナートに戻ってみたら、ダージリンから来たチベット系の少年ディペンがいた。

8歳だという事だったが、どうやら年齢詐称で、実は6歳だった。どうりで私より文字が分からない。でも、ヒンディ語は私より流暢だ。それで、この子を何とかお寺で仕事が出来るように仕込む係になって、ヒンディ語で命令し、怒ったり、冗談を言ったりしていて、何とかヒンディ語が自分の物になり始めた。

そうしたら、日本から、高校生がやってきた。少し家庭内に問題があって、インドに預けたいとのことで、同居することになった。大きな体で、何とも取っつきにくい。でも、この学生さん料理が上手で、みんなの食事を全部朝以外ではあるが任せてやり出したら途端に良い子になった。年末にお母さんが迎えに来たときまでは良い子だった。でも、母親の顔を見るなり、元に戻ってしまったようだったのは残念だった。

サールナートにいると各国の諸行事に招かれた。5月の満月の日にはお釈迦様の生誕と成道と入滅を祝うブッダジャヤンティが盛大にあり、戦前お堂の壁に野生司香雪画伯が釈迦一代記を描いたムルガンダクティビハーラで、祭典があった。経文を読むより、おおぜいの弁士により講演が長々と行われ、11時すぎ頃から食事が供養された。

また、10月には、カティナチーバラダーンという雨安居(うあんご)開けの比丘に特別に用意した袈裟を供養する儀式も賑々しく行われた。ときどき、沙弥の戒師をしてくれたミャンマー寺に呼ばれて昼食を頂くこともあった。ニマントランと言われ、ミャンマーから来た篤信者からの食事の供養だった。沢山の小皿に盛られたミャンマー料理が食べきれないほど出されてとてもありがたく思った。

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