住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

大覚寺の研究3

2007年10月19日 07時59分00秒 | 様々な出来事について
それでは次に、大覚寺の建物と文化財について触れておこう。現在大覚寺の境内は、18万㎡約5万5千坪あり、先に述べたように南北の講和会議が行われた正寝殿(重文)、後水尾天皇の紫宸殿を移築したと言われる宸殿(重文)が境内中心部に位置している。

それぞれには、狩野山楽など狩野派の画家によって描かれた桃山時代の障壁画、金地に極彩色で、あるいは墨絵で描かれ、また、尾形光琳や渡辺始興らの名筆になる建具などすべて重文に指定されている。

正寝殿御冠の間の桐竹の蒔絵、宸殿の牡丹図、紅白梅図など。また宸殿前には、ミカン科の常緑小高木の橘と、紅梅の老木がある。庭も苔も美しく、各宮家のお手植えの松などが多く珍しい樹木もあり、嵯峨野の御所らしい風情を醸し出している。

また、大正期の勅封心経殿、その前には心経前殿。大正天皇即位式の響宴殿を賜ったもので、御影堂とも言われ、中央は心経殿を拝するため開けられ、右に弘法大師の秘鍵大師、嵯峨天皇、左に後宇多法皇、恒寂法親王の御影を祀っている。またその左には歴代門跡の位牌と右には皇室関係者の位牌が並ぶ。

そして、国民の幸福と平和を祈り嵯峨天皇が弘法大師に造らせたと言われる五大明王を祀る五大堂。安井門跡蓮華光院の御影堂を明治4年に移設し、後水尾天皇の等身大の木像を祀る安井堂(徳川中期)、庭湖館と呼ばれる客殿(徳川中期)奥の間には慈雲尊者の「六大無碍常瑜伽」の掛け軸があり六大の間と言われ、私が晋山したときに親授式後のお斎に参上した場所であった。

また大覚寺に功労のあった人々の過去帳位牌を祀る霊明殿は、昭和33年関東から移設したもので、お堂の右には、草薙全宜門跡の御像が祀られている。また大きな庫裏は、明智光秀の亀山城の陣屋を移したもの。

そして各建物を結ぶ回廊は村雨の廊下と言われ、縦の柱を雨、直角に折れ曲がるのを稲光と見る。天井は刀槍を振り上げられないように低く造ってある。床は鴬張り。

池の北側には新しい朱塗りの心経宝塔がある。元々心経殿があった場所に、昭和42年、嵯峨天皇の心経写経1150年記念に建立された。如意宝珠を納めた真珠の小塔を安置して、秘鍵大師を安置する。また、大沢野池畔には裏千家による茶室望雲亭がある

ところで、大覚寺の本堂は五大堂で、そこには、現在、昭和の大仏師、松久朋琳宗琳による五大明王が祀られている。現在の大覚寺本尊である。しかし、これと別に二組の五大明王像がある。

一つは、平安後期を代表する仏師、定朝を祖とする三派のうち円派の、当時の造仏界をリードした明円作は五体が完備し、重文。伝統に裏付けされた中に、生命感と品格を感じさせる。定朝とは、藤原道長の晩年の時代の大仏師で、平等院鳳凰堂の阿弥陀仏が確証ある代表作という。

もう一組は、鎌倉時代の作と室町時代の作の混成のものがあり、室町時代のものは2メートルを超える巨大像。元々弘仁2年(811)嵯峨天皇が弘法大師に、五大明王像を造らせ五覚院を建立して安置したと言われ、以来大覚寺では五大明王を本尊としてきた。

五大明王とは、別々に成立した明王を不動明王を中心に、金剛界五仏にならい配したもので、中央大日に当たるのが不動明王、東方阿閦如来に降三世、南方宝生如来に軍荼利、西方無量寿如来に大威徳、北方不空成就如来に金剛夜叉。

降三世明王は、三世界の主として、三毒を忿怒の形相で踏みつけて降伏させる。軍荼利明王は、もとは蛇の姿をしたシャクティという性力崇拝のシンボルで、諸々のものを授け、障害を除く。大威徳明王は、閻魔を摧殺して衆生の懸縛を除く。金剛夜叉明王は、一切の悪、三世の悪い汚れ濁りある欲心を呑み込み除く。

因みに、五大堂には、本尊の右に弘法大師、左に最後の宮門跡であった慈性法親王を祀り、さらに弘法大師の隣には釈雲照和上の合掌する御像を祀っている。

また大覚寺には、このほかに、鎌倉末の愛染明王像、鎌倉後半の毘沙門天像が収蔵されている。仏画では鎌倉時代作の理趣経曼荼羅、五大虚空蔵画、金剛界曼荼羅降三世会などを収蔵する。

さらに、大沢池畔に並ぶ石仏は、彫像の様式から平安後期を下るものではないと言われ、大振りな五体は胎蔵界の五仏。他に、阿弥陀如来、聖観音など、沢山の石仏が並ぶ。

多くの仏を祀り、本尊もおられるわけではあるが、しかし、なんと言っても大覚寺の一番の中心は、宸翰般若心経であり、中でも嵯峨天皇の宸翰を真の本尊とするのが大覚寺である。

ここ備後國分寺の創建時には丈六の釈迦如来が金堂の本尊として祀られてはいたが、当時の國分寺の中心は七重塔に祀られた、今日国宝に指定されている金光明最勝王経であったと言われるのと同じ事である。

そして、「大覚寺は仏像を中心とする寺院ではない。朝原山山頂にある嵯峨山上陵を守護する伽藍である。帝王が天地神明。仏天菩薩に対して責任を感じ、我が身を慎むことによって、神明仏陀の絶大なる慈悲に浴し、神仏の慈悲で天下泰平、万民快楽ならんとする嵯峨天皇の御意を体し、その御意を宇内に拡げようとするための聖舎である」

と、歴史家中村直勝氏が「大覚寺の歴史」で唱えるように、大覚寺とは、宸翰勅封心経を嵯峨天皇がお書きになられた御心に報じ、我が国の安泰と人々の幸福を祈願するための我が国の中心にして神聖なる道場なのであるといえよう。だからこそ、皇室などから中心となる建物がいくつも下賜されたり、最高の文物がそれぞれに設えられ、また歴史的にも時代の潮流に度々巻き込まれ翻弄されてきたのである。

最後に、大覚寺は「いけばな嵯峨御流」でも有名であるが、これは嵯峨天皇が大沢池の菊島から菊を手折られて花瓶に挿し眺められ、菊の気品ある姿と香りを好まれたことが華道の始まりとされ、華道発祥の地でもある。嵯峨天皇そして後宇多法皇によって代表される御所の伝統精神が大覚寺の格式ある文化の源ともなっているのである。

(↓よろしければ、一日一回クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ

日記@BlogRanking


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大覚寺の研究2

2007年10月18日 08時52分46秒 | 様々な出来事について
その後両統迭立の和談が調い、後宇多帝の第二皇子後醍醐天皇が即位すると、天皇親政の理想を掲げ、討幕運動を起こし、足利尊氏、新田義貞が参戦して、1333年に幕府を滅ぼし、天皇親政の建武の新政を実現する。

治世の権を息子に譲り、後宇多法皇は大覚寺の再興に尽力され、元享元年(1321)ごろから「大覚寺伽藍古図」に見るような、現在地を南端として、北は山裾に至る広大な地に、金堂、御影堂、心経堂、講堂、さらに沢山の子院が取り囲む大伽藍を造営された。

後宇多法皇は、8歳で皇位につき、二度の蒙古来襲に遭遇し、父亀山上皇と敵国降伏の祈願を行ったと言われ、幼くして霊感強く仏教に帰依されていた。誠に信仰深く、特に真言密教の奥義を究めたと言われる。

仁和寺の禅助から伝授された密教の教えに関する聖教類など密教史上きわめて貴重な多数の書き物、加えて法皇自らが筆を執って書写されたものが多く残されている。法皇撰による宸翰「弘法大師伝」、「御手印遺告」など国宝も収蔵されている。

こうした伽藍の造営とその大覚寺と真言密教に寄せる並々ならぬ信仰から後宇多法皇は大覚寺中興としてたたえられている。しかし、誠に残念ながら、後宇多法皇逝去後12年にして、延元元年(建武3年・1336)足利尊氏によって火を放たれほとんどの堂舎を失ってしまう。

建武の新政は、武士かたの論功行賞などに対する不満から反乱が起こり、3年で崩壊。後醍醐天皇は吉野に行宮を営み、足利尊氏は持明院統の光明天皇を仰いで室町幕府を開いた。60年あまり南朝北朝に皇統が別れていたが、元中9年(明徳3年・1392)には大覚寺の「剣爾の間」で南北講和が行なわれた。

南朝の後亀山天皇は、北朝の後小松天皇に三種の神器を譲って大覚寺に入った。しかし、和議の条件が果たされなかったため、応栄17年(1410)、後亀山上皇の吉野出奔以後、南朝の再興運動が起こり、大覚寺もこの運動に深く関わっていく。

大覚寺はその後、後宇多帝、亀山帝など天皇を父に持つ門跡が続いた後、足利義満の子であった義昭が住職の時、兄将軍義教に対する謀反を起こしたとされる大覚寺門主義昭の乱があり、南朝再興と将軍職継承問題も絡めた政争の中に翻弄された。

そして、このころ14世紀半ばから、疫病が蔓延したりすると、嵯峨天皇宸筆紺紙金字の宸翰般若心経が大覚寺から借り出されて、人々がこの般若心経を飲んだと言われる。宸筆心経の欠損が甚だしいのはそのためと言われ、15世紀後半からは拝見だけされるようになったという。

戦国時代に入り、応仁2年(1468)9月、応仁の乱によりほとんどの堂宇を焼失。その後摂関家からの門主が続き、天正17年(1589)、皇族から空性を門跡に迎えて、衰退した大覚寺の再建にとりかかり、寛永年間(1624~44)には、ほぼ寺観が整えられた。

空性の後、後水尾上皇の弟尊性の頃から、茶の湯、文芸など華やかな文化サロンとして高貴な人々の交流の場となっていたことが、当時の皇族公家の書状が保存されていることから伺われる。

そして、その後四代近衛家から門主が出て、江戸末期、天保8年(1837)に、有栖川宮家の慈性法親王が20歳で門主になると、その四年後に嵯峨天皇一千年忌を催し、その翌年には、東大寺別当を兼務、さらには、江戸寛永寺に住まい日光にある輪王寺の門主となって天台宗の座主をも兼ねることになり、大覚寺を輪王寺が兼務することになる。

慈性門主は大覚寺最後の宮門跡として、心経殿の再興を願っていた。江戸へ下向する日、勅使門・唐門から出た慈性は名残惜しそうに何度も振り返っと言われ、「おなごりの門」と別名される。

結局、隠居願いが聞き届けられ、輪王寺から帰る準備中に上野の森でなくなった。幕府は、尊皇反幕運動の中心人物になるのではないとか恐れられるほどのカリスマ性のあるお方であったことが災いをもたらしたと言えようか。

その後、明治の激動の末、一時無住となり、明治6年に、中御門神海を門主に迎え、皇室から二百石をうけて復旧した。そして、大正13年(1924)、第48代龍池密雄門跡が心経殿を再建。また大正天皇即位式の饗宴殿を移築し、御影堂(心経前殿)とした。

一方、大正11年(1922)、大沢池附名古曽滝跡が国指定名勝、昭和13年(1938)には大覚寺御所として境内全域が国指定史跡に指定された。また平成4年には、心経殿が、指定文化財になっている。つづく


(↓よろしければ、一日一回クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ

日記@BlogRanking


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大覚寺の研究1

2007年10月16日 08時40分01秒 | 様々な出来事について
大覚寺は今年、中興後宇多法皇の入山700年を迎え、10月24から26日にかけて大法会が行われる。24日に38名の檀信徒とともに参詣する。この機会に、ここ國分寺の本山でもある大覚寺とはいかなるお寺なのか、ここにまとめておきたいと思う。

大覚寺はいうまでもなく、旧嵯峨御所嵯峨山大覚寺・真言宗大覚寺派の大本山である。大同4年(809)に即位した嵯峨天皇は、都より離れた北野の地をこよなく愛され、壇林皇后との成婚の新室である嵯峨院を建立、これが大覚寺の前身・嵯峨離宮である。

嵯峨野は、その昔から野の花が咲き競う大宮人の行楽地であり、月を愛で、花を賞し、皇族貴族の遊猟を楽しむ場所であった。嵯峨の地名は、唐(中国)の文化を憧憬していた嵯峨天皇が、唐の都・長安の北方にある景勝の地、嵯峨山になぞられたものである。

その後弘法大師とのやり取りを見ても、嵯峨天皇は、漢詩文にすぐれ、それらは勅撰漢詩集「凌雲集」などに採用され、書道の三筆にも列せられる、平安前期を代表する文化人として高い素養を備えた方であって、また当時としての国際性を併せ持っておられた。

嵯峨天皇は、平安建都の完成者とも、今日にいたる皇室という伝統を築いたとも言われている。前時代の律令体制を修正し補足した格式を中心に政治を執られ、中国の新しい文化を伝えた入唐求法の僧侶たちにも深く帰依された。特に弘法大師空海は恩を賜り、弘仁7年に高野山開創の勅許を与え、同14年には東寺を下賜された。

弘法大師が、留学僧として20年間の滞在期間をあえて2年ほどで帰国した禁を犯したがために九州で足止めされて京の都に入れなかったのを許したのも嵯峨天皇であり、またその請来した経典類を評価し、真言宗という新しい教えを一宗として認めたのも嵯峨天皇であった。そのことを思うとき、この嵯峨天皇というお方は、真言宗にとって、誠に大きなご恩を感じる。

弘仁9年(818)春の大飢餓に際しては、天皇は、「朕の不徳、百姓何ぞつみあらん」と言われ、嵯峨天皇、壇林皇后とも衣服、常膳を省減し、人民への賑給を尽くすとともに、弘法大師の導きで一字三礼されて般若心経を書写された。その間皇后は、薬師三尊像を金泥で浄写され、弘法大師は、持仏堂五覚院で五大明王像の宝前で祈願したという。そのときの宸筆・般若心経は、現在も勅封として大覚寺心経殿に伝えられている。

この精神は後々までも引き継がれ、天変地異のあった天皇は自ら般若心経を書写して大覚寺に奉納することが恒例となって、後光厳、後花園、後奈良天皇などの宸翰が残されている。

嵯峨天皇は、皇位を淳和天皇に譲位されてのち、嵯峨野に20年間住まい、寝殿などの増築や中国の洞庭湖に模して東西200メートルもある大沢池をつくり、池泉舟遊式庭園が造園された。その北側には、藤原公任(きんとう)の歌で有名な名古曽の滝が造られている。百済からの渡来人が造ったと言われており、水落石の石組みが今に残る。

離宮嵯峨院が嵯峨天皇崩御の30年後の貞観18年(876)、嵯峨天皇の長女で、淳和帝の皇后であった正子は、政争によって廃太子となっていた第二皇子の恒貞親王を初代の住職恒寂法親王として、嵯峨帝と淳和帝の威徳をしのび、寺院に改められ、初めての門跡寺院・大覚寺として再出発することになった。

当時、田地が36町あったと記録されている。因みに恒寂は、丈六の阿弥陀像を造ったと言われるが、当時から、大覚寺の中心は、嵯峨天皇の宸筆般若心経であった。

恒貞歿後、仁和寺を開く宇多法皇がたびたび参詣し、詩宴を開いた。その弟子であった寛空が大覚寺第二世となり、その後、三世定昭が興福寺一条院の出であったが為に、290年ばかり一条院が大覚寺を兼務することになり、藤原姓の住職が続く。

鎌倉時代、文永5年(1268)後嵯峨天皇が落飾して素覚と名乗り大覚寺に住職されて、後嵯峨天皇の子亀山帝がその後に続き、門跡寺院として復活。そして、さらにその子である後宇多上皇が徳治2年(1307)に寵愛していた妃・遊義門院を亡くされた哀しみから仁和寺で出家。金剛性と号して、大覚寺に遷られ法皇となって、大覚寺で、4年間にわたって仙洞御所として院政を執られたので、大覚寺が「嵯峨御所」と呼ばれるようになった。

この頃、承久3年(1221)承久の乱と言われる後鳥羽上皇を中心とする公家勢力が幕府打倒の兵を挙げるという事件があり、皇室の結束を弱めるために幕府が干渉して、皇位が皇統や所領の継承を2分する調停を行い、亀山・後宇多の皇統は、後嵯峨、亀山、後宇多の三人の天皇が大覚寺に門跡として住したことにより大覚寺統(南朝)と称され、以後、後嵯峨天皇第二皇子の後深草帝の持明院統(北朝)と争うこととなる。

持明院とは、京都上京区にある藤原道長の曾孫、基頼が建てた邸内の持仏堂のこと。後深草天皇が、譲位後御所としたことから後深草天皇の系統を持明院統という。つづく

(↓よろしければ、一日一回クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学ブログ 仏教へ

日記@BlogRanking



コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『般若心経は間違い?』を読んで3

2007年10月14日 09時16分16秒 | 仏教書探訪
はたして、私たちはこの般若心経をどのように受け取るべきなのであろうか。毎日お唱えしてきた心経が、まったくもって、価値のない経典であったとも言い難い。これからも唱える機会がある。また写経もなされるであろう。

そこで、私がかつて解釈した「般若心経私見」に述べたように、心経は、観音菩薩がサーリプッタ尊者に話された内容であって、私たち凡夫にとっては、空を悟るために、無とされたお釈迦様の根本教説をとても大事な教えとして受け入れるべきではないか。

自らの心を観察し、いかに生きるべきかと教えてくれる大事な教えをそこから展開し学ばせてくれるものと受け取ったらいかがであろうかと思う。「般若心経私見」の最後に私は、以下のように書いた。

http://www7a.biglobe.ne.jp/~zen9you/pada/singyo.htm

「直観によって覚る、ということは簡単ではないのです。般若経典が成立した時代のインドのように戦乱に生きる民衆の荒廃した心にこそ、それは必要でありました。平和な、いまに生きる私たちにとって、それはとても難しい。

だからこそ、お釈迦様は、様々な手法によって、弟子たちに世の中のことを説き聞かせ諄々と説法を続けられたのではないでしょうか。私とは何か。なぜまわりに流され、落ち着かないのか。人生とはいかなるものか。いまをどう受けとめ、いかに生きるべきか。

このように身近で、なおかつ切実な問題について教えられたのがお釈迦様であり、それが心経で否定された、五蘊、十二処十八界、十二縁起、四諦八正道の教えでありました。

我が国で広く民衆に受け入れられた心経において、仏教の根本的教説が否定されたことにより、私たちはそれらを深く顧みることをしてこなかったのではないでしょうか。そのことによって、仏教とは神秘的直観によって獲得するものと受け取られてきたのではないかと思います。これによって仏教本来の教えを封印してしまった、と言っても言い過ぎではありません。

心経を生んだインドでは、どのようにこのお経が民衆に受け入れられていったのか。おそらく彼らは既にもっていた仏教の素養、自らの心を探究するという姿勢の上に、心経を吸収していったのではないか、と私は思います。

般若心経をいかに読むべきか。私たち凡夫にとって、否定された教説に冠された無の字は、南無の無と受け取っては如何なものかと私は思っています。心経を読誦して満足することなく、それら(南)無と唱える仏教本来の根本教説と向き合い、自ら心の内なるものにたずねいたるために示された教えであると受け取って欲しいのです。

そうして、がんばっている、つっぱっている自分、我を無くしていく、無我を実現していく、つまり自分の心の中に空を実現するための経典として心経を位置づけていきたいと思うのであります。」

最後に、スマナサーラ師が日本の私たち仏教徒にエールを送って下さっているように思える言葉を紹介し、この小論を締めくくりたい。

「それで大乗の世界で何をするかというと、般若心経のように呪文を唱えたり、南無妙法蓮華経と唱えたりするだけで終わってしまうのです。これは、世界宗教として仏教を見ると恥ずかしいことです。世界で太陽のごとく、一切の哲学思想宗教の上に立って、皆に打ち勝って勝利者になるべき仏教が、すごくだらしなくて、コソコソと隠れていなければならない状況に陥っているのです。」

「私たちテーラワーダ仏教徒は、仏教徒であることをすごく自慢して言うのです。その裏にどんなニュアンスが隠れているかとというと、私たちはバカではない。科学的な人間であって、迷信のかけらもない。怖いものはないという誇りなのです。」

「仏教は真理に基づき、どのようにすれば生命が幸せに至るのか、論理的、具体的に説くのです。真理に基づくので、仏教には普遍性があるのです」

「仏道は、自分の心を高める実践です。仏教徒は道徳を守り、慈悲の心で、最高の幸福にチャレンジするのです。本人が精進せずに幸福になるなどという甘い話ではありませんが、苦行の類は一切なく、誰にでも実践が可能です。」

いかがであろう。仏教を信奉する者として日本仏教徒にもその誇りと気概を持てるような教えの説き方をしなければいけないのだろうと思える。「私には仏教がある。そして日々実践している」と思えるだけでしあわせを感じられる日本仏教徒が一人でも多く増えていかなければいけないのであろう。

本書「般若心経は間違い?」は、般若心経を題材に、大乗仏教、日本仏教の問題点を鋭く指摘する指南書であり、同時に、本来の仏教とはいかなるものか、経典とは何か、仏教徒とはいかにあるべきかをやさしく教えてくれている。

他の仏教国に共通する仏教の常識、仏教徒として知らねばならない事々に、私たち日本人は誠に疎いことを知らない。本書は、身近な般若心経を通して、世界基準の仏教とはいかなるものかを学ぶ好著であると言えよう。是非、多くの人にじっくりと読んでいただきたい。

(↓よろしければ、一日一回クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学ブログ 仏教へ

日記@BlogRanking

コメント (9)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『般若心経は間違い?』を読んで2

2007年10月13日 10時43分15秒 | 仏教書探訪
五蘊は、「私は何からできているのか」ということを、十二処は、「私はどのように認識するのか」ということ、十八界とは、「私と外の世界との関わりはどうなっているのか」ということを教えてくれる、とスマナサーラ師は、簡単明瞭に解説される。

これらによって、自分とは実体がなく、あるのはネットワーク、網のような存在であって、そこには芯になるようなものはなく常に変化している、私も含め存在は無常であるということがそこから簡単に学ぶことができると指摘される。

さらに十二縁起は、仏教の心髄であり、それは「私という存在の因縁論、私自身の生きる苦しみ」を説明したものであって、これによって私はどうすればいいのかが明確になるものであるという。

そして四諦は「悟りへの道筋」が述べられている。つまり、心経が無と否定するこれらお釈迦様の根本の教説は、そのすべてが、仏教というからには必要不可欠な教えばかりであり、決して否定すべきものではないと言明されている。

阿羅漢というお釈迦様と同等な悟りに至るためには、様々な段階があるが、最後まで、自分という五蘊を観察して最終的な最高の悟りにまで至るものであると明かされる。

煩悩だらけ、執着だらけの自分、この自分という思いから執着が生まれるのだから、それが徹底的に空である、実体がないということを段階ごとにより精緻に観察していかくなてはいけない。それができると無執着の心が生まれ解脱に至る、つまり悟るのだと言われる。

つまり五蘊も十二因縁も、心経で無と否定されるブッダの根本教説は、初学者には必要だけど、般若心経で言うような高度な空論では否定していいなどと言えるものではないということを言明されている。

このことは心経を解釈する上で、また大乗仏教の教えを受け入れる者にとっても、大変重要なことではないかと思われる。なぜなら、大乗仏教という新しい教えは、その前の教え、つまりお釈迦様の教えを捨てて成り立つものではないということを念頭に置く必要があるからだ。お釈迦様の根本教説を学び実践することがまず優先されるべき事を教えている。

そして、心経は最後に、「ギャーティギャーティ・・・」という呪文こそ一切の苦を除くとなっているが、このことは、仏教の経典というものが修行の方法を語るべきものであるという根本から逸脱してしまったものとなり、まったく解せないと率直に語る。

空論を語り、その後お釈迦様の教説を否定してきて、菩薩たちはみな般若波羅蜜多で解脱したというなら、その修行論を語るべきなのに、突如として、呪を唱え直観を得るというような神秘主義に陥ってしまったのはいかがなものか。上座仏教の論書の一つ清浄道論には、精密な空の瞑想法が数十種類の空観の実践法として記されているのに・・・。

さらに、宗教たるもの決して人間の呪文願望を支えてはならない。もし宗教が呪文願望を応援するなら、それはインチキ宗教に決まっているとも書かれている。インドの文化では、呪文でなんでも希望がかなうというところまでは言うのだが、さすがに、呪文で悟りに達するとまでは言わなかった。それなのに、般若心経やチベット密教の経典になると悟りまで呪文で達成してしまうとするが、それは呪文を過大に評価しすぎであり、やり過ぎだという。

確かに、勉強もしないで、呪文を唱えて大学に合格するとは誰も思わないであろうから、大学受験とは比較にならないくらいに難しい悟りということを呪文で解決しようとするのは、やはりお釈迦様の仏教とは言えないであろう。

そして、お釈迦様の直接の言行録であるパーリ経典の立場からは、般若心経には、これが真理だとする理論、このようにしなさいという実践論、人間として成長しなくてはいけないという躾も欠けているとスマナサーラ師は結論する。向上する躾が欠けているなら、それはブッダの生の教えではない、これが経典をチェックする上での重要なポイントだという。

ブッダの教えなら、たとえ四行であっても、がんばりなさいというひと言、成長するための方法が必ず入っている。理論と実践は切り離せないというのがブッダの立場。それなのに、般若心経には、それらがなく経典としての体もなしていないと糾弾されている。

般若心経の作者は、何の立場もない祈祷師程度だと思う、呪文は誰でもありがたく信仰するので、書き残され残っただけではないかとも書かれている。ことの真偽は分からない。

しかし、私がかつて心経を解釈したときにも感じたことであるが、心経をこのように解釈したら意味が通じはしまいかという解釈する者が経典を助けてあげねばならなかったことは、おそらく解釈する誰もが感じることであろう。

その点についてもスマナサーラ師は、本来真理の言葉であるべき経典を解釈者が意味や言葉を補わねばならないということは、それはお釈迦様の教えとは言えない、すべてを悟られたお釈迦様の言葉には無駄も補足すべき点もない完璧なものであるからと言われる。つづく


(↓よろしければ、一日一回クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学ブログ 仏教へ

日記@BlogRanking

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『般若心経は間違い?』を読んで

2007年10月10日 08時37分56秒 | 仏教書探訪
般若心経。それは、日本仏教にとって必要不可欠の経典である。昔から寺院でも家庭でも誰もが親しみ読み継がれ、書写されるもっとも代表的な経典と言えよう。だからこそ、これまで、様々な立場の人々が解説を施してきた。

私自身も、数年前に「般若心経私見」として解説を試みたことがある。そのとき気をつけたことは、般若心経が書かれた時代の仏教知識で理解するべきであろうということだった。

つまり、般若経典が新しい仏教運動の思想を語る経典として制作された時代、仏教はどのように人々に受け入れられていたのか、その時代の人々の知識から般若心経を理解すべきであろうと。

乏しい私の仏教知識では、もとより、それは内容的には十分なものではなかったが、その解釈に対する方針、それこそが私のこだわりだった。なぜなら、他にある解説書はすべてみな大乗仏教者による大乗仏教優越論、ないし宗派宗旨にとらわれた自らに都合のいい内容に思えたからである。

そして、ここに紹介する「般若心経は間違い?」(宝島社新書の新刊)はスリランカ仏教の大長老が、上座仏教によるお釈迦様の教えからとらえた般若心経観を語る。そのとらえ方は私の「般若心経私見」に通底する部分がかなりある。私は、「般若心経私見」の末尾に結論として以下のように述べた。

「般若心経をいかに読むべきか。私たち凡夫にとって、否定された教説(五蘊・十二処・十八界・十二因縁・四聖諦など)に冠された無の字は、南無の無と受け取っては如何なものかと私は思っています。心経を読誦して満足することなく、それら(南)無と唱える仏教本来の根本教説と向き合い、自ら心の内なるものにたずねいたるために示された教えであると受け取って欲しいのです」

いかがであろうか。この一文を読んだ人の多くが、これまでの大乗仏教優越論者たちの書く般若心経書と全く逆行する内容に肯んぜざるものを感じたことであろう。しかし、上座仏教の長老によって著された本書によって、私の書いた「般若心経私見」のこのとらえ方が、あながち大きく間違っていなかったことが証明されたと思う。

著者A・スマナサーラ師は、日本に来られて27年になられる。十数年前には私も間近に教えを受けたことがある。独学した私の仏教知識にお釈迦様の息吹を吹き込んでくださったのは師に他ならない。「仏教とはこうしたものです」と確信をもって語られる話に何の疑念を持つこともなく聞き入った。

今日、日本テーラワーダ仏教協会の長老として沢山の仏教書を出版いただいていることは、これから将来にわたり日本仏教を変えていく原動力になるであろう。おそらくスマナサーラ師の著作を無視して、日本で仏教は語り得なくなるのではないか。

なぜなら多くの一般に仏教を学ぶ人たちが師の本を読み、高いレベルの仏教知識を身につけることによって、法を説く者はそれ以上の知識と理解を求められる時代が来るであろうから。

前置きが長くなりすぎたが、早速、本書の内容を見ていこう。まず、大乗経典は、お釈迦様の語った説法の記録ではなく、お釈迦様の歿後数百年に経典制作者が自らの禅定体験などによってお釈迦様の名前を使って物語を作り独自の思想を語ったものだということをきちんと押さえておくべきだと述べられる。

仏教史を紐解けばそれは明らかなように、ご指摘の通りであり、このことをはっきりと日本仏教者は語ろうとしてこなかった。

そして菩薩とは、本来悟りを開く前のお釈迦様のことであるが、大乗仏教になって、仏教信者誰もが菩薩と見なされるようになりエスカレートした。

般若心経の大きなテーマである「空」は、本来特別視すべきものではなく、蜃気楼、無常、苦、などと同義の言葉に過ぎないない。解説書などで特にサーリプッタ尊者を侮る悪い癖がある。

また、すべてのものは空であっても、生滅、垢浄、増減はある。生滅がないという般若心経の作者は相当な間違いを犯したと記している。経典とはそのまま受け入れるもの、何の批判批評をすることなく、経典に書いてあるのだから間違いは無いはずだという信頼のもとに私たちは経典を受持する。

だから私自身が「般若心経私見」を書いたとき、そのまま心経の文言をこう理解したら上手く解釈が成り立つのではないかという苦労の末に、ちょうどこの生滅・垢浄・増減に関する解釈では、パーリ相応部経典を引いて無と否定することを肯定する見解を披瀝した。

しかし、スマナサーラ師から見たら、般若心経の作者を遙かに超えた知識と体験の中から、おそらく般若心経の誤りが透けて見えるのであろう。

さらに、このあと無と否定する五蘊、十二処、十八界、などはブッダの教えを理解する上で絶対に欠かせない大切な教えが詰まっていると語る。なぜなら、仏教とは形而上学でも観念論でもなく、科学的に人間の問題を解決する唯一の方法である、「生きているとは何なのか」と分析するものだからだと指摘する。つづく

(↓よろしければ、一日一回クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学ブログ 仏教へ

日記@BlogRanking

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする