住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

人生とは

2007年08月23日 19時12分42秒 | 仏教に関する様々なお話
(現在書店に並ぶ、大法輪誌9月号・特集・仏教の見方・考え方に掲載。わかりやすく仏教の体系がマスターできる特集他、宗派にとらわれない仏教総合誌。是非ご覧下さい)


  『人生とは』

人生とは、生老病死の苦しみに満ちていると、お釈迦さまはご覧になりました。

しかし、私たちは、たった一度の人生だからなどと言われ、夢を追いかけ自分の思いどおりに、おもしろおかしく生きたいと思います。と同時に、誰もが、人生とは何事も順調に、思いのままに進むものではないのだと漠然と感じてもいることでしょう。

中学生のとき友人をガンで亡くし、その後親族の不和を経験した私にとっても、人生はそんなに淡いものではありませんでした。後に仏教に関心を深めた私は、それを仏教では無常と言うのだと知りました。自然界の移り変わりも、人間関係も。それにコロコロと変わる心も、無常そのもの。

そして、人の生と死。何事も思い通りにならずに、一刻一刻死に向かって、不安と焦燥の中に私たちは生きています。こうして無常なるがゆえに苦しみもがくのです。

ですが、私は無常を目の当たりに経験し、苦しんだお蔭で仏教とまみえることができました。大学二年の時、高校時代の友人二人と、ある大学の門前で待ち合わせいろいろな話をする中で、哲学的な話題に花咲かせる彼らに劣等感を抱きました。そのとき何か学ばねばとの思いを抱き、一冊の仏教書を手にして、私は仏教にのめり込み、気がつくと僧侶への道を歩んでいました。

親友を亡くしたり、家族の不幸を経験したひと誰もが僧侶を志すわけではありません。私には、仏教に触れる縁を得て、それを深く受け入れる業(結果をともなう行為)が過去に備わっていたのだと思います。

そして何年も後に、縁あって高野山に修行し、下山して東京のお寺に役僧として勤めました。ある日の夕方本堂の床を雑巾掛けしているとき、突如として、このお寺は私が仏教に関心を持つ切っ掛けとなったあの時友人たちと待ち合わせた大学の門の真向かいに立地していたことに気づきました。

その瞬間、様々な過去の映像が立ち現れ、すべてのことが今ここにあるためにあった。一瞬一瞬の行いを、さまざまな岐路に立って一つも間違わずに選択して今ここに辿り着いた。すべてのことはあるべくしてある。すべてが偶然などではなく、今のために用意されていた。

自分がなした行いの因と果の織りなす積み重ねが今に至ったとわかりました。それから数日は何を見ても聞いてもありがたく、それらはそこに私にとってとても意味あるものとして存在しているように感じられたのでした。

人生とは、一瞬一瞬の行い、言葉も思いも含めた自分自身の業の積み重ね、因果の連鎖なのです。そしてすべてが自業自得。良くも悪くも、すべて自分次第なのです。

ところで私たちは、人生とは自分のものと思い、何でも自分の思うようにしたいと考えます。ですが、仏教では、私たちの行いは、現世を生きる今の自分の人生の問題だけではなく、その因果は三世に及ぶものなのだと考えます。

お釈迦さまは悟られたとき、そのまま菩提樹の下で十二因縁という、苦がどのように生じ、どのように滅せられるかの因果を何度も思索されたと言われています。

私たちの愁い悲しみ苦しみ悩みのもとには、ものの因果道理を理解しない無明(無知)があり、その故に行(行為)があり、それによって識(意識)を生じ、名色(形あるものと心)として受け取り、六処(感覚器官)との触(接触)により、受(感覚)として受け入れ、愛(欲求)を生じ、取(執着)となり、有(生命)を形作り、生(誕生)をうけ、老死(生老病死の苦)に至ると説かれました。

そして、この十二因縁の教えは、このように苦しみのあり方に関する因果を説く教えであると同時に、過去現在未来へと巡る三世の因果を説く教えとして解釈されます。

過去世の輪廻の苦しみを覆い隠す無明のために、いろいろな善悪の行為がなされ、それが原因となって現世でのものの受け取りかたや行いがあり、その善悪の行為が結果して、来世に再生するというように。

つまり、物に対する好き嫌い、趣味趣向、もののとらえ方考え方も、前世を含む過去からの業によって左右され、そして現在の行いは来世を含む未来に影響を与えるものなのです。

では、私たちは人生をより良く歩むために、いかにあるべきなのでしょうか。お釈迦さまは自ら悟り得た教えを説法するに際して最初に四聖諦(聖なる四つの真実)という教えを説かれました。その四つとは、

①苦聖諦・生老病死の苦しみに加え、愛するものと別れ、憎むものと会う、求めるものを得られず、人のいとなみは総じて苦しみである。

②集聖諦・その原因は、喉が渇いた人が水を求めるような激しい欲の心(渇愛)にある。

③滅聖諦・この欲の心を滅したところに、苦しみのない幸せがある。

④道聖諦・その苦しみのない幸せにいたる八正道という実践の道。(第四部参照)

四聖諦の教えは、冒頭述べたように、この世は苦しみに満ちている、思い通りにならないその現実を、そのあり方を理解し受け入れよというのです。それはなぜかと言えば、私たちには、心地よい楽しい感覚を求めて止まない欲の心があるからで、そのことを自覚し、滅していくことが求められています。

そして、誰でもが幸せでありたいと思うわけですが、本当の幸せとは、一時の享楽、名誉、財産などではなく、苦しみのない清らかな心を獲得することであり、そのための良い生き方として八正道が提示されています。

人生は、一瞬一瞬、今の業の積み重ねにすぎません。人生とは、一日一日、三世の因果を理解して良い業(行い)を重ねていくためにあるのだと言えましょう。

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わかりやすい仏教史⑦ー中国仏教の最盛期とその後 2

2007年08月12日 17時02分09秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
密教の興隆

七〇五年、武后が病床につくと、中宗が復位して唐を復興。その後も女禍が続くものの睿宗の子玄宗(在位七一二ー七五六)が即位すると官僚機構を整理して乱れた政治を建て直し、武后時代に増えた税金逃れの僧尼一万二千人を還俗させました。

玄宗のとき、すでに八十歳になっていたインド僧善無畏(六三七ー七三五)が密教経典を携え陸路長安に来て、インド伝来の密教が伝えられ[真言宗]が誕生しました。善無畏は玄宗の信任を受け、「大衍暦」を作った数学、天文、暦法の達人一行を弟子として大日経を翻訳。

また南インド出身の金剛智は、ナーランダーで諸学を学んだ後密教を授かり、海路長安に来て玄宗の侍僧となりました。密教宣布のかたわら金剛頂経など多くの密教経典や儀軌を漢訳し、インドで盛んになるのとほぼ同時期に中国でも密教が興隆していきました。

西域またはスリランカ出身と言われる不空(七〇五ー七七四)は、金剛智から中国内で密教を授かり、師の死後インドやスリランカに行き最新の密教経典をもたらしました。不空は宮中に迎えられ、内道場において玄宗に灌頂を授け、また一方、一一〇部一四三巻の経論を翻訳し、羅什や玄奘などと並び四大翻訳家の一人として名をとどめています。

七五五年安史の乱がおこり、玄宗が蜀へ逃れている間、不空は長安にとどまり、密かに唐朝復帰の運動をなしたと言われています。長安回復後は朝廷の不空帰依は頂点に達し、その後の粛宗、代宗も不空を師とし、三代の国師として大広智三蔵の号を賜りました。漢胡、文武、僧俗に多くの弟子があった不空は、中国仏教史上最も宮廷に勢威をはったと言われています。

会昌の仏教弾圧

代宗の時代は戦乱で荒らされた長安に再び豪奢な貴族の生活が復活しました。しかし北のウイグル南のチベットなど周辺からの侵入掠奪にさらされ、また徳宗の時には辺地の軍団長である節度使がのさばり、中央では宦官による横暴がはびこっていました。

そうした中で、道教の熱心な信者であった武宗は八四二年廃仏を断行し、犯罪を犯したり戒律を守らず還俗させられた僧尼が二六万人余り、寺院も官寺四千六百、私寺四万余寺がことごとく廃止されました。

財政難を抱える朝廷は寺院の荘園を没収して転落農民を生み出し、人民のよりどころを奪い、唐朝崩壊に拍車がかかっていきました。

この廃仏によって、隋唐時代に隆盛を極めた三論、天台、法相、華厳、真言の各
派どれもが朝廷の帰依を受け経済的援助によって興隆してきたが為に、瞬く間に衰退していきました。しかし、民衆のための宗教として重要な役割を果たしつつあった浄土教と山野にあって自活生活をする禅宗はその後も発展を続けていきました。

浄土教と禅宗

阿弥陀仏を礼拝し念仏する[浄土教]の教えは、中国では一つの宗派として独立したものとはなりませんでしたが、様々な宗に属する人々が盛んに阿弥陀浄土を信仰していたと言われています。

三論宗系の人、曇鸞(四七六ー五四二)は、心に阿弥陀浄土を観想するといった観念の念仏から名号を唱える口称の念仏を確立し、また善導(六一三ー六八一)は阿弥陀仏の慈悲の力により凡夫の救済があるとして、日本の浄土宗にも大きな影響を与えました。

[禅宗]は、他の宗派がどれも、より所とする経典なり論書をもって宗旨をたてるのに対して、心を以て心に印する教外別伝としてそれらを用いず、五二〇年頃海路中国に至ったとされる菩提達摩がインドから伝えたとしています。

仏教の教理も含め一切の分別を捨てて、ただひたすらに坐禅し本来の淨らかな自己の本性を直感的に自覚しようとするところに特徴があります。また食事作法や作務など生活全般に重きを置くこともよく知られており、中国人が生んだ最も中国的仏教と言われています。

唐以後の中国仏教

唐代以後の中国仏教は、その後大きな発展もなく今日を迎えています。その教義や実践に関する基礎が唐代までに完成されていたからとも、仏教が中国化し深く民衆の生活に浸透して生活の中にとけ込んでしまったからであるとも言われています。

宋代(九六〇ー一一二六)には禅宗が広く行われ、曹洞宗、臨済宗など五家七宗へと分派発展していきました。また浄土教は深く民衆に浸透し、禅などの諸宗とともに行われ、禅浄双修が説かれました。

宋の太祖は、九七一年大蔵経の出版事業を起こし、十二年を費やして五千巻あまりの大蔵経を出版しました。仏典の印刷はすでに唐代にも行われましたが、一切経が印刷されるのは初めての試みであり、世界印刷文化史上稀有の大事業でもありました。

その後の大きな変化としては、元朝(一二六一ー一三六八)において、蒙古地方に伝わっていたチベット仏教が宮廷に迎えられ、大きな勢力を得たことがあげられます。チベット版大蔵経が蒙古語に翻訳されるなど、チベット密教系の仏教研究も盛んでした。

明朝(一三六八ー一六六二)は、仏教を保護する一方で、民衆を扇動し宗教一揆を起こす半僧半俗の念仏結社などを厳しく取り締まりました。そのため旧仏教が復興し、天台、華厳、浄土などと融合した禅宗が盛んでした。

民衆にあっては観音信仰、念仏会、放生会、受戒会、菜食の実践などが盛んに行われ、仏教信仰は民間信仰とも習合しながら現世利益をかなえるものとして民衆の生活と密着したものとなりました。

その後、清朝(一六一六ー一九一二)もチベット仏教を崇拝しましたが、雍正帝が念仏を提唱したため、その後の中国仏教は宗派を問わず念仏を基本とするに至りました。また後に、仏教教団を社会から遊離する政策が採られ、在家者を中心とする居士仏教が盛んになりました。そして清末には太平天国の乱が起こり、寺院財産は没収、仏書も失われ、仏教は衰退していきました。

現代の中国仏教

一九一二年中華民国建国後も、仏寺圧迫が衰えなかったため、仏教界は一致団結して寺産保護仏教復興に乗り出しました。その後、総合仏教を唱える太虚らは仏教界を改革、各種仏教学校の創設、仏教雑誌の刊行、また社会事業を行うなど仏教の近代化が進められました。

戦後一九四九年、中華人民共和国が生まれると、伝統宗教に抑圧が加えられ、一九六六年には文化大革命によって寺院は傷つき、仏像は破壊されました。しかし一九八〇年頃からは急速な修復復興がなされ、信教の自由が憲法で認められるにいたり、今日の中国仏教は国家の政策に奉仕し人民のために幸福を願うものとして息を吹き返しつつあります。

一方台湾では、様々な民間信仰と混淆した観音信仰、念仏などが盛んではありますが、大陸から移った僧尼により中国仏教の伝統が伝えられています。

今日では飛躍的経済成長により経済的豊かさを獲得し、純粋な仏教を求め、また社会貢献の一手段として出家する人々が増加しています。また戒を受け真摯に仏教を学び実践する多くの在家信者が存在し、二千年の伝統を誇る中国仏教の面目を今に伝えています。 

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ちょっといい話

2007年08月03日 20時05分35秒 | 様々な出来事について
8月1日、毎年のことではあるが、朝5時半にお寺を出て、京阪神地区に盆参りに出た。そして、福山から乗ったこだま号で、心温まる光景に出会った。何のことはない。ただ、乗る新幹線を間違えた人と行き先違いの同じ号車の同じ座席に座った人とのやりとりである。

岡山で人の入れ替えがあり、私の斜め前に紺のスーツを着たやや長髪の50代のサラリーマンが座った。IT企業のやり手の仕事士然とした感じ。少し前に世間を賑わしたグッドウィルの折口会長に似た雰囲気の人だった。

そして少しして、その人よりも少し年長のグレーのジャケットを着た中小企業の役員風の方が、そのサラリーマン氏に向かって、切符を片手に「席を間違えてないですか」と問われた。

その一言で、ことを了解したそのサラリーマン氏は「東京行きはこの後ですよ、すぐに降りた方がいい、ドアが閉まりますよ」と言われた。「あぁ、すいません」そそくさと出口に向かい役員氏が列車を降りるとドアが閉まった。私もそのやりとりを見ていて、ああ、よかったな、と思った。

こだま号がゆるゆると走り出すと、役員氏も、降りたところで振り返り、すぐに降りた方がいいと言ってくれたサラリーマン氏に向かって苦笑いして軽く会釈した。そして、サラリーマン氏も笑って軽く頭を下げた。その微笑ましい光景を見ていた私も幸せな気分に包まれた。

たまたま指定した同じ番号の座席にサラリーマン氏が座っていたから成立したやりとりであった。指定した座席が空いていて座ってしまっていたら、役員氏は間違えた列車に乗ったまま、途中で間違いに気づき乗り換えたにしても予定した時刻より遅れて目的地に向かうことになったであろう。

サラリーマン氏がもしも、つっけんどんに、「自由席のはずだがな」とでも言っていたら、やりとりが長引いてすぐに降車できず、こだま号は発車してしまっていたであろう。すぐに機転を利かして降りた方がいいとアドバイスしてもらえなかったら、もたもた切符を見たりしながら、乗り過ごすことになったであろう。

そして、何より、無事降車できて列車が走り出したときに、窓ガラス越しに二人がにこやかに会釈し合ったことが、私の心をも暖かく幸せな気分にしてくれた。こんなことはどこにでも、いつも転がっている程度の話なのかもしれない。

しかしこのときのサラリーマン氏の行動は、まさに自然になされた慈悲の実践と言えるものであり、それを素直に役員氏が受け入れることで成立した。だからこそ端で見ていた私の心をも潤してくれることになった。慈悲の心はその周りの者をも心安らかに優しい心にさせてくれる。

この二人が、もしも自分さえよければいい、周りのことなんか関わっていられるかといったものの考え方をする人たちであったら、こうはならなかったであろう。サラリーマン氏が、相手の立場、置かれた状況をおもんぱかり、適切な対応ができる人であり、役員氏も、素直に人の言うことを受け入れ、ことの状況を判断できる人であったから成立したことだ。

しかし、今の世の中、この逆のことばかりが目につくのではないか。相手の立場を考える余裕もなく、そんなことをしていたら損をする、逆に自己主張を声高にせねば損をするという時代ではないか。

他の利益を確保するよりも自己保身に走る輩ばかりがのさばる時代である。そんな時代だからこそ、その光景が誠に光り輝いて、今も二人が笑い会釈された微笑ましい光景が私の目に焼き付いているのかもしれない。

今年の阪神地区の盆参りも、この朝の心温まる二人のやりとりを目撃することができたお陰で、一日誠に心地良く、順調にお参りを済ませることができた。大阪の街も、例年より活気がみなぎり、人々の顔も明るく感じられた。体の疲れに反して、心は意気軒昂に満ち足りた高揚のままに帰還できた。

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