(現在書店に並ぶ、大法輪誌9月号・特集・仏教の見方・考え方に掲載。わかりやすく仏教の体系がマスターできる特集他、宗派にとらわれない仏教総合誌。是非ご覧下さい)
『人生とは』
人生とは、生老病死の苦しみに満ちていると、お釈迦さまはご覧になりました。
しかし、私たちは、たった一度の人生だからなどと言われ、夢を追いかけ自分の思いどおりに、おもしろおかしく生きたいと思います。と同時に、誰もが、人生とは何事も順調に、思いのままに進むものではないのだと漠然と感じてもいることでしょう。
中学生のとき友人をガンで亡くし、その後親族の不和を経験した私にとっても、人生はそんなに淡いものではありませんでした。後に仏教に関心を深めた私は、それを仏教では無常と言うのだと知りました。自然界の移り変わりも、人間関係も。それにコロコロと変わる心も、無常そのもの。
そして、人の生と死。何事も思い通りにならずに、一刻一刻死に向かって、不安と焦燥の中に私たちは生きています。こうして無常なるがゆえに苦しみもがくのです。
ですが、私は無常を目の当たりに経験し、苦しんだお蔭で仏教とまみえることができました。大学二年の時、高校時代の友人二人と、ある大学の門前で待ち合わせいろいろな話をする中で、哲学的な話題に花咲かせる彼らに劣等感を抱きました。そのとき何か学ばねばとの思いを抱き、一冊の仏教書を手にして、私は仏教にのめり込み、気がつくと僧侶への道を歩んでいました。
親友を亡くしたり、家族の不幸を経験したひと誰もが僧侶を志すわけではありません。私には、仏教に触れる縁を得て、それを深く受け入れる業(結果をともなう行為)が過去に備わっていたのだと思います。
そして何年も後に、縁あって高野山に修行し、下山して東京のお寺に役僧として勤めました。ある日の夕方本堂の床を雑巾掛けしているとき、突如として、このお寺は私が仏教に関心を持つ切っ掛けとなったあの時友人たちと待ち合わせた大学の門の真向かいに立地していたことに気づきました。
その瞬間、様々な過去の映像が立ち現れ、すべてのことが今ここにあるためにあった。一瞬一瞬の行いを、さまざまな岐路に立って一つも間違わずに選択して今ここに辿り着いた。すべてのことはあるべくしてある。すべてが偶然などではなく、今のために用意されていた。
自分がなした行いの因と果の織りなす積み重ねが今に至ったとわかりました。それから数日は何を見ても聞いてもありがたく、それらはそこに私にとってとても意味あるものとして存在しているように感じられたのでした。
人生とは、一瞬一瞬の行い、言葉も思いも含めた自分自身の業の積み重ね、因果の連鎖なのです。そしてすべてが自業自得。良くも悪くも、すべて自分次第なのです。
ところで私たちは、人生とは自分のものと思い、何でも自分の思うようにしたいと考えます。ですが、仏教では、私たちの行いは、現世を生きる今の自分の人生の問題だけではなく、その因果は三世に及ぶものなのだと考えます。
お釈迦さまは悟られたとき、そのまま菩提樹の下で十二因縁という、苦がどのように生じ、どのように滅せられるかの因果を何度も思索されたと言われています。
私たちの愁い悲しみ苦しみ悩みのもとには、ものの因果道理を理解しない無明(無知)があり、その故に行(行為)があり、それによって識(意識)を生じ、名色(形あるものと心)として受け取り、六処(感覚器官)との触(接触)により、受(感覚)として受け入れ、愛(欲求)を生じ、取(執着)となり、有(生命)を形作り、生(誕生)をうけ、老死(生老病死の苦)に至ると説かれました。
そして、この十二因縁の教えは、このように苦しみのあり方に関する因果を説く教えであると同時に、過去現在未来へと巡る三世の因果を説く教えとして解釈されます。
過去世の輪廻の苦しみを覆い隠す無明のために、いろいろな善悪の行為がなされ、それが原因となって現世でのものの受け取りかたや行いがあり、その善悪の行為が結果して、来世に再生するというように。
つまり、物に対する好き嫌い、趣味趣向、もののとらえ方考え方も、前世を含む過去からの業によって左右され、そして現在の行いは来世を含む未来に影響を与えるものなのです。
では、私たちは人生をより良く歩むために、いかにあるべきなのでしょうか。お釈迦さまは自ら悟り得た教えを説法するに際して最初に四聖諦(聖なる四つの真実)という教えを説かれました。その四つとは、
①苦聖諦・生老病死の苦しみに加え、愛するものと別れ、憎むものと会う、求めるものを得られず、人のいとなみは総じて苦しみである。
②集聖諦・その原因は、喉が渇いた人が水を求めるような激しい欲の心(渇愛)にある。
③滅聖諦・この欲の心を滅したところに、苦しみのない幸せがある。
④道聖諦・その苦しみのない幸せにいたる八正道という実践の道。(第四部参照)
四聖諦の教えは、冒頭述べたように、この世は苦しみに満ちている、思い通りにならないその現実を、そのあり方を理解し受け入れよというのです。それはなぜかと言えば、私たちには、心地よい楽しい感覚を求めて止まない欲の心があるからで、そのことを自覚し、滅していくことが求められています。
そして、誰でもが幸せでありたいと思うわけですが、本当の幸せとは、一時の享楽、名誉、財産などではなく、苦しみのない清らかな心を獲得することであり、そのための良い生き方として八正道が提示されています。
人生は、一瞬一瞬、今の業の積み重ねにすぎません。人生とは、一日一日、三世の因果を理解して良い業(行い)を重ねていくためにあるのだと言えましょう。
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『人生とは』
人生とは、生老病死の苦しみに満ちていると、お釈迦さまはご覧になりました。
しかし、私たちは、たった一度の人生だからなどと言われ、夢を追いかけ自分の思いどおりに、おもしろおかしく生きたいと思います。と同時に、誰もが、人生とは何事も順調に、思いのままに進むものではないのだと漠然と感じてもいることでしょう。
中学生のとき友人をガンで亡くし、その後親族の不和を経験した私にとっても、人生はそんなに淡いものではありませんでした。後に仏教に関心を深めた私は、それを仏教では無常と言うのだと知りました。自然界の移り変わりも、人間関係も。それにコロコロと変わる心も、無常そのもの。
そして、人の生と死。何事も思い通りにならずに、一刻一刻死に向かって、不安と焦燥の中に私たちは生きています。こうして無常なるがゆえに苦しみもがくのです。
ですが、私は無常を目の当たりに経験し、苦しんだお蔭で仏教とまみえることができました。大学二年の時、高校時代の友人二人と、ある大学の門前で待ち合わせいろいろな話をする中で、哲学的な話題に花咲かせる彼らに劣等感を抱きました。そのとき何か学ばねばとの思いを抱き、一冊の仏教書を手にして、私は仏教にのめり込み、気がつくと僧侶への道を歩んでいました。
親友を亡くしたり、家族の不幸を経験したひと誰もが僧侶を志すわけではありません。私には、仏教に触れる縁を得て、それを深く受け入れる業(結果をともなう行為)が過去に備わっていたのだと思います。
そして何年も後に、縁あって高野山に修行し、下山して東京のお寺に役僧として勤めました。ある日の夕方本堂の床を雑巾掛けしているとき、突如として、このお寺は私が仏教に関心を持つ切っ掛けとなったあの時友人たちと待ち合わせた大学の門の真向かいに立地していたことに気づきました。
その瞬間、様々な過去の映像が立ち現れ、すべてのことが今ここにあるためにあった。一瞬一瞬の行いを、さまざまな岐路に立って一つも間違わずに選択して今ここに辿り着いた。すべてのことはあるべくしてある。すべてが偶然などではなく、今のために用意されていた。
自分がなした行いの因と果の織りなす積み重ねが今に至ったとわかりました。それから数日は何を見ても聞いてもありがたく、それらはそこに私にとってとても意味あるものとして存在しているように感じられたのでした。
人生とは、一瞬一瞬の行い、言葉も思いも含めた自分自身の業の積み重ね、因果の連鎖なのです。そしてすべてが自業自得。良くも悪くも、すべて自分次第なのです。
ところで私たちは、人生とは自分のものと思い、何でも自分の思うようにしたいと考えます。ですが、仏教では、私たちの行いは、現世を生きる今の自分の人生の問題だけではなく、その因果は三世に及ぶものなのだと考えます。
お釈迦さまは悟られたとき、そのまま菩提樹の下で十二因縁という、苦がどのように生じ、どのように滅せられるかの因果を何度も思索されたと言われています。
私たちの愁い悲しみ苦しみ悩みのもとには、ものの因果道理を理解しない無明(無知)があり、その故に行(行為)があり、それによって識(意識)を生じ、名色(形あるものと心)として受け取り、六処(感覚器官)との触(接触)により、受(感覚)として受け入れ、愛(欲求)を生じ、取(執着)となり、有(生命)を形作り、生(誕生)をうけ、老死(生老病死の苦)に至ると説かれました。
そして、この十二因縁の教えは、このように苦しみのあり方に関する因果を説く教えであると同時に、過去現在未来へと巡る三世の因果を説く教えとして解釈されます。
過去世の輪廻の苦しみを覆い隠す無明のために、いろいろな善悪の行為がなされ、それが原因となって現世でのものの受け取りかたや行いがあり、その善悪の行為が結果して、来世に再生するというように。
つまり、物に対する好き嫌い、趣味趣向、もののとらえ方考え方も、前世を含む過去からの業によって左右され、そして現在の行いは来世を含む未来に影響を与えるものなのです。
では、私たちは人生をより良く歩むために、いかにあるべきなのでしょうか。お釈迦さまは自ら悟り得た教えを説法するに際して最初に四聖諦(聖なる四つの真実)という教えを説かれました。その四つとは、
①苦聖諦・生老病死の苦しみに加え、愛するものと別れ、憎むものと会う、求めるものを得られず、人のいとなみは総じて苦しみである。
②集聖諦・その原因は、喉が渇いた人が水を求めるような激しい欲の心(渇愛)にある。
③滅聖諦・この欲の心を滅したところに、苦しみのない幸せがある。
④道聖諦・その苦しみのない幸せにいたる八正道という実践の道。(第四部参照)
四聖諦の教えは、冒頭述べたように、この世は苦しみに満ちている、思い通りにならないその現実を、そのあり方を理解し受け入れよというのです。それはなぜかと言えば、私たちには、心地よい楽しい感覚を求めて止まない欲の心があるからで、そのことを自覚し、滅していくことが求められています。
そして、誰でもが幸せでありたいと思うわけですが、本当の幸せとは、一時の享楽、名誉、財産などではなく、苦しみのない清らかな心を獲得することであり、そのための良い生き方として八正道が提示されています。
人生は、一瞬一瞬、今の業の積み重ねにすぎません。人生とは、一日一日、三世の因果を理解して良い業(行い)を重ねていくためにあるのだと言えましょう。
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