住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
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水野勝種侯菩提所参拝之記

2016年10月20日 18時06分38秒 | 様々な出来事について
 延宝元年(一六七三)五月十四日、この地をおそった集中豪雨によって大原池は決壊し、堂々川が氾濫して壊滅的な被害をもたらしました。川下の民家田畑も流されて、六三名もの犠牲者を出したことはよく知られています。このとき國分寺は草堂一宇を残し、すべての堂塔を失いました。そして五年後、延宝六年(一六七八)に芦田福性院の住僧で、容貌魁偉志気宏放と称された快範上人が國分寺に晋山し再建に乗り出します。

 快範上人は、創建時からの境内地の真北に位置する現在地こそ霊壌であるとして、山をうがち谷をふさいで、復興に着手。そして、現本堂は備後福山藩の第四代藩主・水野宗家四代水野勝種侯が大檀那となり、神辺網付山から用材を切り出し、さらに金穀役夫を給付下さり、元禄七年(一六九四)に再建されました。

 この時國分寺本堂再建監督奉行であった代官桜井忠左衛門の書付が國分寺に伝えられています。元禄七年三月七日付で「國分寺本堂同寺作事諸入用目録」とあり、公儀より米四十六石が寄進され、内三十石は本堂寺諸入用として、また十六石は同造営扶持方と明記されています。これは藩から四十六石もの米を頂戴し、三分の二は建築の諸費用に、三分の一は造営に掛かる扶持給付として寄進があったということでしょう。他に郡中の代官十七名が集銭した各々三百五十七匁から一百六十二匁の銀、併せて三貫七百七十六匁五分七厘が寄進されたとあります。

 当時、金一両で一石の米が買えたといいます。一石は二・五俵ですから、三〇㎏米袋五袋ということになります。三〇㎏のお米の小売価格は現在八〇〇〇円から一三,〇〇〇円として、金一両は四万円から六万五千円となります。ですが、文献などを参照しますと、時代に応じて価値に相違があるようで、一般に米価を基準に計算した金一両の価値は江戸初期で十万円、中~後期で三~五万円、幕末頃には三~四千円になるそうです。また賃金換算すると、一両が三十万円から四十万円にもなり、そば代金の換算では一両が十二~十三万円ともいわれます。

 仮に分かりやすく金一両十万円とすると、一両は銀六十匁ですから、銀一匁が一,六六〇円ほどになります。郡中からの寄進三貫七百七十六匁は、およそ六二七万円。一石は一両として、公儀の四十六石が四六〇万円とすれば、併せて一,〇八七万円という計算になります。用材を除いての本堂造営費としての金額と考えられますが、当時の実質としてはこの数倍もの価値があったものと想像されます。そして、これと別に公儀から仰せつけられし人夫が千五百二十二人とあります。

 これに先立ち元禄五年には本堂内諸仏の造像が完了し、大小の仏像等について施主の名前ともども像容が記された「本尊並諸尊像造立目録」が残されています。

 そうして郡中数多の人々の寄進により、また多くの人たちの労働によって再建されたことに改めて思いをいたすとき、突如として、それら郡中の人々に呼びかけ再建を実現して下さった勝種侯に感謝の念が沸々とわき上がり、十月四日、そして、十月七日二度に亘り墓所に参詣しました。これまでにも賢忠寺境内飛び地の水野家墓所前を車で何度も通りかかりながら参拝する機会もなく過ごしておりました。当日は賢忠寺山門前の駐車場に車を止め、新幹線高架下を通り車道を渡って水野家墓所の門を入りました。

 正面に初代勝成侯の五輪塔があります。その右手に同じく南向きに、玉垣に囲まれた五メートルはあろうかと思われる大きな五輪塔があり、それこそが勝種候の菩提所でした。五輪には梵字ではなく、下から地・水・火・風・空と梵字の意味するところを漢字一字で刻まれていました。玉垣の門、五輪塔の下部、香炉、花立てにも水野家の家紋や蓮などが刻まれ意匠を凝らした作りとなっており、後世にまで大切に祀られてきていることが分かりました。

 水野家二代勝俊侯の墓所のみ日蓮宗妙政寺にあり、三代勝貞侯の五輪塔は、勝成侯の墓所の左に西に向けて祀られていました。玉垣は取り払われ五輪塔のみがやはり地水火風空と刻まれて立っています。因みに、勝成侯の五輪には、上から祖・師・西・来・意とあります。これは、無門関第三十七則にある禅の代表的公案(達磨大師が西にあたる中国にまでお越しになったその真意はと問う意味となります)です。この他勝成侯の父君、ご子息方の他勝種侯の長男数馬殿の五輪塔も祀られており、それらすべてにお線香を供え、勝種侯の墓前でしばし理趣経を読誦させていただきました。

 時折通る新幹線の騒音にかき消されつつ、感謝の心を込めてお唱えしお参りをさせていただきました。新幹線高架下で北側はマンションに囲まれた土地ではありますが、木々に守られ敷地に入ると誠に心穏やかに落ち着つく空間となっています。いつまでも留まっていたいような気持ちになりましたが、「また参ります」と申して墓所を後にいたしました。

 調べてみましたら、勝種侯は、國分寺ばかりでなく、阿伏兎観音で知られる磐台寺の観音堂と境内の造営をはじめとして、同じ鞆の医王寺本堂建立、白石島開龍寺奥の院石燈籠寄進、福山八幡宮移転修復、艮神社諸社殿造営修復、笠岡菅原神社創建など神社仏閣の普請事業を数多く手がけられたお殿様でありました。

 勝種侯は、父勝貞侯がお隠れになり寛文三年(一六六三)わずか三歳で福山藩主をお継ぎになられました。元禄十年三十七歳で逝去されるまで三十三年間もの長きにわたり藩主の地位にありましたが、若くしてこの世を去られたのは誠に残念なことでした。

 亡くなられる三年前に國分寺を再建して下さった大檀那勝種侯、そのご生涯について『広島県史』を参考に述べてみたいと思います。

 『広島県史近世資料編Ⅰ』水野記[勝慶之譜」には、寛文元年(一六六一)五月九日に福山でご誕生になり、はじめ勝慶といわれ後に勝種と改めたとあります。幼くしてよく馬を馳せ、人となり慈孝の行を顕す、庶民を愛して刑罰をゆるやかにし、孤児をまもり世嗣(よつぎ)とし、藩の倉を開いて貧窮なる者たちに施し、故に減給なく国中に餓死無し、人々は勝種侯の徳をたたえ楽しく歌ったとあります。

 同水野記のその後の記述より少々詳しく勝種侯の足跡を見ていきますと、寛文二年十月二九日父勝貞侯が江戸で他界、ときに三八歳。この年は勝貞侯の継母が一月に、三月には弟小八郎、五月に正室が亡くなり自身も亡くなるという、水野家にとって陰々滅々たる年でありました。

 そして、十二月に将軍家の命により、幼き勝侯候は備陽を発して関東に赴き、同三年一月五日江戸に到着。二月三日には本領安堵の上意が下り、四月には、藩主幼少であるとのことから将軍家の使い旗本二名が福山藩に監司として派遣されています。

 寛文七年四月乗馬を始め、高祖父勝成侯が大阪の戦乱にて用いた鞍に乗ったと記録されています。

 寛文八年、九月将軍家に拝謁、尾張中納言光義、紀伊宰相光貞、水戸宰相光圀に謁すともあります。このとき勝成侯の姪の婿であった紀伊大納言頼宣はすこぶる懇切に手ずから金龍を八歳の勝種侯に与えたということです。

 翌年四月には将軍家大老老中らを勝種侯が藩邸に招請し、自ら玄関外で出迎え、上段の間から順に案内して茶を献じ猿楽などでもてなし、書院の茶具墨跡古器を披露して饗応しています。

 寛文十一年、初めて甲冑を身につけ、延宝二年(一六七四)十二月二十二日には酒井雅楽頭の娘と縁組み調い、従五位下美作守に任ぜられています。延宝五年(一六七七)七月元服し、十一月二十五日酒井雅楽守の娘を妻に迎え、同七年六月十一日帰国の暇を賜り二十八日江戸を出立しました。しかし七月一日に実母勝貞侯妾永久院が亡くなり、服喪のために城に入れず、四十九日忌も済んだ八月二十五日に初めて福山城にお入りになられたということです。ときに十七歳。

 天和二年(一六八二)、石州大森銀山の手当(罪人などの捕縛)を松平周防守とともに命ぜられ、鉄砲、弓など足軽百名他警護の部隊を派遣しています。また、元禄元年(一六八八)には伯父小八郎氏の二十七回忌にあたり茶湯料として麻布真性寺に賜り、翌年には姉了寿院殿の十七回忌にあたり江戸霊厳寺にて執行され、元禄七年には父勝貞侯室寿康院殿の三十三回忌を江戸常林寺にて法事修行なされたとあります。

 さらに同水野記[水野美作守勝慶行状]より抄録いたしますと、勝種侯が在国の時には不思議に罪人なく、法を犯し斬首の罪人あるときは勝種侯が福山から離れた留守のときであったとあります。

 家督の相続に配慮され、実子養子なき者には養子になすべき者の名を書いて懐中させて、もしもの時には目付役が見聞してその者に相続させ、また一歳の小児でも後見者を付け家督をたてられることにしました。

 貧しい者には利子なく金銀を貸しつけ、借金が重なり逼迫した者には米を賜り、凶年には庫を開き民を救ったので、百姓らみな勝種候を、万年の君と仰ぎ称賛しました。これにより国は太平となり、民は富み、藩の倉は実り多く栄えたと記しています。

 また、鞆の目付役が大酒を飲み行い乱れたかどで訴えがあったとき、その人物の器量あるを見定めて訴えを引き延ばし猶予し、家老らの前で本人から事情を聞いて、大酒を禁じ身心を慎むこととし、後には大目付役として福山城下に住まわせました。

 元禄三年、勝種侯が将軍家の勘気(怒り)をこうむり閉門諸事遠慮することがあったときには、町人百姓らまで甚だ歎き愁いて祈り、諸寺諸社へ参拝し、断食して祈る者までいたといわれ、これ皆勝種侯の人を思いやる心に厚く、あわれみ深きことのなせるところなりと云われたということです。

 元禄七年(一六九四)八月十五日、城下の八幡宮に参詣の折、諸々の商売人がしばらく売買を止め、参詣人たちも走り隠れるのを見て、勝種侯は不審に思い侍者に問えば殿の参拝に憚りありとして遠慮したものと応じたので、勝種侯は諸人の妨げになったことを憂えて、商人らに銭を授け賜ったといい、まこと民のために利となり害となることを避けようとなさること、正に民の父母と云うべきなりと記しています。

 また、毎年麦が熟さぬうちは百姓の食が乏しいので、麦を貸し与えて民を救い、困窮した群村には銀子を貸し、年貢を納めるのも秋から翌年三月までとゆるく上納させました。このように民をいたわり給わるので、その恩沢を感じ、米初穂を別に、上納する米俵に紙で包み入れて納める者まであったということです。

 元禄九年、美作津山城主滅亡の時、勝種侯が城の請け取りに参上せよとの上意が下り、福山藩家臣らはみな勇んでお供しようとしたところ、勝種侯は武具の他装束の類、美を飾ることのなきように、亡国に赴くのに悦んでまいるものではないと諫(いさ)めたと云います。

 そして元禄十年(一六九七)八月十二日、勝種侯はにわかに血を吐かれ、そのまま治療することもできずに二十三日ご遷化になり、城下の賢忠寺に埋葬されました。御年三十七歳、戒名は萬輝院殿前作州太守忠嶽全功大居士。翌年五月五日嫡子勝岑(かつみね)殿二歳にて逝去され、これによりお家滅亡となり、民ら各村々の寺院に勝種侯の位牌を造立して久恩に報いようとしたと伝えられています。亡国の主となりても、勝種侯の年忌は怠ることなく、国中の庶民らが法事を執り行い、宝永四年諸国大地震で勝種侯菩提所の石塔が倒れたときには、恩を思い庶民集まり来たり建て直したと云います。勝種侯三五回忌には百姓町人男女数百人が金銀米穀を持ち寄り賢忠寺にて法事を修行し、その際に詠まれた歌が残されています。

「水の恩わするな軒の花あやめ」

このように詠まれるのも勝種候の積善の余慶なり、と[行状]は結んでいます。

 誠に慈愛深き名君、民百姓にまで慕われ愛された勝種侯。こうして県史を開き、勝種侯のご人徳を知り、知ることによって報恩の心が生じ、改めて感謝のまことを捧げたいと存じます。皆様もぜひ水野家墓所にご参詣いただけますようお願い申し上げます。


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「アナガリカ・ダルマパーラ著シャキャムニ・ゴータマブッダの生涯」に学ぶ①

2016年10月16日 10時28分32秒 | 仏教書探訪
 この本はいつ手に入れたものなのか。よく憶えてはいないのですが、かれこれ二十年も前のことになろうかと思います。インド・ベナレスのガンジス河近くのバザールの一角、チョーク街にモティラル・バナラシダースという出版社があり、そこに出向き、仏教書などを物色した際に買い込んだ中の一冊だったのだと思います。

 著者であるダルマパーラ(一八六四―一九三三)という方は、明治から昭和の初年頃まで、在家者として熱心に仏教の復興のために生涯を捧げたスリランカ人の仏教啓蒙運動家です。当時スリランカはイギリスの植民地で、キリスト教に改宗しなくては出世もできない社会でしたが、ニューヨークに神智学協会を創立し初代会長となるH.S.オルコット大佐らの協力を得てスリランカの人々に仏教徒としての自覚を促しました。インドに渡っては、インドの荒れ果てた仏教聖地の復興に尽力され、また日本にも四度も来訪した親日家でもありました。さらには、西洋世界に向けて余り知られていなかった仏教についての様々な情報を発信し、支援者を募るということもなされた先駆者でした。今私たち日本人も含め世界中の仏教徒がインドに行き、仏教聖地を巡礼できるのもみんなこの方のお蔭なのです。

 前置きはこのくらいにして、この「シャキャムニ・ゴータマ・ブッダの聖なる教え(The Arya Dharma of Sakyamuni Gautama The Budhha)」と題する、ダルマパーラ師が一九一七年に出版された本の中に、わずか二十三頁ですが、表題のお釈迦様の生涯について書かれた章があります。

 読むと、日本語で書かれた仏伝にはない南方の仏教徒に伝承された独特な大変興味深い記述がたくさんあり、また改めて彼らの信仰の篤さを感じさせてくれます。少しずつ翻訳した内容を紹介し、わかりやすく解説して参りたいと思います。
 先ず、冒頭こんな書き出しから始まっています。

「四阿僧祇とも十万劫ともいわれる果てしない昔のことでございます。私たちの世に現れたお釈迦様のように、完全にお悟りになられ、まこと慈悲深き全知者であられたディーパンカラというブッダがおられた頃のことからお話しを始めなくてはなりません。」

 仏伝なれば、お釈迦様の誕生から、もしくはその当時の社会の様子から始まってもよさそうなところですが、こうして果てしもない四阿僧祇劫というような過去から書き始めています。
 これには私たち生命は何度も何度も生まれ変わりしてきている、それは無始といって、はじまりのない過去からずっと転生、再生を繰り返えしてきているという認識があります。その考えの基に、お釈迦様のようなお方はそれに相応しい過去の生まれ変わりをされてきているはずだと考え、そう信じられているのです。
 阿僧祇とは、数えることもできない無数という意味の言葉で、劫とは、一由旬(約十四.四㎞)四方の大きな石を百年に一度柔らかい布で払ってその石が無くなっても終わらないという永い時間のことです。その果てしない過去に、お釈迦様の前に七仏ないし二十五仏もの過去仏がおられたと考えられています。その二十五仏の最初の過去仏で、お釈迦様に仏になると授記をしたブッダとして知られるディーパンカラ・ブッダとの出会いから物語が始まります。

「その同じ時代に、まこと信心深きバラモンであるスメーダという修行者がおりました。彼は若くして先祖の莫大な財産を相続したのでしたが、その七代にも亘る先祖たちは世代ごとにふくらんでいく莫大な富を積み増していくことだけに精を出し、慈善のために使うことはありませんでした。そこで、スメーダは、世界中のよきことにそれらを使おうではないかと思いつきました。
 そこで、家人たちに、この家の蓄積された富は慈善のために用いるつもりだと宣言をし、たった七日の間にそれらの莫大な富を貧しいものたち、必要とする人たちのために与えていきました。そして、その七日目には、彼はこの世の楽しみをみな放棄して、聖なる修行者として、成し遂げるべき修行のためにヒマラヤ山に登っていきました。まもなく、彼は五神通と八成就を成し遂げ、神々のいる天界に空へ浮遊して登ることができるようになっていました。」

 この時代には、お釈迦様はスメーダという名の信心深い一人の行者であったということです。相続した財産を自分で使うことなく人々に施し、徳を積んですべての享楽を捨ててヒマラヤ山に籠もり修行なされたとあります。
 五神通とは、人の未来を予知する天眼通、通常聞こえない音を聞く天耳通、他者の心を見抜く他心通、自分ないし他者の過去を知る宿命通、空中を飛行したり水上を歩いたり、身を大小にしたり一身を多身にする神足通の五つの修行中に現れる超能力のことです。
 また、八成就とは、初禅、第二禅、第三禅、第四禅と禅定を深め、さらに空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処へと、これら八段階の禅定状態のことで、そうして悟りの前段階まで修行を極められたということです。

「ある日、ヒマラヤからアマラヴァティという街に降り立ったスメーダは、人々が通りや家を忙しそうに飾り立てているのを目にしました。彼は街の人たちに、誰のために街を綺麗にしているのか、と尋ねました。すると彼らは聖なるディーパンカラ(燃燈)・ブッダのためであり、彼の名にちなんで飾り立てているということでした。ブッダという言葉を耳にすると彼の心には喜びの灯がともり、歓喜で身体中に戦りつが走ったのでした。

 そして彼は自分もまた通りを一部分でも飾ることで自分のブッダに対する尊敬の気持ちを表そうと思いました。そして彼らに自分も一部分でもよいので飾らせてくれるようにと頼みました。聖なる修行をしてきたバラモンである彼にはそのスピリチュアルな超能力で簡単にやることもできましたが、彼は自分の手で道を飾り始めました。

 ですが、彼の仕事が済む前に、ブッダが、黄色い袈裟を纏ったお悟りになられた阿羅漢の一群とともにお越しになられるのが見えました。その時その敬けんなるバラモンはブッダに我が身を捧げることを決心し、顔を下にひれ伏し、身体の上をブッダに歩いてもらえるように身体を前に伸ばしました。ブッダはこの信心深い男の所にやってくると、彼を見て止まり、手招きしておっしゃいました。『信心深き男よ、そなたがもし望むなら、阿羅漢となりねはんを得るであろう、そして私のようにブッダとなるであろう。四阿僧祇ないし十万劫の後に、釈迦という種族に生まれ、父はスッドーダナ王、母はマーヤー王妃として、ゴータマの名の下に生まれ、ブッダとなり、何百万という数え切れないほどの人々を輪廻の悲しみから救うであろうと予言する』

 そう言われて、抱えきれないほど沢山の花束を未来のブッダに差し上げると、それを聞いていたすべての人々はスメーダがブッダとなり、彼によって救われることを喜んだのでした。」

 ブッダが修行者に対して将来必ず仏となることを予言し保証を与えることを授記というのですが、まさに、お釈迦様がディーパンカラ・ブッダから授記を受けるという場面です。

 かなり高度な修行をなしていたにもかかわらず、ブッダの存在に敬意を表し、さらにその身を挺して供養しようとする清らかな心にして初めて授記が適ったということだと思います。

 果てしない未来のことにはなるのですが、こうしてお釈迦様は、釈迦族に生まれブッダとなり多くの人々を救うのだと授記されたことによって、一つの確信を持って、ブッダになるに相応しい、さらなる徳を身につけていくということになるのです。

「そして、信心深きスメーダは、この時、布施、持戒、出離、智慧、精進、忍辱、真諦、決意、慈心、捨という、ブッダとなるために必要な『十の波羅蜜』を成し遂げることを決意しました。

一、布施波羅蜜とは、完全なる慈善であり、人生、財産、血、肉体、目、子供、妻をも施してしまうことです。
二、持戒波羅蜜とは、徳行の道から逸脱することのない完全なる道徳的行いをすることです。
三、出離波羅蜜とは、性的な歓びを放棄し、慈しみと聖なるものを求める聖者としての人生を熱望することです。
四、智慧波羅蜜とは、普通の人の理解を超えた自然界の法則すべてを把握する完全なる智慧であり、神々と人間の知識を超越した悟りの智慧を獲得することです。
五、精進波羅蜜とは、死ぬまで困難に屈せずに絶え間なく努力し、継続することです。
六、忍辱波羅蜜とは、どんなことにも我慢し許すことです。たとえ身体がバラバラに切り刻まれようと、怒りの言葉を吐くことなく、ただ愛の心が怒りを説き伏せねばなりません。
七、真諦波羅蜜とは、死の間際まで真実そのものであること。死の傷みにさえ嘘を吐くことなく、真実は虚偽を打ち負かす武器なのです。
八、決意波羅蜜とは、最高の善なる行いをなすための意志の力を養うことです。彼を絶望させるような障害なく、怖れない意志を持って完成に至るまで継続することです。
九、慈心波羅蜜とは、すべての生きとし生けるものに慈愛の心を広げることです。お腹にいるまだ見ぬ子供に対するお母さんの愛情です。
十、捨波羅蜜とは、完全なる平等なる心であり、友も敵もなくすべての者に分け隔てのない、同じ良い感情を持つことです。」

 波羅蜜とは、パーラミター、此岸に対する彼岸のことであって、そこに到達すべき状態ないし、そのために実践すべき徳目をいうのですが、大乗仏教なら六つの波羅蜜を説くのですが、南方仏教では十項目に分けて、ブッダという最高の目標を掲げ成就するために特別に修行すべきものとされています。

 三の出離波羅蜜は、一般には出家をして、心も身も欲を避けることをいうようです。七の真諦波羅蜜は、わかりにくいのですが、話すことも行いもまた心の中でも真実を貫き嘘偽りのまったくないことをいいます。また十の捨波羅蜜には、喜びや悲しみ不安、好き嫌いなどの感情にも揺らぐことなく平静な心を保つことも含まれています。

「ブッダが、スメーダは正等覚者となるであろうと予言した瞬間から、彼は次なるブッダであり、このゆえにこれから先には菩薩大士として知られることになります。彼は他のどの生き物よりも勝れており、彼の願いは実現されるのです。彼は動物、神、ブラフマー神として生まれ変わるかも知れませんが、金色の糸はそれらの生の後先に繋がり、途絶えることはありません。

 そして、四阿僧祇劫ないし十万劫もの間、完璧な歩みを重ねるに違いなく、いくつもの生を重ね、彼は波羅蜜を果たしていったのです。いくつかの人生で彼は、慈善の波羅蜜を実現し、その他の人生では他の波羅蜜を果たし、その道から逸脱することも悪を為すようなこともあり得ないことでした。」

 大乗仏教では仏となるために修行する者すべてを菩薩と言い習わしていることはよく知られていますから、私たちがここで「菩薩大士として知られる」と読んでもそれほどの感激を抱くこともないのですが、「彼は次なるブッダであるが故に菩薩として知られる」というところに着目すべだと思います。誰でもが菩薩と言われることはなかったということであり、次なるブッダとして授記されたが故に菩薩と呼ばれたということを私たちは憶えておかねばならないでしょう。ご自身を菩薩と思われる方は、特にそのことをわきまえて自覚すべきだということかと思います。

 そうして何度も生まれ変わりしながらこの敬けんなる修行者として菩薩はたくさんの波羅蜜を成し遂げつつ転生されたということです。

「ディーパンカラ・ブッダのもとで、ねはんに到達することも可能でしたが、自らブッダとなり世の中を救うために、その安直な方法を放棄しました。彼には罪とがなく、世界のため生きとし生けるものたちのために蓄積した功徳のみがあります。世界の幸福のために善きすべてのことをなし、彼の中にまったくエゴはありません。彼は自分が将来ブッダになることを知っていましたから、自分の為すべき事を為しつつ、我慢強く待ちました。菩薩としての直感的な知識を獲得し、容易に波羅蜜を満たしていきました。将来世界を救うという役割を担っていくという自覚から、よろこんで他の生き物に身を捨てて命を捧げるのでした。彼スメーダはあらゆる生きとし生けるものたちの中で最も優れた存在でありました。」

 ありとあらゆる善きことをなしつつ、徳を積み、その時を待たれていたということでしょう。


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