自ら確かめよ
増支部経典(三の部65)にあるお経から、自ら確かめることの大切さについて学んでみたい。お釈迦様がコーサラ国のケーサプッタという町に来たときのこと、この町のカーラーマ族の人々が、沙門バラモンなど修行者たちがやってきては、彼らは自分の説だけを明らかにして、他の説をののしり、そしり、無能呼ばわりするけれども、それら尊者沙門たちの中で、一体誰が誠に語り、誰が偽っているのかという疑いと惑いがあるのですと語った。
するとお釈迦様は、それは疑い惑うのは当然のことであるとされて、ある説かれたことを受け取るときには、①聞き知ったことにたよってはいけない、②伝え承けたことにたよってはいけない、③言い伝えにたよってはいけない、④自分たちの聖典集成の中に承認されているということにたよってはいけない、⑤思弁にたよってはいけない、⑥理屈にたよってはいけない、⑦根拠の考察にたよってはいけない、⑧ものの見方として理解し容認するということにたよってはいけない、⑨説く者が有能な姿かたちをしているということにたよってはいけない、⑩説いた沙門が自分たちの師であるということにたよってはいけない、このように説かれた。
当時バラモン教では、牛や羊、山羊などの動物を殺して神々に御供えとして捧げることがあったわけだが、例えば一般信者にも同様に行うことが功徳ある行為である、神の祝福を得られる道であるなどと説いていたなら、いかがであろうか。古く言い伝えられ、聖典にもあり、そうして多くの人たちが幸せになり、神々の喜ばれることだなどと説かれたならば、無垢の小動物たちが無残にも殺されていくことになるであろう。
またある沙門たちは、行為に善悪などないのであり、何をしても死んだらそれで終わりで何も残らないなどと説く者もあった。こうしたものの見方、教えをそのまま受け入れたとしたら、不道徳な行為が蔓延してその集落、地域は殺伐とした地となり、安心して生活することも叶わないことになるであろう。
そこで、お釈迦様は、自分たちが、これらのことがらは不善である、これらのことがらは咎をもっている、これらのことがらは知者によって非難されている、これらのことがらは、成し遂げられ受け取られるとき不利益を招くと、自分自身で知るならば、それらのことがらを捨て去るべきであると教えておられる。
そのことが自分も周りの人々もまたそれを支える多くの生き物たちすべてが善くなることであろうか、古くからの様々なことに精通した知識ある人々から非難されることではないか、人々や生き物たちに不利益にならないか、自分で、自ら確かめることが大切であると教えられている。
いま、新型コロナウイルス感染症に関する情報について、多くの人たちが、新聞テレビの報道をそのまま受け入れているであろう。が、はたしてそれでよいとお釈迦様はおっしゃられるであろうか。自ら確かめよと、そう学んだ私たちは、新聞テレビのいうことをそのまま受け入れるのでなしに、たとえば、感染とはそもそもどういうことなのか、聞き慣れないPCR検査とはどんなものか、無症状者から感染するのは本当か、マスク、ソーシャルディスタンス、自粛はそもそも必要なのか、なぜオンラインで何もかも済ませようとする計画に進むのか、今準備されようとしているワクチンはどのようなものか、自ら確かめることが必要なのではないか。
医学、感染学、免疫学などというものに全くの無防備である私たちは、不可解に思いながら周りに流されがちであろう。が、科学的にものを考えていくために、より真実に近いところに至るために、少し努力してみようとされるならば、学びラウンジをご覧になられ、自ら確かめ、自分の頭で考えることをお勧めします。
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増支部経典(三の部65)にあるお経から、自ら確かめることの大切さについて学んでみたい。お釈迦様がコーサラ国のケーサプッタという町に来たときのこと、この町のカーラーマ族の人々が、沙門バラモンなど修行者たちがやってきては、彼らは自分の説だけを明らかにして、他の説をののしり、そしり、無能呼ばわりするけれども、それら尊者沙門たちの中で、一体誰が誠に語り、誰が偽っているのかという疑いと惑いがあるのですと語った。
するとお釈迦様は、それは疑い惑うのは当然のことであるとされて、ある説かれたことを受け取るときには、①聞き知ったことにたよってはいけない、②伝え承けたことにたよってはいけない、③言い伝えにたよってはいけない、④自分たちの聖典集成の中に承認されているということにたよってはいけない、⑤思弁にたよってはいけない、⑥理屈にたよってはいけない、⑦根拠の考察にたよってはいけない、⑧ものの見方として理解し容認するということにたよってはいけない、⑨説く者が有能な姿かたちをしているということにたよってはいけない、⑩説いた沙門が自分たちの師であるということにたよってはいけない、このように説かれた。
当時バラモン教では、牛や羊、山羊などの動物を殺して神々に御供えとして捧げることがあったわけだが、例えば一般信者にも同様に行うことが功徳ある行為である、神の祝福を得られる道であるなどと説いていたなら、いかがであろうか。古く言い伝えられ、聖典にもあり、そうして多くの人たちが幸せになり、神々の喜ばれることだなどと説かれたならば、無垢の小動物たちが無残にも殺されていくことになるであろう。
またある沙門たちは、行為に善悪などないのであり、何をしても死んだらそれで終わりで何も残らないなどと説く者もあった。こうしたものの見方、教えをそのまま受け入れたとしたら、不道徳な行為が蔓延してその集落、地域は殺伐とした地となり、安心して生活することも叶わないことになるであろう。
そこで、お釈迦様は、自分たちが、これらのことがらは不善である、これらのことがらは咎をもっている、これらのことがらは知者によって非難されている、これらのことがらは、成し遂げられ受け取られるとき不利益を招くと、自分自身で知るならば、それらのことがらを捨て去るべきであると教えておられる。
そのことが自分も周りの人々もまたそれを支える多くの生き物たちすべてが善くなることであろうか、古くからの様々なことに精通した知識ある人々から非難されることではないか、人々や生き物たちに不利益にならないか、自分で、自ら確かめることが大切であると教えられている。
いま、新型コロナウイルス感染症に関する情報について、多くの人たちが、新聞テレビの報道をそのまま受け入れているであろう。が、はたしてそれでよいとお釈迦様はおっしゃられるであろうか。自ら確かめよと、そう学んだ私たちは、新聞テレビのいうことをそのまま受け入れるのでなしに、たとえば、感染とはそもそもどういうことなのか、聞き慣れないPCR検査とはどんなものか、無症状者から感染するのは本当か、マスク、ソーシャルディスタンス、自粛はそもそも必要なのか、なぜオンラインで何もかも済ませようとする計画に進むのか、今準備されようとしているワクチンはどのようなものか、自ら確かめることが必要なのではないか。
医学、感染学、免疫学などというものに全くの無防備である私たちは、不可解に思いながら周りに流されがちであろう。が、科学的にものを考えていくために、より真実に近いところに至るために、少し努力してみようとされるならば、学びラウンジをご覧になられ、自ら確かめ、自分の頭で考えることをお勧めします。
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