住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
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聖武天皇はなぜ國分寺を建立されたか

2020年11月11日 17時46分36秒 | 仏教に関する様々なお話
聖武天皇はなぜ國分寺を建立されたか




①聖武天皇は藤原氏によって誕生した

天平十三年(741)に「國分僧寺尼寺建立の詔」を発せられる聖武天皇は、後に天皇の外戚として日本政治の中枢で大きな権力を恣にする藤原氏に育てられた最初の天皇である。藤原氏が歴史の舞台に登場するのは大化の改新と私たちが習った事件からである。今では乙巳の変といわれるようになり、外国の使節団の前で天皇も臨席する中で当時の総理大臣の地位にあった蘇我入鹿を後の天智天皇となる中大兄皇子と藤原氏となる中臣鎌足の二人が惨殺し、政権を転覆させるクーデターであったとされる。後に鎌足の子不比等が編纂の中心を担った日本書紀によって二人は英雄として描かれた。

聖武天皇は文武天皇の子ではあるが、母親は藤原不比等の娘宮子であり、生まれてからずっと不比等邸で育てられたという。そして、皇族でない、臣下の娘を母とする初めての天皇となるのだが、そのために、のちに元正天皇となる氷高内親王を養母として控えさせ、元正天皇として皇位につけたあと養母から子聖武へと皇位を継承するという手の込んだ長期にわたる策が練られていた。さらに他にも候補がある中で、みな若くして亡くなったり、皇位に就けないような措置が執られた。父文武天皇が早く亡くなった後、中継ぎに女帝が二人も帝位につき何としても首皇子を帝位につけるという執念すら感じられるものでもあつた。だからこそ聖武天皇は何度も詔の中で「徳の薄い身であるのに」「私は徳に恵まれないが」という言葉を発せられ、それがゆえに災害や凶作、伝染病などを神経質なまでに怖れたといわれる。

②長屋王の変を契機に天武天皇を理想とする

聖武天皇は大宝律令が制定された年に生まれ、その同じ年に生まれた、不比等の娘・安宿媛(あすかべひめ、光明子)が十六歳の時に嫁ぎ、聖武天皇は二十四歳で即位する。そして、まず母宮子に大夫人という称号を特別に与えるべく藤原氏は動く。この時には武智麻呂、房前ら不比等の息子たちが議政官となっていた。彼らはその後、光明子をさらに皇后につけるにあたり、天武天皇の孫にあたり右大臣であった政権トップの長屋王がいたのでは具合が悪いと考えたのか、長屋王を天武の曾孫にあたる聖武天皇を呪詛したとの嫌疑をかけ尋問すると、長屋王は邸の周りを軍勢に取り巻かれ自害する。

その後光明子は臣下の娘としては初めて皇后となり、不比等の息子ら四人は議政官となるが、それまでは一豪族から複数人議政官になることは避けられていたという。そして、長屋王の死から六年した頃、大陸から天然痘が流行し、瞬く間に九州から都に至り、長屋王を尋問した新田部親王と舎人親王が感染し死す。すると、翌年光明皇后は一切経の書写を開始し、二年後には諸国の丈六の釈迦像脇侍の造立が命じられる。しかしその年、議政官だった藤原四兄弟が四月七月八月に何れも天然痘で死去すると、長屋王の祟りではないかと市中騒然となり、それを最も怖れたのが、聖武光明の二人であったと考えられる。

藤原の天皇としてあった聖武天皇が、その後母宮子と生後初めて対面するなどして、曾祖父天武天皇が国難に際して仏教に祈願したことを範とし、天皇という称号で初めて尊称され日本国の国号も正式に成立させた天武天皇の政治を理想とする姿勢に転換していく。諸国で護国経典の金光明最勝王経を転読させ、長屋王の子息を従四位下に昇叙、三年後には諸国に七重塔を中心とする寺院建立を命じた。これらはすでに後の國分寺制を見据えた施策と考えることが出来る。

藤原四兄弟なきあと橘諸兄真備を首班とする政権が誕生するが、疎外された藤原広嗣が左遷された九州で乱を起こす。すると、聖武天皇は、征討軍を派遣し、自らは平城京を出て東国へ行幸。その道程は大海人皇子後の天武が壬申の乱を起こす行路と一致する。そして、その年の末には恭仁京(山背国相楽郡・現在の京都府木津川市加茂地区)に遷都、その翌年に國分寺の詔が宣ぜられる。

③華厳思想により理想国家建設を目指す

さらに聖武天皇は東大寺良弁より華厳経の講説を受け、河内智識寺で毘盧遮那仏を拝する。そして、事々無碍法界重々無尽という教えを学ばれる。それは、仏の世界を千葉に開く蓮華に喩え、毘盧遮那仏は千の華蔵世界の中心に位置し、その千葉の蓮華には千体の釈迦仏があってそれぞれの世界で法を説く、それぞれの蓮華世界はひとつ一つ別々の世界でありながら、互いに相関し重々無尽にその関係性は続いている。個々の蓮華世界は全体の縮図であり、そのひとつ一つに変化ある時は全体すべてに変化が及ぶとする。

それぞれの釈迦如来により諸国が浄められ争いなく、多くの民が幸福になり豊かになることは国全体がよくなることであり、日本国全体がよくあることは一国、一個人がよくなることであるとの考えから、都に毘盧遮那大仏を造立し、諸国に國分寺釈迦如来が祀られた。毘盧遮那如来の顕現は無数の釈迦如来の出現を意味し、それによって、無数世界の浄化救済がなされ、時処を超えて三世十方を貫く絶対理想を実現せんとするものであった。

そうして徳の高い行為をすることで、これまでの天皇同様によくこの国を治め、国穏やかで無事に民が楽しく、災害のない凶作のない疫病のない世にでき、また長屋王の死を弔うことにもなるとお考えになられたのであろう。その後平城京に還都して大仏造立を進め、聖武天皇は娘阿倍内親王に譲位して、僧行基を戒師に天皇として初めて出家する。そして沙弥勝満として常に南面すべき方が未完成の大仏を前に北面し、自らを三宝の奴と称したという。身も心も仏に心酔し、そうして自らの念願、鎮護国家と万民の豊楽を叶えんとなされた。天平勝宝四年(752)四月九日大仏開眼供養はインド僧菩提僊那を開眼師に僧千人文武百官一万人が参加する盛大な国際色豊かな催しとなった。そのとき、聖武太上天皇の御心はいかなるものであったであろう。感無量の喜びとともに、正に赤心からの祈りが聞こえてくるようである。

④仏教という最先端の文化を知らしめる

さらにその当時の仏教の価値、当時の人々にとっての意味が今とはかなり違うことも一言述べておかねばならないだろう。仏教は千五百年前に百済からもたらされた。物部氏蘇我氏による諍いの後、聖徳太子により、四方の極宗であるとして仏教は国の教えとなる。四方の極宗とは今の言葉で言うとグローバルスタンダードということだという。中国も朝鮮もどの国も仏教によって高度な文化国家として発展している。であるから当然日本にも仏教は必要であるとするのである。

インドから中央アジアを経由してシルクロードを通って仏教がもたらされるにあたり、各地の先進文化技術を吸収しながら伝えられた仏教をそれらと共に輸入することになる。つまり仏教は当時の建築技術、彫刻、金属加工、紙墨筆の製法、衣服の製造、歌舞音曲に至る先進的な総合的文化技術思想芸術を含むものであった。よって、寺院は最先端の文化の象徴であり、結果的に諸国國分寺は中央集権国家・奈良の都の権威を示すものでもあったと考えられる。

参考文献 講談社学術文庫「日本の歴史04平城京と木簡の世紀」


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