住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

心という行為

2011年06月22日 19時31分40秒 | 仏教に関する様々なお話
震災や原発事故のその後も心配される中、今年の梅雨は梅雨らしくよく雨が降る。原発から吹き上げる放射性物質の粒子によって、雨雲が出来やすいからであろうかと素人考えで思えるほどに雨がよく降る。よく降ってくれるせいで、境内の草たちは生き生きと芽吹いている。お陰で雨の降らない日の午前中は境内に這いつくばるように草を取らされている。

ある時草を抜いていて、グッタリと疲労感を感じるときがあった。何も特別なことをしていたわけではない、草削りを使って一つ一つ夏に生える細い葉と種の付いた雑草を特に気をつけて抜いていただけなのだが。

何でだろうかと思ったら、その日の朝届いていた封筒に原因があった。いろいろ自分の心の中に深く影響する内容だったのであろう。怒りなのか、嫉妬なのか。とにかく草取りをしながら思いはそこになく、意識しないままにいろいろと頭の中で思いが空回りしていたようだ。しかし、その時、つまり異常な疲労を感じたとき、ああそういうことかとその時そのことに気づくと、いっぺんに疲れが雲散霧消していた。

誰でも、身体でする行為には、結果がすぐに返ってくることは理解している。誰かを叩けばすぐに叩きかえされたりするであろうし、犯罪になるようなことなら捕まってしまうこともあるだろう。口でする行為も同様に、何か人に失礼なことでも言えばすぐに言いかえされる。口は禍の元とも言う。口による行為の結果もすぐに自分に返ってくる。悪いことをすれば悪い結果が返ってくるということは誰でもが知っている。

しかし、こと心についてはいかがであろう。心の行為などということも余り意識されないし、心で思うこと考えることも行為だとは思ってもいないであろう。しかし、心の中であれこれ考えていることの結果は、私の草取りでの疲労感のように身体にも影響が出てくる。クヨクヨ考えて、心配事のために食事が喉を通らないということもある。

自分が何かおかしいと思って病院に行ったら、ガンだったと言われたときの落ち込み、急に身体が重くなり、何をしても何を見ても楽しくないということもあるであろう。つまり、心の持ちよう思い考えようによってきちんと結果があるということだ。思わしくないことを思い、考えていれば結果は悪く出るし、善いことを考えていれば、健全であれば善い結果が現れるということであろう。

仏教では三業と言って、心も含め、身・口・意(心)の三つの行為を行いとする。だからそれらは業となり、結果する。善いことをしていたらよい結果が期待される。今日こうして護摩供に参詣されて、仏様を礼拝しお経を唱え供養することの善業は当然善い結果となって返ってくる。お経上げると元気になる。私は毎朝5時に鐘を撞いて、本堂でお勤めをするが、毎朝爽快に目覚めるというわけにもいかず、疲れの残る朝もある。しかし、何とか頑張ってお勤めを済ませると元気になっている自分に気づく。

お寺に参ったり、四国を歩いたり、バスででも巡礼することは、みんな善い行為と言えるであろう。お経は、自分だけの幸せを説くものではない。自も他も幸せに導く教えであり、そのよい教えを唱えて巡ることは善行であり、善果を期待されるものであろう。だから、お寺に参ったり、四国に参ると清々しく感じ、健やかになれる。とにかく、自分がよくあることだけ考えるのではなく、自分も周りのみんなもよくあれるように、みんなが幸せになることを考えることで、心身共に元気に健康になれるということになろうか。

そういえば貪(貪り)瞋(怒り)痴(愚か)を三毒と言うが、それらに犯された心は自らに毒のように働くので三毒と言われるのだという。欲張り、怒り、愚かしい心は自らの心からも身体からも元気を吸い取り、破壊すると憶えておきたいと思う。 (これは昨日の護摩供後の法話に加筆したものです)

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苦行の内容ほか

2011年06月14日 17時00分23秒 | 仏教に関する様々なお話
(大法輪誌6月号特集『これでわかるブッダ』に掲載された三つのコラム原稿です。毎号役に立つ特集を組んでおられますが、7月号は、『仏教の智慧で現代病を乗り越える』鬱や不眠など様々な現代病について仏教者からのアドバイスに改めて学ぶことが沢山ありました。是非ご覧下さい)

『苦行の内容』

ブッダがおられた時代、当時のインドの修行者たちはどのような苦行を行っていたのであろうか。

仏典によれば、常に裸で過ごす、立ったまま大小便をするなど不作法に徹する苦行。草だけまたは苔だけを食べる、一切の施食を受けない、魚や肉を受けない、二日とか七日措いて食べ物を摂るなど食を制限する苦行。また、麻の粗衣や死体から捨てられた布を結んだ衣だけを着て過ごすなど着衣に関するもの。他に、常に立っている、常にしゃがんでいる、鉄の針の上で立ち臥すなど身による苦行がなされていたという。

では、後にブッダとなる修行者ゴータマ・シッダッタは、どのような苦行をなさったのであろうか。初期の経典は次のように伝えている。

 ①心を制する苦行
はじめにシッダッタは、座して上下の歯を噛み合わせ、舌を上顎に着け、その姿勢を保ちつつ、善い心を以て不善の心を抑え制御する苦行を行った。両脇から汗が流れ出し、力の強い人に頭をつかまれ肩を押さえつけられているように身体が激動したという。

 ②出息入息を止める苦行(止息禅)
次に、口や鼻からの呼吸を止める、すると両耳から出入りするようになり、それをも止める苦行をなされた。頭に激痛が走り、腹をも切り裂くように感じられ、全身が焼き焦がされるような苦しみを味わったとされる。

 ③断食の苦行
そして次に、完全な断食を試みようとされると、シッダッタの前に神々が現れ、「あなたが完全な断食をされるなら毛穴から天の滋養を摂るようにします」との申し出があった。そのため、緑豆の汁など豆類の汁を少量ずつだけ摂る断食を行われた。極度にやせ細り、手足は蔓の節のようになり、眼孔は井戸の水が深く落ち込んでいるように見え、腹の皮は背骨に接するほどであったと言われる。

これらの苦行を成道までの六年の間に、過去未来、そして現在のいかなる修行者よりも急激に烈しく実践されたという。その厳しさは、既に「沙門ゴータマは死んでいる」と言われるほどであったというが、そうして徹底的に行うことで、苦行は煩悩を滅尽する覚りへの道ではないと確信するに至ったのである。


『ブッダが行った奇跡』

ブッダがその生涯に数々の神通奇跡を現されたことは、多くの仏典に記録されている。

伝道開始間もなくの頃、ブッダはかつて苦行に励げんだウルヴェーラーに向かわれ、火を崇拝する結髪行者カッサパ三兄弟の庵(いおり)を訪ねた。そして、拝火堂に棲まう毒竜を神通力(じんつうりき)(超能力)で調伏(ちょうぶく)したという話は有名である。

がそのときブッダは、他にも沢山の奇跡を起こされている。神足通(じんそくつう)(自由に欲する所へ現れ得る能力)で遙か北部の土地に行き托鉢されたり、五百本の薪を一度に割ったり、燃えなかったそれらの薪に一どきに火をつけたり。大洪水が来てもブッダの周りはあらゆる方角に水を退け水に浸かることなく、船に乗って駆けつけたカッサパの所へ空を飛んで降り立つなど、三千五百もの奇跡を現されたという。

また、成道七年目には、ラージャガハ(王舎城)でビンビサーラ王との約束を果たすため、ブッダは三十三天界(帝釈天を主とする神々の住処)に昇られて、母上マーヤ王妃や神々に、三ヶ月間法を説かれた。ブッダは雨期の開ける満月の夜、四方に六色の光を放ちながら地上に降りてこられたという。

そして成道して十年ほどの頃、サーヴァッティ(舎衛城)で六師外道(ろくしげどう)が、ブッダに自分たち以上の神通力があるのを示せと要求した。そこで彼らを屈服させるために、ブッダはその時も様々な奇跡を現された。

国王や多くの人々が見守る中、ブッダは上空に浮遊し、身体から色とりどりの光を発して、頭上からは火を足からは水を噴きだす奇跡(双神変)、さらには無数の蓮華が現れ、そのどの蓮華にもブッダが座すという奇跡(千仏化現)を現された。

この他、サーヴァッティでブッダを殺そうと追いかける凶賊アングリマーラを神通力で改心させた話や、ブッダを害するため従兄弟のデーヴァダッタが放った狂象が、ブッダの威光と神通力の前に恭順となり、足を曲げて座った話などがよく知られている。

しかし、ブッダがこれら沢山の「神通の奇跡」を現されたのはひとえに法を説くためであり、正しい法を説きそれによって聞いた者の生き方が改まる「教誡の奇跡」こそが勝れているとされたのであった。


『ブッダと同時代に生まれたジャイナ教とは』

ジャイナ教の祖師ニガンタ・ナータプッタは、当時の代表的な自由思想家(六師外道)の一人である。ニガンタとは、束縛を離れたとの意味で、古くからあった宗教上の一派の名である。彼がその教説を改革し、ジャイナ教が成立した。

ニガンタは、結婚生活を経て三十歳で沙門となった。十二年の苦行の末大悟してジナ(勝者との意味で、ジャイナ教とはジナの教えのこと)となり、マハーヴィーラ(大雄)と名のる。

彼は、ブッダと同じ王族の出身であり、バラモン教の供儀や祭祀を否定し、宇宙の創造者としての神や絶対的原理を否認して、他の生命を尊重する意味から道徳を重視するなど、ジャイナ教は仏教と類似している点が多い。しかし、ブッダの中道説に対しては相対主義を、無我説に対しては要素の実在を、苦行否定に対して苦行主義を唱えるなど、教義面では大いに相違していた。

宇宙の要素を、霊魂・物質・運動の原理・静止の原理・空間に分け、これら五つの実体あるものによって私たちの世界は構成されるとした。運動、静止の原理さえも、物や心を動かしたり止める力をもった具体的な存在であり永遠の実体と捉えるのである。

そして、霊魂は上昇性を持つが、物質は下降性を有するとして、人は行為をなすとその業(ごう)によって微細な物質が霊魂に付着し束縛する。それにより霊魂の上昇性が妨げられ、輪廻の苦しみを繰り返す。そのため輪廻から解脱するには、苦行によって過去の古い業を滅ぼし、新しい業を防ぐ必要があると主張したのである。

出家者は、遊行生活の中で過酷に苦行をなし、仏教の五戒に似た五誓(不殺生・真実語・不盗・不淫・無所有)の、特に不殺生や無所有を徹底することを説いた。そこで一糸まとわぬ裸形で過ごして菜食に徹し、さらに度々断食をして死に至ることまで称賛したのである。後には白衣を纏うことを許す白衣(びゃくえ)派が現れ、裸形派(らぎょうは)と分裂した。

一方在俗の信者は、生き物の命を大切にして道徳的な生活を送ると、死後神々の世界に達するとされた。在家者にも不殺生戒が厳命されるため、多くのジャイナ教徒が商業関係の職に従事している。インドの外に広まることなく、国内でも0.五%にも満たないジャイナ教徒ではあるが経済界を中心に大きな影響力を今も保持している。


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四国遍路行記-25

2011年06月07日 19時49分45秒 | 四国歩き遍路行記
四十八番西林寺は、聖武天皇の勅願寺。天平十三年の開創。この年は、國分寺建立の詔が出された年である。開基は行基菩薩ともいう。元は松山市小野播磨塚にある一の宮の別当寺であったが、弘法大師がこの地に寺を移し十一面観音を本尊として刻んだ。

別当とは、もとは諸大寺に置かれた一山の寺務を統括する長官職のことであった。が後に熊野や石清水、祇園、北野、白山、箱根、鶴ヶ岡、吉野など大きな神社は、どこも併設された寺院の僧侶(社僧)が別当に任命され、寺社領を統括し神主を兼務してきた。その別当職が住職する寺が別当寺ということになる。

元禄十四年再建の本堂に参り、真言宗豊山派の紋が大きく描かれたガラス越しに中を窺い、理趣経一巻。一夜の宿とさせていただいた阿弥陀堂と、その反対側に建つ大師堂でも心経一巻。そして、そのまま六時前には寺務所に御礼を述べ遍路道に戻るところで、白装束のお遍路さんに呼び止められ、白い紙に包まれたお接待をいただく。久万の大宝寺でお会いしたのだという。網代傘に錫杖、足元には脚絆、草鞋、そして藍色の衣というのは結構目立つ格好なのであろう。本当に、ありがたいことだ。

歩いてきた国道を北上する。四十九番浄土寺までは三キロ。途中左に昔の遍路道だった小道をたどる。伊予鉄道高浜横河原線の踏切を渡ると、古い家並みが続きお寺の近いことを知らせてくれた。仁王門を潜ると、目の前に石段があり、上ると国の重文である本瓦葺き寄棟造りの簡素な本堂が現れる。赤茶けた木肌が古さを感じさせる。

浄土寺は聖武天皇の娘孝謙天皇の勅願で創建され、行基菩薩作と伝える釈迦如来が本尊。八十八カ所の札所でお釈迦様を本尊にする五か寺の一つ。大師堂は本堂の右にあるが、弘法大師が訪れて霊場に定めてから末寺六十六坊を数える大寺になったという。ここ浄土寺は平安時代中期、浄土教の先駆者とも言える市聖・空也上人が滞在した寺としても知られる。

境内には空也松と呼ばれる松の切り株も残っていた。空也上人は天徳年間(九五七~六一)に滞在したとされ、出立する際に懇願されて自像を刻んだという。それがあの有名な六体の仏像を口から出している空也像(国重文)で、像高一三三㎝。現本堂に安置されている。しかし、残念ながら正面の格子戸から覗いても中の様子は見ることは出来ない。

この六体の仏像は当然のことながら「南無阿弥陀仏」の六字を象徴する。空也は、当時平将門や純友による乱が起こり騒然としていた畿内で、手に錫杖を持ち草鞋を履いて、金鼓をたたき念仏を唱え勧進して回った。そうして動揺した人々の心に弥陀念仏による救いを授けていった。鎌倉時代の爆発的な念仏の流行のお膳立てをしたのが空也であり、また天台宗の源信僧都だったのである。

その後空也は比叡山に上り、正式に僧となってから修行の場としたのがこの地だったということであろう。後に庶民ばかりか貴族からも帰依され、十一面観音を造立して京東山に六波羅蜜寺を建立している。現在の浄土寺は、境内もそう広いわけではないが、しっとりとした落ち着いた雰囲気の漂うお寺である。仁王門を入ると別世界に入ったような不思議な感覚がするのは私だけであろうか。

いくつかの団体遍路さんたちに混じり懇ろに読経して、次の札所五十番繁多寺に向かう。お寺を西に出て、いくつか温泉宿の看板を見ながら車道を北上する。新しい住宅街を左手に見て大きな池が見えてくるとその向こう側に繁多寺の境内が見えてきた。繁多寺も孝謙天皇の勅願寺。山門を入ってからしばし石畳を歩いて伽藍に向かう。石段を上がると正面に本堂。本尊は像高九十㎝ばかりの薬師如来。本瓦ののった屋根が大きくせり出していて落ち着いた雰囲気の中、ゆったりと上に掛かっている立派な字の扁額を見上げながら理趣経を唱える。

繁多寺は、浄土教の一派である時宗の開祖一遍上人が鎌倉時代に修行した寺としても知られる。浄土寺で修行した空也上人を先達と仰ぎ、三十五才で全国行脚を始めるまでの一時期、二十五歳頃この繁多寺で修行したとされる。本堂の少し手前に鐘楼があり、右に大師堂。さらに奥には弁天堂、歓喜天堂、毘沙門堂が所狭しと建っているが、全盛時はかなりの大寺院だったという。

室町時代に後小松天皇の命で京泉涌寺の僧が住持となり末寺百余りを数え、一時衰退の後、江戸時代には徳川家の帰依を受けて再興され、特に四代将軍家綱の念持仏歓喜天を祀り隆盛を極めた。歓喜天とは、聖天さんのことで、人身象頭と言い、頭が象の姿で二体が抱き合った御像が有名である。単身の場合は、左手に大根を左手には斧を持つ。財宝・和合の神とされ、商売をする人たちの中に篤信の信者が多く、大根をお供えしてお参りする。

繁多寺の境内は、今でも広く伽藍の背後には鬱蒼とした森が続く。景観樹林保護区に指定されてもいる。森と大きな池に囲まれてしばし静寂の中、英気を養い、次なる札所、道後温泉街に位置する石出寺へと向かった。

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