備後國分寺だより 第64号(令和5年4月2日発行)
令和五年一月二一日
薬師護摩供後の法話
御生誕一二五〇年の弘法大師
今日は初大師、御生誕一二五〇年の記念すべき年の初大師となります。全国各地の弘法大師を祀る寺院では盛大にお祭りがなされていることでしょう。こちらにも、早朝八時からにもかかわらず、土曜日ということもあり、遠方からも大勢のお護摩のお参りをいただきありがとうございます。
弘法大師は、今年が西暦二〇二三年となりますから、七七四年、宝亀五年にお生まれになられています。六月十五日のお生まれと言われており、六月には各本山でも記念の法会が執り行われることと存じますが、ところで、お大師様はどのようなお方であったのか。皆様ご存じのことと思いますが、概略申し上げてみますと。
生まれた場所は、讃岐の屏風ヶ浦と言われますが、今の香川県善通寺のある場所とされています。律令制下において、律令国内の各郡を治める地方官である群司をされていた父佐伯善通(さえきよしみち)氏の子として誕生し真魚(まお)と名付けられ、十四才で奈良の都に上京します。
中央佐伯氏の氏寺佐伯院に滞在し、十五才で桓武(かんむ)天皇の皇子(みこ)伊予親王(いよしんのう)の家庭教師であった母方の叔父阿刀大足(あとのおおたり)について論語、孝経、史伝、文章などを学んだとされています。そして、十八才のとき京の大学寮に入り、専攻は儒教を研究する明経道(みようぎようどう)で、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学んだということです。
ですが、十九才を過ぎた頃から山林での仏道修行に入ります。熊野や四国の山々を跋渉(ばつしよう)し修行を重ね、四国室戸岬の洞窟で虚空蔵求聞持法(ぐもんじほう)を修法をしているとき、口に明けの明星が飛び込んできて特殊な体験をなさるわけです。
このとき洞窟の中で目にしていたのは空と海だけであったため、その後空海と名乗ったということです。こうした山岳修行によって、宗教的な才能が開花して、延暦二三年(八〇四年)五月、第十六次遣唐使の一員として留学僧の立場で、後に天台宗を開く最澄(さいちよう)師とともに唐に赴くのです。
その時には既に中国の言葉に不自由なく、詩文や書に際立った才能を発揮されたといわれます。インドから伝わっていた当時の仏教の最も進んだ教えである真言密教の正統な継承者であった長安の青龍寺恵果和尚(けいかかしよう)に奇跡的に邂逅されて、真言密教の奥義を授かります。そして、胎蔵・金剛両部にわたる伝法灌頂を受けられ、真言密教の第八祖となり、二年ほどの滞在で帰国されたのでした。
その後嵯峨天皇の即位により、その存在を見出され、我国における真言宗の開教を許され、一大宗派に築き上げられるのです。高野山の地に伽藍を築いて修禅の道場とされ、東寺を下賜されて国家の祈願所とされます。さらに、東大寺の別当にも任ぜられて奈良の仏教も真言化し、宮中にて正月の後七日御修法を定例の法会として宮中の祭祀も密教を取り入れたものに換えることに成功されたのでした。
今も伝教大師(でんぎようだいし)最澄師とともに、日本仏教の二大巨人といわれます。ですが、天台宗はその後浄土宗、禅宗などにと様々な宗派に枝分かれしていくのに、真言宗は派は分かれ本山は沢山ありますが、一つの教えとして存続しています。
それはひとえにお大師様が真言教学を、とても難解ではありますが、完璧に著作として後世に残されたからではないかと思います。その著作は二十世紀後半に西洋の近代思想の研究者からも注目されるほどの現代性のある普遍的な内容でもあります。
ではなぜ、そこまで偉大な完成された生涯を送れたのかということになりますが、昔から不空三蔵(ふくうさんぞう)の生まれ変わり説というものがあります。ご誕生の年や日にちまでが、不空の亡くなられた日と同じであるとされてきました。
不空とは、正式には不空金剛(アモーガヴァジユラ)であり、インド北部のバラモンを父とする西域の人とされています。若くして唐の長安にきて、金剛智(こんごうち)に師事し密教を学び、三十六才の時七四一年金剛智の入寂後に、師の遺言に従って『金剛頂経」『大日経』等の梵語原典の密経経典を請来するためにセイロン・インド南部に渡りました。そして、龍智阿闍梨(りゆうちあじやり)のもとで胎蔵・金剛両部にわたる伝法灌頂を伝授されています。
そして七四六年長安に帰り、七五五年の安史の乱をきっかけに 唐朝の内患外憂に処する護国思想として、またその呪術的機能により宮廷内に強固な基盤を作り帰依をうけることになります。玄宗、粛宗、代宗の三代の国師となり、密教を国家仏教の地位にまで引き上げることに成功します。また百十部百四十三巻もの密教の経論を漢訳し、鳩摩羅什(くまらじゆう)・真諦(しんだい)・玄奘(げんじよう)とともに、四大訳経家の一人とされています。そこで不空三蔵ともいわれるのです。
お大師様も唐に渡り受法され、多くの経典を持ち帰り、弘仁元年(八一〇)薬子の変(くすこのへん)に国家鎮護を祈り、平城(へいぜい)天皇、嵯峨(さが)天皇、淳和(じゆんな)天皇の帰依を受け、多くの著作を残されました。その生涯はこの不空三蔵の事蹟をそのまま成し遂げられているようにも映ることからも生まれ変わりではと、そう言われているのです。まさに不空三蔵の偉大な宗教的才能を受け継がれたかのようなご生涯でした。
現代でも、時々このように思える人は世に出ていることは以前(本誌第五十四号二頁)にも紹介したことがあります。幼少期に子供のおもちゃのピアノを教えられてもいないのに引き出して英才教育を施され、世界的なピアニストになられている辻井伸行さん。また、書家のお母さんの手ほどきでみるみる才能を開花させた書家の金澤翔子さんなど。他にも多くのこうしたまるで前世からの卓越した才能を受け継がれてきたのではないかと思いたくなるような方はたくさんおられることでしょう。
ですが、実は私たちも本当はそうした才能がありながら、あれこれとしすぎて、それを開花させずにただの凡人と思って暮らしてしまっているのかもしれません。世界最高水準の才能はともかくとして、これまでしてこなかったものの中に、もしくは本当は関心を強く持ちながら諦めてきてしまったことの中に、前世でかなりの時間を費やし磨いてきたものをそのままにしてしまっているということもあるかもしれません。好きなこと、関心をそそられるもの、簡単にあきらめてきてしまっていることの中にそんなものが隠れていることでしょう。
坐禅や瞑想なども、まったくしたことの無かった方が、人に連れられてやってきて試しに坐ってみたら、突然かなりのレベルまで到達してしまったということがよくあると聞きます。同様に、これまで全くしてこなかったことの中に新たな自分の目標が見つかるかもしれません。今年は是非、御生誕一二五〇年のお大師様にあやかり、私たち自身の隠れた才能を探し出し、開花させられないまでもそれを楽しみ、より輝いた人生へのスタートにしてみてはいかがかと思っています。
今年も一年変わらぬご参詣をいただけますよう宜しくお願い申し上げます。 (全)
世の中と仏教
「この世の中の様々な問題と仏法とはどのように関係し、どのような恩恵があるのか」と、先日ある方からご質問メールを頂戴しました。
数日考えた末、次のように返答させていただきました。
「私も実は、この世の中の成り立ちと仏教がどのように関係し、どのように説明されるものなのかにとても興味があります。現実の私たちの生活の様々な悩みの中に立ち向かい、それらをこともなく救い出す力が仏教にはあるはずです。
大きな歴史の流れの中で、今の現実はとても複雑な要素を併せ持ち、それぞれの人がそれぞれの立場と環境の中で歴史と対峙しています。歴史などという大それたものを出してこなくとも、誰もが日々の生活に仏教が生かされなくてはいけないと思っています。まさに○○様が抱かれている様々な問題点についても同様かと思います。
そこで、やはり私はお釈迦様が何故に縁起を説かれたかということに立ち返ってみたいと思うのです。何事も因縁によって結果したものであるという、すべてのものに原因ありとする立場です。何事もあるべくしてある。今の心を抱くのにも原因がある。すべてのことは原因があって結果しているということです。
今の日本が不況不況と言いながら、おおかたの人たちが厳しい生活を強いられながらも他の国々のように飢えずに生活していけているのも先人の努力のお陰でしょう。自殺が多いのは日本人の悪いところの一つである事なかれ主義と人々が物に振り回され周りの人の心を軽視してきた結果でしょう。
政治家や官僚たちによって税金を無駄づかい、ないし海外には躊躇なく金をばらまくように見えるのも、目の前の生活に追われ、経済の発展ばかりを優先し、政治や特に選挙を甘く見てきた国民の無関心さの結果ではないでしょうか。
子供たちに目の輝きがないのも、何もかも用意されて自由がなく、学校に行けば何事も管理されて、親たちも余裕なく家庭教育を疎かにしてきたからではないでしょうか。
ゲームに携帯、パソコン、便利な道具があふれ、それら機械に人間が使われるようになり、人々の生きている実感を大人からも子供からも失わせてしまいました。しかしこの流れはそう簡単には修正が効かないような気がします。私たち自身がこうして通信し合っている現実もあります。
ただ、地球環境、特に温暖化や様々な感染症の問題は世情言われている情報が故意に別の目的からなされ、そのことをマスコミを通じて世論を作るためになされている、ある種の啓蒙活動ではないかと思っています。少し先にはなりましょうが、将来歴史の検証が必要となることでしょう。
ところで、世の中は誠実で真面目な大多数の人たちとそれを操作し扇動して大衆をある方向に向けさせ管理していこうとする立場の、ごくわずかの人たちがいるようです。ですがそのごくわずかの人間たちの力は計り知れなく大きく、私たちはその流れの中に置かれています。
ですが、大きくはそうした隠れた問題も含めて、すべてをこの縁起の教えという枠の中でその成り立ちを静かに受け入れるしかないのではないでしょうか。今の時代に生まれあわしたのを嘆いても仕方ありません。今の時代に生まれ出てきたのも私たち自身の業だとも言えます。
もちろん、だからといって現状をあるべき姿だと思っているわけではありません。今の世の中に蔓延する拝金主義、雇用制度のあこぎな労働者搾取、報道の自由度が世界で七十一位という忖度ばかりの報道体制などを容認できるものではありません。
そうした世の中の成り立ちをしっかりと克明に知悉しながらなお、そのあり様を冷静に見つめていなければならないと思うのです。多くの人々がそのことに気づくならば世の中は変わるはずです。
人生とは苦しみであると言われたのもお釈迦様です。苦しい、イヤな世の中だ、不安だと思いを重ねていくのにも原因が必ずあるはずです。まずは生きていること自体がすでに苦そのものであるという現実に気づくこと、そして思い諦めることが肝要ではないでしょうか。
その上で、無我であるとお釈迦様は説かれたわけです。無我は空と言い換えてもよいわけですが、すべてのことはその環境や状態が変化すれば変わっていくものである、すべては常住なるものなどではないと知るならば、時間はかかるでしょうけれども、その変わりゆくさまをじっくりと見てみようではないかと構えてみてはいかがでしょうか。
世の中のことをとかく申しましてもどうなるものでもありません。すべてのことがあるべくしてあります。すべての過去が今に結実しています。ということは、これからの瞬間瞬間に何を私たちが考え、何をなすかに将来は左右されていくということでもあります。どんな時代でありましょうとも、因果応報、悪因苦果、善因楽果。何事も因縁所生であることに変わりありません。
そうわきまえて善行に心励ましつつ、なお、自らは慈悲の心に住して、すべての生きとし生けるものたちに幸せを願い、人々と接して、機会を見つけてはその人たちとそれぞれに応じて語り合うということしか残る道はないように思えます。
○○様の思っていたお答えとは似て非なるものかもしれませんが、今の私にはこの程度のことしか申し上げることが出来ません。どうか、インドでの体験によってすばらしい知識や知恵をお持ちであることを大切になさり、多くの周りの人たちをお導き下さいますことを念願いたします。合掌」 (全)
平等ということ
世の中は、いつの時代も、とかく生きずらいものです。子供の頃には気づきませんが、大きくなるにつれてあの子はいい家の子だからとか、親の着るものや車に目が行き、ついうちとは大違いだななどと、いろいろ考えさせられるようになります。
インドでは、お釈迦様の時代ばかりか、いまだに階級というものが、カーストと私たちは言うわけですが、彼らにとってはヴァルナという色を意味する階級が厳然と存在しています。ないしはジャーティというような職業による二千以上ともいわれる階級まであります。現代は企業が大規模化してそのような職業による差別がなくなりつつあるとはいえ、やはり就職や結婚ということになるとよく良く調べられることもあるようで昔と変わらないのです。
それでも仏教は、お釈迦様の時代から、すべての人は平等であるとして階級差別などいたしません。あらゆる階級の人々が出家を許され比丘になると、出家した日にちや時間の後先のみが席次を決める基準となりました。
なぜそうもはっきりとした態度がとれるのかというと、誰もがこの因果応報の世の中に生きているからであろうかと思います。
お釈迦様と同年代だったというコーサラ国の大王パセーナディとの会話の中で、お釈迦様は世間には四種類の人があると語られています。(『パーリ相応部経典(拘薩羅(コーサラ)相応二一)』)
その四種の人とは、闇より闇に赴くもの、闇より光に赴くもの、光より闇に赴くもの、光より光に赴くものであるといいます。
良き生まれであっても、それに胡坐をかくことなくまじめに努力して身と口と心の行いよく生きて実り多き人生を送る人と、同じように良き家に生まれても学び少なく満足に働かないがために没落していく人があると。
また貧しい家に生まれても、真面目に努力して周りに助けられ豊かになり、よき人生を送る人がある。逆に貧しいがために悪事に手を染め、さらに悪業を積んでしまう人もあると。
そして、次のような偈文を御詠みになられています。
「王よ、人あり、貧しくして
信心もなく、心やぶさかに
恨みがましく、よこしまの思いあり
邪見をいだき、敬虔(けいけん)の思いなく
沙門(しやもん)・婆羅門(ばらもん)・求道者を
口ぎたなくも罵(ののし)って
托鉢をなやまし、布施をさまたげ
傍若無人(ぼうじやくぶじん)の振る舞いをなす
王よ、かくのごとき人は
見破れ、命終わりてのちは
悪道・地獄にゆくほかはない
これを闇より闇に赴くという
王よ、人あり、貧しけれど
信ありて、心やぶさかならず
よく布施をなし、人を敬し
心いささか乱るることなく
沙門・婆羅門・求道者を
わが坐を立ちて礼拝し
心をしずめ、身をおさめ
行乞・布施をさまたげぬ
王よ、かくのごとき人は
身破れ、命終わりてのちは
忉利天界(とうりてんかい)に生まれるであろう
これを闇より光に赴くという
王よ、人あり、豊かなれど
信心はなく、心やぶさかに
恨みがましく、よこしまの思いあり
邪見をいだき、敬虔の思いなく
沙門・婆羅門・求道者を
口ぎたなくも罵って
托鉢をなやまし、布施をさまたげ
傍若無人の振る舞いをなす
王よ、かくのごとき人は
身破れ、命終わりてのちは
悪道・地獄にゆくほかはない
これを光より闇に赴くという
王よ、人あり、豊かにして
信ありて、心やぶさかならず
よく布施をなし、人を敬し
心いささかも乱れるることなく
沙門・婆羅門・求道者を
わが坐を立ちて礼拝し
心をしずめ、身をおさめ
行乞・布施をさまたげぬ
王よ、かくのごとき人は
身破れ、命終わりてのちは
忉利天界に生まれるであろう
これを光から光に赴くという」
(増谷文雄訳『阿含経典』四より)
このようにお釈迦様が、四種類の人があると言われるのは、人はつまり生まれではなく行いによって、志によって、いかようにも変われるということであり、そうした可能性を秘めた存在として、何人も一つの命として平等であるということであり、だからこそ、生まれによって分け隔てするなどの差別を否定し、いかなる人も平等であると説くことができたのであろうかと思います。
インドの人々は今も輪廻を当たり前のこととして生きています。今こうあるけれども、もっともっと努力して徳を積んで、来世はより良いところに生まれ変われるはずであると考えます。だから来世も含め長い未来世を考えた時に、今どうあろうとも、その人を差別したりできないということにもなるのです。
ですから、誰もうらやんだり、あがめたり、またさげすんだり、あなどったりなどできないということです。次は我が身かもしれないと考えます。だから今ある場所で、とにかく頑張って、よりよくあれるように努力する、周りの人たちを大切にして、よりよく生きる、それが幸せになる道と考えるのでしょう。
いま私たちはとても不安な時代に生きています。コロナ騒ぎも相変わらず日本やアジアの一部だけはなぜか続いていますし、物価が高くなり生活が苦しくなる一方です。地球の裏側の戦争が近くへ波及しかねないからと増税してまで軍事費を増額するなどと言われて不安をあおられてもいます。漠然と世の中の不穏な空気を眺めながらも、つかの間にサッカーに野球にと、スポーツやシネマ・・・にと庶民が、相変わらずそんなことにかまけている間に世の中が、世界が変えられていくように感じます。
ですが、それでも私たちにできることは、この場でよりよく生きることしかありません。うまい話に乗れば足をすくわれ取り返しのつかないことにもなります。そもそも悪業を積んで来世が不安で死ぬ事も出来ないということにもなります。
ですから、因果応報なるが故に、誰もが平等なのだとこの世のあり様である、その真理を信じて、日々みんながよくあるよう、精進努力して地道に頑張るしかないのでしょう。そう思えるのです。そうしてこの世の変わりゆくさまを、一喜一憂することなく冷静に見ていようではありませんか。 (全)
退職教職員組合の皆様への法話
弥陀の浄土と薬師如来
先日、地元の退職教職員組合の皆様がご参詣になられました。國分寺の歴史と堂内の仏様方について一時間余り話をさせてもらいました。
「はじめに、なぜ聖武天皇は東大寺の大仏と諸国國分寺をお造りになられたのかということをお話したいと思います。それは、御存じの通り当時中央の都の政治に長く続く闘争と混乱があり、さらに天災や疫病の蔓延が重なり、そうした暗雲たれ込める状況を一新させるためであったと思います。
毘盧遮那如来という仏様方の中心に存在する仏がこの世にあらわれるということは、その周りに数多の釈迦如来を中心とする世界が同時に存在するという華蔵(けぞう)世界(華厳経に説く世界観)を全国土に現出させて、明るい清らかな国に生まれ変わらせたいという聖武天皇の切実なる願いから、この破格の国家プロジェクトは成し遂げられたのだと思います。自らも帰依し出家までして仏教にのめり込まれた天皇だからこそできたともいえます。・・・。
次に、堂内諸尊について話を進める前に、今日の朝日新聞朝刊に、宇治の平等院鳳凰堂(ほうおうどう)の開創時の扉絵から弥陀の「九品来迎図(くほんらいごうず)」が見つかったとの記事がありましたのでお手元のコピー(次頁参照)をご覧ください。
描かれていたのは九品来迎図と言われ、生前の行いによって、下品下生(げぼんげしよう)から上品上生(じようぼんじようしよう)まで九つの段階に分かれた弥陀浄土へと菩薩たちが迎えに来た様子を表したものです。因みに、九品の阿弥陀様の印相は親指と人差指中指薬指と変えながら来迎の印・説法の印・禅定の印をそれぞれ結んでいくものです。
そして、実は國分寺本堂の内陣には、その弥陀浄土から亡くなった信者を迎えに来られた「来迎二十五菩薩像」が祀られています。どうして、本尊は薬師如来なのに弥陀世界の来迎の菩薩が祀られているのでしょうか。
山城(やましろ)(京都府南部)の浄瑠璃寺(じようるりじ)を参詣した折にヒントを得たのですが、そのお寺の伽藍配置は、東に薬師如来を祀る三重塔があり、その前には大きな境内いっぱいの池があります。そして西には横長の阿弥陀堂に九体の阿弥陀如来像が祀られています。
その伽藍は、私たちは満中陰で四十九日忌の仏様であるお薬師様に拝んでこの世に来て、大きな池のような世間を泳ぎきり、なんとか最終的に九品の阿弥陀様のどなたかに救い取っていただくという伽藍構造になっているのだと考えられます。
それと同様に、当山本堂もお薬師様によって現世に生まれ、信仰を確かにしておれば阿弥陀様のお使いがお迎えになっているという、そういう構造になっているのではないかと思います。
では、ご本尊の薬師如来とは何かということですが、実は薬師とはお釈迦様の別名です。薬師如来像も釈迦如来像もお姿はほぼ同様ですね。違いは薬壺を左手に乗せているか否かであり、本堂前の扁額「醫王閣(いおうかく)」にある医王とは元々お釈迦様のことでした。
そして、お釈迦様の教えのすべてが包摂されると言われる四聖諦(ししようたい)という教えがあるのですが、その説き方が、正に当時の医者の診断処方そのものでした。さらに、誰がお訪ねしてもお釈迦様に出会うだけで、実際に心の苦しみ悩みわだかまりがスッとなくなってしまったというその霊験(れいげん)からではないかと思います。
では、その四聖諦とはどのような教えかというと。それは四つの聖なる真理という意味で、内容は『般若心経』にも出てくる「苦・集・滅・道」の四つです。
①苦の聖なる真理とは、苦があるということ、この世の苦しみ多い現実に気づくということです。幸福に感じられてもすぐに色あせ、完璧なことの出来ない私たちは常に不安や不満を感じつつあります。
②集の聖なる真理とは、苦には因があるという真理であり、その原因は自分がある、自分がよくありたい、よく思われたいという欲の心にあるということです。
③滅の聖なる真理とは、苦が滅した境地があるという真理で、苦しみのない理想の状態(さとりのこと)をこそ求めるべきものだというのです。
④道の聖なる真理とは、苦の滅に至る方法があるという真理で、理想的な安らいだ心に至るにはどうすればよいのか、八つの具体的実践の仕方を教えています。
これは、現在の症状を知り、その原因を突き止め、回復した状態を見極め、その治療法を行うという当時の医師の診断処方と同様ではないかと考えられたわけです。
ところでいま、苦の原因とは、自分がある、自分がよくありたいと自分に執着することにより起こると言いましたが、では自分がない状態とはどんなことでしょうか。それは例えば、自分のことを顧みずに他に尽くす滅私であるとか、自分のことを忘れて利他に精進する忘己、薬や特殊な精神作用によって引き起こされる忘我の状態とは本質的に違います。
昔サラリーマンとして働いていた会社の社長から聞いた話をしてみたいと思うのですが、その社長は先の戦争中学徒出陣で戦地に趣く船中で爆撃に遭い、船は木っ端みじんとなり、百数十人もの兵とともに海に投げ出された経験をもつ方でした。そこは南洋のフカの出没する海域だったため、ふんどしを長く垂らし、流木に捕まり、喉が渇いても余計に乾きをかき立てる海水を飲むことも叶わず、食べる物もなく漂ったというのです。中には、元気を駆り立てるため軍歌を歌ったり、仲間の名前を呼ぶ人たちもあったというのですが、かえって体力を奪うので、社長は只静かに体力を温存することだけを考えたといいます。剛毅を装い歌を歌っていたような人から、チャポン、チャポンと海に沈んでいったということです。そうした状況で、他の人を助けよう、自分の命をなげうって他の者を救おうとすること自体が、命取りになります。
そうした生きるか死ぬかの極限の中では、ただ一人一人が己自身によって生き延びることだけが唯一残された道であったに違いないのです。その時、自分が、自分こそ、生き残りたい、助かりたい、称賛され たいなどという心が残っていたなら、体力を消耗し海底に沈むしかなかったのではないでしょうか。そんな思いも、計らう心も何もなくなって、最後にはそれこそ神様仏様にすべて運命をお預けするというような心境にいたったのではないかと思います。結局三日目の昼過ぎにやってきた味方の船に救助されたのはたったの三人だけだったといいます。
そういう極限の精神状態について思い巡らすとき、普通に日常生活を送る私たちが、自分という思い、つまり自我なく生きるというのはそう簡単なことではないと思われるのです。
人類として長い進化の過程で学んできたがゆえに、誰もが何かしなくては、忘れていることはないか、すべきことをしていないのではないか、したことも十分なものだったであろうかと、いつも追いかけられるようにして、不安の中に私たちは生きています。
そうした苦を感じつつ生きているのだということをまずは自覚する必要があるということです。その原因はといえば、自分という思いがあり、少なくとも周り同様にやっている、よくやっていると思われたい、生きていたいと思う心があります。
でも本当はそんな追い立てられるような苦を感じることもなく、他と比較することもせずにいつも楽に生きたい、満たされた心で過ごしたい、何があっても困ることなく、すぐにすべきことが解り、迷うこともないというように。そうした泰然自若(たいぜんじじやく)とした心を得たいものだと思います。
それをどのように実現するのかを説くのが仏教だということになります。そのためには教えを学び、かつ先ほどの話のような極限状態といわずとも、自らの心を研ぎ澄ます修養もやはり必要だということになります。
そして、そういう話をきちんと縁ある人々に理路整然と説かれたのがお釈迦様であり、そのもとには人々の心を癒したいという慈悲の心があり、それこそがお薬師様であるといえます。
どうか仏教の教えに関心を持って学んでいただけたら有難く存じます。またお参り下さいますのをお待ちいたしております。ありがとうございました。」 (全)
後生がいい生き方
Kさんの思い出
Kさんが亡くなられました。Kさんは、私たちがこの地にきてからずっと気遣って下さる方の一人でした。
こちらに来た年の三月に行われた涅槃会の稚児行列の際に、仁王門前で子供を抱いてくれて、その様子をたまたま撮った写真があり、古いアルバムから見つけて通夜の晩に棺の前に添えさせていただきました。
みんなの前でニコニコ笑われているのですが、ご本人にとってもその時のことがいつまでも心に刻まれていたようで、事あるごとにご家族にもよく話されていたと通夜の晩に伺いました。
年が明けてまもなくに、遠方に住むご子息様が下を向いて道を歩いてくるところに車で出くわしました。たいそう気持ちが沈んでいるご様子に、どうしたことかと思ったことを後から思い出したのですが、その頃にはお母さんの様子がよくなかったのであろうと思われます。
前の年の十月ころ一度病院で検査した後、かたくなに入院を拒否して自宅で療養を続けてこられたのだといいます。強い抗がん剤も高齢ということもあり拒絶され、ほかの治療も放棄されて、ただ痛み止めだけを飲んで、家にいたいとのご本人の意思をご家族も尊重されての自宅療養だったようです。
前年の十一月にお寺の懇話会の皆さん向けの研修旅行を予定していて、お盆にお会いした際にも元気そのものだったので、十年前にも同様の研修に参加されていたのでご案内したところ行きますとのことでした。
近くに住む娘様の車に乗って外出するのが楽しみで、元気にお過ごしのこととばかり思っていたのでしたが、いつまでたっても申し込みにやってこられないので、電話したところ検査入院してたんですとのことで、すぐに回復するものとばかり思っていましたが、結局その時の会話が最後になってしまいました。
その後、自宅におられ、時折近くの町医者で検診を受けるだけで、本当に苦しまれたのは一晩だけだったとのことでした。その晩も、ご家族が病院に行こうかと言ってもうんと言わず、本人の願い通りにその翌日ご自宅でお亡くなりになられたのでした。
平成十三年から毎月仏教懇話会と称して一時間ほど話をする会を開いているわけですが、開設当初から欠かさずに毎月近隣の懇意な人たちを誘い合わせてお越しになってくれていました。
別段面白くもない話を十年ばかり毎月一時間我慢して聞き続けてくださいました。
会館の二階で始めた懇話会も、その後客殿に場所を変えて行っていましたが、その時々の話題について私が話をし、皆さんに疑問やら感想をお尋ねするのですが、決まってみんなを笑わせるようなことをぼそっと言われては場を和ませてくださいました。
歴史小説がお好きでよく読まれていたということも枕経のあとに初めてお伺いしました。福山城博物館主催の歴史講座にも定期的に通われて、そちらのほうは先生が面白く楽しい話を聞かせてくれたようで、福山まで通うのを楽しみにされていたようです。
平成十八年の秋頃から「日本の古寺めぐりシリーズ」というバスツアーが組まれ、私が講師としてバスの中でお話をする旅行にも何度も参加くださったのでしたが、たまたまその歴史講座に参加されている顔見知りも同乗されたことがあり、親しく楽しそうに話されていたことを思い出します。
また、年末や法会前には檀家の皆様に呼び掛けて大掃除をしていますが、そんなときには必ずどこかで黙々と草を抜いてくださっていました。みんなと楽しそうに話をしながらということもありましたが、しゃがんで隠れるように一人でされていることもありました。そんなときにはお茶の時間に仲良しの中でにこやかに話をされていたように記憶しています。
飾ったところがなく、本当に自分の気持ちをそのまま表現される方でした。嘘偽りなく、素直に自分を生きられた方だったのだと思います。何の濁りもない心で周りの人たちと接し、周りの人たちを思いやり和ませ笑わせ寛がせる才能というか、技をお持ちでした。みんなから愛されてきたことと思います。いま思えば本当に後生のいい生き方をされてきたのではないかと思えます。
もちろん私などはKさんのごく一部のことしか知らない人間に過ぎないのかもしれませんが、知っていることだけでもまさにそう思え、見倣いたいものだと思っています。
つれづれに思い出を感謝とともにここに書き残しておきます。本当にお世話になりました、ありがとうございました。 (全)
四苦八苦を
やわらげるために③
死苦の迎え方
一般に仏教徒の戒である五戒(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒)、さらには十善(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不綺語・不悪口・不両舌・不慳貪・不瞋恚・不邪見)を心掛けるだけで良好な人間関係は築けると思います。
アメリカには救命士という制度があって、事故や災害などによって余命幾ばくもない人の所に駆けつけて、いろいろと終末のケアをする人たちがいます。ニューヨーク州の救急救命士マシュー・オライリー氏は、死の直前、人が最後に思うことには三つあるといわれています。
一つは、許しを請うこと。人にはみんな後悔することなどの一つ二つはあるものです。それらについて謝り許しを請う気持ちが沸いてくるというのです。
二つ目には、憶えていて欲しいという気持ち。誰にも忘れ去られていく寂しさ、悲しみがあるものですが、死に及んで死後も出来れば親しかった人、愛する人たち、誰かの心の中で生き続けていたいという思いです。
三つ目は、人生に意味があったと知りたいということ。自分の人生、一生が無意味なものではなかった、しっかり生きてきた、みんなのために役に立つ、立派な、よい人生だったと知りたいのだというのです。
何十年も生きてきたら後悔することがいくつかあるのが普通なのかもしれません。しかし後悔するのも煩悩の一つと数えるのが仏教です。過去を回想し、過ちや失敗を思い出しては悔いるというのは良いことではない、それは今も過ちを繰り返していることになると考えるのです。今の自分はその時の自分ではないのですから、今すべきことについて、自らの心にまた周りの人たちに恥じない行いをすればよいと教えられています。そうして過去は今生きている自分を向上させるため、心を成長させるためにあると考えたらよいということです。
そして、良好な円満な人間関係を心掛けつつ、安心してその時を迎えたいものです。さらには、最期の時にあたって、自分の人生について回想し、それがとても意味あるものであったと満足して感謝の気持ちでその時を迎えたいものです。そのためにも、日頃からそんなことを一人静かに考えることも死苦に対処するために必要なことかもしれません。
残りの四つの苦しみに対処する
ここまで、四苦について思い当たることを述べてみました。次に、残りの四つの苦しみについても思いつくことを述べてみたいと思います。
まず、求不得苦(ぐふとつく)は、不死を求めてももちろん得られないわけですが、そのほかにも、情報過多の世の中で、情報にふりまわされて、必要ないにもかかわらず、周りと比較したりして自分にないもの、持たざるものを求めて余計に苦しみを作り出してしまいがちです。逆に、自分にあるもの、持てるものに目を向けてみれば、新たな価値を見出すことができ、求めるということ自体から開放されるのではないかと思います。
次に、怨憎会苦(おんぞうえく)、愛別離苦(あいべつりく)については、すべての出会いに因縁があり、それも無常であることをまずは知るべきではないかと思います。永遠なるものはないことを思い、嫌いな相手もいずれは去るものであり、愛する者もいずれは離れゆくものと心得てみてはいかがでしょうか。
かつてあれほど苦手で嫌いだった人が、いつの間にか自分を守ってくれる身近な存在として感じられる人であったと気づかされることもあるものです。好きな相手も自分を束縛し、依存し負担になってしまっている自分に気づくこともあります。その関係も時間の経過とともに愛憎が変化するのを冷静に観察しつつあれば、いざという時の苦しみも軽減されるのではないかと思われます。
最後に、五取蘊苦(ごしゆうんく)については、執着をもって生きることがそのまま苦であるとする仏教の教えを学び実践することこそがこの苦に対処することにはなるのだと思います。
眼耳鼻舌身意(げんにびぜつしんい)の五官と心に入るものに欲を掻き立てられ翻弄されないよう、余計なものを見ない聞かない嗅がない味あわない触らない考えないに尽きるのですが、入るものを遮断することも必要でしょうし、入っても自分のこととせず、そのまま流してしまう習慣を身につけることも必要でしょう。そして、その実践の中でも少欲知足が最も苦をやわらげる基本的な生活態度であると自覚することが大切ではないかと思います。
以上、四苦八苦について、いかに対処すべきか、少しでもその苦をやわらげるにはどのように生きたらよいのかと思いめぐらしてみました。必ず訪れる四苦八苦ではありますが、ここに挙げたことなどを参考に、御自分なりの対処法をご考案いただければありがたく存じます。 (全)
【國分寺通信】 祝・大師堂再建
○令和六年度御涅槃営繕事業としてこの度大師堂が再建されました。昨年十一月初旬より旧大師堂休み堂の解体が始まり、基礎工事に入る十二日に鎮壇具を地面下に埋納する土公供を執り行いました。そして十二月十九日上棟式を執行し翌日より今年二月八日までに木工事、瓦銅板など屋根工事を終え、その後左官工事電気工事などが施され、三月末見事落成を迎えることができました。涅槃会寄付をこの五年にわたり繋いで下さいました檀信徒の皆様に心より御礼を申し上げます。なお、大本山大覚寺から、この度の新堂建設にかかる設計をはじめ施工のすべてにわたり監督指導にあたられた武村住建代表取締役武村俊治氏に、当山伽藍維持における長年の功績に対し褒賞状が授与されておりますことをご報告し、この場を借りて改めて御礼を申し上げます。
○来年は御涅槃です。そして、ご本尊薬師如来の御開帳を予定しています。平成六年本堂再建三百年祭で御開帳してはや三十年。世代も変わり多くの檀信徒から御開帳はいつですかと問われてきました。前回から丁度三十年の節目となりますので、この機会にぜひお姿を拝見して信仰を新たにしていただけますようご案内申し上げます。恒例の稚児行列も予定しておりますので、たくさんの御稚児さんにご参加いただけますようお声がけをお願い申し上げます。
○一ページに掲載した弘法大師像の写真は、一昨年十一月の福山市文化振興課の皆様による美術工芸品実態調査時に徳島文理大学濱田宣教授に撮影いただいたものです。
◎ 薬師護摩供 毎月二十一日午前八時~九時
◎ 坐禅会 毎月第一土曜日午後三時~五時
◎ 理趣経読誦会 毎月第二金曜日午後二時~三時
◎ 仏教懇話会 毎月第二金曜日午後三時~四時
◎ 御詠歌講習会 毎月第四土曜日午後三時~四時
●毎月二十一日は作務の日です。(午前中のお越しになれる時間自主的に境内などの清掃作業をしています。)
●ブログ「住職のひとりごと」https://blog.goo.ne.jp/zen9you
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令和五年一月二一日
薬師護摩供後の法話
御生誕一二五〇年の弘法大師
今日は初大師、御生誕一二五〇年の記念すべき年の初大師となります。全国各地の弘法大師を祀る寺院では盛大にお祭りがなされていることでしょう。こちらにも、早朝八時からにもかかわらず、土曜日ということもあり、遠方からも大勢のお護摩のお参りをいただきありがとうございます。
弘法大師は、今年が西暦二〇二三年となりますから、七七四年、宝亀五年にお生まれになられています。六月十五日のお生まれと言われており、六月には各本山でも記念の法会が執り行われることと存じますが、ところで、お大師様はどのようなお方であったのか。皆様ご存じのことと思いますが、概略申し上げてみますと。
生まれた場所は、讃岐の屏風ヶ浦と言われますが、今の香川県善通寺のある場所とされています。律令制下において、律令国内の各郡を治める地方官である群司をされていた父佐伯善通(さえきよしみち)氏の子として誕生し真魚(まお)と名付けられ、十四才で奈良の都に上京します。
中央佐伯氏の氏寺佐伯院に滞在し、十五才で桓武(かんむ)天皇の皇子(みこ)伊予親王(いよしんのう)の家庭教師であった母方の叔父阿刀大足(あとのおおたり)について論語、孝経、史伝、文章などを学んだとされています。そして、十八才のとき京の大学寮に入り、専攻は儒教を研究する明経道(みようぎようどう)で、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学んだということです。
ですが、十九才を過ぎた頃から山林での仏道修行に入ります。熊野や四国の山々を跋渉(ばつしよう)し修行を重ね、四国室戸岬の洞窟で虚空蔵求聞持法(ぐもんじほう)を修法をしているとき、口に明けの明星が飛び込んできて特殊な体験をなさるわけです。
このとき洞窟の中で目にしていたのは空と海だけであったため、その後空海と名乗ったということです。こうした山岳修行によって、宗教的な才能が開花して、延暦二三年(八〇四年)五月、第十六次遣唐使の一員として留学僧の立場で、後に天台宗を開く最澄(さいちよう)師とともに唐に赴くのです。
その時には既に中国の言葉に不自由なく、詩文や書に際立った才能を発揮されたといわれます。インドから伝わっていた当時の仏教の最も進んだ教えである真言密教の正統な継承者であった長安の青龍寺恵果和尚(けいかかしよう)に奇跡的に邂逅されて、真言密教の奥義を授かります。そして、胎蔵・金剛両部にわたる伝法灌頂を受けられ、真言密教の第八祖となり、二年ほどの滞在で帰国されたのでした。
その後嵯峨天皇の即位により、その存在を見出され、我国における真言宗の開教を許され、一大宗派に築き上げられるのです。高野山の地に伽藍を築いて修禅の道場とされ、東寺を下賜されて国家の祈願所とされます。さらに、東大寺の別当にも任ぜられて奈良の仏教も真言化し、宮中にて正月の後七日御修法を定例の法会として宮中の祭祀も密教を取り入れたものに換えることに成功されたのでした。
今も伝教大師(でんぎようだいし)最澄師とともに、日本仏教の二大巨人といわれます。ですが、天台宗はその後浄土宗、禅宗などにと様々な宗派に枝分かれしていくのに、真言宗は派は分かれ本山は沢山ありますが、一つの教えとして存続しています。
それはひとえにお大師様が真言教学を、とても難解ではありますが、完璧に著作として後世に残されたからではないかと思います。その著作は二十世紀後半に西洋の近代思想の研究者からも注目されるほどの現代性のある普遍的な内容でもあります。
ではなぜ、そこまで偉大な完成された生涯を送れたのかということになりますが、昔から不空三蔵(ふくうさんぞう)の生まれ変わり説というものがあります。ご誕生の年や日にちまでが、不空の亡くなられた日と同じであるとされてきました。
不空とは、正式には不空金剛(アモーガヴァジユラ)であり、インド北部のバラモンを父とする西域の人とされています。若くして唐の長安にきて、金剛智(こんごうち)に師事し密教を学び、三十六才の時七四一年金剛智の入寂後に、師の遺言に従って『金剛頂経」『大日経』等の梵語原典の密経経典を請来するためにセイロン・インド南部に渡りました。そして、龍智阿闍梨(りゆうちあじやり)のもとで胎蔵・金剛両部にわたる伝法灌頂を伝授されています。
そして七四六年長安に帰り、七五五年の安史の乱をきっかけに 唐朝の内患外憂に処する護国思想として、またその呪術的機能により宮廷内に強固な基盤を作り帰依をうけることになります。玄宗、粛宗、代宗の三代の国師となり、密教を国家仏教の地位にまで引き上げることに成功します。また百十部百四十三巻もの密教の経論を漢訳し、鳩摩羅什(くまらじゆう)・真諦(しんだい)・玄奘(げんじよう)とともに、四大訳経家の一人とされています。そこで不空三蔵ともいわれるのです。
お大師様も唐に渡り受法され、多くの経典を持ち帰り、弘仁元年(八一〇)薬子の変(くすこのへん)に国家鎮護を祈り、平城(へいぜい)天皇、嵯峨(さが)天皇、淳和(じゆんな)天皇の帰依を受け、多くの著作を残されました。その生涯はこの不空三蔵の事蹟をそのまま成し遂げられているようにも映ることからも生まれ変わりではと、そう言われているのです。まさに不空三蔵の偉大な宗教的才能を受け継がれたかのようなご生涯でした。
現代でも、時々このように思える人は世に出ていることは以前(本誌第五十四号二頁)にも紹介したことがあります。幼少期に子供のおもちゃのピアノを教えられてもいないのに引き出して英才教育を施され、世界的なピアニストになられている辻井伸行さん。また、書家のお母さんの手ほどきでみるみる才能を開花させた書家の金澤翔子さんなど。他にも多くのこうしたまるで前世からの卓越した才能を受け継がれてきたのではないかと思いたくなるような方はたくさんおられることでしょう。
ですが、実は私たちも本当はそうした才能がありながら、あれこれとしすぎて、それを開花させずにただの凡人と思って暮らしてしまっているのかもしれません。世界最高水準の才能はともかくとして、これまでしてこなかったものの中に、もしくは本当は関心を強く持ちながら諦めてきてしまったことの中に、前世でかなりの時間を費やし磨いてきたものをそのままにしてしまっているということもあるかもしれません。好きなこと、関心をそそられるもの、簡単にあきらめてきてしまっていることの中にそんなものが隠れていることでしょう。
坐禅や瞑想なども、まったくしたことの無かった方が、人に連れられてやってきて試しに坐ってみたら、突然かなりのレベルまで到達してしまったということがよくあると聞きます。同様に、これまで全くしてこなかったことの中に新たな自分の目標が見つかるかもしれません。今年は是非、御生誕一二五〇年のお大師様にあやかり、私たち自身の隠れた才能を探し出し、開花させられないまでもそれを楽しみ、より輝いた人生へのスタートにしてみてはいかがかと思っています。
今年も一年変わらぬご参詣をいただけますよう宜しくお願い申し上げます。 (全)
世の中と仏教
「この世の中の様々な問題と仏法とはどのように関係し、どのような恩恵があるのか」と、先日ある方からご質問メールを頂戴しました。
数日考えた末、次のように返答させていただきました。
「私も実は、この世の中の成り立ちと仏教がどのように関係し、どのように説明されるものなのかにとても興味があります。現実の私たちの生活の様々な悩みの中に立ち向かい、それらをこともなく救い出す力が仏教にはあるはずです。
大きな歴史の流れの中で、今の現実はとても複雑な要素を併せ持ち、それぞれの人がそれぞれの立場と環境の中で歴史と対峙しています。歴史などという大それたものを出してこなくとも、誰もが日々の生活に仏教が生かされなくてはいけないと思っています。まさに○○様が抱かれている様々な問題点についても同様かと思います。
そこで、やはり私はお釈迦様が何故に縁起を説かれたかということに立ち返ってみたいと思うのです。何事も因縁によって結果したものであるという、すべてのものに原因ありとする立場です。何事もあるべくしてある。今の心を抱くのにも原因がある。すべてのことは原因があって結果しているということです。
今の日本が不況不況と言いながら、おおかたの人たちが厳しい生活を強いられながらも他の国々のように飢えずに生活していけているのも先人の努力のお陰でしょう。自殺が多いのは日本人の悪いところの一つである事なかれ主義と人々が物に振り回され周りの人の心を軽視してきた結果でしょう。
政治家や官僚たちによって税金を無駄づかい、ないし海外には躊躇なく金をばらまくように見えるのも、目の前の生活に追われ、経済の発展ばかりを優先し、政治や特に選挙を甘く見てきた国民の無関心さの結果ではないでしょうか。
子供たちに目の輝きがないのも、何もかも用意されて自由がなく、学校に行けば何事も管理されて、親たちも余裕なく家庭教育を疎かにしてきたからではないでしょうか。
ゲームに携帯、パソコン、便利な道具があふれ、それら機械に人間が使われるようになり、人々の生きている実感を大人からも子供からも失わせてしまいました。しかしこの流れはそう簡単には修正が効かないような気がします。私たち自身がこうして通信し合っている現実もあります。
ただ、地球環境、特に温暖化や様々な感染症の問題は世情言われている情報が故意に別の目的からなされ、そのことをマスコミを通じて世論を作るためになされている、ある種の啓蒙活動ではないかと思っています。少し先にはなりましょうが、将来歴史の検証が必要となることでしょう。
ところで、世の中は誠実で真面目な大多数の人たちとそれを操作し扇動して大衆をある方向に向けさせ管理していこうとする立場の、ごくわずかの人たちがいるようです。ですがそのごくわずかの人間たちの力は計り知れなく大きく、私たちはその流れの中に置かれています。
ですが、大きくはそうした隠れた問題も含めて、すべてをこの縁起の教えという枠の中でその成り立ちを静かに受け入れるしかないのではないでしょうか。今の時代に生まれあわしたのを嘆いても仕方ありません。今の時代に生まれ出てきたのも私たち自身の業だとも言えます。
もちろん、だからといって現状をあるべき姿だと思っているわけではありません。今の世の中に蔓延する拝金主義、雇用制度のあこぎな労働者搾取、報道の自由度が世界で七十一位という忖度ばかりの報道体制などを容認できるものではありません。
そうした世の中の成り立ちをしっかりと克明に知悉しながらなお、そのあり様を冷静に見つめていなければならないと思うのです。多くの人々がそのことに気づくならば世の中は変わるはずです。
人生とは苦しみであると言われたのもお釈迦様です。苦しい、イヤな世の中だ、不安だと思いを重ねていくのにも原因が必ずあるはずです。まずは生きていること自体がすでに苦そのものであるという現実に気づくこと、そして思い諦めることが肝要ではないでしょうか。
その上で、無我であるとお釈迦様は説かれたわけです。無我は空と言い換えてもよいわけですが、すべてのことはその環境や状態が変化すれば変わっていくものである、すべては常住なるものなどではないと知るならば、時間はかかるでしょうけれども、その変わりゆくさまをじっくりと見てみようではないかと構えてみてはいかがでしょうか。
世の中のことをとかく申しましてもどうなるものでもありません。すべてのことがあるべくしてあります。すべての過去が今に結実しています。ということは、これからの瞬間瞬間に何を私たちが考え、何をなすかに将来は左右されていくということでもあります。どんな時代でありましょうとも、因果応報、悪因苦果、善因楽果。何事も因縁所生であることに変わりありません。
そうわきまえて善行に心励ましつつ、なお、自らは慈悲の心に住して、すべての生きとし生けるものたちに幸せを願い、人々と接して、機会を見つけてはその人たちとそれぞれに応じて語り合うということしか残る道はないように思えます。
○○様の思っていたお答えとは似て非なるものかもしれませんが、今の私にはこの程度のことしか申し上げることが出来ません。どうか、インドでの体験によってすばらしい知識や知恵をお持ちであることを大切になさり、多くの周りの人たちをお導き下さいますことを念願いたします。合掌」 (全)
平等ということ
世の中は、いつの時代も、とかく生きずらいものです。子供の頃には気づきませんが、大きくなるにつれてあの子はいい家の子だからとか、親の着るものや車に目が行き、ついうちとは大違いだななどと、いろいろ考えさせられるようになります。
インドでは、お釈迦様の時代ばかりか、いまだに階級というものが、カーストと私たちは言うわけですが、彼らにとってはヴァルナという色を意味する階級が厳然と存在しています。ないしはジャーティというような職業による二千以上ともいわれる階級まであります。現代は企業が大規模化してそのような職業による差別がなくなりつつあるとはいえ、やはり就職や結婚ということになるとよく良く調べられることもあるようで昔と変わらないのです。
それでも仏教は、お釈迦様の時代から、すべての人は平等であるとして階級差別などいたしません。あらゆる階級の人々が出家を許され比丘になると、出家した日にちや時間の後先のみが席次を決める基準となりました。
なぜそうもはっきりとした態度がとれるのかというと、誰もがこの因果応報の世の中に生きているからであろうかと思います。
お釈迦様と同年代だったというコーサラ国の大王パセーナディとの会話の中で、お釈迦様は世間には四種類の人があると語られています。(『パーリ相応部経典(拘薩羅(コーサラ)相応二一)』)
その四種の人とは、闇より闇に赴くもの、闇より光に赴くもの、光より闇に赴くもの、光より光に赴くものであるといいます。
良き生まれであっても、それに胡坐をかくことなくまじめに努力して身と口と心の行いよく生きて実り多き人生を送る人と、同じように良き家に生まれても学び少なく満足に働かないがために没落していく人があると。
また貧しい家に生まれても、真面目に努力して周りに助けられ豊かになり、よき人生を送る人がある。逆に貧しいがために悪事に手を染め、さらに悪業を積んでしまう人もあると。
そして、次のような偈文を御詠みになられています。
「王よ、人あり、貧しくして
信心もなく、心やぶさかに
恨みがましく、よこしまの思いあり
邪見をいだき、敬虔(けいけん)の思いなく
沙門(しやもん)・婆羅門(ばらもん)・求道者を
口ぎたなくも罵(ののし)って
托鉢をなやまし、布施をさまたげ
傍若無人(ぼうじやくぶじん)の振る舞いをなす
王よ、かくのごとき人は
見破れ、命終わりてのちは
悪道・地獄にゆくほかはない
これを闇より闇に赴くという
王よ、人あり、貧しけれど
信ありて、心やぶさかならず
よく布施をなし、人を敬し
心いささか乱るることなく
沙門・婆羅門・求道者を
わが坐を立ちて礼拝し
心をしずめ、身をおさめ
行乞・布施をさまたげぬ
王よ、かくのごとき人は
身破れ、命終わりてのちは
忉利天界(とうりてんかい)に生まれるであろう
これを闇より光に赴くという
王よ、人あり、豊かなれど
信心はなく、心やぶさかに
恨みがましく、よこしまの思いあり
邪見をいだき、敬虔の思いなく
沙門・婆羅門・求道者を
口ぎたなくも罵って
托鉢をなやまし、布施をさまたげ
傍若無人の振る舞いをなす
王よ、かくのごとき人は
身破れ、命終わりてのちは
悪道・地獄にゆくほかはない
これを光より闇に赴くという
王よ、人あり、豊かにして
信ありて、心やぶさかならず
よく布施をなし、人を敬し
心いささかも乱れるることなく
沙門・婆羅門・求道者を
わが坐を立ちて礼拝し
心をしずめ、身をおさめ
行乞・布施をさまたげぬ
王よ、かくのごとき人は
身破れ、命終わりてのちは
忉利天界に生まれるであろう
これを光から光に赴くという」
(増谷文雄訳『阿含経典』四より)
このようにお釈迦様が、四種類の人があると言われるのは、人はつまり生まれではなく行いによって、志によって、いかようにも変われるということであり、そうした可能性を秘めた存在として、何人も一つの命として平等であるということであり、だからこそ、生まれによって分け隔てするなどの差別を否定し、いかなる人も平等であると説くことができたのであろうかと思います。
インドの人々は今も輪廻を当たり前のこととして生きています。今こうあるけれども、もっともっと努力して徳を積んで、来世はより良いところに生まれ変われるはずであると考えます。だから来世も含め長い未来世を考えた時に、今どうあろうとも、その人を差別したりできないということにもなるのです。
ですから、誰もうらやんだり、あがめたり、またさげすんだり、あなどったりなどできないということです。次は我が身かもしれないと考えます。だから今ある場所で、とにかく頑張って、よりよくあれるように努力する、周りの人たちを大切にして、よりよく生きる、それが幸せになる道と考えるのでしょう。
いま私たちはとても不安な時代に生きています。コロナ騒ぎも相変わらず日本やアジアの一部だけはなぜか続いていますし、物価が高くなり生活が苦しくなる一方です。地球の裏側の戦争が近くへ波及しかねないからと増税してまで軍事費を増額するなどと言われて不安をあおられてもいます。漠然と世の中の不穏な空気を眺めながらも、つかの間にサッカーに野球にと、スポーツやシネマ・・・にと庶民が、相変わらずそんなことにかまけている間に世の中が、世界が変えられていくように感じます。
ですが、それでも私たちにできることは、この場でよりよく生きることしかありません。うまい話に乗れば足をすくわれ取り返しのつかないことにもなります。そもそも悪業を積んで来世が不安で死ぬ事も出来ないということにもなります。
ですから、因果応報なるが故に、誰もが平等なのだとこの世のあり様である、その真理を信じて、日々みんながよくあるよう、精進努力して地道に頑張るしかないのでしょう。そう思えるのです。そうしてこの世の変わりゆくさまを、一喜一憂することなく冷静に見ていようではありませんか。 (全)
退職教職員組合の皆様への法話
弥陀の浄土と薬師如来
先日、地元の退職教職員組合の皆様がご参詣になられました。國分寺の歴史と堂内の仏様方について一時間余り話をさせてもらいました。
「はじめに、なぜ聖武天皇は東大寺の大仏と諸国國分寺をお造りになられたのかということをお話したいと思います。それは、御存じの通り当時中央の都の政治に長く続く闘争と混乱があり、さらに天災や疫病の蔓延が重なり、そうした暗雲たれ込める状況を一新させるためであったと思います。
毘盧遮那如来という仏様方の中心に存在する仏がこの世にあらわれるということは、その周りに数多の釈迦如来を中心とする世界が同時に存在するという華蔵(けぞう)世界(華厳経に説く世界観)を全国土に現出させて、明るい清らかな国に生まれ変わらせたいという聖武天皇の切実なる願いから、この破格の国家プロジェクトは成し遂げられたのだと思います。自らも帰依し出家までして仏教にのめり込まれた天皇だからこそできたともいえます。・・・。
次に、堂内諸尊について話を進める前に、今日の朝日新聞朝刊に、宇治の平等院鳳凰堂(ほうおうどう)の開創時の扉絵から弥陀の「九品来迎図(くほんらいごうず)」が見つかったとの記事がありましたのでお手元のコピー(次頁参照)をご覧ください。
描かれていたのは九品来迎図と言われ、生前の行いによって、下品下生(げぼんげしよう)から上品上生(じようぼんじようしよう)まで九つの段階に分かれた弥陀浄土へと菩薩たちが迎えに来た様子を表したものです。因みに、九品の阿弥陀様の印相は親指と人差指中指薬指と変えながら来迎の印・説法の印・禅定の印をそれぞれ結んでいくものです。
そして、実は國分寺本堂の内陣には、その弥陀浄土から亡くなった信者を迎えに来られた「来迎二十五菩薩像」が祀られています。どうして、本尊は薬師如来なのに弥陀世界の来迎の菩薩が祀られているのでしょうか。
山城(やましろ)(京都府南部)の浄瑠璃寺(じようるりじ)を参詣した折にヒントを得たのですが、そのお寺の伽藍配置は、東に薬師如来を祀る三重塔があり、その前には大きな境内いっぱいの池があります。そして西には横長の阿弥陀堂に九体の阿弥陀如来像が祀られています。
その伽藍は、私たちは満中陰で四十九日忌の仏様であるお薬師様に拝んでこの世に来て、大きな池のような世間を泳ぎきり、なんとか最終的に九品の阿弥陀様のどなたかに救い取っていただくという伽藍構造になっているのだと考えられます。
それと同様に、当山本堂もお薬師様によって現世に生まれ、信仰を確かにしておれば阿弥陀様のお使いがお迎えになっているという、そういう構造になっているのではないかと思います。
では、ご本尊の薬師如来とは何かということですが、実は薬師とはお釈迦様の別名です。薬師如来像も釈迦如来像もお姿はほぼ同様ですね。違いは薬壺を左手に乗せているか否かであり、本堂前の扁額「醫王閣(いおうかく)」にある医王とは元々お釈迦様のことでした。
そして、お釈迦様の教えのすべてが包摂されると言われる四聖諦(ししようたい)という教えがあるのですが、その説き方が、正に当時の医者の診断処方そのものでした。さらに、誰がお訪ねしてもお釈迦様に出会うだけで、実際に心の苦しみ悩みわだかまりがスッとなくなってしまったというその霊験(れいげん)からではないかと思います。
では、その四聖諦とはどのような教えかというと。それは四つの聖なる真理という意味で、内容は『般若心経』にも出てくる「苦・集・滅・道」の四つです。
①苦の聖なる真理とは、苦があるということ、この世の苦しみ多い現実に気づくということです。幸福に感じられてもすぐに色あせ、完璧なことの出来ない私たちは常に不安や不満を感じつつあります。
②集の聖なる真理とは、苦には因があるという真理であり、その原因は自分がある、自分がよくありたい、よく思われたいという欲の心にあるということです。
③滅の聖なる真理とは、苦が滅した境地があるという真理で、苦しみのない理想の状態(さとりのこと)をこそ求めるべきものだというのです。
④道の聖なる真理とは、苦の滅に至る方法があるという真理で、理想的な安らいだ心に至るにはどうすればよいのか、八つの具体的実践の仕方を教えています。
これは、現在の症状を知り、その原因を突き止め、回復した状態を見極め、その治療法を行うという当時の医師の診断処方と同様ではないかと考えられたわけです。
ところでいま、苦の原因とは、自分がある、自分がよくありたいと自分に執着することにより起こると言いましたが、では自分がない状態とはどんなことでしょうか。それは例えば、自分のことを顧みずに他に尽くす滅私であるとか、自分のことを忘れて利他に精進する忘己、薬や特殊な精神作用によって引き起こされる忘我の状態とは本質的に違います。
昔サラリーマンとして働いていた会社の社長から聞いた話をしてみたいと思うのですが、その社長は先の戦争中学徒出陣で戦地に趣く船中で爆撃に遭い、船は木っ端みじんとなり、百数十人もの兵とともに海に投げ出された経験をもつ方でした。そこは南洋のフカの出没する海域だったため、ふんどしを長く垂らし、流木に捕まり、喉が渇いても余計に乾きをかき立てる海水を飲むことも叶わず、食べる物もなく漂ったというのです。中には、元気を駆り立てるため軍歌を歌ったり、仲間の名前を呼ぶ人たちもあったというのですが、かえって体力を奪うので、社長は只静かに体力を温存することだけを考えたといいます。剛毅を装い歌を歌っていたような人から、チャポン、チャポンと海に沈んでいったということです。そうした状況で、他の人を助けよう、自分の命をなげうって他の者を救おうとすること自体が、命取りになります。
そうした生きるか死ぬかの極限の中では、ただ一人一人が己自身によって生き延びることだけが唯一残された道であったに違いないのです。その時、自分が、自分こそ、生き残りたい、助かりたい、称賛され たいなどという心が残っていたなら、体力を消耗し海底に沈むしかなかったのではないでしょうか。そんな思いも、計らう心も何もなくなって、最後にはそれこそ神様仏様にすべて運命をお預けするというような心境にいたったのではないかと思います。結局三日目の昼過ぎにやってきた味方の船に救助されたのはたったの三人だけだったといいます。
そういう極限の精神状態について思い巡らすとき、普通に日常生活を送る私たちが、自分という思い、つまり自我なく生きるというのはそう簡単なことではないと思われるのです。
人類として長い進化の過程で学んできたがゆえに、誰もが何かしなくては、忘れていることはないか、すべきことをしていないのではないか、したことも十分なものだったであろうかと、いつも追いかけられるようにして、不安の中に私たちは生きています。
そうした苦を感じつつ生きているのだということをまずは自覚する必要があるということです。その原因はといえば、自分という思いがあり、少なくとも周り同様にやっている、よくやっていると思われたい、生きていたいと思う心があります。
でも本当はそんな追い立てられるような苦を感じることもなく、他と比較することもせずにいつも楽に生きたい、満たされた心で過ごしたい、何があっても困ることなく、すぐにすべきことが解り、迷うこともないというように。そうした泰然自若(たいぜんじじやく)とした心を得たいものだと思います。
それをどのように実現するのかを説くのが仏教だということになります。そのためには教えを学び、かつ先ほどの話のような極限状態といわずとも、自らの心を研ぎ澄ます修養もやはり必要だということになります。
そして、そういう話をきちんと縁ある人々に理路整然と説かれたのがお釈迦様であり、そのもとには人々の心を癒したいという慈悲の心があり、それこそがお薬師様であるといえます。
どうか仏教の教えに関心を持って学んでいただけたら有難く存じます。またお参り下さいますのをお待ちいたしております。ありがとうございました。」 (全)
後生がいい生き方
Kさんの思い出
Kさんが亡くなられました。Kさんは、私たちがこの地にきてからずっと気遣って下さる方の一人でした。
こちらに来た年の三月に行われた涅槃会の稚児行列の際に、仁王門前で子供を抱いてくれて、その様子をたまたま撮った写真があり、古いアルバムから見つけて通夜の晩に棺の前に添えさせていただきました。
みんなの前でニコニコ笑われているのですが、ご本人にとってもその時のことがいつまでも心に刻まれていたようで、事あるごとにご家族にもよく話されていたと通夜の晩に伺いました。
年が明けてまもなくに、遠方に住むご子息様が下を向いて道を歩いてくるところに車で出くわしました。たいそう気持ちが沈んでいるご様子に、どうしたことかと思ったことを後から思い出したのですが、その頃にはお母さんの様子がよくなかったのであろうと思われます。
前の年の十月ころ一度病院で検査した後、かたくなに入院を拒否して自宅で療養を続けてこられたのだといいます。強い抗がん剤も高齢ということもあり拒絶され、ほかの治療も放棄されて、ただ痛み止めだけを飲んで、家にいたいとのご本人の意思をご家族も尊重されての自宅療養だったようです。
前年の十一月にお寺の懇話会の皆さん向けの研修旅行を予定していて、お盆にお会いした際にも元気そのものだったので、十年前にも同様の研修に参加されていたのでご案内したところ行きますとのことでした。
近くに住む娘様の車に乗って外出するのが楽しみで、元気にお過ごしのこととばかり思っていたのでしたが、いつまでたっても申し込みにやってこられないので、電話したところ検査入院してたんですとのことで、すぐに回復するものとばかり思っていましたが、結局その時の会話が最後になってしまいました。
その後、自宅におられ、時折近くの町医者で検診を受けるだけで、本当に苦しまれたのは一晩だけだったとのことでした。その晩も、ご家族が病院に行こうかと言ってもうんと言わず、本人の願い通りにその翌日ご自宅でお亡くなりになられたのでした。
平成十三年から毎月仏教懇話会と称して一時間ほど話をする会を開いているわけですが、開設当初から欠かさずに毎月近隣の懇意な人たちを誘い合わせてお越しになってくれていました。
別段面白くもない話を十年ばかり毎月一時間我慢して聞き続けてくださいました。
会館の二階で始めた懇話会も、その後客殿に場所を変えて行っていましたが、その時々の話題について私が話をし、皆さんに疑問やら感想をお尋ねするのですが、決まってみんなを笑わせるようなことをぼそっと言われては場を和ませてくださいました。
歴史小説がお好きでよく読まれていたということも枕経のあとに初めてお伺いしました。福山城博物館主催の歴史講座にも定期的に通われて、そちらのほうは先生が面白く楽しい話を聞かせてくれたようで、福山まで通うのを楽しみにされていたようです。
平成十八年の秋頃から「日本の古寺めぐりシリーズ」というバスツアーが組まれ、私が講師としてバスの中でお話をする旅行にも何度も参加くださったのでしたが、たまたまその歴史講座に参加されている顔見知りも同乗されたことがあり、親しく楽しそうに話されていたことを思い出します。
また、年末や法会前には檀家の皆様に呼び掛けて大掃除をしていますが、そんなときには必ずどこかで黙々と草を抜いてくださっていました。みんなと楽しそうに話をしながらということもありましたが、しゃがんで隠れるように一人でされていることもありました。そんなときにはお茶の時間に仲良しの中でにこやかに話をされていたように記憶しています。
飾ったところがなく、本当に自分の気持ちをそのまま表現される方でした。嘘偽りなく、素直に自分を生きられた方だったのだと思います。何の濁りもない心で周りの人たちと接し、周りの人たちを思いやり和ませ笑わせ寛がせる才能というか、技をお持ちでした。みんなから愛されてきたことと思います。いま思えば本当に後生のいい生き方をされてきたのではないかと思えます。
もちろん私などはKさんのごく一部のことしか知らない人間に過ぎないのかもしれませんが、知っていることだけでもまさにそう思え、見倣いたいものだと思っています。
つれづれに思い出を感謝とともにここに書き残しておきます。本当にお世話になりました、ありがとうございました。 (全)
四苦八苦を
やわらげるために③
死苦の迎え方
一般に仏教徒の戒である五戒(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒)、さらには十善(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不綺語・不悪口・不両舌・不慳貪・不瞋恚・不邪見)を心掛けるだけで良好な人間関係は築けると思います。
アメリカには救命士という制度があって、事故や災害などによって余命幾ばくもない人の所に駆けつけて、いろいろと終末のケアをする人たちがいます。ニューヨーク州の救急救命士マシュー・オライリー氏は、死の直前、人が最後に思うことには三つあるといわれています。
一つは、許しを請うこと。人にはみんな後悔することなどの一つ二つはあるものです。それらについて謝り許しを請う気持ちが沸いてくるというのです。
二つ目には、憶えていて欲しいという気持ち。誰にも忘れ去られていく寂しさ、悲しみがあるものですが、死に及んで死後も出来れば親しかった人、愛する人たち、誰かの心の中で生き続けていたいという思いです。
三つ目は、人生に意味があったと知りたいということ。自分の人生、一生が無意味なものではなかった、しっかり生きてきた、みんなのために役に立つ、立派な、よい人生だったと知りたいのだというのです。
何十年も生きてきたら後悔することがいくつかあるのが普通なのかもしれません。しかし後悔するのも煩悩の一つと数えるのが仏教です。過去を回想し、過ちや失敗を思い出しては悔いるというのは良いことではない、それは今も過ちを繰り返していることになると考えるのです。今の自分はその時の自分ではないのですから、今すべきことについて、自らの心にまた周りの人たちに恥じない行いをすればよいと教えられています。そうして過去は今生きている自分を向上させるため、心を成長させるためにあると考えたらよいということです。
そして、良好な円満な人間関係を心掛けつつ、安心してその時を迎えたいものです。さらには、最期の時にあたって、自分の人生について回想し、それがとても意味あるものであったと満足して感謝の気持ちでその時を迎えたいものです。そのためにも、日頃からそんなことを一人静かに考えることも死苦に対処するために必要なことかもしれません。
残りの四つの苦しみに対処する
ここまで、四苦について思い当たることを述べてみました。次に、残りの四つの苦しみについても思いつくことを述べてみたいと思います。
まず、求不得苦(ぐふとつく)は、不死を求めてももちろん得られないわけですが、そのほかにも、情報過多の世の中で、情報にふりまわされて、必要ないにもかかわらず、周りと比較したりして自分にないもの、持たざるものを求めて余計に苦しみを作り出してしまいがちです。逆に、自分にあるもの、持てるものに目を向けてみれば、新たな価値を見出すことができ、求めるということ自体から開放されるのではないかと思います。
次に、怨憎会苦(おんぞうえく)、愛別離苦(あいべつりく)については、すべての出会いに因縁があり、それも無常であることをまずは知るべきではないかと思います。永遠なるものはないことを思い、嫌いな相手もいずれは去るものであり、愛する者もいずれは離れゆくものと心得てみてはいかがでしょうか。
かつてあれほど苦手で嫌いだった人が、いつの間にか自分を守ってくれる身近な存在として感じられる人であったと気づかされることもあるものです。好きな相手も自分を束縛し、依存し負担になってしまっている自分に気づくこともあります。その関係も時間の経過とともに愛憎が変化するのを冷静に観察しつつあれば、いざという時の苦しみも軽減されるのではないかと思われます。
最後に、五取蘊苦(ごしゆうんく)については、執着をもって生きることがそのまま苦であるとする仏教の教えを学び実践することこそがこの苦に対処することにはなるのだと思います。
眼耳鼻舌身意(げんにびぜつしんい)の五官と心に入るものに欲を掻き立てられ翻弄されないよう、余計なものを見ない聞かない嗅がない味あわない触らない考えないに尽きるのですが、入るものを遮断することも必要でしょうし、入っても自分のこととせず、そのまま流してしまう習慣を身につけることも必要でしょう。そして、その実践の中でも少欲知足が最も苦をやわらげる基本的な生活態度であると自覚することが大切ではないかと思います。
以上、四苦八苦について、いかに対処すべきか、少しでもその苦をやわらげるにはどのように生きたらよいのかと思いめぐらしてみました。必ず訪れる四苦八苦ではありますが、ここに挙げたことなどを参考に、御自分なりの対処法をご考案いただければありがたく存じます。 (全)
【國分寺通信】 祝・大師堂再建
○令和六年度御涅槃営繕事業としてこの度大師堂が再建されました。昨年十一月初旬より旧大師堂休み堂の解体が始まり、基礎工事に入る十二日に鎮壇具を地面下に埋納する土公供を執り行いました。そして十二月十九日上棟式を執行し翌日より今年二月八日までに木工事、瓦銅板など屋根工事を終え、その後左官工事電気工事などが施され、三月末見事落成を迎えることができました。涅槃会寄付をこの五年にわたり繋いで下さいました檀信徒の皆様に心より御礼を申し上げます。なお、大本山大覚寺から、この度の新堂建設にかかる設計をはじめ施工のすべてにわたり監督指導にあたられた武村住建代表取締役武村俊治氏に、当山伽藍維持における長年の功績に対し褒賞状が授与されておりますことをご報告し、この場を借りて改めて御礼を申し上げます。
○来年は御涅槃です。そして、ご本尊薬師如来の御開帳を予定しています。平成六年本堂再建三百年祭で御開帳してはや三十年。世代も変わり多くの檀信徒から御開帳はいつですかと問われてきました。前回から丁度三十年の節目となりますので、この機会にぜひお姿を拝見して信仰を新たにしていただけますようご案内申し上げます。恒例の稚児行列も予定しておりますので、たくさんの御稚児さんにご参加いただけますようお声がけをお願い申し上げます。
○一ページに掲載した弘法大師像の写真は、一昨年十一月の福山市文化振興課の皆様による美術工芸品実態調査時に徳島文理大学濱田宣教授に撮影いただいたものです。
◎ 薬師護摩供 毎月二十一日午前八時~九時
◎ 坐禅会 毎月第一土曜日午後三時~五時
◎ 理趣経読誦会 毎月第二金曜日午後二時~三時
◎ 仏教懇話会 毎月第二金曜日午後三時~四時
◎ 御詠歌講習会 毎月第四土曜日午後三時~四時
●毎月二十一日は作務の日です。(午前中のお越しになれる時間自主的に境内などの清掃作業をしています。)
●ブログ「住職のひとりごと」https://blog.goo.ne.jp/zen9you
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