住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

四国遍路行記-29

2012年10月29日 13時25分44秒 | 四国歩き遍路行記
栄福寺から次の五十八番仙遊寺までは2.4キロ。すぐだと思うとなかなか目的地が見えてこないものだ。この時にも、すぐ前に見えそうな気がするのだが、お寺らしきものは視界になかった。南に向いて遍路道を歩いていくと、間もなく、犬塚池があって小さな社が祀られていた。池の右側を通って進むとその先に小高い土手があり、その先に山が見えてくる。遍路道の矢印はその山を上がれとある。

平坦な道がしばらく続いていたので久しぶりの山道だった。そんなに上に登ってきたわけでもないのに遮るものがないからか、坂道の途中できれいに今治の市街が見渡せた。頂上付近に来るとお堂が姿を現す。手前に本堂、その先に小さなお堂があってその奥に大師堂。作礼山という300メートルの山の頂にある仙遊寺は、天智天皇の勅願寺だという。

本尊は千手観音。天智天皇の守護仏と伝えられている。やや暗い本堂に足を踏み入れ理趣経一巻。唱えていたら、本堂の奥にこちらを向いて阿字観本尊が置かれていた。阿字観とは、真言密教の瞑想法で、阿という石塔の頭に書かれる梵字のアを見て心に映像化しそれを宇宙大に拡大させたり縮めて胸の中に納めたりする。高野山で阿字観瞑想の課外授業を受けていたこともあり、また、住まいにも阿字観本尊を置いていたこともあって、唱えている間中、阿字本尊を何度も眺めた。

寺号については、阿坊仙人という行者が40年間も参籠し、ある時仙人の遊ぶ姿が雲とともに消えてしまったと言われ、それ故に仙遊寺と名付けられたという。平安初期に荒廃していた伽藍を弘法大師が再興して栄えたと言うが、昭和22年に山火事で本堂焼失。同28年に二層の破風の付いた本堂が昔のままに再建された。なかなか札所でなければ参れそうもないところにあり、仁王門から上に揚がろうとすると、鎖の付いた急斜面を這い上がるような道があり、仙人の修行場としての面影をとどめている。

広いとは言えない境内を一巡して、来た坂道を下る。五十九番国分寺まで約六キロ。平地にかえって東に一路進むと国道に出た。その国道を今度は右に曲がって三十分ほども歩くと、道沿いにお地蔵さん方が増えくる。左側に国分寺の参道があり、礎石がゴロゴロした国分寺旧跡が見えてきた。一段上の境内には四国の札所らくし正面に立派な本堂と右に火煙如意宝珠を宝形造りの屋根にのせた大師堂があった。

本堂も大師堂も夕刻せまっていたからか閉まっていた。ありがたいことに本堂と大師堂の間に欄干に作り付けた椅子があった。一目散に歩いてきたので椅子に腰掛け、お経を唱えた。本尊薬師如来。行基作の本尊がかつて安置されていたと言われ、百メートルほど東側に位置していたという奈良時代の七堂伽藍には巨大な円形の礎石などが残り国指定の史跡となっていた。源平の合戦でも焼失したとされ、何度か衰退と復興を繰り返してきた。現在の伽藍は寛政年間に再興されたという。

大師堂のお詣りも済ませると、暗くなってきた。玄関にお訪ねして一夜の宿をと頼んでみたものの、お堂の縁でやってくれとすげなく断られた。とぼとぼと国道に引き返し、先に歩を進めてみたものの足に元気がない。それでも20分ほど進むと法華寺が見えてきた。同じ口上を述べてみると、若いご住職が「よくお詣り下さいました」と中に案内して下さった。夕飯は、お風呂はと、さらに布団に乾燥機まで差し込んで下さって、申し訳ないほどのお接待を受けてしまった。夕食は途中買い込んでいたので、それを食べてお風呂をいただき、早々に日記を書いて寝込んだ。

翌朝、住職が弘法大師の修法をなされているので、お経を上げさせていただいた。行法途中に外へ出て、庫裏におられた方へお礼を述べた。外は冷たい雨だった。国道沿いの歩道を歩く。次の六十番横峰寺までは二十七キロもある。先が見えないまま、草鞋に冷たい水がしみる。お腹が鳴る。九時過ぎにやっと道沿いに小さなマーケットがあり、何かご飯ものはと問うと手巻き寿司をお接待下さった。お店の電気ストーブに身体を温めながらお寿司を食べた。

お昼近くになると雨は止み、歩くのに丁度良い薄曇りの中一路横峰へ。途中遍路道沿いの西条市楠というところに道安寺というお寺の看板が目に入った。急に真言密教学の碩学三井英光師の自坊に違いないと閃いた。三井先生は新潟のご出身だが、東予市の神宮寺に住職され、高野山の伽藍、奥の院の維那を歴任された。いまは、こちらを隠居寺にしていると聞いていた。おそるおそる玄関にいたりチャイムを押すと、どうぞと本堂に案内された。

少し待っていると小柄だが肉付きのよい三井先生が現れた。当時九十歳になろうかというご高齢であった。拝むように挨拶をさせていただき、いきさつを話すと気安くいろいろとお話し下さった。その時その時を一生懸命に生きてきた、拝んでこられたという風格が感じられた。真言は意味を取った上での真言でなくてはいけない、阿字観はアになり切らねばならない、など心に響くお言葉を頂戴した。気がつくと一時間半も経っていた。帰り際に二冊の本を頂戴した。

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『傷ついた日本人へ』を読んで

2012年10月05日 16時03分18秒 | 仏教に関する様々なお話
新潮新書ダライ・ラマ14世『傷ついた日本人へ』(本年4月20日刊)を読んだ。東日本大震災後に何度か日本を訪問され講演された内容の収録だが、それは単なるお悔やみや励ましではなく、ただただシンプルな仏教論であった。平易な表現ながら素直に納得できる。おっしゃりたいことは、仏教の基本を学べということであろう。

読みながら傍線を引いた重要箇所を抜き書きする。ダライラマ法王が言いたかったことは、繰り返しになるが、「日本人よ、仏教を学べ、さすれば怖れることは悲しむことはないではないか、ただ奮起せよ、努力せよ、よきことをなせ、自ずから救われよう、ということであろう。



『日本人は、日々仏教に慣れ親しんでいると思います。でも、その割に、仏教が何であるか、どんな教えかを知らない人が多い。

せっかく仏教と縁があったのに、とてももったいないことです。

宗教を学ぶことは、自分の人生を見定めることなのです。

自分の宗教だけが正しいと信じたり、他の宗教をバカにしたりすることも、まったく無意味なことです。

宗教を持たないと、精神を高めたり平和を願ったりという精神活動が疎かになりがちです。また、生きていくための指標や基準も見失いがち。そのままだととても貧しく寂しい人間になってしまうでしょう。

たとえば、宇宙はどうして生まれたのか、意識とはどのようなものか、生命とは何か、時間はどのように流れているかなど、仏教と科学には共通したテーマがとても多いのです。しかも、それらは現代の科学をもってしても、説き明かされてはいません。

瞑想ばかりして勉強を疎かにしている僧侶が多い。また、日本ではよく禅を組む修行が行われていますが、ただ座っているだけの人が多い。知識のないまま瞑想をしても意味はなく、悟りに近づくことすらできません。きちんとした勉強と瞑想があわさって初めて価値があるのです。

仏像も僧侶もあなたを救ってくれるわけではありません。あなた自身が自分の心と向き合わなくてはならない。自分の苦悩を取り除いて心の平和を得るには、自分で仏教の教えを学び、実践し、煩悩を減らす以外に方法はありません。

仏教では、死後も意識は消失せず、他の生命の意識として生まれ変わるものと考えています。これを仏教では輪廻と呼びます。意識はこうして前世から現世へ、そして現世から来世へ、連続して持続していくと考えられています。意識は何かから生み出されたわけでも、突然消失するわけでもなく、始まりも終わりもなく、常に存在し引き継がれるものなのです。

仏教が一神教であれば、科学とこのように融合することは出来ないでしょう。唯一絶対の神がこの世界を作ったという教義があり、それを疑うことは許されないからです。それは論理を超越した観念なのです。

論理と検証の結果、仏教が導き出したのが因果の法則です。

自分自身の存在も含め、この世界のあらゆる事象が、はるか昔から続く連続性の中にあり、因果の法則によって関係し合っているのです。

因果の法則には三つのルールがあります。
第一のルールは、因がないところに果は生じない。
第二のルールは、不変から果は生じない。
第三のルールは、因には果を生み出す素質がある。

果は同じ性質の因によって引き起こされます。よい因はよい果を引き起こし、悪い因は悪い果を引き起こします。

行為の影響、行為の持っていた力というのは、そのまま自分にも残り続けるのです。これを仏教ではカルマ・業と言います。その行為にこめられた力、はたらき、性質、そういったものを指して使うのです。

カルマは、いずれ自分の身に必ず結果を生み出します。

結局自分に起こることは、過去の自分がした行為の結果ということです。これを因果応報と言います。

因果に影響を与える条件や要素のことを縁といい、因と縁がそろったときに初めて結果が生じることを縁起といいます。

しくみのありようは複雑でも、因果やカルマの原理原則は変わりません。

一度してしまった行為は、決して取り消すことはできません。同じように一度背負ってしまったカルマが、勝手に消えることはありません。その人に深く根付き、積み重なっていきます。そして来るべきときに同じ性質の結果を生み出す力となるのです。要素や状況が整いさえすれば、必ず結果が生じます。

因果の法則やカルマの影響は、死後も変わることがありません。輪廻はこれを反映した考え方なのです。

私たちは日々生きていく中で、多かれ少なかれ悪い行いをしてしまうものです。そうやってたまった悪いカルマは、一体どうすればいいのでしょうか。その答えは、少しでもよい行いをしてよいカルマの力を増やすようにするしかありません。よいカルマが増えれば、それによってよい出来事が引き起こされ、悪い出来事が起こる条件を遠ざけるようになります。

(震災・津波・原発事故など)強大でめったに発生しない出来事は、個人のカルマで引き起こされるレベルではなく、社会全体としてのカルマ、世界共通のカルマのレベルの出来事です。

はるか何世代も前から積み重なっていたものでもあります。そう考えれば人類全体の因果応報といえます。たとえば、自然を破壊し、コントロールしようとしたことが影響しているのかもしれないし、物質的に豊かな生活を求めすぎたことが影響しているのかもしれない。

(先の戦争から)こうして復活を遂げた日本の皆さんですから、今回も同じように復興を遂げ、さらによい国づくりをなさる力がある、そう私は信じています。日本人は大変勤勉な国民性と強い精神力を持っているのです。

この事実に悲しんだり、怒ったりし続けるのではなく、この苦難を必ず乗り越えようという意志に変えていって下さい。』


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中国新聞10月1日付『洗心』

2012年10月01日 07時34分17秒 | 様々な出来事について
本日の中国新聞に掲載されました。取材して下さった、総合編集本部文化部伊東雅之記者に感謝申し上げます。




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