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吉野と飛鳥の古刹巡り2-日本の古寺めぐりシリーズ番外編

2012年06月06日 17時32分45秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
これより少し前の時代に遡って当時の国際情勢から話を始める。日本が百済と連合して唐新羅連合軍に負けた白村江の戦いが西暦663年である。当時唐は強大化して次々に国土を拡げていた。敗れた天智天皇は、唐を敵に回しその侵攻におびえて山城を造るなど防備体勢を整えていった。高句麗はその後連合軍に滅ぼされてしまう。すると、半島は新羅だけとなり、新羅は唐と対立関係となり抵抗運動を始めた。

そうなると、日本としたら新羅と友好し、唐の日本侵攻を防ぐ必要があった。しかし、その機にあたって唐は日本との同盟を望んだ。そして、滅亡した百済から渡来した有力者たちを登用した天智天皇は新羅を敵視し、唐との同盟を考えた。しかし、その異父兄で実力者だった大海人皇子は、それでは新羅なきあと唐に日本は侵攻され尽くしてしまうと考えて、新羅との同盟を選んだ。そしてそのことが壬申の乱(672)にいたる伏線となり天智天皇が不慮の死を遂げ大友皇子は自害して天武天皇が誕生していく。このくだりについては『逆説の日本史2』井沢元彦著に詳しく語られている。

そして、この壬申の乱に至る時期に大海人皇子はこの地吉野に来たって、土地のおびと井氏(井角乗)と会い、また、井氏の師であった役行者とも遭っている。日本書紀には天武天皇は、「雄々しくたけく天文遁甲を能くしたまえり」とあるという。遁甲とは忍法であり、身を隠す術と註があるという。その力をいかにして体得するに至ったのか、それこそがこの大峯山系・吉野での山林修行であったと言えようか。

天智十年(671)金峯山寺蔵王堂の南に位置する日雄寺(今の大日寺)の庭で、大海人皇子が琴を奏でていると、羽衣(唐玉緒)を纏った天女が現れ、袖を振りながら五色の雲に乗って山高く舞い上がったと言われ、この時皇子が詠んだ歌が「おとめごが おとめさびしも 唐玉緒 たもとにまきて おとめさびしも」(日雄寺継統記)だという。そして見事その時の戦勝祈願が通じて壬申の乱に勝ち残り、飛鳥の浄御原で673年即位。

(Wikipediaより転載)
飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや、あすかきよみがはらのみや)は、7世紀後半の天皇である天武天皇と持統天皇の2代が営んだ宮。奈良県明日香村飛鳥に伝承地があるが、近年の発掘成果により同村、岡の伝飛鳥板蓋宮跡にあったと考えられるようになっている。(転載終わり)

そして、親政が落ち着きを見せた頃、全国社寺修築令を発せられ、この地にあっては、壺中天琵琶山、今の天川村坪内に堂宇を建てて弥山山頂に祀る金精明神が化生したとされる天女を麓に移し大神殿を造営して吉野の総社としたという。天武九年(680)のことであった。と同じ頃、大峯山系の入り口になる金峯山に蔵王権現を称える蔵王堂が建立される。こうして水銀朱丹文化の風土の地であり、その他にも貴重な資源金銀鉄などの原鉱石を奥吉野一帯に求めつつ、神仏を両だてにした信仰を育む土地として一国家として誠に重要な位置を占めていたと言えよう。

そして、南北朝時代には南朝宮が置かれたところでもある。今の吉水神社はもと僧坊であったが、後醍醐天皇が朝廷を開かれ南朝皇居となった。その時沢山の密教僧が随順しており、護持僧だった弘真はじめ、弟君大覚寺門跡性円、醍醐寺顕円、実助などが吉野に参じて住している。吉水神社には今も当時の玉座が残され、後醍醐天皇を祀る。後醍醐天皇の陵は如意輪寺にあり、また吉野神社も後醍醐天皇を祭神とする。

また天河は南朝最後の後亀山天皇が最後まで留まった地であり、天河社には御所が置かれ南朝最後の砦であった。後醍醐天皇、護良親王、後村上天皇、長慶ちょうけい天皇、後亀山天皇を養護しこの天河郷は南朝奥吉野の拠点であった。南北朝の講話へ行幸されるにあたっては天川村から京都大覚寺へと向かわれたという。その時お供は、延臣十七名、侍十六名、郷士十名というわびしい限りだったと言われる。



天河弁財天
(天河大弁財天社ホームページから転載)http://www.tenkawa-jinja.or.jp/top/index.html

 多門院日記に、「天川開山ハ役行者-マエ立チノ天女ハ高野大清層都コレヲ作ラシメ給フ」というのがあります。これは室町期の傑僧多門院英俊の天河詣での記録です。天河大辨財天社の草創は、この日記のような飛鳥時代の昔に さかのぼります。龍、水分(みくまり)の信仰で代表され古代民族信仰の発祥地とされる霊山大峯の開山が役行者によってなされたことは 周知のことです。

その折大峯蔵王権現に先立って勧請され、最高峰弥山の鎮守として祀られたのが天河大辨財天の創まりです。その後、うまし国吉野をこよなくめでられた天武天皇の御英断によって壺中天の故事にしたがい現在地、坪の内に社宇が建立され、ついで吉野総社(吉野町史)としての社各も確立しました。

更に弘仁年中、弘法大師の参籠も伝えられます。高野山の開山に先立って大師が大峯で修行された話しはすでに明らかですが修行中最大の行場が天河社であったのです。天河社には大師が唐から持ち帰られた密教法具「五テン鈴」や、さきの多門院日記で紹介された「大師筆小法花経」、又真言密教の真髄、両部習合を現す「あ字観碑」など弘法大師にまつわる遺品が千二百年の星霜を越えてなお厳かに我々の心を魅了します。冒頭で多門院英俊の言う「高野大清層都」とは弘法大師のことなのです。

天河大辨財天社の由緒の中で、天河社が「大峯第一、本朝無双、聖護院、三宝院両御門跡御行所」(天河社旧記)であったことを見おとすことは出来ません。通常准三后宣下を受けられた宮家が門跡就任を奉告するための入峯は宗門にとって最も重要大切の行事とされ、江戸期将軍の参内に匹敵する権勢と格式をもっていました。この門跡入峯にあたっての必修行程に門跡の天河社参籠がありました。

このことは遠くその昔役の行者や空海の縁跡を慕い、その法脈を受けついだ増誉、聖宝解脱など効験のきこえ高い、大変偉い上人たちが峯中苦行をなしとげ天河社求聞持堂に参籠されました。そして峯中の大秘法「柱源神法(はしらのもとのかみののり)」にもとづく修法の数々が確立されたのです。 まさにその一瞬天河社縁起に言う「日輪天女降臨の太柱が立つ」といわれます。これが門跡参籠修行の謂です。文化元年七月十六日三宝院高演によって修せられた「八字文殊法」などはまさしく門跡参籠修帰依の史実を裏書するものです。

又琵琶山の底つ磐根に立ちませる神と従神十五の督のことが修験の著名な文献「日本正法伝」天河祭祀のくだりに日本辨財天勧請の創めとして掲載されています。これは天河大辨財天が本邦弁才天の覚母であるということなのです。そしてその加持法力は広大無辺十五の督によってことごとく伝えられ、信心帰依の善男、善女へ授けられる福寿のこと夢疑うなかれとされています。

五十鈴(いすず)は、天河大辨財天に古来より伝わる独自の神器で、天照大御神が天岩屋戸にこもられたとき、天宇受売命(あめのうずめのみこと)が、ちまきの矛(神代鈴をつけた矛)をもって、岩屋戸の前にて舞を舞われ、神の御神力と御稜威をこい願われたことによって、岩屋戸が開かれ、天地とともに明るく照りかがやいたという伝承に登場する、天宇受売命が使用した神代鈴と同様のものであると伝えられています。

特に芸能の世界にいあっては天宇受売命にあやかって、殊の外御精進あそばされる方々(俳優、舞踊、歌手、ラジオ、テレビタレントなど)は、同床共殿のあり方と精神にてこれを奉載され、この三魂(みむすび)の調和統一に意を用いられ、芸能技芸練達の器教とされますことを切に祈るものであります。この五十鈴の特徴的な三つの球形の鈴は、それぞれ、●「いくむすび」●「たるむすび」●「たまめむすび」という魂の進化にとって重要な三つの魂の状態(みむすびの精神)をあらわしています。

この五十鈴の清流のような妙なる音の響きによって、心身は深く清められ、魂が調和し本来あるべき状態に戻り、新たな活力が湧いてきます。特に芸術・芸能の世界で精進される方々(俳優、舞踊、歌手、ラジオ、テレビタレントなど)が、天宇受売命の故事にあやかり、これを奉載され、この三魂(みむすび)の調和統一に意を用いられ、芸能技芸練達の器教とされております。

天河社と能。天河社に能面・能装束多数が現存します。いづれも桃山文化財の逸品として世に知られ、過日アメリカメトロポリタン美術館で催された「日本桃山美術展」へも、数点が出品され国際的にも人々の人気を集めました。能面三十一面、能装束三十点外に小道具、能楽謡本関係文書多数は室町から桃山、江戸初期にかけ我が国の能楽草創期から成熟期にかけてのものばかりで能楽史上稀有のものとして文化的価値のきわめて高いものです。

そのうちの一、二を紹介しましと能楽の創始者世阿弥も使上したと思われる、「阿古父尉」を始め、江戸初期面打ちの第一人者山崎兵衛が打った猩々面、長谷寺所蔵のものと一対になっているといわれる「三番隻」・「黒色尉」又能装束には文禄三年三月豊太閤が奉納したといわれる絢爛豪華な唐織などがあります。これは、天河社が能楽の発祥の頃より深く関わってきた、芸能の守り本尊であることの証といえましょう。

(転載終わり)




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吉野と飛鳥の古刹巡り-日本の古寺めぐりシリーズ番外編

2012年06月05日 20時10分32秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
今月28、29と吉野と飛鳥にお参りする。番外編も6年目を迎えると行くところの選別に窮する。なかなか名案が浮かばす、とうとう神社、神社と言っても天河弁財天に参ろうということになった。弁財天は元々インドの神、サラスワティである。河の神であり、智慧弁才の学問の神。それが日本に来るとなぜか銭の神となって、弁財天。そして、天河と言えば大峯、そして吉野。日本の信仰の原点に参る旅となって飛鳥にも行く。楽しみである。

そもそものこの地の起こりから話を始めよう。太古、日本の草創にたち戻って、紀元前660年、神武天皇は日向の地から北上して宇佐に出て、それから安芸、吉備を経て、大和に入ろうとすると抵抗に遭い、それから熊野に迂回して、まさに大峯奥掛け道を八咫烏(やたがらす)に先導されて北上されたのではないか。そして吉野から飛鳥、奈良に出て長髄彦(ながすねひこ)を滅ぼし、東征から6年目で橿原の地に宮を築いて即位する。それが天皇の始まりであって、日本の建国(2月11日)ということになっている。

つまり日本の国の始まりがこの地を北上することによってなされたということであろうか。応神天皇、雄略天皇はこの吉野の地に狩猟に来られていたと日本書紀にあり、また欽明天皇14年(553)には早くも吉野寺(比蘇寺)本尊の阿弥陀像が光を放つという伝承が書かれており、かなり早くに神社やお寺があり、また吉野宮と言われる離宮があったとされている。すこし後のことではあるが奈良時代の初めに僧尼令ができて、僧侶が山岳修行を願い出て許可されて向かった先がこの比蘇寺であったという。そこでは虚空蔵求聞持法が修されたという。

離宮・吉野宮への行幸は、応神天皇、雄略天皇の時代にもあったと古事記にはあるというが、造営されたのは斉明天皇2年(656)という。その地は吉野川の北に位置し、吉野町宮滝にある宮滝遺跡であるとされ、この地は中央構造線上にあり、水銀鉱脈が豊富なところでもあった。

古代においては、水銀や辰砂(鮮血色をしている)はその特性や外見から不死の薬として珍重されたという。特に中国の皇帝に愛用され、不老不死の薬、「仙丹」の原料と信じられていた。それが日本に伝わり飛鳥時代の持統天皇も若さと美しさを保つために飲んでいたとされる。この地吉野郡には水銀を精錬する風炉のある土地であったことを示すフロのつく地名が沢山ある。フロヤシキ、フロマエ、フロウエ、フロナワテ、など。水銀精錬に関わる土地であったとされ、丹生川流域は古来水銀文化発祥と言われる。

東大寺大仏鋳造にあたって使用された水銀の量は金の五倍といわれ、金メッキは金アマルガム(水銀と他の金属との合金の総称)を大仏に塗った後、加熱して水銀を蒸発させることにより行われた。一説には、この際起こった水銀汚染が平城京から長岡京への遷都の契機となったという。だから当時水銀はかなりの需要があったらしい。丹砂(たんしゃ、水銀を取る原料、辰砂しんさ、朱砂しゅさともいう)、赤埴を原料として水銀を吹き分け、水銀、朱などの赤色顔料、黒鉛、ベンガラと呼ばれる鉛朱などが精錬された。

(原田 実の幻想研究室―私の研究室にようこそ―より転載)
http://www8.ocn.ne.jp/~douji/kaguyahime4.htm

丹砂とは、硫化水銀のことです。粉末の硫化水銀は鮮やかな朱色で染料にも用いられますが、簡単な操作で銀白色に輝く金属水銀にも、赤い酸化水銀にも、黒色の硫化水銀にも白い結晶の硫化第二水銀にもなるということで、変幻自在の仙人になる薬にふさわしいと思われたようです。また、純度の高い金を作るには、いったん水銀で溶かすアマルガム法が有効だということもあり、丹砂と金はセットで仙薬の原料によく用いられました。(中略)

中国神仙道の錬丹術は錬金術でもありました。神仙を志す道士は仙薬に必要な金を作り出す技術を誇っていましたし、それが不老不死ばかりではなく、富としての黄金を求めるスポンサーを釣るための宣伝にもなっていたのです。西洋中世の錬金術でも、金以外の金属を金に変成させるという「賢者の石」は人間をも不死にする力があると信じられていました。二〇〇一年度の大ヒット映画『ハリー・ポッターと賢者の石』もこの「賢者の石」による肉体変容を隠れたテーマとするものです。

ただし、錬金術としての神仙道では、この「賢者の石」にあたるものとして、丹砂を用い、さらにその作用で生まれた黄金までを薬として服するわけです。日本列島には水銀鉱脈が多く、古くは魏志倭人伝の時代から平安時代末まで中国に丹砂を輸出していました。ところが時代が下るにつれて生産が減り、江戸時代には水銀加工技術そのものが途絶えてしまいました。これは鉱脈が尽きたわけではなく、水銀の加工技術が宗教的・呪術的な秘伝だったために武家政権の宗教統制で技術伝授が困難になったためと思われます。

丹砂の鉱脈を探し、それを加工して金属水銀や丹薬に変える技術は日本では修験者の間に伝えられていました。いわば修験道は日本化した神仙道でもあったのです(内藤正敏『ミイラ信仰の研究』大和書房、一九七四、松田寿男『古代の朱』学生社、一九七五、若尾五雄『鬼伝承の研究』大和書房、一九八一)。水銀鉱脈を探す人々は、見つけた鉱脈に水銀の女神であるニウヅヒメを祭り(ニホツヒメ、ミホツヒメ、ミヅハノメの名で祭られることもある)、あるいは「丹」にちなんだ地名を残しました。

丹波の国名もまた無関係ではなく、京都府竹野郡丹後町岩木にはミヅハノメを祭る丹生神社が鎮座ましましています。また、亀岡市にある丹波一ノ宮「元出雲」出雲大神宮の主祭神はミホツヒメです。薬方をつかさどる丹波家がこの地方に居を構えたのも薬の原料としての丹砂の有用性と無関係ではないでしょう。(中略)

水銀の無機化合物をごく微量、正しく使えば殺菌や新陳代謝促進といった薬効が期待できます。年配の方には懐かしい消毒剤の赤チンキはその代表でした。しかし、水銀化合物は毒性が強い危険な物質でもあります。だからこそ、現在では赤チンキの製造・使用は禁じられているのです。
丹砂から作った薬を大量に服用していれば、やがては幻覚が見えるようになります。

神仙道の伝承には丹薬を用いて、神仙の飛来を迎えられるようになった道士がしばしば出てきますが、それは水銀中毒による幻覚だった可能性大です。また、食事から五穀を絶って、丹薬を飲み続けていれば、水銀化合物の防腐・殺菌作用で死後、その遺体が腐りにくくなります。神仙道では、死後も遺体が腐らなかった人は屍解仙、すなわち仙人になったとして尊ばれました。また、日本の修験道における即身仏でも、丹薬を服して、あらかじめミイラになりやすい体質にしていたと思しき例があります(内藤正敏・松岡正剛『古代金属国家論』工作舎、一九八〇、内藤『ミイラ信仰の研究』前掲)。

しかし、体質が変わるほど、丹薬を飲み続けるということは、水銀中毒による緩慢な自殺であり、その症状は苦しいものだったことが推定されます。しかも、中国では歴史上多くの権力者が不死を望んで丹薬を服していました。中国史にしばしば現れる暴君・昏君の蛮行・愚行には、水銀中毒の結果によるものも含まれていたことでしょう。ところが日本では、天武天皇のように丹砂の呪力を祭祀に用いようとした天皇・皇族はおられたものの仙薬として服することはありませんでした。天武天皇は晩年、延命のための薬を求めたと『日本書紀』にありますが、それは植物性のオケラ(キク科の多年草)で丹薬ではなかったのです。

(転載終わり)

高野山開創にあたっては、弘法大師も丹生都比売を祀り、丹生都比売神社が今も残る。

そしてこの宮滝の離宮からは、大峯山系の円錐形をした青根ヶ峰が望むことができ、それこそは水分(みくまり)山という四方に川が流れ出す水源信仰の地であり、その中腹には元の吉野水分(みくまり)神社が鎮座し、斉明天皇から聖武天皇に至る歴代天皇が全国土の風雨順時五穀豊穣を祈願したところなのであった。

そして特別この地が信仰の地となるのには、勿論この地が古くから神仙境として思われていたからであり、吉野行幸に同行した官人の漢詩『懐風藻』に多くの作品が残されている。神仙の住処として崇められた地へ分け入り修行する人たちのことを験力を修めた者として修験者、また山に伏して修行することから山伏と言われた。

熊野から吉野にかけての大峯山、羽黒山から湯殿山にかけての出羽三山、英彦山、葛城山、日光山、富士山など多くの霊場が今に至る。それら修験道の開祖と仰がれるのが役行者、役小角である。今の奈良県御所市茅原村に七世紀に生誕し、30年にわたり山に入って藤皮の衣を着て松葉を食し花の汁を吸って孔雀明王の呪を誦して山野を跋渉して大験自在となって鬼神を使役したという。今も「南無神変大菩薩」と唱えられるように、摩訶不思議な超能力を身につけておられたのであろう。

諸国の神を使い、葛城山と金峯山に橋を架けようとして、葛城山の一言主神が夜しか働かないことを諫めると役行者が天皇を退けようとしていると讒言され、役行者は伊豆に流される。その間夜は富士山に行って修行していたところ、いざ処刑というときに、富士明神による『行者は賢聖である』との表文が処刑人の剣に現れて赦され、その後唐に渡り、法相宗の道昭が唐に渡り法華経を山寺で講じていると現れて、「三年に一度は日本に行って金峯山葛城山富士山に登拝している」と語ったと言われる。

役行者が吉野で感得した神が蔵王権現であり、金峯山に祀られていることは有名であるが、それよりも前に霊峰大峯山を開山し、真っ先に祈り出されたのが天女・大峯の地主神である金精明神(天河弁財天)であるという。役行者は、我が国の能化として山王蔵王権現を、そして、地鎮として地主神金精明神を祀り、大峯信仰を貫く二本柱として一山の信仰を確立したのであった。

そうしてその頃この地を訪れるのが後の天武天皇・大海人皇子であった。


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