これより少し前の時代に遡って当時の国際情勢から話を始める。日本が百済と連合して唐新羅連合軍に負けた白村江の戦いが西暦663年である。当時唐は強大化して次々に国土を拡げていた。敗れた天智天皇は、唐を敵に回しその侵攻におびえて山城を造るなど防備体勢を整えていった。高句麗はその後連合軍に滅ぼされてしまう。すると、半島は新羅だけとなり、新羅は唐と対立関係となり抵抗運動を始めた。
そうなると、日本としたら新羅と友好し、唐の日本侵攻を防ぐ必要があった。しかし、その機にあたって唐は日本との同盟を望んだ。そして、滅亡した百済から渡来した有力者たちを登用した天智天皇は新羅を敵視し、唐との同盟を考えた。しかし、その異父兄で実力者だった大海人皇子は、それでは新羅なきあと唐に日本は侵攻され尽くしてしまうと考えて、新羅との同盟を選んだ。そしてそのことが壬申の乱(672)にいたる伏線となり天智天皇が不慮の死を遂げ大友皇子は自害して天武天皇が誕生していく。このくだりについては『逆説の日本史2』井沢元彦著に詳しく語られている。
そして、この壬申の乱に至る時期に大海人皇子はこの地吉野に来たって、土地のおびと井氏(井角乗)と会い、また、井氏の師であった役行者とも遭っている。日本書紀には天武天皇は、「雄々しくたけく天文遁甲を能くしたまえり」とあるという。遁甲とは忍法であり、身を隠す術と註があるという。その力をいかにして体得するに至ったのか、それこそがこの大峯山系・吉野での山林修行であったと言えようか。
天智十年(671)金峯山寺蔵王堂の南に位置する日雄寺(今の大日寺)の庭で、大海人皇子が琴を奏でていると、羽衣(唐玉緒)を纏った天女が現れ、袖を振りながら五色の雲に乗って山高く舞い上がったと言われ、この時皇子が詠んだ歌が「おとめごが おとめさびしも 唐玉緒 たもとにまきて おとめさびしも」(日雄寺継統記)だという。そして見事その時の戦勝祈願が通じて壬申の乱に勝ち残り、飛鳥の浄御原で673年即位。
(Wikipediaより転載)
飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや、あすかきよみがはらのみや)は、7世紀後半の天皇である天武天皇と持統天皇の2代が営んだ宮。奈良県明日香村飛鳥に伝承地があるが、近年の発掘成果により同村、岡の伝飛鳥板蓋宮跡にあったと考えられるようになっている。(転載終わり)
そして、親政が落ち着きを見せた頃、全国社寺修築令を発せられ、この地にあっては、壺中天琵琶山、今の天川村坪内に堂宇を建てて弥山山頂に祀る金精明神が化生したとされる天女を麓に移し大神殿を造営して吉野の総社としたという。天武九年(680)のことであった。と同じ頃、大峯山系の入り口になる金峯山に蔵王権現を称える蔵王堂が建立される。こうして水銀朱丹文化の風土の地であり、その他にも貴重な資源金銀鉄などの原鉱石を奥吉野一帯に求めつつ、神仏を両だてにした信仰を育む土地として一国家として誠に重要な位置を占めていたと言えよう。
そして、南北朝時代には南朝宮が置かれたところでもある。今の吉水神社はもと僧坊であったが、後醍醐天皇が朝廷を開かれ南朝皇居となった。その時沢山の密教僧が随順しており、護持僧だった弘真はじめ、弟君大覚寺門跡性円、醍醐寺顕円、実助などが吉野に参じて住している。吉水神社には今も当時の玉座が残され、後醍醐天皇を祀る。後醍醐天皇の陵は如意輪寺にあり、また吉野神社も後醍醐天皇を祭神とする。
また天河は南朝最後の後亀山天皇が最後まで留まった地であり、天河社には御所が置かれ南朝最後の砦であった。後醍醐天皇、護良親王、後村上天皇、長慶ちょうけい天皇、後亀山天皇を養護しこの天河郷は南朝奥吉野の拠点であった。南北朝の講話へ行幸されるにあたっては天川村から京都大覚寺へと向かわれたという。その時お供は、延臣十七名、侍十六名、郷士十名というわびしい限りだったと言われる。
天河弁財天
(天河大弁財天社ホームページから転載)http://www.tenkawa-jinja.or.jp/top/index.html
多門院日記に、「天川開山ハ役行者-マエ立チノ天女ハ高野大清層都コレヲ作ラシメ給フ」というのがあります。これは室町期の傑僧多門院英俊の天河詣での記録です。天河大辨財天社の草創は、この日記のような飛鳥時代の昔に さかのぼります。龍、水分(みくまり)の信仰で代表され古代民族信仰の発祥地とされる霊山大峯の開山が役行者によってなされたことは 周知のことです。
その折大峯蔵王権現に先立って勧請され、最高峰弥山の鎮守として祀られたのが天河大辨財天の創まりです。その後、うまし国吉野をこよなくめでられた天武天皇の御英断によって壺中天の故事にしたがい現在地、坪の内に社宇が建立され、ついで吉野総社(吉野町史)としての社各も確立しました。
更に弘仁年中、弘法大師の参籠も伝えられます。高野山の開山に先立って大師が大峯で修行された話しはすでに明らかですが修行中最大の行場が天河社であったのです。天河社には大師が唐から持ち帰られた密教法具「五テン鈴」や、さきの多門院日記で紹介された「大師筆小法花経」、又真言密教の真髄、両部習合を現す「あ字観碑」など弘法大師にまつわる遺品が千二百年の星霜を越えてなお厳かに我々の心を魅了します。冒頭で多門院英俊の言う「高野大清層都」とは弘法大師のことなのです。
天河大辨財天社の由緒の中で、天河社が「大峯第一、本朝無双、聖護院、三宝院両御門跡御行所」(天河社旧記)であったことを見おとすことは出来ません。通常准三后宣下を受けられた宮家が門跡就任を奉告するための入峯は宗門にとって最も重要大切の行事とされ、江戸期将軍の参内に匹敵する権勢と格式をもっていました。この門跡入峯にあたっての必修行程に門跡の天河社参籠がありました。
このことは遠くその昔役の行者や空海の縁跡を慕い、その法脈を受けついだ増誉、聖宝解脱など効験のきこえ高い、大変偉い上人たちが峯中苦行をなしとげ天河社求聞持堂に参籠されました。そして峯中の大秘法「柱源神法(はしらのもとのかみののり)」にもとづく修法の数々が確立されたのです。 まさにその一瞬天河社縁起に言う「日輪天女降臨の太柱が立つ」といわれます。これが門跡参籠修行の謂です。文化元年七月十六日三宝院高演によって修せられた「八字文殊法」などはまさしく門跡参籠修帰依の史実を裏書するものです。
又琵琶山の底つ磐根に立ちませる神と従神十五の督のことが修験の著名な文献「日本正法伝」天河祭祀のくだりに日本辨財天勧請の創めとして掲載されています。これは天河大辨財天が本邦弁才天の覚母であるということなのです。そしてその加持法力は広大無辺十五の督によってことごとく伝えられ、信心帰依の善男、善女へ授けられる福寿のこと夢疑うなかれとされています。
五十鈴(いすず)は、天河大辨財天に古来より伝わる独自の神器で、天照大御神が天岩屋戸にこもられたとき、天宇受売命(あめのうずめのみこと)が、ちまきの矛(神代鈴をつけた矛)をもって、岩屋戸の前にて舞を舞われ、神の御神力と御稜威をこい願われたことによって、岩屋戸が開かれ、天地とともに明るく照りかがやいたという伝承に登場する、天宇受売命が使用した神代鈴と同様のものであると伝えられています。
特に芸能の世界にいあっては天宇受売命にあやかって、殊の外御精進あそばされる方々(俳優、舞踊、歌手、ラジオ、テレビタレントなど)は、同床共殿のあり方と精神にてこれを奉載され、この三魂(みむすび)の調和統一に意を用いられ、芸能技芸練達の器教とされますことを切に祈るものであります。この五十鈴の特徴的な三つの球形の鈴は、それぞれ、●「いくむすび」●「たるむすび」●「たまめむすび」という魂の進化にとって重要な三つの魂の状態(みむすびの精神)をあらわしています。
この五十鈴の清流のような妙なる音の響きによって、心身は深く清められ、魂が調和し本来あるべき状態に戻り、新たな活力が湧いてきます。特に芸術・芸能の世界で精進される方々(俳優、舞踊、歌手、ラジオ、テレビタレントなど)が、天宇受売命の故事にあやかり、これを奉載され、この三魂(みむすび)の調和統一に意を用いられ、芸能技芸練達の器教とされております。
天河社と能。天河社に能面・能装束多数が現存します。いづれも桃山文化財の逸品として世に知られ、過日アメリカメトロポリタン美術館で催された「日本桃山美術展」へも、数点が出品され国際的にも人々の人気を集めました。能面三十一面、能装束三十点外に小道具、能楽謡本関係文書多数は室町から桃山、江戸初期にかけ我が国の能楽草創期から成熟期にかけてのものばかりで能楽史上稀有のものとして文化的価値のきわめて高いものです。
そのうちの一、二を紹介しましと能楽の創始者世阿弥も使上したと思われる、「阿古父尉」を始め、江戸初期面打ちの第一人者山崎兵衛が打った猩々面、長谷寺所蔵のものと一対になっているといわれる「三番隻」・「黒色尉」又能装束には文禄三年三月豊太閤が奉納したといわれる絢爛豪華な唐織などがあります。これは、天河社が能楽の発祥の頃より深く関わってきた、芸能の守り本尊であることの証といえましょう。
(転載終わり)
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そうなると、日本としたら新羅と友好し、唐の日本侵攻を防ぐ必要があった。しかし、その機にあたって唐は日本との同盟を望んだ。そして、滅亡した百済から渡来した有力者たちを登用した天智天皇は新羅を敵視し、唐との同盟を考えた。しかし、その異父兄で実力者だった大海人皇子は、それでは新羅なきあと唐に日本は侵攻され尽くしてしまうと考えて、新羅との同盟を選んだ。そしてそのことが壬申の乱(672)にいたる伏線となり天智天皇が不慮の死を遂げ大友皇子は自害して天武天皇が誕生していく。このくだりについては『逆説の日本史2』井沢元彦著に詳しく語られている。
そして、この壬申の乱に至る時期に大海人皇子はこの地吉野に来たって、土地のおびと井氏(井角乗)と会い、また、井氏の師であった役行者とも遭っている。日本書紀には天武天皇は、「雄々しくたけく天文遁甲を能くしたまえり」とあるという。遁甲とは忍法であり、身を隠す術と註があるという。その力をいかにして体得するに至ったのか、それこそがこの大峯山系・吉野での山林修行であったと言えようか。
天智十年(671)金峯山寺蔵王堂の南に位置する日雄寺(今の大日寺)の庭で、大海人皇子が琴を奏でていると、羽衣(唐玉緒)を纏った天女が現れ、袖を振りながら五色の雲に乗って山高く舞い上がったと言われ、この時皇子が詠んだ歌が「おとめごが おとめさびしも 唐玉緒 たもとにまきて おとめさびしも」(日雄寺継統記)だという。そして見事その時の戦勝祈願が通じて壬申の乱に勝ち残り、飛鳥の浄御原で673年即位。
(Wikipediaより転載)
飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや、あすかきよみがはらのみや)は、7世紀後半の天皇である天武天皇と持統天皇の2代が営んだ宮。奈良県明日香村飛鳥に伝承地があるが、近年の発掘成果により同村、岡の伝飛鳥板蓋宮跡にあったと考えられるようになっている。(転載終わり)
そして、親政が落ち着きを見せた頃、全国社寺修築令を発せられ、この地にあっては、壺中天琵琶山、今の天川村坪内に堂宇を建てて弥山山頂に祀る金精明神が化生したとされる天女を麓に移し大神殿を造営して吉野の総社としたという。天武九年(680)のことであった。と同じ頃、大峯山系の入り口になる金峯山に蔵王権現を称える蔵王堂が建立される。こうして水銀朱丹文化の風土の地であり、その他にも貴重な資源金銀鉄などの原鉱石を奥吉野一帯に求めつつ、神仏を両だてにした信仰を育む土地として一国家として誠に重要な位置を占めていたと言えよう。
そして、南北朝時代には南朝宮が置かれたところでもある。今の吉水神社はもと僧坊であったが、後醍醐天皇が朝廷を開かれ南朝皇居となった。その時沢山の密教僧が随順しており、護持僧だった弘真はじめ、弟君大覚寺門跡性円、醍醐寺顕円、実助などが吉野に参じて住している。吉水神社には今も当時の玉座が残され、後醍醐天皇を祀る。後醍醐天皇の陵は如意輪寺にあり、また吉野神社も後醍醐天皇を祭神とする。
また天河は南朝最後の後亀山天皇が最後まで留まった地であり、天河社には御所が置かれ南朝最後の砦であった。後醍醐天皇、護良親王、後村上天皇、長慶ちょうけい天皇、後亀山天皇を養護しこの天河郷は南朝奥吉野の拠点であった。南北朝の講話へ行幸されるにあたっては天川村から京都大覚寺へと向かわれたという。その時お供は、延臣十七名、侍十六名、郷士十名というわびしい限りだったと言われる。
天河弁財天
(天河大弁財天社ホームページから転載)http://www.tenkawa-jinja.or.jp/top/index.html
多門院日記に、「天川開山ハ役行者-マエ立チノ天女ハ高野大清層都コレヲ作ラシメ給フ」というのがあります。これは室町期の傑僧多門院英俊の天河詣での記録です。天河大辨財天社の草創は、この日記のような飛鳥時代の昔に さかのぼります。龍、水分(みくまり)の信仰で代表され古代民族信仰の発祥地とされる霊山大峯の開山が役行者によってなされたことは 周知のことです。
その折大峯蔵王権現に先立って勧請され、最高峰弥山の鎮守として祀られたのが天河大辨財天の創まりです。その後、うまし国吉野をこよなくめでられた天武天皇の御英断によって壺中天の故事にしたがい現在地、坪の内に社宇が建立され、ついで吉野総社(吉野町史)としての社各も確立しました。
更に弘仁年中、弘法大師の参籠も伝えられます。高野山の開山に先立って大師が大峯で修行された話しはすでに明らかですが修行中最大の行場が天河社であったのです。天河社には大師が唐から持ち帰られた密教法具「五テン鈴」や、さきの多門院日記で紹介された「大師筆小法花経」、又真言密教の真髄、両部習合を現す「あ字観碑」など弘法大師にまつわる遺品が千二百年の星霜を越えてなお厳かに我々の心を魅了します。冒頭で多門院英俊の言う「高野大清層都」とは弘法大師のことなのです。
天河大辨財天社の由緒の中で、天河社が「大峯第一、本朝無双、聖護院、三宝院両御門跡御行所」(天河社旧記)であったことを見おとすことは出来ません。通常准三后宣下を受けられた宮家が門跡就任を奉告するための入峯は宗門にとって最も重要大切の行事とされ、江戸期将軍の参内に匹敵する権勢と格式をもっていました。この門跡入峯にあたっての必修行程に門跡の天河社参籠がありました。
このことは遠くその昔役の行者や空海の縁跡を慕い、その法脈を受けついだ増誉、聖宝解脱など効験のきこえ高い、大変偉い上人たちが峯中苦行をなしとげ天河社求聞持堂に参籠されました。そして峯中の大秘法「柱源神法(はしらのもとのかみののり)」にもとづく修法の数々が確立されたのです。 まさにその一瞬天河社縁起に言う「日輪天女降臨の太柱が立つ」といわれます。これが門跡参籠修行の謂です。文化元年七月十六日三宝院高演によって修せられた「八字文殊法」などはまさしく門跡参籠修帰依の史実を裏書するものです。
又琵琶山の底つ磐根に立ちませる神と従神十五の督のことが修験の著名な文献「日本正法伝」天河祭祀のくだりに日本辨財天勧請の創めとして掲載されています。これは天河大辨財天が本邦弁才天の覚母であるということなのです。そしてその加持法力は広大無辺十五の督によってことごとく伝えられ、信心帰依の善男、善女へ授けられる福寿のこと夢疑うなかれとされています。
五十鈴(いすず)は、天河大辨財天に古来より伝わる独自の神器で、天照大御神が天岩屋戸にこもられたとき、天宇受売命(あめのうずめのみこと)が、ちまきの矛(神代鈴をつけた矛)をもって、岩屋戸の前にて舞を舞われ、神の御神力と御稜威をこい願われたことによって、岩屋戸が開かれ、天地とともに明るく照りかがやいたという伝承に登場する、天宇受売命が使用した神代鈴と同様のものであると伝えられています。
特に芸能の世界にいあっては天宇受売命にあやかって、殊の外御精進あそばされる方々(俳優、舞踊、歌手、ラジオ、テレビタレントなど)は、同床共殿のあり方と精神にてこれを奉載され、この三魂(みむすび)の調和統一に意を用いられ、芸能技芸練達の器教とされますことを切に祈るものであります。この五十鈴の特徴的な三つの球形の鈴は、それぞれ、●「いくむすび」●「たるむすび」●「たまめむすび」という魂の進化にとって重要な三つの魂の状態(みむすびの精神)をあらわしています。
この五十鈴の清流のような妙なる音の響きによって、心身は深く清められ、魂が調和し本来あるべき状態に戻り、新たな活力が湧いてきます。特に芸術・芸能の世界で精進される方々(俳優、舞踊、歌手、ラジオ、テレビタレントなど)が、天宇受売命の故事にあやかり、これを奉載され、この三魂(みむすび)の調和統一に意を用いられ、芸能技芸練達の器教とされております。
天河社と能。天河社に能面・能装束多数が現存します。いづれも桃山文化財の逸品として世に知られ、過日アメリカメトロポリタン美術館で催された「日本桃山美術展」へも、数点が出品され国際的にも人々の人気を集めました。能面三十一面、能装束三十点外に小道具、能楽謡本関係文書多数は室町から桃山、江戸初期にかけ我が国の能楽草創期から成熟期にかけてのものばかりで能楽史上稀有のものとして文化的価値のきわめて高いものです。
そのうちの一、二を紹介しましと能楽の創始者世阿弥も使上したと思われる、「阿古父尉」を始め、江戸初期面打ちの第一人者山崎兵衛が打った猩々面、長谷寺所蔵のものと一対になっているといわれる「三番隻」・「黒色尉」又能装束には文禄三年三月豊太閤が奉納したといわれる絢爛豪華な唐織などがあります。これは、天河社が能楽の発祥の頃より深く関わってきた、芸能の守り本尊であることの証といえましょう。
(転載終わり)
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