住職のひとりごと

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住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

「ダライラマとの対話」を読んで-2

2010年08月25日 17時15分42秒 | 仏教書探訪
そして次に、「現代日本人の心について」上田氏が、今の日本で進行しているのは、経済的な不況ばかりではなく、人々の生きる意味の不況とでも言える、自分が生きている意味を見失っていることだ。私の人生は別に自分でなくとも誰とでも交換可能なものであるという感覚、自分の代わりなどいくらでもいるのだという思い。自分がここに生きているという実感を喪失している。

この問いかけに対して、法王は、日本は過去100年あまりの間に、西洋の科学技術や近代的な教育システムが入り、西洋的に価値観に関心を持ち、それによって経済的な繁栄ももたらされた。しかし精神的に非常に落胆するような状況の中で、ライフスタイルはすっかり西洋式になってはいるものの西洋そのものではなく、西洋人にもなりきれないそのような状況の中で、日本人本来のあるべき伝統というものがすでに失われてしまっている。そこで自分たちの内面にこれがあると言えるものが何もない、自分たちのアイデンティティを喪失してしまっているのだ。(P150~155)

ここでの問題点は一人一人の日本人の心の問題ではあるけれども、大きく国家として捉えてみると、まさに、国家としての展望がまるでない国としての悲哀をそのまま一人一人の心に映し出しているのではないか。世界に対して何も発言できない国、満足に独立していない不安定な国家、国家としての意思を国際社会に示すことも出来ない国民としての精神的な脆弱さ、不甲斐なさをそのまま一人一人の心に陰を作り出しているのではないかと思えてならない。法王が指摘するようにライフスタイルは西洋式ではあるが、なりきれないで喪失したアイデンティティの問題もそこに付加されてより深い心の溝を作り出しているのであろう。

そこで、上田氏は、人間関係のミクロな問題として掘り下げ、親が子に何を求めているか、特に母親が子供に求めているものが、よい子である、特に成績のよい子であることばかりを望んではいまいか、つまりは条件付きの愛のみを子供に知らず知らずの間に注いでいる、つまり子供の能力に愛情を示していると子供に伝えてしまっているのではないかと問う。

すると、法王は、それは社会全体の問題であると応じる。単に物質的な物の価値だけを見てしまい、他の何も見ていないのではないか。価値観を物のレベルでのみ計り、それ以外の価値を認めない社会になってしまっている。家庭の中でもお金を稼いでくる人は大切にして、稼ぎの悪い人は役立たず、子供たちも、金を稼いでくる望みがあればその子を大切にするが、稼ぎが期待できないのであれば大事にしないというように。

そのような様々な精神的な問題の多くが人間の知性があまりにも高度に洗練されているがゆえに、科学やテクノロジーが無限の希望を人間に与えてしまい、人間は動物の一種であるという基本的な性質を忘れてしまった。近代科学、テクノロジーに依存しすぎて、ライフスタイル自体も機械のようになり、人間本来の基本的な性質から遠ざかり、知識のみ備わっていて、他者に対する思いやりを育む余地は残されていないのだ。

関連して、人間にとって、最も自然治癒力が増進されるのは、互いに協力的で、他者と信頼で結ばれ、愛と思いやりに満ちているときであり、孤独感、無力感が重なったときに自然治癒力は最低になるのだと、上田氏からスリランカでの民族儀礼の研究から言及があった。(P157~181)

今医者に行くと、一言二言病状を尋ね、脈をとるくらいで後はパソコン画面と睨めっこで、薬を処方されるだけなどということもよくあるであろう。これと同じように学校でも、生徒を成績のみで評価しているのではないか。今の小学校では、子供が他の子に怪我をさせたり悪さをしても、その子の親は学校に謝りに行ったり、ましてや相手のこの家にまで行き謝ることもないという。

以前であれば、子供も同伴して、一緒に頭を下げ、悪いことをしたということをいやというほどに植え付けられたのではなかったか。学校側でも、そんなことにはあまり関わりたくないという姿勢が見られる。事務仕事ばかりが増え、生徒一人一人と向き合う時間もない。益々心の教育などという評価されないものに対するウェートが低下しているのが今の日本の教育の現状であろう。

最後に、上田氏が現代日本人の心の問題を取り上げて、現代の日本人は西洋のように自分の意見をしっかり持ち、責任を自覚し社会の中での責務も果たしていける自我というものが確立していない。そのため、他人の目を気にしたりして公共の場で発言することもなく、自己の責任もとらない。その背景には、私たち自身に対する自信、プライドを失っているからだと思える。物質的には豊かだし学歴もあり収入もあるけれども、それらを取り払った自分、裸の自分に自信もプライドもない、自分自身が尊重されるべき人間として扱われていないと感じている。自尊心も自己信頼もなくしている、それがゆえに余計にかりそめの自信を高めるために収入や地位、お金に執着しているように見える。

これに対し法王は、お金や物質的なものを重んじる社会では、個人よりも会社であるとか社会が重要視されて個人が埋没する。個人が大事にされなければその個人の内なる価値についても気づかれることなく、個人の重要性が失われ、一人一人のアイデンティティも失われる。しかし慈悲の大切さに関心を払うだけで、個人が重要性を帯びてくるはず。なぜなら、慈悲とはまず自分自身に対して向けられるべきものだから。

(日本では慈悲は他に向けられるものと考えられているが本来の慈悲はまず自分に対して、それから他に振り向けられる)自分自身に対して思いやりを持ち、それを周りに向けて広げていく。自分を忌み嫌い嫌悪していたら、他を思いやることなど不可能なことなのだから。(P204~212)

慈悲とは仏教の根幹に関わる教えではあるが、それはともすると他に対する姿勢として考えられてきた。しかし、慈悲とは自分に対しても、というよりは自も他もなくすべての衆生に向けられるべき大切な姿勢として捉えるとき、当然のことながら自分自身に対しても、身近な周りのものたちにも思いやりと慈しみを持つべきであると知られる。それがないがしろにされた慈悲は成立しない。国家の姿勢としても、当然のことながら、一部の人たちだけが栄えるシステムは否定されるべきことであって、すべての人々が平等に恩恵を受ける国民第一の社会を目指すべきなのであろう。

終わりに、帰依ということについて法王は、依存ではない、自立の精神が失われることでもない。自分自身がブッダのようなすばらしい存在になりたいと強く願うことこそが帰依の意味するところであると述べられている。神を信仰して、すべてを創造し、物事を決定するという考えは、その創造主に完全に依存しており、それは、仏教的な観点からは、個人の持つ自信やプライド、創造力といった何かを成し遂げることの出来る力を失わせてしまうものである。(P216~217)

私たち日本人は今自ら勧んで神を信仰せざるを得ないと思い込もうとしてはいまいか。なにもかも決めてもらわねば自らは何も決められない、依存していた方が居心地がいいとあきらめにも似た状況に埋没してはいまいか。だからこそ法王が言われるように、自信もプライドも失いかけているのではあるまいか。特に昨今のどんよりした退廃した社会の雰囲気はまさにこうしたものの反映のように思えてならない。

以上、少しばかり本書の内容を紹介し要らぬ感慨を書いた。たくさんの示唆に富んだ対談であり、多くのメッセージを含んでいる。日本仏教の復興、それこそが日本社会の再生に繋がるとも読める。日本仏教の復興には、一人一人の仏教者が真摯に仏教に学ぶこと。精密に仏教の教えを学び直し、現代の諸問題に対応できる教えとして捉え、選択し直す必要があるであろう。単なる拝み、仏のありがたさを説くだけでは仏教は復興しない。多くの人たちから見放されるだけであろう。仏教本来の教えから現代人に役立つ教えを発掘することも必要であろう。祖師仏教、葬式仏教、儀式仏教からの超越こそが求められていると言えよう。是非ご一読願いたい。


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「ダライラマとの対話」を読んで-1

2010年08月04日 19時42分01秒 | 仏教書探訪
今年五月十四日発行の講談社文庫の新刊である。単行本としては、三年前の六月にNHK出版から『目覚めよ仏教!ダライラマとの対話』として刊行されている。文化人類学者で、東工大大学院准教授の上田紀行氏が、二〇〇五年一二月にインド・ダラムサラにダライラマ法王猊下をお訪ねして二日間にわたって対談がなされた。その記録である。

上田氏には『頑張れ仏教!』という著作があり、以前読ませていただいたことがある。何人かの様々な社会的な活動を通して注目を集める僧侶を紹介しつつ、日本仏教の活性化、その再生を期する内容の本である。その根底には、寺院内に閉じこもり、葬式法事、仏事に勤しみ、社会の様々な諸問題を見過ごして、積極的な活動を閉じてしまったかの今日のお寺に対する不満がある。

上田氏は何度か世界的な仏教者会議でのダライラマ法王の発言を聞き、強く感化され今回の対談が実現した。英語でなされた白熱した対談はダライラマ法王庁の側近達にもその特異さが実感されるほどのものであったという。日本からやっと対論出来る人物が来たと歓迎された上田氏は、それまでにない法王の一面を引き出すことに成功したようだ。その対論の中から、特に私が印象深く思ったところを紹介し、感想を述べたいと思う。

まず、「日本の教育について」法王は、恵まれた家庭を持ち、ほとんどの人の教育水準は高いけれども、一人一人が自分の人生だけを生きていて、そこには深い人間的な価値の重要性には注意が向けられず、愛情、思いやりの必要性などが芽生えていない。教養や知識、知性といった面の教育ばかりが当然とされ、人間のより深い価値、人間が本来持つべき愛情とか思いやりとかに注意が払われてはいない。それらは本来宗教がなすべきことではあるが、宗教も金儲けに走ってみたりして表面的なものになってはいまいか。

そして、たとえ慈悲がいかに大切かと僧侶たちが説いても、それは言葉のレベル、知識としてのレベルにとどまり、実践しようともせず、本当に人生において決して欠かすことの出来ないものだという強い思いも持ち得ていない。よって結果的に社会全体が近代的な教育システムによってのみ形成されることとなり、つまりは、人間的な優しさという人間にとって欠かすことの出来ない一番大切なものを育むことに完全に失敗している。

愛情や思いやりという深いレベルにおける人間価値の必要性を説くことの出来ないそのシステムは、社会全体が間違った認識を元に人生を歩ませ、機械や植物のようなレベルの愛情を必要としない存在であるかの間違った認識を植え付けてしまっている。だからこそ今日の社会はお金次第の社会に成り下がっているのではないか。お金次第の社会は攻撃的な社会で、いじめの問題も出てくるし、権力者が思うままに力を使い、残酷な行いをする。それによって益々社会不安が増す。そういう社会では、愛とか思いやりという人間価値こそ大切なものだという考え方をする人は全く愚か者だという扱いを受ける。(P53~P57)

上田氏は、市場原理主義、競争競合を極限まで奨励する経済に反対する著作もなしているが、それに関連して述べるならば、まさに、市場原理主義が導入されて以来、攻撃的な社会、意見を異にする者に対するいじめを自ら行い、国民の財産であった公共サービスを民営化との名目で思うままに私営化した。

さらには、大企業の国際競争力が必要との口実のもとに労働力を搾取、子会社にも残酷なまでに隷属化を強いているかに見える。自らが襟を正し国民にあるべき姿を示すべき人々が率先して異なる意見の者たちを排除して、社会不安をあおっているかに見える。それでは、子供のいじめ対策、少子化問題などのれんに腕押しと言えまいか。

もちろん、宗教者に対するご指摘は当然のことであろう。僧侶が説く教えが表面的な言葉のレベルに留まっているとの指摘もうなずける。自ら人生に苦悩しその教えに触れ、それによって心の平安を得て、そのすばらしさを縁ある人々に説くというのが本来あるべき姿なのであろう。自らの感激、葛藤の末にたどり着いた境地というものを持たないのであるなら、他にそのすばらしさを語り伝えようもないのは当たり前のことであろう。

本来宗教家とは、法王が指摘する愚か者を演じる立場なのかもしれない。社会のその他大勢と同じ価値観のもとに生きてしまってはいけないのではないか。お金など二の次三の次で、愛とか思いやりこそ大切なものなのだということを人生を通して示す、人々の見本となるべき存在なのであろう。お金次第と思っている多くの人たちから、たとえ救いようのない愚か者だと思われようとも。

次に、「社会と宗教とのスタンスについて」法王は、多くの人が貧しさに苦しんでいるとか、社会の不正が起きてしまっているというときに仏教徒がそれに無関心であってはならない。経済的な分野、その他のいかなる分野においても社会的な不正に直面したとき、宗教者がそういった社会問題に無関心な態度をとるのは全く間違ったことだと思う。宗教的な立場に携わる者こそそういった問題を何とか解決していこうという積極的な態度で取り組むよう心がけるべきである。

怒りには慈悲の心から起こる怒りがある。他の者に対する思いやりとか愛情とか、慈悲の心が存在していて、その心を動機として怒りが生まれる場合には、その怒りは相手を害そうとする悪い動機はない。社会にある不正、人々を苦しめる間違った破壊的な行為などに対して、心から関心を寄せて、何とか社会の不正を正していきたいという気持ちから生じてくる怒りは、その問題が解決するまで、維持すべきである。

上田氏が、これに関連して、日本では社会活動に積極的な僧侶に対して他の僧侶たちの評価が低いのだが、それは、そうして社会に対して憤りを持つこと自体が、悟っていない、ないし境地が低いなどと揶揄されたりするからで、どんなに社会的な不正があろうが、目の前でひどいことが行われていようが怒りを持つというのは仏教的でないと思われている、と説明すると。

法王は、捨てるべき偏見のある欲望に対して、悟りを求める心などの偏見のない心が持つ価値ある欲望は捨てるべきではない。それと同様に、社会活動を行っている僧侶たちが持つ怒りや憤りも、決してその境地が低いなどと言われるべきものではなく、何事も怒りや執着を悪いもの、なくすべきものと考えるのは単に理論的な言葉上のことであって、現実の社会にあってその実践的な立場では理論と実践を区別すべきである。(P89~P101)

ここでの発言は、まさに法王庁のスタッフたち自らがそれまで聞いたこともないような驚くほど過激な発言であったようだ。しかし、そこで言われていることは、まさに今の時代に不可欠な視点ではないかと思う。チベットは自治権を失いインドへ亡命して久しいわけではあるが、私たち日本人も本当は同じような状況に置かれているのではあるまいか。自分たちの土地にあって、仕事も家族も財産も所有していて何が同じものかと言われればその通りかもしれない。

しかし私たち一人一人の意志が全く繁栄されない社会に私たちは住んでいるのではないか。未だに占領下にあるが如くではないか。六月に『今、この国を思う』で書いたとおり、日本にいるのかも分からない一握りの人たちの意志でこの国が動かされている。政治も経済も何もかも、私たちの意志など眼中にない者たちがすべてを操作し、マスコミを動かし、大多数の国民を誘導し、あたかも自らの意志で選択したかに見せながら、すべてが彼らの匙加減の中にある。

格差社会、一部の者たちだけが多くのパイをつかみ、さらに吸い上げられた残りのわずかなものを大多数の者たちが分け合う。大企業の多くの株を所有する人たちが企業の利益を吸い取り、本来日本企業が大切にしてきた労働者への分配を可能な限り減らし、外国籍の株主・役員がその大半をせしめてしまう。そのためにも消費税が俎上にある。何のための企業であろうか。さらには生産ラインもその多くが海外に展開される。国内には何も残らない展望のない国になりつつある。この国の現状に宗教者は決して無関心であってはならないであろう。つづく

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