そして次に、「現代日本人の心について」上田氏が、今の日本で進行しているのは、経済的な不況ばかりではなく、人々の生きる意味の不況とでも言える、自分が生きている意味を見失っていることだ。私の人生は別に自分でなくとも誰とでも交換可能なものであるという感覚、自分の代わりなどいくらでもいるのだという思い。自分がここに生きているという実感を喪失している。
この問いかけに対して、法王は、日本は過去100年あまりの間に、西洋の科学技術や近代的な教育システムが入り、西洋的に価値観に関心を持ち、それによって経済的な繁栄ももたらされた。しかし精神的に非常に落胆するような状況の中で、ライフスタイルはすっかり西洋式になってはいるものの西洋そのものではなく、西洋人にもなりきれないそのような状況の中で、日本人本来のあるべき伝統というものがすでに失われてしまっている。そこで自分たちの内面にこれがあると言えるものが何もない、自分たちのアイデンティティを喪失してしまっているのだ。(P150~155)
ここでの問題点は一人一人の日本人の心の問題ではあるけれども、大きく国家として捉えてみると、まさに、国家としての展望がまるでない国としての悲哀をそのまま一人一人の心に映し出しているのではないか。世界に対して何も発言できない国、満足に独立していない不安定な国家、国家としての意思を国際社会に示すことも出来ない国民としての精神的な脆弱さ、不甲斐なさをそのまま一人一人の心に陰を作り出しているのではないかと思えてならない。法王が指摘するようにライフスタイルは西洋式ではあるが、なりきれないで喪失したアイデンティティの問題もそこに付加されてより深い心の溝を作り出しているのであろう。
そこで、上田氏は、人間関係のミクロな問題として掘り下げ、親が子に何を求めているか、特に母親が子供に求めているものが、よい子である、特に成績のよい子であることばかりを望んではいまいか、つまりは条件付きの愛のみを子供に知らず知らずの間に注いでいる、つまり子供の能力に愛情を示していると子供に伝えてしまっているのではないかと問う。
すると、法王は、それは社会全体の問題であると応じる。単に物質的な物の価値だけを見てしまい、他の何も見ていないのではないか。価値観を物のレベルでのみ計り、それ以外の価値を認めない社会になってしまっている。家庭の中でもお金を稼いでくる人は大切にして、稼ぎの悪い人は役立たず、子供たちも、金を稼いでくる望みがあればその子を大切にするが、稼ぎが期待できないのであれば大事にしないというように。
そのような様々な精神的な問題の多くが人間の知性があまりにも高度に洗練されているがゆえに、科学やテクノロジーが無限の希望を人間に与えてしまい、人間は動物の一種であるという基本的な性質を忘れてしまった。近代科学、テクノロジーに依存しすぎて、ライフスタイル自体も機械のようになり、人間本来の基本的な性質から遠ざかり、知識のみ備わっていて、他者に対する思いやりを育む余地は残されていないのだ。
関連して、人間にとって、最も自然治癒力が増進されるのは、互いに協力的で、他者と信頼で結ばれ、愛と思いやりに満ちているときであり、孤独感、無力感が重なったときに自然治癒力は最低になるのだと、上田氏からスリランカでの民族儀礼の研究から言及があった。(P157~181)
今医者に行くと、一言二言病状を尋ね、脈をとるくらいで後はパソコン画面と睨めっこで、薬を処方されるだけなどということもよくあるであろう。これと同じように学校でも、生徒を成績のみで評価しているのではないか。今の小学校では、子供が他の子に怪我をさせたり悪さをしても、その子の親は学校に謝りに行ったり、ましてや相手のこの家にまで行き謝ることもないという。
以前であれば、子供も同伴して、一緒に頭を下げ、悪いことをしたということをいやというほどに植え付けられたのではなかったか。学校側でも、そんなことにはあまり関わりたくないという姿勢が見られる。事務仕事ばかりが増え、生徒一人一人と向き合う時間もない。益々心の教育などという評価されないものに対するウェートが低下しているのが今の日本の教育の現状であろう。
最後に、上田氏が現代日本人の心の問題を取り上げて、現代の日本人は西洋のように自分の意見をしっかり持ち、責任を自覚し社会の中での責務も果たしていける自我というものが確立していない。そのため、他人の目を気にしたりして公共の場で発言することもなく、自己の責任もとらない。その背景には、私たち自身に対する自信、プライドを失っているからだと思える。物質的には豊かだし学歴もあり収入もあるけれども、それらを取り払った自分、裸の自分に自信もプライドもない、自分自身が尊重されるべき人間として扱われていないと感じている。自尊心も自己信頼もなくしている、それがゆえに余計にかりそめの自信を高めるために収入や地位、お金に執着しているように見える。
これに対し法王は、お金や物質的なものを重んじる社会では、個人よりも会社であるとか社会が重要視されて個人が埋没する。個人が大事にされなければその個人の内なる価値についても気づかれることなく、個人の重要性が失われ、一人一人のアイデンティティも失われる。しかし慈悲の大切さに関心を払うだけで、個人が重要性を帯びてくるはず。なぜなら、慈悲とはまず自分自身に対して向けられるべきものだから。
(日本では慈悲は他に向けられるものと考えられているが本来の慈悲はまず自分に対して、それから他に振り向けられる)自分自身に対して思いやりを持ち、それを周りに向けて広げていく。自分を忌み嫌い嫌悪していたら、他を思いやることなど不可能なことなのだから。(P204~212)
慈悲とは仏教の根幹に関わる教えではあるが、それはともすると他に対する姿勢として考えられてきた。しかし、慈悲とは自分に対しても、というよりは自も他もなくすべての衆生に向けられるべき大切な姿勢として捉えるとき、当然のことながら自分自身に対しても、身近な周りのものたちにも思いやりと慈しみを持つべきであると知られる。それがないがしろにされた慈悲は成立しない。国家の姿勢としても、当然のことながら、一部の人たちだけが栄えるシステムは否定されるべきことであって、すべての人々が平等に恩恵を受ける国民第一の社会を目指すべきなのであろう。
終わりに、帰依ということについて法王は、依存ではない、自立の精神が失われることでもない。自分自身がブッダのようなすばらしい存在になりたいと強く願うことこそが帰依の意味するところであると述べられている。神を信仰して、すべてを創造し、物事を決定するという考えは、その創造主に完全に依存しており、それは、仏教的な観点からは、個人の持つ自信やプライド、創造力といった何かを成し遂げることの出来る力を失わせてしまうものである。(P216~217)
私たち日本人は今自ら勧んで神を信仰せざるを得ないと思い込もうとしてはいまいか。なにもかも決めてもらわねば自らは何も決められない、依存していた方が居心地がいいとあきらめにも似た状況に埋没してはいまいか。だからこそ法王が言われるように、自信もプライドも失いかけているのではあるまいか。特に昨今のどんよりした退廃した社会の雰囲気はまさにこうしたものの反映のように思えてならない。
以上、少しばかり本書の内容を紹介し要らぬ感慨を書いた。たくさんの示唆に富んだ対談であり、多くのメッセージを含んでいる。日本仏教の復興、それこそが日本社会の再生に繋がるとも読める。日本仏教の復興には、一人一人の仏教者が真摯に仏教に学ぶこと。精密に仏教の教えを学び直し、現代の諸問題に対応できる教えとして捉え、選択し直す必要があるであろう。単なる拝み、仏のありがたさを説くだけでは仏教は復興しない。多くの人たちから見放されるだけであろう。仏教本来の教えから現代人に役立つ教えを発掘することも必要であろう。祖師仏教、葬式仏教、儀式仏教からの超越こそが求められていると言えよう。是非ご一読願いたい。
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この問いかけに対して、法王は、日本は過去100年あまりの間に、西洋の科学技術や近代的な教育システムが入り、西洋的に価値観に関心を持ち、それによって経済的な繁栄ももたらされた。しかし精神的に非常に落胆するような状況の中で、ライフスタイルはすっかり西洋式になってはいるものの西洋そのものではなく、西洋人にもなりきれないそのような状況の中で、日本人本来のあるべき伝統というものがすでに失われてしまっている。そこで自分たちの内面にこれがあると言えるものが何もない、自分たちのアイデンティティを喪失してしまっているのだ。(P150~155)
ここでの問題点は一人一人の日本人の心の問題ではあるけれども、大きく国家として捉えてみると、まさに、国家としての展望がまるでない国としての悲哀をそのまま一人一人の心に映し出しているのではないか。世界に対して何も発言できない国、満足に独立していない不安定な国家、国家としての意思を国際社会に示すことも出来ない国民としての精神的な脆弱さ、不甲斐なさをそのまま一人一人の心に陰を作り出しているのではないかと思えてならない。法王が指摘するようにライフスタイルは西洋式ではあるが、なりきれないで喪失したアイデンティティの問題もそこに付加されてより深い心の溝を作り出しているのであろう。
そこで、上田氏は、人間関係のミクロな問題として掘り下げ、親が子に何を求めているか、特に母親が子供に求めているものが、よい子である、特に成績のよい子であることばかりを望んではいまいか、つまりは条件付きの愛のみを子供に知らず知らずの間に注いでいる、つまり子供の能力に愛情を示していると子供に伝えてしまっているのではないかと問う。
すると、法王は、それは社会全体の問題であると応じる。単に物質的な物の価値だけを見てしまい、他の何も見ていないのではないか。価値観を物のレベルでのみ計り、それ以外の価値を認めない社会になってしまっている。家庭の中でもお金を稼いでくる人は大切にして、稼ぎの悪い人は役立たず、子供たちも、金を稼いでくる望みがあればその子を大切にするが、稼ぎが期待できないのであれば大事にしないというように。
そのような様々な精神的な問題の多くが人間の知性があまりにも高度に洗練されているがゆえに、科学やテクノロジーが無限の希望を人間に与えてしまい、人間は動物の一種であるという基本的な性質を忘れてしまった。近代科学、テクノロジーに依存しすぎて、ライフスタイル自体も機械のようになり、人間本来の基本的な性質から遠ざかり、知識のみ備わっていて、他者に対する思いやりを育む余地は残されていないのだ。
関連して、人間にとって、最も自然治癒力が増進されるのは、互いに協力的で、他者と信頼で結ばれ、愛と思いやりに満ちているときであり、孤独感、無力感が重なったときに自然治癒力は最低になるのだと、上田氏からスリランカでの民族儀礼の研究から言及があった。(P157~181)
今医者に行くと、一言二言病状を尋ね、脈をとるくらいで後はパソコン画面と睨めっこで、薬を処方されるだけなどということもよくあるであろう。これと同じように学校でも、生徒を成績のみで評価しているのではないか。今の小学校では、子供が他の子に怪我をさせたり悪さをしても、その子の親は学校に謝りに行ったり、ましてや相手のこの家にまで行き謝ることもないという。
以前であれば、子供も同伴して、一緒に頭を下げ、悪いことをしたということをいやというほどに植え付けられたのではなかったか。学校側でも、そんなことにはあまり関わりたくないという姿勢が見られる。事務仕事ばかりが増え、生徒一人一人と向き合う時間もない。益々心の教育などという評価されないものに対するウェートが低下しているのが今の日本の教育の現状であろう。
最後に、上田氏が現代日本人の心の問題を取り上げて、現代の日本人は西洋のように自分の意見をしっかり持ち、責任を自覚し社会の中での責務も果たしていける自我というものが確立していない。そのため、他人の目を気にしたりして公共の場で発言することもなく、自己の責任もとらない。その背景には、私たち自身に対する自信、プライドを失っているからだと思える。物質的には豊かだし学歴もあり収入もあるけれども、それらを取り払った自分、裸の自分に自信もプライドもない、自分自身が尊重されるべき人間として扱われていないと感じている。自尊心も自己信頼もなくしている、それがゆえに余計にかりそめの自信を高めるために収入や地位、お金に執着しているように見える。
これに対し法王は、お金や物質的なものを重んじる社会では、個人よりも会社であるとか社会が重要視されて個人が埋没する。個人が大事にされなければその個人の内なる価値についても気づかれることなく、個人の重要性が失われ、一人一人のアイデンティティも失われる。しかし慈悲の大切さに関心を払うだけで、個人が重要性を帯びてくるはず。なぜなら、慈悲とはまず自分自身に対して向けられるべきものだから。
(日本では慈悲は他に向けられるものと考えられているが本来の慈悲はまず自分に対して、それから他に振り向けられる)自分自身に対して思いやりを持ち、それを周りに向けて広げていく。自分を忌み嫌い嫌悪していたら、他を思いやることなど不可能なことなのだから。(P204~212)
慈悲とは仏教の根幹に関わる教えではあるが、それはともすると他に対する姿勢として考えられてきた。しかし、慈悲とは自分に対しても、というよりは自も他もなくすべての衆生に向けられるべき大切な姿勢として捉えるとき、当然のことながら自分自身に対しても、身近な周りのものたちにも思いやりと慈しみを持つべきであると知られる。それがないがしろにされた慈悲は成立しない。国家の姿勢としても、当然のことながら、一部の人たちだけが栄えるシステムは否定されるべきことであって、すべての人々が平等に恩恵を受ける国民第一の社会を目指すべきなのであろう。
終わりに、帰依ということについて法王は、依存ではない、自立の精神が失われることでもない。自分自身がブッダのようなすばらしい存在になりたいと強く願うことこそが帰依の意味するところであると述べられている。神を信仰して、すべてを創造し、物事を決定するという考えは、その創造主に完全に依存しており、それは、仏教的な観点からは、個人の持つ自信やプライド、創造力といった何かを成し遂げることの出来る力を失わせてしまうものである。(P216~217)
私たち日本人は今自ら勧んで神を信仰せざるを得ないと思い込もうとしてはいまいか。なにもかも決めてもらわねば自らは何も決められない、依存していた方が居心地がいいとあきらめにも似た状況に埋没してはいまいか。だからこそ法王が言われるように、自信もプライドも失いかけているのではあるまいか。特に昨今のどんよりした退廃した社会の雰囲気はまさにこうしたものの反映のように思えてならない。
以上、少しばかり本書の内容を紹介し要らぬ感慨を書いた。たくさんの示唆に富んだ対談であり、多くのメッセージを含んでいる。日本仏教の復興、それこそが日本社会の再生に繋がるとも読める。日本仏教の復興には、一人一人の仏教者が真摯に仏教に学ぶこと。精密に仏教の教えを学び直し、現代の諸問題に対応できる教えとして捉え、選択し直す必要があるであろう。単なる拝み、仏のありがたさを説くだけでは仏教は復興しない。多くの人たちから見放されるだけであろう。仏教本来の教えから現代人に役立つ教えを発掘することも必要であろう。祖師仏教、葬式仏教、儀式仏教からの超越こそが求められていると言えよう。是非ご一読願いたい。
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