住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

考えない習慣

2011年07月07日 08時31分23秒 | 様々な出来事について
先日、ある方の見舞いに病院を訪れた。頸椎を損傷されて身体が動かず、何かに縛り付けられているように思って、早く外してくれとばかり言われていた。何度説明しても、認知症も発症されているのでなかなか了解してくれない。不意にテレビを付けてみたら、そちらに目がいって、見てもらえたので、やっとその問答から解放された。

日長一日何をされていて、何をお考えになっておられるのかと思えた。若い時には学生たちを教えられ、退職されてからも民生委員やいろいろな地域のお世話をされてきていたのに、残念なことに思えた。何か静かに身体を動かさないで出来ること、たとえば坐禅を寝ながらでも出来るのにとも思った。

永平寺の前貫首様で、宮崎奕保禅師という百六歳まで生きられて貫首として坐禅に生涯を捧げられた現代の生き仏のような方が居られた。この方は若いときに結核を患われて、病院の病床にあるとき、道元禅師の言われる如くに、とにかく坐禅だとお考えになって、ベッドの上でひたすら坐禅をされた。看護婦さんが来られて叱られても叱られても坐禅をされた。

何ヶ月かして結核が消えていて、それからも坐禅に邁進されて弟子を教化し、それが故に曹洞宗の最高位へと登られていった。そこが曹洞宗は偉いとも思う。修行をして、本義である坐禅に命を捧げる方を上に押し上げていく宗団のあり方が、現代にあって、なかなか出来そうで出来ることではない。

話はそれたが、では、なぜ坐禅かということになる。坐禅とは考えないことだ。妄想しないこと。普段私たちがしがちなあれこれと周りの刺激に反応して考える習慣を止めるということだ。我思う故に我ありと言うけれども、その思い考えること自体が煩悩に纏われていれば、つまらないことの集積にしかならない。

動かない身体をジタバタも出来ず、心の中でジタバタを繰り返す。何でだと、早く帰りたい、何とかしてくれ、そんな思いばかりが空回りすることであろう。そこでもしも、坐禅をする習慣があれば、仕方ないから静かに坐禅に入ろうという気にでもなれば、とても楽な時間が過ごせるのにと思ったのであった。勿論そんな境地になるには様々な葛藤がその前にあることは想像できるのではあるが。

坐禅は心身を共に癒してくれる。窮屈な時間に思われるかもしれないが、何もせず、心の中に渦巻く思いが鎮まれば、平安な時間が推移する。たとえ病気が治らなくても、安らかな時間が過ごせる。前回の「心という行為」でも書いたとおり、考えて考えて私たちは疲労する。考える習慣を止めるだけで私たちは楽になれる。

以前、奥さんを亡くされて、ふさぎ込み、寂しいと言われていた方が、ひとたびお経を唱え始めるとその思いが消え、その間だけは救われるような気がすると言われていた。お経を唱えている時間は余計なことを考えなくて済む。お経に一心に心が向いているということであろう。お経も、念仏も、題目も、真言も、何でも心をひたむきに一つに向かわせ、考えないという時間を持たせてくれる装置なのかもしれない。その底流にはやはり坐禅があり、仏教本来のありかたが生かされているのだということであろう。

ここ國分寺では、六年前から座禅会を月一回ではあるが開いている。最近になってやっと少しずつ参加者が増え始めた。歩く瞑想を十分。それから坐る瞑想・坐禅三十分を二回。それだけである。警策を持って背中を叩くこともなく、静かに滝の音を聞きながら坐るだけである。月一回ではあるが貴重な時間である。何かあったときのためにも、考えない時間・坐禅の習慣をもつことをお勧めしたい。


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コメント (10)
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