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法話 お釈迦様の教えに学ぶー般若心経の核心を読み解く

2019年10月28日 18時23分57秒 | 仏教に関する様々なお話
法話 お釈迦様の教えに学ぶ

ご紹介いただきました國分寺の横山で御座います。五年前にもこちらでお話しさせていただいております。その時には「しあわせに日々生きるために」というテーマで、海外で注目されている仏教の瞑想についてご紹介をし、仏事についてお話して、皆さんも仏壇の前で少し座って下さいというお願いをして終わったように思います。今日は、仏壇の前でお唱えされている般若心経に関するお話をしたいと思っています。

まず初めに、昨年も今年も災害が続き、特に今年は台風が大きな被害をもたらし、今月も十二・十三と、台風十九号が関東東北に甚大な被害をもたらしました。未だ復旧復興に至っていない地域もある中で、福山は大変に平和でありまして、こうして法会ができますこと誠にありがたいことではありますが、明日は我が身との思いで、一日一日を大切に、今日もしっかりとお話し申し上げたいと存じます。

それでは始めさせていただきます。少々唐突ですが、皆さんは仏ですよ、みんな仏さんなんですと言われたことはありますか。実は、昨年、ある老僧さんから、真言宗は本覚思想なのですと言われました。本覚思想というのは、元々私たちは悟っているのだという考え方です。弘法大師も「阿字の子が阿字のふるさとたちいでて、またたちかえる阿字のふるさと」と言われたではないかと。それで、ただ自分が仏と気がつけばよいのだというんですね。みんな仏さんですよと。煩悩が心を覆ってはいるけれども、本来は仏なんですよと。皆さんもそう言われたことがあるかも知れないですね。ですが、そう言われても、自分が仏などと思えるわけはないので、ただ困ってしまうわけです。真言宗では、三密という修行を推奨します。手に印を結び、口に真言を唱え、心は仏の世界を観想して正に仏様と同じ行いをするという修行をしますが、なかなかそこから悟りは簡単には見えてきません。

みなさんも、仏教の話をいくら聞いても、肝心のどうしたら悟れるのかということは、誰も、教えてくれません。その悟りとはどのようなものかが少しでも分かれば何とか私たちも仏になれるのかなと、もう少し仏が具体的に身近に思えるのではないかと思うのです。


心経への新しいアプローチ

ところで、私たちの触れる仏教は真言宗の教えです。インドの仏教の中で最も新しい教えです。そもそも仏教には二千五百年もの歴史があり、インドでお釈迦様が亡くなられるのが西暦で紀元前五世紀半ばで、一方で真言宗の教えが現れるのが七、八世紀ですから、お釈迦様の時代からゆうに一千年も経ってからの教えということです。

医学の分野でも、少し前から統合医療という様な言い方を致します。細分化した専門部署が統合して一人の患者さんを診ていくという試みです。仏教も、単に真言宗の教えだけを言うのでなしに、仏教全体の理解から発想していくことも必要なのかも知れません。

そう考えますと私たちにとって一番親しみのある般若心経が、そもそもの古い仏教と私たちの真言宗を結び付けてくれる格好の経典であると思えます。なぜなら般若心経は五世紀頃に成立したとされていますが、心経にはお釈迦様の教えもきちんと説かれているからです。

心経は皆さんよくご存知のように、観自在菩薩が、舎利子というお釈迦様の弟子に説く教えです。観音様という悟れるのに悟らずに、衆生を救うとされる菩薩が、阿羅漢というお釈迦様と同じ悟りを得られた、智慧第一のシャーリプッタ・舎利弗尊者に教えを垂れるという内容です。つまりすでに真理を悟った人に向かって説かれた教えであり、私たちのような凡夫に対して説かれた教えではないということです。

ですから、その中に説かれるお釈迦様の教え、この後解説していきますが、五蘊、十二処、十八界、十二因縁、四聖諦は、無と頭に付けられて、あたかも不要なものというように思われていますが、空ということを本当に解り切れていない私たちには、実は、これらの教えこそ、たよりに学び、歩んでいく必要があります。

心経は、最後の真言、羯諦羯諦の真言が大事だと、唱えればご利益がある、有り難い、と思われている、また色即是空空即是色こそ心経の中心であると説く方もあります。それは間違いではないのですが、今日は、普段説かれることなく見過ごされている部分、プリントに一部分取り出してある無無無と否定されたような表現になっているところの話をいたしたいと思います。

今日はこのお釈迦様の教えに学んで、私たちはいかに生きたらいいのか、また悟りとはどのようなものなのかということを見て参りたいと思います。それでは、お手元のプリントをご覧になられてお聞き下さい。順を追って話しますから、頑張って最後までお付き合い下さい。

五蘊とは何か

まずは五蘊とは何かということを話します。プリントの上部に四角く囲ってある心経の抄録があります。一行目には、「照見五蘊皆空度一切苦厄」とあり、二行目には、「是故空中無色無受想行識」とあります。その下に①と書いてある四角をご覧下さい。下に向けて色受想行識と展開してあるものですが、五蘊とは、五つの集まりという意味です。これはもともと、仏教において、私という存在はいかなるものかと規程するものです。私とは尊い、常住不変の永遠なるもの、我などではなく、うつろいゆく五つの集まりに過ぎないのだという意味なのです。

いろと書く色は、私にとっての物質のことですから、身体ということです。正しくは身体の物質的なエネルギーのことです。心臓が動き、血液が身体を流れています。呼吸をして酸素を体中に巡らしてもいます。ですからジッとしていても常に動き流れ変化しています。長い目で見たら、皆さんもかなり変化していますね。五年前、十年前とは別人のように。そこまで変わっていないかも知れませんが、瞬間瞬間変わりつつあります。

それが色です。この色つまり身体に、これからお話しする受想行識という四つの心の働き、これらをまとめて名と言い、身体に心がはいり、心と体が一つとなって私たちは生きています。因みに、死は心と体の分離と定義します。

心のはじめに受があります。これは感受するといいますが、感じることです。見たり聞いたり、嗅いだり、また痛いとか、暑いとか。身体の感覚の変化をずっと感じつつあるということです。ここに関係してくるのが、十二処、十八界です。②の四角ですが、十二処は身体に感じられる情報の取り入れ方を説明するものです。「無眼耳鼻舌身意無色声香味觸法」と心経にあるところですね。眼耳鼻舌身意が六根と言って、外からの情報が入ってくる場所で。そのあとの色声香味觸法が六境と言って、外から入ってくる対象・情報のことです。この六根と六境併せて十二処となります。

六境の色、形あるものが眼に入ります。声というのは音ですね、音が耳に入る。香は香りが鼻に入る。味のするものが舌に入る。触れるものの情報が身・皮膚に入る。法とは、頭に浮かんだもの、記憶とか感情とか思い、それを受け取るのが意という場所ですね。眼に入るものも次々に変わっていき、その間に香りや音がしたり、何かを口に入れて味わったり、体に何か触れたりと刻々と感じつづけます。それが受ですね。

次は、想です。受によってとらえられたものがどんなものかと瞬時に捉え、イメージすることです。頭の中にどんなものかと概念を作り出すことです。たとえば目に入ってきた物が茶色く丸い物で、甘い匂いがして、手に触れると柔らかいとイメージした物が、饅頭という概念にあてはめていくというような過程になるわけです。感覚として入ってきたものを次々に瞬時にそれは何かととらえていくことです。これが想という心の働きです。

そして行がきます。行は想によって概念化したものについて、何かしたいと行為を誘発していきます。想によって饅頭ととらえたものに対して、食べたいという気持ちを起こすことになります。この何かしたいという意欲が行という心の働きです。饅頭を口に入れたら、もっと食べたい、隣のものを食べたい、今度はお茶を飲みたいというように次から次にと意欲が消えずに流れていきます。

最後に識がありますが、これは知るという働きで、図の六識とあるものですが、目でものをとらえる際に知るという心の働きがあって、はじめて感覚として捉えることになります。耳も鼻、舌、皮膚、意にそれらの対象が入る際にこの識という働きによって知ることになります。

識というこの知るという働きですが、これは心のことで、この機能があることが生きているということ、生命であると仏教では考えます。そして、眼耳鼻舌身意と色声香味触法、それに眼識 耳識 鼻識 舌識 身識 意識を併せて十八界と言い、心経には、「無眼界乃至無意識界」とあります。これは、外界を私がどのように認識するか、その仕組みをお釈迦様が解明したものです。

いかがでしょうか、ここまでで、五蘊、それを展開するところの十二処十八界も含めて、どんなものかおわかりいただけたことと思いますが、大事なことは、五蘊はみな変化しつつある、と見ていくことです。

毎朝五時に鐘をついているのですが、ゴーンと鐘を突くと、中秋の名月のころですと、西の空に輝く満月が目に入り、鐘の音が少しずつ小さくなると、遠くの草むらでカサカサと音が耳に入り、何だろうと、目を向けます。すると、大きな黒いものが動くのが目に入ると、それが猪であるとわかり、さらによく見ようとすると、猛烈な勢いで山の方に走って消えていきました。その間にも鼻には前日掃除して火を付けていた草焼きの匂いが入っており、また耳にずっと虫の鳴く声が入っていることに気づき、そうしていましたら、鐘の余韻がなくなるのに気づき、また鐘を撞くという具合に、この短い時間にさえ五蘊の働きは、次々に移り変わり流れていっていることが解ります。

五蘊は、色受想行識が、このように常に変化し移り変わっていく、無常なものであり、すべて私たちの前に現れる、見えるもの、聞こえるもの、匂いも、味も、みんな変わっていってしまうものなので、そのつど受と想と行の心の働きも刻々と移り変わっていきます。好みの服もバッグも、流行り廃りがあり、手に入れても直にまた別のものに目移りします。好きな音楽も何度も聞いていたら耳障りになり、ほかの曲が聞きたくなります。大好物の饅頭も三つも四つも食べたらあいでしまいますが、何日かするとまた食べたくなります。

五蘊のそれぞれがみなそうして、六根に飛び込んできた六境に作用して移り変わっていく無常なもので、もうこれで十分、満足しましたと、もう何も要りません、とはならないのです。ですから、どんなものでも執着するに値するものではない、そこですべてのものは空であるという見方をしていきます。つまり五蘊十二処十八界はお釈迦様が私とは、常住不変の我などではなく、無我であり、空であるということを証明するために説かれたものであり、だからこそ、空を解ってしまえば、無と言い得たわけです。

自我も空なり

さらに、この五蘊の過程の中の受ですね、感覚として受け入れていく際に、自分が見た、聞いたと、自分が入り込んで、自分という思いが生まれ、さらに、想のところで、いろいろな思い巡らせることで自分がいるという思いを強くしていくことになります。自分がいる、と自我が形成され、私たちは、みんな自分がいると確信しています。自分という思いにこだわり、他の人と比較して、羨望や嫉妬などの心を生み、大変に生きることを複雑なものにして、苦しみの元になっています。

ですが、仏教では、それは単なる幻想に過ぎないと考えるのです。この自分という思いも空なんだということです。自我は、この五蘊の中の受や想という作用により作られたものにすぎず、妄想なのだと捉えるのです。うつろいゆく五蘊にすぎない自分も空であり、無我なのだと理解するのです。何か悩み事があったようなときに、一度冷静になって、そのように自分を捉え直してみますと、楽になることがあります。

あるとき境内の草取りをしていたとき、ひどく疲れを感じることがありました。そのとき、仕事の途中に、ある郵便物が配達され、開いてその中身を見て、考えていないようで、知らず知らずのうちに頭の中で、いろいろと思いが回っていたんでしょう、疲れを感じて仕事を終いにして、机に置いてあったその郵便物を見て、ああなんだこれだと、ある人と比較して恥ずかしいことですが嫉妬をして、それで身体がグッタリしているのが解り、それ程でもないと思っていた自我が、自分にもまだまだ強く残っているのだと解った瞬間に、さっと疲れがとれました。皆さんも落ち込んだり悩んだとき、意識もしていない自我が悪さをしているのかもしれない、と見てみると楽になることもあるかと思います。試してみて下さい。

四聖諦とは

そして、心経のその先には、四行目に「無苦集滅道」とあります。③の四角を見ていただくと、四聖諦とあります。心経にはたった四文字ですが、しかしこれは、お釈迦様の根本教説と言われる、とても大事な教えです。お悟りになられたお釈迦様がブッダガヤからサールナートに250キロ歩いてきて五人の修行者に初めて説法し、五人を見事に悟らせ初めて法輪を転じたときの教えです。四つの聖なる真理と訳されます。

ひとつ一つ簡潔に申しますと、苦集滅道の苦聖諦とは、生きるとは何か。それは苦であるということです。今みてきた通り、生きるというのは、この五蘊を常に働かせることであり、私とは五蘊に過ぎないとお釈迦様が言われた通りなのです。色という身体があり、そこにいろいろな情報が入り、それに反応して判断して、行動していますが、その過程に私という自我が入って、自分本位にいろいろと好き勝手に考え判断することになります。ですが、すべてが無常であって、変化し移り変わっていくものなので、自分の感覚も、思いも、したいことも、思い通りというわけにはいかないわけです。そこで常に、不満を抱え、悩み、苦しみつつあるということになります。この現実をよくよく見てみると、生きるということ自体が、そもそも苦しみであると解るということなのです。このことをよく認識理解することが大切だというのが苦の聖諦です。

そう申し上げると、そうかしらと思う人が居られるかも知れませんね。人生とは苦であると納得できない人もあると思います。生きることは素晴らしい、素敵なことが一杯だと人生を捉える人もあるかも知れませんが、よくよく見てみると、生きるというのは大変ですね。一日中寝たいだけ寝ていられる人なんかいません、今日は何もしないでいいと思っても、ゴミを捨てに行かねばならなかったり、何か食べなくてはならないので作ってみたり、玄関前くらい掃除しようとか、本当に何もすることがなければ、逆に退屈してイライラしてしまいます。皆さん結婚されたとき、二人で幸せになりますと大勢の前で言ったかもしれませんが、実際のところいかがでしょうか。何十年も経てどんな感慨をお持ちでしょうか。ですから、結構生きることはつらいし苦しいものなんだと私たちは知っています。ですから、夢を語ったり、いっ時のくつろいだときに、ああいい人生だと思いたいのではないでしょうか。

話変わりますが、今もこうして話を聞いて下さりながら、私の声が皆さんの耳に入り、よく理解して聞いて下さっている方もおられましょうが、人の話をずっと聞くというのは本当は苦しいものです。ですから、中には、なんだか今日の話は小難しいことばかりで、去年の能化さんの方が楽しい話だったなという方もおられるでしょう。ですが、そう判断したらもう話は耳に入らず、それこそ本当に、つらい、苦しいだけの時間を過ごすことになります。

昔奈良の藥師寺に高田好胤さんという有名な管長さんが居られて、話し好きで1時間も2時間も話すわけです。法相宗なので難しい仏教要語が沢山出てくると、中には下を向いてしまう人もあるのですが、そうすると、人の話が少しくらい難しくても、結構な話やな、良く聞いてやろうと思う人と、なんや難しい話になって早く終わらんかいなと思う人では、その人生は雲泥の差があるという話をされました。結構やなと思う人は、どんなことがあっても結構やなと前向きな生き方をする、つまらんなと思う人は何を聞いてもなしてもつまらんなとそういう人生になるんやと言われて、皆さんに話を聞いてもらえるように話されていました。皆さんも、無理にも結構やなと思って聞いて下さった方が、得になると思って聞いて下さい。もう少しで終わります。

そして、集(じつ)聖諦とは、その苦しみはいかにして生ずるのか、ということです。また、その次の滅聖諦はその苦しみをどのように滅していくのか、その滅した状態をこそ目指すべきであるということですが、それを説くのが十二因縁です。これは④の四角を見て下さい。これはこの図にあるように十二因縁には二系統ありまして、一つは苦しみが生じていく過程を述べた十二因縁、その下の縦長に書いてあるものの右側の部分です。それと、苦しみを滅っしていく過程を述べた十二因縁はその左側の部分に書いてあります。心経では「無無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽」というところですが、意味からは、これは、無無明乃至無老死亦無無明尽乃至無老死尽となるところなのです。ゴロの関係からかこのような表現になっています。

まず、苦しみが生じていく因縁のところですが、詳しくは申しませんが、こうした十二の項目で因縁が展開していく過程を説明していくのです。生きるとは何かということに根本的な無知を抱えている私たちは、何かしたいという気持ちがつねにあって行為があり、その過去の行いによって新たな命が生まれ意識が生じる、心と体があり、六つの感覚器官が生まれ、外界との接触により、感覚として受け入れ、愛というのは渇愛とも言いますが、飽くなき欲求のことですが、この渇愛を生じ、取ると書く取は執着することで、それにより、生きたいという心・有を生じて、誕生があり、老死など苦しみを繰り返すという内容になります。

今申したように、その中に愛とあるのは渇愛とも言われ、この渇愛があるから、執着が生まれ、悩み苦しむことになります。渇愛とは無常ということを認めたくないという心であり、永遠なるものを欲して、もっと欲しい、ずっと生きていたいと思う心です。この渇愛こそが苦しみの元にある。そこがこの十二因縁の肝の部分です。

そして、その左に縦に矢印のある、十二因縁の苦しみを滅尽する因縁として、無明が尽きる、つまりなくなれば、行がなく、行がなければ識はないというように展開して、苦を滅し尽くしていくことが滅聖諦であり、もっと欲しい、良くありたい、生き続けたいという渇愛を滅することこそ、私たちは目指すべきであるというのです。それはつまり悟りということになるのです。みんな誰もがそれぞれ人生の目標と言うようなものがあります。その先の先に究極の目標として悟りがあると思って生きるのが仏教徒の生き方ということになります。つまり仏教徒とは、悟りを究極の目標とする人のことだということになります。

最後に道聖諦は、その苦を滅するために八正道という具体的な歩み方を教えられています。それぞれの内容はそこに書いたとおりですが、正見は、この四聖諦を真理として理解することであり、正思、正語、正業は、勤行次第の中にある十善戒のことです。正命は正しい生業をもって生活し、正精進は、善いことに励むこと。大事なのはこの後の正念です。今という瞬間にきちんと意識して自分の現実に気づいているということですが、五年前にお話しした瞑想のことです。マインドフルネスと今は喧伝されています。自らの行い、感覚、心、真理に気づいていることなんです。

私たちは、普段、頭の中で話をするように、ずっと考え続けてはいないでしょうか。漫然と目に入ってきたものに反応し、聞いたものに反応して考え続けています。野放し状態になっています。仏教では、それは良くないことであるとされていて、考えないことが良いことなんです。細かく今この瞬間に、していることに気づきを入れている状態、つまり今という現実に生きることが正念ということです。正定は、何も考えずに一つのことに集中し、落ち着いていることです。

以上、心経で無と頭に付けられた、五蘊十二処十八界十二因縁四聖諦、すべてを一通り解説してみました。般若心経を毎日唱えている訳ですから、本来、皆さんだいたいの意味を了解していてもいいような事柄なのではないかと思います。初めて聞いたという方もあるかも知れませんが、大切な仏教の根本の教えです。是非ご了解いただきたいと思います。

いかに生きたらいいか

仏教の開祖である、お釈迦様はこうした教えを諄々と何十年にもわたり説かれていたのです。もう一度解りやすく申し上げますと、

五蘊とは、人の営みとはいかなるものか、結局人間とは何をしているのか、五蘊という働きに過ぎないということです。関連して、十二処十八界は、私たちが外界とどのように接触しているのかを解明するものです。その接触したものにとらわれ次から次にと心が移っていきます。

自ら、そうした自分の心を観察して、解明していく。悩んでいるなら、その悩みのもとを取り除いていく。そうして賢く生きる方策を示しています。確かな自分などというものはないのに何で自分にこだわっているのか、何にとらわれ悩んでいるのかと、その思いがどこから来て、その悩みの元は何かわかれば、楽に生きられますよ、ということです。

十二因縁は、人はどのように生きるが故に苦しんでいるのか、その苦しみをなくすには、いかにしたらよいか。

四聖諦は、仏教徒としての生き方を示しています。苦聖諦は、人生をいかに捉えたらよいのか、苦と捉えよ、ということです。それは苦とわきまえるということです。悲観して言うわけではないのです。その方が幸せに生きられる、しっかり生きられるということでしょう。人生とは幸せなものだという受け取り方をしていると、ちょっと嫌なこと、しんどいことがあるともうイライラして嫌になります。ですが、もともと苦ばかりですよ人生は、とわきまえている人は、少しくらい何かあっても、そんなものだよと、気楽にニコニコしていられます。

それから、集(じつ)聖諦は、何事にも原因ありということです。悩んだりつらくなるのにも原因があるということです。私たちには、誰にでも、自分には無いと思っていても、とらわれ、こだわり、うぬぼれ、があります。それらを悩み苦しみの原因として認識することが大事なのです。

とらわれ、こだわりということについてお話しますと、ある小学校に後に校長にまでなる立派な先生が居られました。娘さんが年頃になり、お婿さん候補ができたのですが、この先生は娘の嫁入り先が気に入らずに、親子断絶して結婚式にも出なかったのです。ですが、数年して孫ができると、孫かわいさに、いつの間にか出入りするようになり、今では、なんであの時あれほどこだわってしまったのか、わからないほどに、普通に生活しています。

また、うぬぼれということですが、落語の中のつまらない話ですが、昔小唄の女の師匠に鳥元豊志賀という方がありました。この人は男嫌いで有名だったのに、不思議と男の弟子が多かったと言われています。なぜかというと、他の者ではだめかも知れないが、俺ならという、うぬぼれが誰にもあるからということでした。これは三遊亭円朝作の「真景累ヶ淵」に出てくる話ですが、この話には落ちがあって、そのあと、男嫌いの師匠の家の女中が病になり帰らした後、出入りしていたタバコ屋の新吉という自分の子ほど年の離れた若い男を女中代わりに家に入れてしまい、いつの間にか良い仲になり、それが知れて男の弟子たちがみんな離れていくことになったという、自分なら何とかなると思っていたのにあんな若い者にとみんな思ったのです。こういうわけで、ないと思っていても、みんなどんな人にも、とらわれ、こだわり、うぬぼれがあると思って、何かつらい時や苦しい時に、何かにとらわれてはいないか、こだわっていないか、うぬぼれはないかと見ていくと、楽になると思います。

滅聖諦は、では、私たちは何を目指して生きたらいいのか、心の幸せとは何であろうか。苦を滅して、究極的には最高の幸せ、心の解放、何の思いわずらいもない突き抜けた幸せを本当の目標にしてはいかがであろうかということなんですが、どうですか、私たちは、逆に、とらわれ、こだわることを、人生の目標にしているのではないですか。私たちにとって目指すべきは、こだわり、とらわれを滅することにこそあるのだとお釈迦様がおっしゃっているということです。そのためにはいかに生きたらいいかと具体的に理想的な生き方を教えてくれているのが道聖諦の八正道です。見たり聞いたり外から入る刺激に翻弄され、過去未来に思いはせることなく、いまという現実に生きることが大切です。

いかがでしょうか、結構大切な、現代人にも通用する生き方を説いて下さっているとは言えないでしょうか。無と無下に否定してしまっていいものではないと思われませんか。

悟りへの道筋

それで、ここで悟りということについてもう少しお話をしてみたいと思うのですが、八正道の中の正念にて申し上げたように、その時その時の、今の心に気づいてゆくと、心がとても鋭くなって、一瞬のうちに展開する五蘊のひとつ一つが解るようになります。すべては因縁によって、現れ消えていく、ただ流れていくもので、執着するものではないと解ります。そして、とらわれ、こだわり、疑いなどが消えて、すべてを空と見て、自我がなくなって、貪瞋癡の煩悩のすべてを消していき、最後は生存欲も無くなって最高の悟りを得るとされています。これは、勿論とてもおおざっぱな流れではあるのですが、この道筋を理解して、将来私たちも、正しくこの道を行けば仏様に通じている、つまり私たちも仏になれるのだということにもなります。ここまで心経で言う苦集滅道に含まれる内容です。

そして、ここで心経に帰っていきます。心経の最後の真言に、羯諦羯諦とあります。羯諦とは、行くという意味です。どこにか、彼岸、つまり悟りの世界にです。悟りに逝けるものよ、とか、彼岸に至れり、と訳したりします。全体では、「至れり、至れり、彼岸に至れり、彼岸に到達せり、悟りに幸いあれ」という意味になります。いかがでしょうか、ここでやっとお釈迦様の教えと心経の意味するところとが合致していたことがわかります。凡夫である私たちは、心経で無と否定したお釈迦様の教えにより、心経の結論にまで到達して、舎利子の立場となりこの真言を味わうべきなのかもしれません。


ではこうして、私たちも確かに仏さんになれるのだと分かったうえで、大事なのはその事を知ってから、どう生きるかということなのではないかと思います。弘法大師が書かれたとされる「即身成仏義」という著作があります。今年改めて読ませていただく機会がありましたが、この本ですが、読むと、真言宗で言う即身成仏とは、何もみんな仏なんだ、悟ってるんだから安心しなさい、仏と気がつけばいい、などというような内容ではないんです。「この身において仏になると確信しつつも、仏になることにこだわらずに、果てしなく輪廻を繰り返す生涯の中に身を置きながら、衆生の利益と安楽に勤めて、自身を百億の身に分けて、輪廻に苦しめられている生き物たちの中に入りこんで、彼らを導き菩薩の位に到達させるのが私たちの役割である」と書いてあります。

実は、これは、そもそも大乗仏教に生きる人の生き方であって、大乗の菩薩は自分は悟りの世界に行くことなく、何度も生まれ変わりすべての人々生き物たちが悟り尽くすまで菩薩行に励むことになっています。これを自未得度先度他「自ら未だ得度せざるに先に他を渡す」と言います。また真言宗の常用経典である理趣経もそこに書いたように何度も輪廻転生して利他行に励むべしとあります。

ですが、そう言われても、では具体的に何をしたらいいのかと困ってしまうという方には、無財の七施という教えがあります。衆生を助けるのに、何も多くの財産や知識、技術や知恵が無くとも出来ることが沢山あります。人に柔らかい気持ちを与える眼差しの眼施、時場合に相応しい顔を施す和顔施、幸せな気持ちになるような言葉を施す言辞施、身体により手助けしてあげる身施、善くあって欲しいという気持ちを施す心施、席を譲る床座施、泊まるところを施す房舎施というのがあります。これらをご縁のある方々に適した施しをして差し上げたら、ありがたい施しになると思います。

最後にはなりますが、仏教は常に向上する生き方を求める教えです。たいへん誇り高き教えです。そういうわけで、私も向上するために、今日は皆様に少々厄介なテーマを選び、原稿を作り準備をして、お話し申し上げた次第であります。仏教徒であるとの強い意識を持って、毎日お唱えになる般若心経を読む度に今日のお話を思い返して、精進いただけたらありがたく存じます。長時間にわたりご清聴ありがとうございました。

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