住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

寺とは何か、檀信徒とは。

2021年10月13日 13時01分28秒 | 仏教に関する様々なお話
寺とは何か、檀信徒とは。



お寺は檀信徒の菩提所であり祈願所でもある。だがそうあるためにはお寺はどうあるべきなのか。本来お寺とはいかなるものなのか。檀信徒とはどのような方々なのか。

インドで最初にできたお寺は、ヴィハーラ・精舎といわれ、修行に精励する比丘・遊行僧のための粗末な建物に過ぎなかった。勿論そこで有徳の長老僧から教えを聞き、坐禅瞑想の手ほどきを受け、ウポーサタ・布薩という、ひと月二回の戒本の読誦を聞き精進を誓った。それがサンガーラーマ・伽藍といわれるような、仏像を祀った礼拝所と宿泊所があり、のちに栴檀林といわれるような学問所ができるのはずっと時代を経てからのことである。

因みに、寺とは、中国で最初に西域から来た僧が泊まったのが鴻臚寺という役所であったため、僧侶の住まいを寺と言うようになったという。そして、実質的な運営面を考えるならば、寺は修行に精練する僧侶の宿泊する場ではあるが、彼らの信奉する教えの価値をわきまえ、その修行を支援するために、建物を寄附し食事など生活面のサポートをし、そうして、彼らから教えを聞き学び、自らも仏道に励むウパーサカ(信士)・ウパーシカ(信女)といわれる在家の人々の存在が不可欠であった。だからこそ日本でも寺院には必ず檀信徒がおられ各寺院を支えている。

しかし今日、現代の日本社会においては、寺院のその本来あるべき意義が失われてしまっているかのように見える。寺は人が亡くなった時に必要とされる葬式をつかさどり、その後の法事をしてもらうところ。ないしは、様々なご祈願ごとをお願いするところであり、そうした仏事全般を担うところとしか見られていない。そこに集う人々がそれは自らの信仰に基づく仏道のためという意識は希薄なのではないか。風光明媚な散策の場でもあり、静かに心癒す場など、その他いろいろな役割があるとは思われるが、僧俗共に最も大切な自らの仏道を実現するための道場という認識が失われてしまっているのではないかと思われる。

しかし寺院と檀信徒との関係を考えるとき、この本来の意味から捉えない限り、寺院は儀礼のみという形骸化を招く現状に荷担するばかりとなるであろう。住まう僧侶らは、自らの修行を日々行じつつ、仏の存在を自らの理想として生きる人々の、その理想に近づくための歩みを実現する場としての寺院を、檀信徒とともに維持管理し、様々な諸行事を含め円滑な運営することがなすべき大事な役割であろう。また集う人々の信仰の場である寺院を支える檀信徒は、寺院を支えることにより大きな功徳を積むわけであるが、それは自らの信仰のためでもあり、先祖代々の供養のためであると考えるのであろう。

檀信徒は、その寺院に関係する多くの人々の信仰と修行のために奉仕し支援する誠に甚大な功徳主であり、それを先祖代々続けてこられている。寺院にとって、そして仏教にとって、とても大切な御恩ある方々である。そして、その大切な檀信徒の中で、もしも万が一ご不幸あったときには、何を差し置いても駆けつけて経を上げさせていただき、有り難い戒名を授けさせてもらい、長年お寺のために尽くして下さったことに感謝を述べて、懇ろに葬儀を執り行わせていただく、年忌法要にも出向くというのが本来のあるべき仏事であろう。

昨今、こうした寺院と檀信徒の本来からの関係性をわきまえず、仏事を単なる商行為の如くに捉え、ネットにおいて安価奨励する企業もある。信仰なき媒介は益々現代人の宗教的価値を低下させ、先祖代々大切にしてきた仏壇や仏事の形骸化を招くだけであろう。葬式法事など仏事の本来的な意味を逸脱した供養ははたしてあり得るのかと問われねばならない。葬式は要らない、墓じまい、といわれ、それが時代の風潮の如くに扱われる時代ではあるが、なればこそ、頑なに本来のあるべき姿にこだわる必要があるのではないかと思える。

寺院は、本来、仏を理想として生きる、つまり自らも仏に近づいていくことを目的とする人々にとっての心の修行の場であるからこそ、そこで行われる仏事という善行功徳に対してその意味を知り随喜して、先祖も含め故人の成仏を願い、その功徳を回向することが可能となるのではないか。仏壇中段に祀られる先祖各霊の位牌は、さらにその上の仏になるべく親族に合掌され祈りを捧げられる。しかしその位牌に私たち自身の戒名が刻まれ並べられるときが来る。遺族からは成仏を願われる存在ということになる。であるならば、こうして生きているときにも私たちは命を生きる最終ゴールは仏のところにあることを知るべきであろう。だからこそ寺院があり、集う人々とともに教えを学び精進する場がいかに大事なものであるかがわかる。私たちは何のために生きているのか、しあわせとは何かをを今一度立ち止まって考えてみる必要があるのかもしれない。仏壇に託され、先祖代々承け継がれてきた信仰のありがたさ、意味を感じ取っていただけたらありがたい。


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休み堂の俳額について

2021年10月05日 09時34分44秒 | 備後國分寺の風景
休み堂の俳額について



先月二十日、東広島市からわざわざ國分寺の俳額をご覧に研究者の方々がお越しになった。俳額といわれてもピンと来ないかもしれない。休み堂正面上部に、細長い木に何か書いてあり、周りを雲の形に刻んだ枠が取り付けられた額が掲げられていることは存じていたが、それがどんなものかも知らず、伝え聞くこともなかったため、大して気にかけて見たこともなかったのである。しかし、お話を聞くと、芸備地区の俳諧の研究に生涯没頭された広島文教大学下垣内和人先生の本に、備後國分寺のこの額のことが記されており、それも江戸時代中期の宝暦四年(1754)に奉納された貴重な文化財であるとのことであった。

ところで、今日俳句は盛んに愛好され嗜む方も多いが、この俳句といわれる文芸のもとは俳諧といわれるものだったという。その起こりは、とても古く、平安時代の古今和歌集に俳諧歌として収録されているのが原点であるとされ、平安末期の歌人藤原清輔は「奥義抄」に、「俳諧の本質とは、その場その場で歌を詠む即興性やその才能にあり、正しい系統としての連歌に対し、自然や人間の本質に迫る文芸である」と記している。

俳諧はそもそも俳諧連歌と呼ばれ、和歌から派生して中世に流行した連歌が内容的には和歌に近く雅な文芸であったのに対し、俳諧連歌は滑稽を主として、五七五と七七を交互に複数の人が連ねていく共同制作の文芸であり、主要な形式は百句を連ねる百韻というものだった。その初めの句を発句といい、時処に応じた客人のあいさつに相当し、一句で完結し独立性が強かったために、それ以後の七七の脇句や第三句を予想ぜず単独で作られるようになり近代になり俳句を生み出すことになる。

俳諧は、江戸時代初期に和歌連歌の大家であった松永貞徳(1571-1653)という人が、和歌連歌に入門する準備として、手軽に普段人々が使っている言葉を用いた詩歌である俳諧を勧め、古歌などの古い文を本格的に学んでいない人々でも気楽に参加できる庶民文芸として流行した。これを貞門派の俳諧というが、その後俗語のみならず流行語や奇抜な着想を取り入れ放埓な言葉遊びを得意とする談林派と呼ばれる俳諧も生まれ広まっていた。さらに両派に学んだ松尾芭蕉(1644-1694)が登場し、雅語と俗語の異質な言葉の組み合わせによる、それまでの通念を超えた新感覚の着想を楽しむ俳諧が生まれ、その門流を蕉門派といった。

備後地方には水野家二代勝俊侯の時代に貞徳の門人野々口立圃が慶安四年(1651)より勝俊侯に仕え、草戸明王院縁起『草戸記』などを著したのをはじめ、十年余りの間水野家との交渉があったという。そしてこの間に福山を中心に備後一帯に貞門派の俳諧が広まった。明暦から延宝にかけて貞門系の俳書に多くの芸備の俳人、主に備後の人たちの名を見ることができる。

一方、談林俳諧の創始者である西山宗因(1605-1682)は慶安元年に広島に来遊したというが、その後その門人たちによって、談林派の俳諧が広島や備後三原のほか福山鞆に広まった。また元禄七年丁度国分寺本堂が再建された年に芭蕉が没し、その後その門人たちが安芸広島を訪れ、蕉風の俳諧が伝えられた。

蕉門十哲のひとり志田野坡(やば)が享保元年(1716)に福山にきて、門弟深津の醤油業今津屋達士・酒造業鍵屋由均らの支持を得て、風羅堂を創設、芭蕉を一世とし、野坡は二世と称した。その後広島の風律ら有力な門人を持ったため蕉門野坡流と呼ばれて、芸備に門人百数十名、近世芸備俳壇の主流となったという。

享保の末、野坡は福山から広島に移り、医師であった渡部素浅が四十五歳ころから野坡の教えを受け風羅堂三世となる。この素浅の序文を載せた俳書に、『桜苗』(東西軒野橘・時々斎宜応・梅水堂沙鴎編元文5年(1740)刊)があり、この編者の一人、時々斎宜応こそ、備後国分寺に残る俳額『奉納俳諧五十唫』の撰者である。

ただし、この俳額は残念ながらと言うべきか、蕉門野坡流の俳額ではなく、雑俳の分類になるのだとは言うのだが。雑俳とは、江戸時代に行われたより通俗化した俳諧で、長編の本格的俳諧に対し、二句だけのつけあいであり、前句付(まえくづけ)の俳諧などが行われ、さらにそこから派生した一種の懸賞文芸を雑俳という。点者が出題して、会所と呼ばれる仲介者が広く句を募り、各地の取次者に集められた投句から、点者が優秀作を選び、入選句を刷り物にして賞品とともに投句者に配るという興行ものであったという。万句寄(まんくよせ)、万句合(まんくあわせ)などとも言われ好評を博し、のちに川柳や狂句にいたるものだともいう。

お越しになられた研究者の方からも、俳額に記された五十句の作品を奉納するためには、一万一万五千の句から選ばれてここに書かれているのだから、一人十句としても、千人、千五百人の人たちが句を詠んでいるというお話であった。江戸時代からこのような俳額が神社仏閣に奉納されるようになり、広島県下には昭和まで124箇所、江戸時代だけでも94箇所に奉納された記録があり、ここ備後國分寺に宝暦四年(1754)奉納された俳額(270×36cm、外枠含め285×50cm)は、その四番目に古いものだという。先生に言われてから薄くなった文字を改めて見てみると、右端には、「奉納俳諧五十唫 撰者福山時々斎」、左端には、「寶暦四年甲戌六月」と読める。さらに、投句した人の俳号の上には小さく「胡町、長者町、笠岡町、吉津村、深津村・・」などの地名も読み取れる。またよく見ると、中ほどに、もう一人の撰者、「福山四角庵」という名もみえる。下垣内教授の著書には、南淵・梅保・柳枝・松露・雪子・菊水・不智らなどとも記されている。

この休み堂は近く取り壊される予定になっているが、研究者の方からその後電話があり、当日撮られた写真では今一つ文字を読み取ることができなかったので、改めて調査解読したいので、取り壊して額を下ろしたらぜひ連絡してほしいとのことであった。誠に有り難いことである。267年の時を超えて、当時の俳人たちの投句が読み解かれる日も近い。そこに何が書かれているのか、何を題材にしたのか、楽しみである。遠路はるばるお越しくださり、新たな国分寺の文化財を発掘してくださった研究者のお二人に感謝申し上げます。

参考文献 「芸備俳諧史の研究 下垣内和人著」「俳句のユーモア 坪内稔典」
    「小学館 日本大百科全書」

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