住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

法話 禅のすすめ-しあわせのための肝心かなめとは 

2017年09月22日 18時27分47秒 | 仏教に関する様々なお話
神辺町からまいりました、國分寺の横山でございます。◯年前にもこちらでお話しをさせて頂いておりまして、二回目になりますが、本日もどうぞ宜しくお願いいたします。ところで、前回、どんなお話をしたか、もうお忘れかと存じます。勤行次第の解説をさせてもらったかと思いますが、皆さんお忘れなら同じ話をしてもよいのですが。確か最後に、毎朝仏壇に御供えして読経の後に、仏壇の仏様のように十分間座ってみて下さいというような話をしたと思います。

そこで今日は前回の話しに引き続いて、仏様のように座るということ、座禅ということですが、この禅ということをテーマにお話したいと思います。禅に関するお話をしながら、幸せのための肝心要とはどんなことかというお話も申し上げたいと思っております。お手元のプリントは専門的な言葉が分かりやすいように、ホワイトボード代わりにプリントにしてあります、ご覧になりながら、どうかお付き合いをお願い致します。

ところで、國分寺も真言宗のお寺ですが、毎月第一土曜日に座禅会を開いています。禅宗のお寺でもないのにおかしいと思われる方もあるかも知れませんが、私自身が、これまでずっとこの禅、座禅と関わりを持ってきており、自分でも座禅をしたいと思い座禅会を開いているのですが、もうかれこれ10年以上になります。WINKという、福山地区の、このような情報誌がありますが、昨年一月の「お寺と神社で事始め」という特集に1頁掲載されました。今では毎月十人ばかりお越しになっています。

仏道の中の禅

ひろく仏教の実践、仏教を行じるということ、その歩み方には、布施戒定慧という順序があります。布施をして徳を積み、戒を守り清浄な生活をしていると心落ち着き、座禅をして禅定に入り、智慧を獲得するという流れになります。ですから、禅というのは、そもそも仏教には不可欠なものだということになりますが、檀家様である皆様は、施しをする人のことですからお寺に御布施をなさる、そして戒を守り清浄な生活をしておられる、ならばその次には座禅をやはりしなくてはならない時期にあるといえるのかと思います。

ただ、そんなに専門的に何時間も座禅をしなくてはいけないかというとそうではなくて、誰にでも行えるように、たとえば、私たちが日常している、読経も、御宝号や真言読誦、念仏、唱題、これは南無妙法蓮華経と経題を唱えることですが、これらなども唱えながら心を練る、集中して心を統一するということでは、みな禅と言えるものです。例えば読経時の脳波を計ると座禅をしたときと同じ脳波が出ていることが分かっております。

また、昔、浄土宗の大本山で東京の芝増上寺に参りましたとき、本堂で、お寺さんが一生懸命木魚を叩き念仏していました。正にトランスに入ったような、心が仏様の所に飛んでしまったような恍惚の表情で唱えられていました。念仏も仏を念じて一つになる禅なのです。また真言宗には阿字観という瞑想法があり、阿と梵字で書かれた掛け軸を前にそれと一体になるという瞑想をいたします。また、法会の際にも為される仏様を供養する供養法も、お導師さまが壇の前に座られて作法をなされますね、そのなかに四無量心観、入我我入観、正念誦、字輪観があり、みなそれらも瞑想法なんです。ですから本来、仏教全般にこの禅や瞑想という要素が入っており、これがなくては仏教ではないとも言えます。ですから、皆さんにも、仏壇の前で座って下さいと申し上げたわけなんですが、禅を身近に捉えて下さい。

お釈迦様のさとり

インドの言葉で禅は、ディヤーナといい、瞑想、凝視、直観という意味になりますが、そもそも、お釈迦様も、このディヤーナ、座禅瞑想して悟られたのです。29歳の時お城を出て出家されて、ウルヴェーラのセーナー村にやってきて、六年間、呼吸を止めたり断食をしたりの苦行の末、スジャータ村の娘が供養する乳粥を食べて体力を整え、深い瞑想に入られます。

お悟りになる晩、お釈迦様は静かに瞑想に入って行かれると、先ず心身共にものすごい楽しく喜びにつつまれ、強烈な楽しみに考えることもできなくなり、自分という存在感もなくなり喜びに浸り、苦も楽も喜びもない安定した平静な幸福感に包まれるという四禅を経て、その深い瞑想状態の中で、自分の過去世、過去の生存に思いを巡らされたといわれています。次々に何千生何万生という、何回も何回も生まれ変わってきた過去世を思い出され、それぞれの名前、食べ物、苦と楽、寿命を具体的に思い出されました。

それから、他の生ける者たちがどのように死にどのように生まれ変わっていくかと思い巡らされると、天眼によって、劣った者も優れた者も、幸福な者も不幸な者も、みなその業によって生まれ変わる様子をご覧になったのです。悪行あり邪な業を引き受けている者は苦処地獄に生まれ、善行あり正しい見解による業を引き受けている者は善処天界に生まれ変わるのを克明に、いくつもいくつもの再生をご覧になられました。

そして、煩悩を滅する智慧に心を向けると、苦と煩悩について、それらが起こり滅していく様を如実に知り、智慧が生じて、欲の煩悩、生存の煩悩、無明の煩悩からも心が解脱して、つまり、すべての煩悩から解放されて、お悟りになられたと、古い経典、大サッチャカ経などに記されています。

ですから何度も何度も生まれ変わりして功徳を積み、今生にお釈迦さまは悟るべくしてお生まれになったと言えます。ですが、私たちも前世までにどれだけの修行をし功徳を積んできたのかわかりません。ですから、いまからでも頑張って修行するとすぐに結果が現れてくるということも考えられます。

このお釈迦様のお悟りこそが私たち仏教徒の目指すところでありますが、悟りとは、どんなことかと言えば、苦しみの世界からの脱出、悩みや苦しみのもとである煩悩がすべてなくなることです。そこに一歩一歩、何度生まれ変わっても、たとえ時に後ずさりしながらも、前進する生き方を教えるのが仏教という教えになります。お釈迦様の教えはすぐに結果の現れるものです。ですから、お釈迦様の真似をして座ってみる。お釈迦様の教えられるように少し頑張ることで、実は、とても簡単に、日常のストレスが減り、悩みも早く解決したり、人間関係もうまくいくようになるのです。

海外の禅ブーム-マインドフルネス

そこで、今、この仏教の禅、瞑想が現代人のストレス解消に大変に効果があるからと、世界的に、特に西洋世界で、十年ほど前から一大ブームとなっています。マインドフルネスという言葉を聞いたことはないでしょうか。お医者さんから心理療法士、学校の先生、企業幹部たちが血眼になって、そのエッセンスを習得せんと瞑想しています。

マインドフルネスと名づけられたこの瞑想法は、アメリカのマサチューセッツ大学医学部のジョン・カバット・ジンという先生が始められたのですが、1970年代の末ころから、南方仏教の瞑想法を習い、そこから宗教性を排除して、その瞑想技法のみを用いたストレス低減法として採用したことに端を発するといわれています。

マインドフルネスとは、「今のこの瞬間に体験していることを、意識的に、評価せず、とらわれずに、ただ観ていること」、と定義されていまして、いま自分がしていること思っていることに気づいていること、を意味します。座って瞑想するときも、日常でも、そのように過ごすことが、様々な場面で、落ち着いて心穏やかに、集中して的確に行うことが出来る技法として注目されているのです。

心臓病、癌、肺疾患、高血圧、頭痛、慢性的な痛み、不眠症、皮膚病、鬱病、不安・ストレスの改善に繋がるともいわれます。アメリカ政府の2007年の統計によると、アメリカ本土2000万人が健康のためにマインドフルネスを含む何らかの瞑想を行っており、2009年にはマインドフルネス関連で年間42億ドルも費用が使われたとしています。

新聞テレビラジオ雑誌が取り上げ、有名企業、たとえば、グーグル、アップル、ゴールドマンサックス、食品会社ゼネラル・ミルズ、保険会社エトナなどが、本社の敷地内の建物すべてに瞑想室を設けていたり、社内で瞑想することが日常的に行われ、従業員の健康管理コストの軽減につなげたり、画期的な製品の開発に利用されていたりということです。

教育機関では、精神的な落ち着き、いじめや暴力の緩和などのために行われ、病院では、ストレスの軽減、鬱病の再発防止にこの瞑想を用いた認知療法が取り入れられています。さらに、刑務所や軍隊でもこの瞑想を採用して、退役軍人の心的外傷後ストレス障害PTSDのケアに用いられていると報告されています。

禅を日常にいかす

こんな風に海外の様子を紹介しますと、そんなに専門的には出来ないと思われるかも知れません。がしかし、私たち日本人は実は、すでに、先ほども申しましたように、身近にこのマインドフルネスと言いますか、禅というものを行っているのです。例えば、お茶、お花、剣道であるとか弓道もそうでしょう。お茶のお点前の時には、作法に集中し、一挙手一投足にわたり気をつけておこないますね。そうして、既に皆さんも禅に触れながら生きていると言えます。

ですが、こうした禅をその時だけでなく、日常生活の中にもいかしていくことが大切なのです。それはなぜかと申しますと、私たちは、考える葦であると言われ、(フランスの17世紀の哲学者パスカルの言葉ですが)、考えることはよいことと思って、常に何か頭の中で考えてます。外から入る刺激、なにか見ても、聞いても、臭いをかいでも、また思い出したりしても、その刺激に反応して、あれこれ考えたり。ですが、そうして野放図に考え続けていること、つまり妄想することは、仏教的には、煩悩のままに心を遊ばせていることであると考え、あれこれ考えて私たちは頭の中で考えが回転し続け、心を浪費していると考えます。

いろいろな欲や怒りで先のこと未来のことを考え心配し悩み、嫉妬したり、後悔したりして過去のことを思い出しては苦しんでいます。うまくいかないことがあったり、人に何か言われて、クヨクヨと落ち込んだり、あれやこれやと、ずっと頭の中は話し続けて自ら悩み苦しんでいます。あるいは頭の中で歌を歌っていたり。妄想して、考えて、いつも頭が回転してますから、忙しい忙しいと言い、一日を終えるときには疲れ切っています。頭を妄想に明け渡したような状態といえます。ですから、人生は妄想に埋没している、人生とは妄想との格闘である、とも言えるのかもしれません。

そこで、法句経という古い経典の33偈には「心は動揺し不安定にして守りがたく抑えがたい、賢者はこれを直くす、弓師の箭を直くするが如し」とあります。少し飽きてきた人もあると思いますので、パーリ語でお唱えしてみます、パンダナンチャパランチッタン ドゥーラッカンドゥンニバーラヤン ウジュンカローティメーダービー ウスカーロージャテージャナンとなります。また、35偈には、「心は制しがたく、軽挙にして、欲望のままに走り回る、心を制御するはよきことなり、心を制御せば安楽なり」とあります。

では、心を制御するとはどういうことか、どうしたらよいのか、ということですが。マインドフルネスに生きる、今していることに常に気づいていたらよいのですが、そう簡単ではありません。そこで、今自分のしていることをひとつ一つ言葉で細かく確認していくと、妄想せずに、考えずに、今ここにある自分を生きられます。自分のしていることを実況中継するような感じで確認を入れていきます。日常生活の中でどんな風にするのかといいますと。

私は、朝のお勤めの前に仏飯お茶湯をお供えしますが、その時にはこのようにおこないます。小さな皿に取り置いた仏飯のお盆を持つときに、持ちます、歩きます、右、左、・・扉を開けます、入ります、扉を閉めます、皿を持ちます、運びます、置きます、移動します、皿を持ちます、運びます、置きます、とこんな具合に心の中で言いながら致します。お茶湯も、お湯の入ったやかんを持ちます、移動します、湯飲みを取ります、注ぎます、戻します、移動します、という具合にしますと、その間に雑念妄想が湧くことなく、とても静かな心で行うことができ、落ち着いた心でお勤めに入っていけます。

ご飯を食べるときも、手を合わせます、いただきます、箸を取ります、汁椀を取ります、口を付けます、飲みます、芋を挟みます、口に入れます、嚙みます、飲み込みます、汁椀を戻します、という具合にしますと、他のことを考えずに食事に専念して食べることが出来ます。そうしますと、とても美味しく、ひと噛みひと噛み味わっていただくことができます。他のことを考えながら食べるのと違い、楽に消化吸収されて、少量で満腹感がありますから、ダイエットにもよいかもしれません。

このようにして、一日ずっと隙間なく実況中継するのが理想ですが、たいへんですから、たとえば、朝仏飯を仏壇に御供えするときとか、掃除するときなどからはじめていただけたらよいかと思います。また心がそぞろで落ち着かないとき、悩み事があって頭から離れないようなときに、意識的にやってみますと、そうした時間を持つだけで、心をさっと入れ替えることが出来ます。心をリセット出来ます。歯を磨くときも、歩くときも、車を運転するときにも、こうしたひとつ一つの行いに気をつけて行うとよいかと思います。

そうした、妄想しない考えない習慣のために、定期的に瞑想することが大切になるのですが、このような具合に日常生活すべてにこのマインドフルネス、今行っていることに心を集中する、その時の感覚を感じる、気づきつつあること、これを仏教的にはサティ、念と言いますが、八正道の中の正念に該当します。これを不放逸ともいいまして、放逸の状態とは、先ほど申しましたように妄想に心を明け渡し、過去や未来のことに心遊ばせ今に心がない状態のことです。そこで、きちんと今の自分の行いや思いに気づきつつ過ごす、不放逸に生活することが大切だというのです。

またパーリ語の偈文を唱えてみます。アッパマドーアマタパダン パマードーマッチュノーパダン アッパマッターナミーヤンティ イェーパマッターヤターマター これは、法句経21偈ですが、意味は、「不放逸は不死の道、放逸は死の道である。不放逸な者たちは死すことなく、放逸なる者たちはあたかも死者の如し。」となりまして、不死の道とは悟りへの道、幸せへの道です。つまり、今ここに居て、行っていること、体験していることに心を向けて、妄想しない、考えないことが幸せに至る道であり、放逸に妄想のまま過ごすことは不幸への道であるということです。この正念、不放逸ということ、妄想を停止して今に生きることこそが幸せのための肝心かなめ、最も大事なことなのです。

(Wikipedia仏教では妄想を「もうぞう」と読むことが多い。妄想は心を曇らして煩悩を増幅せしめる最大の原因として厳しく戒められている。精神医学でいわれる病的なものとは異なり、仏教における妄想は範囲が広く、健常者が日常的に行っていることである。過去を悔やんだり、未来をあれこれ気にしたり、主観的な価値判断や断定をしたり、考えてもわからないことを頭の中であれこれ思考することなど多岐に及ぶ。)

座禅の実際

それでは次に、國分寺の座禅会ではどんな風に座禅会を進めているかお話します。まず、座禅会の本尊様タイのお釈迦様の御像を前に、皆さんで心経を唱えてから、歩く瞑想を十分間行います。広間の南北を行ったり来たりしますが、手を前か後ろに組み、右足上がります、運びます、下ろします、左足上がります、・・と心で言いながら、足の離れる感触、床に付くときの感覚などに気をつけながら、すべての動作をスローモーションのようにゆっくりゆっくり、一足ずつ歩きます。壁まで来ましたら回りますと言ってから、右足左足と同じようにいたします。

普段何気なく歩いてますが、こうして自分の動作を確認しながら歩くというのはぎこちないものになったりします。歩くというのは結構複雑な動作を伴う難しいものだなと思えます。これも歩く動作を言葉で確認して妄想しない考えないという練習なのですが、日常の雑念から離れ、座禅するにあたり、心を静めていくためにいたします。

十分歩きましたら、次に座禅三十分を二回致しますが、お尻の先だけ少し高く小さな布団を置いて胡座をかき、右足を左の腿の上に置いて、両手を腹の前に重ねて背筋を伸ばします。正面を向いて、目を閉じますが、顔が緊張しないように、リラックスして座ります。呼吸を一つ二つと数えたり、お腹の膨らみへこみを観察したり、鼻の先の息の出入りを観察したりいろいろな方法がありますが、余計なことを考えず、ずっと呼吸に意識を保ちながら座ります。あちらこちらに心が飛んでいきましたら、すぐに気づき、また呼吸に意識を戻します。

そのままお釈迦様のように、私たちも悟れたら苦労しませんが、ジッとしているというのは難行苦行です。いろいろなことを考えてみたり、妄想したり、足が痛くなったり、寝てしまったり、滝の音や鳥のさえずりに心が動いたりします。できれば早くそのことに気づいて、いいとか悪いとか判断分析せずに、雑念・・、傷み・・、睡眠・・、音・・、というように言葉で確認を入れて雑念などを切って、もとの瞑想に戻るようにします。そうして、少しでも、心穏やかに、なにも考えない、ストレスのない、妄想しない時間を三十分の内のわずかでも経験するだけで、終わった後は、とても爽快で、心地よく、元気になっている自分を実感できるものです。


以上、禅をテーマにお話ししてまいりました。今私たちは、長年国に預けてきた大事なものが勝手に減らされ、出るものばかりが多くなり、生活が苦しくなる一方で、さらに隣国から何か飛んでくると脅かされて、不安な日々を余儀なくされています。危ない時代にさしかかっているのかも知れません。そこで、幸せのための肝心かなめ、余計なことは考えない、惑わされない、踊らされない。そのために禅ということを意識して、まずはこの後立ち上がるところから、実況中継はじめていただきたいと思います。立ちます立ちます、歩きます、右左ですから。よろしくお願いします。ありがとうございました。

(参考文献 自分を変える気づきの瞑想法 A・スマナサーラ著)


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