住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

みてくれの大切さ

2006年09月03日 17時34分07秒 | 様々な出来事について
外見より中身。そんな言葉が聞こえてきそうな気がする。しかし、人を外見で見るというのは、誰もがしていることであろう。外見でその人の大体の人物を見て、話しかけたり、用心したりということを当たり前にしている。不審な人に気をつけてください、と言うのも頷けよう。だが、一方で人を外見だけで判断してはいけないというのも事実である。

インドの聖地にリシケシと言うところがあって、かつてビートルズか訪ねたところとしても記憶されているのだが。私がはじめてインドに一人バックパッカーしたとき、5月の灼熱のブッダガヤから逃げていった先がリシケシであった。ドゥーン・エクスプレスという急行列車の寝台車に丸1日乗って北西に向かい、体調を壊し車中何も食べることも出来ずリシケシに辿り着き、ガンジス河の冷たい雪解け水に足を着けたときの感激は今でも忘れられない。母なるガンガー、そのものだと感じた。

そのリシケシで泊まったヴェーダニケタンというヒンドゥー教のお寺からガンがー沿いに細長くバザールがあり、店と店が離れたところにはぎっしりと巡礼者のいでたちをした乞食たちが並んで器を前に置いて行き交う人に手を差し出していた。

インドならどこでも出会う、いつものことで別に何も思っていなかったのだが、あるときその中に一人際だって目の輝いた人が座っているのに気づいた。なにげに視線が合い、その人の目の中に吸い込まれるのではないかと思われ、何もかも私のことを見透かしているかのように、またその澄んだ瞳に心が浄められるようなそんな不思議な瞬間を体験した。

後から様々な人から話を聞くと、どうもそうした乞食の中に、たまに本当のかなり到達した修行者が紛れ込み、そうして喜捨を乞い、心に何の欲も現れないことを確認するために、他の殆ど乞食と化した巡礼者然とした人たちに混じって坐っているのだと聞きた。ただの乞食だと十把一絡げに見て馬鹿には出来ないということになろうか。

脱線ついでに、インドではまた、人々の特に中年以降の人たちの歩く姿がとても美しく思うことが度々あった。田舎の路地を歩くインド服を着た、たとえば、クルターというクルーネック、プルオーバーの腿まである綿シャツに、下は長い布を左右の足に纏ったドーティといういでたちで歩く人など特に背筋がまっすぐで、堂々と大地を踏みしめて歩くその姿は同姓であってもほれぼれするほどであった。

昔お釈迦さまの時代に、ある沙弥(未成年の見習い僧)が街を托鉢するその姿の美しさに街の人々の視線が釘付けとなり、そのことをお釈迦さまに問うと、きちんと自らの行いに気づきつつ心落ち着き一つの動作にも隙が無いからであると言われたという。その沙弥は年は若くてもかなりの修行が進んでおり、聖者の階梯にある人であった。

さらには、別に学歴があるわけでもない田舎の老人でも驚くほど落ち着いていて哲学者然とした微笑みを浮かべていたりする。そうしたことを見ていくと、学歴も地位も知識も豊富な情報も関係なく、人間として身につけるべきものは何かということになるのではないか。

インドは生活の中に宗教が生きていると言われる。小さな時から様々な演劇や地域の行事などから宗教性を身につけ、なぜ生まれてきたか、生きるとはいかなることか、働くとは何か、人間はいかにあるべきか、物事の本質とは何か、世の中の有り様とはいかなるものか、そんなことを当然のことのようにわきまえ思索しつつ成人し、歳を重ねていくのであろう。

姿の美しさに裏付けられた内面の確かさというものがあるということになろうか。実は昨日も坐禅会があり、数名の方々とともに、歩く瞑想をし、坐禅をした。歩く姿、坐る姿の美しさにこだわりたいものだと思う。勿論内面の充実が現れる外見でなければならないことは言うまでもないが。

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捨てるということ・2

2006年09月01日 08時41分31秒 | 仏教に関する様々なお話
何かあって、嫌悪感や怒り、欲、後悔、恨み辛みなどが沸いても、心に任せて次から次にと思いを膨らませ、心の中で口汚く罵ったり、欲情に心遊ばせるようなことなく、また素直な気持ちにフタをしてしまうことなく、その時に生じた思いを、そのまま冷静に観察して終わりにする、その思いを後々に引きずらずに捨ててしまうべきなのであろう。過ぎ去った過去にこだわらず、未だ来たらぬ未来に心遊ばせることなく、今を軽やかに正しく生きるために。

しかし、どれだけ私たちはこうした「思いを捨てる、手放す」ということを実践できるであろうか。突然何か心にさわることを言われたりもするかもしれない。うわさ話に尾ひれがついて悪口の矛先になっているかもしれない。自分のことを軽々しくあしらう人もいるだろう。それでもその瞬間に現れる感情を他人事のように冷静に観察し、終わらせてしまう。後味の悪い嫌な思いをしたり、怒ったり、そうした自分の気持ちを客観的に見て、心が波打つ前に捨ててしまうべきなのであろう。しかしそうしようと思ってはいても、それは、そう簡単なことでもないかもしれない。

また、私たちはどうしてもあることから心離れず心が沈みこみ思い悩んでしまうこともある。随分前のことではあるが、ある死に至る病気に罹ったと思いこんだ時期があった。2ヶ月半ほどの間寝ても覚めても心はそのことだけに捕らわれて、何で自分が、何で隣の人ではなく、自分なのか。身近な人にはどう言い繕えばいいのか。こんなに皆さんに良くしてもらって折角このようにお膳立てをしてもらいながら、何と言えばいいのか。これからどうなるのか。治療にはいくらかかるのか。そんなことばかりが気がつくと頭に去来していた。

そして、考えないように考えないようにと思っても気がつけばそのことに思いがいく。ついには、ぶざまな最期を辿るよりはもう死を選ぶしかあるまい。どうやったら死ねるだろうか。保険にはどのように入ったらいいのか。そんなことまで考えるようになって夜眠ることも出来ず、次第に身体も衰弱し、目はくぼみ、腹部には常に違和感を憶えた。

そんなある晩、どうしようもなく、気がつくとすがるように、ただひたすらに慈悲の瞑想を繰り返していた。すると、初めは頭が熱く額も汗ばんでいたものが次第に心安らぎ、心落ち着き、その瞑想だけに心が専念できるようになっていた。そして、なんとか眠ることが出来るようになった。そして毎晩繰り返すうちに、日中も心の中に死への恐怖感はあるものの日常をつつがなく過ごすことが出来るようになっていた。そして2ヶ月後の検査でそれは単なる杞憂にすぎなかったことを知った。

事の軽重はあれ、心配したり後悔したり怒ったり、またある特定の人に対する思いや心配がどうしようもなく心にわだかまり、思いが募ることもあるだろう。誰にでもそうしたことがあるのではないか。そんなとき、どうすればその重たい思いを断ち切ることが出来るか。その考えたくない思いを捨てられるか。私が思わず唱えていた慈悲の瞑想のように、その方法を心得ているかいないかは私たちの精神生活にとって結構重大なことではないか思う。常日頃の習慣も必要かもしれない。

先に述べたように、何もない普通に過ごす日々の中で、小さな心の動揺にも気づきその瞬間にその思いを断ち切る習慣を身につけることも必要であろう。時には静かにお寺で坐禅でもして、鳥のさえずり、水の音を聞き、他に何の刺激も入らない中で自らの心を観察する修養も必要かもしれない。近くのお寺でそっと静かな時を過ごすことも無駄なことではないだろう。

(ここ國分寺でも毎月一度ではあるけれども、坐禅会を催している。是非近隣諸氏は軽い気持ちでご参加いただきたいと思う)

慈悲の瞑想
 背筋を伸ばして静かに坐り、まずは、

『私は幸せでありますように、
 私の悩み苦しみがなくなりますように、 
 私の願い事がかなえられますように、
 私にさとりの光があらわれますように』

と自分自身の幸せを心から念じ、それから、

『身近な人たちは、幸せでありますように、
 身近な人たちの悩み苦しみがなくなりますように、
 身近な人たちの願い事がかなえられますように、
 身近な人たちにもさとりの光があらわれますように』

と身近な人一人ひとりの顔を思い浮かべながら念じます。そして、

『生きとし生けるものたちが幸せでありますように、
 生きとし生けるものたちの悩み苦しみがなくなりますように、
 生きとし生けるものたちの願い事がかなえられますように、
 生きとし生けるものたちにもさとりの光があらわれますように、
 生きとし生けるものたちが幸せでありますように、
 生きとし生けるものたちが幸せでありますように、
 生きとし生けるものたちが幸せでありますように』

とすべての生き物たちの幸せを念じます。

目を閉じ心落ち着かせ、ゆっくりと一つ一つ心の中で唱え、時間をかけて念じてみて下さい。必ずや自然と心の中にあたたかいものがこみ上げ、心安らかになり、何も恐れるものがなくなっていることと思います。

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