住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

この国はこれでいいのか

2006年03月19日 18時45分23秒 | 様々な出来事について
今朝、9時半頃、初老の夫婦がお寺の玄関に現れた。何か仕事をさせてくださいと言う。かつては三朝温泉に住み込みで働いていたのだけれど、仕事にあぶれ、瀬戸内なら仕事があろうと思って出てきた。が、その仕事も結局リストラされて、食いつないでいたお金も底をつき、野宿しながらここまで来た。それで、3日ほどなにも口に入れていないとのことだった。

どこへでも寝かせてもらって、お掃除でも何でもさせてもらえないかと言う。このお寺は構えは大きいが、檀家が少なく経済的な余裕がないと言うと、なら一時間でも結構だから何か掃除でもさせてくれと言う。

いわゆるものもらいというのとも違う。ただお金を下さい、食べ物をめぐんで下さいということではなかった。そこで、そこまで言われるのならと境内の草抜きをお願いした。はたしてどんな仕事をしてくれるかと思っていたが、時折見てみると、とても真面目に苔の中の雑草を一つ一つ丁寧にぬいてくれていた。

2時間ほどして、もうよろしいから、休んで下さい、今暖かい麺ものを用意していますからと言うと、あそこの枯れた笹を刈るから鎌を貸して下されと言われて、持ってくるとそれもきれいに刈ってくれた。それから礼を差し上げて食事をされたらそのままお帰りになった。何とも、良くして下さった跡を見るにつけ、何でこんな真面目な人たちに仕事がないのだろうかと考えさせられた。

満足な仕事が出来ない、丁寧な仕事が出来ない、素直さがないなど、仕事にあぶれる仕事に就けない人とはそうしたものかと思うけれども、このお二人は決してそんな人たちには見えなかった。勿論長くしていけば何か癖のようなものが現れるのかも知れないが。

それでもやはり今の世の中、経済状況が混迷する中で、ただ会社の利益のため、余分と思われる人件費を削減することが当たり前の世の中なのだろうか。いやむしろリストラを推奨すらしているきらいがあるのではないか。社会全体の利益のために企業というのは配慮する必要もありはしないか。

たとえ民間企業であっても、大きくなればなるほど社会に対しての影響力があり、それだけ責任があることを知るべきなのではないかと思う。今日ではアメリカ式の経営方式がとられ株主や経営陣優先の経営となりつつある。かつての終身雇用は全く時代遅れと成り果ててしまったが、本当にその方が良いのだろうか。

聞くところによれば、フランスでは、26歳以下の従業員を採用した場合には別段理由無くして解雇できるとする法律が成立して若者達のデモが起こっているという。日本も実際既にそうした状態にあるのではないか。

国の財政は健全なる多くの国民の経済的安定の基に成立するものではないだろうか。単に一部の人間だけの幸福を優先するところに国の安定はない。昨今の犯罪の多発、治安の乱れは正にこのことを意味しているのではないかと思われる。日本の国に他国のようなスラムが生まれつつある。

ところで、英国サッカーのベッカム選手は、お城のような所に住み、豪勢な生活を送っている反面、その生活を維持するために相当に高額のセキュリティー費用を支払い、ボディガードを家族全員に付けているという。私たちの国もそうなるのであろうか。いや既にそういう時代になってしまっているのであろう。人を大切にしないという、そもそものボタンの掛け違いが社会全体を蝕んでいることを知るべきなのであろう。
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断食に学ぶ

2006年03月06日 15時08分16秒 | 様々な出来事について
先月、半ば頃、咳が出て喉が腫れ、風邪の兆候から喘息を引き起こし、数日一日中咳が止まらないほどのしんどい思いをした。これまでなら医者に行き薬をもらい栄養を補給して養生するところであったが、一昨年からのこの繰り返しに何かもどかしい思いがあった。

明日にはやはり医者に行かねばと思っていた晩、食膳を前になぜかこの食事も薬も摂らなければ良くなるのではないかという思いを抱いた。別にその食事の内容が悪いのではない。ただ断食することによって治るのでないかという漠然としたインスピレーションに過ぎなかった。

だが、実際次の朝には嘘のように喉が楽になっていた。その日も食べず、二日目の朝にはすっかり体も楽になって時折咳が出る程度まで回復した。熱っぽかった体も回復し喉の腫れも引いていた。

実は、かつて高野山で百日間の四度加行(しどけぎょう)中に、やはり最後の一週間を前に同じような症状に見舞われて、それでも以前から決めていた一週間の断食を行った。体力が持つかと心配されたものの、そこまでの段階でも朝昼の二食にしていたが、全く食べなくなってからの方が体が楽になり、喉の腫れや咳も収まり、結局難なく一週間を乗り切った。

その時、人間は食べなくては生きられないものの、この食事による食べ物の消化吸収に大変なエネルギーを消費してもいるのだということが分かった。断食中、横になって目を閉じていると周りで何が起こっているかということが知らず知らずのうちに分かり、人の足音にその人の顔が思い浮かぶということもあった。食べないでいると食べることに普段使われているエネルギーが精神面に向いて不思議なことがいろいろと起こるようだ。


勿論、そんなことを思い出してこの度断食したのではなかった。実は、昨年、ここ神辺の文化会館で、楽健法という足踏みマッサージ法の創始者で、またプロの役者として芝居をなさっている奈良東光寺のご住職山内宥厳先生の一人芝居「がらんどうはうたう」を拝見した。

その内容が私には正に聴衆の心の中にジリジリと迫り訴えかける説法そのものと思われた。公演後ご挨拶させてもらい、その後、ご自身も喘息を患われた経験から、食を細くするようになどといくつかのアドバイスを頂いていたのだった。

この度の経験は、病気というのは薬と栄養を摂って養生するものという思い込みや常識の逆を行うことではあったけれども、本来仏教とは世間の常識の逆を語るものであったということに改めて気づかされた。

私たちは誰もが健康で長生きをしたいのであって、その為に健康食品を食べたり、栄養のある食材を集めたり、大変な努力を払うわけだが、お釈迦様は、すべては無常だと言われる。みんな誰しも病気にもなるし、いずれ死が訪れるものだと。

また楽をして楽しく暮らしたいと思う私たちに向かって、人生は苦だと言う。楽しい思いをしている時間としんどい思い、辛い思い、退屈な思い、思い通りにならずに苦しんでいる時間を比較したら、やっぱり苦ばかりではないかと。

いい車に乗り、立派な家に暮らし、上等な服にアクセサリー、何もかにも欲しくなる私たちに向かって、本当は自分の物なんかないよと、みんないずれ失ってしまうのだし、自分と思っている自分自身だって思い通りにならないではないかと、だから執着しなさんなと言う。

勿論だからと言って簡単にお釈迦様のように悟れるものではない。しかし、困ったときは思い込みや常識だと思っていることと逆のことをしてみると意外とうまくいくこともあるのかもしれない。何でも鵜呑みにし、世間の物の見方や考えに流され、行いがちではあるけれども、すべての常識を疑ってかかる事も大切なことなのであろう。常識とは普通の人々の考えに過ぎないのだから。
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