では本家本元のインドではどうなのか、昔インドのコルカタの僧院にいる頃、お呼ばれをして法事に参加する機会が何度もありました。一人二人のお坊さんを家に招いてする小さな法事は、ニマントランと言って、招待という意味ですが、昔亡くなった先祖の命日などに行うのですが、十一時半頃家に到着したら、まず、その家の奥さんなどが出てこられて、丁寧に礼拝されて、簡単な挨拶をしていると、その場にお膳が運ばれてきます。インドのことですから、もちろんカレーなのですが、大きなステンレスのプレートの中にご飯やチャパティというパンと小さな皿に入ったカレーが二三種類、サブジという野菜のカレー、マッチュリーという魚のカレー、マーンスというチキンや山羊の肉のカレーなど、それにチャツネという少し酸っぱい漬け物などが盛りつけられていました。
その家庭で食べられているスパイスで作られているので、そんなに辛いこともなく、ですが、とても滋養たっぷりの薬膳とも言えるようなご馳走が振る舞われました。インドや南方のお坊さんたちは、戒律で正午以降固形物を口にしてはいけないので、正に2食分くらい沢山の量を食べて、食べたら二時間くらい横になって午睡を取る習慣があります。ですから、その時も、信者さんの家で、しばらく横になったりして休み、それから簡単にカラニーヤメッタスッタなど慈悲のお経を唱え帰ってくるのです。
一方、お葬式のあと七日目や、半年後、又一年後には盛大な法事を行います。こちらはサンガダーンと言って、僧団への施与という意味で、五人以上のお坊さんを招き食事を供養する儀式です。お寺に親族が来てする場合もあり、家にぞろぞろと、五人のお坊さんがバスに揺られたり電車に乗って駆けつけるということもありました。お寺でするようなときは、朝の6時頃からガタゴト外がやかましくなり、テントが張られ中ではスパイスを刻むことから始まり、その場で一からカレー料理が作られていきました。
十一時頃には本堂のひな壇にお坊さんたち一同が一列に座らされ、下に信者親族が座ると、施主から、その日の法事の始まりを告げる懇請文が唱えられます。「オーカーサ、バンダーミバンテー、ティサラネーナサハッ、パンチャシーランダンマンヤーチャーミ、アヌッガハンカットバー、エーバンデータメーバンテー」と三遍唱えて、尊者様を礼拝し申し上げます、どうか私たちに三帰五戒をお授け下さいとお願いすると、長老のお坊さんが、「ヤマハンバダーミタンバデータ」と、ではお授けいたしましょうと応じ、「ナモータッサーヴァガバトーアラハトーサンマーサンブッダッサー」と礼拝文が唱えられ、信者さんたちも唱和し、続いて、「ブッダンサラナンガッチャーミ・ダンマンサラナンガッチャーミ・サンガンサラナンガッチャーミ」と、三帰依文が唱えられ、それに唱和し、「パーナーティパーターベーラマニーシッカーパダンサマーディヤーミ・・・・」と五戒が唱えられお授けされると、信者も唱和して五戒を受けるのです。
それから、お坊さんたちみなで、やはりカラニーヤメッタスッタなどパリッタというお経が唱えられると長老のお坊さんから法話があり、最後にあらかじめ用意されていた大きなお盆の中にコップにつがれた水を施主ら三四人で、少しずつお盆に返されつつ、お坊さんから、功徳随喜の偈文が唱えられていきます。この功徳が、水がお盆に満たされていく如くに、生きとし生けるものたちに満たされ、亡き故人にもその功徳が行き渡りますようにと祈念されるのです。
その後、その場が食事会場となり、机が運ばれ、一人一人のお坊さんの前に大きなプレートが置かれ、そこにバケツに入れられたご飯がよそわれ続いてカレーや他の惣菜などがつがれていきました。食べても食べてもすぐにご飯やカレーがよそわれるので、途中でバスバスと、もう十分ですと言わないといつまでもおかわりが来てしまうのでした。
このようにインドの法事は、在家信者が三帰五戒を授かり、仏道に新たに精進することを決意し、お坊さんたちにさらに健康に修行に励んでもらうべく、たらふく食事を供養してその功徳を一切衆生に、そして故人にもその功徳が至り来世でよりよくあるようにと願われるものです。
ところで、今、実は西洋で、日本の法事という仕組みが真似されていると言ったら驚かれるでしょうか。今から二十年ばかり前、デニス・クラスというアメリカ人の宗教心理学者が日本に来て、日本の家庭に入り込み、仏壇や法事を研究し、それを論文で発表するや、アメリカやヨーロッパのキリスト教徒たちが日本の法事に併せてみんなで集いパーティをするようになったというのです。
十九世紀の心理学者フロイトは、いつまでも亡くなった人を思い悲しむのは病気であると教えました。しかし人はそんなに強い存在ではない、無理に無かったことには出来ない。そこで多くの人たちが病む社会となります。そこで、亡くなった人に近しい人たちが日本の法事の時期に合わせて集い、共にその喪失感を共有することで心癒やすようになったということです。カール・ベッカーという京都大学のこころの未来研究センター教授が報告されていました。
同様に仏壇も、ご先祖様にいろいろ報告したり、悩みを打ち明けてみたり、勇気をもらったりする場として、日本人にとってそれは、豊かな心を養う貴重な装置であるとも言われています。
法事や仏壇というと、どうでしょう。今では、やっかいなもの、慣習としてしなくてはいけないとか、しきたりのようなものとして、ネガティブに捉えられがちではないでしょうか。しかし、アメリカの先生が言われるように、その本来の意味はとても大切な実用的なものであったとも言えないでしょうか。
法事は、故人が私たちに残してくれた、置き手紙ではないかと思えます。日頃仏教に縁の無かった親族たちにも、仏道に精進させ、善行功徳ある行いをさせることで、功徳を積ませ、自分亡き後も、残していくものたちにしっかりと健やかに過ごしてもらう。そのことによって、家族、親族が結束して、執り行うことの大切さを知らせ、縁ある者たちが力を合わせて助け合い、皆が心通わせていく、それによって、一人一人も自然と心癒やされていく機会となるものとして、仏事、法事はあったのではないかと思うのです。それは正に日本人の代々受け継いできた大事な営みであり、そうして縁ある者たちを守ってきたのであり、日本人の叡智であるとも言えるのではないかと思えるのです。
この数年来、仏壇を整理する、墓じまいといった言葉をよく耳にするようにもなりました。たとえば仏壇をお寺に預ける、先祖代々の墓をほかしてしまうなどといった現代の風潮は、ここに見てきたような日本人が長年大切にしてきた仏壇や仏事の意味を顧みずに、安易に時代の風潮として行われているのではないかとも思えます。もちろんそれぞれに事情があることでしょうが、若い人たちに負担になる、迷惑を掛けたくないというような、まるでネガティブなものとしてしか捉えられていないと感じます。そうではなくて、それは先人の智慧の結晶として継承してきたものであり、心理学的にも大事なものであるという観点から再認識をしていただき、ますます仏事に仏道にご精進願いたいと思うのであります。
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