住職のひとりごと

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住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

『仏説父母恩重経』を読む 1

2017年02月02日 15時46分47秒 | 仏教に関する様々なお話
 インドに興った仏教は中央アジアを経由して紀元前一世紀頃に中国に到達したと言われます。西域から中国に渡った僧らがもたらした経典を漢訳し中国に徐々に仏教は定着していきましたが、仏教を中国社会に浸透させるために、中国で新たに経典が制作されていきました。仁義礼智信といった五常、木火土金水の五行など中国思想を仏教の五戒や十善という実践的な教えの裏付けとするなど中国人に理解と納得をさせるための経典など多くの中国版の経典が生み出されていきました。
 ここにとりあげた『仏説父母恩重経』も、唐代の初め、七世紀の前半に成立し、その後様々な改変の末今日まで広く読まれている経典です。
 かつて、南方仏教所伝の『父母報恩経』(パーリ増支部経典二・四)について学び、この経について、一文書いて『ダンマサーラ』という布教紙に掲載したところ、それをご覧下さった二松学舎大学の教授で壽徳寺のご住職故新井慧誉先生から直々にお電話をいただき、「その経典は、仏説父母恩重経の元になる経典なのだが、どちらの出典か」とのお問い合わせをいただき、その後ご自身の父母恩重経に関する研究論文をお送り下さり、大変恐縮した記憶があります。
 この経典が今日まで長くそして広く東アジアで読まれているのにはそれが誠に大切な親の恩について説かれているばかりか、その出典がやはり古いお釈迦様の説法をその出典としているところに理由があるように思います。
 私自身、実はこの中国制作の仏説父母恩重経は最近まで深く味わうこともなく過ごしておりました。昨年後半に、奈良藥師寺の元管長であられた高田好胤師の法話を度々聞く機会があり、その中で誠に高くこの経典について評価されていることを知り、私も改めて声を出して読んでみました。その法話の中で好胤師自らもそのようであったと言われるとおり、読み進める途中から涙が溢れ涙を拭きながら読誦いたしました。
 親孝行の「孝は徳の本なり、教えのよって生ずるところなり」、と中国儒教の『孝経』にあり、また「親を愛する者はあえて人を憎まず、親を敬う者はあえて人を侮らず」ともあります。すべての善き行いのはじめに親孝行の心があり、そこからすべての教えが生まれてくるのだということです。
 『仏説淨飯王般涅槃経』(国訳一切経経集部二)によれば、お釈迦様も、出家の身ではありましたが、父淨飯王が病篤くなりお釈迦様や孫のラーフラらに会いたいと願っていることを知られると、神足通という神通力で虚空を飛びカピラ城に駆けつけています。死の床に伏す父王の額に手を触れて、「父王は清浄なる戒行の人であり、既に心に垢を離れ、諸々の教えを自らのものとし、善き功徳を沢山蓄えられている。故に歓喜してその時を迎え、意を寛かにせよ」と説かれ、手を父王の胸に置かれて看取り、死しては、父母養育の恩に報いてその棺を釈迦族出身の弟子らと担いだとあります。
 現代社会では、戦後戦前の教育を全否定してしまったが故に、ついぞ忘れ去られた感があり、かつて日本人が大切にしてきた徳目の最も大事な教えであったのだと思われます。正に孝は教えの本であり、道徳、教育の根本にあるべきものであるということは、人として時代や土地にかかわらず普遍のことでありましょう。
 聖武天皇の息女で後に出家しその後重祚される孝謙天皇は、天平宝字元年(七五七)、孝経を各家庭一巻ずつ受持すべしとの詔を発せられ、孝経を国民必読の書とされました。以来日本人の長い歴史の中で、常に人々の心のおおもとに孝の心が当たり前のようにあったはずなのです。
 その孝について、仏教の立場から分かりやすく説いた教えがこの『仏説父母恩重経』です。その内容は決して古くさいものではなく、今を生きる私たちが常日頃目にしたり、考えさせられる内容が書かれていてドキリとさせられるものばかりです。正に親の恩、親に対する孝の大切さは普遍なものであることを教えてくれています。
 書き下し文でふりがなもあり普通に読んでいける経典です。是非一度声を出してお読み下さることをお願いしたいと思います。読誦するだけで親孝行にもなると言われています。勿論読めば孝行の大切さが身につまされ、孝行の気持ちを表せざるを得なくなることでしょう。
 それでは、少しずつ経典を読んでみましょう。 

 『かくの如く われ聞けり。
 あるとき、仏、王舎城の耆闍崛(ぎしやくつ)山中に、菩薩・声聞(しようもん)の衆と、ともに、ましましき。比丘(びく)・比丘尼(びくに)・優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい)・一切諸天の人民および竜鬼神等、法を聞き奉(たてまつ)らんとて、来たり集まり、一心に宝座を囲んで、瞬(またたき)もせず、尊顔を仰ぎみたりき。
 このとき、仏、すなわち法を説いて宣(のたま)わく。
 一切の善男子・善女人、父に慈恩あり、母に悲恩あり。その故は、人のこの世に生まるるは、宿業を因として、父母を縁とせり。父にあらされば生ぜず、母にあらざれば育(いく)せず。ここをもって、気を父の胤(たね)に受け、形を母の胎(たい)に託す。』

 耆闍崛(ぎしやくつ)山とは、霊鷲山ともいい、マガタ国の都王舎城(ラージャグリハ)を囲む山の一つで、法華経など多くの説法をなした山として経典中によく出てまいります。
 そこで、たくさんの聴衆を前に教えを説かれるのですが、菩薩とは自分が悟る前に他の多くの人たちを救うことを願い修行する人たちであり、声聞とはもとはお釈迦様の声を聞いた人たちのことで自らの修行の完成を目指し努力する人のことです。
 比丘とは乞食であり二百を越える戒を厳正に守る男性の出家者、比丘尼とは女性の出家者です。優婆塞(うばそく)は在家の男性仏教徒、優婆夷(うばい)は在家の女性仏教徒、一切諸天の人民とは、前世でたくさんの善業を積み天界に生まれ変わった者たちのことで、竜鬼神は死んでも供養されず粗暴な精霊となった者のことです。
 そうしたたくさんの者たちに囲まれて、お釈迦様は、人がこの世に生まれるのは、自ら持っている過去世の行いに宿された業によって自ら生まれるべくして生まれるのであり、それに際して、お父さんの胤をもらいお母さんのお腹に身体を宿らせ、人として生まれてくると説かれています。よくあれかしとの眼差しでいてくれるお父さん、何かあってはいけないと常に心配するお母さんには、子を慈しみ恵む暖かい心があり、父母とは自らにとって唯一のかけがえのない人たちなのだということでしょう。
 以前、池川明さんという東京の産婦人科医の著書『子どもは親を選んで生まれてくる』を紹介したことがありましたが、頼んでもないのに生んでと両親を恨みののしるような子の話をしたことがあります。が、この経にあるように、仏教的にも、みな自らの業によって自らその業に見合う親の所を選んで生まれてくるのだということがわかります。

 『この因縁をもってのゆえに、悲母の子を思うこと、世間に比(たぐ)いあることなく、その恩、未形(みぎよう)におよべり。はじめ胎に受けしより、十月(とつき)を経るの間(あいだ)、行・住・坐・臥、ともにもろもろの苦悩を受く。苦悩休むときなきがゆえに、常に好める飲食(おんじき)・衣服を得るも、愛欲の念を生ぜず、ただ一心に安く産まんことを念(おも)う。
 月満ち、日足りて、生産(しようさん)のときいたれば、業風(ごつぷう)吹きて、これを促し、骨節(ほねふし)ことごとく痛み、汗膏(あせあぶら)ともに流れて、その苦しみ耐えがたし。父も身心戦(おのの)き恐れて、母と子とを憂念(ゆうねん)し、諸親眷属(しよしんけんぞく)みな悉く苦悩す。すでに生まれて、草上(そうじよう)に墜(お)つれば、父母の喜び限りなきこと、なお貧女の如意珠を得たるがごとし。その子、声を発すれば母も初めて、この世に生まれいでたるが如し。』

 ここでは未形の恩という言葉が出てまいりますが、これは生まれるというのはお母さんの胎内から出てきた時を言うのでなしに、胎内に命の宿った瞬間が本当の誕生であり、その形のないときからお母さんのお腹の中で十月十日の間もずっとお母さんの恩を受けているということなのです。
 また如意珠というのは、地蔵菩薩や如意輪観音が手にしている如意宝珠のことで、自分の子が生まれるというのは、心の思うままに願い事を叶えてくれる宝の珠を手にしたほどの喜びを感ずるものだというのです。
 それから、「その子、声を発すれば母も初めて、この世に生まれいでたるが如し」、とありますが、これはお母さんは子どもを生むとき一度死んで子どもが生まれた産声を聞いて再び生きかえってくるのだと考えられて、このように説かれているのです。

 『それよりこのかた、母の懐(ふところ)を寝床となし、母の膝を遊び場となし、母の乳を食物となし、母の情(なさけ)を性命(いのち)となす。飢えるとき、食を求むるに、母にあらざれば喰らわず。渇(かわ)けるとき、飲み物を求めるに、母にあらざれば飲まず、寒きとき、服(きもの)を加えるに、母にあらざれば着ず。暑きとき、衣(きもの)を撒(さ)るに、母にあらざれば脱(ぬ)がず。母、飢えにあたるときも、哺(ふく)めるを吐きて、子に喰らわしめ、母、寒さに苦しむときも、着たるを脱ぎて、子に被(こうぶ)らす。
 母にあらざれば養われず、母にあらざれば育てられず。その揺籃(ゆりかご)を離れるにおよべば、十指(じゆつし)の甲の中に、子の不浄を食らう。計るに人々、母の乳を飲むこと、一百八十斛(こく)となす。父母の恩重きこと、天のきわまりなきが如し。』
 
 ここはだいたい読んだら分かる内容となっていますが、「母の乳を飲むこと一百八十斛となす」とあります。斛は石と同じ体積の単位で、日本では一八〇.三九リットルですが、中国では一石は一〇〇リットルほどであったようです。いずれにせよ大変な量のお乳を飲んでいるというのですが、母や親にかかる枕詞の「たらちね」という言葉は、垂乳根と書き、お母さんの子に与えた乳によってその垂れたる様を形容しているのだそうですが、それほどお母さんはたくさんの乳を子に与えてきたということなのでしょう。

 『母、東西の隣里(りんり)に傭(やと)われて、あるいは水汲み、あるいは火焚(ひた)き、あるいは碓(うす)つき、あるいは臼挽(ひ)き、種々のことに服従して、家に帰るのとき、未だ至らざるに、今やわが児(こ)、わが家(いえ)に泣き叫びて、われを恋い慕(した)わんと思い起こせば、胸さわぎ、心驚き、ふたつの乳流れいでて、忍びたうることあたわず。すなわち、去りて家に帰る。
 児、遙かに母の来たるを見て、揺籃の中にあれば、すなわち、頭を揺るがし、脳(なづき)をろうし、外(ほか)にあれば、すなわち腹這いして出できたり。嗚呼(そらなき)して、母に向かう。母は子のために足を早め、身(からだ)を曲げ、長く両手をのべて、塵土(ちりつち)を払い、わが口を子の口に接(つ)けつつ、乳を出してこれを飲ましむ。このとき、母は児を見て歓び、児は母を見て喜ぶ。両情(りようじよう)一致、恩愛のあまねきこと、またこれに過ぐるものなし。
 二歳、懐(ふところ)を離れて、始めて行く。父にあらざれば、火の身(からだ)を焼くことを知らず。母にあらざれば、刀(はもの)の指を落とすことを知らず。
 三歳、乳を離れて、初めて食らう。父にあらざれば、毒の命を落とすことを知らず。母にあらざれば、薬の病を救うことを知らず。父・母、外に出でて、他の座席に行き、美味珍食(びみちんしよく)を得ることあれば、自らこれを喰らうに忍びず、懐に収めて持ち帰り、呼び来たりて、子に与う。十度(とたび)帰れば、九度(ここのたび)まで、子に与う。これを得れば、すなわち歓喜して、かつ笑い、かつ喰らう。もし過(あやま)りて、一度も得ざれば、すなわちいつわり泣き、いつわり叫びて、父を責め母に迫る。』

 徐々に成長していく過程を述べたこのあたりも読めば意味のとれる内容ですが、「父・母、外に出でて、他の座席に行き、美味珍食(びみちんしよく)を得ることあれば、自らこれを喰らうに忍びず、懐に収めて持ち帰り、呼び来たりて、子に与う」とあるあたり、まさに子どもを第一に思う親心がよく表現されたところと言えます。つづく


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