住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

わかりやすい仏教史⑦ー中国仏教の最盛期とその後 1

2007年07月31日 15時09分49秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など

(大法輪誌平成十四年一月号掲載)

前回は、仏教伝来から南北朝時代までの中国仏教について述べました。今回は、その最盛期を迎える隋唐時代の仏教を中心に、その後現代にいたるまでの中国仏教を概観したいと思います。

隋の統一

北周の武帝による廃仏の後、無宗教政治が続いていた北シナでは、隋の創業主文帝(在位五八一ー六〇四)が即位すると、直ちに仏道二教復興の詔を出し、特に仏教に対しては自ら王家を率いて復興の先頭に立ったと言われています。

長安に新しい都城を建設し、城内に国立寺院として大興善寺が建てられ、隋唐にわたる名僧が住する中央仏教随一の名刹になりました。また全国の州県に州立県立の僧寺尼寺を建てるようすすめ、日本の国分寺制のもととなりました。

また、文帝は当時の最も学徳ある高僧を長安に招き、特別待遇を与え教学の宣揚をさせました。そこへ天下の学僧が集まり、南北朝時代までに培った教学を基礎とした宗派の開創に結びついていきました。

隋はその後、質素倹約を奨励して国力を充実させ、五八九年南朝の陳を制圧し天下統一を果たしました。討陳軍の総帥晋王広(のちの煬帝)は、揚州に駐在して仏寺や道観(道教寺院)を建て、もとの陳の宗教界の人材を招きました。これらの高僧の中には彼が特に親近し尊敬した天台宗の智や三論宗の吉蔵らがありました。

天台宗と三論宗

[天台宗]は今の浙江省にある神仙の棲む山として名高い天台山を聖地として、法華経を根本聖典とする学派でした。すべてのものを一切の条件を円満に欠けることなく具えた真実の姿であると捉え、喜怒哀楽に生きる私たちの現実そのままが仏のいのちに他ならず、すべてのものがさとりを開く条件を具えているという現実肯定の思想を説きました。

第三祖智(五三八ー五九七)は、「法華玄義」「摩訶止観」などを著して、こうした教学を大成するかたわら、当時の都の学問仏教もまた学問を忘れた無知の坐禅もともに真のさとりには至らないことを主張して、止観(禅)の実践を中心とした教観二門を説きました。智は晋王広に菩薩戒を授け、智者大師の号を賜りました。

智はまた、これまでに訳されたあまたの経典を価値評価する教相判釈を行ったことで有名です。お釈迦様の説法した時期を五つに分け、それぞれの時期で内容に変化があったとして経典を分類し「五時八教」の教判を示しました。

そして、その最後の時期に説かれた教えであるとする法華経と涅槃経こそがお釈迦様の本当に述べたかった教えであり、中でも法華経こそがすべてのものが成仏するという悉皆成仏の理想の教えを説いているとして、他の経典は仮の教えに過ぎないとしました。これは、当時経典が五月雨的にもたらされ、インドでの経典制作の背景や成立年代も知られていなかった事実をあらわしています。

この教判はその後の中国仏教、また日本仏教の行方に多大な影響を与えるものとなりました。が、近代の仏教研究によって、その評価は改められることになりました。

南京市東方の深山幽谷摂山を中心とする[三論宗]は、「空の哲学」を構築した龍樹が著述した中論、十二門論など三つの論書(羅什訳)を研究するグループから生まれました。

吉蔵は、これら三論の教理を簡潔にまとめた「三論玄義」を著して三論宗を大成し、空観に基づく中道を仏性との相即のもとに解釈しました。烈しい空観の修禅にその特徴があり、唐代以後は禅宗の中に吸収されていきました。

また、戒律を重視し律蔵の研究を進める人たちが[律宗]を開き、インドの部派仏教時代にそれぞれの部派が所持した律蔵を比較研究し、なかでも特に大乗色の強い「四分律」が重んじられました。

大唐帝国の誕生

皇帝の威光を天下に誇示するため大土木工事を強行した隋の煬帝は、晩年に高句麗征伐など無理な戦争を人民に強いると内地に反乱が起き、都を追われ江南に逃れてもなお豪奢を続けたと言われています。

山西省の鎮将であった李淵はその機に乗じて、子の世民とともに長安を陥れて、六一八年唐を建国。隋朝による搾取と戦乱で荒廃した土地に均田制を改めて生産力を高め、それをもとに大唐の繁栄が築かれていきました。

次の太宗(李世民)は、武略文治ともに傑出し、建国以来の外敵突厥を平定、また新興の吐蕃(チベット)とも友好を結びました。これにより唐の国勢が西域諸国に延び、長安はあらゆる文化民族を集める世界最高の文化都市となりました。

玄奘の活躍

六四五年玄奘三蔵(六〇〇ー六六四)は、十七年ものインド旅行から帰国し仏像経巻仏舎利などを多数将来しました。太宗は玄奘から西域インドの最新の知識を聞く機会を得て喜び、当時の仏教界の俊英を集結させて経論の翻訳を助けました。次の高宗は、慈母追善のために大慈恩寺を建て翻経院を設置し、玄奘が持ち帰った経巻や仏像が焼失するのを避けるため大雁塔を作るなど、彼の翻訳事業のために多大の便宜を図りました。

彼は、大般若経六百巻、大毘婆沙論二百巻など大部のものも含め、七五部一三三五巻もの原語に忠実な翻訳を手がけ、これにより中国仏教は一大飛躍を遂げたと言われています。

また、玄奘はナーランダーで学んだ当時のインド最新の仏教学であった無着、世親らの唯識説をもたらし、玄奘訳「成唯識論」により[法相宗]が生まれました。天台宗などが説く誰でもがさとりを開く素質があるとする悉皆成仏の思想を批判し、皆能力には違いがあることを主張しました。そして、私たちの心の根底にある阿頼耶識に貯め込んだ汚れを滅却する瞑想行を重んじ、現実主義実践主義の教えを貫きました。

武后と華厳宗

高宗の死後、皇太后武氏は我が子を即位させる間に武氏一族で朝廷の要職をおさえ実権を握り、六九〇年睿宗を廃して自ら帝位に上り、国号を周と改めました。

インドを始め三十国あまりを巡って六九五年に帰国した義浄は、則天武后の出迎えを受け、勅を受けて華厳経八十巻の新訳に協力。義浄はその後、律蔵や密教教典など多くの経巻を訳しました。

当時の仏教界の巨匠・法蔵(六四三ー七一二)は華厳宗を大成し、武后は法蔵に深く帰依して新訳華厳経の講義を受け、また宮中に内道場を設けて国家安泰聖寿長久を祈祷させたということです。

山西省の五台山を中心とする[華厳宗]は華厳経をよりどころとして、今の現実を離れて別に尊い聖なる領域があるのではなく、煩悩に覆われ自我を主張し苦悩に喘いでいる私たちの心そのものが仏のいのちの現れであると説きました。

また法蔵は、人間の自己省察の深まりを観点としてさまざまな教えを分類し評価を下した「五経十宗」という教判を示しました。天台宗、三論宗、法相宗などそれまでに成立した諸宗の教義を批判し、華厳宗の教えこそ究極の教えとして総合した広大な教学組織の上にその信仰実践を提唱しました。その後華厳宗は、諸宗を兼学した澄観によって急速に禅宗との調和がはかられていきました。

天台と華厳は中国が生んだ学問仏教として、中国仏教を代表する二大教学とたたえられています。その教学は漢訳された上で中国人の思惟により独特な読み方や解釈によって構築されたものであると言われています。つづく

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わかりやすい仏教史⑥ー仏教中国化の歴史 2

2007年07月25日 08時32分32秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
入竺求法僧法顕

羅什到着前の三九九年、法顕(三七七ー四二二)は六十歳を過ぎてから、同学十余人とともに、当時未だ完備されていない律蔵を求めてインドにいたり、グプタ王朝の都パータリプッタでサンスクリット語を学び、聖典を書写。また帰路セイロン島に滞在して経や律を入手するなどして、四一三年海路帰国。最初の入竺求法僧となりました。

彼は主に戒律に関する梵本(サンスクリット語原本)や部派教団所伝の経典などを持ち帰りました。これらを帰国後、自力でまた同学とともに翻訳し、それにより中国には完全な律蔵が四種類備わることになりました。そして、これらが比較研究され、僧団の運営や受戒、布薩、安居といった様々な作法や行事の仕方が正しく理解されるようになりました。

また法顕の後にも、次々にインドで仏教を見聞したお坊さんが現れ、この頃から直接インドの仏教が取り入れられ研究されるようになりました。
 
仏教弾圧と護法運動

東晋時代(三一七ー四二〇)にその基礎を築いた仏教は、南北朝時代になると、上層階級ばかりか庶民にも深く浸透していきました。仏教は、老荘思想に神仙の教えを付加して発展した道教や儒教をも圧倒し栄え、北朝の胡族朝廷をも仏教化していきました。

道教は、南北朝時代に仏教をまねて教団を組織化し、三蔵にならって道教経典を作成するなどして、仏教に対立する勢力となっていました。

そうした組織化に貢献したのが道士寇謙之であり、彼を信任し道教を信仰していた北魏の太武帝(在位四二三ー四五二)は儒士崔浩らの言を入れ、四四六年、僧尼の増加や瀟洒な寺院が数多く造営されることによる国家財政の圧迫と僧尼の堕落から、仏教教団の大整理を断行。堂塔を壊し、仏像経巻を焼き、僧尼をことごとく還俗させました。

これが「三武一宗の法難」といわれる中国で行われた廃仏の最初で、次の文成帝の時、早くも仏教復興がはかられます。潜伏していた仏教徒は、急速な復興に取り組み、破却された堂塔を再興し、重刑囚を労働力として受け入れて寺田の耕作や開拓に奉仕させるなど、社会奉仕事業にも着手しました。

洛陽遷都後は北魏の仏教興隆をしたって数千もの外国僧が来訪したと言われ、洛陽には天宮の如く壮大な大伽藍が甍をつらね、金碧をもって荘厳した千あまりもの寺院が建ち並んでいました。北魏末には、僧尼二百万、寺院は三万余りに達していたと言われています。しかし、その後も北シナでは、北周の武帝(在位五六〇ー五七八)の時大規模な廃仏が行われました。

こうした廃仏は、かえって仏教護法運動を惹起させ、雲崗や竜門などに石窟寺院が開鑿されて大小様々な石仏が彫られ、泰山、徂徠山には経文を永久に残すため、経典の文字を石に刻した石経が作られていきました。

菩薩天子ー梁の武帝

南朝では、歴代の王や貴族が仏教を愛好し、建康を中心に仏教は盛んでした。特に、梁の武帝(在位五〇二ー五四九)は、即位以前から多くの仏典に親しみ、仏教を国教と定めました。五十歳を過ぎると、女色も断ち菜食し質素な生活を心がけました。そして、国王たるものは、お釈迦様から仏教を護持し興隆すべき遺嘱を受けているものとの信念から、梁仏教界の全僧尼に酒肉を断つことを制約させました。

さらに武帝は、社会救済事業のための基金を設けたり、宮城の北に建立した同泰寺にて自ら仏典を講じたり法要をつとめ、また度々自身を三宝に寄付して捨身し、寺の労役に服したと言われています。天子を寺から買い戻すために、王室や臣僚は莫大な財物を同泰寺に布施したということです。

武帝は盂蘭盆会を南京でいち早く営み、また北朝では、灌仏会(お釈迦様の生誕祭)が洛陽最大の大祭となるなど、この頃には仏教行事も中国社会の中で定着しておりました。

仏教受容の特徴②

[国家仏教へ]仏教僧団は、もともと国家の統制外にあって、法律的にも経済的にも国家から出世間として認められる存在でありました。人々の任意の布施により成り立ち、法臘(出家後の年数)によってその序列が決められ、一切の身分制度から自由でありました。

しかし、中国では、伝来当初から国家の庇護のもとに普及し、官寺が次々に建てられるなど、もともと国家と強く結びついていました。そして、民衆の反乱や煽動に道教や仏教が利用され宗教一揆が起こり、また貴族が免税される寺院に土地を寄進したことにして脱税をしたり、税金逃れのためにお坊さんになる者もありました。そのため国家による統制が必要となり、中国の仏教教団は次第に国家機構の中に組み入れられることになりました。

東晋の安帝(在位四〇二ー四〇五)の時、僧尼を統率し諸大寺を管理するために僧主、悦衆、僧録の三職を置く、僧綱の制度がさだめられました。後には、僧正、都維那、僧都など、今日我が国でも用いられる名称が使われ、僧尼が中国の身分制度の一端として組織されることとなりました。が、本来出家者がこのような官職に就くということは、仏教にはあり得ないことでありました。

そして、南北朝時代の北魏において、四九三年「僧制四十七条」が制定され、国家統制に入るさきがけとなりました。

[大乗戒の誕生]中国での訳経はそのはじめから大乗経典が中心であった訳ではなく、五世紀の初めまではかえって部派教団所伝の三蔵が、はるかに大乗経典を凌いでいました。しかしながらそれら部派仏教の研究はあまり行われずに、次第に中国仏教は大乗一色に塗りつぶされていきました。

そして、中国仏教は純大乗仏教であるとの立場から、戒律も大乗の菩薩に相応しい利他の精神に基づいた戒を受持すべきであるとしました。そのため五世紀中頃、菩薩戒を説く「梵網経」が中国において制作されたと言われています。在家出家を区別せず衆生共通の戒として、仏性の自覚のもとに十重禁戒、四十八軽戒を説く梵網戒が、その後中国仏教界に広く浸透していきました。

[儒教との融合]中国では、社会の基盤として儒教があり、親に対する孝、君に対する忠が重んじられておりました。ところが、仏教は孝という徳目を特別に強調しないばかりか、出家は親に仕えず子孫も作らず、親の死後その霊魂の祭りも出来ない。儒教思想からすればこれ以上の親不孝はないとの非難が起こりました。そこで「父母恩重経」が中国にて作られ、それによってお釈迦様も孝の道を説いたとされました。

そして、儒教において後漢ごろから招魂儀礼の形代とされた木主を、仏教にても位牌として依用し、もともと仏教になかった追善供養を営むという儒教の習慣が採り入れられていきました。そのため「盂蘭盆経」という祖先供養を説く経典までも中国にて作られたと言われています。

このように仏教は中国に入り、中国社会に相応しい経典まで新たに作られ、中国化することによって広まり、いわゆる中国仏教が形成されていきました。

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わかりやすい仏教史⑥ー仏教中国化の歴史 1

2007年07月23日 07時51分05秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など

(大法輪 平成13年12月号掲載)

前回は、仏教が衰滅したとされてきたインドで今も生き続けているベンガル仏教徒の歩みと近代インドの仏教史を概観しました。今回は我が国へ仏教を伝える中国の、伝来から南北朝時代までの仏教について、その受容の特徴を中心に述べてみようと思います。
 
北伝の道

中国に仏教がもたらされたのは、後漢の明帝(在位五七ー七五)の時代と言われています。が、それ以前に、紀元前二世紀頃から開けていたシルクロードを通って、インド商人や仏教を信奉していた西域人が中国に仏教をもたらしたものと考えられています。

交易路であったシルクロードは、インドと中国の文化接触の幹線であり、仏教伝来の道でもありました。そして、スリランカやミャンマー、タイへと伝播された南伝仏教に対し、シルクロードによって西域を経由して中国、朝鮮、日本へいたる仏教は北伝仏教と言われます。

中国へ仏教をもたらした西域のトルファン、コータン、クチャなどには今日多くの石窟寺院が発見され、仏教が盛んであった当時の様子を伺い知ることが出来ます。こうした砂漠に消えていった国々の信仰によって仏教は中国に紹介されていきました。

訳経のはじまり

この古代の交易路を通って、西域のお坊さんたちが経典を携え中国にいたり、その儀礼を披露したのでありましょう。二世紀中頃には西方異国趣味の王侯貴族の間で、黄帝や老子とならんで金色の仏像を祀り、香を焚き経を唱える仏教の法要がもてはやされたと言われています。

そして、こうして西域から中国へ伝道された仏教は、そのはじめから経典をそのまま受け入れるのではなく、それらをことごとく翻訳し紹介されていきました。

その最初は、一四八年頃後漢の都洛陽に来たパルティアの安世高が進めた訳経で、このときには、転法輪経や八正道経など部派教団所伝の諸経典が翻訳されました。その後月氏出身の支婁迦 が洛陽に来て、般若経など大乗経典を訳出。

また三世紀末頃、敦煌出身の竺法護(二三二ー三〇八)は、法華経、維摩経、無量寿経など多くの大乗経典を訳しました。彼が翻訳した法華経は観音信仰の基礎を作り、維摩経は清談を好んだ貴族社会に大きな影響を与えました。

こうして始まった中国における経典翻訳の歴史は、その後千年にも及び、この間に訳された仏典は今日その大半を収める大正新修大蔵経三〇五三部一一九七〇巻に見るように膨大なものとなりました。翻訳後インドの原典はことごとく処分して残されておらず、今日こうして翻訳された漢訳経典が世界中で唯一最大の仏典となっています。

仏教受容の特徴①

[翻訳後の中国化]中国では翻訳されるとインドの原典が省みられることはなく、その漢訳した訳語を巡って議論され解釈が加えられていきました。

仏教の重要な基本概念でさえも、原典に立ち戻ってその意味を問う試みはなされず、訳された術語を解釈し、思想として論じられていきました。たとえば因縁という訳語の原語を忘れて、因とは何か、縁とは何かと思索されていきました。そうして形成されていく仏教は、原初の姿とはかなり異なるものとなりました。

[格義ということ]仏教伝来時の中国に、もしも紀元前三世紀に仏教が伝えられたスリランカのように、伝来されたインド文化に匹敵する文化が無かったならば、仏教をそのままに変化を加えることなく伝えたものと考えられます。しかし、当時既に彼らの文化の中には仏教を解釈するに値するものが充分にありました。

それが故に、彼らは翻訳された仏教の思想内容を理解するために、中国の古典、特に老荘や周易の思想を手がかりとしたのでありました。本義に格るためになされた、このような思想的いとなみを格義と言い、四世紀前半、盛んに流行しました。たとえば大乗仏教の中心思想である「空」を老荘思想で説く「無」をもって理解したり、解説されたのでありました。

しかし、四世紀後半になると、老荘思想などを通してなされたこのような仏教解釈は批判され、本格的仏教研究が進められました。ところが、その後も中国仏教を形成していく中で、老荘思想と仏教との結合は否定することのできないものとなり、「無」という言葉は後々までも中国仏教の中で重要な概念として語られていきました。

仏図澄と釈道安の活躍

時代は仏教伝来の後漢から三国時代を経て、西晋の時代となり、そのころ洛陽には四二のお寺があったと言われています。しかし、次第に北方からの異民族の圧迫が強まり、三一六年ついに西晋が匈奴に敗れて江南に逃れ東晋を建国。北シナは、異民族が次々に覇権を争う五胡十六国時代となります。

北シナを制圧した異民族は、漢民族を支配するために漢民族の文化に匹敵する異国文化として仏教を採り入れました。

三一〇年に中央アジアのオアシスの国クチャから洛陽に来た仏図澄(二三二ー三四八)は、その宗教的霊験によって後趙の石勒と石虎に王侯大臣以上の礼遇を受け、軍事、私事にわたり相談を受けるなど尊信を得ました。三〇年余り北シナで布教し、また神通力を現し、九〇〇近い寺を建て、一万もの弟子を養成したと伝えられています。

この時代までは、主に外来の西域人のための宗教としてあった仏教が、胡族出身の王によって前代の制に拘束されることなく、自由に僧尼になることが許されました。これにより、漢人の中からもお坊さんになるものが多く現れ、仏教は急速に広まっていきました。

この仏図澄の門下に、漢人の高僧道安(三一四ー三八五)があり、仏教徒はすべてお釈迦様の弟子なのであるから、みな釈を姓とするがよいとして、門下をみな釈氏と呼ばせ、純然たる漢人仏教教団をはじめて組織しました。

石虎の死後、彼は戦乱を避けて数百の門下と襄陽に檀渓寺を建て、東晋の皇帝や北シナの胡族君主、貴族たちからの寄付により、真摯な修道活動を続けたと言われています。

道安は、当時行われていた仏教の諸教理を老荘思想から解釈する方法を改め、仏教は仏経によってのみ解釈すべきことを訴え、仏教研究の正しい道を確立しました。

また道安以外にも長安や洛陽地方から戦乱を避けて東晋へ南渡するお坊さんも多く、建康を中心に多くの寺院が建設されました。江南の貴族たちはこぞってすぐれた学僧を家僧として招き、一門のために仏教を講義させたため、彼らは仏教の教養を広め信仰を増進する指導者として尊敬されました。

羅什の翻訳事業

クチャ出身の鳩摩羅什(三四四ー四一三)は、幾多の苦難の末に、後秦の姚興より国師の礼をもって迎えられました。彼は、当時の文明の中心地であった長安で、国家事業として充分な設備と資金、それに多くの優秀な助手を動員され、講義し討議しながら翻訳を進めたと言われています。

大般若経をはじめ、法華経、阿弥陀経などの大乗経典の他、その翻訳は中論や成実論などの論書や律蔵にまで及びました。天下の仏教者が長安に参集し、法華経の翻訳には二千人もの学僧が参加したと言われています。

羅什の翻訳は、訳語がすぐれ流暢であるため、彼にいたって始めて訳文のみによって仏教を理解し研究することが可能になりました。中国で没するまでの十二年余りの間に、この大翻訳家は三五部三百巻余りもの翻訳事業に携わり、唐代に新訳が登場してもなお現代に至るまで、彼の訳文が活用されています。つづく

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わかりやすい仏教史⑤ーインド仏教の近代史 2

2007年07月18日 14時19分50秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
仏教教団の設立
 
仏教徒として確固たる地位を社会の中で確立するためには、仏教の再生に加え教育に力を入れることが不可欠であると考えた彼らは、まずは誰もが読み書き出来るように、学校を作り基礎教育に力を注ぎました。

そして、ビルマ語やパーリ語の様々な仏教書や経典がベンガル語に翻訳され出版されていきました。お釈迦様の教えを日常生活に活かすために、僧団を供養するなど善行功徳によって、現世にまた来世に安楽がもたらされることが教えられ、迷信や非文化的伝統や習慣を社会の中から取り除くことが進められていきました。

仏教語であるパーリ語の研究所がつくられ、小中高校で学ぶ体制が作られました。また多くの在家者やお坊さんが仏教を学ぶためにスリランカやビルマ、タイに派遣されていきました。

そうして、一八八七年にはチッタゴン仏教会(チャッタグラーム・バウッダ・サミッティ)が、また一八九二年には、カルカッタに進出していた仏教徒たちのためにベンガル仏教会(バウッダ・ダルマンクル・サバー)が設立されました。

ベンガル仏教会と大菩提会

ベンガル仏教会を創立したクリパシャラン長老(一八六五ー一九二六)は、イギリス支配のインドにあって、民衆の反英運動が激化する中、カルカッタの中心地にカルカッタ最初の仏教寺院を建立。後にはビルラ財閥からの寄進によって三階建ての僧院が建てられるなど、施設が整えられていきました。

インドにおいて、忘れられていた仏教に多くの人々が目覚めることを目指して、仏教文化誌「世界の光」を創刊するなど、失われた仏教の栄光をとりもどすべく尽力しました。ラクノウ、アラハバード、デリー、シムラ、ジャムシェドプール、ダージリンなどに支部を作り、カルカッタ本部では無料小学校が運営されるなど、各地の教育機関充実のため指導力を発揮したと言われています。またカルカッタで世界仏教徒代表大会(一九二四)を主催して、インド仏教徒の再生をアピールしました。

時同じくして、スリランカにおいては、オランダやイギリス支配によって仏教が徹底的に否定されていました。しかし、一人のお坊さんとキリスト教徒との論争(一八七三)における劇的な勝利の後、仏教の復興に努め、インドに巡礼した、アナガリカ・ダルマパーラ師(一八六四ー一九三三)は、大菩提会(マハーボディ・ソサエティ)を一八九一年に設立。ブッダガヤ、サールナートなどの仏跡地の復興に尽力しました。

彼は、今もヒンドゥー教徒らによって管理されているブッダガヤの聖地を、世界の仏教徒の資金によって買い戻す計画を進めました。スリランカ、中国、日本、チッタゴンの代表による国際仏教会議をベンガル副知事出席のもとで開催するものの、交渉は難航し、結局実を結ぶことはありませんでした。

しかし、その献身的努力は、お釈迦様を生んだインドの地に仏教を復興したいとする純真な精神を、全世界にアピールすることとなりました。

また南インドでも、一八九〇年代末に不可触民出身の指導者アヨーティ・ダースによって南インド仏教会が設立され、タミル語の仏教雑誌を刊行するなど仏教を布教しました。その後、一九二〇年にはラクシュミー・ナラスがマドラス仏教徒協会を組織して、仏教思想の現代性を論じ、不可触民差別、幼児婚、寡婦再婚禁止など社会慣行の改善を訴えました。

インドの独立

第二次世界大戦の終結後、一九四七年、インドはヒンドゥー教徒の国として、パキスタンと分離独立することとなりました。チッタゴンは東パキスタン領となり、バルア仏教徒にとっては、またしてもイスラム教徒の国の中に居住することになりました。この時過去の悪夢を憂えた多くの仏教徒たちが、大挙してインド領西ベンガル地方に避難移住するという混沌とした状況を招きました。

インドでは、一九五〇年に憲法が制定され共和制国家となり、初代首相となったジャルハルワル・ネルーは、一九五二年にイギリスから返還されたサーリプッタ、モッガーラーナ両尊者の遺骨をサンチーの寺院に埋葬する歴史的行事を、また一九五六年には、お釈迦様の生誕二五〇〇年祭をニューデリーで開催して、インドの生んだ最も偉大なる聖者としてお釈迦様を讃えました。

また、共和国憲法を起草したことで知られる不可触民出身の初代法務大臣アンベートカル(一八九一ー一九五六)は、ナラスらの仏教による社会改革運動に感化されて、最も理性的で、かつ自由、平等、友愛を説く仏教に改宗し、ヒンドゥー社会から離れることによって階級差別を終わらせるべきことを訴えました。そして、一九五六年、インド中部のナグプールにおいて、参集した不可触民二十万人とともに三帰依・五戒を授かり、仏教徒に集団改宗しました。

パキスタンでは、一九七一年、総選挙にまつわる東西パキスタンの利害衝突から発展したベンガル独立戦争が起こりました。これにより、再度東ベンガル地方に住していたバルア仏教徒やチッタゴン丘陵部の少数民族の仏教徒たちの存在がふるいにかけられる事態となりました。そして、バングラデシュとなった今も、大多数のイスラム教徒の中にあって、仏教徒たちは現実に相応しい社会的な地位を与えられていないのが現状であります。

インド仏教の現状  

現在インド国内の仏教寺院は約五〇〇か寺、お坊さんは二千人。そして、結婚式、出生式、葬式などの儀礼を仏教で行う仏教徒は、インド全体で六四〇万人(人口比〇・七六%)と公表されています。

先に述べたように不可触民ヒンドゥー教徒らの改宗によって、仏教徒は年々増え続けていますが、伝統派のバルア仏教徒は、その内のわずか十五万人ほど。

一方バングラデシュの仏教徒は五十四万人(同〇・六二%)、内バルア仏教徒は十三万人あまりとなっています。

かつて、仏教を支援したマウリヤ王朝、パーラ王朝の子孫たちの中には、今日ヒンドゥー教徒として暮らしてはいても、仏教をとても大切に思っている人々がいます。仏教のお坊さんを招いて食事を供養したり、定期的に冊子を発行して仏教の教えを知らしめる活動をしています。

彼らは、ビシュヌ神の化身としてではなく、古代インドの思想哲学の理想を実現した聖者としてお釈迦様を捉え、人類普遍の真理を説く教えとして仏教を信奉しているのです。たとえ仏教徒は一握りの存在ではあっても、仏教を外護する多くの人々が、現代インドにも存在していることを申し添えておきたいと思います。

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わかりやすい仏教史⑤ーインド仏教の近代史 1

2007年07月16日 19時40分46秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
(大法輪誌平成十三年十一月号掲載)


前回は、七世紀中葉以降仏教は主に密教として発展し、その後十三世紀初頭、イスラム教徒によって仏教の中心となる拠点を破壊され、終焉を迎えたところまでを述べました。

今回は、仏教が衰滅したとされるインドで、今日に至るまで仏教徒として生き続けてきたベンガル仏教徒の歴史を中心に、インド仏教の近代史について述べてみようと思います。

移住開始、さらに東へ

インド仏教の歴史は、度重なる異民族の侵入によって様々な展開を示してきたことをこれまで見てきました。これから述べようとする、今日ベンガル仏教徒と呼ばれる人々の歩みも、その例外ではありませんでした。

七一二年、イスラム教徒による、はじめてのインド侵入がありました。これに続く度重なるイスラム教徒らによる侵略と改宗の強要を察した誇り高い仏教徒たちは、おそらくその迫害を逃れるために、この頃から次第に東へ移住を開始したものと考えられています。

ガンジス河中流域の今のビハール州マガダ地方から、東へ移住を開始した彼らは、その頃はまだカルカッタの町はなく、北へ回ってアッサムやマニプールを通って、東ベンガル地方、現在のバングラデシュ・チッタゴン丘陵地域からミャンマー西部のアラカン山脈方面へ移住したとされています。

ある伝承によれば、彼らはマガダ王家の血統を継ぐ人々で、仏教徒アラカン族が暮らすアラカン地方のアキャブに移住したと伝えられています。

イスラム支配

一一九二年、タラーインの戦いでゴール朝のムハンマドがヒンドゥー連合軍に勝利すると、イスラム軍は瞬く間にベンガル地方まで支配下におさめ、デリーに都をおくイスラム王朝が誕生しました。前回述べたように、この時仏教寺院はことごとく破壊され、多くの仏教徒はイスラム教に改宗させられていきました。

既にアラカン地方に移住していた彼らにとっては、西にイスラムが迫り、そして東側にはミャンマーのパガン王朝が控えている状況にありました。しかし、まだこの頃はアラカン山脈からベンガル湾に臨む海岸にかけて統治していた仏教国アラカン王国が存在していました。その保護のもとで、彼らはチッタゴンの平野部に町を作り、先祖の出身地に因んで、マガ、またはマグと呼ばれ暮らしていました。彼らは後にバルア姓を名乗り、ベンガル仏教徒またはバルア仏教徒と呼称されることになります。

そして、十六世紀にはモンゴル族系のイスラム王朝ムガール帝国が誕生し、インド南部やチッタゴン南東部を除くインド全土を支配することになります。一六六六年、ムガール帝国はこの少し前からチッタゴンにやってきていたポルトガルに土地を与える代わりに仏教徒たちを排斥させ、チッタゴン全域がムガール皇帝の土地と化してしまいました。

征服した土地の民衆を改宗させることで勢力を拡大させていったイスラム教徒のやり方に抵抗し、この時ほとんどの仏教徒が改宗を嫌ってチッタゴンを後にしました。しかし、ベンガル語を話す一部の仏教徒は国内に潜伏する生活を選択したということです。

ムガール帝国は、チッタゴンに西部のイスラム教徒を移住させ、仏教のお寺や僧院を壊してモスクにしました。この当時の名残として、チッタゴンには今もブッダマカーン(仏陀の家)という名のイスラムの礼拝所が存在しています。また、仏典は焼かれ、仏像は壊されたり海に捨てられました。お坊さんたちは、袈裟を身に纏うことも出来ず、仏教徒の供養のために隠れてお経を唱える場合であっても、袈裟を頭の上に乗せて行われたと言われています。

イギリスの登場

一六〇〇年にイギリス東インド会社が設立され、香料のほか良質の綿織物、絹織物の加工品が大量の銀貨を対価としてヨーロッパに送られていきました。しかし、一七五七年、クライブ率いるイギリス軍は奸計を巡らして、既に衰退化したムガール帝国のベンガル太守軍と対戦して勝利すると、その八年後には、ベンガル、ビハール、オリッサの徴税権を割譲させました。これによりイギリスは、銀貨を持ち込まずとも好きなだけインドの物資を運び出せることとなり、植民地化が進められていきました。

そうして、一七六〇年にはチッタゴンもイギリス人の手に渡ることとなりました。彼らはイスラムとは違い、人々の宗教にまでは立ち入らなかったと言われています。

そして、その後の植民地化を進める上で強靱な軍隊を養成することを必要としたイギリスは、土着の人材を採用することを思いつき、その軍隊にはじめて採用されたのがバルア仏教徒でありました。彼らは、土地を追われ生活の基盤さえなかった自分たちの立場改善の好機と捉えて、積極的に軍隊に志願したのでした。

混乱した時代を生き抜いてきた彼らの小隊は、すさまじい体力と統率力によってマグ・プラトーンとして知られるところとなり、軍の中でも異彩を放っていたと言われています。小隊長に昇進するものも出て、彼らの地位向上につながり、チッタゴンの主要な土地を奪還することに成功していきました。

仏教再生前夜

こうしてイギリスの勢力下にあったこの時代に、多くのバルアたちは地主や大農耕主となっていました。本来の生活を取り戻し、新たにお寺や僧院を建設していきました。ところが、長いイスラム支配の間に失われた仏典も、また生き残ったお坊さんたちの生活の規定や行事などを簡単に復活させることは出来ませんでした。

多くの仏教徒は、ヒンドゥーの神々を礼拝し、様々なヒンドゥーの慣習や儀礼を行い、イスラムの聖者まで崇拝するものもあったといいます。

お坊さんたちは、袈裟も本来の規則に則ったものでなく、正式なお坊さんとしての戒律も受けておらず、出家式のあと十戒を七日間守り、その後は家に帰って妻子と共に家庭生活を営んでいたといいます。布薩や安居といったお坊さんの行うべき行事も知らず、普段は在家の服を着用し、宗教儀礼の時だけ袈裟を纏っていました。

上座仏教の再生

アラカン地方のアキャブに、かつてビルマ王からアラカン族の軍事的脅威の源と恐れられ、人々を引きつける魅力ある存在であったマハームニという釈迦大仏像がありました。

一八一三年、失われた仏教の伝統を復活すべく模索していたバルア仏教徒は、そのマハームニ像と見紛うばかりの大仏像をチッタゴンに造り、多くの巡礼者が訪れるようになっていました。僧坊や巡礼者のための施設が整い、マハームニ村と名付けられ、ここを中心に仏教を再興する雰囲気が出来つつありました。

そして、一八五六年、アラカン仏教界の最高位にあったサーラメーダ長老を招いて、チッタゴンのバルア仏教徒、それに丘陵地域の仏教徒である少数民族チャクマ、マルマ、ラッカイン、シンハ族なども集まり、ともに、上座仏教の再生について会合しました。

サーラメーダ長老は、この時二年間マハームニ村に滞在して、ヒンドゥーの神々を礼拝したり、儀礼に参加することは仏教徒にふさわしい行動ではないことを教えていきました。

また、お坊さんたちには、律蔵にそった共同生活について語り、これまでの在家者とかわらない家庭生活をあきらめることを求めました。そのために、まずはじめに十戒を授かり沙弥(見習い僧)となり、ついで正式にパーリ律に則って二二七の戒を授かる受具足戒式を受けることを勧めました。

一八六四年、アラカンの僧団を伴って再訪したサーラメーダ長老は、チッタゴンの先に沙弥となっていた七人に対して具足戒を授けました。これは、インドにおける上座仏教の再生を宣言する、歴史的な受具足戒式となりました。つづく

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『死と再生の四十九日』を見て

2007年07月06日 10時58分31秒 | 仏教に関する様々なお話
NHKスペシャル『チベット死者の書-輪廻転生の死後の世界を見せる初のドラマ・死と再生の四十九日』を見た。1994年に制作された特別番組のビデオ版である。脚本には宗教学者で、かつてチベット仏教の修行を積まれた中沢新一氏が担当している。カナダ、フランスとの共同制作でもある。

8世紀にインドからチベットに仏教を伝えたパドマサンバヴァは修行の末書き記した膨大な経典をヒマラヤ山中に埋めてしまった。それらを埋蔵経と言い、それは世の中に必要なとき出現すると言われていた。その一つにチベット死者の書と呼ばれる「バルド・トドゥル」という、人の死から再生までの49日間のありようを記した経典がある。

第一次世界大戦の最中、英国の人類学者エヴァンス・ヴェンツがダージリンのバザールで偶然発見して英訳。死はすべての終わりとする当時の科学観に疑問を感じていた心理学者C.G.ユングは、それを読んで、根本的な洞察を得たという。

そして第二次世界大戦後は、アメリカで勃興したベトナム戦争に反対する若者たちにバイブルとして受け入れられた。現代では、臨死体験の研究やホスピスなどの臨床現場でのあり方、人の死をどうとらえ考えるのかを考察する上で、この死者の書の価値が見直されているといえよう。

番組では、一人の中年男性が亡くなるところへ老僧と小僧が訪問するシーンから物語が始まる。亡くなろうとする人を前に泣き叫ぶ家族親族に向かって、「泣くことは何の役にも立たない、死にゆく者の意識を混乱させるだけだ」と老僧がたしなめる。そして、頭を北に右肩を下に横向きに身体を寝かせる。

そして亡くなると、死者に向かって、「死のバルド(バルドとは途中ということで、中有のこと)」を語る。老僧は、「よくお聞きなさい。間もなく呼吸が止まる。すると目の前にまぶしい光が現れる。その光と溶け合うのだ」と語りかける。チベット仏教では、死後に現れるこの光を生と死を超越した根源の光と捉え、命の本質であり、命の流れである心の本質でもあるとも考え、その光と出会うことはまさに悟りのチャンスであるとする。

しかし、教えを学んだり実践していなかったこの死者は、その光を避けてしまい、そのチャンスは潰えてしまう。そして死後5時間ほどで、意識と身体の分離が始まる。まさに臨死体験の報告のごとくに、死者の心は身体から離れ、部屋の中をフワフワと飛び回る。ベッドには自分の遺体が横たわる。誰に話しかけても聞こえていない。老僧は、「この世に執着を持ってはいけない。この世に留まることは不可能なのだ。現れる光を怖がってはいけない。光も色も音もそなたの意識の投影に過ぎない」と語る。

死後4日目から20日までを「心の本体のバルド」という。死者の心から発する光が様々な仏の姿として現れるという。群青色をした大日如来はじめ様々な優しい寂静尊、恐ろしい姿の忿怒尊などが現れる。それらの光は厳しい修行によっても見ることがあり、その光や仏の姿のその奥にある心の本質に至るために修行はなされる。それと同じ光を死後体験することになるが、ふつうの人々は、その光ではなく、解脱を邪魔する、ほの白い魅惑的な光が現れて幻惑されてしまう。

20日目に死者の部屋にやってきた老僧は、バルド・トドゥルを読経する。そして「今日は地獄の神ヤマ王がやってきます」と宣言する。そして死後21日目から49日までが、「再生のバルド」となる。死者の意識は、それまでの解脱のチャンスを逃してなお、晴れやかに、世界を自由に飛び回り、全能の身体が備わったような気分になる。しかし突然途方もないむなしさや寂しさに襲われて、再び生まれ変わりたいという気持ちを抱く。

ふたたび死者の部屋を訪れた老僧は「観音菩薩の方へ向かいなさい、六つの輪廻に落ちることなく」と叫ぶが、死者の心にははっきりととどかない。49日目、死者の心には、畜生や餓鬼、人間界などの六道の世界がイメージされる。そこで「そこに入ってはいけない、少なくとも人間に生まれ変わって何度も何度も悟りを目指して生きていくのだ」と叫ぶ。

私たちは、たった一人、たった一度の命を生きているのではない。何千何万回もの輪廻を繰り返し、再生を重ねていく者だからこそ、すべての命が、前世をさかのぼれば、父母であり兄弟であったかもしれないと考えられる。そう考えてこそ、命そのものが限りなく切なく愛おしい、壮大な優しさである慈悲の心が生まれる。

死者が人間界に再生したことを知った老僧は、最後に、「死のむこうにある心の本質を知ることができたら、その生には意味があった。それができなければ無意味なことを積み重ねたに過ぎない」と語る。

つまり、私たちの生きる目的はその心の本質を知ること、つまりは悟りの心を得ることだということになる。そして、「誕生の時、おまえは泣き、全世界は喜びに沸く。死の時、全世界は泣き、おまえは喜びに溢れる。かく生きるのだ」と小僧に諭す。私たちも、死を迎えるとき、何の怖れも不安も抱くことなく、人生に納得し、喜んで死を迎えられるよう生きたいものである。

このNHK制作のドラマは、チベット仏教に偏重しているとはいえ、仏教徒として学ぶこと多く、多くの日本人が見るべき内容を含んでいると言えよう。現代の日本にも、通夜葬式の後、七日参りの風習が残る地域もある。その風習は、ここに紹介した内容との違いこそあれ、とても意味深い死者を導く機会となっているのであろう。

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『日本人の死者の書 往生要集のあの世とこの世』を読んで

2007年07月01日 14時26分29秒 | 仏教書探訪
宗教評論家大角修氏による、平安中期に浄土思想を説いた源信僧都著『往生要集』の概説書。NHK出版「生活人新書」の新刊だ。現代の私たちは、浄土教とは、鎌倉時代の法然上人、親鸞上人のものと思ってはいまいか。しかしそのルーツは源信、その前には平安初期に中国に渡った比叡山の学僧円仁にまでさかのぼる。

法然も親鸞も共に天台宗の比叡山で学んだ学僧だった。だから、比叡山で学んだとき、この源信僧都の伝説的なこの名著を読んでいるはずだ。読まずして浄土教を宣布することは出来なかったであろう。同じ教えを大先輩がどのように説かれたか、それを学ばずして教えを説けるはずがない。

世に遁世僧と言われる官僧をリタイヤして在野で自由に教えを説いた僧たちは鎌倉時代から誕生したと思っていたが、この時代からすでに、源信も比叡山のしきたりから逃れ遁世して『往生要集』をしたためたという。その生き方も法然親鸞の先駆けなのであった。

くわえて、法然親鸞らによってその後、日本仏教のあり方が大きく、良くも悪くも変化していくターニングポイントとなる日本人の浄土教への熱病的と表現される程の広まりを考えると、この『往生要集』というのは、誠に重要な、浄土各宗の人々に限ることではなく、その後の日本仏教にとって誠に意味深い書であると言えよう。

鎌倉時代に浄土教が弘まる素地を造っただけでなく、人の生き死にとはいかにあるのか、インドで説かれた仏教がどのような生命観をもったものであったのかを分かりやすく日本人に浸透させた。往生するとは、死後来世に、仏の浄土に生まれ変わる、輪廻転生することをいう言葉だ。

衆生の一人として誰もが輪廻の輪の中にあって、その生き様によって来世がある、悪いことばかりを重ねて地獄には行きたくない、だからこそ、極楽に往生したいと人々は願ったのである。さらに当時末法の世に至る時期に該当していたことも人々に切実な死生観を迫ったことも影響した。多くの人々が、本当にどこかの世界に生まれ変わるという、輪廻を信じたればこそ、末世にいたり真剣に極楽に往生することを願った。

大角氏は、あとがきで、「仏教徒であれば、来世があると信じて当然だ」と記している。もっとものことである。「しかし、明治以来の近代仏教学では、来世はどうにも扱いかねるテーマだった。そこに大きく失われてしまったものがある。その喪失の暗がりから、カルトと呼ばれる怪しげなものが立ち現れてくるのだろう」とも書いている。人の実際の行い、生き様が、原因し結果する因果応報の生き死にを説くことなく教えが成立するはずもない。

ところで、本書では『往生要集』の各章を丁寧に概説している。はじめに、地獄、餓鬼など六道について述べる。人間界については、人間とは、その肉体は不浄なるものであり、苦しみに満ちている。それに、はかない無常なるものであるとする。

現代に暮らす私たちは、健康ブーム、エステと身体の美を誇り、楽ばかりを追い求め、健康長寿を願う。しかし、この世の真理である不浄や苦や無常が消えて無くなったわけではない。人の生き様をもっと根底から達観するのでなければ、その根本的な思い違い、誤りに気づくことはないだろう。

平安貴族の最高位に昇った藤原道長でさえ、最後には弥陀の浄土に思いを馳せて阿弥陀堂を建立して、さらには出家までしたと本書にある。そうした当時の人々のやむにやまれぬ心情が理解できなければ、「人間として生まれ仏法にめぐり会えたのはありがたい」とは思えないのかもしれない。

そして、阿弥陀浄土の様相を克明に解説し、念仏とはいかなるものであったかと明かす。正修念仏と題して、礼拝、讃歎、作願、観察、回向という五段階の念仏を解説する。いわゆる単に唱えるだけの称名念仏ではない、本来の観想を主とする念仏である。観想では極楽浄土と阿弥陀仏を観じる十六種類の観想法「十六観」を述べる。その中で源信は、白毫の光の観想を重要視している。

続けて、助念の法として、念仏を行とする者の心得が記される。場所の設定から、怠け心の抑え方、止悪修善を勧めたり、罪障の懺悔、魔の退治まで。特に念仏については、寿命が尽きるまで止めてはならない、阿弥陀仏極楽を尊び西に背を向けない、昼夜六回、三回、二回と一定して念仏する、南無阿弥陀仏と唱え、もっぱら心に念じ讃えるなどと細かく注意事項が並ぶ。誠に徹底して念仏を生涯続ける作法が述べられる。ただの一遍、ないし十遍唱えればいいというようなものではない厳しい一生を掛けた行であるということだ。

さらに、特別に日にちを設けて行う常行三昧行などの厳しい修行や法会について述べられる。それから、臨終時の念仏について詳述される。病人を西向きに寝かせ、香を焚き、花を散じて、仏像を見せ、病人は、一心に阿弥陀仏を念じ口にも心にも念じてお迎えの菩薩たちが来迎するさまを思い往生を願う。その死に際に来迎し極楽へ往生する様子を枕元の人に語ることにまで言及している。

往生要集についての解説は以上であるが、源信も加入した念仏集団「二十五三昧会」の過去帳には、死後源信が弟子の夢に現れて述べた内容が記されているという。弟子が極楽に往生できるかと尋ねると、『お前は怠慢であるからできない』と答える。

また、成仏の願いがあれば極楽往生できるかと尋ねると、『願いがあっても、行が伴わなければ往生は難しい』さらに、罪を懺悔し浄土往生の修行に励んだら願いを遂げることが出来るかと尋ねると、『やはり難しいだろう、極楽に往生するのは至難の業である』と答えたという。

私はこれが正しいと思う。だからこそ、みんなが極楽を願った。そんなに簡単に行けるなら、願わずとも行けるであろう。私は、このように本当のことを言わねばならないと思う。どんな時代であっても、世の中の真理から乖離したことを言っていては、人々の信仰は離れていくのではないか。

あとがきに、ダライラマ法王が昨年日本に来たときの講演会での問答が記されている。スピリチュアルブームに毒された聴衆が、「背後霊がいるのですが、どうすればいいか」と質問すると、ダライラマは、『そんなことは知らない』と素っ気なく答える。「私に光を放ってください、会場の皆さんも法王のオーラを浴びましょう」と言う者には、『そんな光は放てません。私は普通の人間です』と答えられたという。

法王は、どのようにこれらの質問を聞かれたであろうか。日本人とはいかに仏教の理解が足りないか。単なる興味本位で、教えを全く理解しようともしない、何の為に教えを垂れたのか、と思われたであろう。

そして、ダライラマ法王の言葉として、『私は仏教徒ですから、来世を信じます。そして、いつまでも希望をもっています』とも書かれている。来世があるとは、希望に通じることだという。死ねば何もなくなるのであれば、この世で希望が叶わないのなら絶望しかない。より良く生きたなら、必ず今世か来世で良い報いが期待される。だからこそ、この人生は大切なのであり、悪いことはできない。

日本仏教徒は、仏教本来の教えの根本に触れた『往生要集』を再検証すべきではないかと、私は思う。この源信の教えを逸脱したところに日本仏教の本来の仏教からの乖離が始まったとも言えるのではないか。

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