住職のひとりごと

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幅広く仏教について考える

追悼 ボーディパーラ比丘 Bhikkhu Bodhipala

2020年07月28日 20時47分57秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
追悼 ボーディパーラ比丘 Bhikkhu Bodhipala

インド・ベンガル人比丘ボーディパーラ師が、昨日27日午前8時20分コルカタの病院で亡くなられたという。まだ52、3なのに、なぜ死んでしまったのか。一昨日入院して、新型コロナ検査陽性だったとしか解っていない。はたして死因は何だったのか。遠く離れていて聞くこともかなわない。ベンガル仏教会(The Bengal Buddhist Association)の事務総長(General Secretary)として、連日パワフルな身体を揺らしながら、コロナの為に困窮している家族や施設、また水害に遭った地域に慰問に出かけ、食料や水を施している様子がフェイスブックでいくつもアップされていた。かなり疲労がたまっていたのかもしれない。最後に見た彼の動画は黒い肌が白く見えるほど生気がなかった。

いつもフェイスブックでやりとりをしていた。彼は英語が堪能で、彼の英語のメッセージを読み、私はヒンディー語をアルファベットで表記して送信していた。この5月には、新型コロナウイルスに関するアメリカ人医師の動画を参考に見てみたらとメッセージしたところだった。忙しいのかその時には、sureとしか返事がなかった。その前4月には、この新型コロナ騒動を終息させるべく、お釈迦様の時代の故事にある、ヴェーサーリーでの疫病退散のために読誦したとされるパーリ・ラタナスッタを一緒に唱えよう、二人の師であるダルマパル師のCDに録音したものを聞き、その独特な節を付けて唱えようと呼びかけ、「久しぶり、元気そうでよかった、わかった了解」と返事が来たのだった。誕生日には毎年律儀にメッセージを送ってくれていた。

彼ボーディパーラ比丘は、実は私の恩人とも言える人である。27年前、私が上座仏教の正式な比丘になれたのは、彼がいたからなのだ。その年、具足戒式(ウパサンパダーUpasampada)を受けるバルワ仏教徒がいるから、その4月にサールナートで沙弥となったばかりの私にも一緒にしてはどうかと取り計らってくださったのである。本来ならそう簡単にはウパサンパダーはできないと言われていた。なぜなら正式な儀式を挙げるには最低10人の比丘が参加しなくてはいけないから。直接のご指導を仰ぐ和尚、受具足戒式を仕切る羯磨師、年齢や借金がないか、両親の許しはあるかと設問する尋問師、そして証人となる比丘が7人以上必要となる。そして実際には、1993年6月22日、コルカタのフーグリー河船上で行われた具足戒式には14人もの長老比丘方が参加され、中にはムンバイからはるばる駆けつけた長老やチャクマ仏教徒のラージグルも御越し下さっていた。

このように各地に分散している比丘方を召集し、その交通費から滞在費食費まで負担しなくてはいけない。さらには儀式に参加いただく布施やその日には豪華な施食をしなくてはならず大変な出費となる。彼ボーディパーラは、1892年10月5日に創立された、このベンガル仏教会の創設者クリパシャラン大長老の親族の家柄で、資産家でもあり、そのためおそらくその経費のほとんどを彼の家が負担してくれたのだと思う。つまり、もとより私のためになされた儀式でもなく、彼のために、彼の親族ないし全バルワ仏教徒の将来を託すべき人物の盛大なる記念すべき儀式に、まるでつけたしのように私はその儀式に入れていただけたのであった。

その前年、私が何の計画もなく訪れたインドで、たまたまコルカタで立ち寄ったベンガル仏教会本部で、時の事務総長ダルマパル・バンテーからサールナートの後藤師に遭いなさいといわれ、コルカタから夜行の急行列車でバラナシに行き、初転法輪の聖地サールナートを訪ねた。チベタンインスティチュートの隣に位置するベンガル仏教会サールナート支部にしばらく滞在し、日本人住職後藤恵照(プラッギャラシュミ)比丘からインド仏教の近代史をうかがった。それまで現代インドに由緒正しき仏教はすでにないと思っていた私だったが、彼らバルワ仏教徒は、マガダ国の王家の末裔であり、イスラム勢力がインドに侵入する前にインド東部、今のバングラディシュチッタゴン丘陵地に避難した伝統ある仏教徒であることを知った。彼らをベンガル仏教徒もしくは彼らの姓からバルワ仏教徒という。そして、自分もインドで再出家しようと即断し、すぐに帰国してヒンディー語やパーリ語を習い、その翌年留学ビザを取得して再度インドに入ったのであった。

そして、具足戒を受けた後私はサールナート支部法輪精舎に帰り、サンスクリット大学のパーリ語科に自転車で通っていたが、彼ボーディパーラ比丘はナーランダー大寺(Nava Nalanda Mahavihara)で、将来のベンガル仏教会事務総長になるべく英才教育を受けていた。たまにコルカタの本部で顔をあわせることもあった。私の方が10近くも歳は上ではあったが、比丘は先に出家した方が上、ウパサンパダーでは私より先に彼が教誡を受けている。対等以上に上から物を言う彼ではあったが、何かいつも兄弟のような感覚が私には芽生えていた。

その後私は日本に一時帰国したり、留学条件の変更などで帰国を余儀なくされたりで、三年半ほどで比丘を諦め日本の僧侶に復帰した。二人の師であったダルマパル大長老も亡くなり、縁遠くなった頃、フェイスブックによって交流が細々と繋がった。彼はいつの間にか事務総長になり、インドの教団を代表して世界仏教徒会議にも参加し、代表して壇上に立ち演説するようになっていた。日本にも何度か招かれてきていて、一昨年も11月に開催された日本仏教会主催の世界仏教徒会議日本大会に参加していた。この時には連絡は無かったものの、その前たしか平成28年4月に来日した際には電話が入り滞在先の東京に私も出向く予定にしていたところ、結衆寺院住職が遷化されて、残念ながら再会をはたせなかった。いつでもまた会える、そんな気持ちでいたが、今思えば誠に残念なことであった。

師のダルマパル大長老同様に四十代で事務総長になり、これからのインド仏教界、ないし、世界の仏教徒を代表して世界に向けて仏教の平和共存を旨とする精神性を説くべき人がこんなに早く亡くなってしまうとは。人間世界にとっての大きな損失であると言っても過言ではないだろう。インドで彼が奮闘している、私も頑張ろうと思ってきた。誠に残念でならない。一生忘れることの出来ない、兄弟にも思えるボーディパーラ比丘。来世で、是非また仏教徒として世界の人々を導いて欲しい。あらためてあの日を思い彼の分も精進を重ねて参りたいと思う。ありがとう、ボーディパーラ比丘。本当にご苦労様でした。お疲れさまでした。sadhu sadhu sadhu


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いまをいかに生きるか

2020年07月27日 09時42分29秒 | 仏教に関する様々なお話
いまをいかに生きるか

今年も半年が過ぎた。年初の話題は年末に起きたゴーン被告の国外逃亡事件に始まり、イランの民兵組織の司令官をアメリカがドローンで殺害し、それに対しイランがイラクの米軍駐屯地を攻撃して、あわや第三次世界大戦かとのニュースが世界中を駆け巡った。その頃は、今年は何が起こるかわからないなどと思っていたが、その後二月頃から毎日毎日コロナコロナで、世界中が奇妙な世界に取り込まれたようになっている。

この不安定なというか不安な時代を私たちはどう生きたらよいのか。同じ列車事故に遭っても、怪我をする人もいれば、まったくかすり傷一つ無い人もある。大きな地震に見舞われて、家の下敷きになって亡くなられてしまう人もあれば、家は全壊したにの、不思議なことに家具と家具が交差したお蔭でその空間に入りこみ助かる人もある。インフルエンザが蔓延し、事務所の中でインフルに感染した人が出ても、隣に居てもうつらない人もあれば離れている席なのにうつってしまう人もある。

助かる人と助からない人、騒動に巻き込まれる人と巻き込まれずに済む人、感染して大変な目に遭う人と感染しても発症もせずに済んでしまう人。これはどう考えたらよいのか。仏教はすべてのことに因縁在りという。人に業ありともいう。業ありと言うよりも、業を相続せる者と言った方が良いのかも知れない。沢山の過去世で、数え切れないほどの善いことをしてきた善業、数え切れないほど悪いことをしてきた悪業を私たちは相続しているのだと仏教では考えている。

たまたま前世が良くあり、善業によってこうして自分の意志によって何でも行える人間界に生まれることが出来たのだと考える。そうした沢山の過去に行った行為の報いがたまたま今生で事故に遭ったり、何か起きたときにその人に良い方に向くか悪い方に向くのかを左右する。しかし、その時にその人が過去世のどのような因縁によって助かったとか、悪い事態になったとかということは、お釈迦様にしか解らないことだとされている。お釈迦様の生きておられるときにも亡き後にもお釈迦様と同様の覚り・阿羅漢果を得られた勝れた聖者が沢山居られても、そのことは誰も言われなかったという。

パーリ中部経典『第135小業分別経』には、人の優劣を分けるものとは何かと問われ、お釈迦様は、生けるものたちは、業を自己とし、業を相続者とし、業を胎とし、業を拠り所としている。この業こそが生けるものたちの劣性と優性を区別すると説かれている。では、優性に導く業とはいかなることをいうのであろうか。

それは、すなわち、他の生き物たちを思いやり、慈愛あり、他の者を害することなく、恥じらいや同情がある、そうあれば、死後天界に生まれ、たとえ人間界に生まれたとしても、無病で長命となる。何か言われても不機嫌にならず、怒らず、憤らず、敵対せず、嫌悪をあらわにせず、他者の成功に嫉妬せず、他者の利得、尊敬、敬意に嫉妬しない、そうあれば、死後天界に生まれ、たとえ人間界に生まれたとしても、端正で権勢あるものとなる。困っている人に食べ物や飲み物、衣服、乗り物などを施す、傲慢になることなく、慢心なく、敬礼すべき人を敬礼し、座に相応しい人に座を譲る、供養すべき者を供養する、そうあれば、死後天界に生まれ、たとえ人間界に生まれたとしても、富裕で高位の者になると説かれている。

さらに、修行者聖職者に親しく質問し、善とは何か、不善とは何か、有罪とは何か、無罪とは何か、何に従うべきか、何に従うべきでないか、何を行えば長く不利益となり苦となるか、何を行えば長く利益となり楽となるか、ということを問い知ることによって、そうあれば死後天界に生まれ、たとえ人間界に生まれたとしても、大智慧あるものとなるという。

このように、心を清らかにし善きことを進んでしているならば、来世には善処に生まれるとあるわけだが、それにてらして今の自分を思うとき、前世ではいかがであったろうか、過去世ではいかがであったのであろうかと思いやられる。しかし今の生まれは過去のどのような業によってもたらされたものかを知ることはできない。出来ることは過去の業によってこうあるということよりも、これからをどのように生きるかだけである。

よき生まれで生まれ裕福な家庭で育てられたとしても、それにおぼれ努力せず、放蕩に暮らしていればその人は心貧しく愚かな人生を歩むことになり来世ではよくはならないであろうといわれる。逆に、生まれよろしくなく貧しい家庭に生まれたとしても努力して学び周りの人たちによきことをする人は必ずよき人生を歩み来世もよくあるであろうと言われている。

さらに、お釈迦様は人が清らかな心でいると悪い業が結果を出すことはないと教えられている。過去のあまたの業の善きものも悪しきものも知ることはできないのだから、今をどう生きるかこれからをどのような心で過ごすかによって、過去の悪しき業が結果することなきように善き業の結果が現れるようにすべきであると言われている。さすればいかなる心で日日を過ごすべきか。お釈迦様の時代には四梵住といい、少し後の仏教では四無量心という心に住すべしと教えられている。慈悲喜捨という四つの無量なる心のことである。

慈とは、慈しみの心、親友に対するような親愛なる心をもってすべての生きとし生けるものを見てやさしい心で幸せでいて欲しい、よくあって欲しいという思いを広げていくこと。

悲とは、抜苦の心、親愛なる思いを寄せる生きとし生けるものたちが悩み苦しんでいたらそれをなんとか助け癒やされて救われて欲しいと願い、その思いを広げていくこと。

喜とは、共感する心、親愛なる思いを寄せる生きとし生けるものたちが良くあったならば、成功したならば、嫉妬の心ではなく、ともに喜び幸せになる心を広げていくこと。

捨とは、平静な心、誰に対してもどのようなものにも分け隔てなく、どのような感情にもながされず、平等に静かな心を広げていくこと。

これら四つの清浄なる心を毎日ないし毎晩静かに唱え、心に念じることで、禍から逃れ、どのような時代になっても、平然と普通に生活するように心掛けて参りたいと思う。寺内月例行事はお陰様で特別な予防対策など取らずにすべて通常通り執行している。


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