追悼 ボーディパーラ比丘 Bhikkhu Bodhipala
インド・ベンガル人比丘ボーディパーラ師が、昨日27日午前8時20分コルカタの病院で亡くなられたという。まだ52、3なのに、なぜ死んでしまったのか。一昨日入院して、新型コロナ検査陽性だったとしか解っていない。はたして死因は何だったのか。遠く離れていて聞くこともかなわない。ベンガル仏教会(The Bengal Buddhist Association)の事務総長(General Secretary)として、連日パワフルな身体を揺らしながら、コロナの為に困窮している家族や施設、また水害に遭った地域に慰問に出かけ、食料や水を施している様子がフェイスブックでいくつもアップされていた。かなり疲労がたまっていたのかもしれない。最後に見た彼の動画は黒い肌が白く見えるほど生気がなかった。
いつもフェイスブックでやりとりをしていた。彼は英語が堪能で、彼の英語のメッセージを読み、私はヒンディー語をアルファベットで表記して送信していた。この5月には、新型コロナウイルスに関するアメリカ人医師の動画を参考に見てみたらとメッセージしたところだった。忙しいのかその時には、sureとしか返事がなかった。その前4月には、この新型コロナ騒動を終息させるべく、お釈迦様の時代の故事にある、ヴェーサーリーでの疫病退散のために読誦したとされるパーリ・ラタナスッタを一緒に唱えよう、二人の師であるダルマパル師のCDに録音したものを聞き、その独特な節を付けて唱えようと呼びかけ、「久しぶり、元気そうでよかった、わかった了解」と返事が来たのだった。誕生日には毎年律儀にメッセージを送ってくれていた。
彼ボーディパーラ比丘は、実は私の恩人とも言える人である。27年前、私が上座仏教の正式な比丘になれたのは、彼がいたからなのだ。その年、具足戒式(ウパサンパダーUpasampada)を受けるバルワ仏教徒がいるから、その4月にサールナートで沙弥となったばかりの私にも一緒にしてはどうかと取り計らってくださったのである。本来ならそう簡単にはウパサンパダーはできないと言われていた。なぜなら正式な儀式を挙げるには最低10人の比丘が参加しなくてはいけないから。直接のご指導を仰ぐ和尚、受具足戒式を仕切る羯磨師、年齢や借金がないか、両親の許しはあるかと設問する尋問師、そして証人となる比丘が7人以上必要となる。そして実際には、1993年6月22日、コルカタのフーグリー河船上で行われた具足戒式には14人もの長老比丘方が参加され、中にはムンバイからはるばる駆けつけた長老やチャクマ仏教徒のラージグルも御越し下さっていた。
このように各地に分散している比丘方を召集し、その交通費から滞在費食費まで負担しなくてはいけない。さらには儀式に参加いただく布施やその日には豪華な施食をしなくてはならず大変な出費となる。彼ボーディパーラは、1892年10月5日に創立された、このベンガル仏教会の創設者クリパシャラン大長老の親族の家柄で、資産家でもあり、そのためおそらくその経費のほとんどを彼の家が負担してくれたのだと思う。つまり、もとより私のためになされた儀式でもなく、彼のために、彼の親族ないし全バルワ仏教徒の将来を託すべき人物の盛大なる記念すべき儀式に、まるでつけたしのように私はその儀式に入れていただけたのであった。
その前年、私が何の計画もなく訪れたインドで、たまたまコルカタで立ち寄ったベンガル仏教会本部で、時の事務総長ダルマパル・バンテーからサールナートの後藤師に遭いなさいといわれ、コルカタから夜行の急行列車でバラナシに行き、初転法輪の聖地サールナートを訪ねた。チベタンインスティチュートの隣に位置するベンガル仏教会サールナート支部にしばらく滞在し、日本人住職後藤恵照(プラッギャラシュミ)比丘からインド仏教の近代史をうかがった。それまで現代インドに由緒正しき仏教はすでにないと思っていた私だったが、彼らバルワ仏教徒は、マガダ国の王家の末裔であり、イスラム勢力がインドに侵入する前にインド東部、今のバングラディシュチッタゴン丘陵地に避難した伝統ある仏教徒であることを知った。彼らをベンガル仏教徒もしくは彼らの姓からバルワ仏教徒という。そして、自分もインドで再出家しようと即断し、すぐに帰国してヒンディー語やパーリ語を習い、その翌年留学ビザを取得して再度インドに入ったのであった。
そして、具足戒を受けた後私はサールナート支部法輪精舎に帰り、サンスクリット大学のパーリ語科に自転車で通っていたが、彼ボーディパーラ比丘はナーランダー大寺(Nava Nalanda Mahavihara)で、将来のベンガル仏教会事務総長になるべく英才教育を受けていた。たまにコルカタの本部で顔をあわせることもあった。私の方が10近くも歳は上ではあったが、比丘は先に出家した方が上、ウパサンパダーでは私より先に彼が教誡を受けている。対等以上に上から物を言う彼ではあったが、何かいつも兄弟のような感覚が私には芽生えていた。
その後私は日本に一時帰国したり、留学条件の変更などで帰国を余儀なくされたりで、三年半ほどで比丘を諦め日本の僧侶に復帰した。二人の師であったダルマパル大長老も亡くなり、縁遠くなった頃、フェイスブックによって交流が細々と繋がった。彼はいつの間にか事務総長になり、インドの教団を代表して世界仏教徒会議にも参加し、代表して壇上に立ち演説するようになっていた。日本にも何度か招かれてきていて、一昨年も11月に開催された日本仏教会主催の世界仏教徒会議日本大会に参加していた。この時には連絡は無かったものの、その前たしか平成28年4月に来日した際には電話が入り滞在先の東京に私も出向く予定にしていたところ、結衆寺院住職が遷化されて、残念ながら再会をはたせなかった。いつでもまた会える、そんな気持ちでいたが、今思えば誠に残念なことであった。
師のダルマパル大長老同様に四十代で事務総長になり、これからのインド仏教界、ないし、世界の仏教徒を代表して世界に向けて仏教の平和共存を旨とする精神性を説くべき人がこんなに早く亡くなってしまうとは。人間世界にとっての大きな損失であると言っても過言ではないだろう。インドで彼が奮闘している、私も頑張ろうと思ってきた。誠に残念でならない。一生忘れることの出来ない、兄弟にも思えるボーディパーラ比丘。来世で、是非また仏教徒として世界の人々を導いて欲しい。あらためてあの日を思い彼の分も精進を重ねて参りたいと思う。ありがとう、ボーディパーラ比丘。本当にご苦労様でした。お疲れさまでした。sadhu sadhu sadhu
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インド・ベンガル人比丘ボーディパーラ師が、昨日27日午前8時20分コルカタの病院で亡くなられたという。まだ52、3なのに、なぜ死んでしまったのか。一昨日入院して、新型コロナ検査陽性だったとしか解っていない。はたして死因は何だったのか。遠く離れていて聞くこともかなわない。ベンガル仏教会(The Bengal Buddhist Association)の事務総長(General Secretary)として、連日パワフルな身体を揺らしながら、コロナの為に困窮している家族や施設、また水害に遭った地域に慰問に出かけ、食料や水を施している様子がフェイスブックでいくつもアップされていた。かなり疲労がたまっていたのかもしれない。最後に見た彼の動画は黒い肌が白く見えるほど生気がなかった。
いつもフェイスブックでやりとりをしていた。彼は英語が堪能で、彼の英語のメッセージを読み、私はヒンディー語をアルファベットで表記して送信していた。この5月には、新型コロナウイルスに関するアメリカ人医師の動画を参考に見てみたらとメッセージしたところだった。忙しいのかその時には、sureとしか返事がなかった。その前4月には、この新型コロナ騒動を終息させるべく、お釈迦様の時代の故事にある、ヴェーサーリーでの疫病退散のために読誦したとされるパーリ・ラタナスッタを一緒に唱えよう、二人の師であるダルマパル師のCDに録音したものを聞き、その独特な節を付けて唱えようと呼びかけ、「久しぶり、元気そうでよかった、わかった了解」と返事が来たのだった。誕生日には毎年律儀にメッセージを送ってくれていた。
彼ボーディパーラ比丘は、実は私の恩人とも言える人である。27年前、私が上座仏教の正式な比丘になれたのは、彼がいたからなのだ。その年、具足戒式(ウパサンパダーUpasampada)を受けるバルワ仏教徒がいるから、その4月にサールナートで沙弥となったばかりの私にも一緒にしてはどうかと取り計らってくださったのである。本来ならそう簡単にはウパサンパダーはできないと言われていた。なぜなら正式な儀式を挙げるには最低10人の比丘が参加しなくてはいけないから。直接のご指導を仰ぐ和尚、受具足戒式を仕切る羯磨師、年齢や借金がないか、両親の許しはあるかと設問する尋問師、そして証人となる比丘が7人以上必要となる。そして実際には、1993年6月22日、コルカタのフーグリー河船上で行われた具足戒式には14人もの長老比丘方が参加され、中にはムンバイからはるばる駆けつけた長老やチャクマ仏教徒のラージグルも御越し下さっていた。
このように各地に分散している比丘方を召集し、その交通費から滞在費食費まで負担しなくてはいけない。さらには儀式に参加いただく布施やその日には豪華な施食をしなくてはならず大変な出費となる。彼ボーディパーラは、1892年10月5日に創立された、このベンガル仏教会の創設者クリパシャラン大長老の親族の家柄で、資産家でもあり、そのためおそらくその経費のほとんどを彼の家が負担してくれたのだと思う。つまり、もとより私のためになされた儀式でもなく、彼のために、彼の親族ないし全バルワ仏教徒の将来を託すべき人物の盛大なる記念すべき儀式に、まるでつけたしのように私はその儀式に入れていただけたのであった。
その前年、私が何の計画もなく訪れたインドで、たまたまコルカタで立ち寄ったベンガル仏教会本部で、時の事務総長ダルマパル・バンテーからサールナートの後藤師に遭いなさいといわれ、コルカタから夜行の急行列車でバラナシに行き、初転法輪の聖地サールナートを訪ねた。チベタンインスティチュートの隣に位置するベンガル仏教会サールナート支部にしばらく滞在し、日本人住職後藤恵照(プラッギャラシュミ)比丘からインド仏教の近代史をうかがった。それまで現代インドに由緒正しき仏教はすでにないと思っていた私だったが、彼らバルワ仏教徒は、マガダ国の王家の末裔であり、イスラム勢力がインドに侵入する前にインド東部、今のバングラディシュチッタゴン丘陵地に避難した伝統ある仏教徒であることを知った。彼らをベンガル仏教徒もしくは彼らの姓からバルワ仏教徒という。そして、自分もインドで再出家しようと即断し、すぐに帰国してヒンディー語やパーリ語を習い、その翌年留学ビザを取得して再度インドに入ったのであった。
そして、具足戒を受けた後私はサールナート支部法輪精舎に帰り、サンスクリット大学のパーリ語科に自転車で通っていたが、彼ボーディパーラ比丘はナーランダー大寺(Nava Nalanda Mahavihara)で、将来のベンガル仏教会事務総長になるべく英才教育を受けていた。たまにコルカタの本部で顔をあわせることもあった。私の方が10近くも歳は上ではあったが、比丘は先に出家した方が上、ウパサンパダーでは私より先に彼が教誡を受けている。対等以上に上から物を言う彼ではあったが、何かいつも兄弟のような感覚が私には芽生えていた。
その後私は日本に一時帰国したり、留学条件の変更などで帰国を余儀なくされたりで、三年半ほどで比丘を諦め日本の僧侶に復帰した。二人の師であったダルマパル大長老も亡くなり、縁遠くなった頃、フェイスブックによって交流が細々と繋がった。彼はいつの間にか事務総長になり、インドの教団を代表して世界仏教徒会議にも参加し、代表して壇上に立ち演説するようになっていた。日本にも何度か招かれてきていて、一昨年も11月に開催された日本仏教会主催の世界仏教徒会議日本大会に参加していた。この時には連絡は無かったものの、その前たしか平成28年4月に来日した際には電話が入り滞在先の東京に私も出向く予定にしていたところ、結衆寺院住職が遷化されて、残念ながら再会をはたせなかった。いつでもまた会える、そんな気持ちでいたが、今思えば誠に残念なことであった。
師のダルマパル大長老同様に四十代で事務総長になり、これからのインド仏教界、ないし、世界の仏教徒を代表して世界に向けて仏教の平和共存を旨とする精神性を説くべき人がこんなに早く亡くなってしまうとは。人間世界にとっての大きな損失であると言っても過言ではないだろう。インドで彼が奮闘している、私も頑張ろうと思ってきた。誠に残念でならない。一生忘れることの出来ない、兄弟にも思えるボーディパーラ比丘。来世で、是非また仏教徒として世界の人々を導いて欲しい。あらためてあの日を思い彼の分も精進を重ねて参りたいと思う。ありがとう、ボーディパーラ比丘。本当にご苦労様でした。お疲れさまでした。sadhu sadhu sadhu
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