では輪廻する自分とは何なのか、という観点から少し考えてみましょう。私たちは、今のこの人生を生きる私が自分と思っていますが、前世があり、その前のいくつもの過去世があったわけです。さらには死後も生まれ変わり別の身体をもらって生き続けていきます。そこに介在するのはお釈迦様の言われるように業(ごう)です。過去に行った善悪の行為による苦楽の報果をもたらす業のみが、この私という意識とともに、次々に受け継がれていきます。
ですから、自分とは、今のこの身体の私だけではなく、過去の自分の業も一緒に生きていて、さらには今の瞬間の行為も含めての業を次の自分にも受け渡していく存在だということです。自分のことは自分が勝手にしていいと思って、例えば、自暴自棄になって何かしでかしてしまうというのは今生の自分だけでなく、未来世の自分にとっても危ない行為だということになります。
前世も含め過去世の自分の行為による業を抱え込んで生きている自分には、今起こっている現実の自分に備わった様々な特性、良い面も悪い面も様々に評価されることにも、今生の自分だけの力、才能ではなくて、勿論両親からの遺伝ということもありましょうが、そのような両親の元に生まれついたというのも、業によると考えます。ですから、私たちの才能は、過去世に蓄積されたものも影響していると考えなくてはいけないのだと思います。ちょっと教えただけで抜群の成長を見せる人があります。いくら教えてもわからない、できないという人もあります。
過去世に蓄積したものがある場合とない場合では、かなり違いが出てくるということでしょう。精神的に強い人弱い人、それも過去世の影響が含まれているのではないでしょうか。ですから、何があっても、良い結果にうぬぼれることなく、悪い結果に落ち込むことなく、それも生き通しの自分の今の結果と思って、平然と受け入れたら良いのかと思います。勿論、それは簡単なことではありません。ですが、そんな風に捉えてみられたら、少しは気持ちも楽になるのではないでしょうか。
私たち日本人は災害に遭っても、お互い様、誰の責任でもないという深い納得があるように感じます。それは、自分たちのしてきたことの積み重ね、ずっとしてきたことの結果としてこうあるというような納得、ないし諦めがあるのではないかと思うのです。ずっとしてきたのは、御先祖様なのかもしれませんし、先人のしてきたこともありましょうが、それも含めて自分もその一人であるからという諦めです。
今の自分も生まれ変わり生まれ変わりしてきた積み重ねにより今の自分があるという思いになれば、誰に文句の言えることでもないということです。今の境遇、今の思い、悩み悲しみ喜びも、すべては自分のしてきたことの結果であるということです。同じ事が起こっても、笑って済ませる人と、怒り出してしまう人、落ち込んでしまう人もあり、いろいろな反応の示し方があります。それも過去世も含めて過去の蓄積によるものと言えましょう。
一人一人みんな才能も好き嫌いも思いも違います。違うからこそ私たちは一人一人生きる価値があるとも言えますが、その違いの中に、その人なりの課題、この人生で解決する、やり遂げておくべきものがあるようです。そのためにこそ、この人生もあります。それをやり残したら、次の人生に持ち越されてしまうことになります。
お寺では先祖の供養ということをいたしますが、私たちにも前世の家族があり、御先祖として私たちのことを供養してくれていることでしょう。だからこそ私たちは恙なくこうして暮らしていけているのかもしれません。ですから、私たちも今生暮らす上でお世話になっている当家のご先祖様に向けて供養する必要があるということになります。相互供養という言葉がありますが、前世の家族に供養され、来世に行った先祖を供養する、これこそが相互供養と言えるのかもしれません。
仏教を信奉する人は、教えを学ぶ行じる、そのことによってしあわせとなり、精神的に楽になり、周りの人たち生き物たちと明るく楽しく過ごせるメリットがあることでしょう。しかし、そのことは同時に人格を向上させ、真の落ち着きと深い洞察を兼ね備え、すべてのものをありのままに知り、最終的にはお釈迦様のような人格の完成、つまり悟りに向かって、今を生きていると言うこともできます。
仏教徒にとっての人生とは、いくつもの目標、人生の目的の先の先に、最終ゴールには悟りがあるのだと思って生きるためにこそあります。ですから、人生には様々な困難、挫折、困窮することもありましょうが、それらを乗り越えて、私たちの本当のゴールはまだこの先にあると思える様な、来世、未来世も含めた果てしない人生設計を頭の片隅にでも置いて生きて欲しいと思うのです。本当は、悟りのためにこそ、この命があるという考え、今のインドの仏教徒の中にもそこまで現実の問題として考える人は少ないのかもしれません。が、お釈迦様を人生の理想、目標として生きる仏教徒ならば、当然そういう考えのもとに生きてしかるべきであるというのが世界の仏教徒の思いであります。
ですから、日本に生きる私たちも、知らず知らずのうちに、先祖の供養や法事に精霊の菩提を願い、葬儀に故人の成仏を願うのではないでしょうか。菩提、成仏ともに悟るということに外ならないのですから。何度生まれ変わっても悟りに向かって生きていく、そうあって欲しい、それが私たちの願いであるというのが、御先祖方が家の中心に立派な仏壇を継承してこられたことの意味ではないかと思っています。だからこそ、仏壇の上段に仏様を祀り、中段に位牌を祀り菩提を念じるのではないでしょうか。・・・
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ですから、自分とは、今のこの身体の私だけではなく、過去の自分の業も一緒に生きていて、さらには今の瞬間の行為も含めての業を次の自分にも受け渡していく存在だということです。自分のことは自分が勝手にしていいと思って、例えば、自暴自棄になって何かしでかしてしまうというのは今生の自分だけでなく、未来世の自分にとっても危ない行為だということになります。
前世も含め過去世の自分の行為による業を抱え込んで生きている自分には、今起こっている現実の自分に備わった様々な特性、良い面も悪い面も様々に評価されることにも、今生の自分だけの力、才能ではなくて、勿論両親からの遺伝ということもありましょうが、そのような両親の元に生まれついたというのも、業によると考えます。ですから、私たちの才能は、過去世に蓄積されたものも影響していると考えなくてはいけないのだと思います。ちょっと教えただけで抜群の成長を見せる人があります。いくら教えてもわからない、できないという人もあります。
過去世に蓄積したものがある場合とない場合では、かなり違いが出てくるということでしょう。精神的に強い人弱い人、それも過去世の影響が含まれているのではないでしょうか。ですから、何があっても、良い結果にうぬぼれることなく、悪い結果に落ち込むことなく、それも生き通しの自分の今の結果と思って、平然と受け入れたら良いのかと思います。勿論、それは簡単なことではありません。ですが、そんな風に捉えてみられたら、少しは気持ちも楽になるのではないでしょうか。
私たち日本人は災害に遭っても、お互い様、誰の責任でもないという深い納得があるように感じます。それは、自分たちのしてきたことの積み重ね、ずっとしてきたことの結果としてこうあるというような納得、ないし諦めがあるのではないかと思うのです。ずっとしてきたのは、御先祖様なのかもしれませんし、先人のしてきたこともありましょうが、それも含めて自分もその一人であるからという諦めです。
今の自分も生まれ変わり生まれ変わりしてきた積み重ねにより今の自分があるという思いになれば、誰に文句の言えることでもないということです。今の境遇、今の思い、悩み悲しみ喜びも、すべては自分のしてきたことの結果であるということです。同じ事が起こっても、笑って済ませる人と、怒り出してしまう人、落ち込んでしまう人もあり、いろいろな反応の示し方があります。それも過去世も含めて過去の蓄積によるものと言えましょう。
一人一人みんな才能も好き嫌いも思いも違います。違うからこそ私たちは一人一人生きる価値があるとも言えますが、その違いの中に、その人なりの課題、この人生で解決する、やり遂げておくべきものがあるようです。そのためにこそ、この人生もあります。それをやり残したら、次の人生に持ち越されてしまうことになります。
お寺では先祖の供養ということをいたしますが、私たちにも前世の家族があり、御先祖として私たちのことを供養してくれていることでしょう。だからこそ私たちは恙なくこうして暮らしていけているのかもしれません。ですから、私たちも今生暮らす上でお世話になっている当家のご先祖様に向けて供養する必要があるということになります。相互供養という言葉がありますが、前世の家族に供養され、来世に行った先祖を供養する、これこそが相互供養と言えるのかもしれません。
仏教を信奉する人は、教えを学ぶ行じる、そのことによってしあわせとなり、精神的に楽になり、周りの人たち生き物たちと明るく楽しく過ごせるメリットがあることでしょう。しかし、そのことは同時に人格を向上させ、真の落ち着きと深い洞察を兼ね備え、すべてのものをありのままに知り、最終的にはお釈迦様のような人格の完成、つまり悟りに向かって、今を生きていると言うこともできます。
仏教徒にとっての人生とは、いくつもの目標、人生の目的の先の先に、最終ゴールには悟りがあるのだと思って生きるためにこそあります。ですから、人生には様々な困難、挫折、困窮することもありましょうが、それらを乗り越えて、私たちの本当のゴールはまだこの先にあると思える様な、来世、未来世も含めた果てしない人生設計を頭の片隅にでも置いて生きて欲しいと思うのです。本当は、悟りのためにこそ、この命があるという考え、今のインドの仏教徒の中にもそこまで現実の問題として考える人は少ないのかもしれません。が、お釈迦様を人生の理想、目標として生きる仏教徒ならば、当然そういう考えのもとに生きてしかるべきであるというのが世界の仏教徒の思いであります。
ですから、日本に生きる私たちも、知らず知らずのうちに、先祖の供養や法事に精霊の菩提を願い、葬儀に故人の成仏を願うのではないでしょうか。菩提、成仏ともに悟るということに外ならないのですから。何度生まれ変わっても悟りに向かって生きていく、そうあって欲しい、それが私たちの願いであるというのが、御先祖方が家の中心に立派な仏壇を継承してこられたことの意味ではないかと思っています。だからこそ、仏壇の上段に仏様を祀り、中段に位牌を祀り菩提を念じるのではないでしょうか。・・・
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