住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

祈りについて

2021年04月24日 13時10分45秒 | 仏教に関する様々なお話
祈りについて 四月の護摩供後の法話



私たちは、だれもが自然に幸福を願い、不安や恐れから逃れたいと思い願い祈る。しかし仏教はいつのころからか、学問仏教としては、特に、祈り、つまりご祈祷や祭祀儀礼は仏教にあらずというような観念が浸透している。現世利益を求めるなどというのは仏教ではないという。確かに初期経典の中にもそのようなくだりはあるけれども、はたしてそうなのであろうか。

パーリ長部経典には、「信者から施された食べ物で生活しながら、・・・火の献供、・・・王族の呪術、墓地の呪術、鬼霊の呪術・・・そのような無益な呪術による邪な暮らしから離れている。これもまた、比丘の戒です。」(第4ソーナダンダ経他)とある。しかしこれは、悟りに日々精進する比丘方の戒としての記述であり、そのような人々にとって無益であると言われたに過ぎない。

今日、お釈迦様の時代の仏教を継承されているとされる南方の仏教では、パリッタといわれる護呪経を毎朝比丘方はお唱えになられている。これらの中には、蛇の害から逃れたり、病気が癒やされたり、信者たちの幸福を願って、唱えられた伝統によって今日迄大事にされてきた経典であるという。つまり、悟りへの本分に差し支えのないように、唱え、祈ることは許されていたと考えられるのであって、祈りを否定したわけではないと言えよう。

アングリマーラ経という経典が、パーリ中部経典にある。人や動物を心なく殺し、大人数で武器を手にして取り巻いても退治できなかったアングリマーラを、お釈迦様は一人静かに近づき、説教して改心させて比丘として僧院に生活させていた。ある時アングリマーラが托鉢していると、一人の婦人が難産で苦しんでいた。どうしたらよいかをお釈迦様に問うと、「私は生まれてより故意に生き物の命を奪ったことはない。この事実においてあなたの身体が安らかになりますように」と言いなさいと教えられる。しかしそれでは偽りを言うことになるとアングリマーラが言うと、それでは「聖なる生まれによって生まれてより・・・」と言い換えて言うように教えられ、その通りその婦人の所に行き言うと、その婦人も胎児も楽になったという話が残されている。その人にとって最も難しい厳しい戒を保っているというその事実、その功徳によって願いが叶いますようにと祈る行為を教えて下さっているものと解釈できよう。

さらに、これも初期経典の一つ法句経の第166偈の因縁物語にアッタダッタ、自己の利益を意味する名の比丘の話がある。お釈迦様があと四ヶ月後に入滅するであろうと言われた一言に慌てふためき、多くの比丘方が何をしていいか分からず、香や花を供えて供養してお釈迦様の延命を願う中で、ひとりアッタダッタという比丘は修行に専念していた。周りの比丘たちが単独行動するアッタダッタのことを告げ口すると、お釈迦様は呼びに行かせ理由を聞かれると、アッタダッタは「お釈迦様が生きておいでになる間に最高の悟りを得られるように瞑想に励んでおります」と答える。すると、お釈迦様は、「アッタダッタは立派である、香や花を供えて供養するよりも、最高の悟りを得ることが何より大事であり、そのことは私への無上の供養である」といわれたという。

供養とは、インドの言葉では、プージャーpujaであり、尊敬供養礼拝を意味し、今日でも、インドでは盛んにプージャーが行われ、神様に沢山の香や御供えをし読経がなされる。仏教でも、ブッダ像に香灯明供物がお供えされて読経がなされる。しかし、仏教での供養pujaはその上に修行が何よりの供養であり、お勤めには心を浄める、心を無にして、きれいにするという要素が欠かせないということになろうか。だからこそ、法事などの亡くなった人の供養にも読経がなされるわけだし、今日のお護摩においても皆さんは、火が上がっている間一心に心経を唱え、すべての思い計らい願いを仏様に放下して、おまかせして、心を清浄にされたのではないかと思う。写経をする、四国をひたすら遍路して歩く、それらも当然のこと、持戒して行じることになる。だからこそ願い祈りが通じるのではないか。

最後に、悟りとは何かと言えば、心をきれいにして、さらにこの世の真理を諦める、つまり真実を知ると言うことに尽きる。今の世の中、益々混迷を深めているように見える。自然のことに様々な作意を故意に塗りつけることによって、人々が迷い動揺している。私たちは作意されたものを受け取らず、ただありのままに見ていくことで、その真実相を知り、世間や周りの人たちに翻弄されることのない、落ち着いた生活を心掛けてまいりたいと切に思う。


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懺悔とは

2021年04月06日 14時48分07秒 | 仏教に関する様々なお話
懺悔とは  3月の護摩供後の法話




今年の初護摩では、礼拝について述べました。礼拝に込める万感の思いというような少々重たい話になりましたが、今日はその続きとなる懺悔について話してみたいと思います。懺悔と、さんげと濁らずにいうと仏教の懺悔となりますが、ざんげと発音しますとキリスト教でいう懺悔となります。神の前に自らの罪を告白するというような意味となるわけですが、それと仏教の懺悔がどう違うのかというようなことであります。

山岳修行にいきますと、山に登っていく道すがら、「懺悔懺悔六根清浄」とかけ声をかけ、同行の人らで繰り返し唱えながら歩きます。山岳修行といえば、吉野の大峰山、羽黒山など出羽三山、それに九州福岡の英彦山などが有名な修験道の霊場となりますが、皆同じように山伏の格好をして白装束に地下足袋を履いて山を登っていくわけです。

余談ですが、一昔前まで、大阪の中学校などでは、遠足に大峰山に行き、男子生徒は皆縄を体に巻かれて崖から前のめりに落としては、お父さんお母さんのいうことを聞くか、親孝行するか、悪いことをせんかといわれて、大きな声で返事をしないとずるずる下に落とされて、ちゃんと返事をすると上に上げてもらうというような度胸試しのような修行まがいのことをしていたと聞きます。もちろん今ではそんなことをしている学校はないと思いますが、いい悪いは申しませんが、そういういい時代がありました。

では、この六根とは何のことでしょうか。これはお釈迦様の時代にはおそらくほかの修行者たちにもなじみのある用語であったと思われますが、外界から私たちが取り込む刺激の入り口のことです。目、耳、鼻、舌、皮膚の五官に心を合わせて六根(眼耳鼻舌身意)といいます。外界から入ってくるものを見たり聞いたり味わったりして、私たちはその刺激を受けて様々な欲の心や怒り、愚かしい思いを重ねていくことになるわけで、その入り口である六根を俗世間から切り離して、制御し、清浄なるものにして修行に取り組むことを宣言しながら山修行に望むということなのでしょう。

このように心について懺悔するということが仏教では重要であることがわかるわけですが、私たちが勤行次第の中でお唱えする懺悔文には「無始よりこのかた貪愼痴の煩悩にまつわれて身と口と意とに造るところの諸々のつみとがを皆悉く懺悔し奉る」とあります。貪愼痴に代表される様々な煩悩によって行うこと、身と口と心で行うことすべてがみな懺悔に該当しますよということです。この場合、身体で行うこと、口で行うことについては、懺悔しやすいと申しますか、相手があったりすればやり過ぎた言い過ぎたとか、反撃があったり言い返されされて痛い思い嫌な思いをしたり、一人で行ったことでも記憶に残りやすいので後悔したりということで懺悔はしやすいわけです。

しかし、心の行いは、何もしていません、心で思っただけですというように思う方もあるようです。が、心の中ではどんなことでもできてしまうわけです。誰にもとがめられず痛い思いもせずに、心で思うことは行いやすいのです。それによって憂さを晴らすということもあるかもしれませんが、それがゆえに反省もせずに心の中は汚れっぱなしということになりがちです。欲、怒り、疑い、嫉妬、恨み、辛み、怠け、驕り、慢心など汚れた心にならないように、仏教では心の中で何を思い考えているか、自らの心に気づく、観察する、制御するということが大事なことと教えられているのです。そのために先ほど述べた六根というような教えもあり、細かく観察する仕方を教えているのです。日頃日常を過ごす上ではなかなかしずらい心の観察のために坐禅をしたりということも必要となってまいります。

また、懺悔文には、「無始よりこのかた」とありますように、始まりのない輪廻転生の中にあるがゆえに再生を繰り返しつつきて今に至る、あまたの業による自分を思い、それらすべてについて懺悔するのだというのです。私たちには実際に過去世で何をしてきたのかを知ることはできないわけですが、ただ言えることは今ある自分はそうしたすべての過去の業のもとにあり、それらに影響されつつ今生を生きているということです。されどこうして人間に生まれてきているということは、それだけで少なくとも前世で善い業があったといえます。現在の悪い行いは過去の悪い業を結果させる、善き心善き行いは過去世の善い業が報いて善い結果をもたらすといいます。ですから、私たちは、善いことも悪いこともたくさんの業を積み重ねてきて今あることを思うとき、常に自らの心を善い心にしておくべく心を観察をしつつ過ごすことが大切なこととなります。

改めて懺悔文を唱えるとき、何度も再生を繰り返してきた過去の行いに思いをいたし、それらについて懺悔するとともに、日頃なかなか自らの心を観察し心の過ちに気づくことなく過ごしていることへ反省をこめて、改めて日々心のありように気づくことを決意したいものです。懺悔文は、ただ唱えるのではなく、そうした意味合いをきちんと心に反芻しつつお唱えしたいと思います。


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