住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

五戒について

2006年09月16日 19時54分57秒 | 仏教に関する様々なお話
戒律などというものが今の世の中に通用するのか。戒律などというものがあるから世の中かえっていかがわしいものが氾濫するに違いない。戒律など無くしてしまえ。誰が今の時代戒律など守る者があろうか。そういう声が聞こえてくるようである。今という時代は、戒律にとって、誠に居心地の悪い、受難の時代であると言えようか。

戒律とは、どの宗教にとってもある程度規定されているものであろう。「汝かくあるなかれ」というものは、どこにでも、どの時代にもあったはずだ。仏教では本来誠に厳格にこの戒律を規定してきた。他の仏教国では未だに大事な、出家たる者にとっても、また在家の仏教信者にとっても大切な教えとなっている。

在家の守るべき戒に五戒がある。不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒の五つだ。これらは、あることをしなければいいというものではなくて、その反対のことを求める教えとしてあると教えていただいたことがある。だから、生き物を殺さなければいいというので無しに、その反対であるから、生き物を慈しみの心をもって育むということが必要なのだと。その他の4つについても同様である。

そしてそれらは、なぜこのように五つであって、この順番であるのか?六つではいけないのか。七つであってはいけないのか。そう考えてその他のことをここに入れようとすると、なかなかうまいことが思い浮かばない。布薩(ふさつ)という、満月、新月、半月の日に毎月4回在家者が行う精進日には在家仏教徒は、八戒を守ることになっているが、五戒の不邪淫戒が不淫戒となり、歌舞音曲をせず、午後食事をせず、香や装飾をせずという三つが加わる。

また、正式な僧侶になる前の見習い僧である沙弥(しゃみ)の十戒では、布薩の八戒に加えて、立派なベッドに寝ない、金銭を受け取らないという二戒を加える。これら五戒の他に加えるものを実際に普段に在家の人たちが守ろうとしたら、仕事にならず、社会生活に支障をきたすということになるのであろう。

お釈迦様の教えは誠に調った完璧なものであるとよく言われる。時代が変わったからと言って加えたり、はぶいたりできないということであり、この五戒は広く人類共通の守るべきものだと言ってもおかしくない。仏教徒だけが守ればいいというものでもない。そして、この五戒のその順番もおそらく、そこにお釈迦様の意図が隠されているのではないか。と私は思う。

なぜ不殺生が一番先に来ているのか? それは何よりも私たち自身が生きるということ、この生に強い執着を持っているからであり、それは他の生き物も同じなのだということを教えておられるのではないか。自分が生きたいなら、他の者も同じように考えているのだから、他の者たちの命を自分の身に置き替えて大切にしてあげなければいけない。他を殺すなら、自分も殺されるぞということを言いたかったのではないか。私たちは生きていい、お前たちは生きていなくていいなどということは成り立ち得ないということを。

そして、私たちが生きていく上で、食べ物にしろ住まいにしろ道具にしろ、物が無くては生きてはいけない。けれども、その物も自分の物を大切に思うなら、他者も同様であると考えて、他者の物を取ってはいけない。かえって、自分の物をみんなと分かち与えることで、自分も良くあるであろうということを教えてくれているのではないか。

また生きる上で、私たちには様々な欲があるけれども、特に性的な欲求をそのままに行動していたら、多くのトラブルを抱え、その社会では生きられなくなってしまう。なぜなら、邪な行動を起こす相手の人には家族があり親族があり、様々な人間関係のある人であるから。自分や自分の家族を大切に思うなら、他の人や家族を損なうことをしてはいけないということになる。

そして、その社会の中で、人間関係をつくるために言葉がある。誰にとっても自分が可愛い。自分によかれと思って目先の利益を優先し、嘘をかさねるなら、その人は、いずれ人としての信用が無くなり、やはりその社会で生きていく上で大きなハンデを背負うことになる。嘘に限らず、言葉は様々なトラブルを引き起こす。人の悪口、罵詈雑言、おべっか、二枚舌、いずれもその人の人格品格を損なう。口から出たものにフタはできない。口は災いの元。自分だけよいようにと思ってはいけない、真実を言うべき時に丁寧に言う、という慎重さが必要だ。

それから大切なことは我を忘れるということがあってはならないということだろう。お酒に限らず、薬物によって、自分というものをなくしてしまってはいけないということだ。私たちには、この上なく時に、何もかも忘れてしまいたい、考えないでいたいということがある。病気のこと、仕事のこと、人間関係のこと、様々なことが心に襲いかかってくるだろう。だが、そんなことがあったとしても、お酒などで自分を忘れるなどということでそのことは解決できないよということではないか。やはり、その耐えきれない悩み苦しみではあっても、それをしっかりと受け入れて、冷静に生きていかなきゃダメだということではないか。

五戒も、こうして考えてくると、その順番もしっかりと意図的に、私たちが大切に、重要に思っていることは何か、つまり生きる上で何に本当にこだわって、何に振り回されて私たちは生きているか、ということを教えてくれている。

お釈迦さまの教えは誠に素直に何のてらいもなく素っ気なく、一見有難味がないように感じる。しかし、そこには、この五戒のように、どの教えにも本当はお釈迦さまの深い、誠に思慮深い意味が込められている。その意図を私たちが汲み取ることなく、ないがしろにしていては、その教えをただ形骸化していくのみで、その教えの何たるかを知ることはないであろう。私たちはその一つ一つをもう一度改めて検証していく必要があるのではないかと思う。

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2 コメント

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こんばんは(^o^) (さんとう花)
2006-09-17 21:43:56
おじゃまします。

五戒を忠実に守ったら、きっと平和な世の中が訪れることでしょうね。

人間とは何と自堕落な生きものなんでしょう。

辛い上り坂より、楽な下り坂を選んでしまう傾向がありますから。

理屈では百も承知なのに、実体が伴わないというのは、人間の哀しい性ですね・・・
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おはようございます (全雄)
2006-09-18 07:06:05
そうですね。本当にその通りです。お釈迦さまも、自分のためになること、本当にすべきことはしがたいものだと言われています。



五戒も簡単そうですが、やはり一番難しい。難しそうなことは本当は優しいことなのかもしれません。厳しい教えをごまかして骨抜きにしてしまうということかもしれません。



憲法改正なんかもそういうことかもしれない。9条も陳腐な内容に聞こえますけど、一番難しいことでしょう。集団的自衛権などと言えば難しそうで良いことをするように思えますが、結局はアメリカと一緒に戦争します、アメリカ兵の尖兵になりますということでしょう?



何時の時代も人間はどこまで行っても、馬鹿なんだと、何度も同じ事を繰り返すものだと自覚して、事ある毎に過去を振り返ることが必要と言うことでしょうか。
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