住職のひとりごと

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(2/23改訂) ヨープスト雄峰先生に学ぶ「仏教との出会いと般若心経」

2014年02月19日 16時34分06秒 | 仏教に関する様々なお話
(2月13日井原市民会館で行われた大覚寺門跡御親教に際して行われた講演の講演録です。録音したものから原稿起こしをさせていただきました。なお、こちらへの掲載については先生の許可を得てあります。)


講演「仏教との出会いと般若心経」

早稲田大学名誉教授 ヨープスト・雄峰


本日は大変得難いご縁があり、こうして大覚寺門跡御親教と般若心経祈願法会に参加させていただき誠にありがたいことと思います。

弘法大師空海が『声字実相義(しようじじつそうぎ)』の中に著されているように、お大師様は音声や文字を大切にされました。京都の南に庶民のための学問所である綜芸種智院を建てられたり、ひらがなも弘法大師が作られたという伝承もあります。嵯峨天皇様もその昔一字三礼されて慎重に心経を浄写なされています。仏の教えを伝える為に、正しい音(声)と正しい文字を用いることはその根本であります。その意味からも皆様の読経やお写経の行は大変意義深いことであると考えます。

日本で古くから親しまれてきた般若心経は、日本だけでなく、中国、韓国、モンゴル、チベットなど大乗仏教の国々ではとても大切なお経です。大乗仏教の心臓でありながら中観思想(1)の結晶であり、不滅の光を見出そうとする教えです。僅か262文字に籠められた般若波羅蜜多の思想でどうして、とお考えになられるかもしれません。本日はその核心に直接触れるお話をしたいと思います。

仏教との出会い

ですが本題に入る前に、ドイツ生まれの私になぜ仏縁があったのか、特にこの般若心経やそもそも仏教の教えにどうして引かれていったのかというところからお話を始めます。

私は、昭和11年(1936)3月17日、南ドイツの大変古く、宝石のように美しいアウグスブルク市で生まれました。ドイツはローマ帝国が滅びる頃にはキリスト教の国になりますが、その頃から続く教会やもっと古いお墓もあります。歴史ある町に生まれたわけですが、その中でも私の父はとても変わった人で、ルドルフ・シュタイナー(1861-1925)という、哲学者であり神秘思想家でもあった偉大な人物が創始した人智学会(2)の会員になり、東洋的な発想から、一人息子の私を自分の分身ではなく、古から生まれかわってきた大事な授かり物として、甘やかすことなく、厳しく、しかしとても大事に育ててくれました。

当時は、ナチスが台頭してくる時代でしたが、ナチス政権及び戦争に猛反対の家庭でした。そのため、国家反逆罪家族と見做され、みな死刑になるところでしたが、幸いに他者を大切にする父の人柄から私たち家族は救われました。第二次世界大戦が終わると、熱心な人智学会員であり自由な発想豊かな父のおかげで、あらゆる文化体験に恵まれました。たとえば、日本に20年間滞在され広島や東京帝大で教鞭を執ったドイツ人教授の講演が自宅のホールで催されました。そのとき日本や中国の文化について学び、特に日本文化の造詣のためには仏教を知らねばならないということや、禅に関する説明に感動したことを憶えています。

その後、キリスト教の修道院でも勉強しましたが、ギリシャ語やラテン語、古典哲学などを学び、彼らキリスト教徒が神に礼拝する敬虔な姿に感激はしたのですが、どうしていろいろと現代に合わないことを信じなくてはいけないのか疑問に感じ、仏教の方が良いのではないかと考えたものでした。早くから仏教を学びたいと思ったのですが、高等学校の教師になって身をたてることを勧められ、古典文学を学びました。

そして、ミュンヘン大学で西洋古典文学を修得した後、当時西ドイツには国際文化交流のために珍しい国の言葉を学ぶための奨学金制度があり、私は選ばれて日本語を学ぶ機会を得ました。ボン大学で二年間日本文学や日本語など学んでいたときに、日本からドイツ語専門の先生が留学して来られ、ヨーロッパ言語のネイティブスピーカーの先生を探していました。私は幸いなことに早稲田大学への就職が決まり、昭和39年(1964)東京オリンピックの前に日本に参りました。高校生の時から図書館で禅などの本をいくつも読んでいたこともあり、その頃から日本仏教にも興味がありました。結婚してからは、義父が曹洞宗の僧侶だったので、毎週のように座禅会に行きましたが、不立文字の禅には今ひとつ物足りなさがありました。

早稲田大学では、私はドイツ語やドイツ哲学を教えました。そして、西洋哲学特にハイデッガーの研究者として高名な故川原栄峰教授(四国第六番安楽寺住職)の研究に長年協力しました。丁度42、3歳の頃、これからどのような将来を目指すべきか迷っていた時期に、川原先生から研究を助けてくれたお礼としてお大師様の教えを学びませんかと誘われ、お大師様の著作を少しずつドイツ語に翻訳することになりました。その時の勉強の集大成として世に出ることになったのが、お大師様の主要著作をドイツ語訳した『独語・空海著作選集』(ユディツィウム社)だったわけです。

外国の言葉を学ぶためには、その国に行って、ある人物に強烈な興味を持つ必要がある、ということを私は特に皆さんにお勧めしたいと思っていますが、そのことと同様に真言宗では教え(教相)だけではダメで実践(事相)が不可欠であるといいます。そこで、仏教を本筋理解しようと思ったら僧侶になりましょうと勧められ、川原先生のご自坊で得度したのです。さらには一番厳しい高野山で、夏冬の大学の休暇を利用して四度加行(しどけぎよう)(真言僧侶となるための一日三座百日間の修行)を成満しました。

高野山の町から一山越えたところにある眞別所は、冬でも水行をしなくてはいけない厳しいところでしたが、決して辛い、嫌とは思いませんでした。が、そのとき二つの大事なことを学ばせてもらいました。一つは、何を信じているのか、キリスト教徒ですかなどと一切聞かれたことはありませんでしたが、身体を壊したりしても、なにがあっても自分の責任でしなくてはならないということと、二つめは、その場その場で余計なことを絶対に考えずに、一心にその時にすべき事だけをせよということ。私にとって、とても大事な教えとなりました。また、修行中にも、もちろん般若心経を唱えましたが、そのときには何かまったく分からず、ですが、とても興味深い大切なものに感じられたものです。

般若心経を読み解く

こういう訳で、私は子どもの頃から縁あって仏教に強い関心を持ち、修行後は特に般若心経の秘められた智慧に注目してまいりました。それでは、お大師様の般若心経に関する著作である『般若心経秘鍵』を翻訳したときに解読した内容も折り込みながら、般若心経を説明してまいりたいと思います。

まず、経題に「仏説」とあります。仏説とはお釈迦様の教えということですが、般若心経にはお釈迦様が智慧第一といい、お釈迦様の代わりに説法もされた長老、舎利弗尊者が登場してまいりますから、まさに仏説と言えるでしょう。般若心経は、現代の仏教学界では紀元後二百年頃に中国で書かれたという学者もいますし、法隆寺に貝多羅本が秘蔵されてきたように、シュロの葉に梵字で書かれた経典もありまして、いつの頃に成立したか諸説あります。ですから、それは専門の学者に任せましょう。私たちの真言の教えは大日如来の教えですから、現代科学で実証されるような教えとして読み解いていきます。そうしますと、驚くほどに正しい教えであり、その意味からも仏説でよいと思います。

また般若心経の心の字は、普通一般には中心とか心髄とかと解釈されますが、密教では動いている心臓のことです。般若心経を唱えるとき、生き物として、きれいに唱えると心臓の動きとともに言葉が出てきます。是非それを感じて欲しいと思います。

次に、本文に入りますと、観自在菩薩が登場してまいります。観音様のことですが、古いお釈迦様の教えの中には出てきません。ですが、観音様は慈悲の菩薩として皆さんよくご存知です。あらゆる者を助けようとしています。『般若心経秘鍵』にも、観自在菩薩は仏の教えを実行する修行者のことだとありますから、皆さんの代表と言えます。昨日こちらの僧侶たちと、仏教と他の宗教の決定的な違いは何かという話をしていたのですが、仏教は修行して努力すれば仏にも菩薩にもなれるけれども、他の宗教はその宗教の最高の尊格である神になれるなどという宗教はありません。キリストにはなれないですし、アラーにもなれないわけです。そこが大きな違いですね。仏教は自分の努力次第で仏にもなれるとしています。仏教はみんなが菩薩になれる。だから、皆さんの代表が観自在菩薩ということなのです。

次に、「行深般若波羅蜜多時」とあります。そのところの時とは、つまり般若波羅蜜多を深く行じたとき、その一瞬、瞬間的に得られるという意味です。じっーとではなく、普通の世間でも何か分かろうとするとき、分かるときは一瞬のひらめきによって了解します。それと同じことです。それから、般若波羅蜜多とは、最高の智慧という意味ですが、お大師様は、『般若心経秘鍵』で、この般若心経を象徴的に表す文字として、チクマンという梵字を紹介しています。それは般若菩薩と文殊菩薩の混合、組み合わせたものです。

真言宗寺院でよく掛けられている両界曼荼羅の一つ、胎蔵曼荼羅の中央には、真っ赤な八葉の蓮の花の中心に大日如来が禅定の印で座っています。その上の段に仏に教えする菩薩、文殊菩薩がおられますが、頭の智慧の菩薩であり、その御像は般若経を手に持って描かれています。そして中台八葉の蓮華の下の段には般若菩薩がいます。般若経の本尊様として仏が悟るための智慧を象徴する菩薩です。その般若菩薩の周りには四大明王が居て、皆さんご存知の不動明王が配置されています。不動明王は般若の行を表しており、大日如来の教令輪身(済度しがたい衆生に忿怒の姿で折伏する)の身体で、大日如来は光明真言にあるように光り輝いている太陽のような仏様ですが、不動明王は暗いですね。インドの古代の奴隷の姿で描かれていて、低い立場の者になって、下の者たちを引っ張り上げる力ある仏様です。持っている利剣で余計な思いを切って、なかなか理解できない者を引っ張り上げて、助けようとされる存在です。四大明王は般若の力を表しています。

では、その般若はどのように得られるのでしょうか。それには、六波羅蜜という大乗仏教の修行者のための教えを実践すればよいと教えられています。六臂で描かれる般若菩薩の六本の腕は、実はこの六波羅蜜を表しているのですが、六波羅蜜とは布施、持戒、忍辱、精進、禅定、般若という六つです。一つ目の布施は、心柔らかくして困っている者を助けて、ものを施すことです。サンスクリット語ではダーナーといい、檀信徒の檀ですね。二つ目は持戒、自分の生活を整えること。三つ目は忍辱(にんにく)、我慢しなくてはいけないことです。毎日怒らずに我慢しなくてはいけない。そのためには精進が必要ですが、だから四つ目が精進。精進料理の精進ですが、自分を浄めること、心をきれいにするとか、自分が強くなるために努力することです。五つ目が禅定、心を整えること。そして最後に般若ですが、般若は智慧。これらの修行によってその中から智慧が生まれます。それが般若波羅蜜多です。

そして、般若心経はそのあと、「照見五蘊皆空度一切苦厄」と続きますが、つまり五蘊が皆空と照見したとき、すべての苦しみから救われるとあります。それはどういうことかと言いますと、まず五蘊とは、色、受、想、行、識の五つです。色は日本語でいろと読みますが、色っぽいとか想像したいところですが、サンスクリット語ではルーパ。ルーパは形あるものとの意味です。インドに旅行した方はご存知の通り、アジャンタ、エローラなど、インドではとても立体的な彫刻がありますが、この場合の色は、ですから身体のことを指しています。私たちの身体は空であるということです。

受は身体のいろいろな働き、身体が感じること、想はそれについて想像すること、行は行い何かしたいと思うことです。識は論理的に分かること、分析するなどの力です。五蘊は身体と心の働きのことであり、それらすべてが空であるとあり、それが分かれば一切の苦しみがなくなるというのです。

空とは何か

では、空とは何でしょうか。「色不異空空不異色 色即是空空即是色 受想行識亦復如是」とありますが、空はからっぽ、空間の意味もあり、他にはそら、全宇宙の意味もありますけれども、どのように分析できるでしょうか。実は、すべてそのあとにきちんと書かれています。「諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減」の部分です。諸法空相は、法とはこの場合すべてのものということで、すべてのものは空の現れであるということです。身体も、感覚も、想像することも、やろうと思うことも、認識も空の現れですということです。

さらに空を分析して、まずは不生不滅とあります。最初にこれを読んだとき、とてもカルチャーショックでした。生まれないし滅しない、ということですが。現代の科学ではそれは自明のことですが、だからこそ仏教はとてもモダン的な教えだと言えます。現代の科学的な知識でやっと分かってきたことです。宇宙の中では何もないところから突然に生まれるもの、生じるものはないと分かっています。すべては原因があって、何かの条件で生まれたり消えたりするものです。私たちの身体も命もそうです。それは以前の西洋文化では分からなかった、だから輪廻転生も認められなかったのです。ですが、今では、何かどこかから突然原因もなく生まれたり消えたりということはあり得ないことと分かっています。

現代の科学で考えるエネルギーもそうです。たとえば、私たちはみんな携帯電話を普通に使っていますが、私にも携帯電話に時々知り合いのチベット僧から電話が入ります。電波は宇宙に散らばっていくけれども消えず、受け入れ体勢があれば受け取ることができます。ヒマラヤから電話している友達もすぐ近くに居るかのように聞こえるわけですが、凄いことです。ものは消えません、消えると我々の乏しい認識で考えているだけなのです。

次に、不垢不浄とありますが、普通に私たちが思う汚いきれいとは別の次元のことです。私たちの考えで、たとえば排泄物は汚いと思いますが、それは植物にとっては栄養になります。文化や時代で、ものの考え方が異なります。インドでは聖なる牛の糞を壁に塗ったり、古代には人の身体を浄めるものでもありました。汚いきれいはその時代その土地の価値観に過ぎないのです。冒頭にも中観思想に触れました。真言宗でも大切な教えですが、ものはその時その場で仮の姿を現しているに過ぎないのであって絶対的なものではないというのです。ですから、不垢不浄です。

不増不減も、あの当時のインドで何故そのようなことが考えついたのか。増えることも減ることもないというのですね。もちろん、現代の知識では宇宙物理学ではもう分かっていることですが、なぜあの時代に分かったのかと驚くべきことです。例えばゴミを燃やしますが、燃焼してもゴミは減ったのではなく、分解されてガスとか灰に変わっただけです。現代の科学では、この宇宙の中のものはみな増えたり減ったりするのではなく、移り変わるだけだと分かっています。それは空の状態を描写しているのです。すごいですね。

そして、その次に、「無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界乃至無意識界」とあります。これは、空はそう簡単に求めること出来ないということです。空という真実のもののあり方は、求めること出来ないのです。つまり我々の五感をとらえる五官で簡単につかまえることは出来ない、目で見えるものは、空をつかまえることは出来ません。眼でこういうものと見て正しいと思っても、顕微鏡で見れば別の物になります。実体をそのままに見ることは出来ないということです。耳でも鼻でも舌でも身でも意でも、同様に空を捉えることは出来ません。

それから、「無無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽」とありますが、この部分は十二因縁のことです。お釈迦様が唱えられた教えで、どういう風に私たちが生きて、どういう風に死んで、また生まれるかということです。私たち人間は基本的に無明の中に生きています。無明とはサンスクリット語ではアヴィッジャー、知らないこと、つまり無知があります。そこから始まり、知らないからいろいろなことやり出します、それを行といいます。そこから意識(識)が生まれます。子供も何か物を触ったりして分からないでやると気がつきます。これは熱いとか壊れたとか、そのあとでものに名前を付けます。その段階を名色と言います。これは紙とか、お茶碗とか、ものに名前を付ける。五官など(六入)で得られたことは意識に上ります、それでいろいろな欲が出ます。ものを触ったり、それによって様々な感覚(受)が生じると自分の物にしたくなる、それは愛(渇愛)です。仏教ではいい意味ではないのですが、そこは性のことを指していますから、執着(取)して、いのち(有)が結ばれ子供が誕生(生)し、そして、いろいろな苦しみを受けて老死にいたるのです。それが十二因縁の教えです。ですが、やはりそれを観察したり洞察しても、空をつかまえることは出来ません。

次に、「無苦集滅道」とありまして、苦集滅道はお釈迦様の基本的な教え、四聖諦のことです。苦とは、根本的なさとりの内容ですが、すべてのものは苦しみであるということです。が、私たちは単純に考えると楽しみが多いと感じています。結婚しても楽しいし、いろんな夢を持って結婚生活をスタートしますが、いざとなると離婚したりします。離婚しなくても毎日夫婦げんかしてみたり、いくら楽しいと思っても楽しみの後に必ず苦しみが来ます。非常に幸せを感じられることがあったとしても、その感激もいずれ色あせ終わります。私も遠くなく他界するでしょう。それは寂しいし苦しいことですが、すべてのものは、このように極めれば苦であると分かります。

集は、どういう風に、どうして苦しみとなるかを深く考えて、その原因を探究します。滅は、苦しみがなくなったときのその状態を考えます。道は、その苦しみを滅するための生き方ですが、それを八正道といいます。まず、①正見、正しい見方。②正思惟、正しい考え方、正しく見れば正しく考えられるものです。そして、③正語、正しく話す、でたらめを言わずに十善戒にもあった不妄語ですね。そして④正業、正しい行い。⑤正命、正しい生活。乱れた生活しないように。そして、⑥正精進、きちっと正しいことを貫くことです。⑦正念は、あらゆることにそのときそのときに繊細に分かっていること。⑧正定は、禅定で、心調えて、悟りに入ること。ですが、それも空を知るには役に立たないとあります。

ですから、このあとに、「無智亦無得以無所得故・・・」と続き、何も、悟りさえも得るものがないとあり、我々を代表する観自在菩薩は知り、般若波羅蜜多によって完全に心落ち着き、あらゆる恐怖から解放されて、過去現在未来の三世の諸仏と同じように、その般若波羅蜜多を得て智慧を獲得しその一番高い悟りに到達して、すべてを理解し、最後にはその般若波羅蜜多とは真言であると記されています。それは、神さまのような素晴らしい言葉であり、大神呪、大明呪、無上呪、無等等呪と言い換えられて、だんだん悟りに向かう段階を表しています。そして最後に「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩娑訶」とその真言が呈示されますが、ギャテイは行くという意味です。本当に行きなさい、彼岸に行きなさい、彼岸に行って、そして悟りが得られたということです。

弘法大師の洞察と巧妙な説き方

それでは、最後に、空をもう少し分かりやすくイメージできるようにお話してみましょう。悟りを開いたらどういう意識になるかというと、それはまるで大きな大きな海のようになるといわれています。まったく波もなく、大きな鏡のようになる。その鏡の中にすべてのものが本当の姿であらわれるといいます。大円鏡智という智慧の現れ方としてこのように教えられています。

もう一つは、ヒントとしてお大師様が教えてくれているのですが、『即身成仏義』という著作に、「六大無碍にして常に瑜伽なり」とあります。六大とは、地水火風空識の六つです。五つは、墓石の五輪塔に現されています。下から四角は地、円は水、三角は火、半円は風、その上に空、この中にないのが識です。それらは象徴的にこの世界を表しているわけですが、実際には世界を構造しているエレメント(要素)です。私たちの身体にもあります。私たちの身体には、骨があり、堅くなる力、地があります。また身体の中の80パーセントは水、その割合は赤ちゃんに多いのですが、私たちには血もリンパ液もあります。火もあります、私たちの身体には熱がありますね。多すぎると病気になり、丁度いい具合にあると元気です。風は、空気の出入り、呼吸しないと亡くなります。空は空間、われわれは立体的なものです。

お大師様は、これら六つが常に瑜伽であるというのですが、瑜伽とはヨーガのことです。牛に畑を耕かせるとき首に付ける軛のことで、一生懸命、緊張して合一すること。六大は、この世のすべてのものの要素であり、そのすべてのものをうまく調和して結合させて存在せしめています。六つの要素に分析されたエネルギーとして、これをよくよく瞑想すると、これは空かなと、空の働きではないかと理解することが出来ます。お大師様の文章を読んでいるとそのように分かってきます。お大師様の洞察と説き方は誠に素晴らしいものがあります。

すべてものは因と縁によって構成されています。相対的なものであり、いきなり一つのものがそのものだけで生じることはありません。今日ここに来て講演しているのも仏縁です。いろいろな縁によって導かれてきました。生まれた家で東洋哲学を学んだドイツ人学者の講演を聞いたことが、仏教に私が興味をもつ切っ掛けになったことも一つの要因です。また、小さな子供のときにキリスト教の洗礼ではなく、チベットの因明を学んだ学僧を招き儀式をしてサンスクリットの経文を読んでくれたことがありましたが、そのときにこの子は大きくなったら西洋と東洋の架け橋となる仕事をするようにと祈りをしたと言われたのでしたが、そんな遠い記憶にある出来事も一つの要因かも知れません。

すべてのことはこのように様々な縁によって成り立っています。すべてのものは何か条件によって成り立っています。原因と結果、そこに必ず縁(条件)があります。まるで織物のように、縦と横の糸が織りなす現象、それらすべてが空の現れなのです。

最後にお大師様の『般若心経秘鍵』では、ただ今取り上げて解説した内容を、当時の様々な宗派、華厳、三論、法相、声聞縁覚、天台といった各仏教の代表する菩薩に当てはめてその悟りの段階を説明しています。華厳宗の教えには普賢菩薩が当てられ、天台宗なら観音菩薩と、とても分かりやすく説かれています。般若心経を学ばれる方は、是非これを機会に『般若心経秘鍵』にも親しんでいただいて、より深く理解するようにして欲しいと思います。

本日は、般若心経の秘められた智慧の一端をお話してみました。ご静聴誠にありがとうございました。



(1) 中観思想・2世紀から3世紀にかけてインドで活躍したナーガールジュナによって体系化された思想。縁起や空の思想を深化させ、すべてのものは大小、長短といった対立する概念に相互に依存しており、それ自体として自立的、固定的に存在しているわけではなく、無自性(空)であり、仮のものに過ぎないと説く。
(2) 人智学・19世紀末から20世紀初頭に主にヨーロッパ、ドイツ圏で活躍した哲学者・神秘思想家のルドルフ・シュタイナーによる思想運動。人智学(アントロポゾフィー)は認識の道であり、それは人間存在(本性)の霊的なものを、森羅万象の霊的なものへ導こうとするものである、と定義されている(『アントロポゾフィー指導原則』第一条より)。今日、日本でもシュタイナー教育として広く知られている。




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四十九日の意味するところ

2014年02月09日 12時13分53秒 | 仏教に関する様々なお話
昨日、ある満中陰の法要が行われた。大雪の降る中、それぞれの思いを込めて大勢の方々が足元の悪い中参集された。雪で高速が通行止めのため新幹線に乗ってこられた方、雪の中を遠くから歩いてこられた方もあった。納骨終わって思わず歴史に残る納骨式でしたと言ってしまったが、私自身長靴履いて法事に出掛け、雪をかき分け納骨するなどということは初めてのことであったし、これからもおそらくないだろう。

昨年の年末に亡くなられた91歳のお祖母さんの四十九日だった。枕経、通夜、葬儀を経て、年末年始をはさみ毎週七日参りにも遠方から沢山のご親族が集まられ熱心に勤行次第をお唱えになった。その間数名の方に、以前にも紹介したことのあるNHKスペシャルで1993年に放映されたチベット死者の書「死と再生の四十九日」というドラマタッチの番組DVDを見ていただいた。

感想を聞くと、チベットという異質なところでのお話という受け取り方をされていた方もあるが、来世があると思えば生きるのが楽になりますねと言われる方もあった。いずれにせよ、文化の違いや風俗習慣の違いはあれど同じ仏教徒として基本的な考え方は私たちと同じだろう。もしも違うと考えるのなら、それは日本仏教が明治時代以降変質してしまった証である。衆生は六道に輪廻する。そこから解脱するために教えがあり、修行により智慧を生じさとるための教えが仏教であろう。

そのDVDから私たちが学ぶべきは、亡くなった人のために遺族親族の四十九日の過ごし方が大切なのだということであろうかと思う。たとえば、葬儀の後、祭壇も祀らず、床の間にぽつんと骨壺が置かれている風景を想像してみたらいかがであろう。故人の心はその光景を見て心寂しくなり自分はどうしたらよいかも分からぬままに四十九日を迎え、それこそ暗い心のままに下の世界に堕ちて行ってしまうということも考えられる。

そうではなくて、仏教に対して余り接点を結ぶこともなく過ごしてきてしまった故人に、間違いのない導きをしてあげることこそが大切ではないか。四十九日まで私たちと同じこの空間を浮遊する故人の心に、餓鬼や蓄生の世界に転生することなく、少なくとも人間界に再生して出来れば仏教徒としてより良い人生を迎えてもらうよう導くことこそが大切だろう。そのためにこそ戒名があり、仏教徒としての名前を持って来世にお送りするのではないかと私は考えている。

七日参りでは、「仏前勤行次第」をお唱えする。冒頭、「うやうやしく御仏を礼拝し奉る」と唱えるが、礼拝するとはなんだろう。お唱えしながら、ちゃんと自然に頭を垂れることが出来ただろうか。礼拝とは、ありがたい存在に対する敬意を行動として示すこと。心から敬う気持ちがあれば、自然と頭が垂れる。そういう親族の姿を亡くなった人に見てもらい、私たちが敬うべき存在とは正しく教えを示して下さっている仏様であることを確認し、そのことの大切さを認識してもらうことだろうと思う。

敬うとは自らの価値観を示すことに他ならない。私たちの信じるものは金や権力などではない、清らかな生き方を示され、すべてのこの世の真理を知り尽くされた最高の人格として二千五百年も世界中の多くの人々から礼拝されるお釈迦様こそ、私たちの最高の理想とすべきお方であり、信じてその生き方を学び行じることで一歩でも近くにまいりたいと思える、そのようなお方をこそ私たちは敬うのだということを表明することであろう。自らの人生の理想、手本、導き手として信じる、敬うとはそういうことだろう。

だからこそ、礼拝を何度も何度も、例えば、高野山でも四度加行の初期には一座一座の前には必ず108回の礼拝を行った。チベット人亡命政府のあるインドダラムサーラの法要ではお堂の中で僧侶の読経が続く間ずっと外では、信者が五体投地の礼拝を繰り返していた。そうして何度も礼拝すると、自ずから三つの心が生じてくると言われる。それは、懺悔(さんげ)、帰依、誓願の心。懺悔とは、自らの心を反省すること。自分のことは棚に置き、人のことばかりに口を出したい私たちではあるけれども、そうではなくて自分の身と口と心の行いをかえりみる。つまり自らを観察し、己を知るということが大切なのだということだろう。

帰依は、何も知らない何の力もない自らを救ってくれるもの、つまり三宝に助けを乞うことである。自らの理想とするものに近づくために、仏とその教えとその教えを示してくれる人々に自らの姿勢を示し助けを求める意思表示をすることである。誓願とは、そのような理想に向けてより具体的に自らの行動について正しく生きることを誓い願うことだろう。これら懺悔、帰依、誓願を改めてお唱えするのが、勤行次第の中の礼拝に続く、懺悔文、三帰依文、十善戒となるであろう。礼拝によって得られた自らの素直な敬虔な心を口に出して確認し、より強固なものにしていくのである。

ここまで解説して分かるように、この勤行次第は亡くなった人のために、特に法事の席では当該精霊のためにお唱えしているかの如くに思われている人もあろうが、最後に「願わくばこの功徳をもってあまねく一切に及ぼし・・・」とあるように、唱える人自らにとって功徳があり、あるからこそ、その功徳を亡き人に、法事の精霊に供養し回向することが出来るということになる。逆に言えば、唱える人が、自分にとってはどうでもよいことなのだけれど、法事の席だから一緒に唱えているのだということではもとよりお唱えする功徳は及ばないということでもある。

どうせお唱えするのなら、自分にとっても何か功徳があり、何か意味がある、よく分からないけれどもありがたいものなのだろうと思ってお唱えした方が得だということなのである。そうあってこそ、亡くなられた方に間違いのない方向をきちんと教え導く助けとなるということであろう。昨日は歴史に残る大雪の法事。思わず熱が入ってそんなことを感じ取って頂きたく長々お話しした。聞いて下さった方にどれだけ心に残ったかは分からない。年末の一周忌法要ではこの続きを復習も重ねながらお話ししたいと思う。



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