住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

聖徳太子とは

2014年11月30日 19時13分48秒 | 仏教に関する様々なお話
今、私たちは大変な不安の中にいるのではないかと思う。国内経済も借金ばかりでうまくいかず、金融ジュブジャブ政策による円安と消費税増税で物価が上がり生活は厳しくなるばかり。国際情勢の変化に外交がついていかない。被災地の復興も進まず、原発事故のその後も不安なのに、それでいてさらに原発推進。社会弱者も生活保護の切り下げなど、さらには秘密保護法、集団的自衛権容認などと不安なことばかりではないだろうか。

アベノミクスではなくて、アベノリスクとも言われるが、これから選挙があるという。それも大国に翻弄されてのことであろう。しかし、それは日本の古来からの立ち位置であるとも言えよう。かつて国家の形成期に大国と互角に外交を展開したと言われるのが聖徳太子である。その先見性、思想性、交渉力推進力を兼ね備えた人物だったと言われる。正にいま、時代は聖徳太子を必要としているのではないか。

ところで、そのように私たちがイメージする聖徳太子とは、前の一万円札の肖像の太子であり、そのイメージは、大正十年の太子1300年遠忌行事をきっかけにつくられたのだそうだ。氏族の争乱、封建社会を克服、隋との直接対等な外交、新しい制度を導入して大化の改新に導いた第一の維新(第二は明治維新)の指導者として、国民的な称賛の対象として存在することになった。和が国民の和として意識され、戦時中は国民学校教科書によって教え込まれ、戦後も、平和文化国家日本の象徴する国民的価値としてあり続けた。

しかしいつの間にか、一万円札から姿が消えた。なぜ一万円札から消えてしまったのか。ご存知の通り、日本書紀を過大評価してのイメージが、あらぬ疑いを呼ぶことにもなったからであろうか。15年ほど前に、歴史学者大山誠一氏が厩戸皇子は認めるものの多くの事績は日本書紀の創作に過ぎないという説を立てた。

Wikipediaによれば、「大山氏は、東京都生まれ。1970年東京大学文学部国史学科卒、1975年同大学院博士課程単位取得満期退学。東大では井上光貞に師事。各大学の非常勤講師を経て、1991年より中部大学人文学部日本語日本文化学科教授。1999年東京大学より博士(文学)の学位を授与される。
聖徳太子非実在論とは、戦前の津田左右吉や戦後の小倉豊文、田村圓澄らが聖徳太子の事蹟を検証し、それらのほとんどが後世の仮託であることを指摘していた。大山はさらに踏み込んでそれらは『日本書紀』を舞台に藤原不比等らが、法隆寺を舞台に光明皇后らが捏造したものとした。大山は、飛鳥期にたぶん斑鳩宮に住み、斑鳩寺(法隆寺)も建てたであろう有力王族、厩戸王の実在は否定していないが、推古天皇の皇太子かつ摂政として、知られる数々の業績を上げた聖徳太子の実在については否定している。大山によればこれらは、720年に完成した『日本書紀』において、当時の権力者であった藤原不比等・長屋王らと唐から帰国した道慈らが創造した人物像である。その目的は、大宝律令で一応完成した律令国家の主宰者である天皇のモデルとして、中国的聖天子像を描くことであった。その後さらに、天平年間に疫病流行という危機の中で、光明皇后が行信の助言により聖徳太子の加護を求めて、法隆寺にある様々な聖徳太子関係史料を作って聖徳太子信仰を完成させた。また鑑真や最澄が、その聖徳太子信仰を利用し、増幅させていった。」

法隆寺の王身の釈迦と言われる金堂の釈迦三尊の光背銘や救世観音立像の存在、天寿国繍帳など、これらの美術史的考察から、これらは、飛鳥時代ないし七世紀の作とされ、それらにより聖徳太子の存在を認めざるを得ないとも言われている。しかし、日本書紀の制作にかかる疑念は様々な点で指摘されるとおりであり、制作に深く関わる藤原不比等ないし藤原氏に都合良く歴史の推移を造るために人物像が創作されたとする疑いはぬぐえない。

梅原猛氏の「隠された十字架」の指摘にもある、何か秘めた歴史を隠蔽するための法隆寺の性格はいかに説明するのか。歴史作家関裕二氏は、自著「聖徳太子の秘密」において、藤原氏によって消されていったと思われる人々、蘇我蝦夷、入鹿、天武天皇、長屋王らがあり、そうした数々の蘇我氏に連なる高位の人々の聖なる部分を代表してその事績を一気に引き受けたのが聖徳太子像、ないし、太子信仰だったとも言えるのではないかとの説を立てている。

葬った人たちの慰霊のため、怨念封じのために法隆寺があったと言われるのも訳なきことではないと思われる。しかしいずれにせよ、誰かがそれらの役割を引き受けて、実在した人物たちが居たことは間違いない。ともあれ、聖徳太子とされる人物像について振り返ってみたい。

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仏教伝来が欽明天皇七年(538)であり、その36年後に聖徳太子(574-622)は誕生したとされている。父用明天皇は仏教を信じた最初の天皇であるが、即位二年で重病にかかり、豊国法師を宮中に入れ祈願している。母は、穴穂部人皇女。ちなみに父母方共に、祖父は欽明天皇、祖母は蘇我稲目を父とする同母姉妹であり、蘇我氏の血か濃厚に流れている

用明天皇崩御(586)すると排仏派の物部守屋が挙兵 崇仏派の蘇我馬子が後の推古天皇を奉じて討伐するが、その後崇峻天皇が五年ほど皇位にある間に、司馬達等の娘善信尼ほか三人の尼僧が受戒に百済に行き、百済からは恵聰ら仏僧が来朝。ほかに仏舎利、寺工、露盤博士、瓦博士、画工らが来ている。

用明天皇の妹であった推古天皇(593-628)が女性として初めて皇位につくと、厩戸皇子・豊聡耳皇子・聖徳太子は皇太子となり、政務全般を仕切ったという。天資聡明な太子は、学問を好み、高句麗僧恵慈に仏教を、覚に儒教を学び、悉くその要旨に通達したと言われている。推古初年に四天王寺を難波に創建、二年に三宝興隆の詔勅を発せられた。

太子は、特に法華経に通じ、論議して恵慈を驚嘆させたという。推古十四年(606)に天皇の前で勝鬘経を、また法華経を諸王諸臣に講じた。これを講経と言うが、天皇は大いに喜ばれ、播磨の国の水田百町を皇太子に施され、法隆寺領とされた。その中心に今日でもあるのが兵庫県揖保郡斑鳩町にある斑鳩寺であるという。なお、日本書紀には百町とあるが、法隆寺に残る資財帳には219町と記録されている。 

勝鬘経とは、コーサラ国王パセーナディの娘シュリーマーラー(勝鬘夫人)がアヨーディヤー国王に嫁ぐが、父王に倣い釈尊に帰依して、大乗仏教の教えを説き,釈尊がそれを正しいものと認めるという筋書である。迷いの生活をおくる人の心のうちに存在する,仏陀たりうる可能性 (→如来蔵 ) を説き,また在家仏教を認める重要な経典。

法隆寺とは、用明天皇が自らのご病気の平癒を祈って寺と仏像を造ることを誓願し、その実現をみないままに崩御された。そこで推古天皇と聖徳太子が用明天皇のご遺願を継いで、推古15年(607)に寺とその本尊「薬師如来」を造られたのが法隆寺である。

この時期の講経は、中国南北朝から隋にかけて皇帝が僧を招き各種の講経を行っていて、梁の武帝、隋の文帝は一族すべてが仏教を奉じたとされる。煬帝もそれを継承し、講経は三宝興隆の文化的なバロメーターであったのである。仏を祀り、経を読誦しただけでは仏教が普及したとは言わない。講じられて初めて、仏教が正しく広まったと考えるのであり、大事なポイントとなるものと言える。太子は、これらの功績から日本仏教の祖ともたたえられるのである。

太子の事業とされていること

①制度を整えた 推古十一年(603)、冠位十二階、朝廷に仕える官人の序列を、儒教の教えから徳仁礼信義智の各名目に、それぞれ大小あり、つまり大徳冠から小智冠まで十二の冠位とし、朝廷の官吏は、儒教の立派な徳目を頭上に頂き政務を執った 封建的な家柄では無く功績能力によって人材登用を計った

推古十二年(604)、十七条憲法制定、第一条・和を以て貴しとなす、仏教の和合僧の思想を採り入れたものとされる。第二条・篤く三宝を敬え、人間の心の帰するべきところが三宝であると示すもので、万国の極宗(当時のグローバルスタンダード)として仏教を日本の国の教えとしたもの。十七条憲法は、官吏の身の処し方あるべき姿勢を説くものである。8世紀半ばに成立したとされる、最古の伝記である、『上宮聖徳法王帝説』には、追補に記述があり、この追補は平安前期から中期に加えられたとされ、十七条憲法は後世の創作とする説がある。

②シナとの国交 後漢以後370年分裂を続けた中国が隋によって統一された さらには、中国では律令制が発達し、さらに国家仏教が確立され先進文化国としての体制を整えつつあった。推古八年(600)、遣隋使派遣を派遣。隋の律令国家の偉容を見て帰ると、翌年、太子は、斑鳩に宮を建て、飛鳥には内裏と朝廷を分立した大陸風の小墾田宮(おはりだのみや)を着工した。隋に対抗しうる集権国家建設のため、推古十二年(604)元旦、小墾田宮新宮殿の朝廷で、冠位十二階の授与式が行われ、四月には憲法十七条が制定された。

翌年(605)、飛鳥寺の金銅仏が造立着手、推古十四年(606)推古天皇の要請で勝鬘経法華経を講経と続く。推古十五年(607)、小野妹子を隋に使わし、隋と対等の外交を貫き、煬帝に対して「日出ところの天子、書を日没するところの天子に致す。恙なきや」と国書に記したとされる。 

推古十六年、遣隋使として、若い学生や学問僧を派遣。朝貢しても冊封国の扱いを回避する道を選んだ。かつての倭の五王の外交では朝鮮の百済高句麗よりも下の官爵しか与えられず、途絶したことを踏まえ、推古朝は冊封体制からの回避を実現した。この外交方針は、その後も日本の対中国外交で貫かれることとなる。

③仏法興隆 四天王寺、法隆寺の他に橘寺、中宮寺、法起寺、葛木尼寺、蜂岡寺を建立した。四天王寺には四ヶ院あり、悲田院・療病院・施薬院・敬田院があった。このころより、福祉の心を重んじる先験的な試みがなされた。さらに、晩年、三経(法華経・勝鬘経・維摩経)義疏を完成させる。推古二十三年42歳の時のことであった。 

④学問のすすめ 美術工芸、寺工、露盤工、瓦工、仏画師、四天王寺法隆寺の大伽藍が出来、仏像、仏画、仏具などが造られた、筆、紙、学問の基礎、道徳も仏教から学ぶ 他に、暦法の研究、国史の編纂を指揮した。国民の道徳的精神を高めるためには宗教の裏付けが必要であり、仏教の輸入は、さらには物質的な文化技術を高めることが出来たのであった。

そして、太子は、推古三十年(622)、二月二十二日、飽波葦垣宮(あくなみあしがきのみや)で薨去された。法隆寺が聖徳太子鎮魂の寺とするなら、その死にも何かしらの怨霊となる、時の権力者に恐れられるような死に方をしたのではないかと想像される。毒殺されたとも言われるように。その23年後に乙巳の変、大化の改新と続くわけで、そのあたりの真相と決して不可分ではないように思われる。なぜならその時の功労者たちの子孫が日本書紀を編纂し後の世に有利に利用した節が窺えるのであるから。

聖徳太子の最初の妃は、敏達天皇と推古天皇との間に生まれた菟道貝鮹(うじのかいだこ)皇女だった。彼女との間には子供もなく、どこに住まわせたのか不明。聖徳太子は蘇我の馬子の娘・刀自古郎女(とじこのいらつめ)も妃にした。蘇我蝦夷(えみし)の姉妹である。彼女との結婚は早い時期に行われたと思われ、岡本宮に住まわせたと思われる。岡本宮は後に法起寺に改築される建物である。

聖徳太子が最も愛した妃とされている膳菩岐々美郎女(かしわでのおききみのいらつめ)すなわち膳大郎女は、飽波葦垣宮に住んだ。推古天皇の孫娘・位奈部橘王(いなべのたちばなのおおきみ)は、聖徳太子が晩年に妃を迎えた女性とされている。聖徳太子は位奈部橘王を母の穴穂部間人皇女と一緒に中宮寺の前身の建物に住まわせたと思われる。

その橘大郎女が造ったとされるのが、太子転生の天寿国の様子をうぬめに、とばり二帳に縫わせた天寿国繍帳と言われるものであった。わが国の刺繍史上、服飾史上貴重な資料と言われる。縦88.8センチ横82.7センチ。一帳は太子の日常の様子が描かれ、もう一帳は、太子転生の理想郷が描かれている。

天寿国とは、斑鳩の宮を中心とする理想郷を思い描いていた太子の構想そのものとも言われるが、仏教的には、天界は正に天寿の国、仏事を歓び、天楽を奏し天華をふらし、天香を薫じて虚空を飛行している。天界の寿命は誠に長く、短い四王天の天人でも一日は人間界の50年で寿命は500年、都卒天の一日は人間界の400年に相当し寿命は4000年と、途方もない時間を過ごす。


最後に、太子の述べられた有名な言葉として、以下の三つの言葉を取り上げてみたい。それらはあたかも太子の遺言のように、私には思われる。それらを私流に解釈してみると。

「以和為貴」・この国の成り立ちは共に生き共に繁栄することにある。和こそが和国のあるべき道、あるべき姿である。

「諸悪莫作、衆善奉行」・悪の中にあって悪を為さず、孤高の存在なりと雖も善を貫いて生きよ。

「世間虚仮、唯仏是真」・世間のために善行をなすはその功徳のためであって、世間の評価など、かりそめのものに過ぎない。真実求めるべきは仏であり、正に仏とならんが為に尊い命がある、その命を最大限大事に生きよ。


今の時代に太子が必要と考える人は私だけであろうか。冠位十二階にあるように、功績や能力でその地位に就くことの大切さを痛感する。余りにも今、世襲や利権、閨閥によってその地位を強固にする者ばかりの世の中であるから。十七条憲法は、国に仕える者たちの志を問うものであり、官吏、官僚の横暴を今の世も見せつけられるかのようであるから。外交もしかり、大国を相手にいかに立ち回るかの智慧をその思想に求めるなら、太子の仏教や儒教にその範を求めた姿勢に学ぶべきであろう。

実在したかしないかと言うよりも、そのような人物像こそ、日本人の理想像として長く慕われてきたことの意味は大きい。そのような方が居たからこそ今の私たちがあり、世界の人たちから、日本人は何か違う、優しい、冷静である、清潔である、正確である、という良き評価にもつながっている。徳を大切にする、和を大切にする、学ぶことを大切にする、お金のためではなく最高のものを造るために情熱を傾ける、そうした日本人でこれからもありたいと願う。そのためにも聖徳太子という古代の偉人像を知りその徳を改めて検証する意味は大きいと考える。



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四国遍路行記35

2014年11月08日 19時36分29秒 | 四国歩き遍路行記
済世橋を通って、第七十五番善通寺に入り、高野山の専修学院で同期だった炭田師を訪ねた。その頃善通寺の役僧をされていた炭田師は、来訪を殊の外よろこんで下さった。すぐに宿坊に案内してくれて、荷物を置き、弘法大師を祀る御影堂の奥に案内してくれたので、そこでまずは理趣経一巻。それから、地下法場・戒壇巡りへ。真っ暗な中、手探りで御大師様の身元に参り、あたたかい温もりを感じ取ることができた。それから宝物館に参り、大師が師の恵果和尚から授けられた国宝の錫杖などを拝観した。

その後宿坊の部屋でしばし休息をとり、夕食までまだ間があったので、しばし、寺内諸堂をお参りして歩いた。さすがは善通寺、どこに行っても人があり、地元の信徒とお遍路さんが絶えることはない。善通寺は、言わずと知れた弘法大師空海生誕の地である。大同元年(806)、唐から帰った大師は、自家佐伯家の先祖を祀る氏寺建立を発願。父田公から譲られた土地に唐の八大霊場の土砂を撒いて、唐の青龍寺を模した伽藍を造営した。自ら薬師如来を刻み、金堂に安置、七年がかりで弘仁四年(813)、七堂伽藍が完成する。背後に聳える香色山、筆山、我拝師山、中山、火上山の五峰に因み、山号を五岳山とし、寺号は父田公の名前から善通寺としたという。

善通寺は、東院と西院に分かれている。東院は、金堂、釈迦堂、五重塔、五社明神社、それに樹齢千年を越えるという楠の大木があり注連縄で荘厳されている。西院は、御影堂、地蔵堂、本坊、それに、護摩堂や、親鸞堂があり、昔日の賑わいの様を想像しながら夕刻の日が暮れだした伽藍を一人散策した。

翌朝は6時から御影堂で勤行があった。遍路姿で参ると、なぜか執事さんから内陣に入るように言われ、善通寺のお坊様方と共に座ってお勤めさせていただいた。このとき、途中の遍路道で何度かお会いして見覚えのある中年のお遍路さんが手を振っていた。思えば、そうして記憶に残るその方は、実はその十年ものちに、この地に来て再会を果たした平野の先達さんだった。今も毎月のお護摩にお参り下さることを思うと、誠に不思議なご縁と言えようか。

宿坊で朝食をいただき、釈迦堂へ。釈迦堂には私の母親ほどの年の尼さんが勤務されていて、つい時間を忘れて話し込んでしまった。修行の話からお堂のこと、行者さんたちのことなど。余りに長話をして遍路の予定を大幅に遅らせてしまったからと、その尼さんがその後、ありがたいことに郷照寺まで車のお接待をして下さった。

善通寺から次なる七十六番金倉寺は三.五キロの道のり。車なので、あっという間に到着。仁王門をくぐり正面に本堂、鎌倉様式の入母屋造り、赤みがかったカナダ檜をつかった新しい建物だが、この様式では四国随一と言われるように優美な美しさを醸し出していた。左手に大師堂。弘法大師の姪を母にもち、天台宗寺門派の開祖・智証大師円珍の生誕地。比叡山での修行のあと唐に渡り密教を学び、弘法大師と同じように青龍寺を模して伽藍を造営したといわれる。宝亀五年(774)長者和気道善の開基で当時は道善寺と号した。

鶏足山という山号をもつが、ちなみに鶏足山とは、もともとインドのマガダ国にあった山で、お釈迦様の第一弟子摩訶迦葉尊者が入滅した地と伝えられている。また、中国雲南省大理には、前に三つの峰、後背に一つの峰がありその形が鶏の足に似るところから鶏足山と名付けられた山があり、中国の仏教名山である五台山、峨眉山、普陀山、九華山と並び中国五大仏山の一つとされている。

金倉寺は、建武の争乱(1334~1336)、天文(1532~1555)の兵火に遭い焼失、寛永年間(1624~1644)讃岐の松平公により再建。現在の本堂は昭和に入ってから改築された。明治時代、乃木希典将軍が善通寺第11師団長の頃2年7ヶ月にわたって金倉寺の客殿を宿泊所としたことがあり、様々な遺品が残されている。車で待つ人があるので、手早く本堂で理趣経一巻、大師堂で心経を唱え、足早に失礼した。

そして、次なる七十七番道隆寺は、金倉寺を開基した和気道義の弟道隆が創建した。ある日道隆が桑畑で光る桑の木に矢を放ったところ、そこには矢が当たり倒れている乳母がいた。悲嘆に暮れた道隆は、桑の大木を切って薬師如来を刻んでお堂を建てた。その後弘法大師が巡錫の折、改めて薬師如来を刻み、道隆の仏像を胎内に納め本尊として安置。道隆の子朝祐が七堂伽藍を整え寺号に父の名をつけたという。この薬師は目なおしの薬師といわれ、眼病に霊験ありと有名である。小ぶりながら均整のとれた多宝塔に合掌して、本堂、大師堂に参る。


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