近代仏教学の萌芽
明治維新前期の仏教は、行誡、雲照に代表される戒律主義からの護法運動に加え、西欧化主義の影響から大内青巒、井上円了らの開明的仏教運動が行われています。そして、その同じ頃、中国経由ではない欧州で花開いた近代仏教学がわが国にもたらされてまいります。
欧州では十八世紀末頃から、植民地であったインドやスリランカに渡った官吏や司法官などが現地の言語文化を研究し、中でも梵語や初期仏教聖典語であるパーリ語に惹かれ、辞書を編纂、数々の典籍を翻訳していました。
こうして欧州で発展したインド学仏教学を学ぶため、日本からも多くの学者が訪れますが、中でもいち早く東本願寺の南条文雄、笠原研寿の二人が本山より派遣されて一八七六年(明治九)に、梵語文献による仏教研究の開拓者マックス・ミューラーを訪ね、梵語を学びます。
南条文雄は、岩倉使節団が帰国後イギリスに贈呈した鉄眼版大蔵経の目録を梵語題名と題名の英訳、それに解説を付した「三蔵聖教目録」を出版するなどの功績によりオックスフォード大学から学位を得て、一八八四年帰国。
南条文雄の紹介で一八九〇年ロンドンにマックスミューラーを訪ねた高楠順次郎は、欧州におけるインド学の黄金時代にインド学梵語学を学び帰国。渡辺海旭らと共に「大正新修大蔵経」刊行や「南伝大蔵経」翻訳出版など大事業を指揮します。インド哲学を最高の学と信じ、文献実証主義によるインド学仏教学の伝統をわが国に築きました。
こうして、学問の世界では中国経由の漢訳仏教ではない、インドの香り高い仏教が欧州経由で研究され、しだいにパーリ語の仏教、つまりお釈迦様直説の経典を記述した南方上座部所伝の仏教が仏教学の主流となっていきました。
海外交流の先駆者 興然と宗演
明治憲法が制定され近代国家としての礎が築かれる頃、仏教の本場を訪ね仏教の実際を学びわが国の衰亡した仏教を振興すべく海外に旅立つ僧侶が現れます。
釈興然(一八四九ー一九二四)は叔父雲照の勧めにより、一八八六年(明治十九)セイロンに渡り、南方上座仏教の基礎を学びます。そして、一八九〇年キャンディにてスマンガラ長老を戒師に具足戒を受け、ここに日本人として初めて南方上座仏教の僧侶(グナラタナ比丘)が誕生します。
その翌年には、のちにインド仏蹟復興に貢献するダルマパーラ居士と共にインドに渡航しブッダガヤに参拝。ヒンドゥー教徒に所有され荒廃した大塔を含む聖地買収に関して国際仏教会議を開き協議します。興然は雲照らとも連絡を取り、ダルマパーラ居士と共にビルマ人やベンガル地方のインド仏教徒とも連帯して奔走しますが、英国政府の政治的見地から賛成しかねるとの通達があり断念。
興然は七年に及ぶ外遊後も南方仏教の黄色い袈裟を終生脱ぐことなく、自坊三会寺で南方仏教の僧団を日本に移植すべく外務大臣林董を会長に釈尊清風会を組織。弟子らをセイロンに派遣します。
一九〇七年(明治四十)には、当時わが国で最も持戒堅固の聖僧として仏教国タイに招待を受け一年間滞在。五十余体の仏像とタイ文字の三蔵仏典を贈られ帰国しています。しかし南方仏教の僧団移植は果たすことは叶いませんでした。
また、鎌倉円覚寺の釈宗演(一八五九ー一九一九)は、明治二十年より興然滞在中のセイロンの僧院に三年間滞在。帰国後円覚寺管長となり、明治二六年米国シカゴの万国宗教大会に日本代表の一人として出席。この時の講演原稿を英訳したのが宗演の弟子鈴木大拙でした。
その講演に感銘を受けた宗教雑誌「オープンコート」発行人ポール・ケーラスのもとに大拙は編集員として奉職。禅や東洋思想を次々に米国で紹介していきました。
宗演は、日露戦争にあたり建長寺管長として従軍僧となり、明治三九年に両派管長を辞任すると、渡米して諸大学で禅を講じ、大統領とも対談するなど、大拙とともに禅の世界に向けた啓蒙に成功したのでした。
西域探訪 光瑞と慧海
ロンドンに当地の宗教の実情と制度研究を目的に滞在していた西本願寺の次期宗主大谷光瑞(一八七六ー一九四八)は、スタインなどの西域探検に触発され、中央アジア探検を決意します。この大谷探検隊は明治三五年から大正三年まで三回にわたり、仏教東漸の経路を明らかにすることや遺存する経論仏像などの蒐集を目的に行われ、各地から貴重な仏像仏画古文書類を持ち帰りました。
光瑞は隠居後、脱亜入欧の時代にあって、お釈迦様を生んだアジアの振興を第一に掲げ、アジアの民の生活向上を主唱しました。
また黄檗宗の河口慧海(一八六六ー一九四五)は、漢訳経典の漢訳そのものの正確さに疑問を感じ、梵語やチベット語経典の入手を発願。明治三十年、目白僧園の雲照から戒律思想を、三会寺では興然からパーリ語とインド事情を学び、インドへ旅立ちます。カルカッタではダルマパーラ創設の大菩提会に宿泊し、ネパールを経由して西チベットに潜入。三年間に及ぶチベット旅行は世界の探検史に残る快挙となりました。
さらに一年半後に再度旅立ち、十一年間インド、ネパール、チベットで過ごし、梵語を習得。梵語仏典、チベット大蔵経をはじめ仏像仏具、動物植物鉱物の標本に至る膨大な資料を持ち帰ります。
滞在中は、カルカッタでラビンドラナート・タゴールとも交際を深め、帰国後、持ち帰った膨大な経典の研究翻訳、文法書や辞書の編纂に努めます。
東洋大学や宗教大学(後の大正大学)でチベット仏教を講じる傍ら、お釈迦様の教えへの回帰を目指して仏教宣揚会を結成。出家が成り立たない時代にあっては、三帰五戒受持を根幹とする在家仏教を実践すべきであると提唱し、真正なる仏教の再生に邁進しました。
文明開化の明治という変革の時代、僧侶としてまた在家仏教者として仏教の近代化のために様々な活動が展開され、仏教の有用性を示そうとした時代でした。
六回にわたり日本仏教の歩みを学んでまいりましたが、三学復興、兼学兼修、原点回帰ということが各時代を通して仏教を実践する者にとって大切ではなかったかと思います。日本人の誰もが日本仏教の伝統に影響を受けていることを自覚しつつ、遠くインドへ繋がる仏教を発見する手掛かりとしていただきたいと思います。おわり
明治維新前期の仏教は、行誡、雲照に代表される戒律主義からの護法運動に加え、西欧化主義の影響から大内青巒、井上円了らの開明的仏教運動が行われています。そして、その同じ頃、中国経由ではない欧州で花開いた近代仏教学がわが国にもたらされてまいります。
欧州では十八世紀末頃から、植民地であったインドやスリランカに渡った官吏や司法官などが現地の言語文化を研究し、中でも梵語や初期仏教聖典語であるパーリ語に惹かれ、辞書を編纂、数々の典籍を翻訳していました。
こうして欧州で発展したインド学仏教学を学ぶため、日本からも多くの学者が訪れますが、中でもいち早く東本願寺の南条文雄、笠原研寿の二人が本山より派遣されて一八七六年(明治九)に、梵語文献による仏教研究の開拓者マックス・ミューラーを訪ね、梵語を学びます。
南条文雄は、岩倉使節団が帰国後イギリスに贈呈した鉄眼版大蔵経の目録を梵語題名と題名の英訳、それに解説を付した「三蔵聖教目録」を出版するなどの功績によりオックスフォード大学から学位を得て、一八八四年帰国。
南条文雄の紹介で一八九〇年ロンドンにマックスミューラーを訪ねた高楠順次郎は、欧州におけるインド学の黄金時代にインド学梵語学を学び帰国。渡辺海旭らと共に「大正新修大蔵経」刊行や「南伝大蔵経」翻訳出版など大事業を指揮します。インド哲学を最高の学と信じ、文献実証主義によるインド学仏教学の伝統をわが国に築きました。
こうして、学問の世界では中国経由の漢訳仏教ではない、インドの香り高い仏教が欧州経由で研究され、しだいにパーリ語の仏教、つまりお釈迦様直説の経典を記述した南方上座部所伝の仏教が仏教学の主流となっていきました。
海外交流の先駆者 興然と宗演
明治憲法が制定され近代国家としての礎が築かれる頃、仏教の本場を訪ね仏教の実際を学びわが国の衰亡した仏教を振興すべく海外に旅立つ僧侶が現れます。
釈興然(一八四九ー一九二四)は叔父雲照の勧めにより、一八八六年(明治十九)セイロンに渡り、南方上座仏教の基礎を学びます。そして、一八九〇年キャンディにてスマンガラ長老を戒師に具足戒を受け、ここに日本人として初めて南方上座仏教の僧侶(グナラタナ比丘)が誕生します。
その翌年には、のちにインド仏蹟復興に貢献するダルマパーラ居士と共にインドに渡航しブッダガヤに参拝。ヒンドゥー教徒に所有され荒廃した大塔を含む聖地買収に関して国際仏教会議を開き協議します。興然は雲照らとも連絡を取り、ダルマパーラ居士と共にビルマ人やベンガル地方のインド仏教徒とも連帯して奔走しますが、英国政府の政治的見地から賛成しかねるとの通達があり断念。
興然は七年に及ぶ外遊後も南方仏教の黄色い袈裟を終生脱ぐことなく、自坊三会寺で南方仏教の僧団を日本に移植すべく外務大臣林董を会長に釈尊清風会を組織。弟子らをセイロンに派遣します。
一九〇七年(明治四十)には、当時わが国で最も持戒堅固の聖僧として仏教国タイに招待を受け一年間滞在。五十余体の仏像とタイ文字の三蔵仏典を贈られ帰国しています。しかし南方仏教の僧団移植は果たすことは叶いませんでした。
また、鎌倉円覚寺の釈宗演(一八五九ー一九一九)は、明治二十年より興然滞在中のセイロンの僧院に三年間滞在。帰国後円覚寺管長となり、明治二六年米国シカゴの万国宗教大会に日本代表の一人として出席。この時の講演原稿を英訳したのが宗演の弟子鈴木大拙でした。
その講演に感銘を受けた宗教雑誌「オープンコート」発行人ポール・ケーラスのもとに大拙は編集員として奉職。禅や東洋思想を次々に米国で紹介していきました。
宗演は、日露戦争にあたり建長寺管長として従軍僧となり、明治三九年に両派管長を辞任すると、渡米して諸大学で禅を講じ、大統領とも対談するなど、大拙とともに禅の世界に向けた啓蒙に成功したのでした。
西域探訪 光瑞と慧海
ロンドンに当地の宗教の実情と制度研究を目的に滞在していた西本願寺の次期宗主大谷光瑞(一八七六ー一九四八)は、スタインなどの西域探検に触発され、中央アジア探検を決意します。この大谷探検隊は明治三五年から大正三年まで三回にわたり、仏教東漸の経路を明らかにすることや遺存する経論仏像などの蒐集を目的に行われ、各地から貴重な仏像仏画古文書類を持ち帰りました。
光瑞は隠居後、脱亜入欧の時代にあって、お釈迦様を生んだアジアの振興を第一に掲げ、アジアの民の生活向上を主唱しました。
また黄檗宗の河口慧海(一八六六ー一九四五)は、漢訳経典の漢訳そのものの正確さに疑問を感じ、梵語やチベット語経典の入手を発願。明治三十年、目白僧園の雲照から戒律思想を、三会寺では興然からパーリ語とインド事情を学び、インドへ旅立ちます。カルカッタではダルマパーラ創設の大菩提会に宿泊し、ネパールを経由して西チベットに潜入。三年間に及ぶチベット旅行は世界の探検史に残る快挙となりました。
さらに一年半後に再度旅立ち、十一年間インド、ネパール、チベットで過ごし、梵語を習得。梵語仏典、チベット大蔵経をはじめ仏像仏具、動物植物鉱物の標本に至る膨大な資料を持ち帰ります。
滞在中は、カルカッタでラビンドラナート・タゴールとも交際を深め、帰国後、持ち帰った膨大な経典の研究翻訳、文法書や辞書の編纂に努めます。
東洋大学や宗教大学(後の大正大学)でチベット仏教を講じる傍ら、お釈迦様の教えへの回帰を目指して仏教宣揚会を結成。出家が成り立たない時代にあっては、三帰五戒受持を根幹とする在家仏教を実践すべきであると提唱し、真正なる仏教の再生に邁進しました。
文明開化の明治という変革の時代、僧侶としてまた在家仏教者として仏教の近代化のために様々な活動が展開され、仏教の有用性を示そうとした時代でした。
六回にわたり日本仏教の歩みを学んでまいりましたが、三学復興、兼学兼修、原点回帰ということが各時代を通して仏教を実践する者にとって大切ではなかったかと思います。日本人の誰もが日本仏教の伝統に影響を受けていることを自覚しつつ、遠くインドへ繋がる仏教を発見する手掛かりとしていただきたいと思います。おわり