住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

日本仏教の歩み16

2006年02月20日 06時39分41秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
近代仏教学の萌芽

明治維新前期の仏教は、行誡、雲照に代表される戒律主義からの護法運動に加え、西欧化主義の影響から大内青巒、井上円了らの開明的仏教運動が行われています。そして、その同じ頃、中国経由ではない欧州で花開いた近代仏教学がわが国にもたらされてまいります。

欧州では十八世紀末頃から、植民地であったインドやスリランカに渡った官吏や司法官などが現地の言語文化を研究し、中でも梵語や初期仏教聖典語であるパーリ語に惹かれ、辞書を編纂、数々の典籍を翻訳していました。

こうして欧州で発展したインド学仏教学を学ぶため、日本からも多くの学者が訪れますが、中でもいち早く東本願寺の南条文雄、笠原研寿の二人が本山より派遣されて一八七六年(明治九)に、梵語文献による仏教研究の開拓者マックス・ミューラーを訪ね、梵語を学びます。

南条文雄は、岩倉使節団が帰国後イギリスに贈呈した鉄眼版大蔵経の目録を梵語題名と題名の英訳、それに解説を付した「三蔵聖教目録」を出版するなどの功績によりオックスフォード大学から学位を得て、一八八四年帰国。

南条文雄の紹介で一八九〇年ロンドンにマックスミューラーを訪ねた高楠順次郎は、欧州におけるインド学の黄金時代にインド学梵語学を学び帰国。渡辺海旭らと共に「大正新修大蔵経」刊行や「南伝大蔵経」翻訳出版など大事業を指揮します。インド哲学を最高の学と信じ、文献実証主義によるインド学仏教学の伝統をわが国に築きました。

こうして、学問の世界では中国経由の漢訳仏教ではない、インドの香り高い仏教が欧州経由で研究され、しだいにパーリ語の仏教、つまりお釈迦様直説の経典を記述した南方上座部所伝の仏教が仏教学の主流となっていきました。

海外交流の先駆者 興然と宗演

明治憲法が制定され近代国家としての礎が築かれる頃、仏教の本場を訪ね仏教の実際を学びわが国の衰亡した仏教を振興すべく海外に旅立つ僧侶が現れます。

釈興然(一八四九ー一九二四)は叔父雲照の勧めにより、一八八六年(明治十九)セイロンに渡り、南方上座仏教の基礎を学びます。そして、一八九〇年キャンディにてスマンガラ長老を戒師に具足戒を受け、ここに日本人として初めて南方上座仏教の僧侶(グナラタナ比丘)が誕生します。

その翌年には、のちにインド仏蹟復興に貢献するダルマパーラ居士と共にインドに渡航しブッダガヤに参拝。ヒンドゥー教徒に所有され荒廃した大塔を含む聖地買収に関して国際仏教会議を開き協議します。興然は雲照らとも連絡を取り、ダルマパーラ居士と共にビルマ人やベンガル地方のインド仏教徒とも連帯して奔走しますが、英国政府の政治的見地から賛成しかねるとの通達があり断念。

興然は七年に及ぶ外遊後も南方仏教の黄色い袈裟を終生脱ぐことなく、自坊三会寺で南方仏教の僧団を日本に移植すべく外務大臣林董を会長に釈尊清風会を組織。弟子らをセイロンに派遣します。

一九〇七年(明治四十)には、当時わが国で最も持戒堅固の聖僧として仏教国タイに招待を受け一年間滞在。五十余体の仏像とタイ文字の三蔵仏典を贈られ帰国しています。しかし南方仏教の僧団移植は果たすことは叶いませんでした。

また、鎌倉円覚寺の釈宗演(一八五九ー一九一九)は、明治二十年より興然滞在中のセイロンの僧院に三年間滞在。帰国後円覚寺管長となり、明治二六年米国シカゴの万国宗教大会に日本代表の一人として出席。この時の講演原稿を英訳したのが宗演の弟子鈴木大拙でした。

その講演に感銘を受けた宗教雑誌「オープンコート」発行人ポール・ケーラスのもとに大拙は編集員として奉職。禅や東洋思想を次々に米国で紹介していきました。

宗演は、日露戦争にあたり建長寺管長として従軍僧となり、明治三九年に両派管長を辞任すると、渡米して諸大学で禅を講じ、大統領とも対談するなど、大拙とともに禅の世界に向けた啓蒙に成功したのでした。

西域探訪 光瑞と慧海

ロンドンに当地の宗教の実情と制度研究を目的に滞在していた西本願寺の次期宗主大谷光瑞(一八七六ー一九四八)は、スタインなどの西域探検に触発され、中央アジア探検を決意します。この大谷探検隊は明治三五年から大正三年まで三回にわたり、仏教東漸の経路を明らかにすることや遺存する経論仏像などの蒐集を目的に行われ、各地から貴重な仏像仏画古文書類を持ち帰りました。

光瑞は隠居後、脱亜入欧の時代にあって、お釈迦様を生んだアジアの振興を第一に掲げ、アジアの民の生活向上を主唱しました。

また黄檗宗の河口慧海(一八六六ー一九四五)は、漢訳経典の漢訳そのものの正確さに疑問を感じ、梵語やチベット語経典の入手を発願。明治三十年、目白僧園の雲照から戒律思想を、三会寺では興然からパーリ語とインド事情を学び、インドへ旅立ちます。カルカッタではダルマパーラ創設の大菩提会に宿泊し、ネパールを経由して西チベットに潜入。三年間に及ぶチベット旅行は世界の探検史に残る快挙となりました。

さらに一年半後に再度旅立ち、十一年間インド、ネパール、チベットで過ごし、梵語を習得。梵語仏典、チベット大蔵経をはじめ仏像仏具、動物植物鉱物の標本に至る膨大な資料を持ち帰ります。

滞在中は、カルカッタでラビンドラナート・タゴールとも交際を深め、帰国後、持ち帰った膨大な経典の研究翻訳、文法書や辞書の編纂に努めます。

東洋大学や宗教大学(後の大正大学)でチベット仏教を講じる傍ら、お釈迦様の教えへの回帰を目指して仏教宣揚会を結成。出家が成り立たない時代にあっては、三帰五戒受持を根幹とする在家仏教を実践すべきであると提唱し、真正なる仏教の再生に邁進しました。

文明開化の明治という変革の時代、僧侶としてまた在家仏教者として仏教の近代化のために様々な活動が展開され、仏教の有用性を示そうとした時代でした。

六回にわたり日本仏教の歩みを学んでまいりましたが、三学復興、兼学兼修、原点回帰ということが各時代を通して仏教を実践する者にとって大切ではなかったかと思います。日本人の誰もが日本仏教の伝統に影響を受けていることを自覚しつつ、遠くインドへ繋がる仏教を発見する手掛かりとしていただきたいと思います。おわり
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日本仏教の歩み15

2006年02月18日 10時18分56秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
大教院の設立と信教の自由

西本願寺の島地黙雷は、キリスト教に対抗するためには民衆教化に実績ある仏教が中心的役割を担うべきであるとして神道唯一主義を批判する建言を提出。国家神道を国民に布教するべき大教宣布運動がその後実効が上がらなかったこともあり、一八七二年(明治五)教部省が設立され、神官僧侶双方による教導職が定められます。

そして、教導職が宣揚すべきものとして「敬神愛国の上旨を体すべき事、天理人道を明らかにすべき事、皇上を奉戴し朝旨を遵守せしむべき事」を内容とする三条の教則を布告。天皇崇拝神社信仰を主軸とする宗教的政治的思想を国民に浸透させることを提議。仏教各宗の代表者は早速政府に大教院という教導職養成機関の創設を訴え、諸般諸学科を教授することを許されます。

しかしその大教院開院式が行われた東京芝の増上寺では、山門に白木の大鳥居が建てられ、本堂の本尊は別に移され神鏡をおいて注連縄を張り、そこで神官とともに烏帽子直垂の各宗管長が神式の祭儀を行うものでした。こうして、大教院も神道様式に仏教側が迎合し、復古神道の思想啓蒙の場となり、また単なる神仏混淆の新しい国教を作る運動と化し、神仏分離の当初の原則とも矛盾するものとなりました。

一方、一八七一年(明治四)末から欧米を訪問していた岩倉使節団は、訪問国でキリスト教迫害を抗議され、信教の自由を承認せざるを得ない状況に追い込まれます。時同じく欧州に宗教事情を視察した島地黙雷らは三条の教則は政教を混同するものであり、政教分離と信教の自由を主張して建白書を提出。仏教の自律性を要望します。

そして、一八七三年(明治六)にはキリスト教禁制を撤廃。氏子調べも同年中止となり、一八七五年(明治八)には大教院は解散。神道を非宗教として天皇と神社崇拝を承認させた上で信教の自由を保障。仏教諸宗派の宗政については各管長に委ねることとなり、一八七七年(明治十)教部省も廃止されました。

肉食妻帯の解禁

三条の教則布告に先立つ、一八七二年(明治五)四月、「僧侶の肉食妻帯蓄髪は勝手たるべき事、但し、法要の他は人民一般の服を着用して苦しからず」という、それまで僧尼令によって定められていた肉食妻帯の禁を解く布告がなされます。

さらに同年九月には僧侶にも一般人民同様に苗字を称させる太政官布告がありました。

これらは国家として出家者を特別扱いしないという意思表示であり、神道を国の教えとする上で当然のことではありました。

戒律は、本来国家とは何の関わりもなく自発的に遵守されるべきものです。しかし、古来国法によって厳重に管理されてきたために、仏教の世俗化に拍車をかけるものとして志ある僧侶たちは反対し、一方では喜んで肉食妻帯する僧侶もあったということです。

その後、この肉食妻帯問題は明治後期に各宗の宗議会で戒律問題として公認すべきか否かで紛糾し、結局自然の成り行きに順じることとされ、今日に至っています。

護法運動の旗手 行誡と雲照

こうした仏教排撃の機運に抗して仏教擁護のため僧風の粛正と通仏教の立場から様々な護法活動が展開されます。

浄土宗の福田行誡(一八〇九ー八八)は、この混迷期に政府に対し数々の意見を建白したことで知られています。仏僧本来の面目に帰るには、まずは戒を守り、自戒内省し、広く他宗の学問も修める兼学を提唱します。

伝通院、増上寺貫主として、縮刷大蔵経刊行にも着手。「仏法を以て宗旨を説くべし、宗旨を以て仏法を説くなかれ」と言われ、仏教の真理に基づいた説法をすべきであると戒めています。

また、肉食妻帯は法律上のことであって、僧侶のあるべき姿を真摯に守るべき事を要求して自らもそれを実践し、他宗の僧侶からも尊敬されたと言われています。

真言宗の釈雲照(一八二七ー一九〇九)は、古今未曾有の排仏の事態に至ったのは、みな僧侶自らの破戒濫行世間の名利に執着した罰であるとして、如来正法の戒定慧の三学に耐える者のみを留めて他を還俗せしめ仏教界の刷新を主張。しかし一方で、太政官に出頭して「仏法は歴代天子の崇信する所にして皇国の神道及び儒教の忠孝と相助け国家を擁護するものである」という趣旨の建白は数度に及び、また宗内でも護法に奔走。

一八八五年(明治十八)東京に出て、政府の大書記青木貞三、山岡鉄舟らの支援のもと目白僧園を建立します。戒律学校として平素四十名ほどの持戒堅固な僧侶がその薫陶を受け、その学徳と戒律を厳格に守る崇高なる人格に山県有朋、伊藤博文、大隈重信はじめ、将軍や財界人、学者に及ぶ蒼々たる人々が訪問し帰依しています。

雲照は、西洋哲学の方法論から仏教哲学を体系化した井上円了が創設した哲学館(後の東洋大学)で「仏教大意」を講じるなど、慈雲尊者の唱えた人間の原理としての「十善戒」を広く紹介。在家者のために十善会や夫人正法会を発足して社会の道徳的宗教的な教会として通仏教の立場から国民道徳の復興に貢献します。

北海道を含む全国に巡錫して法を説き、日露戦争時には満州にも布教。また晩年には西洋化する世間に対抗し神儒仏を一貫した精神をもって教育する徳教学校設立運動を起こしました。つづく

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日本仏教の歩み14

2006年02月17日 14時07分06秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
(以下に掲載する文章は、仏教雑誌大法輪平成17年12月号よりカルチャー講座にわかりやすい日本仏教史と題して連載するために書いた原稿の下書です。校正推敲前のもので読みにくい点もあるかもしれませんが、ご承知の上お読み下さい)


明治時代の仏教

今回は、明治時代という近代国家形成の過程において、仏教がどのように近代化を経験したのかを見てまいりましょう。

排仏論と出定後語

黄檗宗開祖隠元の弟子鉄眼道光は、一六八一年漢訳経典を総集した大蔵経六七七一巻を出版します。この鉄眼版大蔵経出版に関わった富永仲基(一七一五ー四六)は、「出定後語」を著して仏典成立に加上説を創唱。真にお釈迦様が説いたのは阿含経の数章に過ぎず、後は後人の付加であると主張。後に大乗非仏説論に発展しました。

江戸後期になると、古典文化の研究から国学が起こり排仏論を唱えます。国学者本居宣長や平田篤胤らは仏教伝来以前の古神道を理想とする復古神道の立場から仏教を排撃。平田篤胤は「出定後語」の理論を借用して「出定笑語」を書き、文章が平易通俗的であったこともあり多くの人に読まれ、明治維新にいたる王政復古運動、さらには廃仏毀釈の思想原理になるのでした。

神仏分離令と廃仏毀釈

一八六八年(九月より明治元年)三月、未だ江戸開城も済まぬ時に、神祇事務局より神仏分離令が発令されます。神社に別当あるいは社僧として仕える僧侶の復飾、神社でご神体としている仏像や梵鐘、仏具などの撤去を命じ、神社から仏教勢力の排除を通達します。

当時は神仏習合により、大きな神社であっても神職の上位に社僧など僧侶がいて神社を管轄し、神職はその指示に従っていました。しかし、仏教勢力からの独立を長年求めてきた神職らは、この神仏分離令が発令されると、幕藩体制下で寺院からの精神的支配に反発していた民衆を巻き込み、強引な破壊行為が各地で巻き起こっていきます。この、世に廃仏毀釈と言われる野蛮行為によって、仏像経巻など国宝にも比せられる多くのものが瞬く間に全国各地で灰燼に帰す事態となりました。

また一方では、奈良の興福寺のようにすべての僧侶が何のもめ事もなく復飾して神官となり春日社に仕え、伽藍仏具などは処分されるといった例もあり、石清水八幡宮、鶴岡八幡宮などでも同様でした。しかしその多くは、神社と寺院に境内を分離して別々の管理のもとに置かれ、今日に至っています。

こうした神仏分離令による混乱の最中、この危機的な状況を打開すべく、一八六八年(明治元)十二月各宗派合同の「諸宗同徳会盟」が京都興正寺にて発足し、僧風の粛正と仏神儒の三道による国民教化、キリスト教排撃のための護国護法を訴えました。これは仏教界全体に革新の気運を促すものとなり、二年後には諸宗連合学校として「総黌」を設立。近代的な宗門教育の形成を促すものとなりました。

明治新政府の宗教政策

かくして王政復古の旗印の下にうち立てた明治新政府は、その権威のために天皇陛下を神権者とする国家神道を国教化する政策を推進。

国家神道を「大教」と名づけ、天皇崇拝を中心として新たに作られた神道教義を全国民に浸透させ宗教を統一させることを目指しました。

そのため、寺院を勅願所とすることや勅修の仏教儀礼を廃止することとなり、それまで天皇皇族の菩提寺として葬祭の一切を執行していた京都泉涌寺との関係は、一八六八年(明治元)十二月には改められ、宮中の仏像仏具を泉涌寺に移し、皇室の葬礼は神式に改正されました。

そして翌年には、神祇官が太政官の上に置かれ、「祭典の執行、陵墓の管理、宣教」を司ることとなります。神々の頂点には神典に記された神々と皇霊をいただき、その下に諸国有名神社を配し、底辺には村毎の氏神と祖霊を置く神々の体系をもって、それ以外の宗教的なものをみな淫祠邪教の類として排し、神社や神職らによる国家管理を進めることとしました。

そして江戸時代民衆掌握の手段として寺院に作成させた宗旨人別帳に代わり、一八七一年(明治四)戸籍法並びに氏子調規則が制定され、それまでの寺院の役割を神社がそのまま取って代わることになりました。つづく
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「仏教家に告ぐ」に答える

2006年02月05日 16時14分22秒 | 様々な出来事について
主催するホームページ・ナマステブッダの掲示板に今年1月5日に以下のような書き込みがありました。ひと月思いめぐらしまして、どのような返答をすべきか、考えておりましたところ、この一文に対して賛意を表する書き込みも有り、本日下記のような内容で返答しましたのでご覧下さい。まず投稿者からの一文を転載し、次に私全雄からの返答を掲載します。

<転載>
仏教家に告ぐ 投稿者:徳永日本学研究所 代表 徳永圀 投稿日: 1月 5日(木)08時39分52秒
仏教家に告ぐ・物を超越せよ

仏教とは、単純明快に言えば、この現実の世界は仮の姿であとして、来世を説く。そして、この世は「色即是空」であることを衆生に教えている。。「色」即ち「この世の形あるもの、そして形無き意識から眼界」まで「空」だとしている。
さすれば、仏教は、自らそれを実行し実践しなくてはなるまい。
それには、僧侶自ら、物を超越する、物質世界を超越すると言う実践の模範を示すことではないか。

金襴緞子の僧衣も不要であらう、庶民には苦々しいばかりで不要である、墨染めでいいだろう、道元禅師は常にそうされた。立派な伽藍もお堂もいらないではないか、僧自身が、物に超然としなくてはなるまい。さすれば信徒は増大し、黙っていても「お布施」が増えるのではないか。お布施とは本来そのような性質のもので、唆かすものではない。まして近年は請求すらすると小言を聞いた。関西地区の友人によると、仏教にはついて行けないから神道にする人が増加しているという。神道は諸般に慎ましいからであろう。

自ら、この世的な物質世界に超然としていることこそ僧侶に必要であるのに、多くの寺院や僧は逆のことををしている。
ビジネス的仏教になつているのではないかと多くの方々から聞く。勿論、カルトの類いのものは問題外であり私は宗教とは思わない。
我々は俗界にいる人間だから許されるとしても、僧籍にあるものは、物質を越えた存在であると俗人に範を示してこそ、尊敬され自発的に喜捨もしたく思うのである。これが多くの人の思いでもあろう。

神道や神社や皇室を見るがいい、天皇陛下を初め、宮司や神職を見るがいい、「言挙げしない」神道の原理を守り、実に素朴に質素にしておられる。賽銭など所望はされない。神道では、人間が死んだら平等で戒名の格差もない、ただ自分の名前の後に「命」即ち「みこと」をつけるだけである。私なら「徳永圀典命」となるのである。平等そのものである。日本は縄文時代からこのように平等思想があるのだ。これこそ、現今日本に最も必要な精神的要素である。

鎌倉時代の仏教の宗祖は素晴らしかった、自己研鑽は当然、命懸けの社会性を見習うがいい。寺に籠もりきりではないのだ。
現在は、末世そのものであろう、頽廃は著しい。僧侶たちは、何とも無いのか。
どうして、僧たちは街頭に裸足で進出し、乱れた青少年に、宗祖のように叫び、説法し、身を賭して戦わないのか、それでは衆生は救えない。それでは、なんら我々衆生の俗界の人間と変わらないではないか。お経を唱えるだけでは、救われない社会の現実に眼を向けるべきである。鎌倉の宗祖は命懸けで街頭に進出し衆生に説いたではないか。
僧侶たちは、神道の簡潔・素朴・質実さを見習うべきである。
http://www.ncn-t.net/kunistok/
<転載終わり>

<転載>
世の中の見方 投稿者:全雄 投稿日: 2月 5日(日)15時37分56秒
仏教家に告ぐとした一文が1月5日に書き込みされました。ひと月の間どのように応じるべきか考えていました。まだ明確に返答する方針が決まったわけでもないのですが、他の方からも賛意が寄せられたこともあり、以下のようにひとまずお答えしておきます。

お釈迦様は法句経の中で、批判ばかり受ける人もなければ、褒められるだけの人もないとおっしゃられています。お釈迦様は、情状酌量、悪いことをしでかしても何か同情すべき所があるという意味で言われているとは思えません。

何事かをなす、そのような状態になったのには、そこに至る様々な原因、そうなるべくしてなったという諸々の要因があるということではないかと思います。だから批難ばかり出来るものではないし、褒められることであったとしても、それにはその影でどれだけの他の者たちの支えがあったかということにも目を転じなければならないということでしょう。

今のお寺にまつわる事々の非難されるべき問題も多く、そのことに目をつむるべきだと言うつもりもありません。ものに対して超然としているべきとのご指摘もその通りだと思います。比較して神道家であるとか、祖師達の名前も挙がっていました。それはそれなりに素晴らしい人たちだと思います。しかし今の時代に生まれたとしたら、その方達が果たしてどれだけの働きが出来ましょうか。

贅を尽くした伽藍を求め、金襴の袈裟に執着し、沢山の布施を所望して、贅沢三昧の生活にうつつをぬかしている、それが今の僧侶達の姿である。そう皆さんは思っておられるのでしょうか。はたして、実際にそんな僧侶が日本の中に何人おりましょうか。

たとえ外観としてそのように見える場合であったとしても、それがすべて僧侶達の求めに応じて為されたものなのかどうかも考慮すべきでしょう。その多くがお寺の檀那の求め要望によるものなのではないかとも思えます。立派な伽藍、金襴の袈裟など何れも、覇権を争った過去の将軍家、領主、大名達の権勢欲の遺物ではないでしょうか。

しかしそこに私たち日本人は文化や芸術の才を競って作られた建物や調度類、様々な工芸品、書画などのものに対して最高の技術を注ぎ込み、伝統を育み継承してきたという別の側面もあるわけです。

そして、そうして造られたお寺や神社に詣ることで一般民衆も心の慰安を得てきているのです。もしも今の日本にお寺がなかったら、どれだけ殺風景で、寂しいものか少し考えたらお分かりになるでしょう。お寺があってそこに僧侶が居なければ、お寺は荒れ果ててしまうでしょう。鐘の音がして、読経する声が響き、香の匂いを嗅ぐという、そこに仏との縁を求めて多くの人々は生きてきているのです。

批難することは簡単なことです。ですが、世の中の成り立ちによって身動きできない状態にある中で、みんな何とか生きていると言った方がよいのかも知れません。それぞれに沢山の問題を抱え生きているのが私たち人間というものなのではないでしょうか。以上ご返答申し上げます。

とても真面目に様々な問題に対して独自の見解を発表されている徳永日本学研究所のさらなる発展を期待し念じたいと思います。ありがとうございました。
<転載終わり>

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