住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

雲照律師『仏教原論』(P40~P44)に学ぶ わが国における仏教の価値

2010年06月26日 14時00分07秒 | 仏教書探訪
釈雲照律師(1827-1909)は、その学徳と僧侶としての戒律を厳格に守る生活姿勢、そしてその崇高なる人格に山県有朋、伊藤博文、大隈重信、沢柳政太郎など、明治の元勲や学者、財界人が帰依し教えを請わしめた明治の傑僧である。生涯木綿の衣と袈裟を着し、非時食戒を守り、午後は食事を摂られなかった。慈雲尊者の唱導した正法律を復興され、東京に出て目白僧園を構えて戒律学校を開き若い如法の僧侶を養成した。慈雲尊者の唱えた十善の教えを広く朝野の貴紳諸兄を始め多くの信徒に宣揚し、欧化思想蔓延する時代に神儒仏を基本に据えた本来の日本を取り戻すべく、文字通り身命を賭す生涯を送られた誠に尊い方であった。

雲照律師述『仏教原論』(明治38年博文館刊)の第五章「佛教は原因結果の真理を演繹するものにして因果を離れて別の法無きことを辨ず」の中で、雲照律師は当時の人々の宗教観の無残な変貌ぶりを嘆かれ、本来のわが国にとっての佛教の位置について以下のように述べられている。(明治の文体なので現代語に置き換えて抄録する)

「今日の日本人が宗教に冷淡なのは固有の天性であるという人があるけれども、決してそうではない。日本人が今日のようになってしまったのは、これはひとえに、習い性となったのであり、明治の維新前後に教育を受けた人たちは皆、これは水戸学派(儒学思想を中心として国学史学神道を結合させたもの、皇室の尊厳を説き、排仏のイデオロギーを持つ)の教育の力の致すところであって、それは江戸幕府の始めに萌芽した悪弊であって、林派に教育を担当させ、諸藩学校と称するものこの学派でなければ公許されなかったため、純白な児童の頭に自ずから陶冶されたのである。

しかるに、今を遡る千三百余年前、推古天皇帝位にお就きになり、聖徳太子を皇太子とされ、太子はことに仏教を尊信弘通されて国民安心の大本となされた。儒教を倫理の範とし、神道を国家の本体として、仏教を百事の精神となされたのである。

十七条憲法によれば、「第二条 篤く三宝を敬え、三宝とは仏法僧なり、すなわち三宝は胎・卵・湿・化によって生まれてくるすべての衆生のより所であり、万国の究極の教えであり、いつの時代でも誰でも三宝の教えを尊ばない人はない、人には甚だ悪しき人は少ないので教え聞かせたならこれに従うようになる、それには三宝に帰依することなくどうしてその狂いを直すことが出来ようか。」と記されている。

このように太子は国民の安心の基礎を定められ、寺を建て僧侶を出家させ、自ら経典を講じて、仏像を彫りまた描かれて、礼拝供養して心を尽くされた。宮中の儀式も皆仏教をもってその精神とされ、人々が都に入れば、高塔、大殿、僧院、伽藍の美観がまず目に入り、君子も民衆も上下の区別無く仏を信仰し法を敬う精神はここに実現したのである。これにより文化が日々に開かれていく。

そして、これを範として歴代の天皇も仏教を尊信なされたが、ことに嵯峨天皇(帝位809-822)は、三教の根源に遡られ、仏教教理についてはその奥義を究められた。弘法大師を請ぜられて国師とされ、三密(身・口・意の仏の行いを行ずる真言宗の教え)を奥深く研鑽され、神道の根底に達して、両部神道の妙旨を伝えられた。これによって仏教は、異国の宗教ではなく、皇国の宗教となったのである。だからのちの後宇多法皇(帝位1274-1286)はその遺告に、

「考えてみるに、わが大日本国なる国号は人為的なものではなく自然法爾の称号であって、密教に相応しい法身大日如来の仏国土である。だから、私の後に続く受法の弟子、並びに皇統を伝える天皇は、盛衰を同じくしなさい。興替を同じくしなさい。もし、我が仏法が断絶・荒廃すると、皇統も同様に廃滅するであろう。またわが寺が復興すると、天皇のまつりごとも安泰であろう。決して私のこの考えに背き、後悔してはならない。」(大本山大覚寺発行武内孝善高野山大学教授訳『詳解後宇多法皇宸翰御手印遺告』より訳文参照)と認められているのである。

これより先きに、宇多法皇(帝位887-896)は、その尊位を返上され法衣を着されて、三密の秘奥を伝え、弘法大師から第五世の祖として、仏祖正統の法脈を継ぎ秘密十二流の大祖とならせられた。これにより、宰相以下百官ことごとく三宝を尊信すること益々盛んとなり、おそらく古今万国において、これに匹敵するほど仏法盛んなることはなかったであろう。

その後天皇はじめその臣下においても剃髪得度される方々が益々多く、最近では、後水尾天皇(帝位1611-1628)が、落飾出家なされ三密の法を伝えられている。また、徳川家康公は、法服を着し、伊豆般若寺にて、関東関西の密宗の僧侶を集めて、三密の奥義を討論させている。そのとき自ら学頭の職位に座し、その討議を行司せられたが、そのとき「私は三軍の指揮を執って何度も列戦死地に赴いてきたけれども、今日ほど脇の下に汗を流したことはない」と感想を述べられたという。

このように仏教がわが国に渡来してより、一千余年間、藤原鎌足公を始め、菅原道真公、楠木正成公、徳川家康公、加藤清正公、上杉謙信公、毛利公、島津公などの諸公にいたるまで篤く仏教を崇信せられたことを考えれば、そもそもわが国における仏教の旺盛なことは知られよう。しかし、それにもかかわらず江戸幕府の末路より今日の形勢に至り、全く相背馳する様相を呈しているのは、これ冒頭に述べたように、ただただ教育の方針いかんによるのであり、同じ日本人種をほとんど異人種の如くにしてしまったことは実に驚くべきことである。」このように雲照律師は日本における仏教の旺盛な時代の主だった事績を指摘して、わが国における仏教の本来の価値について述べられている。

それは、今の私たちが想像するよりも遙かに、日本の国にとって、つまり政治や経済の分野においても、また人々の精神文化を培う上でも大きな影響力あるものだったのである。明治時代に禅を世界に伝えた鈴木大拙師は、日本から仏教を除いてしまったら何が残るのだろうかと言われたが、まさに至言。雲照律師が述べられている幕末から施されていく国学を中心とする子弟教育は、その後戦時下での国家神道へと変化し日本人の精神に大きな陰をもたらした。さらに戦後の信教の自由という無宗教化、キリスト教文化の浸透、新宗教の乱立、オウム事件を経て現在の私たち日本人は宗教に関し全くの無知にさせられてしまった。ことに仏教に対して無関心無視を決め込むような現状に至らせた原因は、もちろん仏教僧の破戒の現状にも大きな原因が求められようが、雲照律師が言われるように、学校また家庭における長きにわたる宗教教育の貧困が大きく影響しているであろう。

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弘法大師と六道輪廻

2010年06月22日 10時01分59秒 | 仏教に関する様々なお話
真言宗は即身成仏の教えを標榜する。だから人は死後みんな仏となるのだと漠然と考えている僧侶も多いようだ。六道に輪廻するなどという考えは受け付けないという。だが、そのような考え方をとるからと言って、みんながみんな死後仏になるなどと安易に言うことが出来るものなのだろうか。弘法大師は、著作の中にでも、六道や業輪などという言葉を多用されて衆生世界のあり方を述べられているのに、それを素直に認めようとしないのはいかがなものか。

宮本啓一國學院大学文学部教授は『仏教かくはじまりき パーリ仏典「大品」を読む』の中で、「インドで生まれた輪廻説は、仏教を通じてわが国でも一応は支持されて来ました。しかし、明治維新と併行して展開された廃仏毀釈運動や迷信打破運動の中で、輪廻説は急速に旗色を悪くして行きました。科学(サイエンス)は経験の観察から仮説的な法則を導き出す学問ですから、死んだらどうなるかという、経験を超えた領域の問題について、発言することはありません。・・・」それなのに科学的かどうかという観点から死生観を論ずるのは全くナンセンスなことである。そればかりか輪廻説を否定したところにこそ仏教の革新的な独創性があったなどと主張する仏教学者や僧侶が多いのには驚かされると宮本教授は述べておられる。

ところで、大正五年発行の『真言宗義章』という著作がある。著作者は、真言宗各派連合法務所編纂局とあり、当時の高僧方が明治の揺籃期を乗り切りさらに時代が退廃する中で危機感もあり、百六十七ページに真言宗の教えの骨子をまとめたものだ。読むと、この著作では六道輪廻が当然のこととして教えの根底にある。

早速、問題の即身成仏に関する章から見てみよう。「第八章即身成仏章」には、即身成仏には三重の次第があるという。まずはこの宇宙森羅万象すべてが仏の現れとしてみる立場から、私たち人間も含めたすべてのものは、そのまま仏であるとする即身成仏、これが一重。しかし普通、私たち凡夫は沢山の悩み苦しみを抱えて自らを仏とは思えないものなので、速疾に成仏できるとする密教の修法が必要となる。そこで煩悩に覆われて隠れている仏を開き見るために、凡夫は身に印を結び、口に真言を唱え、心に仏を想う三密の修行をもって仏と一体となる境界を一時的に体験する、これが二重の即身成仏。

そして、次に、その一時的な境界を絶えず積み重ねることで、常に四六時中仏と一つになり仏の働きを生きることができるとする。これが第三重の即身成仏である。そしてこの三重の即身成仏を成し遂げられた人は、すなわち弘法大師その人であるとしている。つまり即身成仏を本当にその生存中になされた人は弘法大師のようなたぐいまれな偉徳と学才を有する方のみということでなのであろう。

そして、「第十一章機根不同章」には、およそ真言行者の修行の段階や才能には正機と結縁の二種類があるとして、正機とはその生まれも良く才知に優れた上根上智の者をいい、出家在家を問わず三密双修の一生の間に成仏する機根であるという。これに対し、結縁とは生まれにも才知にも恵まれていない下根劣慧の者をいい、一密二密の修行による功徳によって、顕教の行者のように三劫を経ることはないけれども、二生三生を経て、つまり二回三回生まれ変わり、その間に機根が調い一生成仏がかなうとある。さらには私たちは神通力がないので、過去も未来も知らない、だから、過去世にどのような良い功徳を積んできたものかも知らないし、未来世のいつ成仏できるものかも分からないものだとしている。

さらに、「第二十一往生浄土章」では、この浄土は大日如来の浄土であり密厳国土と称するとしながらも、ここでも、上根上智の人は、三密の妙行によって一生の間に三密相応してこの身を転じることなく密厳浄土に往生する。けれども、下根劣慧の人は、一密二密の修行によって、如来の加持力と教益によって、地獄餓鬼畜生の三悪道の苦を逃れて、しばらく浄土に生じるか人間あるいは天上にあって、なお悟りを求める心を失うことなければ、二生三生の間には三密双修の時いたって、速やかに密厳浄土に往生するとある。つまりは一密二密の修行をしない者は三悪道に墜ちるかもしれない、それらの行によって、その功徳から人間ないし天上に生まれるという六道輪廻を仏教の死生観として受け入れてこの『真言宗義章』が書かれていることが分かるのである。

仏教はお釈迦様の時代を最高点として、以降徐々に劣化していると考える。何を持ってそう言えるかといえば、お釈迦様の悟りと同じ阿羅漢になる人の数からしてそのように考えるのである。仏教の経典が編纂され、律蔵論蔵が整えられ、学問的な発展、寺院や仏教徒の数がたとえ増えて世界宗教となったとしても、それだけで仏教が成し遂げられているとは言えない。どれだけ沢山の人たちがお釈迦様と同じ悟りに近づけるか、そこが問題なのであって、その観点からすると明らかに私たちは、おそらくは底辺の時代に暮らしているとの認識が必要なのではあるまいか。つまり大正時代の高僧方がまとめられた、江戸時代までの仏教の雰囲気を語り伝えるこの『真言宗義章』に書かれているものの方が今の仏教学者、僧侶が唱える考えよりも確かであると言えるのである。

それでは次に真言宗の祖師である弘法大師の自らの言葉を、筑摩書房刊『弘法大師空海全集』から、現代語訳をそのままに紹介してみよう。まず『三教指帰(さんごうしいき)』で仮名乞児という仏教行者の語りとして、「迷いの三界に一定の家はない。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道の中で固定した所にいない。六道に輪廻する者はある時には天を国とし、またある時は地獄を家として住むこともある。あるいはあなたの妻子となり、またあなたの父母ともなる。・・・あなたと私は始めのない昔から、代わる代わる生まれかわり死にかわって転変し、常住でない。」と仏教の世界観を簡潔に述べている。ある先生は、この部分の解釈として、三界に一定の家なしとあり、一生の間に地獄もあり天上もありと単なる心の浮沈を表現したものだと断じられているけれども、それはあきらかに誤りである。この部分は何度も生まれ変わりして六道の中に定まる所なしという意味である。ここで弘法大師は自らの知識として持つ正当なる仏教の輪廻説を開陳したのだと言える。

また『続性霊集補闕鈔巻第八』中の「仏経を講演して四恩の徳を報ずる表白」には、「この世で死んで、後の世に生まれ変わり、生死輪廻の迷いの地獄からは、出ることが難しく、あるいは人となり、あるいは亡者となって、病苦の報いを受けやすい。まことに悲しいものは、われらこの世に迷うものたちである。まことに苦に満てるものは、この六道輪廻の世界を迷えるわれらである。」私たちはみな六道の輪廻の世界を生きている。それはとてつもなく苦しみにまとわれている。私たちはこの輪廻の果てしない長い生死に迷うているのだと言われているのである。

同中「有る人、先師の為に法事を修する願文」には、「人の生涯は百年に及ばないのに、万年にもわたる輪廻の悪業を行っている。賊のような悪業は、日々つみ重なって四つの魔の軍となって押しよせ、鼠が命綱を夜かみ切ってしまえば、命はむなしく閻羅王の罰の世界におちていくのである。」ここでは、この一生は短いものかもしれない、しかし私たちには過去の長い転生によって万年にもわたる業を作ってきていることを思えと言うのである。

『続性霊集補闕鈔巻第九』中の「諸の有縁の衆を勧めて秘密蔵の法を写し奉る応き文」には、「六道の迷いの世界の生きとし生けるものも、四生の流転の生きものも、みな父母であり、飛ぶ小虫、蠢く虫けら、何ひとつ仏性を具えないものはない。願わくは清澄な眼を見開いて三密の合致した仏の境地を照らし、煩悩の縛めを断ち切って、人々をして如来の五智の楼台に遊ばしめたい。」とある。四生とは、胎生、卵生、湿生、化生のことで、胎生は母胎から生まれ出るもの、卵生は鳥のように卵として生まれるもの、湿生とは蚊のように湿地より生ずるもの、化生とは天界または地獄、餓鬼のごとくに他の三生以外に自然に化生するものを言う。それらもみな何度も生まれ変わりする中で自分の父母であったかもしれない、だからこそ小虫であっても仏性がある。つまり一切の衆生に仏性があるというのは、六道輪廻がその根拠にあるということなのである。そのことに気づいて悟りに向かって私たちは生きるべきなのであると言われている。

いかがであろうか。誠に明快にその教えの根本に、この輪廻転生、六道、業、因縁という観念があってはじめて成立するということなのである。私たち凡夫の、いまの知識経験から理解できないからといって、お悟りになられたお釈迦様や、日本仏教の祖師方が言われていることを削ぎ落として、単に当時の人々に教えを語るために輪廻という世界観を枠組みとしてその中に自分独自の合理性を組み込んでいったのが仏教であるなどと断じてしまうのはいかがなものか。悟られた方の雄大な教えを悟ってもいない単なる知識だけの頭の枠に小さく閉じ込めることに過ぎないのであると言えまいか。そこからは教えの真にダイナミックな躍動、その力を受け取ることが出来ないことを肝に銘ずるべきなのである。

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慈雲尊者の『因果無人』から三世の因果を学ぶ

2010年06月13日 19時53分27秒 | 仏教書探訪
慈雲尊者は、真言宗にて出家得度四度加行を済ませ、臨済宗にて参禅のあと、河内高井田の長栄寺にて正法律を唱導した。そして、お釈迦様の正当の戒律を重んじた僧団を作り、そこで多くの僧俗を教化した。41歳の時、一時生駒山中腹の長尾滝付近に雙龍庵を結び、13年ほど住まいして、この間に多くの法話が弟子達により記録されている。それらを収録した「雙龍庵時代法語集」(三密堂刊「慈雲尊者法語集」より)に『因果無人』という法語がある。三世因果について説かれたその慈雲尊者の肉声の記録を分かりやすく現代語に意訳して学んでみようと思う。

「インドの龍猛が著した大般若経の注釈書である大智度論に、「一切世間ノ法 唯因果ノミニシテ人無シ 仮説ノ故二有ナルヲ除ク 此ハ是レ正思量ナリ」という偈がある。これはもともとお釈迦様の説かれた偈文で、それを龍猛菩薩が引用されたのである。この四句の中に、三世の因果が説き尽くしてあるので、今ここでこれを解説しようと思う。

一、一切世間ノ法について

一切とは、諸法をひとつかみにした言葉で、上は有頂天から下は阿鼻地獄までひっくるめて一切という。世間というのは、衆生が死んでは生まれてを繰り返している、生死の海に流転することである。世間はインドの言葉ではローカといい、暗闇のことを指す。この世間に、地獄、餓鬼、畜生があり、阿修羅があり、諸天があり、人間がある。これらをひとつかみに一切世間という。

法というのは、のり、法度のことだ。人間世界のことで言うなら、男女があり、大小があり、貴賤、尊卑がある。親子兄弟があり、君臣夫婦があり、自分があり他者がある。君たる者は上に立って万民を安楽にする政治をなし、臣下たる者は君に仕えて忠義に励み、子たる者は父母に孝を尽くし、父母たる者は子に教えをなして善を行わせ、弟は兄の教えに従い、兄たる者は弟を導く。また男女大小貴賤尊卑それぞれの礼儀作法がある。これらをさして世間ノ法というのである。

次に諸天について説くならば、まず私たちの頭の上にある空の日月星辰を遊空天と仏典ではいう。これは須弥山の山腹に当たり虚空の中にある天のこと。倶舎論には、須弥山の高さは、十六万由旬(一由旬とは牛車で一日行く距離という)あり、地の中に八万由旬、地から上が八万由旬だという。このあと四天王から始まり無想天に至る諸天について細かくどのような境界か寿命などについても解説している。そして、総じてこれらすべてを一切世間法といい、皆生死輪廻の世界であると断じている。

二、唯因果ノミニシテ人無シについて

唯とは他のまじりものの無いということ。因とは種となるもので、五穀などは去年の籾種が因となり、今年の米が果となる。しかし去年の籾種の中に今年の苗もなく種子もない。今年の穂の中に去年の籾種は見いだせないが、今年の春に種をおろしたときには秋の実りは予定されているとも言える。このようなことを唯因果のみと言うのであって、そこに米の実体というものはないのである。

人間界で言うなら、初めて三宝に帰依して仏法僧に恭順するとき、これが正しく人間に生ずる因となる。前世にこの因があると、必ず人間として生まれ変わる果が得られる。一切世間はこの因によって果を生じ、その果がまた因となりまた未来の果を生じていく。その輪転には、はてが無いのであるが、しかしそこには人間という実体はなく、これを因果に人無しというのである。

もし実体があって死ぬとき目か鼻から出て三帰五戒の功徳をもって人間の腹に宿るならば、過去世の名前もその因も知っていようが、そもそも実体のないものなので、一向にそんなことは知らずに私たちは生まれてくることになる。ただし、三帰五戒を受持したものは必ず五十年か三十年か、人間一期の果報を得ることができる。

それなのにせっかく人間に生まれても、父母師長に恭敬礼事すべきことを知らず、世間の是非善悪もわきまえない者がある。この心がそのまま畜生である。また、自分の物は惜しみ蓄え他の財物は取り貪り常に積み蓄えても、一針一草も人に恵むことの嫌いな者がある。この心がそのまま餓鬼である。さらに、国王大臣のような高位の者は、自分の勢威をたのみ妄りに多くを殺害したり、一切の凡夫にあっても、とかく己の心に適わぬことは父母に対しても怒りを起こし悪言罵詈雑言する者がある。さらには打ち叩いたり、殺したり。この瞋恚心がそのまま地獄界である。

この貪瞋癡の心によって種々の悪業を作るとき、その因果の業相はみじんも減じることなく相続していくものなのに、何も知らずに生まれてくるだけに、その前に何があったかも考えてみることもない。その業はどんなに時間が経とうとも、寸分も減じることなく因果相続していくものにして、三世の因果はただ今のこの一念の中に具足して違わぬものである。

三帰五戒を受けた者は、死ぬるとき苦痛が少ないので心も自然と歓喜して正しくなる。すると人間相応の中有が現れる。そのとき中有という物があったり、相応の心という物があるのではない。自心の業因縁にしたがって、次の生に生ずべき国が目にかかり、その中に一郡が、またその中の一村が、つまり自心の生ずべき縁ある所ばかりが見える。そして次第に転変してその村の中のある家ばかりが見えてくる。その家の中でもその父母ばかりが目にかかり親しみの心が起こると、中有を離れて胎内に入り、自然と増長して十月の後には出生する。そして次第に成長して五十年か三十年か人間界に住するのが三帰五戒の果である。

そして、少年かと思えばはや壮年となり、壮年かと思えば直に老年となる。その業に従って転々流転して一瞬たりとも留まることなく、少年の時にすでに生まれたときの身心はない。老年になれば壮年のときの身も心も得られない。少年の心が移り来たって壮年の心になり、壮年の心が老年の心となるのでもない。少年の時の身心が壮年の身心のために因となり縁となって現れているだけである。昨日の身心は今日の身心のために因となり縁となっている。そこには、因と縁と果ばかりがあるのであって、それぞれの身心が元来生じたるものでもない。生ぜぬものは滅せず。そもそも実体あるものではない、それを因果無人というのである。

三、仮説ノ故二有ナルヲ除クについて

私たちはこの身と心、仏教の言葉では五蘊とも言うけれども、まさに実際に存在する物のように思って、自分と他人であるとか、生き物と単なる物質であるとかと区別したりするが、それは仮にも実体ある物として存在するのではない。ここには因果の業相のみがあるのである。慳貪なる心がそのまま餓鬼界であり、瞋恚の心がそのまま地獄界、愚痴の心がそのまま畜生界なのである。この三悪趣もただ仮に名前をつけ説かれているのであり、実際にそこに喜があるのでも愁があるのでもない、得るものも失うものもない。これを仮説の故に有なるを除くというのである。

四、此ハ是レ正思量ナリについて

正思量とは、禅定時に得られる智慧のことである。このように徹見してみると、地獄の中に諸仏の智慧が、餓鬼の中に諸仏の法身が、畜生界の中に般若波羅蜜門が出現する。これを正思量と名付けると言われ、この法話を終えている。すべて実体ある物などない、これがそれぞれ五趣六趣のどこにありても、そのすべてを正しく智慧によって思量すること、三世の因果のみを透徹して見すえていくことなのであるということであろう。

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木村泰賢博士の『原始仏教思想論』(第二篇第四章「業と輪廻」)を概説し、業と輪廻の正論を学ぶ-3

2010年06月11日 09時21分42秒 | 仏教書探訪
六、有情の種類について

ここまで述べてきた業論からすると、無限の業の種類に応じて有情の種類もまた無限なのだと言い得る。有情とは生命ある者との意で、衆生とも訳されるけれども、後に感覚ある者として有情とされたのであって、その場合には人間と畜生を指している。ただここでは衆生として生死輪廻の世界に生息する者を指している。お釈迦様は、世に無限の衆生ありて、しかも一つとして同じならからざるは皆その業の異なるがためであるとお考えであった。しかし当時の習慣に従い、神話的なる存在も一種と見なされて、おおよそ衆生世界を大きく五種ないし六種に分けた。

いわゆる死後趣くところということで、五趣、六趣と言い、五趣とは地獄、畜生、餓鬼、人、天上であり、これに第四として阿修羅を加えたものを六趣と言う。中国や日本で六道輪廻というのはこの六趣説によったものである。これらについての詳細は、漢パ両伝に伝わる増一部や漢訳長阿含第四分(世記経)などにある。人間と畜生を除いて他は神話的な存在ではあるけれども、当時の一般的信仰からすればすべて生きた存在であったので、お釈迦様もこれを容認して輪廻界の一現象と見なされたものと考えられよう。

これら五道ないし六道の衆生をその生まれ方から分類するならば、四種となる。四生といい、いわゆる胎生、卵生、湿生、化生である。胎生というのは普通の人畜のように母体から生ずるを言い、卵生とは鳥のように卵から生ずるを言い、湿生とは蚊のように湿地より生ずるを言い、化生とは天界または地獄、餓鬼のごとくに他の三生以外に自然に化生するを言う。これはすでにウパニシャッドにおいて提出された胎生、卵生、湿生、種生のうち、種生については植物を輪廻界に入れないために外し、かわりに地獄等のために化生を入れたのである。

また、これら五道四生を界に配するならば、お釈迦様は欲界、色界、無色界の三界とされた。欲界とは欲の盛んなるところで、地獄から天の一部までを含み、四生の何れもこの中にある。色界と無色界は純然たる天部で、かつ、化生であり、両方ともに禅定力の勝れたところであるけれども、色界には未だに物質的活動があり無色界にはその活動のないところからそれぞれの名前がつけられている。

附論 業説の価値について

業説は生物学的な観点からは、生まれながらの気質や傾向を前代の経験に求めることなど、その前代を祖先に求めるか自己に求めるかの違いはあるけれども、遺伝説に近似したところがある。さらにはそれをより長い歴史的な時間で計るならば、業説の結果として無始からの輪廻を考えるのであるから、自ずから進化論に適うところもあるであろう。またこれを心理学的見地から紐解くならば、業をもって経験の集積としてなされる意志により無意識的な性格を形成することなど、今日の心理学でもまた認めるところである。

またこれを教育に応用するならば、教育のあらゆる目的は仏教で言う善業を積むところにあるとも言いうるのであって、それは、道徳的にも技術的にもよき訓練を無意識的性格になるまで養成するところにあるからである。内面的修養が教育にあってはとても大切な意味を持つということも、この業論の教育的効果でもあるのである。しかしこの業説の最も重い意義について述べるならばそれは倫理、善悪の行為が禍福を招くという理論の論理的妥当性についてであろう。

正義を行うところに幸福が、不正を行うところに禍が来たればよいのに往々にしてそうならず、正義は虐げられ不正が栄えるのが古往今来の絶えざることである。この問題に対する従来の説としては以下のようなものがあげられよう。つまり、一つには社会は本来その不調和を解決すべき機関ではあるけれども不完全なために、その要求を満たすことが出来ないとする説。二つには自己の良心に照らしてみれば、正義を行う者はたとえ不幸に沈んでいても心には満足を得ている、不正を行う者はたとえ外見的には成功しても良心の呵責があるのであり、良心においては善悪禍福は一致しているとする説。また三つには自己においてその要求が実現されなくても子孫において実現されるとする説。さらに四つには人の善悪業は、大小にかかわらず長く社会に残存してその果を実現するので、業力不滅を主張し、同時にその妥当性を社会に求める説など。

しかしこれらは、一理ありとしながらも、それらがいつ実現されるのか、誰にでも当てはまるものか、普遍的確実性があるのかという観点から言って妥当性に欠けるのではないか。そこで偶然説が力説されたりもするが、それは善悪の行為と幸不幸は何の関係もない、すべては偶然のもたらした現象に過ぎないとする説である。また、それは神意によるとして、現在にあっては禍福善悪の一致が充たされないけれども死後において神がこれを裁いて善を賞し悪を罰してその妥当を計るとする神意説もある。ここにはインドにおける通俗説としての閻魔王による裁きなどもこれに属するし、またキリスト教に言われる末日審判の思想もこれであろう。

しかし、これらに対しては、まずもって、なぜ全知全能の神ならば未来にまでその裁きを待たねばならないのか。また、正義の人にして虐げられるのは神がこれを試みようとするのであって最後には真の裁きがあると言うが、不正を行い栄えるのも神の意向となり神意を測りかねるのであり、未来の審判の公平性も疑わしいこととなる。そこでキリスト教内部でも、最近(大正11年当時)末日審判説を排して心霊主義(Spiritualism)が盛んとなり、死後霊魂は前業に応じて直ちに相当の報土にいたり、下は地獄から上は神座にいたる種々の段階があり、六道または十界に似たものがあるのである。

このように見ていくと、やはり自己の業を自己が果たすという三世にわたる仏教の業説が最も妥当性のあることが分かり、また公平な見方であると考えられる。しかもそれは今生から出発するのではなく、永劫の過去から連続してきたものであって、今生で正義の人が不幸を受け、悪人が幸福を得たからといって、それは過去からの勘定の結果と見るならば少しも不公平なことはない。今生になした善行の結果が今生で得られなくても、悠久の輪廻の中でいつかは必ず間違いなく報われることになる。もしもこの確信さえ得られるなら、人はその報われない運命に案じながらも喜んで善と正義のため、他の人々のために尽くすことが出来よう。

また、現世に犯した罪がないのに不幸に遭うならば、前世に蒔いた種の熟したものと思い、それだけ自分に備わった責任が軽くなったと喜ぶことも出来るし、現世にあってさしたる功徳を積んでいないのに分不相応な幸運に遭うならば、これは前世の功徳の熟したものであって、それだけ福分が減少したと捉え、将来に備え善事に励む動機とすべきなのである。このように善悪の行為と禍福の関係を説明する上でこれほど妥当な、しかも社会全体に対して善い方向にあらしむる説明はないであろう。しかもこれは単なる理屈ではなく、世界の多くの仏教徒がこれに学び、安心立命を得て仏道に精進してきていることは歴然たる事実なのである。

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木村泰賢博士の『原始仏教思想論』(第二篇第四章「業と輪廻」)を概説し、業と輪廻の正論を学ぶ-2

2010年06月07日 20時16分44秒 | 仏教書探訪
四、前生と後生との間における人格的関係

お釈迦様によれば、生命は刻々に変化しつつ前生から今生へそして後生へと輪廻相続される。それが無意識的な性格によって相続されていくとするならば、その人格的な関係はどのようになるのであろうか。有我論で輪廻を説くならば、すべてが変化してもその我体なるものは同一常住であると考えるので、少なくとも論理的には自己の同一が成立すると言える。しかし、お釈迦様はその我体なるものも変化していくと見る限り、その人格的なつながりが問題となる。

しかしその観点は、生命のもつ流動的変化の真相を理解せず、固定的な我を念頭に考えるからである。今私たちは自身の生命を持続的に存在するものと認識しているが、お釈迦様は、同とも異とも言われず、その中道にあるという。私たちは常に様々な行いによって、性格を変えつつ人生を歩み、死を迎える。そして、後生にあっては表面上前生とは全く違うものに見えるけれども、その根底には前生の無意識的性格を相続している。だから、皆生まれながらにして、その能力、境遇、その他種々の点において異なるのである。

さらにそれは前生ばかりかその前の何度となく輪廻してきた過去世の様々な経験的な集積をも具有している。今もたらされている結果はどの過去世の因によるものなのか。また、一生涯でも無数の経験の中の何れが未来の大運命を決定する主因となり、また何れが副因となるのか。これはアビダルマにいたり種々に論究されることとなるのだが、これを三世因果と言う

そしてお釈迦様はこの場合の果報を受ける者とその原因をなした者との関係を同とも異とも言われず、これは変化の法則、すなわち縁起の系列をもってなされるとされたのである。これは蚕の変化の如くあると理解できよう。つまり、蚕は幼虫よりサナギになり、サナギより蛾となる、外見的には全く違ったものではあるが同一の虫の変化であり、幼虫と蛾を同とも異とも言えずただ変化であるというのと同様なのであると述べている。

いわゆる霊魂が空間を駆け巡り種々の身体を得ていくというような有我論での輪廻説と、この点が大いに異なるのである。無限の輪廻は、お釈迦様によれば、因果によって規定された無始無終に続く変化によってもたらされるとするのである。そして私たちの生命は業自らが変じて、畜生になり、地獄の住人になり、天人になるのであって、与えられて地獄や天があるのではなく、自らの業が生死の境を超えてこれを創造していく。私たちの魂が畜生に託するのではなく、私たちの業がその変化の経過において、人類たるべき五蘊を畜生たる五蘊に代えたに過ぎないと見るのである。お釈迦様の輪廻論の真意はまさにここにあるのであって、これは近代の学者の中にはショーペンハウエルなど仏教を哲学的に取り扱おうとする人々の承認するところでもある。

五、業と果との性質、及びその倫理的妥当性に関して

人は蒔いた種と同じ果を受ける。善行者には善果が来たり、悪行者には悪果が待っている。しかしてこの場合の善悪の意味はいかなるものなのであろう。お釈迦様はこの因果に間における性質関係を二重に考えられていた。第一には、因と果を同性質から見たものであり、これを同類因等流果の関係と言い、第二は、異なる性質から見たものであり、異熟因異熟果の関係と言う。

第一の関係は、主に心理的なものであり、前業と同じような結果、さらにはそれを一層前進させるような結果が得られるとするものである。たとえば、今生においてよく勉強した者は来世において賢明な素質を得て生まれる。逆に怠惰であれば来世では愚鈍に生まれる。また、獣の心を養う者は獣となり、鬼の心を抱く者は鬼となり、天人の心を養う者は天に生まれるなどと言われ、輪廻の報いは他の第三者から与えられものではなく自らの性格に応じて自らこれを作るのである。いかにも自然のことと言えるのであり、この意味において、善行者は善果を受け、悪行者は悪果を受けるという同類因果説は直接的な心理的根拠を有すると考えられる。

次に第二の関係については、善行をなした者は幸福になり、悪行をなした者は禍を受けるというような規則についてであり、この場合、善悪は倫理的な価値判断ではあるが、禍福は倫理的な意義を有するものではなく、意に適うものかどうかというものであって、この場合因と果を同質と見なすことが出来ない。しかしこの関係は種々の人生現象を説明するに際してお釈迦様が始終お説きになられたものである。

たとえば、今生の短命は前世において殺生を行ったためであり、反対に長寿なる者は前世で慈心をもって他の命を憐れんだがためである。今生に病気がちなのは前世において衆生を悩まし苦しめたからであり、無病なるは慈心をもってこれを愛し可愛がったため、また今生において姿形の醜悪なるは前世において多く怒れるためであり、反対に端正なるは柔和だったためである。さらに今生に貧しいのは前世に慈善をしなかったためであり、反対に富めるのは前世に慈善したためであるという。

殺生と短命、貧富と慈善など論理上異なる概念について因果関係を結びつけているが、これは単なる勧善懲悪を説くがためばかりではなく、お釈迦様は人生現象の種々相を解釈するために説かれた極めて重要な教理となされたのである。前世において殺生したからその習慣で今生も殺人鬼に生じたというならその根拠は明らかではあるけれども、殺人鬼の代わりに短命に生まれるというのはいかなる根拠があるのであろうか。同様に前世で衆生を悩ましたために今生で疫病神になる、衆生を慈しみ可愛がったならば福の神になるのならその根拠は分かりやすいのだが、悩ましたがために病弱となる、可愛がったがために健康となるのはどのようにその妥当性が証明されるであろうか。

そもそも私たちの意志的な活動は、どんなに簡単に見えるものでも極めて複雑な根拠と経過によってもたらされる。従ってその活動が自分にどう影響していくのかも単純なものではない。だからその影響のもとでどのような性格を作り、どのような自己の世界を作っていくのかということも一通りのものではなく、種々の方面に結果していくであろう。こうして一生の間にも無数の業を作り、前世からの業も相集い、それらが根底になって自己の運命を作っていくとすれば、その果報にも複雑な意味が生じてくると考えることが出来よう。

しかしそれらをここでは、一つの業を心理的な事実としてその果をみる場合と、これに倫理的な価値を持って果をみていく場合とに分けてみる。心理的な事実として見てみると、その因と同類の果を導くであろうし、倫理的な価値をもって見ると賞罰の果、つまり異類の果を得るであろう。一つの業によってこのように大きく二様の意義があり、心理的な事実としての方面からは同類因果となり、倫理的価値としての方面からは賞罰を伴う異類因果となる。

たとえば、慈善心をもって布施を行ずる時、その結果として自己の性格がますます慈しみに富み博愛の心を持つにいたるのは心理的な事実であり同類因果と言えよう。そして、それと同時に倫理的な価値として善き行為を行ったことがその性格となり、やがて自らの世界を作るに当たっては多くの人との交流を形成し富み栄える異類因果をもたらすと考えられる。同様に、前世において人を悩ましたことは、今生または来世でますます人を悩ます凶暴な心を作ると同時に、自らの心にも悩みの世界をもたらし自ら病弱、短命となるであろう。私たちの世界はすべて私たちの性格が作るとするのがお釈迦様の真理からの見方であるからである。因果論における難題であった異類因果にも理論的な根拠がこうして見いだされるのである。

このように、これら二方面からの因果は相伴って同時に結果するものと限らず、時を異にして現れることが往々としてあり、正義の人なのに苦しみ多く、凶悪な人なのにかえって栄えるというようなことはこの例と言える。また、同類因果は特に意識的に養われたものであるので後天的な努力によって、ある程度まで変更しうる。たとえば、前世の業により愚鈍な素質を持って生まれたとしても今生での本人の努力によって、賢明なる性格を養うことも出来る。逆に賢人としての素質を持って生まれても、怠惰によって愚かな性格を養いその素質を無駄にしてしまうこともある。前業の影響の大きさを認めながらも、後天的な修養を大いに奨励されて、その宿業を転じて智慧を獲得するところにお釈迦様の仏陀たる使命があったと言えよう。この点が宿命論者であったマッカリゴーサーラらと大いに異なるところであった。

しかし、来世でどのような生まれになるかなどといった運命的な因果、ここで言うところの異類因果については、無意識的に植え付けられたものであり、その果の発生を防ぐことは出来ない。従って心理的な性癖などについてはどんなに悪性なものでも、これに打ち克って至高のところに導くことを任務とされながらも、幸不幸の運命に関しては自然の法則として、お釈迦様といえどもこれをいかんともしがたいと教えられた。すなわち、生死輪廻と業報とは、誰あろう何人も逃れることが出来ないものであり、お釈迦様の役目はこの厳然たる事実を知らしめて、ついに絶対的にこれを離脱せんがための道を教えるところにあったと言えよう。つづく

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〈日本の古寺めぐりシリーズ番外編その3〉名古屋の名刹を巡る・真福寺、興正寺、日泰寺、甚目寺-2

2010年06月05日 13時22分51秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
日泰寺

日泰寺は名古屋市千種区法王町にある明治時代にタイ国王から寄贈されたお釈迦様の真骨を祀る超宗派のお寺である。正式には覚王山日泰寺という。明治37年建立の新しいお寺である。

タイ国大使館のホームページにある日泰寺の歴史には、次のように記されている。「1898年、英国人考古学者が、ネパールに程近いインド北部の古墳での発掘作業中に、人骨が納められた西暦紀元前3世紀頃の古代文字が刻み込まれた壷を発見しました。その壷を採取、文字を解読したところ、中に納められた人骨は仏舎利であることが判明、つまりは釈尊なる人物はこの地上に実在しなかったとする見方を覆し、その実在が立証されたわけであり、この発見はアジアにおける一大発見となりました。

当時インドを治めていた英国政府は、こうした真の仏舎利は仏教徒にとって最も価値あるものと考えました。タイ王国(当時のシャム)が唯一の独立国家としての仏教国であったため、タイ国王が当時世界で唯一仏教を守る人物であると理解したインド政府は、この仏舎利をチュラーロンコーン国王陛下に寄贈、国王陛下はバンコクのワットサケート寺のプーカオ・トーン(黄金の丘)の仏塔に安置されました。

その後日本を始め仏教を信仰する各国の僧侶、外交団等からこの仏舎利を分与して欲しい旨依頼があり、国王陛下は仏舎利をこれらの国々に分与、日本に関しては宗派を特定しない日本のすべての仏教徒に対する贈り物としてお分けになられたのです。日本仏教各宗管長は御真骨を自国に持ち帰るためにバンコクに使節団を派遣、1900年6月15日にチュラーロンコーン国王陛下より御真骨を拝受、御真骨奉安のための寺院を超宗派で建立することをお約束申し上げたところ、御本尊にと釈尊金銅仏及び建立費の一部を下賜されました。この釈尊金銅仏は大変美しくまた伝統あるもので、当時のタイ国にとって重要な芸術品のひとつでした。

使節団がタイ国から帰国後、仏教各宗派の代表と協議した結果、名古屋市民の要望が強かったことから名古屋に新寺院及び奉安塔を建立することになりました。そして、タイと日本の友好を象徴する日泰寺が1904年11月15日に名古屋(現在の愛知県名古屋市千種区法王町1-1)に誕生しました。釈尊御真骨を安置する奉安塔は、東京大学伊東忠太教授の設計により1918年に完成しました。この奉安塔は伊東教授の代表作となり、後々日本国内で壮麗な仏教建築と賛辞を受けることになります。

タイ国から拝受した釈尊金銅仏を安置する新しい本堂は1984年に完成しました。プミポン・アドゥンヤデート国王陛下にこの新本堂の完成を御報告申し上げたところ、金銅釈迦如来像と直筆の勅額一面を下賜されました。勅額にはタイ文字で「釈迦牟尼仏」と記され、両脇にはそれぞれプミポン国王陛下とチュラーロンコーン大王の御紋章が刻まれており、現在は本堂外陣正面に掲げられています。

その名が「日本とタイの寺院」という意味を持つ日泰寺は、二国間の良好な関係を表す寺院であり、いずれの宗派にも属していない単立寺院であって、その運営に当たっては現在19宗派の管長が輪番制により3年交代で住職を務めるという、日本でも特異な仏教寺院です。日泰寺は、チュラーロンコーン大王が日本人仏教徒のためにと釈尊の御真骨と釈尊金銅仏を下賜されたことから建立された寺院で、タイ国にとても近い存在です。

特にタイ国王室との関係は特別なものがあり、王族の方々が幾度となく訪れていらっしゃいます。1931年、訪日中でいらっしゃったプラチャティポック国王陛下(ラマ7世)とラムパイパンニー王妃陛下が日泰寺を御参詣され、1963年にはプミポン・アドゥンヤデート国王陛下、シリキット王妃陛下も御参詣されました。また、日・タイ修好百周年に当たる1987年、日泰寺は本堂前にチュラーロンコーン大王像を建立、同年9月27日の祝賀法要にはワチラロンコーン皇太子殿下に御臨席を賜り、銅像の除幕式を執り行いました。

毎年10月23日のチュラーロンコーン大王記念日には、タイ政府関係者及び在日タイ人が、大王の慈悲深い御心を今一度思い起こすために献花に伺っております。日泰寺は、2000年6月15日にチュラーロンコーン大王からの釈尊御真骨及び釈尊金銅仏拝受百周年を祝い、また2004年11月15日には建立百年記念法要を行いました。」とある。

山門には、左側にお釈迦様の第一の弟子であった迦葉尊者像が、右側には20年あまりお釈迦様の侍者であった阿難尊者像が祀られる。鐘楼にはタイ文字が刻まれている。五重塔は、高さ30メートルある。本堂前にはお釈迦様の真骨を寄贈して下さったタイ国王チュラロンコン皇帝像があり、その隣には左右に象の像がある。

本堂内には、現タイブミポン国王より贈られた勅額でタイ文字で「釈迦牟尼仏」とあり、明治33年釈迦の真骨と共にチュラロンコン陛下から贈られた一千年を経ていると言われるタイ国宝の金銅仏が本尊として祀られている。なお、釈迦の真骨は、奉安塔の中に安置されている。境内から少し離れた東側の広大な墓地内にあり、大正7年に建てられた。伊東忠太教授によりガンダーラ様式を模して設計された。残念ながら創建時の伽藍は昭和20年空襲で全焼し、本堂は昭和59年、五重塔は平成9年、山門は昭和61年建立。


甚目寺(じもくじ)

甚目寺は、愛知県あま市にある、真言宗智山派の寺院である。正式名称は鳳凰山甚目寺。伝承によれば、推古天皇5年(597)伊勢の漁師である甚目龍麻呂が漁をしていた折、当時海であったこの地付近で観音像が網にかかり、その観音像を近くの砂浜にお堂をたてお祀りしたのが最初という。この観音像は、敏達天皇14年(585)に、物部守屋によって海に投げられた3体の仏像のうち1体(聖観音)といわれている。残りの2体のうち、阿弥陀如来は善光寺、勢至菩薩は安楽寺(太宰府天満宮)に祀られている御像だといい伝えられている。

龍麻呂は、自らの氏をもって「はだめでら」と名づけたお堂をたて「波陀米泥良」と表記したが、中世頃「甚目寺」と書くようになったという。天智天皇が病気になったとき、甚目寺で祈祷して快癒したことから勅願寺となり、天武天皇7年(679)伽藍が整備され、鳳凰山の山号を賜った。その後何度も地震等、衰退と復興を繰り返している。天正18年(1590)、また地震に罹災し、その際に復興したとき、大和国長谷寺の伽藍をまねたという。

このとき、本堂再建、仁王門の大規模な修繕がなされた。織田信長や徳川家康の保護を受けて繁栄した。寛永4年(1627)、三重塔の再建。正保年間(1644年)に、また仁王門の修理が行われている。明治6年(1873)7月19日、火災により本堂が全焼、仮本堂を建築。さらに、明治24年(1891)濃尾地震で造営物が倒壊した。平成4年(1992)に現本堂再建。

本尊は聖観音。通称「甚目寺観音」で、正式名称より通称で呼ばれるという。高さ一尺一寸五分の秘仏であり、50年に1回開帳する。前立である十一面観音の胎内仏である。東海三十六不動尊霊場第五番札所。尾張三十三観音第十六番札所。尾張四観音の一つである。名古屋城から見て丁(亥と子の間)の方角にあり、丁壬の方角が恵方にあたる年(丁ひのと・壬みずのえの年、最近では2007、2012)の節分は、大変賑わう。

南大門、三重塔、東門が重要文化財(国指定)に指定されている。南大門 は、建久7年(1196)再建。仁王門ともいい、仁王(金剛力士)像を安置する。三重塔は寛永4年(1627)再建。高さ25m。吉田半十郎の寄進による。東門は寛永11年(1634)再建。このほか重文として、絹本著色不動尊像。絹本著色仏涅槃図を所蔵する。

その他の文化財(県指定)として、木造愛染明王坐像(鎌倉時代作)木造金剛力士(仁王)像(鎌倉時代、寺伝に運慶作というが実際の作者は不明)梵鐘(鎌倉時代作、建武四年(1204年)三月廿日の銘がある) また鎮守社として、式内社の漆部神社(ぬりべじんじゃ)があるが、神仏分離令の後、境内を分けて今日に至っている。

以上で参拝する四か寺の解説を終えるが、奇しくも二年前には九州太宰府にも参詣し、昨年は善光寺に参った。こうして甚目寺観音を拝することで、日本に仏教が伝来したときに伝わったと言われる三体の仏像すべてを参拝することになる。日本の古寺巡りシリーズは、正に仏教伝来の古に遡ってその行程をたどっているような旅であるとつくづく感じる。今回は更にお釈迦様の真骨を祀る日泰寺にも参れる。今回も誠に意義深い古寺巡りになることであろう。

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いま、この国を思う

2010年06月04日 14時19分55秒 | 時事問題

鳩山首相の突然の退陣表明から二日が経過した。なぜこうなってしまったのか。暗澹たる気持ちが拭えない。昨年の夏、あれほど国民の支持を得て成し遂げた初めての本格的政権交代。満を持して政治の舵取りをしてくれるものと大いに期待していた。それなのにその後の経過は誠に残念でならない。安倍、福田、麻生政権に続き短期政権に終わってしまった。こうも日本の政治が長続きしないのはなぜなのか。誠に嘆かわしく思う。

それまでの政権は国民の付託を得ていないということもあろうが今回の鳩山政権は衆議院の総選挙で文句なしの大勝利のもとでの本格政権であっただけに惜しまれる。もちろんまだ民主党中心の政治は続くものの一つの政権が滅びたことには違いがない。新聞、テレビ、週刊誌は、昨年末には既に辞職という言葉まで登場して鳩山おろしに専念したかのような報道が目立った。国民がこぞって声援した政治家、それをもとにする政府を正当にその政策立案の業績を評価の対象ともせずに、まるで重箱の角をつつくような仕方で些細なことをスキャンダラスにまくし立て批判し、こけおろし、微罪を極悪非道の所行の如くに誹謗を繰り返す。

意味のない世論調査を繰り返し、あたかも国民総意で支持しないということを喧伝する。政治と金の問題では、検察からのリークをあからさまにして、何の後ろめたさも見せない厚顔無恥ぶりで居直る。国民の代表を、期待を集める政府を侮り、侮蔑し、あたかも能力が劣るとの報道を繰り返し、自国の政府を貶めるということの意味をも理解しない者たちは、単なる亡国論者、国を安く見積もって身売りせんがための所行とも言える。なぜ悪口しか書けないのだろうか。前政権までの官房機密費の使途をめぐって、マスコミ関係者に有利な言論形成に使われたとする事実が出てきても全く反省の色も見せないジャーナリズムのあり方こそ質されるべきではないか。

普天間問題では鳩山首相にはかなりの圧力があったことと拝察します。在韓米軍の撤退を表明した韓国の前大統領は非業の死を遂げた。ポーランドの首脳はなぜか航空機事故で多く死せねばならなかった。タイは全くの混迷の状態に置かれて久しい。中川元財務相はなぜ死ななくてはならなかったのか。先頃の韓国哨戒艦沈没事故の影響も拭えない。国益を第一に押し切ろうとするところにこうした思わぬ死がともなう。この世の中のあり方に愕然とする。

鳩山首相の所信表明演説、また、施政方針演説の全文を私は読んだ。これまでの官僚の作文を朗読した歴代首相の演説に比べ、そこにはご自身の心があるように思われた。政治は理想と現実の綱渡りであろう。理想も語れないのなら政治家になる資格はない。官僚主導から政治主導へ。従米からの脱却。生活者第一の予算編成。無駄の削減。 惜しむらくはそれを現実のものとするためのスタッフ、技法にすぐれなかったことであろう。ないしは、それを阻止せんがための大国に巣くう管理者たち、その威を借りこの国の中でその利権のために暗躍する名士と言われる各界の人々、その中には官僚も司法検察もマスコミも含まれるであろう、それらの人たちの長年のネットワークを打ち破るのはやはり並大抵のことではなかったということであろう。

政治なんか誰がやっても一緒という観念を植え付け、政治に無関心を決め込む国民が多ければ多いほど彼らにとって都合が良く、どれだけ無駄な税金の使い方をしても、他国に流れてもお咎めなしの体制を作ってきた。昨年の総選挙で今度こそと思って政治を変えようと思った人たちが、これで落胆し、また傍観を決め込むことだけはあってはならない。この度の鳩山首相の退陣はどのような背景から早期退陣に至ってしまったのかと疑問に感じ、新聞、テレビの報道を鵜呑みにせずその背後を読み取り、日本を一つの国家として、あるべき姿に改革していくために今後も関心を持続することが、何よりも日本国に住む者の勤めなのではないかと思う。

仏教では四恩の教えを説く。父母、衆生、国王、三宝の四つに生まれながらに私たちは恩を感じるべきであるという。国王に対する恩、国を守り人々の生命と財産を守る国王に私たちは恩義がある。それが誰を指すものかと言えば実質的なこの国の最高権力者ということになろう。目に見えない、この国にあるものかも分からない者を国王とするわけにはいかない。私たちにとっての国王を私たち自身が守る必要がある。本当に国民のために国を思う政治家をこれからも応援したいと私は思う。

 

追記 

なお、日本の政治に関して『中央公論』4月号に掲載されたカレル・ヴァン・ウォルフレン氏の論文「日本政治再生を巡る権力闘争の謎」を是非ご一読願いたい。

http://seiji.yahoo.co.jp/column/article/detail/20100319-01-0501.html

 

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〈日本の古寺めぐりシリーズ番外編その3〉名古屋の名刹を巡る・真福寺、興正寺、日泰寺、甚目寺

2010年06月03日 19時53分03秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
今月14日15日と日本の古寺めぐりシリーズ番外編第3弾として、名古屋の古刹に参詣する。昨年はこの時期長野善光寺の御開帳にお参りしたことを思い出す。今回はそのルートを少し手前で東海方面に歩を進める。大阪と東京の中間ということもあり、素通りしがちなため改めて参詣に訪れるということもなかった土地ではないだろうか。しかしこの度調べを進めることで、奈良や筑紫に匹敵する古いお寺があることに改めて気づかされた。

真福寺のある岡崎市は、肥沃な平野部に古くから人が生活していた土地柄で、戦国時代には松平氏が力を蓄え、江戸時代には徳川家康の生誕地とされて別格に扱われ、岡崎藩として、岡崎宿、藤川宿と二つの宿場町としても栄えた。朝の連続テレビ小説「純情きらり」の舞台としても知られる。また興正寺と日泰寺のある名古屋市は、1620年に家康が築城を命じて徳川義忠が入城したのが起源だという。名古屋城の目的は大阪方の防止で、名古屋台地と言われる台地にあり、城下町は京都や奈良のように碁盤割りで、熱田神宮大須観音などが名古屋の中心本町筋にある。また甚目寺のある、あま市は名古屋市の西に位置し、今年3月に甚目寺町と美和町、七宝町が合併して出来た新しい市で、もとの甚目寺町は甚目寺の門前町として栄えた土地であろう。

真福寺

真福寺は、岡崎市真福寺町字薬師山というところにあり、正式名を霊鷲山降劒院真福寺という。天台宗のお寺。公式ホームページの由緒には、「推古天皇二年(594)物部の守屋の次男真福(まさち)が山の頂きより霊光かがやき端雲たなびくをみて不思議に思い訪れたところ、滾々と湧き出る泉を発見した。しばしたたずんでおられた真福は日頃信仰しておられた薬師如来が水中より顕れ出られ、(是好良薬今留在此)と誦して再び泉の中に姿を消された。これを目の当たりにして非常に感激し末代まで伝えようとして本堂を建立したのが真福寺の始まりである。鎌倉時代には最も栄え、36坊の末寺を有した。現在は、身体健康と目のお薬師様として愛知県下はもとより全国より多くの信仰を集めています。」とある。

物部の真福の本願により、聖徳太子が建立した、三河国最古の寺院である。仁王門には、大きな寺名の入った扁額がかかっている。「霊鷲山真福寺」とある。霊鷲山(りょうじゅせん)とは、インドのラージギールにある山の名前で、沢山の大乗経典を説法された場所として知られる。仁王門は、応永十七年(1410)に焼失後、明応三年(1494)に再興されたものである。仁王像は永正十二年(1515)に建立され、 3mを超える巨像である。山門横には小さな地蔵堂と千手観音堂がある。

山門を登ると開山堂が見えてくる。開山、真福長者は毘沙門天の化身といわれ、堂内に本尊として毘沙門天がお祀りしてあるため、毘沙門堂と表記されている。本尊は室町初期のものである(文化財指定)。本堂へ上がる石段前に小さな木造の多宝塔がある。塔中に釈迦、多宝如来の二仏が同座する。多宝如来は東方宝浄世界の教主、総ケヤキ造りで屋根は檜皮葺。室町初期建立。そこから石段を上がると本堂、本堂の中心に八角の御堂があり、 その中の井戸の水が水の体の薬師、水体薬師といい、本尊なのだという。 この水が目と身体に大変良いということから 1400年以来、水の信仰がつづいている。

本堂の上に大師堂があり、慈恵大師・元三大師とも、平安中期の天台宗の中興の祖とも言われる良源を祀っている。荒廃した比叡山を厳格な規律を作り復興、門下三千人とも称せられ、後に源信・覚雲によって恵檀二流に発展して天台教学の最隆盛期をもたらした。慈恵大師像は、文永十一年(1274)鎌倉中期の春快作であり、 建物もこの年に建立されたものである。

本堂から回廊で行ける鐘楼堂や庫裏、八坂神社、信徒会館などがある。また、山の西側には金蔵院という塔頭があり、もとは六ヶ寺の下寺があり真福寺を中心として一山をなしていたが、廃仏毀釈の時に 真福寺、金蔵院を残し、後は潰されたのだという。 現在では真福寺営繕事務所となっている。また寺宝は菩提樹館という宝物観に展示されており、重要文化財の白鳳時代の仏頭などがある。仁平元年(1151)に火事にみまわれ、 その時にかろうじて持ち出したものといわれ、県内最古のもの。

興正寺

興正寺は、尾張藩城下から信州飯田へ延びる飯田街道沿いの八事村に約三百年前に開かれたお寺で、八事山(やごとさん)遍照院興正律寺が正式名称。開山の天瑞円照和上は、承応年間(1652~1654)に大阪難波に生まれ、武蔵の国で出家後、山城の黄檗山万福寺で修行の後、真言宗の江戸時代における戒律復興の系譜にある快圓律師を摂津地蔵寺に訪ね、和泉の大鳥山に真政和尚から律を学び戒を受け、生駒山で密教を学び、高野山にいたり、法雲和尚から弘法大師の五鈷杵を授かった。そして、当時親族の居た当地にいたり、尾張徳川二代光友公によって、鎌倉時代の興正菩薩叡尊の法流にあるとのことから興正寺として寺号を賜り元禄元年に律寺建立が許可された。

光友公の帰依によって今日ある伽藍がほぼこの時代に出来上がっていく。大日堂に安置される丈六金銅大日如来は、光友公の発願によって造られ、元禄十年4月17日に開眼され三日三晩供養されたという。こうして興正寺は戒律を重視した学問修行の寺として隆盛し、五代諦忍和尚の時、西山阿弥陀堂を建立して阿弥陀如来を祀り庶民のための信仰の地として浄土信仰を開いた。諦忍は、華厳、律、法華、浄土念仏などを広く研究し、多くの独創的な書を著し、天下に知られ多くの僧が来山したという。その愛弟子真隆の代に一文講を発願して浄財を集め今の五重塔を建立した。

境内は西山普門院と東山遍照院に分かれ、普門院は一般参詣者のための境内で、東山は本来僧侶の修行場である。総門は、元禄十年、七世真隆和上の時代に再建された。参道は、右側が勝軍地蔵など六地蔵と弘法大師、左側は七観音を祀る。その先には中門、かつて西山と東山の間にあって、女人禁制の時代の結界として女人門と言われた。五重塔は、県下唯一の木造塔、国の重文、文化五年に建立、高さ30メートル。観音堂には、開山時の二代尾張藩主光友公が参勤交代の際に念持仏として持参された慈覚大師円仁作の観音像が祀られているる。

正面には普門園として一区画があり、本堂ほか大書院や茶室、座禅堂、位牌堂、信徒会館などがある。本堂は、五代諦忍和尚が真言念仏の教えによる大衆教化のために寛延三年(1750)に建立、本尊阿弥陀如来、大随求明王、不動明王、愛染明王、文殊菩薩、弘法大師、などが祀られている。

東山門は、名古屋城から宝永年間に移築された物、奥の院には、興教大師作不動明王を祀る護摩堂があり、その隣に阿弥陀堂として元禄三年に建立された東山本堂、その先に石清水八幡宮を勧請した鎮守社があり、その西側に、開山堂、弘法大師、開山の天瑞円照和上、興正菩薩を祀る。その隣に大日堂、山内で一番高いところにあり、元禄十年に光友公の母の供養のために鋳造された高さ3.6メートル重さ2トンの大日如来像が安置されている。

葵の御紋を寺門とする興正寺は、今も研修僧を受け入れるなど単なる信仰の寺としてではない本山に匹敵する学問修行の寺としてあり、だからこそ、縁日には毎月5万人もの人が詰めかけるのであろう。現在は高野山真言宗の別格本山である。因みに別格本山には、かつて参詣した那谷寺、周防國分寺があり、ほかに神護寺や大安寺などがある。つまり大寺の証明である。

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木村泰賢博士の『原始仏教思想論』(第二篇第四章「業と輪廻」)を概説し、業と輪廻の正論を学ぶ-1

2010年06月01日 19時58分20秒 | 仏教書探訪
一、仏教教理上における輪廻観の意義

私たちの生活は、お釈迦様に言わせれば、決してこの人生一度のものではなくて、業の力によって、無始無終に相続していくものだという。その業の性質に応じて死後種々の境遇、様々な生命として生を受けるが、これを業による輪廻と名付ける。

この輪廻説は、もちろん仏教から始まったものではなくて、ヴェーダ時代の終期からウパニシャッド時代にいたり有我論と相まって完成し、お釈迦様の時代には一般に認められる人生観となっていた。つまり死後霊魂の相続を説明するのに、自我という鉄砲玉が業という火薬によって一定の場所に行き、さらにそれより新たな火薬によって余所に送られるのが霊魂不滅に基づく輪廻説である。

この一般的な教理を受け入れてお釈迦様が法を説いたがために、仏教に本来あるべきものではないこの輪廻説なるものが混在したと見る人々がいる。しかし、お釈迦様が因縁所生なる生命なるが故に無我なりとされたにもかかわらず、なおかつこの業論輪廻論を認めたのには深い訳あってのことであろう。お釈迦様は実践的方面からのみこれを説くのであって、この輪廻説業説は、仏教の人生観上最も重要なる意義を帯びるものであって、これを離れては人生の種々なる相を説明することも出来なければ、その理想の帰結をも明らかにすることは出来ない。

しかるに、この無我説と業説とをいかに調和すべきかは、昔より仏教学における一大重要問題であって、これを中心として種々の教理を展開するに至っている。しかしこれは、無我ということをあまりに機械的に解するからであって、もしも、このお釈迦様の生命観を正当に理解するならば、かえって、業説輪廻説は、仏教において初めて真の哲学的意義を帯びることになったことを見いだすことが出来るであろう。

二、死後相続に関する概観

私たちは生まれると死ぬまで様々に活動し、止むことがない。肉体的には暖かく常に出入息があり、心理的には意識がある。一定の時期が来て寿命が終えると肉体は解体する。これも業の作用として然るべくあると見ることができるのであり、生あるもの必ず滅するのが法として定まれる運命である。しかしお釈迦様の教えに従うならば、その生命は絶滅し去るものではなく、意識的な活動は五根(眼・耳・鼻・舌・身)の破壊に伴い休止するが、生きようとする根本意志、すなわち無明は生前の経験・業をその性格として刻みつけて継続する。

この性格は五蘊(色・受・想・行・識)となる可能性を持ち、自らを特定の生命体に実現する力を有する。しかしこの段階で、空間的存在としてどこかに何らかの形をもってさまよっているかに解することは誤りである。身を離れ一切の意識作用を根本意志に収斂した生命である輪廻の主体は四次元の範疇に属するものと言える。後に中有身説が起こるが、これは通俗化の結果であり、本来は空間的存在として計れるものではない。

そして、その業の創造力が自らを実現せんがために、その生命の生まれ方により胎生、卵生、湿性、化生とある中で、胎生について述べるならば、男女の和合あり、その男女とガンダッバが三事和合することによって托胎の現象が起こる。ガンダッバとは神話的名称に名を借りて輪廻再生を実現化させようとする生命を繋ぐ無意識の識を意味するものであり、実際に識と表記されることもある。男女の和合を縁としてこの識が自らを胎生としての生命が再生する。そして一つの灯りが他の灯りに移るが如くに、前生の五蘊を変化的に継承して心身組織が現実化する。

しかし普通私たちには前生の記憶はない。なぜならば、お釈迦様によれば生命の本質は知識ではなく意志であるからであり、知識に伴う記憶は再生とともに滅するからである。長部経典中『大縁経』には、托胎をもって識が母胎に入るとされるが、この場合の識は生命の異名に他ならないので、意識そのものを指すのではない。いわゆる自我意識からの「識」ではないとすれば、前世の記憶がないのは当然のこととなる。お釈迦様はブッダとなってその宿命通よりして自他の過去世を知られることとなったわけで、それを普通人のなし得るのと考え、前世の記憶がないからと輪廻の有無を論じることは、仏教の本来の立場と添わないと言えよう。

三、特に業の本質について

業の本質は輪廻論の中心問題であるので、生命観に立ち戻って論じる。その場合、仏教の生命観とは五蘊の集積であると見るのはお釈迦様の業観を理解する第一歩ではあるが、その五蘊である心身を統一する原理は、表面的にはその中の「識」であり、その「識」を統一するのは「行」、特にそのうちの心的作用である意志である。お釈迦様はこの意志が「識」を統一する経過をもって人格が形成されると考えられた。生命の営む身口意による行為によって、それが心身の組織全体に影響しその意志が性格づけられるのであり、業とは、この意志の習慣づけられた性格を指す。

これを無始からの過去から今に至る私たちに当てはめて考えるならば、過去の経験の集積されたもの、つまりその業に応じ、無意識ながらも私たちの性格は形成されていると考えられる。それによって自らの生命活動があり、それがまた新しい経験としてその性格を変化させつつ、また未来の行為を規定すると考えるのである。それを無限に相続するのがいわゆる輪廻であり、その性格とそれに応じた自己の創造との間にある必然的な規定のことを業による因果というのである。

つまり生命の方向は業によって規定され、また新しい経験によって刻々と新規に業を自身に刻み、古きものともどもにその全体ないし一部が日々の活動の内容および働きを規定して、無限の複雑さを極めながらも、その間に整然たる規律があり、連続流動するというのがすなわち業による輪廻論の真髄である。これが有我論者の輪廻説との違いであり、有我論者は業とは固定した生命の境に運ばれていく原動力と捉えるが、仏教では、絶えず変化しながらすべての経験を自己に収めて、それを原動力として続く創造的進化と考える。ここにいたって、つまりお釈迦様の新たなる定義によって、まさに業論輪廻論は真に哲学的意義を帯びるに至ったと言えるのである。 つづく


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