一回目の遍路の時は、ゆっくりと大寶寺での読経を済ませ、昼過ぎに次の岩屋寺へ向けて歩く。距離は8キロとある。夕方までには十分な時間があると思って、のんきに歩き出した。門前の来た道に出ると、その前からすぐに遍路道は山道に入るように矢印がある。迷わず獣道のような細い道を上がる。アスファルトの道よりも足には心地良い。車も横を通らないので気ままに歩けるのもありがたい。
「まむしに注意」という看板があった。山と言うよりも、長く続く丘の中腹を通る道が続く。ハイキングコースのような快適な道だ。右側には何か福祉施設のような大きな建物が見える。ずっとその道を進んでいくと、車道に出た。住吉神社や久万高原ふるさと旅行村という施設の看板が目にはいる。それからまた山道にはいる。
今度は鬱蒼とした木々の間に大きな岩が散在する道が続いていた。登ったり降りたりを繰り返していたら、岩の裂け目の上に鉄の鎖で上に登れるような行場があった。これは弘法大師の行場として知られる「逼割禅定」と言い、岩の頂には白山権現が祀られている。
そこからさらに300メートルほど下ると、岩屋寺の門があり、大師堂が100メートルはあろうかという大岩壁の下に建っているのが見えてくる。その前を通り、隣に建つ本堂へ。岩屋寺のあるこの山中には、昔法華仙人と言われる神通力を持つ女人が住んでいたそうだ。弘仁六年(815)に弘法大師が訪れると、仙人は大師に帰依し、この地を献じて大往生を遂げたという。大師は不動明王像を木と石で刻み、木像を本堂の本尊にして、石像は山の岩石に封じ山全体を本尊にしたと伝承される。
この岩山にかかる雲を海に見立てて海岸山岩屋寺と名付けられた。岩壁にくくりつけられたような本堂前で理趣経を唱え、大師堂に参る。よく見ると大師堂はどことなく変わっている。向拝の柱が二本一組でその上部にはバラの花から綱が下がっているし、手すりの柱には優勝カップのような飾りがあり、四隅の柱には波形の装飾がある。後から調べたら、焼失後大正九年に再建する際に、地元出身で国会議事堂建築の際の技師を務めた河口庄一氏が手がけたものと分かった。和風の骨格の中に西洋のモチーフがちりばめられた、他に例を見ない稀有な文化財と言えるようだ。国の重文に最近指定されている。
本堂の下から弘法大師が彫った霊水が沸いており、その水をすすっていると事務所から声を掛けられた。「歩いてお越しなさったのでしょう。通夜堂がありますよ」こんなことは初めてだった。札所の方からこんなお声を掛けて下さるとは。本堂の下の段に古ぼけたモルタルの通夜堂があった。中は六畳ほどの部屋が廊下づたいに並ぶ二階建ての建物だった。ありがたいことではあるが、ただ泊まるだけのお接待なので食べるものに困った。聞くと参道下の店がまだ開いているでしょうとのことだった。
早速、バスで巡る遍路さんにとって八十八カ所のうちで最も難所と言われる所以の岩屋寺の石段の参道を往復することになった。だんだんと夕刻に近づき、暗くなりかかっていた。下に降りていくと、土産物屋があり、直瀬川に架かる橋を渡る。小椋屋さんというよろず屋に入る。何かご飯ものをと探していると、店の奥さんが出てこられて、「岩屋寺にお泊まりになるのかいな、じゃ何か用意してあげようね」そんなことを言われたかと思うと奥に入り、しばらくすると大きなパックに沢山のご飯を詰めておかずまで沢山のせて、「お接待よ」と下さった。ありがたく頂戴する。
石段を登り、通夜堂に向かう。小さなガスストーブを付けて温まりながらご飯を食べる。混ぜご飯にタケノコ、里芋、厚揚げ。おいしい。ご飯を食べながら、しみじみご恩を頂いていることを思う。食べていたら、お寺の奥さんが、饅頭とリンゴと夏みかんを持ってきて下さった。ありがたい奥さんだと思った。
この日は山越えの道が続いたせいか、膝がガクガクする。二三日前から右の膝の外側を押すと痛みが走る。左の草鞋の後ろ側が切れたので履き替えることにした。気になりつつ歩いていたのでマメが出来るかと思われたが大丈夫だったようだ。大きな通夜堂にその日はたった一人、風呂もないトイレだけの宿で横になった。
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