住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

お寺って何? 2

2005年04月28日 17時22分59秒 | 仏教に関する様々なお話
私にとっての最初のお寺体験は、東京浅草の浅草寺でバナナかベルトのたたき売りを見たときだろうか。小学校の低学年の頃のこと。今から40年近く前のことになる。浅草寺の境内を沢山の人が通り過ぎる。そのときに、ついでということも無いだろうが、多くの人が本堂に駆け上がって賽銭を投げ、観音様に手を合わせていく。外では、鳩に餌をやっている人もいる。その大変な人混みの中で境内の所々にテキ屋さんが出店していた。

そんな浅草寺の喧噪の中でも、境内の仏像に手を合わせる人がいたり、線香の香りを一生懸命子供にかけてやり健康を祈る子供づれがいたり。また本堂の階段や境内のベンチで座り話をしたり。観光目的で来ている人も多かったのだろう。そんな人々の憩いの場としてお寺があった。それだけの人を寄せる力が浅草寺にはあった。

先般台湾に旅した知人が台湾のお寺も、日長境内の長椅子に座り人々が将棋のようなものをしたり、お茶を飲んだりのんびりしていたと聞いた。お寺とはそんな気楽に出掛けていける雰囲気が欲しいと思う。

四国松山に石手寺という寺がある。ここは四国八十八カ所の中に入っているし遍路の発祥物語にはなくてはならない寺でもある。が、そのことよりもお寺の雰囲気が素晴らしい。道後温泉に近いこともあり観光客もあって独特の雰囲気を醸し出しているのだろうが、とても開放的で、みんな好きかってにしているところが良い。

色々な今風の工夫もあり、古い寺の雰囲気も残されている。昔歩いて遍路したとき、仲店の入り口で托鉢させていただいたが、文句一つ言われなかった。

明治時代には明治の元勲たちが師と仰いだ釈雲照律師の十善会による集まりが、四国ではここ石手寺が会場として提供されていた。戒律に則った僧侶の勉学に、また在家者への仏教流布にと、その頃から熱心だった伝統が今に受け継がれているのだろうと思う。石手寺には今も雲照律師の供養碑が境内に祀られている。つづく

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お寺って何?

2005年04月26日 17時43分18秒 | 仏教に関する様々なお話
普通の家に生まれた者にとって、お寺というのは、お寺の息子が継ぐものだという思い込みがある。だから、私が僧侶になると言い出したとき、母親は全くその真意を測りかねたらしい。会社の同僚たちには、お寺の息子だったの?と問い返された。

しかしこのような事態になったのはここ100年ばかりのことではないだろうか。それまでは普通お寺に女性も居なかったし、子供もいるはずがなかった。いたらそれは小僧としてお寺に預けられた子供だったはずなのだ。

私たちの常識というのはそれだけ簡単に入れ替わってしまうし、それまで普通に思っていたこともすぐに忘れ去られてしまう。明治になって「肉食妻帯これを許す」と言って太政官符が出た。その後それに倣えで、どの宗派も浄土真宗に倣って家族を寺に引き入れた。

これは日本の常識であって、一歩外に出たら、つまりアジアの仏教国で妻帯している仏教寺院はない。抑もの戒律の第一が女性との関係を否定しているわけだから、性的関係さえも犯したら出家ではなくなってしまう。つまり妻帯しなければいいとも限らないことになる。

隠れて女性と関係してしまったら、それだけで「パーリ戒経」(パーティモッカ 波羅提木叉)によれば「四波羅夷法」の第一を犯すことになるので、波羅夷罪となってサンガ・僧団を去らねばならない。そうなると妻帯している私たち日本の僧はみんなサンガを後にしてお寺を後にしなければならなくなる。それが本来の姿なのであろう。

しかし日本の中には誰一人としてそんなことを言う人はいない。日本の社会でお寺の担わされた役割を全うしている限りにおいて急に僧職にあるものが居なくなっても困るということもあろう。それになんと言っても綿々と受け継がれてきた伝統、様々な有形無形の仏教芸術文物の維持継承にはなくてはならない存在なのかも知れない。

私などは強い憧れがあって僧侶になったわけではあるが、憧れるものに才能はないのだという。才能がないから憧れるのだと。だから、抑もお寺に生まれて坊さんになる人というのは持って生まれた才能があるのだと、最近になって思えるようになった。だからこそお寺に生まれたのだと。

みんな自分が選んで、と言うか持っている業・カルマに応じて相応しいところへ、つまり最も自分にあった母親のお腹に生を宿らせると考えるのだから、それも当然なのだろう。だから、お寺に生まれ何の不足もなくお寺に住職出来る人というのは選ばれて生まれ、なるべくしてなったとも言える。最近益々そういう感を強くする。

他の国の僧侶の中には戒律をきちんと守っている人ばかりでも無かろう。妻帯しないからと言ってそれでそのまま称賛されるわけでもない。それなりに自戒堅固学徳兼備の方も多いのは勿論だが、余計なことに時間を奪われ、身近な者のために世間に暮らす人のように思い悩む必要もない。その分、その人にとっての時間を思いのままに仏道のために修行に充てられるメリットはある。

だが、先ほどの生まれ変わりの理論からすれば、そうして他の仏教国で妻帯せず僧侶になって修行ばかりの生活を送れるのも、それだけ清貧に暮らしていける業・カルマを持って生まれたということか。私たちはそれだけのものがなかったと言えばそれまでだが。何とも申し訳なく思うのは私だけであろうか。つづく



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スマナサーラ師の思い出

2005年04月25日 14時46分41秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
十年以上も前のことにはなるが、インドと関わりを持ち、インドの伝統的仏教教団ベンガル仏教会とご縁が出来て、インド僧になった。その比丘になったときの比丘名を、ダンマサーラといった。「法の核心」とでもいう意味。その頃、現在様々なところでご活躍のスマナサーラ師に学ばせていただいており、それと直接のインドの師匠であるダルマパル師の前後をいただいた名となっている。

スマナサーラ師には、インドの比丘になる少し前に、僧侶仲間と共に、その頃まだ方南町のマンションに住まいされているところへお邪魔して数度に亘り随分長時間色々と上座仏教について質問し、感化を受けた。

その一年数ヶ月後、日本に黄色い衣をまとって一時的にインドから戻った際にも南新宿にあった上座仏教修道会のお世話で、師の勉強会に何度も足を運んだ。たまたまその頃茨城県の鹿島の先に修道会の研修施設が出来、そこにスマナサーラ師が住まいされ、そこへも通わせてもらって、お教えを賜った。

同じような袈裟をまとっていても全くその資質が違い、埋め合わせようもない格差に申し訳ない思いを抱いたものだった。その研修所に泊まらせていただいたとき、スマナサーラ師が私と一緒の部屋で寝ると良いことがあるかも知れませんよ、よくスリランカにいる頃は子供たちが自分と寝たがって仕方なかったというようなことを言われた。

どんなことなのかよく分からなかったが、その晩は寝返りもうたずに熟睡できたことだけは良く憶えている。また、朝の瞑想の時間なかなか落ち着いた気持ちになれなかった頃、スマナサーラ師が、一緒にダンマチャッカパバッタナスッタ、転法輪経を唱えてみましょうと言って本を持ってこられ一緒にパーリ語のお経をたどたどしく読んだ。

そして、その後瞑想をしたとき、それまでとは全く違った心の統一感というか、どっしりと地に着いた瞑想が出来、細かい一つ一つのことがはっきりと分かる不思議な感じを味わったことがあった。ヴィパッサナーとはこういう事かとその仏教の瞑想の一端を垣間見る思いがしたものだ。

その後インドに戻り、また阪神大震災のボランティアに出たりと次第に疎遠になり、その後一度だけ日本テーラワーダ協会を結成された頃会にお邪魔したのが最後となった。その後私は日本に復帰してしまい上座仏教の衣を脱いだときにお礼の手紙だけ差し上げた記憶があるが、その後全く不義理にもお便り一つ差し上げていない。

申し訳ない思いのまま今に至っているが、その後先生は、協会での華々しいご活躍に加え様々な書籍を出版されている。一読された方は、これまでの日本の仏教書にない、本当のお釈迦様の教えはこうしたものだったのかとお思いになるのではないだろうか。

まさしく、本当に分かっておられるからこそ優しく分かりやすく書かれている。瞑想実践の裏付け故にその納得感が読まれている人に伝わってくる。是非スマナサーラ師の本を読んで下さることをお勧めする。(最新刊に養老孟司との対談「希望のしくみ」宝島社がある)

私も今日本の寺に住まい住職として役職を全うしている。しかしスマナサーラ師に学んだ仏教の基礎無くして私の仏教理解はあり得なかったと思っている。今もまだ日々学ぶ段階にはあるが、しっかりと基本を身につけさせていただいたお陰で、本筋は間違わずに歩めることを感謝したい。
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隠れ公務員

2005年04月23日 17時35分56秒 | 時事問題
毎朝、朝日新聞に目を通す。この備後地域では、圧倒的に中国新聞が読まれている。その次が朝日新聞ではないか。毎日、読売は余り聞かない。友人に毎日の記者があるので当初毎日新聞を取ってみたが、何ともページ数が心許なく、情報量の多さで今は朝日新聞を購読している。

昨日22日の朝日に、「失速小泉改革-中-増殖する隠れ公務員」と題する記事があった。小泉首相には官僚主導の中央集権の本質を変える気持ちはない。確かに公務員の定員は01年に84万人だったものが、今年3月で、33万人まで減ったという。だが、定員の外側で、独立行政法人、国立大学法人、特殊法人の職員が、計67万人もいるのだそうだ。そしてこの独立法人化によって天下りポストは逆に増えてしまっている。

何のための行政改革であろうか。先だって、外務省の公報だっただろうか、シニア海外ボランティアの募集があった。また、定年後は四国遍路という人も多くなってきたという。そうした定年後の時間を自らの技術を生かし人様のために生きよう、功徳を積んで来世のために生きようとする人が多くなってきたということかもしれない。

そこで、海外シニアボランティアなどというありがたいご提案をなさるのなら、官庁を定年なさる皆様が先んじて、自らその精神を体して事に当たってはいかがかと思う。

つまり、天下るのは良いが、そこで高給高額退職金をもらうのではなく、これまで培ったノウハウをボランティアでお国に恩返ししていただいたらよいのではないか。功成り名遂げた皆様に定年してまでお金のために働いていると世間から思わせるのは大変失礼なことでもある。

財政破綻状態にもかかわらず、国連常任理事国入りのためにさらに海外に沢山のお金を必要としているようだ。これから貧しい国民にも重税が予想されているのだから、是非とも官僚の皆様にも国民に強いるだけでなく、ボランティア精神を大いに発揚していただいて、無給ないし必要経費のみにて特殊法人などへ天下っていただく制度を作っていただくべきではないかと思う。

何を詰まらぬ事を。一人愚痴ていろと思われる方も多かろう。しかし、こうしてこれを読んで共鳴してくださる方があれば、次第にそうした雰囲気が出来上がろう。そして、そうした声が上がってきて、当たり前になってこなければ何一つ先に進まない。

つまりは、私たち一人一人が様々なことに知悉して考え、共鳴していかなければ世の中は変わらないのではないか。新聞テレビマスコミの情報を鵜呑みにすることなく、その先に一人一人がものを考え意見を持つことが大切なのではないか。

昔インドの列車で夜中に乗り合わせた人たちが大声で政府の乱暴な施政方針を非難し合い、ときに反駁し様々な情報を口角泡を飛ばして言い合っていた光景を思い出す。お陰で既に横になっていた私は睡眠時間をかなり制限されてしまったのだが。それでも日本ではまずお目にかかれない光景を、つまり興奮して自分たちの生活のことを真剣に論じ合う人々を羨ましく思えた。

私たち自身が変わらなければ何も変わらないことだけは確かなのだと思う。

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しあわせですか

2005年04月21日 19時03分14秒 | 様々な出来事について
18日朝7時50分発東京行きに乗り、9時羽田着。京浜急行と地下鉄を乗り継ぎ、10時半には西早稲田の放生寺に到着しました。この度は平成の大改修にあたり、戦後間もなくに造られた庫裏が跡形もなく壊され、ただ広い空間だけが取り残されたように広がっていました。

午後2時頃より多くの参詣者の見守る中、僧侶方が本堂に入堂着座。ご開帳された本尊様に散華、対揚、讃と読経が進み、中央の護摩壇ではご住職が観音菩薩護摩法を修法。沢山のお申込された御祈願を祈念されました。読経の後、「南無大師遍照金剛」と唱和しながら本堂に布かれた四国八十八カ所のお砂踏みをし、参会者一同心満たされる法悦の中、今年も開帳法会を終えました。

片付けの後の慰労会で印象に残ったのは、私と一緒にかつて修行生活を送ったK師が、時流に乗り遅れパソコンも携帯も持っていないこと使えないことに焦りを感じると話だしたことでした。一同驚きを隠せませんでした。というのも、三重の山奥のお堂で、すがすがしく修行に励むK師を誰もが羨望していたからでもあります。

放生寺を後にして地下鉄に乗っていると、乗客の誰もが時流に乗り遅れまい、勝ち組に入りたい、幸せになりたいと叫んでいるように感じました。流行の服を着て、みんな同じ様な顔をして、必死に勉強して。

ですが、時流に乗り遅れまい、幸せになりたいと思うことは、今の自分はその理想の状態にはない、満たされていない、幸せでないことを認めていることになるのではないでしょうか。幸せになりたいと思う度に自分は不幸せだと自己暗示に掛けていることになるのかも知れません。

昔ある人の講演で、松下幸之助氏が創生期に会社を立派にするためには運のいい人を採用せねばと考え、それを人事課に指示したそうです。すると人事課ではどうやって運のいい人を発掘したらいいのか途方に暮れてしまった。そこで、幸之助氏に尋ねると、その人本人に聞きなはれ、と言われたと言います。

自分で運が良いと思う人は、何か悪いことがあっても次には良くなると思う。しかし運が悪いと思う人は、何か良いことがあっても隣はもっと良いと思ってしまう。運が良いと思っている人は自然と人が周りに集まり、物事が好転する。積極的に様々なことにチャレンジできる。自分の思い一つだということになります。

パーリ経典の中でも有名な吉祥経には、年齢と共になすべきことをしっかりと坦々とこなしていき、何ものにも束縛されない心の安らぎこそがこよなき幸せであるとある。
また報恩と題する経典には、恩を知り恵みに気づくことこそが、まことある人、善なる人の立場であるとある。

私たちのすべきことは、時流に乗り遅れまい、幸せになりたいと思うことではなく、前回述べたように、偶然ではなく、あらゆる事の原因と結果の積み重ねの必然として今ある恵みを知り、ただ坦々と生きることこそが大切なのではないか。つまりは自分は運が良いのだと思えることこそが大事なのではないか・・・。

19日夕刻、そんなことをあれこれ考えつつ、初夏を思わせる陽気の広島空港に降り立ちました。
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放生寺へまいります

2005年04月17日 18時50分13秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
明日朝一番の飛行機で東京に行き、早稲田の高野山真言宗準別格本山光松山放生寺ご開帳法会に出仕します。

放生寺は、放生会寺というのが正式名で、徳川三代将軍家光公が鷹狩りの際立ち寄り、放生会を盛大に行っていることをお聞きになり寺号を定め、葵の御紋を寺紋とすることを許し、徳川宗家の祈願寺の一つとされた由緒あるお寺です。

私が坊さんになりたくて訪ねていったお坊さんがこの放生寺のお弟子さんで、以来お世話になり、高野山から戻った際には2年ほど役僧として住み込んだお寺でもあります。

実は、このお寺の向かえに早稲田大学文学部の門があるのですが、私が大学2年生の秋、早稲田祭の晩に高校時代の友達2人とその門前で待ち合わせ、その晩四方山話に花を咲かせている内に、私はなぜか、何か東洋の思想を学びたくなり、その後手にしたお釈迦様の本がきっかけで仏教の道を歩むことになりました。

そのことを高野山で一年間の専修学院という僧侶養成期間を終えて戻り、役僧として放生寺の本堂の床を拭いていたとき、その7年も前のことに気付き、その場所が自分にとってとても意味のある場所であったと知りました。そして、正にその時、仏教でいう縁起ということが実感として一瞬のうちに閃き明らかになりました。

それからしばらくの間、全てのことがみんなとても有り難く思え、全てのことが今のこの一瞬に結実している。全ての物事の因と縁の織りなす交差点として今その時にその場がある。そのことが正にあるべくしてある。偶然なんていうことはあり得ない。全てのことがあるべくしてそこに存在し現象しているということが分かりました。

その後物わかりの良いご住職のお陰で翌年インドに行き、その数年後には、インド僧として日本で過ごす間居候をさせていただいたりと、この放生寺さんのお陰で私の今があります。そのありがたい観音様のご開帳に明日まいります。その様子は、また後ほど。
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法事とは

2005年04月16日 14時51分01秒 | 仏教に関する様々なお話
先ほど小さな法事から戻りました。施主宅でお経を唱え、少々雑談して、お墓参りだけ済まし帰ってまいりました。

小さなと申しますのは、この辺りでは、法事というのは普通半日ほどかかるのです。法事をする家へまいり、10時からお経を一人で30分ほど唱えてから、参会者一同で仏前勤行次第を唱えます。それからお墓参りに行き、檀那寺にお詣りします。客殿でお茶を接待してから、本堂でお経を唱えます。そして、もう一度法事の施主宅に戻って親族ご一同と共に、お斎をご馳走になるのです。

様々時節の話をしながら食事をいただいていると大体2時頃になり、失礼します。最近では飲酒運転がやかましくなったせいで、お酒を飲まないどなたかがお寺まで送って下さることが多くなりました。そして夕方になってお膳の残したものをパックに入れ、その他粗供養の品々を沢山お持ちになります。

誠に念が入っているという感じが致します。お酒が付きものという誠に日本的な風習を除けば誠に本来あるべき姿なのだと思います。

東京などでは、お寺でお経を唱えて、お墓へ参りおしまいという簡単な法事が主流となっています。その後のお斎の席にはお寺さんを呼ばず、親戚だけで済ますという本来からすれば本末転倒と思えるやり方がまかり通っていることに誰も何も思わなくなっています。

それでは本来法事とはどのようなものなのでしょうか。私のインドでの僅かな経験から申しますと、仏教徒にとって、法事というのは、遺族が功徳を積みその功徳を亡くなった故人ないし先祖へ回向供養することを言います。檀那寺の僧侶を招きお経を唱えてもらい、自らも戒律を授かりお経を唱え学び、功徳を積み、僧侶には食事や修行生活に必要な金品を施した誠に得難い功徳を回向するのです。

回向というのは自分が積んだ功徳を他に振り向けることを言います。インドの仏教徒たちは、亡くなった家族の命日に毎月一人とか二人の僧侶を家に招き昼食を施して、お経を唱えてもらって徳を積むということが習慣になっています。

そして、祥月命日などには、つまり一年に一回ほどは5人以上の僧侶を招いて食事を施す盛大な法事をします。これをサンガダーナと言って、僧団への施しという意味ですが、これが年忌法要に当たるものです。

多いときでは16人もの僧侶たちと共に私もご一緒に招待された事があります。大きなホールの壁三面に内側を向いて僧侶が座り、その中に在家の親族が筵に座って、仏法僧へ帰依し戒律を授かり、お経を聞いて、説法があり、食事の供養がなされました。勿論みんな妻帯なんかしていない黄色い袈裟だけを身につけた比丘・ビクと言われる僧侶たちです。

そうして功徳を先祖へ回向するとともに、仏教徒として生きる自らも戒を授かり教えに触れ、学ぶ機会となっているのです。いずれ死を迎える自分のために功徳を積んでおきたいという思いが強いのです。死んで間違ったところに生まれ変わることなく、今よりより良いところに生まれ変われるようにと願っています。

死ねばみんな極楽に行けるなんて気楽な事を考えている人はインドには居ません。他の仏教国にも居ないはずです。簡単に極楽、つまり天界に生まれ変われるなどとお釈迦様は言われていないはずです。だからこそいかに生きるかが問われることになり、悪いことしても知られないで良い思いだけして死んでいければいいというのは通用しないことになるのです。

やっぱり真面目に人様に良くあるように生きなきゃいけないんだと、何も恐れず、欲に縛られることなく、心にわだかまりもなく、そういう素直な心になれるように、様々にお話しなさったのがお釈迦様だったんだと思うのです。

法事の話題からそれてしまったようですが、やっぱりお釈迦様を慕いその事跡をたどり徳を積むことが私たちの為すべきことであって、それを実践する場が法事であって欲しいものだと思う次第であります。
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リストカット

2005年04月15日 11時25分49秒 | 様々な出来事について
先日、昔一緒にヒンディ語を勉強していた友達が東京からやってきた。ご多分に漏れずリストラの憂き目にあって、そのお陰で遠くまで旅する途中寄って下さった。

貿易事務の資格があり長く会社勤めをしてこられたのだから、何か個人貿易でもして、それこそネット販売したらどうかなどとこちらは気楽に話も弾んだ。それからおもむろに実は姪が手首を切ってしまってと話し出された。

リストカットというよく思春期の女性にある自虐行為だ。一人の心に閉じこもっていたたまれずに起こす自己確認行為というか、周囲に対する異常発信ということもあるようだ。とにかく気付いて欲しいということではないか。

自分にもよく分からないが、他を受け付けない周りの家族や友達とも上手くうち解けられない。自分一人の殻にこもって苦しくなり、気がつくと手首を切っていたりする。思い悩んでいるよりは手首を切っているときの方が心が楽になるものらしい。それを周囲の誰かに気付いて欲しい、何かを訴えていることもある。

その子の場合は、お父さんが全く頭ごなしにものを言ってその子の人格を認めてくれなかったようだ。それでも外では明るくしていたが、中学校で担任の先生から、周りのことを考えて行動しなさい、というようなことを言われてから人柄が変わってしまったのだという。

その子にしてみたら家の中での満たされない自分を無理にも外で発散していたのだろう。それが時には周りからはしゃぎすぎ、行き過ぎだと思われ、担任の目に余る行為となっていたのではないか。その子の家庭での外で見せない素顔を担任が把握していたら、もう少し言い方も変わっていたであろうものを。

結局、手首ばかりか手の甲まで傷つけてしまった。これから高校に上がるのに、水泳はおろか、夏服になったら隠せなくなってしまうとその友人も嘆いていた。友人がそのことを知ったのは、リストラで会社を辞めてから、お姉さんの家に泊まりに行ったとき、その子が、ほらっ、という感じで見せたのだという。

きっと、友人をその子も頼りにしているのだろう。親にも打ち明けられないことをその友人に言って楽になりたいのではないかと話した。その子にとって親にも言えないことをとにかく言えるのは叔母さんである友人しか居ないのだ。そういう人が近くにいるだけその子は恵まれているのかも知れない。

とにかく、生きるというのはみんな大変なことなんだ。自分だけじゃない。私も大変なんだということを言ってください。自分も学生の時大変なことがあったけど、今となったら何でもないことに思えるものだから。だけどみんなそうやって成長し大人になっていくんだということを話してください。そんなことを言って友人を励まし、見送った。一人で悩んでいる人には、みんなそうなんだよ、一人だけじゃないんだ、ということを話してあげてほしいと思う。
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この世は燃えている

2005年04月14日 14時35分03秒 | 時事問題
この世は燃えている。こう言われたのはお釈迦様だが、いま正に我が国を取り巻く周辺は燃えさかっているようだ。テレビを殆ど見ないので、テレビ報道がどうなっているのかも知らずに、新聞だけで反日暴動が起こっているんだな程度に思っていた。

が、先ほど、檀家さんが見えて大変なことになったものですと心配顔であった。韓国などは豊臣秀吉の時代からのことを今以て言うのだから、その恨みは日に日に増していくものなのだろう。伊藤博文にしても韓国で大量の人々を殺しているのだから仕方ないことなのでしょうねと、とその檀家さんも言われていた。

確かに過去のことは様々だろう。悪かったことはきちんとその事実を伝えるべきだとは思う。しかし、この度の様々な反日暴動は、明らかに、日本の国連常任理事国入りを阻止せんがための作為あるものだろう。

アメリカも表だって日本に異を唱えられないので、表面は指示すると言いながら、周辺に手を回していることだろうと思われる。アメリカは双子の赤字を日本からのお金で何とかしのいでいることを考えれば、賛成せざるを得ない。

しかし、国連とは、連合国と言うことだという。United Nationsだから、そうなる。と言うことは、まだ先の戦争のままの意識なのだと言うことではないか。そこへ私たちは大変大きな負担金を払わされているわけなのだ。つまりは、国連改革などではなく、新しい国際関係の枠組みを創設すべきなのではないかと私は思う。
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