住職のひとりごと

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住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

改訂増補・宇宙の真理って何ですか? 

2018年05月15日 13時57分43秒 | 仏教に関する様々なお話
宇宙の真理って 
   何ですか?

 
 宇宙の真理って何ですか、と問われました。

 それは、宇宙を成り立たせている法則、摂理のことでしょうか。この大宇宙を成り立たせているエネルギーのもとのようなものでしょうか。
 毎日お日様が上がり、朝が来て昼間があり夜が来て。春夏秋冬の季節をもたらす地球の歩み。そうした宇宙の営みを通じて、いのちが生まれ成長し進化して私たちがあります。
 そうした生命の営みを成り立たせている規則正しい自然界の秩序ともいえましょうか。

「秘密の庫を開く」を読む

 実は、この質問は、月例行事であるお話し会(理趣経読誦会)で、真言宗の常用経典理趣経の解説書、松長有慶先生著『仏教を読む・秘密の庫を開く・密教経典・理趣経』(集英社刊)を皆さんと読んでいて、その途中で発せられたものでした。

 この経典の中にある「平等」という言葉を解説(同書一四二頁)する部分に、「・・・平等とは仏と自分が一体であることです。千円札を両替機にくずしても値打ちは変わらないという意味の平等ではありません。自分と宇宙の真理、自分と絶対者が一つだということが平等です。・・・」とあり、そこにある「宇宙の真理とは何ですか」と素朴に質問されたのでした。

 そこで、それはお日様であれば、遮られることのない温かな光りであり、いのちを育み、実りをもたらす働きということになりますが、この理趣経の教主である大日如来そのものがそうした働きを象徴する仏様ということになりますかねと、そのときはお答えしました。

 そして、大日如来であれば、その智慧を四つに分けられるというような話は既にいたしましたね、と申し上げるにとどまりました。が、それは宇宙の真理、そのものを象徴する仏が大日如来といわれるが故の答えでした。(同書七五、七六頁)

 そのページには、「法は仏教では真理ですから、真理は常にあるという考え方が仏教にはあります。釈尊がこの世にお生まれになって、自分自身で作り出した真理ではなく、この永遠の宇宙の真理を釈尊がこの世にお説きになったのだと考えるわけです」また、「釈尊の悟られた真理そのものを仏さまと考えた、それが大日如来ということです」ともあります。

お釈迦様の説く真理とは

 そこで、お釈迦様がお説きになった法、つまり「永遠の宇宙の真理」とは何かということですが、やはりそれは生涯お釈迦様がお説きになられた三法印または四法印といわれる「諸行無常・諸法無我・(一切行苦)・涅槃寂静」でありましょう。

 法印とは法のしるし、仏法の特徴というようなものですが、諸行無常(しよぎようむじよう)とは、私たちが知ることのできるすべての物事は一瞬たりとも止まることなく、無常にして移り変わるということです。

 これは最先端の物理学・量子論において「物質や自然がただ一つの状態に決まらず非常にあいまいであることを、そしてあいまいさこそが自然の本質である」(「量子論を楽しむ本」一七五頁PHP文庫)とされていることに呼応しており、宇宙の真理といって差し支えないでしょう。

 諸法無我(しよほうむが)とは、すべてのものは生じ滅っし変化するので、永遠不滅のものなどないということです。

 これも、量子論では、「物質を構成する基本粒子である素粒子が、けっして不変のものではなくて、作られたり消えたり、別の粒子に形を変えたりする」(同書二三九頁)とあり、どんなに頑強な不動に見える物でも、ミクロの観点からはみな絶えず変化していることが知られており、これも宇宙の真理といえましょう。

 一方、一切行苦(いつさいぎようく)は、迷える凡夫衆生にとっての真理となりますが、すべてこの世のものごとは苦であるということです。そして、涅槃寂静(ねはんじやくじよう)は、悟りこそ煩悩のない、苦のない理想的な境界(きようがい)であるということです。

 そして、それらを総合した「縁起の法」があり、縁起(えんぎ)とは、ものごとは原因と条件によりて起こるということです。
 「これあればかれあり、これ生ずるが故にかれ生ず、これなければかれなし、これ滅するが故にかれ滅す」というのが縁起の基本的な内容であり、苦の原因を特定し、それを滅すれば苦を滅することができることになります。

 そこで、それを十二の項目に分けたものが十二縁起であり、般若心経にも登場する教えです。

 はじめに無明(むみよう)(無知)があり、それが故に行(ぎよう)(身口意のおこない)があり、行あるが故に識(しき)(眼耳鼻舌身意の六識)があるという具合に縁起していきます。以下同様に、名色(みようしき)(心と体)・六処(ろくしよ)(眼耳鼻舌身意の感覚器官)・触(しよく)(ものが感覚器官に触れること)・受(じゆ)(感覚として認識すること)・愛(あい)(愛欲)・取(しゆ)(執着)・有(う)(生存)・生(しよう)(誕生)・老死(ろうし)にいたり、私たちには苦悩がもたらされるとするのですが、これを流転縁起(るてんえんぎ)といいます。

 そして、これに対し無明を残りなく滅すると、それが故に行滅し、行滅するが故に識滅すと続きます。以下同様に、名色・・・老死まで滅することによってすべての苦悩が滅するとするのですが、この縁起の仕方を還滅縁起(かんめつえんぎ)といいます。

大日如来の智慧とは

 一方、お釈迦様が悟られ説かれた真理そのものを仏とした大日如来の功徳とは、「除闇遍明(じよあんへんみよう)、能成衆務(のうじようしゆうむ)、光無消滅(こうむしようめつ)」と表現されています。

 暗い中で光を点す、それは智慧の輝きを表しており、それは誰にも普く温かさをもたらすというお徳を表しています。そして、その灯りを一切に行きわたらせることにより、すべての者をはぐくみ育てていく役割により慈悲の働きを表し、消えることのない光によって、その真理の永遠、不滅であることを表しているということです。(松長先生著・「秘密の庫を開く」九三頁)

 そういう徳、性格をもつ大日如来は金剛界の曼荼羅の仏さまの世界では、その中心に位置しており、周りには四人の仏さまが取り巻き、それぞれ大日如来の智慧を分け与えられているとされています。四つに分けるのでこれを四智といいます。

 東に阿閦如来(あしゆくによらい)、南に宝生如来(ほうしようによらい)、西に阿弥陀(無量寿(むりようじゆ))如来、北に不空(ふくう)成就如来(じようじゆによらい)となり、それぞれ大円鏡智(だいえんきようち)、平等性智(びようどうしようち)、妙観察智(みようかんざつち)、成所作智(じようそさち)という智慧を表し、大日如来の智慧は特に法界体性智(ほうかいたいしようち)というとのことです。

 大円鏡智とは、水があらゆるものを映しとるように一切のものを映しとる智慧で、平等性智とは、水に高下なく平等に映すようにいろいろなものの中に共通した性格を見つけ出す智慧。妙観察智は、水は平等にいろいろなものを映し出すけれども、それぞれ違った色形を映す、その違いを見つけ出す智慧、そして、成所作智は水が一切のものを育て、はぐくむ行動、活動を起こすもとになる智慧のことです。そして、法界体性智はそれらの智慧を一切の所に遍満することであるとあります。(同書一〇二・一〇三頁)

四法印と四智との関係とは

 ではこのお釈迦様の説いた法・四法印と大日如来の智慧を展開した四智とはいかなる関係となるのでしょうか。
 それを探求するために、ここで唯識という、三世紀から四世紀に登場する、心の構造分析を行う仏教学派の教えを少しだけ学んでみましょう。

 まず唯識では、私たちの心は八つの階層に分かれていると考えます。五官の表面的な感覚を捉える心である前五識があり、次にその五識の結果を認識するとき、またそれ以外にも特別の禅定や睡眠時以外常にはたらき、あれこれと思考している、第六識意識があります。さらに、その表層に顕在する意識の背後に潜在する深層の心理として、自分に執着する自我意識を構成する心である第七識末那識(まなしき)があり、さらにその背後に前世の業の蔵としての第八識アーラヤ識(阿頼耶識)があるとします。

 そして、平川彰著『インド仏教史』下巻第四章後期の大乗仏教・第五節唯識の教理(一五〇・一六二頁)にあるように、それら表層の二つの識と深層の二つの識は悟りによって四智に転じる(これを転依(てんね)という)ということです。

 一番心の深いところにあって、前世の業の結果として、その人の人格そのものとしてあるアーラヤ識が、阿羅漢果という最高の悟りを得て転依すると、遺伝したもの、性格として作用するもの、記憶によって、その上の心に様々に影響を及ぼすことがなくなり、真っ平らな鏡の様な、すべてのものをありのままに映し出す智慧・大円鏡智に転化します。

 自意識の元になる末那識は転依して、自我への執着が無くなると、すべてのものに個々の長所・価値があり、その良いところが見えてきて皆平等に価値あるものが見える智慧・平等性智に転化します。

 そして、外の刺激にあれこれと考え、体や心を自分と見なす第六意識が転じて誤った見解がなくなると、すべてのものをよく観察することができるようになり、それぞれの違い、特徴、本質が見えてくる智慧・妙観察智になるのです。

 さらに自分という思いとともに感覚をとらえる前五識はその自分というとらわれから脱すると、すべてのものをよくとらえ、それらをはぐくみ育てる智慧・成所作智に転化するということです。

 さて、この唯識思想では、心の構造について分析する他に実際の精神活動についても独特の言葉を用いて思想を展開しています。心の働きについて、まず外から入るものによって心の作用が生じることを依他起性(えたきしよう)といいます。

 次にその心の作用は言葉によってあれこれと思索し妄想して苦をもたらすことを遍計所執性(へんげしよしゆうしよう)といいます。

 それから、そうした迷った心が全て消え去った真実なる認識、真理のことを円成実性(えんじようじつしよう)といい、これら三様の心のあり方を三性(さんしよう)といいます。

 平川彰著『インド仏教史』下巻(一五九頁)には、「依他起の識が煩悩に染ぜられているから、遍計所執性の世界が出現するが、この依他起において煩悩がなくなれば、識は無垢識(むくしき)となって円成実性が顕現する。すなわち転依(てんね)とは、識の質的転換をいう。・・・大菩提は八識を転じて四智を得ること」であるとあります。

 また、水野弘元著『仏教要語の基礎知識』(一六五頁)には、「心は染浄の両者にわたる依他起性を、仏は悟界のプラス価値を示す円成実性に、衆生は迷界のマイナス価値を示す遍計所執性にあたると見れば、依他起性は縁起一般と、遍計所執性は流転縁起と、円成実性は還滅縁起と関係していることが知られる」とあります。

 まず、依他起性は、他によりて起こるから縁起について述べたものであることは自明のことです。その縁起において、すでに述べたように、苦に至る過程を流転縁起といい、苦を滅していく過程を還滅縁起といいました。そこで、煩悩のままに妄想して苦を導く遍外所執性を流転縁起、迷いの心が消え煩悩のなくなった円成実性を還滅縁起に該当すると述べられているのです。

 こうして、唯識の教えが、お釈迦様の説かれた四法印と繋がり、依他起性は縁起一般ということで諸行無常と諸法無我、遍計所執性は一切皆苦、円成実性は涅槃寂静に通じる教えと考えることができます。

 ここまで学んできて、やっと、お釈迦様の永遠なる宇宙の真理・四法印が、唯識の教えを通して、大日如来の四つの智慧と繋がりあるものとして見えてきました。そこで、お釈迦様の四法印と四智との関係を、一試案として、次のような流れのもとにまとめてみました。

 すなわち、すべての現象が無常であることをつぶさに観察し如実に知ること(諸行無常)によって、自分という思いのままに思考する第六識が転じて、それぞれのものたちの変化違いをとらえる智慧(妙観察智)となります。

 すべてのものが無我であると知ること(諸法無我)によって、自意識の元である末那識を転じて、みなそのものの実体なきものとしての共通性を見出す智慧(平等性智)となります。

 一切の現象が苦であるとさとること(一切皆苦)によって、前五識が転じて自分というとらわれから脱し、他のものたちをはぐくむ、よき活動のもとになる智慧(成所作智)となります。

 静かなる、まったき悟りに至れば(涅槃寂静)、アーラヤ識が転じて、ありのままにすべてのものを見通すことができる智慧(大円鏡智)になります。

 宇宙の真理って何ですか。この簡単そうな問いが、お釈迦様から大乗仏教の究極の教えを結び付けるキーワードだったように感じます。
 いずれにせよ、私たち自身も、その真理の故に生まれきて、その恩恵により育まれ、その真理にのっとり生きているということであり、この宇宙の真理と一体であるからこそ、いまこうしてあるということになるのであろうかと思います。

 この問いを発していただきましたことに改めて感謝申し上げます。 


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仏教を説く難しさについて

2018年05月01日 11時00分42秒 | 仏教に関する様々なお話
私たち日本では人が亡くなることを仏になった、成仏されたと言います。そのために、仏教の悟りということと死ということが混同されているように感じます。人が亡くなると仏さんのところに行ったなどと表現をしてしまうこともあります。そのためか、普通に死ねたら救われたと思っていいのではないかというような感覚でいる方もあるようです。孤独死や不慮の事故というようなことではなく、普通に遺族に見守られ死ねることが救われるということだという解釈の仕方です。

何十年もこのような解釈、つまり、人の死はイコール仏になるという表現をされることに慣れてしまうと、そのこととお釈迦様の悟りということを別のものとして捉えられないということなのでしょう。いろいろとお参りをされたり仏教について多少知識のある方であっても、いざ自分の死について考えたり、身近な人の死ということになると、これまでの仏教の話とは整合せず、過去に人が亡くなった時に何気なく語った、死者を前に成仏されましたと言ってしまうことや、お墓に仏さんに会いに行こうというような表現によってもたらされた思いがどうしても先に立つということなのでしょう。

亡くなった人に仏さんと言うことは、日本人が様々な場面で忌み嫌う言葉を避けて真綿にくるんだようなものの言い方をすることの典型と言えるでしょう。このような表現の仕方が、特に死については全国民に同じような表現の仕方が浸透し、そのことによって、さらに仏教者も同様な表現をしてしまうことで、相乗的にさらに一般の人々には仏教というものが分からなくなっているのではないかと思えます。

このような受け取り方の根本には、死者はみんな浄土に身罷る、曼荼羅の世界に行く、仏の世界に行くというような表現がなされ、お葬式や法事の場面でも何気なく仏教者自身もそのような安易な表現を使うことによって、漠然とした思いが確認されていくということがあるようです。鎌倉時代の新仏教によって、みんな浄土に行けるのだという思いが、おそらく布教者の意図とは別に日本全国に染み渡り、それを旧仏教も批判できずに相乗りするかたちで安易に仏教者が浄土に誰でもが行ける、仏さんになったとする教えにくみしてしまったことが大きな原因としても上げられるでしょう。

このことは一般的な問題として日本人に本来の仏教を説くことの難しさを思い知らされるのです。遠藤周作氏の「沈黙」という小説があります。江戸時代初期にキリスト教の宣教師が何人も日本に布教に来るわけですが、いずれも布教がなった、沢山の人々がキリシタンになったと思っても、日本人キリスト者の多くが自分たちの信仰による、つまり自分たち独自の解釈によるキリスト教になっていて、本来のもの、自分たちが説いてきた教えとは違う、日本という土壌は自分たちがこれまで経験してきた土地とは違う沼地のようなものだというのがこの小説の言わんとしたところなのです。

どんな苗を植えてもその沼地は根が腐り葉が黄ばんで枯れていくと。正に、仏教自体も日本人の日本人独特の解釈になる日本教に成りはててしまっているかの印象を再認識させられた思いがするのです。この問いかけは、実は新潮文庫『日本仏教史・思想史としてのアプローチ』(362頁より366頁)で末木文美士先生が指摘されていて、それを読み「沈黙」も読む機会を与えられたのでしたが、正に先生の言われるとおりであると肯んぜざるを得ないのです。

日本仏教とは何なのか、何が仏教かという定義も難しいような現状ではありますが、ただこの死に関する問題について言えば、やはりはっきりと仏教者が、死ぬことと仏教で言う成仏とは違うのだと言うべきでしょう。みんな死後は輪廻するのだという世界の仏教徒の常識を語るべきなのです。世間的な言い方に惑わされ、安易に仏教者が、みんな仏の国に行く、浄土に行くとしか言えないというのが問題なのです。

あたかも輪廻とは非科学的なインドの伝承に過ぎないと捉え、お釈迦様は当時のインドの民間信仰を使って布教されただけである、無我を説くのだから輪廻などしないなどという解釈をあたかも現代の知識人として当然であるかの物言いはそろそろ止めた方がいいでしょう。前世の記憶がないから前世がないなどという仏教学者もいますが、お釈迦様の神通力でご覧になれたことを単なる凡夫が簡単に前世の記憶があるとかないとか言う方がおかしいのです。(宮本啓一『仏教かくはじまりき・パーリ仏典大品を読む』春秋社参照)

現在、世界の仏教徒と交流する各宗派にあって、国際化の時代のその交流に物足りなさを感じるのは私だけでしょうか。資金援助が国際交流などではありません。同じ仏教徒として思いをぶつけ、考え方をすりあわせて現代に向けて共に手を携えてはじめて国際化の意味もあるのではないでしょうか。そうしてこそ日本仏教の歪み、不思議さが自ずから分かろうというものです。

そして、関連して死に方がよければ救われるという考え方について申し上げるならば、たとえば、震災で多くの非業の死を遂げた方たち、津波で瞬く間に死に追いやられた人たちはそれでは救われないのかということが問題になります。仏教ではすべてのことに原因があるとします。ですから、そのような不慮の事故に遭われた方々にはそれなりの原因があったことでしょう。

それは今世のというよりは前世のいやもっと過去の、過去世からの因縁だったのかもしれません。それがこの度の不意に起こった災害によってそれが縁となり結果したと考えてはいかがでしょか。ですが、亡くなられて身罷られたことによって、その悪業が消え、来世ではより善いところに行きよりよき生存を生きられるものと考えられるのです。

突然の事故や災害によって、今生での生を突然失われたショックはあることでしょう。ですが、誰しもその危険性がある現代社会の中で私たちは生きています。小学生の通学の列にトレーラーが突っ込んで何人もの子供たちが亡くなる現実、小学校に精神錯乱者が刃物をもって侵入して殺害された子供たちもいました。それらも同様に考えなくてはいけないのでしょう。そのような社会を私たち一人ひとりが作っているのだということも考えなくてはいけないでしょう。

みんな一度きりの人生だとしたならば、そのような不慮の事故、災害で亡くなってしまった人たちをどのように考えるのでしょうか。残された遺族の救いはどこのあるのでしょうか。みんな来世があるのだ、突然亡くなったとしても、みんな、この世でしっかり生きていたら、決してそれが無駄になることなどない、善いことをしていたら、それらの善きことが来世で報われる、きっと今生で過ごした沢山の楽しい思い、家族と共に過ごした幸せな時間もそれが善き業となって、来世には善いところに生まれ変わり、新しい家族の中できっと幸せに過ごしてくれるはずだと、そして前世の家族である自分たちも亡くなった人と共にこの世でしっかり生きていこうという気持ちになれるならば、何もない、ただ無為に命を無くした、何のために短い人生があったのかなどと思うよりも、亡くなった人も遺族もきっと救われるのではないかと思うのです。

もちろんそう思えるようになるには時間は必要でしょう。ですが、そのように考えることによって私たちは納得し希望を持つことが出来ます。『久しく遠くにありし人、無事に帰来せば、親戚朋友、これを歓迎するがごとく、善業をなして現世より来世にいたる者は、その善業に迎えられる。親戚、その愛する者を迎うるがごとく』(法句経219・220)とお釈迦様が教えられています。輪廻する、業によって再生するというのは、ですから、救われる思いを導くことの出来る教えなのだといえるのです。


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