雑草に学ぶ生き残り戦術 今日の藥師護摩供後の法話
今年も境内に生き生きと雑草が生えそろってくれた。なかなかまとまって草取りをする時間もなく先月はかなり草が目立っていたと思う。ここ数年ゴールデンウイークに草取りをするのが習慣となっていたのでその時にと思っていたが、今年は予期せぬ仕事が舞い込み予定通りとはいかなかった。そこで、先々週後半辺りから毎日草取りに励んだ。
既に夏の草と言ってもいいような、小さな稲のように沢山の穂のような種を付けている草がはびこり始めた。白い沢山の種を付けしっかりと根を張る草、四つ葉のような小さな赤い葉がスギゴケの中などに土の下に横に四方八方に根を張り広がっていく草、葉はそれほど大きくないのに太い根をしっかりと深く張るもの、逆に根を細く細かい根を張り上だけ抜きやすくしてかつ上の種も目立たない土色のもの、またコケのように土に張り付いて細い根を張っているもの。竜の髭のような葉から沢山の胞子が伸びるものなど、とにかく様々な雑草が境内を埋め尽くさんばかりだ。
今年草取りをしていて思ったのだが、雑草にも生き残り戦術があって、徐々にその生態を繁殖の仕方を変えてきたのではないかと思った。青々と葉や種をつけていたものが徐々に色を目立たないように色を変えたり、摘ままれても根が残るように直ぐ切れるようになったり、根が横に生えているので摘ままれても横に残ったり、胞子のように遠くの子孫を残してみたり、とにかく長い年月を掛けて草は草で生き残りをかけて必死に生きてきたのではないかと思うのだ。
インドに居る頃よく小さな子供を抱いて道行く人に物乞いしている少女に出会った。この少女の子ではないのは明白で、物知りな人に聞くと乞食組合があって、そこであてがわれた乳飲み子を抱いて道に送り出されるとか。暑いインドの街でそれも生き延びるスベというわけだが、その時、人間も勿論だが、アリでさえも必死にならないと生きていけない国なんだと聞いた。ましてや草の方が遙かにアリよりも人間よりも長くこの地球上で生きてきたはずだから進化に進化を遂げてきたはずだ。
ところで、先日、中国新聞の一面下の広告に『あの人を脳から消す技術』(脳神経外科医菅原道仁著・サンマーク出版)という本が紹介されていた。失礼、無礼、生意気で、こちらを見下してくるとか、馬鹿にされたと思ったり、陰口を言われているように思ってしまう、そういう嫌な相手のことばかりが頭に浮かび、こびりついて離れないのをどうにかして欲しいという人のために書かれた本らしい。怨憎会苦の世の中なのだから、誰かそういう人が現れるのが人生なのかもしれないが。
勿論読んだわけではない。が、こうした思いに駆られる人は多いのだろう。特に会社勤めや、親戚づきあい、学校での付き合いでも、人と人が何人が集う世界ではそんな関係が大いにありがちだ。また最近おかしな事件事故が立て続けに起こっているが、それも理性を失うくらい自分や誰かに異常な執着を持ち正常な判断ができなくなっての犯行ではないか。
関連して、昨年もお話したように忘れたいのに忘れられずに嫌なことをいつも考えてしまったり、後悔ばかりしてみたり、それが私たちの心の習慣であろう。または、あの人はいつも気楽な感じなのにどうして私はとか、他人を羨んだり妬んだり。そんな自分はどうかしている、なんか自分だけおかしいのかもしれないと思う人もあるかもしれない。
だが、そうして私たち人類は雑草が様々な手段で生態を換えてまで生き残ってきたように、自分を攻撃してくるものや不安なものに、いつも気を抜くことなく、いつも気にして、配慮するようにして、そうして気づかう人々の子孫が進化の過程で生き残ってきたのだと、あるアメリカの神経心理学の先生の本にあった。そうやって、いつも気を張って、危険なものから家族や親しいものたちを守ってきたがために生き残ってきた人々が私たちの先祖だったのではないか。
そう考えてみると、別に自分一人がおかしいわけでもなく、いつもいつも心配になり、ふさぎ込んでしまう自分はそういう進化の過程の名残があるせいなのだと、それが少し習慣になってしまっているだけと解れば、それまで何で何でと思って、いつも自分を責めてきた心が少し楽になる。
深く深く根を張るかわりに横に横に細い根を伸ばして生き延びる草のように、そういう方法もあるとわかれば、少し離れてしまっていた友人たちとの交流を復活させるなど、違う人たちとの繋がりを作ることで救われることもある。はじめは薄い繋がりでもそれが沢山の人を呼び、より楽になり仕合わせに生きていくこともできるだろう。遠くまで胞子を飛ばす雑草に学んで、まったくそれまでと違う場所で生きるなんていうのも一つの方法かもしれない。地理的なことばかりでなく、心の置き場所をまったく知らなかった分野の世界に思い切って身を委ねてみたり。
摘ままれても根はしっかり残してしまう草のように、何を言われても自分の心はそのままで静かに何も動じることなくいるよう心掛けてみたり。本当はこれが本来の取り組み方だろう。頭に浮かぶこと言われたことなどに反応せず、音、音と、考えてる考えてると確認して今に生きる。が、なかなかこれが難しい。
また、しっかり根を張って動けないと思っても、沢山の小さな種を付ける草のように、パターン化した行動ルートに変化、バリエーションを持たせてみたり。それまで寄ったこともなかったお店で買い物を楽しんでみたり。これまでと違ったことに関心を向け没頭することで、一つのことに拘わらず心配ばかりしないでいる自分に出会えたりすることもある。そうして考えていない自分でよいのだと確認する。
もういつもいつも自分に拘らなくていいと、今の自分だけに責任を取らせるような生き方でなく、進化の過程に責任を押しつけてしまって楽になる方法を学んでみてはいかがかであろうかと思うのだ。雑草とひたすら向き合い、それらの草の進化してきた生き残り戦術はと考えてみるだけで、学びがある。私たちも雑草のように巧みな戦術で楽な生き方をしてみようではないかと思うのである。
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今年も境内に生き生きと雑草が生えそろってくれた。なかなかまとまって草取りをする時間もなく先月はかなり草が目立っていたと思う。ここ数年ゴールデンウイークに草取りをするのが習慣となっていたのでその時にと思っていたが、今年は予期せぬ仕事が舞い込み予定通りとはいかなかった。そこで、先々週後半辺りから毎日草取りに励んだ。
既に夏の草と言ってもいいような、小さな稲のように沢山の穂のような種を付けている草がはびこり始めた。白い沢山の種を付けしっかりと根を張る草、四つ葉のような小さな赤い葉がスギゴケの中などに土の下に横に四方八方に根を張り広がっていく草、葉はそれほど大きくないのに太い根をしっかりと深く張るもの、逆に根を細く細かい根を張り上だけ抜きやすくしてかつ上の種も目立たない土色のもの、またコケのように土に張り付いて細い根を張っているもの。竜の髭のような葉から沢山の胞子が伸びるものなど、とにかく様々な雑草が境内を埋め尽くさんばかりだ。
今年草取りをしていて思ったのだが、雑草にも生き残り戦術があって、徐々にその生態を繁殖の仕方を変えてきたのではないかと思った。青々と葉や種をつけていたものが徐々に色を目立たないように色を変えたり、摘ままれても根が残るように直ぐ切れるようになったり、根が横に生えているので摘ままれても横に残ったり、胞子のように遠くの子孫を残してみたり、とにかく長い年月を掛けて草は草で生き残りをかけて必死に生きてきたのではないかと思うのだ。
インドに居る頃よく小さな子供を抱いて道行く人に物乞いしている少女に出会った。この少女の子ではないのは明白で、物知りな人に聞くと乞食組合があって、そこであてがわれた乳飲み子を抱いて道に送り出されるとか。暑いインドの街でそれも生き延びるスベというわけだが、その時、人間も勿論だが、アリでさえも必死にならないと生きていけない国なんだと聞いた。ましてや草の方が遙かにアリよりも人間よりも長くこの地球上で生きてきたはずだから進化に進化を遂げてきたはずだ。
ところで、先日、中国新聞の一面下の広告に『あの人を脳から消す技術』(脳神経外科医菅原道仁著・サンマーク出版)という本が紹介されていた。失礼、無礼、生意気で、こちらを見下してくるとか、馬鹿にされたと思ったり、陰口を言われているように思ってしまう、そういう嫌な相手のことばかりが頭に浮かび、こびりついて離れないのをどうにかして欲しいという人のために書かれた本らしい。怨憎会苦の世の中なのだから、誰かそういう人が現れるのが人生なのかもしれないが。
勿論読んだわけではない。が、こうした思いに駆られる人は多いのだろう。特に会社勤めや、親戚づきあい、学校での付き合いでも、人と人が何人が集う世界ではそんな関係が大いにありがちだ。また最近おかしな事件事故が立て続けに起こっているが、それも理性を失うくらい自分や誰かに異常な執着を持ち正常な判断ができなくなっての犯行ではないか。
関連して、昨年もお話したように忘れたいのに忘れられずに嫌なことをいつも考えてしまったり、後悔ばかりしてみたり、それが私たちの心の習慣であろう。または、あの人はいつも気楽な感じなのにどうして私はとか、他人を羨んだり妬んだり。そんな自分はどうかしている、なんか自分だけおかしいのかもしれないと思う人もあるかもしれない。
だが、そうして私たち人類は雑草が様々な手段で生態を換えてまで生き残ってきたように、自分を攻撃してくるものや不安なものに、いつも気を抜くことなく、いつも気にして、配慮するようにして、そうして気づかう人々の子孫が進化の過程で生き残ってきたのだと、あるアメリカの神経心理学の先生の本にあった。そうやって、いつも気を張って、危険なものから家族や親しいものたちを守ってきたがために生き残ってきた人々が私たちの先祖だったのではないか。
そう考えてみると、別に自分一人がおかしいわけでもなく、いつもいつも心配になり、ふさぎ込んでしまう自分はそういう進化の過程の名残があるせいなのだと、それが少し習慣になってしまっているだけと解れば、それまで何で何でと思って、いつも自分を責めてきた心が少し楽になる。
深く深く根を張るかわりに横に横に細い根を伸ばして生き延びる草のように、そういう方法もあるとわかれば、少し離れてしまっていた友人たちとの交流を復活させるなど、違う人たちとの繋がりを作ることで救われることもある。はじめは薄い繋がりでもそれが沢山の人を呼び、より楽になり仕合わせに生きていくこともできるだろう。遠くまで胞子を飛ばす雑草に学んで、まったくそれまでと違う場所で生きるなんていうのも一つの方法かもしれない。地理的なことばかりでなく、心の置き場所をまったく知らなかった分野の世界に思い切って身を委ねてみたり。
摘ままれても根はしっかり残してしまう草のように、何を言われても自分の心はそのままで静かに何も動じることなくいるよう心掛けてみたり。本当はこれが本来の取り組み方だろう。頭に浮かぶこと言われたことなどに反応せず、音、音と、考えてる考えてると確認して今に生きる。が、なかなかこれが難しい。
また、しっかり根を張って動けないと思っても、沢山の小さな種を付ける草のように、パターン化した行動ルートに変化、バリエーションを持たせてみたり。それまで寄ったこともなかったお店で買い物を楽しんでみたり。これまでと違ったことに関心を向け没頭することで、一つのことに拘わらず心配ばかりしないでいる自分に出会えたりすることもある。そうして考えていない自分でよいのだと確認する。
もういつもいつも自分に拘らなくていいと、今の自分だけに責任を取らせるような生き方でなく、進化の過程に責任を押しつけてしまって楽になる方法を学んでみてはいかがかであろうかと思うのだ。雑草とひたすら向き合い、それらの草の進化してきた生き残り戦術はと考えてみるだけで、学びがある。私たちも雑草のように巧みな戦術で楽な生き方をしてみようではないかと思うのである。
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