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住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

雑草に学ぶ生き残り戦術

2025年05月21日 12時27分29秒 | 様々な出来事について
雑草に学ぶ生き残り戦術 今日の藥師護摩供後の法話




今年も境内に生き生きと雑草が生えそろってくれた。なかなかまとまって草取りをする時間もなく先月はかなり草が目立っていたと思う。ここ数年ゴールデンウイークに草取りをするのが習慣となっていたのでその時にと思っていたが、今年は予期せぬ仕事が舞い込み予定通りとはいかなかった。そこで、先々週後半辺りから毎日草取りに励んだ。

既に夏の草と言ってもいいような、小さな稲のように沢山の穂のような種を付けている草がはびこり始めた。白い沢山の種を付けしっかりと根を張る草、四つ葉のような小さな赤い葉がスギゴケの中などに土の下に横に四方八方に根を張り広がっていく草、葉はそれほど大きくないのに太い根をしっかりと深く張るもの、逆に根を細く細かい根を張り上だけ抜きやすくしてかつ上の種も目立たない土色のもの、またコケのように土に張り付いて細い根を張っているもの。竜の髭のような葉から沢山の胞子が伸びるものなど、とにかく様々な雑草が境内を埋め尽くさんばかりだ。

今年草取りをしていて思ったのだが、雑草にも生き残り戦術があって、徐々にその生態を繁殖の仕方を変えてきたのではないかと思った。青々と葉や種をつけていたものが徐々に色を目立たないように色を変えたり、摘ままれても根が残るように直ぐ切れるようになったり、根が横に生えているので摘ままれても横に残ったり、胞子のように遠くの子孫を残してみたり、とにかく長い年月を掛けて草は草で生き残りをかけて必死に生きてきたのではないかと思うのだ。

インドに居る頃よく小さな子供を抱いて道行く人に物乞いしている少女に出会った。この少女の子ではないのは明白で、物知りな人に聞くと乞食組合があって、そこであてがわれた乳飲み子を抱いて道に送り出されるとか。暑いインドの街でそれも生き延びるスベというわけだが、その時、人間も勿論だが、アリでさえも必死にならないと生きていけない国なんだと聞いた。ましてや草の方が遙かにアリよりも人間よりも長くこの地球上で生きてきたはずだから進化に進化を遂げてきたはずだ。

ところで、先日、中国新聞の一面下の広告に『あの人を脳から消す技術』(脳神経外科医菅原道仁著・サンマーク出版)という本が紹介されていた。失礼、無礼、生意気で、こちらを見下してくるとか、馬鹿にされたと思ったり、陰口を言われているように思ってしまう、そういう嫌な相手のことばかりが頭に浮かび、こびりついて離れないのをどうにかして欲しいという人のために書かれた本らしい。怨憎会苦の世の中なのだから、誰かそういう人が現れるのが人生なのかもしれないが。

勿論読んだわけではない。が、こうした思いに駆られる人は多いのだろう。特に会社勤めや、親戚づきあい、学校での付き合いでも、人と人が何人が集う世界ではそんな関係が大いにありがちだ。また最近おかしな事件事故が立て続けに起こっているが、それも理性を失うくらい自分や誰かに異常な執着を持ち正常な判断ができなくなっての犯行ではないか。

関連して、昨年もお話したように忘れたいのに忘れられずに嫌なことをいつも考えてしまったり、後悔ばかりしてみたり、それが私たちの心の習慣であろう。または、あの人はいつも気楽な感じなのにどうして私はとか、他人を羨んだり妬んだり。そんな自分はどうかしている、なんか自分だけおかしいのかもしれないと思う人もあるかもしれない。

だが、そうして私たち人類は雑草が様々な手段で生態を換えてまで生き残ってきたように、自分を攻撃してくるものや不安なものに、いつも気を抜くことなく、いつも気にして、配慮するようにして、そうして気づかう人々の子孫が進化の過程で生き残ってきたのだと、あるアメリカの神経心理学の先生の本にあった。そうやって、いつも気を張って、危険なものから家族や親しいものたちを守ってきたがために生き残ってきた人々が私たちの先祖だったのではないか。

そう考えてみると、別に自分一人がおかしいわけでもなく、いつもいつも心配になり、ふさぎ込んでしまう自分はそういう進化の過程の名残があるせいなのだと、それが少し習慣になってしまっているだけと解れば、それまで何で何でと思って、いつも自分を責めてきた心が少し楽になる。

深く深く根を張るかわりに横に横に細い根を伸ばして生き延びる草のように、そういう方法もあるとわかれば、少し離れてしまっていた友人たちとの交流を復活させるなど、違う人たちとの繋がりを作ることで救われることもある。はじめは薄い繋がりでもそれが沢山の人を呼び、より楽になり仕合わせに生きていくこともできるだろう。遠くまで胞子を飛ばす雑草に学んで、まったくそれまでと違う場所で生きるなんていうのも一つの方法かもしれない。地理的なことばかりでなく、心の置き場所をまったく知らなかった分野の世界に思い切って身を委ねてみたり。

摘ままれても根はしっかり残してしまう草のように、何を言われても自分の心はそのままで静かに何も動じることなくいるよう心掛けてみたり。本当はこれが本来の取り組み方だろう。頭に浮かぶこと言われたことなどに反応せず、音、音と、考えてる考えてると確認して今に生きる。が、なかなかこれが難しい。

また、しっかり根を張って動けないと思っても、沢山の小さな種を付ける草のように、パターン化した行動ルートに変化、バリエーションを持たせてみたり。それまで寄ったこともなかったお店で買い物を楽しんでみたり。これまでと違ったことに関心を向け没頭することで、一つのことに拘わらず心配ばかりしないでいる自分に出会えたりすることもある。そうして考えていない自分でよいのだと確認する。

もういつもいつも自分に拘らなくていいと、今の自分だけに責任を取らせるような生き方でなく、進化の過程に責任を押しつけてしまって楽になる方法を学んでみてはいかがかであろうかと思うのだ。雑草とひたすら向き合い、それらの草の進化してきた生き残り戦術はと考えてみるだけで、学びがある。私たちも雑草のように巧みな戦術で楽な生き方をしてみようではないかと思うのである。



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雲照律師述『不殺生戒法の軍事に対する観念』を現代語訳する

2025年05月19日 08時32分02秒 | 釋雲照律師関連文書
 雲照律師述『不殺生戒法の軍事に対する観念』を現代語訳する



『不殺生戒法の軍事に対する観念』明治27年12月17日・経世書院発行

「ある人が言うには、仏教徒は、一切の刀杖弓箭鉾斧など戦闘の道具を蓄えることなく、さらに菩薩たる者はたとえ父母を殺されたとしても報復などしてはならない。国の使命によって軍陣にあって、戦となり相討ちあうとも衆生を殺してはならない。さらに菩薩たる者は陣中に入りて往来してはならない。このように経文にも示されているから、わが国の兵士等は、仏教などを信じることなく、勇敢勇猛なれば仮にも本人の意志により得心が得られないのであれば千万の強敵あれども、進んでこれを撃滅する気概がなければならない。故に兵営にあっては仏教を禁ずるべきであるとする。

この説には一理あるのだけれども、しかしこれは、その一を知るだけで、その二、三を知らない者の説である。私が思うに、仏教を解釈するのに四依法(依法不依人、依義不依語、依智不依識、依了義経不依不了義経)というものがあり、この場合この内の依義不依語でなくてはならないのだから、単に経文の語句に拘ることなく、義理のあることを知らねばならない。

仏教には戒学・定学・慧学の三学があって、十善四恩の教えがあり、六波羅蜜などの万行がある。しかも、無我を躰とし、因果を宗とし、大悲を方便の働きとするのである。方便門の中に折伏門と攝受門がある。そして、無我なのであるから自と他は一体平等である。因果を宗とするので、善者を見ればそれを助け、悪者を見たら懲らしめ、大悲により、その罪を憎んで人を憎まずでなければならない。

その罪ある者には、一時の恩情と行き過ぎた情けにより直接対応することなく、三世に徹して、これを降伏し、救済するために、その肉身を殺したとしても、その心、法身がよくあるように、彼の現世の罪を除き、来たるべき善果を得させる。これを真実の慈悲菩薩折伏門の行とする。

しかし、大乗の菩薩の戒は、甚深広大であって、出家在家とわず、十界の衆生にとって、一分の慈悲心あるものには、みなこれを受了させるものであるが、今引く経文などはもっぱら出家菩薩の受持するところであり、そしりきらうことを誡める類いのものである。だから、そもそも一切の衆生がみな機根が熟して、出家の戒を受持するような時に至れば、決して軍事に及ぶ諍いにはならないのであって、ましてや弥勒仏が世に現れるよき世、また浄土には十悪の衆生は存在しない。

だから経に言うではないか、世間に四輪王が出世することがあると。金輪聖王が世に現れるときは、天下の人民は普く十善道を修して王に従わない者はなく、故に軍隊武器などを用いることがないという。銀輪王が世に現れるときは、王に従わない者があったとしても、王が出向いてその威厳に家臣がひれ伏す様子から人民を教化して十善道を修させる。銅輪王が世に現れるときは、諸国に従わない者があったとしても、王がその国々に出向いて、威厳を示して徳ある施政を敷くことによって従わせる。鉄輪王が世に現れるときには、諸国に従わない者があるが、その国に王が出向いて威厳を示して軍隊を列ねて降伏させ、人々を善導して十善道を修せしめる。

しかし、釈迦がこの世に現れたときには、人の寿命が百歳の時で、五濁悪世の時なれば四輪王や弥勒出世の時とは違い、釈迦世尊の第一の信者である、ビンビサーラ王やパセーナディ王など、みな悟りの階梯の初果つまり預流果や地上の菩薩ではあるが、それでも各地を征討して勝利を得ている。

また、(涅槃経金剛身品第二にあるように)釈迦世尊が過去世で、有得王という国王だったとき、覺徳比丘という如法の僧があって、王はこの比丘を助けて正法を興隆させるために、軍を差し向けて破戒の悪徳比丘らを征討した功徳により東方阿閦如来の浄土に往生したという。

しかるに、釈迦世尊は、これら軍事に対して、これを拒絶し、これを抑制し、これを禁止されたということを聞かないのである。しかしながら、勿論仏法の本意は、一切衆生を自身ないし肉身の如く見る、無我一体平等の真理に住して、しかも無辺の大慈悲を以て、一切衆生を彼岸に済度することにあるのだから、仏法の本意から論じるときには、多くの衆生の闘争はあえて論ぜず一有情さえ害するべきではないことは明らかであろう。

そうではあるとは言え、もしも、ここに悪しき衆生が存在し、国家の秩序を乱し、良民たちに毒をもって虐殺する様なことがあるなら、そのときにあっては、その他多数の一切の衆生を憐れんで、むしろ少数の悪しき者たちを征討して、万民を大切に育み、国家を安寧ならしむるべきではないだろうか。

このようなことは世尊が既に菩薩戒において、大功徳あるものであって戒律に違反するところはないと許されている。勿論これは在家の菩薩のことであり、出家の菩薩は許されざる事ではある。仏教はもとより、大慈大悲の精神なのであるから、憎むべき殺すべき一衆生も有るはずも無い。

そうではあるけれども、菩薩の大慈大悲は、その罪を憎んでその人を憎まず。故に、かの悪人に好き勝手に悪業を造らせて、その来世に無間地獄に堕落するのを傍観するのが忍びなく、むしろ速やかにこの者を殺害することによって地獄の業を止めて悪業を造らせないようにし、邪なる心を正して悪を遮り、よい心を生ぜしめる、その上で、後に再び人間界ないし天上界に生まれ変わることを願う。これは、また、同事に他の一切衆生の苦しみや患いを除き、国土を平和に安楽に保護することを願うことでもある。

これは、たとえば、良医が病患のために針灸を施すが、進行が急激な場合には、患部を切除して命を救うというような事があるのと同様である。その部位を切断するのはその人を憎むからではなく、その全体の命を救うためである。その場合その切断する部位の苦を顧みることなくその末節を切断することを躊躇することはない。

菩薩の大慈大悲の不殺生戒もまたしかり。悪しき有情の小さな苦を忍び、これを殺害するのは、そうしなければ犯していたであろう大罪悪を阻止し、それによって、未来永劫にわたって無間地獄に堕ちて味わうであろう苦悩を除滅することになるのである。このことは同事に、またこの悪人のために殺傷されることが予想された他の多くの衆生の命を救うことでもある。その功徳広大にして比べられるものすらないであろう。

どうして怪しむようなことであろうか。これを怪しむのは、ただ子供の見解と言ってもよかろう。ましてや、思慮分別なく血気にはやるだけで、遠い将来まで見通した深謀遠慮がなければ、かえってその身を害し国を亡くし家まで失うものであって、決して国家を愛し人々を守るべき賢明有能な臣下、良き将校とはいえないであろう。

ある易学の博士が言うには、今回の事件を占うに、某卦五爻を得たという。これより考えるに、今より三十五日間は、たとえ自国の兵卒が数十人殺害されたとしても、将校たる者は、心広く憐れみ深く、認め許す大度量あり、よく配下の兵卒を統率し決して軽々しく戦端を開くべきではない。これ実に一大事の件である。この故に、過日某将官に書を送って、その旨忠告したが、数千万の兵卒の中にいかなる揺るぎから発端となるかもしれず、こうした事態のためにただひとえに仏天の加護を頼むしかないのであって、願わくは、この際、和上および僧衆らに渾身の力をもってお祈りくださることを乞い願うと言われた。

これは実に去る6月中旬のことであった。以来さいわいに、無事に三十日あまりを経過して戦端を開くに至った。世間の学者博士たちすら国家を憂いて、さかんに将来を見据え、様々な憶測を建てる者は国家のために良きはかりごとをかくの如く奉るのである。

ましてや仏教は、この論者が言う如く、ただ自国あるを知り他国があることを知らず、一つの敵を見て世界に多数の敵が存在していることを見ないようなものではない。三界唯心、心の外に別に真如あらず、いまこの三界は皆これ我が命であり、その中の衆生はことごとく我が子であるとの大眼力、宇宙大の大胆力により三世三際を貫いて国家および一切衆生の利益救済を図る者をはじめて尊き仏教信者と称すべきなのである。

されば仏教信者たる者は、その心まさに正しく君主に忠義の誠を示し国を愛する精神、横溢にして、けっして臆病であったり消極的な者ではない。であるから、久しからずその某居士がまた来訪して言うには、宣戦の詔令が正に下ろうとしている、されど、今や軍隊派遣のことは当局者らによって議論されている。自分があずかり知るところではないので、われは日々護身法を結び、三宝を礼拝して、神明に誓って、国家の安寧を祈っている。もし、念彼観音力衆怨悉退散の観念が成就するならば、一切の諸法みなわが心中にあって、一切世間が皆仏法の働かないところはない。

よって、もしもいったん従軍の命令を賜る栄誉に預かるならば、痩せ馬に跨がり、粛々と戦に臨むのみである。思えば自分は仏法に帰依してから、以前のように心せまく、名利のために菩提心を失い迷いの世界にあるようなことなく、軍にあっても精神はゆったりと落ち着き、わずかなりとも功績を挙げる覚悟であると。

ああ、これ在家の仏教徒として深く仏教の本意に達して、軍事に対する観念を抱く者なりと。・・・」





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『ブッダという男』を読んで

2025年05月15日 07時15分08秒 | 仏教書探訪
『ブッダという男』を読んで



2023年12月10日刊『ブッダという男-初期仏典を読みとく』という本を読んだ。佛教大学総合研究所特別研究員の清水俊史という新進気鋭の先生が著した筑摩新書の一冊である。これまでブッダは、差別を否定し、万人の平等を唱えた平和主義者であり、階級差別や男女の差別を批判し、業や輪廻を否定した先駆的開明的な人物とされてきたことを真っ向から否定している。

その著作からここでは特にブッダの殺生や戦争に対する見解を学んでみよう。清水氏は、長い歴史の中で、仏教は殺生や戦争を何らかの形で許容してきたのだと述べている。

はじめに、スリランカの歴史書『大王統史』二五章を引いて、タミル人を駆逐してスリランカを初めて統一するために戦争で多くの殺戮を繰り返したアバヤ王は、自分に多くの悪業があるのではと心配していた。その王に対して、僧団の長老は、「貴方のその業によって天への道に障害となるものはありません。これについて、ただ一人半だけが殺戮されました。一人は帰依に住する者、他の一人は五戒にも住する者です。残りの者たちは邪見を抱き悪戒を持ち獣にも等しいと考えられます」と説かれたという。

アバヤ王の殺めた一人とは仏教に帰依し五戒を守る信者のことであり、帰依はしているが五戒を守っていない者は半人と数えている。つまり、戒を守っていない者は命の価値は一人として数えることなく、さらには、邪教の徒で悪しき行動をとる者は獣に等しく命の価値が低いと理解されていたのである。この後、「善を最上として福徳をなし、多くの決定的でない悪を覆い隠す者は、自宅に帰るように、天上へ趣く」と続き、アバヤ王は死後間違いなく天界に逝くであろうとある。

その場合の決定的な悪とは、仏道から外れるような極端な見解と無間罪(父・母・悟った人を殺す・僧団を分裂させる・ブッダの身体から出血させる)の二つであり、それ以外の悪は、たとえ百万人殺めても善業さえ積めば地獄落ちを回避できる可能性があると考えるのが上座部の解釈であるという。

また、初期仏典に残されるブッダの言行を考察しても、戦争の無益さを説く教えはあっても王に対して戦争そのものを止めようとした教えはないという。コーサラ国のヴィドゥーダバ王が釈迦族の首都カピラバストゥを攻め滅ぼそうとしたとき、弟子から「鉄籠をカピラバストゥ城の上に被せましょう」と提案されているが、ブッダはそれを斥け「過去の業縁が熟し、その報いを受けて釈迦族は滅びるだろう」と言われ放任された、と記している。

さらに、マガダ国のアジャータサットゥ王からヴァッジ族を攻め滅ぼすつもりだと奏上されたとき、ブッダは、攻め滅ぼされるヴァッジ族への憐れみから離間計の策略を助言して、征服を先延ばしさせたが、戦争そのものを非難したり止めることなかったのだと指摘する。

ブッダが生きた時代には、起こるべき定めの戦争は避けられないものとして理解されていた。が、そこには武士階級が戦争を起こすことは彼らに課せられた神聖な生き方であるとされ、業報輪廻の世界において戦争の惨禍は避けられないものと信じられていたことが背景にあるとしている。

また、アングリマーラが大量殺人を犯した人間にもかかわらず出家を許され、世俗での刑罰も受けることなく解脱していることにも言及している。大量殺人の悪業は、本来ならば地獄で何千年も煮られる報いを受けるべきところではあるが、アングリマーラの出家後の精進努力により悟りを得たがために、現世で大けがをする程度で済んだと経典にある。そして、ブッダは、アングリマーラによって殺害された被害者への憐憫の情を一切起こしていないとも指摘している。

清水氏が述べているように、初期経典において、ブッダは戦争の無益さを説き、殺生や戦争を積極的に是認したわけではないが、ときに戦争を容認し、人にも差別があり、多くの人を殺しても地獄にいくとは限らないとされており、決して現代的な意味での平和主義者ではなかったのであると結論している。

このほか、ブッダは、業と輪廻を否定したのか、階級差別を否定したのか、男女平等を主張したのか、などについても探求され、私たちが陥ってきた理想的現代的ブッダ像はそうあって欲しいという願望に過ぎないという。ブッダの歴史性を明らかにする際の障害は、神話的装飾や後代の加筆などではなく、ブッダは現代の私たちの願いに叶う有意義なものであって欲しいという衝動だとする。

万人の平等を唱えた平和主義者ブッダは人々の期待が生んだ神話に外ならない。誤謬と偏見を排しその実像に迫ると本書の帯にあるが、今一度大本から仏教の本質を捉え直す必要がありそうだ。




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資料・理趣経の簡要

2025年05月09日 09時29分27秒 | やさしい理趣経の話
理趣経の簡要  懇話会資料15/9/24 仏教懇話会資料として作成したものです。



初段  大楽-大きな欲-の法門 金剛薩埵が教えを説く
    一切すべてのものは、様々ではあるけれども、いずれもその本質、自性は清らかなものであって、
    その絶対の清らかな境地、大安楽を自ら体験し、他の一切のものにもそれを与えようとする心境を
    示すもの。 如実知見-坐禅後の庭の美しさ、パンの味、無心の遍路  如実知自心-大日経

十七清淨句
妙適は、男女の快楽を指すが、
    「妙適清淨」となると、永劫不滅の清浄の大楽のこと
欲箭は、その快楽を得んとする欲望の起こることを指すが、
    「欲箭清淨」となると、永劫不滅の清浄の境地を得んとする欲を起こすこと
触は、この欲により抱擁することであるが、
    「触清浄」とは、欲箭を本として正しく大楽の実相に触れること
愛縛は、触によって離れがたい心を生ずることであるが、
    「愛縛清浄」とは、大楽の実相を一切の者に与え、一切衆生を愛護する心のこと
一切自在主とは、この愛縛を受容する所であるが、
    「一切自在主清浄」とは、衆生を利益せんが為に種々の方便により自在に活動すること
見とは、欲望を起こして一切を見ることであるが、
    「見清浄」とは、正しくその大安楽の実相を開見すること
適悦とは、蝕の抱擁による喜びのことであるが、
    「適悦清浄」とは、大楽の実相に触れて安楽を得ること
愛とは、愛縛によりいつまでも忘れ得ぬ情を生じることであるが、
    「愛清浄」とは、衆生を悉く悟らせんとの心を生ずること
慢とは、一切自在なりとの心より生ずるものであるが、
    「慢清浄」とは、縁無き衆生強者をも救わんとの大自信のこと
荘厳とは、見を本として自ら美しく飾ることであるが、
    「荘厳清浄」とは、大楽の実相を開見して自ずから荘厳を得ること
意滋澤とは、抱擁の適悦により心に満足を得ることであるが、
    「意滋澤清浄」とは、実相を開見した大安楽から心に満足を得ること
光明とは、渇愛から前途に光を認めることであるが、
    「光明清浄」とは、実相に触れて天眼などの五眼を得ること
身楽とは、慢によって全ての畏怖を忘れることであるが、
    「身楽清浄」とは、五眼を本に仏の三十二相を得ること
色とは、自身を荘厳する本となるものではあるが、
    「色清浄」とは、仏の姿を示現する所のこと
声とは、抱擁の適悦を語るものであるが、
    「声清浄」とは、一切衆生が仏の教えを聞くにいたる所のこと
香とは、愛の光明により清涼を得ることであるが、
    「香清浄」とは、この説法をきくことによりそれを信ずること
味とは、それを体験することであるが、
    「味清浄」とは、かくして本尊と合一して一味となれること

◎妙適などの一切諸法、つまりすべての行い、思い、ものごとは、その本性としては元来清浄なるもの
  にして、もしも心の目を開いてこれらの本当の姿を実の如くに見るならば、それが般若波羅蜜であり、
  その境地より見れば、何一つとして清浄ならざるものは無いということ。

第二段 証悟の法門 大日如来が教えを説く
   一切如来の現等覚、つまり本当に完全な悟りとはいかなるものかを説いたもの
   平等とは、同じということ、等しいことではなく、同体、一つということ

「金剛平等」の悟りは、大円鏡智のことで、大円鏡の如く物事の真相を照らし出し、
    この悟りは仏と衆生というように分け隔てること無く、誰にも金剛の如く堅固な永遠不滅の智慧を
    もたらす永遠なる時間を生きることであり、それは今を真に大切に生きること
    坐禅の法悦境は永遠のもの-龍澤寺宗忠老師   
「義平等」の悟りは、平等性智のことで、すべてのものを自分のもの他のものと分け隔てをしない見方
    本当の宝財価値について知悉する智慧から福徳をもたらし慈悲心を抱くにいたる
    全てのものに価値を見いだす、小さな自分の見識で簡単に判断できるものではない
    つまらないと言うは自分の小さな知恵袋-長岡師
「法平等」の悟りとは、妙観察智のことで、ありとあらゆるものを微妙に観察する智慧の境界
    全てのものに愛情をもってよく観てその価値に気づくこと 
    自分を知ることは他を知ることでもある、
    いまの自分の行い、心の中身を細かく知ること大切-如実知自心
「業平等」の悟りとは、成所作智のことで、自分の感情利益などを中心とした分別を超えた所の行い、
    そうした行いに純真な勇気精進を沸き立たせる源泉となる智慧の境界
    自と他、何の差別することなくあらゆるものを生かしていこう、価値を見いだして引き上げて
    いこうとする行い。善行とは、自分のため、他のためでもあること 利他だけの行為はあり得ない

    二而不二-二つであって二つでない、別々のものが実は本来全く一つのもの 
    同体大悲-みな一つのもの大いなる慈悲心を起こして他のためにすることは自分のためでもある
    内求菩提 外化衆生-他のために教え諭すことは自分の悟りのための功徳となる

◎本当に完全な悟りとは、もののありようをあるがままに悟るだけでなしに、自と他をよく観察し、
  その価値に気づき、それらを生かすために、今を大切に分別を超えた行いを為していくこと-生かせいのち

第三段 降伏の法門 降三世明王が教えを説く
   前段では大日如来がそのままのお姿で、本当に完全な悟りとはどのようなものかについてお説きになられたが、
   ここでは、大日如来が釈迦如来の境地に入り、降三世明王の姿を現して、その完全なる悟りを得る為に、
   全ての物事が自他の対立を超えたものであることを悟ることによって、貪瞋痴をはじめとする一切の煩悩、
   悪を打ち負かす教えを説く。

 戯論とは、ものを差別して対立的に見る見方を指し、
    無戯論とは、自分という中心を離れ、自と他、自分と自然という対立を超え、全体として物事を捉えること。

「欲無戯論性」とは、欲は、単に小さな自己の欲を満たし、それによって邪悪を作り苦しみを招く為にあるの
    ではなく、本来的には善悪自他の分別、相対性を超えた絶対性のものであり、そこから本当の欲の活動、
    無辺の一切の衆生を誓って悉く済度、苦しみから救い悟らせんとする大きな欲の活動となること。
「瞋無戯論性」とは、貪欲がこのようなものであるので、その貪欲から導かれる瞋恚もまた絶対性のものであり、
    不動明王の如く怒りの形相を以て衆生の救済にあたる大瞋となるということ。
「痴無戯論性」とは、貪欲、瞋恚がこのようなものであるので、それらから発生する痴も絶対性のものであり、
    自己の執着を離れて私情を捨てて衆生の為に働く叡智となるということ。
「一切法無戯論性」とは、貪瞋痴がこのようなものであるので、それらから発生する邪悪な心、驕り、妬み、怨み、
    などすべての汚れた心も本来的には絶対性のもの、つまり自己の枠にとらわれたものではないということ。  

◎心の中にある様々な煩悩、その根元には自己へのとらわれがあり、そこから様々な欲が生じ、
 その欲によって思い通りにならない怒りが生じ、様々な理不尽な思いをもつにいたる。
 自分自分という自分が可愛いという心の汚れに気づき、自分と他との境界を無くしていく、様々な垣根、
 自分の家と外、人間の世界と自然界というような境を取り払うことで、自分の小さな欲がより大きな欲へ転換され、
 怒りも愚かさも多くのものを救う智慧へと転換されていくということ。

第四段 觀照の法門 観自在菩薩が教えを説く
   大日如来が阿弥陀如来の境地に入り、観世音菩薩の四種不染の法門を説く。
   前段で様々な煩悩を打ち負かしたので、一切のものたちの本当の姿、人間の得手勝手な推理や感情ではなく、
   本来のありのままの相を如実に自在に観察する智慧を説く。ものごとの実相を如実に観察し照らし出す智慧を
   獲得することによって、初めてその真相に接し、一切の仮面を取り去って本来の姿で正しく見たり、
   正しく生きていくことが出来る。

「一切欲清浄なるが故に一切瞋清浄なり」とは、世間における様々な貪欲もみな本来の立場から見れば、
    そのまま悟りを求め衆生を教化せんとする仏菩薩の大欲に他ならないので、欲から導かれる瞋も、
    みな大悲の上の大瞋となるということ。
「一切垢清浄なるが故に一切罪清浄なり」とは、世間の貪瞋痴の垢、愚痴無知の心の汚れも全く自分という
    小さな執着を離れてみれば、全ての罪業を離れて清浄なる仏の全てを救わんとする働きを示すことになる。
「一切法清浄なるが故に一切有情清浄なり」とは、貪瞋痴の煩悩を元とする全ての悪い思い考えも、
    本来の立場からその本質を照覧して活用するならば社会人道の為になる清らかな思慮となって、
    その思慮を有する一切の有情つまり衆生は、そのままに仏菩薩となるということ。 
「一切智智清浄なるが故に般若波羅蜜多清浄なり」とは、世間においてそれぞれに分別し思い考えることも
    自他の対立を離れてみれば仏の智慧となり、そこに全てのものごとの実相を自在に観察する
    清浄なる仏の智慧が現れるということ。

◎この俗世間の中で清らかな心を保つにはどのようにしたらよいのか。欲も怒りも、それらから身に付く垢も罪も
 様々な善くない思いもみんな自と他という自分を中心とした思いの中から生まれてくるものであり、
 その対立を離れて観るならば、そこには仏の清らかな心が、つまり一切の衆生を我が身と見る智慧が湧きだしている
 ということ。泥の中に凜として咲く蓮の花が泥に汚されることなく清らかであるように汚れているかに見える人の
 心も本来清浄なる悟りの智慧そのものであるということ。

第五段 富の法門 虚空蔵菩薩が教えを説く
   大日如来が宝生如来の境地に入り、虚空蔵菩薩の心である四種の布施の法門を説く。
   四種の布施によって、三界にある全てのものを宝にかえる智慧、この世、宇宙全体は仏の灌頂智という
   宝の蔵であるということを教える智慧について述べている。

「灌頂施」とは、頭の頂点に法水を頂く儀礼によって、宇宙ほどの広い自由な世界を発見する目を開く、
    そうした縁を人に施すこと。それによって、全てのものを支配すること、
    つまり富と福徳が自由に手にはいるということ。
「義利施」とは、灌頂施によって身に付いた富や福徳を器量高徳の人に施すこと。
    それによって心が満たされ願いが叶えられるようになるということ。
「法施」とは、読経や講説などを行うこと。この世の真理の教えを広く施すこと。
    それによって全てのことが好ましい方向に収束されていくということ。 
「資生施」とは、生を助けること。衣食住など生活に必要なものを施してあげること。
    それによって身口意の行いがもとより安楽となるということ。

◎自分は一凡夫にして、そのまま仏の身を分け与えられている者として、他の人々にわずかなものでもこれら
 四つの施し、仏さまとの縁を施す、富や福徳を施す、教えを施す、生活の糧を施すことによって、
 それはそのまま仏が仏に施すことにもなり、その功徳によって、一切の福徳を所有する虚空蔵菩薩の境地を
 得ることができるということ。小さな我という殻を無くすことによって自分はそのまま宇宙大となって、
 たとえ米一粒の施しでもそれはそのまま宇宙一杯に充ちるということ。

第六段 実働の法門 金剛拳菩薩が教えを説く
   大日如来が一切如来智印如来(不空成就如来)の境地に入り、金剛拳菩薩の三密四印の法門を説く。
   前段にて無尽の宝を発見するに至り、それに基づいて社会に実際に働きかける姿について身と語と意の三密が
   一体となる働きを示す。身と語と意を仏の身語意に倣うことによって、一歩一歩仏の実働が顕現する。

「一切如来の身印を持する」とは、小さい自分という思いを離れて、一身を社会人道の為にささげ生きとし生けるもの
    たちのために働くこと。それによって、諸々の福徳慈善活動が円満する。
「一切如来の語印を持する」とは、正しい仏の教えを説いて人々を苦しみに陥れる淫祠邪教を退けていくこと。
    それによって自在に人々に法を語る力を得るということ。
「一切如来の心印を持する」とは、あまねく利他の精神を発揚して難攻不落の衆生をも捨てずに、救済しようとの念を
    もって時に剛く怒りの相をも示して他を救う働きを為すこと。それによって、智慧を得て、全てのものと
    同体であるとの大悲に住することが出来る。 
「一切如来の金剛印を持する」とは、身語意の働きが和合して、一切の働きが成就して、仏の身語意の実働を体得して
    速やかに無上のさとりを得ることができるということ。

◎清らかなさとりの智慧を得て、またそこから湧き出す宝を手にして、さらに世間に向かって働きかけていこうとする
 ときに何を以って立ち向かうべきか。仏の身的活動、言語的活動、心的活動、さらにはそれらを総合した活動を
 もって行うべきであって、それによって、次第に自らが最高の悟りに向かって歩みを進めていることを教えている。
 一人一人の様々な原因と縁によって起こるそれらの活動によって、世間の生きものたち全てがお互いに供養しあって
 いるのが私たちの世界ではあるけれども、様々な個性を生かすことによって宇宙全体は絶え間なく盛んな働きが
 そこに生まれている。

  (これまでの理趣経のあらましと七段から十段まで)

初段  金剛薩埵  すべてのものは清浄 自他の区別を持つ欲から、自他の区別のない大きな欲にかえる道を説く
二段  大日如来  すべての物の価値に気づきそれらを生かしていく智慧を説く
三段  降三世明王 自他の区別を超えることによって心の中の三毒を調伏する智慧
四段  観音菩薩  すべてのものを自他の対立のない清らかな目で見る智慧
五段  虚空蔵菩薩 ほどこしによって宇宙に充ちる無限の宝を発見する智慧
六段  金剛拳菩薩 身と口と心の仏のはたらきを身につける智慧

 初段二段は総論、二段から六段までは、理趣経で説く智慧の内容を披露する。
  七段から十段までは、理趣経の智慧を得る修行を示す。

第七段 文殊菩薩
    転字輪とは、全てのものに阿字を当てはめること。世の中をどう見ていけばいいのかということ。
    この世のすべてのもののあらわれは決まったものでなく(空)、特徴が無く(無相)、目的が無く(無願)、
    智慧の光を宿している(光明)と智慧の目で見ることによって、すべての如来の権威に象徴される固定的な
    ものの見方を断ち切っていく究極の姿を説く。

第八段 転法輪菩薩 
    入大輪とは、金剛界の大曼荼羅に入ること。真理の世界に入るにはどうすればいいのかということ。
    仏も自分も共に、堅固で永遠性をもった性質であり(金剛平等)、特質や持ち味も(義平等)、
    すべてのものも(一切法平等)、働きや活動も(一切業平等)も本質的に一つであると気づくことによって、
    悟りの曼荼羅世界に入っていけることを説く。

第九段 虚空庫菩薩
    供養の最勝とは、供養の本質本当のもの。供養とは本来どうあるべきかということ。
    悟りへの志をもち(菩提心を起こす)、一切衆生を救済し、理趣経の精神を自分のものにし(妙典を受持)、
    般若経典を読み写し他に伝え思索し実践することが、諸々の如来に供養することになる。
    つまり花や灯明香といった物の供養の先に、自ら教えを学び他を救い上に引き上げていくことこそが
    仏様方への最高の供養であることを説く。

第十段 摧一切魔菩薩
    調伏の智蔵とは、力で仏道に引き入れること。その際の忿怒はどうあるべきかということ。
    すべての生きものは一つなので皆が良くあらねばならず(忿怒は平等)、みな教化されねばならず(忿怒は調伏)、
    みな真理を体現していなければならず(忿怒は法性)、堅固な永遠性を持つもの(忿怒は金剛性)として怒りが
    あるべきだということを説く。

第十一段 普賢菩薩
   一切のものが同体であるとの境地に住して、現実世界にいるものとのつながりから、
   さとりの最上のものをあきらかにする。

一切衆生は本来堅固な菩提心を持つので、般若の智慧を得れば、本来具わる菩提心を悟る(平等性)、
一切のものは沢山の功徳を本来もっているので、般若の智慧を得れば、すべてが無尽の功徳の現れと悟る(義理性)、
一切のものが蓮のように清らかなものであり、般若の智慧を得れば、すべての本性清浄なるを悟る(法性)、
一切衆生は本来仏の活動をしているので、般若の智慧を得れば、その働きは他を利益し供養していると悟る(事業性)、
◎これらのことから我と思っているものがそのまま仏なのだと、衆生が本来具足する菩提心を建立することを説く。

第 十二段 大日如来
   加持とは、仏から力を与えられて、真実に気づくこと。私たちが仏であるというのはどういう理由かを説く。
 
すべての命あるものは、仏の蔵に自分が包まれ、また自分の中に仏を包み込んでいるということ(如来蔵)、
   (その如来蔵を三つに分けて)
灌頂とは価値に目覚めることで、本来すべての命あるものは宝の蔵を持っている(金剛蔵)、
もともとすべての命あるものは真実なる言葉で法を語る、説法の資質があり、妙法の蔵を持っている(妙法蔵)、
すべての命あるものは仏の行いに応じた活動を行っているので、無限の仏の働きの蔵を持っている(羯磨蔵)、
            
そして、仏教を外護するインドの神々も仏であると説く。

第十三段 七母女天
    炎魔天母、毘紐天母、帝釈天母、倶吠羅天母、梵天母などの七人の有名なインド神の后が登場して、
    仏の足を頂礼して悟りの真実の真言を唱えたということ。

第十四段 三兄弟
    梵天(ブラフマン)大自在天(シヴァ)那羅延天(ヴィシュヌ)というインド教の最高神らが
    同じように御足を頂礼して真言を唱えたということ。 

第十五段 四姉妹
    大自在天の眷属で、ジャヤー、ヴィジャヤー、アジター、アパラージターという女神も真言を唱えた。

第十六段 大日如来
   これまでの十五段までの教えを総まとめするために金剛のように確かな真実の智慧を説く。
◯真実の智慧・金剛部は計り知れないほど大きいので、仏の智慧も計り知れない。
◯真実の智慧・宝部は無限であるから、仏の智慧も無限である。
◯仏の法は分け隔てのないものであるから、真実の智慧・蓮華部も分け隔てのないものである。
◯仏の法は永遠であるから、真実の智慧・羯磨部も永遠である。

これら四部がそれぞれ五部を具えて、無量無辺であり、一性究竟であること。
   一つのことが全体に通じているということ、曼荼羅はこの宇宙全体を表したものであるので、
   現実世界の全てのものたちに五部の仏とその智慧が行きわたっているということを表している。
   私たちも一人生きているのではなく、世の中全ての者たちと共に共生し助けられている。
   そして自分も周りの全ての生き物たちのために役立っている無限のつながり、
   関係性を自覚することが菩薩行となっている。

第十七段 金剛薩埵
   初段同様に理趣経の全体像を示す。絶対の悟りの境地である金剛の真理をあらわす般若波羅蜜の教えを説く。 
◯欲を捨てるのではなく大きな欲にすることで、大楽・絶対的な楽しみ、永遠に続く楽しみ、
  つまり自分を捨てて人のために尽くす楽を得られる。
◯大楽を完成させることで、一切如来の絶対の悟りが得られる。
◯一切如来の絶対の悟りが得られると、水難火難といった災難、病気やもめ事として襲いかかる魔を砕くと
  同時に自らの心の魔、つまり貪瞋痴の煩悩も除かれ、現世利益と精神的な幸福を得られる。
◯大力の魔を砕くと、欲の世界・物質の世界・精神的世界においても全くの自由を得られるということ。
  自分のおもむくまま、必要な物が手に入り、心も常に満たされた状態となる。
◯そしてそうして悟りの世界にとどまることなく、生死の世界であるこの世にあって、生けるものたちを救い
  利益し安楽を与えるために精進することが究極の理想とする姿であるという。

百字の偈
第一偈 すぐれた智慧ある菩薩は、死ぬまで多くの生き物たちの利益のために活動し、悟りの世界に行かない
第二偈 悟りの智慧と現実世界への働きかけによって、その一体となった知恵の働きによって加持を受けて、
    一切の生き物たちを清らかにする
第三偈 大欲などによって世間の人々を浄めていき、地獄から天部までの全ての生きとし生けるものたちを
    正しい方向に連れて行く
第四偈 泥沼に咲く蓮が泥に染まることがないように欲も本来清らかなものであって、染まることなく大衆を利益する
第五偈 我のない大欲は本来清浄であって、絶対の安楽であり、豊かであり、あらゆる世界で自在になって
    大きな利益を為す

  ◎この五偈が理趣経の曼荼羅五秘密尊のそれぞれの悟りを表し、理趣経の最高の理想像であると言われる。

この後この十七段の功徳が綴られ、毎日朝夕にお唱えし聞くならば、一切の安楽、心の平安、
そして最高の理趣経の悟りさえ得るとある。

流通分
一切の如来や菩薩たちが集まり、この理趣経の法を成し遂げるために説き手の中心にあった金剛薩埵を称賛して、
善哉善哉 サードゥーサードゥーと、大菩薩たち、大安楽、大乗の教え、偉大な智慧を善きかな善きかなと褒め称え、
よくこの理趣経の教えを演説し、このお経に仏の力を加えられ、
この最勝の教えを持する者はどんな悪魔も打ち砕き、仏菩薩の最高の位を得て、永遠に諸々の悟りを得ることができる
そして、一切の如来菩薩は今まで説いてきた非常にすぐれた説を説き終わり、
理趣経を持する者みんなに悟りのきっかけを与えようとすると、皆喜んでそれを受け入れ大いに喜んだ。

合殺
  ひろしゃだふ ヴァイローチャナーブッダ 大日如来の念仏

回向
我らが為した般若理趣の悟りの功徳を最上の悟りに回向します
仏よ、我らをあわれみ、仏の誓願の中に取り込み、行いのさわりを消し除いて、大楽の悟りを得せしめ給え、
この功徳によって諸天神祇もその威光を増し、当所鎮守権現も法楽を増し、高祖大師も法楽を増し給わんことを
一切の諸聖霊も仏道を成ぜんことを 天皇の御代が安穏にしてその聖寿を増し、四海天下平和にして正法興隆し、
教法を継承する弟子を護持して不詳を除き、罪障を滅し善功徳を生ぜしめ仏道を成し遂げんが大願を成ぜんことを
悟りへの修行とその願いを捨てることなく、三界の衆生を引導して仏の世界に進め、皆悉く一つであるが故に
大日の阿字の世界に入らしめん。
                                        以上理趣経の解説を終わる


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戒名とはなにか

2025年05月01日 17時03分32秒 | 仏教に関する様々なお話
戒名とはなにか




いま私は生まれたときの名前と、苗字も下の名前も違う名前で生きている。各宗本山などで出家をし僧名を授かり度牒というものをいただくと、度牒証明書を発行してくれる。それを家庭裁判所に提出すると、戸籍の名前が僧名に変更される。

こちらに来てから先代に催促され、家裁に度牒証明書を提出して戸籍の名前が換わった。ただ、その時はまだ苗字はそのままだった。そのあと、先代がやはり養子になってもらうと言い出されて、これで苗字も換わって上も下も換わってしまったのだ。

本来戸籍の名前というのは、そう簡単には変更できない。先の戦時下で首相をされた広田弘毅さんは親のつけてくれた名前が気に入らず、わざわざ出家されて仏門に入り改名した人だった。

過去には戦国時代に活躍された武将の中には、信玄、謙信など出家をされて僧名で世に知られている人も多い。常に死と隣り合わせにある時代に、死を覚悟して日々真剣に生きるという意思表示だったのだろうか。

そこには、出家して俗世間を離れ霊験を得たいという思いもあったかもしれないが、当時すでに天皇皇室の方々が生前に出家をされたり、死の間際に出家をしたり、間に合わず死後出家をしたことにして、野辺の送りをするということが、最高の葬送だったことと無関係ではないだろう。

つまり僧になって名を改める、それは戒名を受け戒律を授かり生き直す、さらにはいつ死んでも後悔などすることなく、潔く逝くことを意味していたのであろう。僧として逝くことで、確かなところ、善きところに、つまり仏の道を歩むという迷いない道しるべとして出家があったのではないか。それが最高の身罷り方だったということだろう。

しかし、これは死に方について特別こだわりを持つ、非常に日本人的な発想からきているではないかと思う。実は他の仏教国では仏教徒が亡くなったからと戒名をつけて葬るということはしない。どんなに在家の戒を守り修行したとしても、若いときに一時出家をしたりしても、一度捨戒して一般人になったら、俗名のまま葬られる。

インドの僧院にいるころ、よくニマントランという仏教徒の家にお呼ばれして行ったものだが、昼食のもてなしのあと、短いお経を唱え帰ってきたが、仏像や仏画はあるが、戒名がないわけだから位牌のようなものはなく、食事したその場でお経を唱えた。

因みに法事はきちんとなされていて、亡くなって初七日、半年、一年目、二年目などになされている。そのときはサンガダーンと言って、必ず四人以上の僧が招かれ、先にお経を唱え法話があり、施主らが大きな金属のお盆に水を注ぎ、その間短い偈文を唱え功徳を廻向する。そのあとすぐにその場で昼食が振る舞われるが、お経よりも施食に重きを置いているようだった。

脱線ついでに、今日インドの仏教聖地の復興を成し遂げたスリランカのアナガリカ・ダルマパーラという方がおられたが、この人はアナガリカという、仏教のために仕事をする在家居士のまま晩年まで過ごされた人だった。しかし、亡くなる三ヶ月前に出家して比丘となり袈裟を纏ったまま亡くなっている。

これと同じようなことを日本でされたのが平安中期の公卿・藤原道長であり、やはり亡くなる八年前に出家して僧となり、彼は自ら九体阿弥陀堂を本堂とする大寺院を建立し、死ぬ間際には阿弥陀如来の手に結び付けた五色の紐を握りつつ、多くの僧に読経させ自らは念仏を唱えつつ亡くなられたという。

一般在家の人が亡くなって略式の得度式を執り行い戒名を付けて葬るというのは日本だけの作法だが、いまに至る歴史背景があり存続しているのだろう。天皇皇室のなされてきたことを一般庶民もそれに倣い行われるようになってきたのである。江戸時代に、寺檀制度によって、すべての国民が仏教徒となって寺院の檀家になるよう強要され、亡くなれば当然のように戒名をつけ引導を渡された。さらに明治になり神道国教化となって一時神葬祭がなされた時期もあったが、その後仏事に関することは寺院が分担することとされて存続した。

そして、戦時下では、英霊には特別立派な九文字の戒名が本山から授与され、戦後亡くなった祖父母方は英霊の戒名にならって長い戒名が付けられることが一般化した。昭和から平成、令和の時代になっても、未だに、江戸幕府のキリシタン禁制から発せられた民衆統制のために制定された寺檀制度がほぼ継承されてきている。何の縛りがなくても続いているということは、それが日本人にとって一番相応しい、しっくりくる作法だということなのかもしれない。

決して悪い習わしではない。普段あまりお寺に出かけないような人であったとしても、亡くなるときにはきちんと戒を授かり俗名を捨て名を改めて生き直す、生まれ変わる作法として意味ある儀礼なのだと言えよう。願わくは、その意味をよく了解して受け入れていただければ有り難いと思うのだが。



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