住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

捨てるということ・1

2006年08月31日 08時43分06秒 | 仏教に関する様々なお話
年初に考えた。もっと捨てねばと。あれこれ何もかもしようと思うその思いを捨てねばと思った。年末年始、猫の手も借りたい忙しさの中で、何をすべきか。何をせずに済ませるか。もっと選別することが必要だと。実は、こんな書き出しで今年の初めに書き出した文章がそのままになっていた。折角なので次に続けようと思う。

本来仏教は捨てることを本義としている。持ち物、財産、地位役職、それらの重荷、思い計らい、欲、執着、怒り、邪な思い。それらをすべて捨ててこそ出家と言えようか。捨ててこそ得られるもの、それが出家の境涯のはずである。本当は。

しかし日本の場合、出家は得度の儀式をもってしても、衣や白衣、足袋に帯、それに如法衣という袈裟など、一通り揃えることから始まる。必要最低限の物で済ませるから身軽になり、心も軽やかになるはずのものなのに、始まりから、色々とやかましいことが付いて廻る。住職になればなおさらのこと。しかしそれらをすべてクリアした上でなおかつ捨てるということが何よりも大切なことなのではないか。

修行道場にあっては、それが日々の勤めであり、読経、坐禅、修法など様々な修行もその為にあると言っても良い。もう20年も前のことではあるが、真言宗の僧になるために高野山の専修学院という専門道場で、四度加行という初歩的な行をしたことがある。

その時、100日ほどの間新聞テレビはもちろん、家族からの手紙も電話も一切出来ない、外部とのやり取りを一切遮断された環境の中、修行だけに専念した。一日3座の修行の間次第次第に時々、様々な過去の、それも随分昔の子供時代から社会人時代の心に引っかかっていたような記憶が現れては、その時に意識していなかったような心の奥深くに沈殿していた感情が表れて、そしてそれを解消するようにたち消えて行った。

おそらく外部から入る刺激を捨て、ほぼ同じ事の繰り返しの修行の中で心落ち着き、沸々と過去が立ち現れてきたのであろう。たとえば、高校卒業後すぐに入って5年間もお世話になりながら、大学卒業してすこし後にその会社を辞めることになり、その辞めるときにとても可愛がってくださった社長と十分に話もせずに退社していた。いや頑なにうち解けることを拒むことで辞められたのであったが。

その時の情景が、行中に突然ありありと現れて、当時心の中にありながら素直になれずにいた感謝の心があふれ出し、しばらくすると心に封印されていたわだかまりが解かれ捨て去ることが出来たようであったことを思い出す。

日常の雑事に追われる中でこうした経験をすることは稀であろう。むしろ、日常にあっては、この過去にあった心の奥深くに沈殿させてしまうような複雑な感情を持たないように心がけることが大切なのかもしれない。

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四国遍路行記11

2006年08月29日 16時53分58秒 | 四国歩き遍路行記
次の日もAさんがお供して下さった。太龍寺の麓から10キロほどの道のりを歩く。途中薄暗い竹藪の中の道を抜ける。光が竹の葉に透けて、きれいな黄緑色の空間を醸し出していた。幾重も落ちた竹の葉の感触も柔らかい。思わず寝転がりたくなる衝動を抑え、心持ち軽快に足が前に進んだ。

22番平等寺は、山裾に位置しているため山門を入ると正面に長い石段が目にはいる。本堂はずっと上だ。山号を白水山と言い、お大師様がお参りのみぎり、五色の雲に乗って薬師如来が現れ、祈祷するため井戸を掘ったところ乳白色の水が湧き出たという。その水は今でも滾々と湧き出て、その水で入れたお茶をお接待にいただいた。

昔は遍路宿を経営していたのではないかと思われる家並みを抜けて、先を歩く。途中小さな森の中に番外の札所であろうか。お大師様を祀ったお堂があった。そこを抜けると国道に出る。Aさんと、とぼとぼ歩く。すると一台の新車が私たちの少し前に止まった。運転席から背広姿の初老の男性が降りてきて、「どうぞお乗り下さい」と言う。

Aさんと顔を見合わせ、乗り込む。聞くと、いま車屋さんから受け取ったばかりの新車で、どなたかお遍路さんを乗せたかったのだと言われた。丁度次の薬王寺近くの高等学校まで行くらしい。そこの校長先生であった。

渡りに船。初心者遍路にとっては特に有り難いお誘い、お接待である。新車にお遍路さんを乗せて接待し、それを交通安全の祈願にするというのか、それとも新しい新車で共々功徳を積むことで、縁起の良い新学期をスタートさせたいということであったのか。とにかくも、何ともありがたいお接待であった。

23番薬王寺は、国道沿いの入り口から石段を幾重も上がっていく。平安の昔から厄落としの寺であったと言われ、女厄坂33段、男厄坂42段の石段の脇には小銭が沢山置かれていた。本堂前まで来ると、視界が開け、後ろには日和佐の海が一望できる。ウミガメの産卵でも有名なところだ。本尊さんは薬師如来。ゆっくりと理趣経を上げる。右手山上には瑜祇塔が美しい。多宝塔の屋根の中心と四方に五本の瑜祇五鈷を乗せた姿をしている。

この日も多くの参拝者が後先にお参りしていた。夕刻が迫っていたが、まだ日も高く先に歩を進める。そろそろAさんとも3日目。Aさんもいつまで一緒に歩いていいものか思い計っているようでもあった。心なしか口数も減ってきた。

私が衣を着込んだ僧侶ということもあって、お昼の食事から宿代までご面倒を掛けていた。国道をとぼとぼ歩きながら足が次第に楽になってきた分、明日のことを考え、また今日の宿のことを考えていた。普通はその日の宿くらい電話を入れておくのがマナーというものだろう。しかし歩き遍路はこの日の車の接待のように、どうなるか分からない。だからこそおもしろいし、出会いの妙がありがたい。

日和佐を出て、牟岐の街まで来たところで夕刻になり、日が傾いてきた。JRの駅を過ぎて左に入った宿に入る。「私はこの先でどこかに寝袋を広げますから・・・」と言うのに、Aさんが「今晩までお接待しますから」と言われるので、厚かましいかとは思いながらもお供させていただいた。同じ関東出身で巡り会わせた機縁、励まし合いながら手探りのAさんとの三日間であった。

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根源的少子化対策

2006年08月27日 18時10分15秒 | 時事問題
私の知人に30代半ばのコンピューターのプログラマーが居る。実際どんな仕事なのか畑違いで見当も付かない。確か外資系の保険会社の嘱託のような立場だということだった。数年前には別の会社から正社員の口を誘われたが、当時はまだ遊びに熱中していて年に数回海外に出るため断ってしまった。今では請負というような状態なのではないか。

その彼が結婚してもう5年になるだろうか。奥さんは派遣の仕事で、ある会社の事務仕事をしていたが残業残業でこき使われ、少々精神的にきつくなり休業中だ。親たちは早く子供をと思っても、経済的な後ろ盾もなく、また健康も害していては子供どころではない。それは例外的なケースではなく、今の日本の若い人たちの結構多くを占める世帯の実体ではないだろうか。

8月18日の朝日新聞「検証構造改革第3部経済再生」によれば、雇われている労働者の3分の一が非正社員なのだそうだ。バブル崩壊後企業は自己防衛のため人件費を削った。この影響をまともに受けた15才から24才の若年労働者の2分の一が非正社員であるという。

99年の労働者派遣法改正では一般事務も派遣の対象となったが、04年には製造業も対象になった。非正社員は厚生年金など社会保険の対象とならずすべて自前で国民年金や健康保険を負担せざるを得ない。しかしそれさえも払えずにアルバイト生活で食い凌ぐ若者も多い。

かつて終身雇用制による安定した人生設計のもとに多くの国民が中流意識をもてる国であったわが国は、今や明日の仕事に不安を抱え、結婚も、子供も、持ち家も諦めざるを得ない現実が到来していると言えよう。そればかりか親と同居しすべて依存して暮らす若者、いや30代40代も増えている。つまり自立さえできない情況をもたらしてもいる。

少し前から新聞にCEOやらCOOという聞き慣れない言葉が並ぶようになった。CEO (chief executive officer)とは、最高経営責任者のことで、米国型企業において、経営実務に責任と権限を有するトップのことだという。米国型企業では、企業の所有と経営を分けて、所有者(株主)を代理する取締役会が、経営を行う執行役員を任命する。そのトップがCEOだ。

つまりは米国式の企業収益至上主義の、社員は常に他と比較され競争に晒される単なる使い捨ての駒という組織体のことではないか。こうした企業制度が日本の風土に適しているのであろうか。8月21日の朝日新聞1面には上場企業の30代に心の病が成果主義の普及により急増しているとある。何と30代社員の61%が心の病を抱えているとある。

少子化・男女共同参画対策担当として内閣府特命担当大臣などという聞いたこともない役職を特設してまで、多くの税金を使って政府が躍起になっている少子化対策ではあるが、根本的な原因さえ分からずに小手先の対策をいくら重ねても何の役にも立たないであろう。

私たち国民が安心して将来設計の出来る社会を作ること、それに尽きる。安易な日雇い雇用制度を改め、安定した人生設計のできる雇用を回復することが先決ではないだろうか。働き口もない若者たちをニートやら引きこもりと責め立てる無責任を問いたいと思う。

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靖国問題の本質こぼれ話

2006年08月23日 09時04分09秒 | 時事問題
先に靖国問題の本質は私たち日本人の宗教観の問題であると書いた。神に対する思いが他国の人たちと著しく違う。私たち日本人特有の曖昧な感覚が災いしているのであると。つまり宗教とは神仏に対して一方的にこちらの思いを訴えるものでは無しに、神仏からの教えや戒めを受ける立場であることを私たち日本人は理解していないのではないかと思うのだ。

仏教では、在家者には五戒があり、不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒とある。事あるごとにこの五戒を受け、また葬儀の際にも唱えられるものではあるが、こうした戒律をどの程度自らの戒めとして実感しているであろうか。

もう10年も前のことではあるが、インドの地でインド仏教徒の中で暮らしていたことがある。サールナートに一年暮らし、ヒンドゥー教徒の家族に招かれ食事をしたこともあった。ヒンドゥー教徒にはベジタリアンが多く、同じ階級でもベジタリアンかそうではないか、また卵を食べるか食べないかによってクラスが違う。

バラモンやクシャトリア階級の人たちとの付き合いが多かったが、彼らの中でも自己規制をしている方が上位に位置づけられる。そんな気高さを大切にするが故に彼らはより神に近いと感じてもいるようであった。お酒を飲んだりする人たちは門外であって、ならず者、ヤクザ者という目で見られているようであった。このような生活面で宗教がどれだけ私たち日本人の生活を規制しているかと言われれば誠に心もとない思いがする。

しかし、そもそも僧侶自体が、僧侶の戒律を、つまり沙弥の十戒、比丘戒(四分律であれば二五〇戒)をどの程度自ら僧侶足るべき者として自戒し受け入れて居るであろうか。明治時代に肉食妻帯蓄髪は勝手たるべき事という太政官符が出され、仏教僧の戒律が全く保てない状態に陥って今日に至っている。

しかし、では、それまではきちんと整然と戒律が各々の宗団で維持されていたのであろうか。残念ながら史実はそのようには伝えていないようである。だからこそ、鎌倉時代や江戸時代に事あるごとに戒律が見直され、各宗派で律院が定められ、一部の心ある僧侶たちによって改革が行われてきた。鎌倉時代に生まれた新仏教には戒律を全く意識しないでよいとする宗派も現れている。

なぜ日本の宗教がそのような状態になったのかということになれば、伝えられた経典や教えすべてをそのまま受け入れるので無しに、好ましいものを一部だけ採用し強調して良しとする風潮が大きく作用しているのではないか。また、神仏が指し示す教えや戒め、仏教であれば世界基準の取り決めを守る必要を感じない島国特有の感覚も大いに影響しているのであろう。おらが島、おらが村だけの特例で生きられればいいという感覚である。

宗教を奉じる者として本来のスタンスを踏み外し、守るべき定めよりも地域感覚を優先するという自己規制のなさに加え、八百万の神という宗教観が輪を掛けて私たち日本人の曖昧な宗教観を作り出しているのではないかと思う。

すべての分野で、善い悪いは別にしてグローバルスタンダードと叫ばれる時代に、唯一宗教だけが世界基準から外れている現実を私たちは認識すべきなのではないかと思う。世界基準に立たねばならないということではない。神ということになればそれが必ずしもよいとは限らない。しかしまずは違うのだと気づく必要があるのだと思う。

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[大法輪版] はじめて比丘になった人 釋興然和上顕彰2  

2006年08月22日 10時04分26秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
 釈尊正風会

いずれにせよ興然は南方仏教の比丘のまま三会寺に帰り着いた。この時、仏弟子大阿羅漢の舎利、貝多羅葉律蔵経論数巻、ビルマ三蔵パーリ聖教全部、出家三衣六物等数個、古画仏像数幅等を請来している。

そのひと月後十月十三日には真言宗長者宛に、セイロンより純粋なる具足戒を授かって帰国し如来正風の正規を実践修行するつもりであることを述べた『御届』を認めた上で、南方仏教の僧団を日本に移植すべく「釈尊正風会」を旗揚げした。

『釈尊正風会緒言』(明治二十六年十月十七日付)によれば、「釈迦牟尼の正嫡を継承して僧宝の欠乏を補い如来正風を拡張して蕩々たる弊風を救はん」と述べ、道心堅固なる者をセイロンに派遣し受戒具足せしめて日本僧宝の基礎となし、報恩謝徳のためインド仏蹟の復興を主たる事業としている。

会長には、興然がセイロンに留学する頃から関わりがあり、後に西園寺内閣の外務大臣となる林董が終生その任にあった。会員は当時第一級の知名人、学者、宗教者、地元農民を交え八百余名であった。

釈尊正風会は、受戒に要する五名の比丘僧団を組織すべく、第一期小島戒宝、第二期鳥家仁度、工藤敬愼、第三期向山亮雲、第四期吉松快祐ら各師がセイロンに派遣されていった。しかし興然ほどの一途な信念を貫くことの難しさからか、小島戒宝、向山亮雲は帰国後真言僧となり、工藤敬愼は語学に勝れ現地でセイロン語で説法までしたというが病に倒れてしまった。残るソービタ鳥家仁度、アーナンダ吉松快祐のみが比丘として留まった。

そうした中、興然は三会寺に真言宗中学林設立認可を申請したり、「三会寺法」という如来正風の律儀を根本にすえた律院としての規則を作り末寺に通達している。また印度仏教会と看板してパーリ語を教えたりしていた。

明治二十八年頃、後にチベットへ密入国を果たし貴重な経巻を多数もたらす河口慧海や禅を世界に宣布する鈴木大拙らも、三会寺でパーリ語やインド事情などを学んでいる。「当時三会寺はセイロン、インド、ビルマなどからの訪問客が多く、南アジア文化センターの観を呈していた」(『評伝河口慧海』奥山直司著)ようだ。

さらには近代印度哲学・仏教学の確立者である高楠順次郎博士や宗教学の創始者と言われる姉崎正治博士らもパーリ語について疑問があると学生を連れてよくやってきていたという(『雲照・興然遺墨集』三一二頁)。

ところで、昭和五十三年にパーリ文化研究会が三会寺のパーリ写本の調査をしている。日本では珍しくまとまったパーリ写本を拝観した会長の前田惠學教授は「興然師がスリランカでパーリ語の文法から学びはじめ、有名経典の多くやまた基本的な戒律から一部論蔵にまで研究が及んだことが分かる。特に戒律とサティパッターナの瞑想法を重視したことは、写本のリストを見ても窺われる(『前田惠學集』第三巻)」と記している。興然が単に戒律だけを輸入しようとした訳ではないことが知られる。

 シャム国招待と釋王殿

そして、還暦を前にして興然は仏教国シャムに招待される。シャム国公使ピヤナリソンが、日本とシャムはともに仏教国であるから日本で最も立派な僧を招待したいと発願したところ、最も持戒堅固な清僧は三会寺の興然師であると白羽の矢が立てられた。

そして明治四十年十月、和田慶本を伴い船出し、シンガポールまでセイロン留学中の仁度、快祐を呼び戻し、四人でシャムに向かった。一年間各地で歓待されて翌年雨安居を終えて帰国。このとき各寺院より大小五十余体の金銅釈迦牟尼尊像ならびに皇室よりパーリ三蔵聖教全部などを下賜されている。

これらの仏像の開眼供養が行われたときには伯爵林董も横浜線特別列車に乗り、紋付き姿で駆けつけたという。それらの仏像は三ヶ月ほど公開された後、三会寺の末寺三十二ヶ寺にそれぞれ配置した。そして興然は、中でも一番立派な釈尊像を本尊にすえ、南方仏教僧団移植の本拠とすべく南方風の釋王殿建設を発願。インド旅行経験のある伊藤忠太博士に依頼した設計図は明治四十三年に出来ている。

この前年に雲照は亡くなり、その一年後興然は冒頭に紹介した『釋尊正風』を発行し、この釋王殿建築により自らの事業完成に向け意気揚々と決意を表した。そして、林董は、日露戦争後の難しい満州問題に苦しんだ外務大臣を免ぜられ閑職にあった同年八月に、「我が尊敬する釋興然師さきに遠く仏教の本源地たる印度に渡り、多年の修行以て真正仏教の源泉を汲て帰り今や偉大なる信念をもって釈尊正風会を起こしたり、(中略)余が誠意を以て賛同する所なり云々」(『雲照・興然遺墨集』二七九頁)と釈尊正風会名簿題辞に記している。

しかしながら、大檀那林董は、この三年後、第一次世界大戦勃発直前に他界。大きな後ろ盾を失い事業は暗礁に乗り上げ、寄付が十全に集まらないままに、大戦特需後の不況に関東大震災も追い打ちをかけた。

 興然和上顕彰

そして、本志を遂げることなく、大正十三年(一九二四)三月十五日、釋興然グナラタナ比丘遷化享年七十六才。五七日忌に高楠順次郎が追悼文を寄せている。「正風会を起こして仏陀親伝の律風を宣揚し朝野貴紳の尊敬を博しパーリ三蔵の原語を直伝して学界の歎美をほしいままにす」と興然を讃じている。

興然は雲照とは違い柔和で、何事もなされるまま、なるがままを静かに受け入れる人であったという。どんな人の話でも黙って聞き、時折それはこういうことだなどと話す人であった。釈尊直伝の仏教をそのままに信念を貫いた誠に偉い人であった、パーリ語のお経はとても有り難かったと言われる。声がよく声明の才もあり、また誠に美しい梵字を書いた。常に黄色い大きな袈裟を纏いパーリ律を守り通し、檀家参りでも葬式でもパーリ語の三帰依文と簡単な経文を唱えられた。

明治時代中頃、欧化主義の風潮が強まり知識階層のキリスト教への傾斜と仏教への無関心が広まり、仏教は時流に取り残されていった。そこで、「すべて仏在世を本とす」「宗派の区別、浅深を論ずべからず」として、一宗一派に拘らず釈尊の仏教を復活させようとした慈雲尊者の教風を範とする動きがいくつかの宗派から出ている。

思うに、ともにこの慈雲尊者の精神を継承した二人ではあったが、叔父雲照が真言宗の枠からは出ても日本仏教にとどまったのに比べ、興然はそれさえも超えて、近代国家に相応しい世界基準の仏教を模索なされたのではないか。より純正な釈尊の教えによって、わが国に煌々たる仏教の光を蘇らせることを願われたのであろう。

釋興然和上をここに顕彰し、今を模索する仏教者の思索に資することを念じたい。合掌

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[大法輪版] はじめて比丘になった人 釋興然和上顕彰  

2006年08月19日 08時25分33秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
(以下に掲載する文章は、現在書店に並ぶ総合仏教月刊誌・大法輪9月号掲載同文の初稿です。是非、ご購入の上ご覧下さい! 大法輪誌は仏教雑誌の老舗。各宗派を網羅する内容で現代の諸問題にも言及している。9月号の特集は、「仏教生き方相談室・人生の悩みに仏教者が答える」)

 雲照律師と興然

ここに『釋尊正風』と題するB6版四十七ページの冊子がある。黄色い表紙の中央に金文字で釋尊正風とあり、その上にセイロン文字が記されている。著者は釋興然。知る人ぞ知る明治の混迷する仏教界から一人セイロンに渡航し、遂にわが国ではじめて南方上座仏教の正式な比丘(僧侶)になられたお方である。

内容は、当時の信仰の標準と統一のない仏教界の情況を憂えて、「明治維新が天皇陛下を崇め万民の心を帰一した如くに、仏教も真の仏教たる釈尊の教えに回帰して信仰と行動、目的を統一すべきである」と主張し、在家者にとっての教えの基本となる三帰五戒の本義を解説している。

冊子の発行は明治四十三年九月二十六日。発行者は東京小石川目白僧園草繫全宜と奥付にある。この目白僧園を興した明治の傑僧釋雲照律師は、この前年四月に歿している。興然は雲照の甥にあたり、出雲に生まれ十才で剃髪得度。明治維新を十九歳で迎え、神仏分離令をはじめとする仏教衰亡の機運に抗して、雲照が太政官に出頭し仏教護法の建白に奔走する頃から随順していた。

戦後大覚寺門跡となる草繫全宜師が著した『釋雲照』上編によれば、雲照は当時の真言宗の中にあって抜きんでた学徳と見識、かつ戒律を厳格に守る崇高なる人格を備えていた。雲照は、久邇宮殿下を上首と仰ぐ「十善会」を創始して、江戸中期の学僧慈雲尊者の唱えた「人となる道」としての十善戒を中心とする社会道徳の再建を計る。しかし、戒律よりも学問を優先する宗内の時流がこれを許さず、明治十八年東京に出て「目白僧園」を創設。戒律学校として若い持戒堅固な清僧の育成に励んだのであった。

興然はその頃既に横浜の三会寺に住職していた。興然はこの頃からインド渡航を志し、釈尊を最も強く思慕していたのではないか。『雲照・興然遺墨集(伊藤宏見編著)』第三部資料編によれば、興然は明治十六年本山にインド渡航を願い出ており、翌年にはセイロン留学とインド渡航の費用を統一真言宗の教育機関であった総黌の学費から捻出することを請願している。

明治十九年(一八八六)インド人からブッダガヤの地が荒廃しているとの情報に喚起された雲照は、仏教発祥の地が荒れていてはわが国の仏教が興隆しても無意味であると考え、直ちにインドへの憧憬を寄せる興然をセイロンに派遣する。

セイロンへ

同年十月コロンボ港に着いた興然は、セイロン南部最大の港町ゴール近郊カタルーワ村のランウエルレー・ヴィハーラ(金沙寺)で南方仏教の沙弥(見習僧)としてパーリ語の学習と仏道修行を開始。その一年余り後にはコロンボのヒッカドゥエ・スマンガラ大長老のもとに修行の場を移している。スマンガラ尊者は、シャム派の管長として同派最大の寺院ウィドヨーダヤ・ピリウエナ・ヴィハーラにあって、そこには百名余りの修学僧が寄宿する学林が併設されていた。興然もその一人に加えてもらったことになる。

そして渡航五年目の明治二十三年(一八九〇)六月九日、興然は南方仏教の正式な比丘になるため、キャンディのシャム派総本山マルワトゥ・ヴィハーラで、八人の受者の一人としてセイロンの古式にのっとり一度袈裟を脱ぎ、瓔珞、腕輪、指輪、摩尼で飾られた大礼の正装を着して象に跨り、数百人を超える楽団や歌謡隊、稚児たちの行列に先導され戒壇にいたった。そこで、俗服を脱して袈裟をまとい沙弥戒を改めて受け、それからスマンガラ尊者を大導師に具足戒(二二七戒)を授けられた。ここにコーゼン・グナラタナ比丘四十一歳。日本人としてはじめて南方上座仏教の比丘が誕生した。

前掲の『釋雲照』中編書簡集によれば、興然がセイロンに滞在すると、雲照は何度も書状で南方仏教の戒律について細かく問い質し、アジア各国の仏教の実情について質問している。また南北仏教の交流についても語っている。そして、興然は比丘になると、改めて御礼の意もあってか、スマンガラ尊者とセイロン比丘五名を日本に招請し、日本で南方相承の戒律を伝えん事を願い、雲照に旅費の周旋を乞うた。

これに対し雲照は、南北仏徒はお互いの欠を批難することなく、北方仏徒はその偏情を破するために南方の戒律を学ぶべきであって、南方仏徒は偏見を捨て大乗の経文、戒からも学ぶべきである、として南方仏教徒来日の心構えを書き送っている。この書状に興然は何を思ったであろうか。冒頭の冊子からうかがわれる興然の心情からして、おそらく純粋なる本然の仏教を自ら会得し、その僧団を日本に移植することを唯一絶対とする自分の考えとのギャップを感じ取っていたのではないだろうか。

興然は、この年の末インドの地に足を踏み入れている。そして翌明治二十四年(一八九一)、後にインド仏蹟復興に貢献するセイロン人ダルマパーラ居士とともにマドラス、サールナートを経由してブッダガヤに向かった。

 インド仏蹟復興運動

釈尊成道の聖地は当時ヒンドゥー教徒が所有し、大菩提寺の管理もその収益も彼らが握っていた。ダルマパーラと興然はこのブッダガヤの金剛座において強い霊感に打たれ、この地をヒンドゥー教徒から取り戻し、仏教徒の手によって最も神聖なる場として再生することを誓ったという。

興然はダルマパーラとともにマハントと呼ばれるシヴァ派の僧院長から聖地を買収するために、英領インドの地方長官に申し入れをした。興然は早速雲照と諸宗管長にあて、ブッダガヤの聖地買収に要する費用は概算で一万ルピー、日本円で約五千円、そのうち一千円を日本で募金したいと書き送っている。そして残りの四千円はダルマパーラがセイロン、シャム、ビルマから集めることになっていた。(米価換算によれば当時雲照らが集めた金一千円とは今の七百万円相当に値する)

同年十月三十一日ブッダガヤにて国際仏教会議が開かれ、セイロン、日本、中国、チッタゴンの代表が出席した。雲照から一千円を託され駆けつけた四谷の愛染院阿刀宥乗とともに日本の代表として出席した興然は、日本仏教徒がこの大菩提寺を買い取りたいと欲していることを報告。しかしこのとき熱心な日本称讃者であったダルマパーラは菩提樹下に仏旗とともに日本の国旗を掲げていた。

ベンガル副知事ら英国政府関係者たちは、その日章旗を見てアジアにおける日本の野望の一端と見る向きもあったと言われる。そのためか彼らは聖地の買収に関する交渉を拒否し、かつ英国政府からもブッダガヤを仏教徒の支配のために仲介することは出来ないとする回答が送られた来た。(『ダルマパーラの生涯』藤吉慈海訳)

ダルマパーラは大菩提会(the Maha Bodhi Society)を設立し、The Maha Bodhi Journalを発刊して世界に向けて仏教の宣布とブッダガヤの惨状を訴えた。明治二十六年(一八九三)九月にはシカゴで開催された万国宗教大会に南方仏教界の代表として招かれ、講演をなしている。

この会議には日本代表として、禅宗からは興然が滞在するセイロンの僧院で一時期ともに研鑽を重ねた釋宗演師が、また真言宗からは後に仁和門跡、高野山管長となる土宜法龍師が招待された。この翌年五月カルカッタで、法龍はダルマパーラと会談している。この時ダルマパーラは、ブッダガヤの大菩提寺の復興について聖地買収を既に諦め、近隣の土地を購入して寺院と学校を建て、そこから僧俗を参拝させ、いずれ大菩提寺の占有を進める算段を述べたという。

法龍はこの時、未だ聖地買収に可能性を模索していた日本関係者の認識との齟齬を後に『印度大陸旅行記(木母堂全集)』に記しているから、おそらく、日本に伝わっていた交渉内容と現地で実務者の得ていた感触とはかなりの相違があったのであろう。

興然はその辺りを知ってか、既にこの前年、つまり明治二十六年八月日本に向け帰還している。この翌年日清戦争が起きている。通信事情の調わない時代にあっては仕方ないこととは言え、この興然の帰国に関しては、日本側で組織してブッダガヤの土地買収資金の募金に当たった仏蹟復興会関係諸氏はじめ雲照も事情を飲み込めないままの慌ただしいものであったようだ。

そんなこともあってか、帰国後の興然と雲照は十年余り会っていない。日露戦争が始まる明治三十七年頃まで目白僧園の幹部らの思惑に幻惑され会えなかったと言われている。しかし、お互いに気安く会えなかった背景にはこのブッダガヤの聖地買収に係る行き違いと南北仏教の交流に関する認識の違いがあったのではないか。つづく
                                  
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靖国問題の本質

2006年08月16日 07時16分08秒 | 時事問題
昨日終戦記念日に小泉首相が公式に靖国神社に本殿参拝しその是非が問われている。中韓両国はじめアジアの諸国からも非難の声が挙がっている。政教分離という観点からの質問にはまともに答えず、心の問題と言って信教の自由を主張しての参拝であった。

はたしてこれが飛ぶ鳥を落とす勢いの中国との関係を悪化させ、韓国とも正常な外交関係を築けずにいる。昨日も近所の方が見えて、「何で靖国に行っていけないのか」と質問を受けた。ストレートにこう言われると別に良いのではないかと言いたくなってしまう。

しかし、やはりあそこまで中国、韓国が反対するのだから、やっぱり一国の首相としてそれはいけないのではないなどと言いたくもなる。ではなぜそんなに中国、韓国が靖国神社にこだわるのか。外交カードとして利用しているとの声もあり、それはそれでそうした一面は当然のことあって然るべきであろう。

しかしそれでもなぜ靖国かと言われれば、やはりそれは諸外国人と日本人の宗教観、神に対する意識の違いということになるのではないか。私たちは名もない社に手を合わせ、信仰心もないのに毎年正月には元朝参りに行く。その神社に祀られた神様がどのような神様で、そこで手を合わせ祈るという行為がどのようなことなのかを一切考えずに作法として手を合わす国民である。

単に世の中が良くなりますように、願いが叶いますように、幸せでありますようにと思い手を合わせる。手を合わせた神様のこと、神様の願い、神社の沿革などおかまいなしに、一方的なこちらの思いを果たすために手を合わせているのではないか。そしてそうした行為はよいことだと思い、すかすがしく感じる。一般的にこのような感覚で私たちは神様を礼しているのではないかと思う。

私はこうした日本人の宗教感覚を批判するつもりもない。しかしそれはおそらく諸外国の人々にとっての宗教観、神様という尊格に対する姿勢とは違う、異質なのではないか。神とは、単なる畏敬の存在ではなく、人間を超越し、支配するもの、指図するもの、こうしなさいこうあるべきだと人間のあり方を規定するもの、その意志に反することは冒涜であると感じるほどに崇高な存在であろう。

つまり私たちの都合の良いように考えられる存在などではない、それが神様なのではないか。A級戦犯の各氏が獄中でどれだけ自らの行為に反省し悔いたとしても、特別にA級戦犯であるが故に合祀されたという事実は変わらない。その行為をもって合祀されたということは行ったことを評価し合祀されたということになろう。つまりはアジアへの侵略行為を神に祀るに値するものと考えていると解釈されても仕方あるまい。だから、神として祀られたA級戦犯の遺志、それを体現するために靖国神社に参拝するのだと受け取られても仕方がない。いくら追悼のため慰霊のためと言っても、通じない、ダメなのである。

まずは私たちの宗教観、神に対する姿勢が他国の人々と著しく異なっているという認識の元に、神社のあり方、合祀の是非、追悼のあり方を模索する必要があるのではないか。単なる個人の心の問題などでは決してない。私たち日本人の宗教心の問題なのであろう。一方的にこちらの思いを届けるためなら神様に祭り上げる必要もない。追悼慰霊ならお寺で供養すればよいのである。英霊はみな戒名をもって仏式にて葬儀をされた方々なのであるから。

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豊葦原瑞穂国

2006年08月13日 16時33分20秒 | 様々な出来事について
広島県東部の宿場町、神辺も今年3月に福山市に合併した。近年大型スーパーが国道沿いに出来たり、飲食店が出来たりして大きな駐車場を併設するそうした施設に人々が集まるようになった。変わって、昔なら人が行き交い繁盛していたであろうJR駅周辺には店舗がまばらになり、さびれてしまっている。

こうしたことは今日本国内どこにでも進行している風景なのかもしれない。個人商店は店を閉じ大型スーパーの時代、それもただ商店街にできたかつての食品や日用品中心のスーパーではなく、専門店、温泉、美容院、飲食店、スポーツ施設、映画館まである。そこに大規模開発によって、一つの繁華街が創造されていく。すさまじいばかりの人、ないし車の流れをもたらしてもいる。

それも一つの時代の流れなのかもしれないが、そうした大規模な開発の裏には、長年先祖が守り耕作してきた農地も多く含まれ、それは日本の国から農地が無くなっているということを意味しているであろう。

一家を挙げて田植えに励む。もちろんそうして田圃を守っている家族もある。しかし殆どがお年寄りに任せて若い人たち、若い家族は何もしない、そもそも地元にも居ないので手伝わせることも出来ないで、お年寄り夫婦で何とか田圃や畑を守っているという情況なのではないか。

盆の檀家参りをするとその辺りの苦労話を良く聞かされる。もう出来なくなったので、人に頼んで、水利費や必要経費をすべて出した上で、2反で3俵ほどの米をもらうだけで耕作してもらっているという。しかしそれももう引き受け手自体が少々無理が重なるせいか病気になったり、割が合わないなど、色々な理由から引き受け手がいなくなり、遊ばしている土地が増えているという。

遊ばしている土地には草が生え、忽ち草ボウボウの荒れ地となる。そうしたことを田舎の人ほど周りに迷惑がかかると言って、気にして、畑にして野菜を作ったりということもあるだろうが、もともと畑は別にあるのだから、何かしなければいけないということになって、そこにひまわりを沢山植えてみたりする人もある。そして最終的には、地の利があればアパートになったりして農地が結局失われていく。

2年ばかり前に農地法が改正されて、株式会社が農地を取得できるようになった。今はまだ暫定的な処置か農業関係者以外が支配することを阻止する機能を残しているようではあるが、これからどうなるのか予断を許さない。本来農地の利用は、経営陣の過半数が農業関係者で構成される農業生産法人か農家にしか認めていない。利用権の移動を制限し、国民の食糧を生産する基盤であり、かけがえのない農地を守っていくことを目的とする農地法によって守られてきた。

しかし、私たちの食は既にアメリカ企業に支配されていると言ってもよい現実がある。最近野菜の種の袋を見たらアメリカ産となっていた。なんだこれは?と思い色々調べてみると、これは日本に限ったことではなく世界規模の問題であるとわかった。

現在地球上で20社に満たない多国籍企業が世界のすべての植物の種子の特許を所有しているという。その最大手がアメリカ・セントルイスに本社のあるモンサント社であり、農業バイオテクノロジーの世界的リーダーとして種子から食卓までの食の連鎖を支配する立場にある。また主要穀物の95%の種子の特許を支配しているのはロックフェラー財団であるという。

なぜ特許なのか? それは近年収穫量の多い作物を実らせるハイブリット種子なるものが市場に出回り、それまでの常識であった栽培した作物の種子をとっておいて翌年植えるという従来の方式をだれもがしなくなった。その為毎年ハイブリット種子を買うことになる。なぜならそのハイブリット種子は遺伝子に手を加え、わざわざ収穫した作物から取れる種子からは翌年作物を実らせることはないようにしてあるから。つまり一年物の種子であり、その種子の特許は当然のことそれら多国籍企業が握っている。(参考文献「The new world order exposed ・次の超大国は中国だとロックフェラーが決めた」上 45頁ヴィクター・ソーン著 副島隆彦訳)

今や毎年種を扱う企業を経由して私たちは多国籍企業が遺伝子に手を加えた一年だけ大きく実る種を買うはめになってしまった。このことは日本ばかりか世界中の農家に浸透し、莫大な利益を彼らに貢ぎ、食の安全を彼らに握られてしまったということだ。誠に恐ろしい限りではあるが、この大事な事を指摘し対策を講じるマスコミも識者もないのが不思議なくらいである。

保険会社や銀行が外資系企業に市場を荒らされ惨憺たる情況にある。都会の目抜き通りに建つビルや土地がバブル崩壊後外国企業に底値で買いたたかれている現実もある。近い将来、農地を買いあさる外資系企業らによって日本のかけがえのない農業が支配されることのないことを願いたい。

家族総出で田圃に出掛け、田植えや稲刈りをする。そこには世代間の意識の違いから多少の言い争いもあるかもしれない。小さい子を抱えて若いお嫁さんが出られないということもあろう。しかしそれでもなんとか、農地を守って欲しい。私自身は何の知識も技術もないが、子々孫々どうか日本の食を存続させていって下さることを願う。豊葦原瑞穂の国と言われたわが国なのであるから。
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ある新興宗教の話題から

2006年08月02日 17時44分54秒 | 様々な出来事について
昨日、朝5時半にお寺を出て、井原線、福塩線、新幹線と乗り継ぎ、京阪神方面5軒の檀家さんのお宅に伺って、お盆のお参りをさせていただいた。毎年のことではあるけれども、一日中電車に揺られ、お参りするのは楽ではない。

昨年までは大阪の街での風紀の乱れに目がついたものだが、今年はなぜか若者たちもあまり元気がないなと、みんなこの陽気のせいなのか、それとも過酷なまでに国民から搾り取ろうとするこの国のえげつなさに辟易しているのか、大阪の街に沈滞した雰囲気を感じた。

ところで、最後に伺ったお宅で、若奥さんから、ある新興宗教について質問があった。真言宗を語り、京都の大寺にその開祖のお堂まであるというその団体について知っているかとのことであった。盛んに近くの知り合いから誘われるがどうしたものかということだった。

その団体は、開祖が真言宗でかつて少し修行らしきことをして、霊感を得て、人を見るようになり、ある特定の仏典を信奉して信者を拡大している。それほど大きな問題を起こしている新興宗教ではないが、霊能者になるための修行を真言宗の修行体系から一部拝借したようなものをさせて、地位を与え、霊能者は信者の相談事に様々な細かな指示、アドバイスを与えていき、終いには、信者たちを霊能者に指図されなければ何も出来ないような状態にして、すべて教団の思いのままに信者を動かしていくようになっているようだ。

実際に、私の知り合いが、結婚まで考えていた女性がこの団体に誘われ、知り合いは正式に入会することを拒んだためか、結局、霊能者の反対から結婚を諦めるようなことになったケースがある。

宗教とは、物を考えられなくなる人間を作り出すためにあるのではない。本来はその逆で、正しい教えに基づいて、自らのしっかりした、冷静な、理知的な、科学的な判断が出来るように導くものであらねばならない。誰かに何かあると聞かねば自ら判断できないということでは、宗教の意味がない。

現在問題になっているキリスト教系の新興宗教の場合も、教祖の言いなりになるような人間をつくり、本来の宗教を逸脱した目的のために人を動かすことが目的であるかのようなお粗末な内容のようだ。

人は自ら悩み、苦しみ、葛藤することから解放されると、とても楽になる。自分を責めさいなむような事柄があっても、それを先祖や他の霊の仕業であるかのように信じこませて本人の自責の念を拭うことで楽になったりもする。

誰かが指図してくれる、それに随っていれば安らいでいられるという安穏の中にいる快感に囚われてしまうと、その中に逃げ込み、外の世界を必要としなくなってしまうこともあろう。外の世界の事々を全否定して、安逸な世界にどっぷりと浸る心地よさだけに我を忘れる。しかし、こんな白日夢のような状態に浸ることが宗教ではない。

宗教とは、この現実の世界を目をこらしてより良く見て、その本質に迫り、その醜さ、汚さ、いやらしさを現実のものとして受け入れ、その根本的な原因を探り、本来如何にあるべきかと自ら煩悶し、葛藤し、格闘することではないか。誰かにこうしなさいと言われて、その通り行うことが宗教であるはずがない。自己思考力、判断力、行動力を喪失させることが宗教であってはならない。

私たちは、自ら、悩み、苦しみ、もだえながら人として成長していくのではないか。そうしたとき、考え方の姿勢、何を大切にすべきか、私たちの理想とは何かを指し示してくれるもの、歩むべき道筋を指し示してくれるものが宗教ではないかと思う。私たちは、一人苦しむことから逃げてはいけない。苦しむことから何かを学ぶことを放棄してはいけない。

しかし、これは宗教だけの問題ではなく、新興宗教と関わりもない私たちも、時に趣味の世界に漬りきり、テレビゲームやパソコン、携帯メール、テレビ、ばかり見て多くの時間をやり過ごす。そうした人々も実は同じ事なのかもしれないと思う。本来自分のすべきことから逃げていることにはならないかと思うのだ。

もっともっと世の中のこと、政治のこと、雇用のあり方、税金の額や使われ方、なぜ国債ばかり増えていき、無駄遣いが無くならないのか、役人、議員ばかりが高給を取り、なぜ庶民の給料は減り続けているのか、それなのになぜ税金は上がるのか、天下りが問題になるのになぜ相変わらず億という報酬を手にするのか、なぜ日債銀や長銀が外国の金融機関の物になってしまったのか、なぜ郵政民営化なのか、なぜ自衛隊がイラクに派遣されねばならなかったのか、戦争はなぜ無くならないか。

なぜ難しい病気がこれほど蔓延するのか、なぜ気象異常が起こるか、なぜ残虐な事件が後を絶たないか、なぜ自殺者が増えるのか、なぜ家族がうまくいかないのか、なぜ人間関係がギクシャクしているのか、考え出せばきりがないほどに私たちを取り巻く切実な問題があり、私たちの生活と決して無関係なことではない。

なぜ私たちはそれなのにその考えを途中で止めてしまうのか。セックスとスポーツと、シネマ。3Sといわれるこれらのものに世界中の大衆が心を奪われるように、なるべく余計なことに関心を持たないように昔から洗脳され続けているという。

ある特定の宗教に関わりのある人だけが洗脳されているのではない。私たちは誰もがそのことに気づき、自らの足元から一つ一つ今の世の中の様々なことに疑問を持ち、自らなぜだと問い自分の頭で考えることも必要なことなのではないか。帰りの新幹線の車窓から景色をながめつつ、大阪の街の沈滞した空気についそんなことを思った。

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