年初に考えた。もっと捨てねばと。あれこれ何もかもしようと思うその思いを捨てねばと思った。年末年始、猫の手も借りたい忙しさの中で、何をすべきか。何をせずに済ませるか。もっと選別することが必要だと。実は、こんな書き出しで今年の初めに書き出した文章がそのままになっていた。折角なので次に続けようと思う。
本来仏教は捨てることを本義としている。持ち物、財産、地位役職、それらの重荷、思い計らい、欲、執着、怒り、邪な思い。それらをすべて捨ててこそ出家と言えようか。捨ててこそ得られるもの、それが出家の境涯のはずである。本当は。
しかし日本の場合、出家は得度の儀式をもってしても、衣や白衣、足袋に帯、それに如法衣という袈裟など、一通り揃えることから始まる。必要最低限の物で済ませるから身軽になり、心も軽やかになるはずのものなのに、始まりから、色々とやかましいことが付いて廻る。住職になればなおさらのこと。しかしそれらをすべてクリアした上でなおかつ捨てるということが何よりも大切なことなのではないか。
修行道場にあっては、それが日々の勤めであり、読経、坐禅、修法など様々な修行もその為にあると言っても良い。もう20年も前のことではあるが、真言宗の僧になるために高野山の専修学院という専門道場で、四度加行という初歩的な行をしたことがある。
その時、100日ほどの間新聞テレビはもちろん、家族からの手紙も電話も一切出来ない、外部とのやり取りを一切遮断された環境の中、修行だけに専念した。一日3座の修行の間次第次第に時々、様々な過去の、それも随分昔の子供時代から社会人時代の心に引っかかっていたような記憶が現れては、その時に意識していなかったような心の奥深くに沈殿していた感情が表れて、そしてそれを解消するようにたち消えて行った。
おそらく外部から入る刺激を捨て、ほぼ同じ事の繰り返しの修行の中で心落ち着き、沸々と過去が立ち現れてきたのであろう。たとえば、高校卒業後すぐに入って5年間もお世話になりながら、大学卒業してすこし後にその会社を辞めることになり、その辞めるときにとても可愛がってくださった社長と十分に話もせずに退社していた。いや頑なにうち解けることを拒むことで辞められたのであったが。
その時の情景が、行中に突然ありありと現れて、当時心の中にありながら素直になれずにいた感謝の心があふれ出し、しばらくすると心に封印されていたわだかまりが解かれ捨て去ることが出来たようであったことを思い出す。
日常の雑事に追われる中でこうした経験をすることは稀であろう。むしろ、日常にあっては、この過去にあった心の奥深くに沈殿させてしまうような複雑な感情を持たないように心がけることが大切なのかもしれない。
本来仏教は捨てることを本義としている。持ち物、財産、地位役職、それらの重荷、思い計らい、欲、執着、怒り、邪な思い。それらをすべて捨ててこそ出家と言えようか。捨ててこそ得られるもの、それが出家の境涯のはずである。本当は。
しかし日本の場合、出家は得度の儀式をもってしても、衣や白衣、足袋に帯、それに如法衣という袈裟など、一通り揃えることから始まる。必要最低限の物で済ませるから身軽になり、心も軽やかになるはずのものなのに、始まりから、色々とやかましいことが付いて廻る。住職になればなおさらのこと。しかしそれらをすべてクリアした上でなおかつ捨てるということが何よりも大切なことなのではないか。
修行道場にあっては、それが日々の勤めであり、読経、坐禅、修法など様々な修行もその為にあると言っても良い。もう20年も前のことではあるが、真言宗の僧になるために高野山の専修学院という専門道場で、四度加行という初歩的な行をしたことがある。
その時、100日ほどの間新聞テレビはもちろん、家族からの手紙も電話も一切出来ない、外部とのやり取りを一切遮断された環境の中、修行だけに専念した。一日3座の修行の間次第次第に時々、様々な過去の、それも随分昔の子供時代から社会人時代の心に引っかかっていたような記憶が現れては、その時に意識していなかったような心の奥深くに沈殿していた感情が表れて、そしてそれを解消するようにたち消えて行った。
おそらく外部から入る刺激を捨て、ほぼ同じ事の繰り返しの修行の中で心落ち着き、沸々と過去が立ち現れてきたのであろう。たとえば、高校卒業後すぐに入って5年間もお世話になりながら、大学卒業してすこし後にその会社を辞めることになり、その辞めるときにとても可愛がってくださった社長と十分に話もせずに退社していた。いや頑なにうち解けることを拒むことで辞められたのであったが。
その時の情景が、行中に突然ありありと現れて、当時心の中にありながら素直になれずにいた感謝の心があふれ出し、しばらくすると心に封印されていたわだかまりが解かれ捨て去ることが出来たようであったことを思い出す。
日常の雑事に追われる中でこうした経験をすることは稀であろう。むしろ、日常にあっては、この過去にあった心の奥深くに沈殿させてしまうような複雑な感情を持たないように心がけることが大切なのかもしれない。