住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

第六回日本の古寺めぐりシリーズ・鰐淵寺と華蔵寺3

2009年02月21日 17時20分21秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
華蔵寺について

華蔵寺は、島根半島の東部中央に位置する枕木山頂にある。海抜456メートル。展望台からの眺望は、眼下に大根島を浮かべる中海と弓ヶ浜の海岸美が望め、遠くには大山と中国山脈の山並み。北側には、日本海はるか先に隠岐島、西には三瓶山、山陰唯一の雄大な景観を楽しむことが出来る。また山内は、春は花と新緑、夏は避暑地、秋は紅葉、冬は雪景と四季折々の景色を現出する。

お寺の開基は、約1200年前の延暦年間、天台宗の僧・智元上人で、鰐淵寺を開いた智春上人の系統に属する僧だったのであろうか。何も詳しいことが知られていない。華蔵寺の華蔵とは、蓮華蔵世界を意味する。開基が法華経を依経とする天台宗の僧だから、と言いたいところではあるが、この蓮華蔵世界とは、華厳経に説かれる世界観である。

十蓮華蔵世界(海)とも称し、世界の根底に風輪があり、その上に香水の海があって、一大蓮華が覆う。毘盧遮那如来が中心におられ、二十重に重なる中央世界を中心に、121の世界が網のように蓮華による世界網を構成している。それぞれ宝で荘厳され仏がその中に現れ、衆生もその中に充満しているという。おそらく枕木山の眺望から、香水の海に浮かぶ、たくさんの仏の世界を目の当たりに観じとられ名付けられたものであろう。

華蔵寺も鰐淵寺同様に、創建当初は、修験道の行場として発展したのであろう。蔵王権現を信仰する行者の一連のコースの一つだったのではないか。そこへ天台宗の教えによって基礎が作られていく。平安後期の作と伝える薬師如来が薬師堂に祀られている。薬師如来像は、藤原時代初期の傑作と言われ、国の重要文化財。ヒノキの一木式寄木造りで、高さ87.2センチ。後光に五仏を配している。秘仏で、開帳法要は50年ごとにあり、一般公開している。

前回は、平成13年で、京都大本山南禅寺派の塩沢大定管長が導師になり開創1200年法要が執り行われた。子安薬師ともいわれ、子授け、安産、諸毒消滅、所願成就に霊験あらたかという。他に日光月光菩薩、十二神将、大梵天、帝釈天、四天王を安置する。

鎌倉末期に霊峰慧剣(れいほうえけん)が禅寺として復興したと伝えるが、仁王門からすぐのところにある杉井の霊水を、鎌倉時代、亀山法皇ご病気の際、この霊水と御霊符を献じたところ、病がたちどころに平癒し、法皇はこれを深く感じ入り、天台宗であった華蔵寺を自らが開創した京都臨済宗南禅寺の別格寺院にされたという。

亀山法皇は、後嵯峨天皇の子であって、その後南北朝にいたる訳だが、大覚寺(真言宗)統のお一人だ。自分の子である後宇多天皇のとき上皇となり院政をとるが、そのあと、持明院統の伏見天皇が即位すると、後深草院が院政を開始したため、亀山上皇はその後後嵯峨帝が造営した離宮禅林院を自ら寺院化した南禅寺で40歳の時出家し、金剛源という法名で禅宗に帰依した。そのため、その後皇室にも禅宗が浸透したという。なお、御陵は嵯峨天龍寺境内の亀山陵(かめやまのみささぎ)である。

なお、余談ではあるが、南禅寺は、はじめ、「龍安山禅林禅寺」といったが、「太平興国南禅禅寺」と改められ、京都鎌倉の両五山の上に位置する別格とされた。今では湯豆腐で有名な南禅寺、三門は歌舞伎の『楼門五三桐』(さんもんごさんのきり)で、石川五右衛門が「絶景かな絶景かな」という名台詞を吐くのが「南禅寺山門」である。ただしこれは創作上の話だという。

華蔵寺は、その後、室町期にはこの地方の臨済宗の名刹として繁栄するが、戦国時代に尼子、毛利の戦陣争いの兵火を受け諸堂悉く灰燼に帰し、寺運も衰退した。そのあと、関ヶ原の戦功によって出雲・隠岐24万石を与えられた堀尾吉晴(ほりおよしはる)候が、慶長12(1607)年、松江に築城するときに、華蔵寺を鬼門に当たるとして祈願寺に指名して復興。堀尾吉晴は安土桃山時代から江戸時代初期の武将・大名。豊臣政権三老中の一人。出雲松江藩の初代藩主。

しかし、築城は石垣が何度も崩れなかなかはかどらなかった。築城を急ぎたい堀尾吉晴は、天守の予定地で盆踊りを開催。そこに集まった領民の中から娘をさらい、密かに城の人柱として埋めた。完成までの2年間に、3人の娘が人柱とされたのだという。

しかし、それほどまでに城の完成を望んだ堀尾吉晴は、その完成を見る前に病死。堀尾家も犠牲になった娘の数と同じ、三代で断絶した。その後、天守近くで盆踊りを催すと城が震えだし、人柱となった娘たちが生前を懐かしんで踊っているのであろうと言われ、これを防ぐため松江では盆踊りが禁止された。

復興途上にあった華蔵寺は、明暦3(1657)年に松平直政候が済遍(さいへん)禅師を招いて現在の伽藍を中興開山した。仁王門もこのときの建立で、2メートルを超える仁王像は、運慶の作とも伝えられる。仁王門の先には、石の大きな不動明王が聳える。慶応年間の造立。

そこから進むと、平成13年に改築された薬師堂を経て、境内の鐘楼門は江戸時代明暦年間の建造で県指定文化財。ただしこちらも平成13年に修築された。境内に入り本堂も明暦年間の建立、本尊は金色の釈迦如来立像。

臨済宗南禅寺派の直末寺である。修行の道場としての厳かな凜とした雰囲気を感じつつ静かにお参りをしたい。そして、展望台から、おそらくその名の由来でもある景観を楽しみつつ、蓮華蔵世界の鳥瞰を味わいたいと思う。

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五山について(wikipediaより転載)

五山(ござん)とは、中国・日本における禅林(禅宗寺院)の格式であり、十刹・諸山の上。

五山の由来
元は南宋の寧宗がインドの5精舎10塔所(天竺五精舎)の故事に倣って径山・雲隠・天童・浄慈・育王の5寺を「五山」として保護を与えたのが由来と言われている。鎌倉時代後期には日本にも禅宗の普及に伴って広まるようになり、正安元年(1299年)には鎌倉幕府執権北条貞時が浄智寺を「五山」とするように命じたのが日本における最古と伝わる。

京都五山と鎌倉五山

鎌倉時代
鎌倉幕府の五山制度については詳細は明らかではないものの、鎌倉の建長寺・円覚寺・寿福寺及び京都の建仁寺の4ヶ寺が「五山」に含まれていたと考えられている。同様に後醍醐天皇の建武の新政においても「五山」が制定され、南禅寺と大徳寺の両寺が五山の筆頭とされ、東福寺と建仁寺が含まれていた。


室町時代
その後、室町幕府を開いた足利尊氏は、天竜寺を建立したが、天竜寺を五山に加えることを望んだ。これに対して北朝は暦応4年(1341年)に院宣を出して尊氏に五山の決定を一任した。これに応えて同年に尊氏は第一位に南禅寺・建長寺、第二位に円覚寺・天竜寺、第三位に寿福寺(鎌倉)・第四位に建仁寺(京都)・第五位に東福寺(京都)・准五山(次席)に浄智寺(鎌倉)を選定した。

これ以後、五山の決定及びその住持の任免権は足利将軍個人に帰するという慣例が成立することになる。その後、延文3年(1358年)に2代将軍足利義詮がこれを改訂して浄智寺を第五位に昇格させるとともに同じく第五位に鎌倉から浄妙寺、京都からは万寿寺を加えて計4寺として京都と鎌倉からそれぞれ5寺ずつが五山に選ばれた。

その後、3代将軍足利義満の時代に管領細川頼之の要望を聞き入れて臨川寺を五山に加える(永和3年(1377年)- 康暦元年(1379年))が、康暦の政変で頼之が失脚すると外された。ところが、義満が足利将軍家の菩提寺として相国寺を建立すると、至徳3年7月10日(1386年)に義堂周信・絶海中津らの意見を容れて五山制度の大改革を断行、南禅寺を「五山の上」として全ての禅林の最高位とする代わりに相国寺を「五山」に入れ、更に五山を京都五山と鎌倉五山に分割した。両五山はこの格式で固定し、現在に至っている。





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第六回日本の古寺めぐりシリーズ・鰐淵寺と華蔵寺2

2009年02月12日 08時12分52秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
鰐淵寺は、鎌倉時代には守護佐々木氏の保護を得て栄える。またこの頃、鰐淵寺とは山をへだてて南西側に位置する杵築大社(出雲大社)との関係が深まる。十世紀頃、国造出雲氏は本拠地を意宇(おう)郡から杵築大社に拠点を移し、その結果として十一世紀中頃出雲国における中世一宮制(出雲国の国鎮守)が成立した。

この時期は杵築大社が古代的な神社体制から、中世的な組織へと変貌していく時期であり、神迎え神事の場所として重要な位置である稲佐浜を極楽浄土の入り口とみなす信仰が起こり、隣に位置する鰐淵寺との神仏習合の形を取った両者の密接な関係が発展。鰐淵寺にとっても神聖な信仰と修行の場としての鰐淵山から、中世的な宗教勢力としての鰐淵寺へ転換し、後に杵築大社の別当寺となった。

杵築大社の由来について十四世紀に書かれたものには、「当社大明神は天照大神の弟、スサノオなり。八岐大蛇を割き、凶徒を射ち国域の太平を築く。また浮山(浮浪山)を留めて垂れ潜む。」とあり両者の縁起は同じスサノオとなっている。平安時代の神仏習合の展開によって、鰐淵寺と杵築大社は密接な関係の中で発展していく。

十三世紀、出雲守護佐々木泰清より、鰐淵寺は出雲の国を代表する寺院として認められ『国中第一之伽藍』と呼ばれた。そして杵築大社は『国中第一之霊神』と呼ばれ出雲の国で最も有力な神社とされた。杵築大社の年中行事には、鰐淵寺僧が出向き大般若経の転読を行ったという。

また、鰐淵寺は弁慶修行の地としてもよく知られているが、弁慶は平安末期、仁平元年(1151)松江に生まれ、18歳から3年間鰐淵寺にて修行したとされる。その後、播磨書写山、比叡山と旅して、源義経と出会いともに各地を転戦したが、壇ノ浦の合戦で平家を滅ぼした。

その後再び鰐淵寺に身を寄せて、多くの伝説や遺品を残している。特に、弁慶が大山寺から一夜で釣鐘を運んだとの伝説は広く世に知られ、その際に持ち帰ったとされる寿永2年の銘のある釣り鐘は国の重要文化財に指定されている。

その後鰐淵寺は、南北朝時代には、北院と南院が、それぞれが北朝・南朝を支持して対立した。その頃鰐淵寺は、嘉暦元年(1326)大火で全山焼失していた。南院の頼源は、伽藍復興のために後醍醐天皇の南朝に頼り、また後醍醐天皇は、僧兵の沢山いる鰐淵寺を必要としたことから、天長地久の祈願所と命ずる文書を発した。

元弘2年(1332)後醍醐天皇が隠岐に流された際には頼源も國分寺行在所に伺候し、宸筆の願文(倒幕の所願を成し遂げたならば薬師堂を造営するという内容)を賜った。この願文は現存し重要文化財に指定されている。

頼源は後醍醐の隠岐脱出を助け、その後、京都吉野にも僧兵を率いて従った。その後南北朝の和議の後、鰐淵寺の南院と北院が和解し、これを機に鰐淵寺は今の根本堂の地に北院と南院を合併し、千手観音と薬師如来をともに本尊として安置することになった。

また、戦国時代には出雲においても尼子氏と毛利氏の間に激しい戦いが繰り広げられ、毛利氏による出雲侵攻時に鰐淵寺栄芸は一貫して毛利氏を支持して尽力。毛利氏勝利の後、鰐淵寺は毛利氏の保護を受ける。現在の根本堂は、この毛利氏が栄芸の功績をたたえて建立したものと伝える。

十六世紀後半頃から十七世紀初頭、杵築大社においては御頭神事の衰えから、鰐淵寺との提携が無意味となり、更に祭神をスサノオから国造家の歴史を考える上でオオクニヌシを祀る事の方が適切であるとされ変更された。そのため神仏習合で関係を深めていた鰐淵寺と大社との関係は改められ、十七世紀の杵築大社の造り替えの際、仏教諸堂が撤廃され神仏分離が行われた。

そうしたことも影響したのか、鰐淵寺の勢力は戦国期以降退潮となり、明治には廃仏毀釈により、境内に祀る摩陀羅神は須佐之男命と同体であるとか、大国主命と同体であるという説により、また鰐淵寺は神地にあり、仏堂を毀し僧侶を放逐し、寺領寺禄を大社に返納すべきであると主張された。

隠岐ほどの強烈な廃仏はなかったものの、取り巻く環境は穏かなものではなかった。そのとき、寺側では、松江藩神社調停役にたいして、摩陀羅神社は梵土の天台仏教保護の神であって、日本神祇に属する神で無いことを主張し、調停役も同意したため寺院消滅の危機を脱した。

『出雲国 浮浪山鰐淵寺』のなかには、「出雲は日本第一の神国とも謂わるべき国であるが、明治維新に神仏分離せらるるとき、別に仏教排撃の禍難に陥った寺院がなかったのは何か理由があろうと思っていたが、・・・・知事などが鰐淵寺を調査しようとしたが、一行が山道にかかれば、四方の山より大山の石塊が落下しすこぶる危険であり、一行は異変を恐れて途中で引き返し、遂に同寺を調査するに至らなかった 」と書かれているという。

「昔は谷々路を隔て、坊院軒を並べ、凡そ三千坊・・・」と古文書にも記入があるというが、かなりの数の僧坊が存在したらしい。伯耆大山大山寺でさえ九院四十三坊あったとされることから、山陰一の鰐淵寺は更に多くあったと思われる。しかしながら、明治期に書かれた絵図で確認できるのは松本坊、嚴王院、浄觀院、是心院、洞雲院、等澍院、密嚴院、現成院、七佛堂、覺城院、恵門院、本覚坊、和田坊、念仏堂、開山堂、釈迦堂、竹林庵、常行堂、根本堂、それに三重塔などであるという。

現在の境内の様子を見てみると、鰐淵寺川に沿って進むと、仁王門の先に大慈橋が見える。橋を渡るとすぐ右手に御成門。その奥に本坊。本坊客殿書院前には、自然石、角切石、筏石を配置した池泉鑑賞式の庭園がある。京都林泉協会選全国150名園の一つに選ばれている。

石段を登ると、子院の跡が点在する。そこからさらに石段を上がると、小さな十王堂が右手にあり、屋根のついた六地蔵、そして根本堂への108段の表坂が続く。それを登ると、左側に大きな円仁手植えの三台杉。正面には、雄大な根本堂が姿を現す。

その左には18世天台座主良源を祀る常行堂、その奥には常行堂の守護神を祀る摩陀羅神社。これは、円仁の帰朝を守護したと言われる夜叉神で、延暦寺の常行堂にも祀られている。根本堂の右手には弁慶縁の鐘楼堂とそして釈迦堂、その下の急な裏坂を下りると開山堂が奥にそびえる。

寺号の由来の浮浪の滝と蔵王堂へは、大慈橋を仁王門と逆にたどり天に聳える杉の老木の間の細い坂道を上がる。18メートル下に流れ落ちる滝。蔵王権現を祀る蔵王堂は岩窟にはめ込まれたように造られた流造り。弁慶の籠もり堂跡が休憩所となっている。

山陰屈指の霊刹、鬱蒼とした木々に囲まれ森厳さをたたえる一山、野鳥の声が響き、花々がひそやかに咲く広大な境内をゆっくりと散策したい。

重要文化財として、仏画、絹本著色山王本地仏像 - 室町時代初期、日枝神社の祭神7体のうち五体が僧形、本地は釈迦如来。絹本著色毛利元就像 - 室町時代後期。絹本著色一字金輪曼荼羅図 - 鎌倉時代初期など。仏像、銅像観世音菩薩立像(2躯) - 奈良時代前期(白鳳時代)、白鳳仏の基準作といわれる。

工芸品、銅鐘 - 総高113㎝、寿永2年(1183年銘)、もと伯耆国桜山の大日寺にあったもの。書跡。紙本墨書後醍醐天皇御願文(2通) - 元弘2年 。文書類2点(一括指定)紙本墨書名和長利執達状 - 建武3年。紙本墨書頼源文書(2通) - 元弘2年、貞和5年。考古資料、石製経筒 附:湖州鏡 - 平安時代。ほかに、県指定市指定の仏画、仏像、古文書等文化財も夥しい。

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第六回日本の古寺めぐりシリーズ・鰐淵寺と華蔵寺

2009年02月11日 09時08分59秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
足かけ4年目を迎える朝日新聞愛読者企画。今年最初の「日本の古寺めぐりシリーズ」は初めて山陰へ足を向ける。山陰は古代の海洋交渉により大陸からの隠れた文化移入の地と言われ、古い仏像や大陸から伝えられた文物が豊富なのだと聞いたことがある。3月9日、まだ寒い日和ではあるかもしれないが、知られていないそうした文化財の宝庫としても名高い鰐淵寺、そして臨済宗の古寺華蔵寺、二か寺に参詣する。楽しみにしたい。

二か寺とも備後国の北隣出雲国にある。出雲は、肥沃な出雲平野を背景として古代から発展し、特に弥生時代以降は、県内最大規模の古墳を造る大きな勢力が存在した。記紀神話において、日本の国生みの神イザナギ、イザナミのうち、黄泉の国から蘇りをして禊ぎをしたイザナギの鼻から生まれたとされるスサノオは出雲を舞台として主役を演じる。

姉の太陽神・アマテラスが、高天原、葦原中津国を治めるのに対して、風雨の神(荒ぶる神)スサノオは、そこでいろいろな乱暴を繰り返す。するとアマテラスが天の岩戸に隠れてしまうということがあって、ついにスサノオは追放されてしまう。その地が、根の国、闇の国つまり出雲だったわけだが、こちらに来るとなぜか一転して、スサノオは八岐大蛇伝説のような英雄になっていく。

そして、スサノオの後に子のオオクニヌシが登場して出雲の国譲り神話となっていくが、これは、大和朝廷という大王(おおきみ)の勢力に、鉄の産地で青銅器や鉄器を造る技術を持った出雲の一族が服従させられた、その一族が伝えてきた神話や伝承を再編集して神話にしたものだと言われている。

つまり、中央に匹敵する大きな勢力がもともとこの出雲にはあったのだけれども、しかしより大きな国を構想していた大和の天皇の一族との様々な諍いの結果和解をしたということを表しているという。おそらく大和朝廷が形成されていく3世紀4世紀の頃の実際にあったそうした歴史を後に神話にしていったのであろう。出雲の地は、古くから栄え、そういう物語伝承を大切にする精神性を併せ持った土地柄だといえよう。

鰐淵寺(がくえんじ)について

島根県出雲市にある天台宗の寺院。山号は浮浪山。中国観音霊場第25番札所、出雲観音霊場第3番札所、出雲国神仏霊場第2番札所。開山は智春上人、本尊は千手観世音菩薩と薬師如来の二体。

鰐淵寺は、推古天皇2年(594)信濃の智春上人が当地の浮浪の滝に祈って推古天皇の眼疾が平癒したことから、同天皇の勅願寺として建立されたという。推古2年というのは、日本最初の官寺である四天王寺創建の翌年であるから、つまりそれだけ当時この地が中央に匹敵する精神文化と経済力とがあったことを示している。

寺号の鰐淵寺は、智春上人が浮浪の滝で修行している時、誤って滝壺に落とした仏像を、鰐がその鰓(えら)に引っ掛けて浮上したとの言い伝えから名付けられた。ここで言う「鰐」はワニザメを指すという。山陰には近年にもサメの被害が報告されている。因幡の白兎の神話にも残るサメは当時は結構見られたものなのだとすると、サメのきわに位置する寺との意味だったのかもしれない。

ところで、鰐淵寺の所在する島根県や隣の鳥取県は修験道・蔵王信仰の盛んな土地であり、鰐淵寺も浮浪の滝を中心とした修験行場として発展したと言われる。修験道の開祖である役の小角は634年の生まれと言われているから、その前から、山岳霊地を他界と見なして跋渉して自然の霊跡を拝み、超自然の霊力や呪力を体得しようとする人々の一群があったであろう。

この地は古く栄えていた出雲も近く、そうした人々の集まる霊地として格好の地であったのではないか。後白河法皇の『梁塵秘抄』に収録された今様(はやり歌)に「聖の住処は、何処何処ぞ、箕面よ勝尾よ、播磨なる書写の山、出雲の鰐淵や日の御碕、南は熊野の那智とかや」と歌われており、平安時代末期頃には修験行場として日本全国に知られていたことが分かる。

だから、鰐淵寺の草創期の信仰の対象は、役の小角が金峰山にて感得した金剛蔵王権現であったと言われる。出雲の地には蔵王権現を本尊とする寺院が点在していた。悪魔を降伏する形相を示す蔵王権現は、身体は青黒く、眼は怒り髪が逆立ち歯は牙のように尖っている。右足は蹴り上げたような姿。過去現在未来の三世において私たちを救う力強い神として信仰を集めた。

その後、奈良平安にいたり、仏教が組織化して宗派を生む時代となり、おそらく修験者たちの教義の基となる教えとして求めたのであろう、806年に立宗された天台宗、比叡山の最澄の法門に帰依して、鰐淵寺は最初の天台宗末寺になっていた。その後、中国の唐に行き10年間も各地を巡錫した慈覚大師円仁(天台第3世座主)が筑紫から山陰をぬけて帰るときに参籠。今日の本尊でもある薬師如来と千手観音を刻んで本尊とした。

また法華堂、常行堂を造り、一山衆徒に法華三昧、常行三昧の法を伝えたという。法華三昧とは、法華懺法とも言い、諸仏を勧請して礼拝し、六根の罪を懺悔して法華経を読誦して行道する21日間の行法。常行三昧は、7日ないし90日間、阿弥陀仏のまわりを歩きながら念仏を唱え心に弥陀を念じる行法。

ところで、平安時代末期までの鰐淵寺は現在地のやや西寄りの唐川にあったという。これに林木(はやしぎ)の薬師如来を本尊とする寺院が吸収された。以後、鰐淵寺は千手観音を本尊とする「北院」と薬師如来を本尊とする「南院」に分かれることになる。つまりは円仁はこの地の別々の寺に二体の仏像を納めたということなのであろう。つづく

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『天平の甍』を読んで―鑑真和上顕彰

2009年02月09日 11時19分09秒 | 仏教書探訪
昨年、鑑真和上開山の唐招提寺に参る機縁をいただいた。山門、金堂、戒壇、講堂、食堂。そして、御影堂に執事の方がご案内下さった。御影堂はかつての興福寺一条院の宸殿を移設したもので、明治になって奈良県庁の建物として使われていたが手狭になり、こちらに貰われてきたとうかがった。

中に入ると広間の襖には見事な海の波の青々とした絵が描かれている。ご存知東山魁夷画伯の襖絵である。鑑真和上が日本に渡るのに12年の歳月をかけられたのと同じ12年間かけて鑑真和上に捧げられた日本海の絵だ。何度も当時の小さな舟で日本に向けて戒法を伝えんがために命をかけられた鑑真和上が夢見た日本の海。

前方の襖を開けるとそこにはやはり青々した日本の山の情景が現れた。いかにも東山魁夷画伯の絵。おぼろげに見えて繊細なその絵は、風を肌に感じさせるような不思議な空間を醸し出す。お堂の正面の襖を開けると鑑真和上のおられるお厨子が現れた。国宝鑑真和上像が納められたその前で、心経一巻。心に染みいる深閑とした霊気にうたれた。

御影堂の庭には、東山画伯の供養塔もあるという。その供養塔のみが12年間の画伯へのお礼とうかがった。東山画伯がどれだけ鑑真和上に敬慕し感謝し心酔してこのふすま絵を描かれたかを表している。そのことを思うとき、今日の私たち日本仏教はこれでよいものかと改めて考えさせられた。

その時からもう一度井上靖氏の『天平の甍』を読みたいと思っていた。取り紛れていたが、昨日やっと読了した。鑑真和上が何度も渡海を試み、暴風雨等のためにどこへ漂着されても、行く先々で地方長官自ら大勢の人々が出迎えて歓待され、仏堂を建てたり、授戒をされたり。それだけの高僧が65歳という高齢にもかかわらず失明までして、なお自らの命をかけて伝えたものを今私たち日本仏教は全く蔑ろにしてしまっていることを思う。誠に申し訳ないことではないか。

井上靖氏の『天平の甍』が書かれるまで、さして鑑真和上のことは広く知られてもいなかったと聞いた。知られていなかったのは知らさなかったためであろう。破戒から無戒と言われる日本仏教ではあるけれども、いま一度この鑑真和上の顕彰により、私どものあり方を振り返る縁(よすが)としなければならないのではないかと思う。

(以下WIKIPEDIAより鑑真和上の項を転載します。ご覧下さい。)

鑑真(がんじん、鉴真、jiàn zhēn 688年(持統天皇2年) - 763年6月25日(天平宝字7年5月6日))は、奈良時代の帰化僧。日本における律宗の開祖。俗姓は淳于。

鑑真と戒律
唐の揚州江陽県の生まれ。14歳で智満について出家し、道岸、弘景について、律宗・天台宗を学ぶ。律宗とは、仏教徒、とりわけ僧尼が遵守すべき戒律を伝え研究する宗派であるが、鑑真は四分律に基づく南山律宗の継承者であり、4万人以上の人々に授戒を行ったとされている。揚州の大明寺の住職であった742年、日本から唐に渡った僧栄叡、普照らから戒律を日本へ伝えるよう懇請された。

仏教では、新たに僧尼となる者は、戒律を遵守することを誓う必要がある。戒律のうち自分で自分に誓うものを「戒」といい、僧尼の間で誓い合うものを「律」という。律を誓うには、10人以上の正式の僧尼の前で儀式(これが授戒である)を行う必要がある。これら戒律は仏教の中でも最も重要な事項の一つとされているが、日本では仏教が伝来した当初は自分で自分に授戒する自誓授戒が行われるなど、授戒の重要性が長らく認識されていなかった。

しかし、奈良時代に入ると、戒律の重要性が徐々に認識され始め、授戒の制度を整備する必要性が高まっていた。栄叡と普照は、授戒できる僧10人を招請するため渡唐し、戒律の僧として高名だった鑑真のもとを訪れた。

栄叡と普照の要請を受けた鑑真は、弟子に問いかけたが、誰も渡日を希望する者がいなかった。そこで鑑真自ら渡日することを決意し、それを聞いた弟子21人も随行することとなった。その後、日本への渡海を5回にわたり試みたがことごとく失敗した。

日本への渡海
最初の渡海企図は743年夏のことで、このときは、渡海を嫌った弟子が、港の役人へ「日本僧は実は海賊だ」と偽の密告をしたため、日本僧は追放された。鑑真は留め置かれた。2回目の試みは744年1月、周到な準備の上で出航したが激しい暴風に遭い、一旦、明州の余姚へ戻らざるを得なくなってしまった。再度、出航を企てたが、鑑真の渡日を惜しむ者の密告により栄叡が逮捕され、3回目も失敗に終わる。

その後、栄叡は病死を装って出獄に成功し、江蘇・浙江からの出航は困難だとして、鑑真一行は福州から出発する計画を立て、福州へ向かった。しかし、この時も鑑真弟子の霊佑が鑑真の安否を気遣って渡航阻止を役人へ訴えた。そのため、官吏に出航を差し止めされ、4回目も失敗する。

748年、栄叡がふたたび大明寺の鑑真を訪れた。懇願すると、鑑真は5回目の渡日を決意する。6月に出航し、舟山諸島で数ヶ月風待ちした後、11月に日本へ向かい出航したが、激しい暴風にあい、14日間の漂流の末、はるか南方の海南島へ漂着した。鑑真は当地の大雲寺に1年滞留し、海南島に数々の医薬の知識を伝えた。そのため、現代でも鑑真を顕彰する遺跡がのこされている。

751年、鑑真は揚州に戻るため海南島を離れた。その途上、端州の地で栄叡が死去する。動揺した鑑真は広州から天竺へ向かおうとしたが、周囲に慰留された。この揚州までの帰上の間、鑑真は南方の気候や激しい疲労などにより、両眼を失明してしまう(完全に失明していなかったとする説もある)。

752年、必ず渡日を果たす決意をした鑑真のもとに訪れた遣唐使藤原清河らに渡日を約束した。しかし、当時の玄宗皇帝が鑑真の才能を惜しんで渡日を許さなかった。そのために753年に遣唐使が帰日する際、遣唐大使の藤原清河は鑑真の同乗を拒否した。それを聞いた副使の大伴古麻呂はひそかに鑑真を乗船させた。11月17日に遣唐使船が出航ほどなくして暴風が襲い、清河の大使船は南方まで漂流したが、古麻呂の副使船は持ちこたえ、12月20日に薩摩坊津に無事到着し、実に10年の歳月を経て仏舎利を携えた鑑真は宿願の渡日を果たすことができた。

日本での戒律の確立
唐招提寺754年(天平勝宝6)1月、鑑真は平城京に到着し、聖武上皇以下の歓待を受け、孝謙天皇の勅により戒壇の設立と授戒について全面的に一任され、東大寺に住することとなった。4月、鑑真は東大寺大仏殿に戒壇を築き、上皇から僧尼まで400名に菩薩戒を授けた。これが日本の登壇授戒の嚆矢である。併せて、常設の東大寺戒壇院が建立され、その後761年(天平宝字5)には日本の東西で登壇授戒が可能となるよう、大宰府観世音寺および下野国薬師寺に戒壇が設置され、戒律制度が急速に整備されていった。

758年(天平宝字2)、淳仁天皇の勅により大和上に任じられ、政治にとらわれる労苦から解放するため僧綱の任が解かれ、自由に戒律を伝えられる配慮がなされた。

759年(天平宝字3)、新田部親王の旧邸宅跡が与えられ唐招提寺を創建し、戒壇を設置した。鑑真は戒律の他、彫刻や薬草の造詣も深く、日本にこれらの知識も伝えた。また、悲田院を作り貧民救済にも積極的に取り組んだ。

763年(天平宝字7年)唐招提寺で死去(入寂)した。76歳。死去を惜しんだ弟子の忍基は鑑真の彫像(脱活乾漆 彩色 麻布を漆で張り合わせて骨格を作る手法 両手先は木彫)を造り、現代まで唐招提寺に伝わっている(国宝唐招提寺鑑真像)が、これが日本最初の肖像彫刻とされている。また、779年(宝亀10)、淡海三船により鑑真の伝記『唐大和上東征伝』が記され、鑑真の事績を知る貴重な史料となっている。

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