住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

<周防國分寺と阿弥陀寺参拝>4 阿弥陀寺

2007年11月10日 17時14分38秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
次に東大寺別院阿弥陀寺を紹介しよう。周防華宮山阿弥陀寺といい、太平山の山麓で眺望絶佳のところにあり、周防の国衙(国司が政務を執った役所)にも近い。平安後期から鎌倉初期にかけて活躍された名僧俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん)上人が、東大寺を再建するため、周防国務管理在任中に建立された由緒ある古寺である。

治承4年(1180)東大寺が平重衡(たいらのしげひら)の兵火にかかって焼失。大仏殿が焼け落ち、本尊盧舎那大仏(るしゃなだいぶつ)が大破したのをはじめ、堂塔伽藍(どうとうがらん)の多くが、内部に安置されていた幾多の尊像とともに灰燼に帰した。

非常に残念に思った後白河法皇は、大仏を改鋳し、大仏殿を再建しょうとの悲願を起こし、最初、法然に再建を依頼したが、法然はこれを固辞して、当代きっての有徳者であった重源を東大寺再建の大勧進職に推挙した。

重源上人は、まず大仏を鋳かえることとし、文治元年(1185)にこれを改鋳され、ついで大仏殿の再建に着手。翌2年に、朝廷は周防一国の租税を東大寺に寄付され重源上人を周防国務管理に任ぜらた。建久4年(1193)には備前国が追加されて、周防国からは良材が、備前国からは瓦が供給された。

上人は宋人の陳和卿(ちんなけい)、日本の大工物部為里らをひきいて防府に下向され、4月18日佐波川をのぼり徳地の杣山(そまやま)で杣始めを行なったという。そまとは、木材にするための木を植え、切り出す山を言い、杣木をそまやまから切り出すことをそま出しという。

山地は断崖絶壁が多く杣出しに不便であったので道のないところへ岩を崩して道をつけ、橋を架け、材木を佐波川の木津に出して筏に組み、河口まで28キロメートル余の間に118ケ所のせき場をつくって筏を流し送るなど苦労の連続であったようだ。

しかし、上人は、寒暑も厭わず、老齢の骨身を削って精進と努力を続け、数ヶ月の間に、東大寺の柱の用材とするため口径1メートル60センチ、長さ20メートル余の杉をはじめ130本の巨木を切り倒している。周防国は瀬戸内海に開けた国であり、東大寺への用材も瀬戸内海を舟で運ばれた。

ともかくも、このような巨木が鬱蒼と生い茂る西国有数の森林が当時の周防には存在したのである。搬送に莫大な人夫を要し、在地の地頭の妨害もあり、地頭職を停止させられた者もいた。材木に刻する東大寺の焼印(槌印)が阿弥陀寺に伝えられている。また阿弥陀寺参道には用材のレプリカが展示されている。

杣始めから5年後の建久元年(1190)10月、東大寺上棟式を挙げ、ついで同6年(1195)竣工の大供養が営まれた。源頼朝は参列しているが、本願主であった後白河法皇は建久3年3月崩御されて、この落慶式にご臨席されなかった。

阿弥陀寺は東大寺の周防別所として、後白河法皇の現世安穏を祈願して文治三年(1187)に建立。上人が当地に下向された当時は、源平合戦の余波で国府は疲弊し、士民の流亡する者も多く、また飢えを訴える者が雲集し、これに米を与え、野菜の種をとり寄せ、耕作を励まして、国府の繁栄を図ったという。

この地を選定し、自ら鍬をとって開墾すること三日三晩、創建当時の境内は、東は木部山(きべやま)、南は木部野を横ぎって半上峠(はんじょうだお)に向かう旧街道、西は今の多々良山、北は大平山に至る広大な地域を占め、この中に浄土堂をはじめ、経蔵、鐘楼、食堂(じきどう)、温室および実相坊、成就坊など多くの支院僧坊があった。

上人はこれら阿弥陀寺の経営のため、本寺を建立すると同時に寺領として25.9ヘクタールの田畠を寄付。僧坊は、長い年月を経るうちに火災や倒壊などの災難が多く廃寺となり、今はただ本寺のみが残る。

阿弥陀寺の入り口である、仁王門は市の重文で、茅葺き。貞享二年(1685)毛利就信公が再建。安置される金剛力士像は、仏法の護持にあたる像で隆々たる裸体の忿怒尊。高さ2.7メートル。桧寄木造り。快慶一派の作で、国の重要文化財。玉眼、堂々とした力強い容姿は鎌倉期の特色を表す。

仁王門を進むと、湯屋(重要有形民族文化財)がある。建坪47.38㎡、焚口・鉄湯釜・湯船(石材)・洗い場(石畳)・脱衣場からなり、湯釜と湯船を別々に設けた鎌倉時代以降の古い様式を伝えるものである。現在でも7月の開山忌には湯を立てて入浴させている。

さらに、石風呂があり、重源上人が東大寺用材の伐りだしに従事する人夫たちの病気治療や疲労回復のために設けたものと伝える。鎌倉時代のサウナ。新しい石風呂では、地元の世話役が毎月第1日曜日に定期的に焚いている。神経痛や腰痛によく効くという。

現本堂は、享保16年(1731)に毛利広政公が再建したもので、本尊に阿弥陀如来立像、ほかに十一面観音などを祀る。念仏堂は、明治35年焼失後の再建。護摩堂は、享保16年本堂と同時期に再建されたもの。他に経堂、鐘楼がある。

そして、重源上人を祀る開山堂には、重源上人坐像が祀られ、国の重要文化財(鎌倉時代)。88.78㎝桧の一木彫り。快慶一派の作。日本最古の寿像といわれ、よく老僧の風格をあらわす。鎌倉肖像彫刻の傑作である。

宝物庫には、数々の寺宝を収蔵する。まずは、国宝の鉄宝塔(鎌倉時代)。重源上人が願主となって建久八年(1197年)に鋳造された。鋳工は東大寺の大仏を鋳た日本鋳物師を代表する、草部是助・是弘・助延たちである。屋蓋部・塔身部・基壇の三部を分鋳し組み立てている。総高3メートル。相輪部は後補。塔身部にはもと両面開きの扉がついていて、その中に仏舎利七粒を納める水晶五輪塔(国宝)13.9㎝が安置されており、併せて国宝に指定されている。

このほか、東大寺槌印、27.2センチの木の柄をもつ槌で、印面に東大寺の三文字を刻印してあり、切り出した用材に刻印するためのもの。国の重要文化財。また、紙本墨書き阿弥陀寺領田畠注文並びに免除状、鎌倉初期の正治2年に国衙領のうち田22.9ヘクタール畠3ヘクタールを寺領として諸公事の課役を免除したもので、重源上人の袖判がある。袖判とは、文書の袖・右端の空白に署した花押のこと。国の重文。

伽藍や文化財については以上である。ここで少々、阿弥陀寺開山の重源上人について補足すると、重源上人は、京都の紀氏の出。真言宗京都醍醐寺に入って出家、のち法然に学んだという。47歳の仁安2年(1167)宋に渡り、翌年帰国。帰国は臨済宗を開く栄西と一緒であった。

重源は真言宗の僧であったが、自らを「南無阿弥陀仏」と称し、各地に阿弥陀堂や阿弥陀如来像を建立するなど、その事跡を特色づけているのは阿弥陀信仰である。それは鎌倉新仏教とよばれる新仏教が興隆する時代の中でその流れに沿うものではあったが、法然や栄西とは違った道を歩み、勧進聖や宗人陳和卿や土木技術者など実働部隊をひきいて大事業をなすプロジェクト集団とも言うべきものを組織し、勧進に生涯をかけた人であった。

重源の指導のもと、大仏の再鋳(さいちゅう)や大仏殿の再建、仏堂内の諸仏の造立が次々と実現してゆく。その過程で、仏像の世界では巨匠運慶(うんけい)・快慶(かいけい)ら慶派仏師(けいはぶっし)によって写実性と躍動感に富んだ鎌倉彫刻が成立し、また建築の分野では大仏様(だいぶつよう)と呼ばれる新しい様式が開花し、重源がその成立に大きく関与したといわれる。

大仏様とは、天竺様とも言われ、当時の南宋の建築様式を言う。今日に残る代表的な大仏様である東大寺南大門のように、挿し肘木を用いて柱から前に木を出し屋根を支える方式が特徴で、木部は朱壁は白塗りで、野屋根や天井がないので、内部が高く見通せる構造になっている。

重源は、宋を三度にわたって巡礼した経験をもち、東大寺再建の大勧進(だいかんじん)に任ぜられたときには、すでに六十歳を超えていた。それまで、僧侶が国司に任ぜられることはなく、周防国も例外ではなかった。しかし、東大寺の再建は重源の行動力と人望をもってしか叶わなかったわけで、重源は国司職に補任され実質的に国司の任にあたった。そこで、重源は国司上人と呼ばれたといわれる。

また、天平の昔、大仏造営に献身的に協力した高僧行基(ぎょうき)の存在も強く影響していたであろう。当時、数々の偉大な業績を成し遂げた重源を賞して、行基菩薩の再来と敬う人々も多かったと言う。

阿弥陀寺は、今日では、西日本一のあじさい寺として有名である。地元のあじさい保存会の人々によって境内至る所に様々なあじさいが植樹された。毎年6月中旬のあじさい祭りには多くの人々で賑わう。あじさいの彩りとともに、日本仏教の象徴とも言える東大寺大仏殿を支えた周防の国の豊かな自然と歴史の重みを味わって欲しいと思う。

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<周防國分寺と阿弥陀寺参拝>3 周防國分寺

2007年11月08日 10時37分39秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
国分寺の歴史についてはこのくらいにして、周防(すおう)国分寺について学んでいこう。ここまで見てきたとおり、どこの国分寺も栄枯盛衰を繰り返し、その過程で少しずつ境内が移動している。しかし、周防国分寺の伽藍は、いまでも奈良時代の創建時の位置に立っており、全国的にきわめて珍しい。

平成9年から16年にかけて行われた金堂の解体修理の過程での発掘調査で、金堂は奈良時代創建当初の金堂の上に再建され、創建当初から、その位置が動いてないことが判明した。現在の寺域は、東西に約1町、南北に2町の寺域を保持し、その中に、仁王門・金堂・聖天堂・二の門・持仏堂・庫裏・長屋・土蔵を現在に伝えている。

本尊は、室町時代の薬師如来坐像(重要文化財)で、その他に平安時代初期の日光・月光菩薩(重要文化財)、藤原時代初期の四天王(重要文化財)など、数多くの仏像を安置している。現在宗派は、高野山真言宗で、別格本山。

仁王門(県指定)は、重層入母屋造り、桁行3間(9.94m)、梁間2間(6.0m)、棟高(12.12m)本瓦葺き、建坪36坪。天平創建時の旧境内地に立っている。二手先(ふたてさき)で支える上層の縁・勾欄・尾垂木付二手先の組物二軒扇垂木の軒など、全体のバランスがよくとれた美しい門である。現在の仁王門は、文禄5年(1596年)に毛利輝元が再建。室町時代16世紀中後期の作の仁王像(3.5m)を安置。檜材寄木造り。

金堂(重要文化財)は、二層入母屋造り、桁行(けたゆき)7間(22.0m)、梁間(はりま)4間(15.8m)、棟高(18.0m)、本瓦葺き、建坪116坪。正面、背面ともに一間の唐破風造りの向拝を取り付けている。柱の上にある斗拱(ときょう)は上下で違い、上層は青海波支輪・尾垂木を伴った二手先、下層は蛇服支輪付の出組(でぐみ)で、軒も上層は扇垂木、下層は指垂木としてそれぞれ変化をつけている。

現在の金堂は、室町時代の大火の後に大内氏が再建し、江戸・安永8年(1779年)毛利重就(しげたか)によって奈良時代の大きさに再興された。平成9年から16年にわたり総事業費19億円をかけて重要文化財国分寺金堂保存修理事業として、財団法人文化財建造物保存技術協会の設計監理のもとで平成の大修理が行われた。大変な大事業をなされたご苦労が偲ばれる。

周防国分寺金堂の須弥壇上には、本尊藥師如来坐像[坐高218センチ・檜材・寄木造り](重要文化財)を中心に日光・月光菩薩立像、四天王像、十二神将などが安置されている。本尊藥師如来坐像は、室町時代制作の仏像としては極めて珍しい大型像で貴重な作例である。

国分寺の本尊は、創建当初は釈迦如来であったが、奈良時代の終わり頃から平安初期に藥師如来に替わっているが、周防国分寺も創建当初は釈迦如来であったが、国分寺の国家鎮護と、人々の慶福を祈願するという趣旨から、早い時期に藥師如来になったという。

室町時代、1417年の火災で焼失し、現在の本尊は室町時代1421年金堂再建時に大内盛見によって造られたもの。また、この1417年の火災のときに時の住職仙秀宝憲が藥師如来の左手を持ち出し、現在の本尊の胎内に収めたと寺伝で言い伝えられてきたというが、金堂の解体修理の為の仏像移動で、胎内から出てきた。

ところで、その百年ほど前、周防国司に西大寺流の律宗に属する鎌倉極楽寺善願が任国し、そのころから周防国分寺は奈良西大寺との関係が結ばれ、住持職の任命権を持ち、西大寺法会への出仕が義務づけられていたようである。

そして、正中2年(1325)には西大寺の僧が周防国分寺を再興しており、そのあと、興福寺南円堂から出現した仏舎利を西大寺の僧の手を経て周防国分寺五重塔に納められたというが、その金堂再興に際して造像された本尊薬師如来の左手が現本尊の胎内にあったものであろう。

さらにはこの後17世紀初頭には、奎玉房という周防国分寺住持から西大寺長老になる住持も現れる。周防国分寺は当時律戒清浄の道場、かつ密教の各種祈祷の他灌頂の儀礼を行う格式高い密道場としても西大寺流を踏襲していたが故に、持戒堅固な高僧が法灯を守り今日があるのだと思われる。

またこの度の金堂修理に関連して、本尊様の薬壷の蓋を開けたところ、中に、五穀(米・大麦・小麦・大豆・黒大豆)・丁子・菖蒲根・朝鮮人参など15種類の薬と、財宝として色ガラス、水晶のほか五輪塔が収めてあったという。

本尊藥師如来の両脇侍として日光・月光菩薩立像(重要文化財)が安置されている。本来は左右対称に作られるのが普通であるが、この両像は、左右同形で珍しい。日光菩薩が180センチ、月光菩薩が179センチ、檜の一木造りである。温和な相貌、腰が高く伸び伸びした体躯から平安初期の作と見られる。

四天王像(重要文化財)いずれも2メートルを超す巨大像。四天王は、須弥山(古代インドの神話や仏典に出てくる世界の中心にあるという山)の四方にいて、仏法を守っている四人の天王。東に持国天、南に増長天、西に広目天、北に多聞天が位置し、それぞれ剣・三鈷・杵・宝塔を手にして甲冑で身を固め、足元に邪鬼を踏みつけている。

国分寺は、正式には、『金光明四天王護国之寺』と称されるが、これは「金光明経」に『もし国王がこの経を崇拝すれば、われら四天王はこの国を常に守護せん』と書かれていることによる。檜の一木造。漆彩色像。持国天・増長天は本体と邪鬼が一木造である。平安時代後期、藤原時代初期の作。

持仏堂は、宝永4年(1707年)毛利吉広によって修築された客殿。堂内には、阿弥陀如来坐像(重要文化財)等の諸仏や位牌堂がある。半丈六阿弥陀如来像(坐高114センチ・国重要文化財)は、檜の寄木造りで漆箔、彫眼、上品下生印を結んだ姿である。藤原時代の作で、伏し目がちな慈眼、柔和な表情は、人々を救うにふさわしく、肩のはりのなだらかさ、衣文線の流麗さは、平明、優美、調和という定朝様の特色を表している。

このほか、快慶作・阿弥陀如来(県指定有形文化財)鎌倉時代・坐高96センチ。檜の寄木造り、玉眼入り。高麗からの渡来仏・金銅毘盧舎那如来(県指定有形文化財)。坐高51.6センチ、智拳印。 9世紀統一新羅時代の作・金銅誕生仏(県指定有形文化財)。坐高25.3センチ、左手を高く上げて右手は下げた逆手の形態は貴重なもの。

さらに堂内には、阿弥陀如来立像・十一面観音・十二神将・十二天・不動明王・愛染明王など、五十体以上の諸仏が安置されている。このほかも含め約百体の仏像、二百枚の絵画、周防国分寺文書など千五百の文書、8500点の典籍経文が現存している。まさに山口県下一、ないし全国の国分寺一の文化財の宝庫と言えるであろう。すばらしいの一語に尽きる。

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<周防国分寺と阿弥陀寺参拝>2 國分寺の研究②

2007年11月07日 11時21分15秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
国分寺は、聖武天皇の勅願によって諸国に68ケ寺建立された官立の寺院。『国泰らかに人楽しみ、災除き福至る』と聖武天皇が詔勅に述べられたように、国民の幸せを祈念され、当時流行っていた疫病や戦乱から国民を守り、五穀豊穣の世となるようにと諸国に建立された。

創建当初、国分寺は、寺域2町四方、その中に、南大門・中門・回廊・金堂・講堂・七重塔・食堂・経蔵・鐘楼・僧坊などの七堂伽藍があった。また、当初本尊は丈六の釈迦如来で、国分寺の正式名称は金光明四天王護国の寺と言った。

その後、平安中後期には、律令体制が衰退すると言われてはいるが、少なくとも3分の2強の国分寺は10世紀以降12世紀に至るまで存続していたことが確認されている。そして、国分寺の修理料や法会の布施供養料は原則として正税でまかなわれていたようで、国分寺僧・講師の任命手続きも律令制の枠内で行なわれていた。しかし、一方では東寺、法勝寺、成勝寺、観世音寺などの中央、地方の有力寺院の末寺あるいはそれらの強い影響下におかれたという。

鎌倉初期には、表面的には変化ないものの、講師の名誉職化と役割の交代、境内などが狭くなり規模が縮小して、次第に諸寺化していった。さらに武士特に地頭・守護による国分寺領などの掌握が促進されたが、そのことは、当時、国分寺の宗教活動が地域住民と密接な関係を有していたことを示している。

蒙古襲来期から建武の親政並びに南北朝の内乱期には国分寺の役割が見直され奈良・西大寺流律宗による国分寺再興が進む。西大寺自体は叡尊により暦仁元年(1238)から本格的に再興がはじめられる。

西大寺は聖武天皇の子称徳天皇(孝謙天皇重祚)が創建した大寺院であるが、当時は四王堂、食堂、東塔などを残すのみとなっており、一応はまがりなりにも奈良時代以来の鎮護国家寺院として機能し、南都七大寺の一つとして認識されていた。

叡尊は再興にあたって鎮護国家寺院としての性格を損なうことなくその機能を継承したといわれ、蒙古襲来期に叡尊は異国降伏の祈祷を盛んに行い効果をあげ、その名声を不動のものとする。こうした機能を発揮した西大寺に対し為政者が、当時再認識されてきた国分寺を掌握させるのが適当と考えたのであろう。

亀山院(1287~1298)が叡尊在世時代に19カ国の国分寺を西大寺に寄附。続いて、後宇多院(1301~1308)が信空(第2代長老)からの受戒に感激し、60余州の国分寺を西大寺の子院としたとされる。

また1391年9月28日付「西大寺諸国末寺帳」によると、周防、長門、丹後、因幡、讃岐、伊予、伯耆、但馬の8ヶ国が見える。さらに、尾張、加賀、越中、武蔵、陸奥の国分寺も末寺となっている。

西大寺は叡尊、忍性時代から国分寺と関係を持ち始め、13世紀末から14世紀のごく始めには形の上だけにはせよ国分寺を管掌するようになったと見てよいようだ。次第に、国分寺と西大寺の結びつきが希薄になりつつも中世後期まで西大寺との本末関係を維持していた国分寺の代表は、周防、長門であった。その関係は、本寺の重要法会への参加、本寺による住持職の補任といった近世の本末制さながらの関係が伺われる。

西大寺が国分寺にかかわりをもった早い例は1310年西大寺上人御坊(信空)宛の長門国分寺復興の院宣である。続いて周防国分寺再興、伊予国分寺復興、丹後国分寺再興などである。守護領国制の形成とも相俟って国分寺の地位の回復が図られるに至る。

平安末期から鎌倉初期にかけて国分寺に対する行基信仰や勧進聖のかかわりがあったからこそ西大寺系の僧侶が国分寺再興にかかわりやすかったことは疑いない。その点で西大寺流と国分寺との関係は国分寺史の中でも一つの画期であり、中世のあり方をよく示している。

ところで、何故かこの蒙古襲来期に東大寺が「総国分寺」であることが強調されるという(東大寺文書に5回見られる(1272~1292))。東大寺が総国分寺として各国国分寺とどのような関係を有していたかは明らかになっていない。

しかも東大寺が特定の国分寺と本末関係を結んだり、国分寺再興に東大寺の僧が関わった形跡もない。当時の国分寺の宗旨が真言宗であったことからそれは難しかったであろうし、逆に西大寺は真言系の律宗であったら、入り込みやすかったのであろう。

ともかくも、この時期に第3者ではなく東大寺側が自ら総国分寺であると主張している点が興味深い。そのことは東大寺が異国降伏の祈祷を行う第一の寺院であるという自覚の表れとみることもできようが、しかし、当時異国降伏祈祷に最も活躍したのは西大寺であった。

祈祷寺院としての西大寺は蒙古襲来を契機に再認識され西国国分寺進出の足がかりをつかむわけであるが、そうした西大寺の勢威に対する対抗意識から総国分寺であるというかつての位置を主張し、国家鎮護の祈祷に相応しいことを標榜したのであろう。

そして、中世後期、つまり戦国期には、ここ備後国分寺でも、いくさに出る軍勢を整える陣屋として使われたことが資料に残されている。そうした戦争への関わりから焼失衰退する国分寺が多く、時期的には天正年間に集中している。しかし、それまでの大名による保護政策があったためか焼失したまま放置されることはまれで、17世紀後半までにほぼ再興修理がなされ、全国国分寺の3分の2以上が存続機能している。

当時、国分寺で行われた祈祷は、大名などの個別の要請にこたえたものであったが、奈良時代以来の伝統をひく鎮護国家の祈祷を年中行事として行っていた。国分寺の教学や信仰面などを見ても、いわゆる鎌倉新仏教の影響は顕著でなく、天台、真言といった密教にかかわるものがほとんどであるという。

創立期の伽藍を維持していた国分寺は皆無に近かったであろうし、焼失のたびに規模を小さくしていったことは想像に難くない。しかし、現世利益の願いを満たす地方における中規模の一山寺院として、中世以降にも一定の役割を果たしつつ近世にも存続していくのである。

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<周防國分寺と阿弥陀寺参拝>1 國分寺の研究

2007年11月06日 13時53分18秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
朝日新聞愛読者企画・備後国分寺住職と巡る日本の古寺巡りシリーズ第3回晩秋の防州をゆく周防国分寺・東大寺別院阿弥陀寺という企画で、今月14日と26日に両寺を参拝する。

これまで室生寺、三千院など東に向けてバスを走らせたが、今回は西に向かって歩を進めていく。周防国分寺は、創建時の金堂の位置に現在の本堂が建つ誠に貴重な国分寺であり、多くの古い仏像を蔵している。阿弥陀寺は、鎌倉期の東大寺再建に奔走した重源上人ゆかりの大寺だ。

早速、国分寺の歴史から紐解くが、國分寺はわがことでもあるので、少々細かく歴史を解明していこう。まず、国分寺の建立は、天平13年に国分寺建立の詔が発せられて建立されたわけではあるが、その30年ばかり前のこと、仏教の興隆によって国家の安寧を願う護国思想に基づき、天武天皇14年に、諸国の家毎に仏舎を作り仏像、経を置き礼拝供養すべきことが詔せられている。

これにより、諸国への仏教の流通が計られ、ついで持統天皇8年、国分寺の詔に遡ること20年の頃に諸国に金光明経を送り置き、毎年正月に読むべきことが命ぜられた。これにより、諸国において護国の法会が営まれることとなる。

そして、国分寺の建立は、天平9年3月の詔で国毎に釈迦仏像の造立が命ぜられたときに実質的には開始され、天平13年2月に僧寺、尼寺からなる体系的な国分寺建立の詔の発布にいたる。

続日本紀巻14にある「国分僧寺・尼寺建立の詔」の和訳を大学教授鈴木渉氏によるHP「国分寺・全国の国分寺を巡る」より転載させていただく。http://members.at.infoseek.co.jp/bamosa/

『詔曰く、私は徳は薄い身であるが、忝なくもこの重任(天皇に即位)を承けた。しかし、未だその成果を得ていないので、寝ても醒めても恥ずかしい思いをしている。いにしえの為政者は皆、国を泰平に導いて災難を除き楽しく暮らしていたのだが、どうすれば良いのだろうか。

近年、稔りも少なく疫病も流行している。そのため先年諸国の神々を祀り、また国々に一丈六尺の釈迦三尊像の造立と、さらには大般若経の写経を命じたのだ。そのためか、この春から秋の収穫まで風雨は順調で五穀が豊かに実った。このように誠を願えば霊を賜わることができるものである。

【金光明最勝王経】には『もしもこの経を読誦すれば、我が四天王が常に擁護くださって、一切の災難を消し去り、病気も取り除き、常に歓喜に満ちあふれた生活を送ることができる』と書いてある。

そこで諸国に七重塔を建てて、金光明最勝王経と妙法蓮華経を十部ずつ写すようにするものとしたい。私は別に、金字の金光明最勝王経を書き写して、各国の塔ごとに納めることにしよう。こうして仏教を盛んにさせて、天地のごとく永く伝えられるようにし、擁護の恩寵が死者、生者ともにあることを願うようにするものである。

これらの塔を造る寺は国の華でもあり、建立にあたっては必ず好い場所を選ぶようにすること。あまり人家の近くで生活臭のするような所ではいけない。また、あまり遠くで人の労をかけるような所でもよくない。国司どもはよろしく私の意志を国内に知らしめるとともに、これらを執り行って寺を清潔にきれいに飾るようにすること。

また国分僧寺には封戸五十戸と水田十町を、尼寺には水田十町を施すこと。僧寺には僧侶20人を入れ、寺の名を金光明四天王護国之寺とすること。尼寺には尼を10人を入れ、寺の名を法華滅罪之寺とすること。両寺は適当な距離をおき戒に順うこと。僧・尼にもしも欠員が出たらすぐに補うように。

毎月8日には金光明最勝王経を読経すること。また、月の半ばに至るごとに羯磨(こんま)を暗誦し、毎月六斎日には行事を執り行い、公私ともに漁・猟などの殺生をしないように。国司らはこれらをよろしく監督するものとする。』

こうした国分寺の制に影響を与えた中国の制度としては、則天武后が690年に天下に大雲寺経を頒ち諸州に設置した大雲寺、中宗が705年に諸州に一観一寺の設置を令した竜興寺観、玄宗が738年に州毎に設置を命じた開元寺等があるという。

天平13年2月のこの詔によって、諸国国分寺の造営が開始されるが、天平19年11月には国司の怠慢を戒め、七道に使いを遣わして進捗状況を観察させ、向こう3年のうちに造営を終えるよう督励するなど、造営の進捗は必ずしも順調ではなかったようだ。が、その後宝亀年間ころ、つまりその後30年ほどの間には国分寺の多くが完成していたと見られている。

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