住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

追悼 松長有慶猊下

2023年04月25日 17時24分11秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
追悼 松長有慶猊下




私は教え子でもなく、お寺の関係者でもない。しかし猊下の最晩年にご縁をいただき、ご厚誼賜ったものとして誠にごくわずかのその関係についてのみではありますが、四月十六日ご遷化された松長先生の記憶を追悼の意を込めてここにとどめておきたいと思います。

松長有慶猊下についてはWikipediaにある通り、仏教学者密教学者としても、また真言僧侶としても最高の位置に自ずと推挙せられて上られました。そのご生涯は、真言宗ならず日本仏教界における金看板ともいえる存在でありました。急逝が惜しまれてなりません。

〈Wikipedia〉 松長有慶 1929年〈昭和4年〉7月21日 - 2023年〈令和5年〉4月16日)高野山真言宗の僧侶で仏教学者。高野山・補陀落院住職、元総本山金剛峯寺第412世座主、同宗管長(2006-2014年)。全日本仏教会会長(2008-2010年)高野山大学名誉教授、元同大学長。21世紀高野山医療フォーラム名誉会長。
経歴
1929年(昭和4年) 高野山南院住職松長有見高野山大学教授の長男として誕生。
1941年(昭和16年) 高野山南院道場において藤村密憧を戒師として得度
1951年(昭和26年) 高野山大学密教学科卒業
1959年(昭和34年) 東北大学大学院文学研究科博士課程修了
1968年(昭和43年) 高野山補陀落院住職に就任(~現在)
1977年(昭和52年)~1979年(昭和54年)高野山大学によるラダック地方の仏教文化調査
            「ラダック・ザンスカール仏教文化調査隊」に隊長として参加。
1978年(昭和53年) 密教学芸賞受賞・九州大学より文学博士号を授与(博士論文『密教経典成立史論』)
1983年(昭和58年) 高野山大学学長に就任
1995年((平成7年) 耆宿宗会議員(~1999年)
1999年(平成11年) 高野山寳壽院門主・高野山専修学院院長に就任(~2007年)
2002年(平成14年) 高野山第503世検校法印(~2003年)
2006年(平成18年) 11月15日高野山真言宗総本山金剛峯寺第412世座主、高野山真言宗管長就任(~2014年)
2008年(平成20年) 財団法人全日本仏教会会長に就任(~2010年)。春、瑞宝中綬章受勲。
2009年(平成21年)11月にダライ・ラマ14世と面会
2010年(平成22年)1月、東寺(教王護国寺)での後七日御修法の大阿(阿闍梨)真言宗長者
          スイスダボス会議(世界経済フォーラム)に出席。
2011年(平成23年)天台宗の半田孝淳座主に申し入れて、12月25日に比叡山にて
            天台・高野山真言宗トップ対談を1200年ぶりに実施。
2023年(令和5年)4月16日、膵臓がんのため死去。93歳没。

四十年以上前、私がまだ仏教を学び始めて間もない頃、原始仏教関係の本ばかりを読んでおりましたがインドつながりから、松長有慶訳・アジット・ムケルジー著『タントラ-東洋の知恵』(新潮社)を読んだのが先生の本との最初の出会いであろうかと思います。その後真言僧となるにあたりその基礎知識として読ませていただいたのが『密教 コスモスとマンダラ』(日本放送出版協会)であり、大変わかりやすく、身体感覚として法身大日如来というものの存在を体感できたのは特に印象にのこっています。『密教の相承者 その行動と思想』(評論社)は高野山専修学院の教科書として真言八祖の伝記を学ばせていただきました。そして、『秘密の庫を開く 密教教典 理趣経』(集英社)は、わかりやすく常用経典について学ぶテキストとして、今日まで何十回と読ませていただいています。

このように学者先生として仰ぎ見てきた先生がこの福山の地に来たところ、國分寺の先代が先生とは高野山大学の同期であり、盆暮の挨拶は勿論のこと、著書の出版記念パーティや宝寿院門主、法印、管長という重職につかれるたびに祝儀を送り旧交を温めてきた関係であったと伺いました。それが故に、平成二十六年十月二十二日高野山真言宗の福山近在の御寺院の檀信徒へ管長猊下としてなされる御親教のために福山にお越しになられると、翌日午前中の開き時間に國分寺にお立ち寄りいただいたのでした。

その一週間後には前年に亡くなった先代和尚の一周忌が予定されており、亡くなった時義母が訃報の連絡をしており、それを気にされていたと後になって聞いたのですが、何の事前通知もなく前日夕方に明日午前九時半にお越しになられると連絡が入りました。急遽、庭の掃除から始まり御通しする部屋の設い、お茶菓子、拝まれる座の用意など準備して、予定の九時前には仁王門前で待機しました。黒塗りの車が参道を入ってきて、合掌してお迎えしました。

開口一番、誠に気さくに「突然にすみませんなあ」と言われたように記憶しています。ほとんど初対面に近いこともあり、緊張してかしこまっていた当方もこのお言葉で気持ちがほぐれたことを思い出します。中門から客殿前の門を入り直接上段の間にご案内し、床前の毛氈の上に敷いた赤座布団にお座りいただき、菓子とお茶をお出ししました。

前年亡くなった先代の話から、その年の春にドイツ人の早稲田大学名誉教授で真言宗僧侶のヨープスト・雄峰先生にこちらの教区に講演にお越しいただいた話や仏教雑誌『大法輪』での執筆の話など砕けた話をしたことが思い出されます。それから本堂へご案内して先代の位牌を拝んでいただこうとすると、こちらにも毛氈赤座布団は用意していたものの経机の前にお座りになられ、理趣経一巻をお唱え下さいました。誠に有り難く思われ、あとから録音しておけばよかったと思われたのでありましたが。それから上段の間から外にお出になられ、本堂をバックに写真を撮らせていただきました。そして、仁王門前に駐車された車にお乗りになりお帰りになられたのですが、ちょうど一時間のご滞在でありました。

何のお礼にもならないものの、早速赤白のしの「菓上」と保命酒を送らせていただいたところ、後日、沢山のご著書と直筆の手紙を頂戴しました。そしてその翌年の四月丁度高野山開創千二百年の記念法要に高野山に団参で訪れた際に義母とともにご自坊にお礼のあいさつに伺いました。

その後送ってくださったご著書を読んで学ばせていただいたことなど手紙を出さねばと思っていて書きそびれて三年ほども経過した頃、令和元年六月、突然筆者がパソコンに向かっていたところ先生からのメールを着信したと表示されたのでした。その後寺報を送らせていただいていたのでアドレスを知られてのことではありますが、驚いてメールを拝見すると、本を送るように手配してあるので読んで欲しい、戦後の弘法大師の著作についての現代語訳が粗雑であり、誤解される恐れがあるので、残りの余生をその現代語訳に捧げるつもりである。この度は『訳注即身成仏義』(春秋社)であるが読んで少しでも取るところがあるなら勝手なお願いで済まないが感想を仏教関係誌に書くように。日常的に平易な文章を書きなれたあなたにお願いしたいとの内容でした。

早速にご自坊補陀落院にお電話し、直立不動の姿勢で、身に余るお話で期待に沿えないと申し上げると、そんなことではなくただ読んで思ったことを書いてくれればいいからとおっしゃられ、浅学を顧みずお引き受けすることとなりました。もとより不勉強の身のため、ただ読んで思ったことの羅列に過ぎないものを書いたように思われるのですが、六大新報誌に「新刊紹介」として二頁ほどの原稿が掲載されました。ただただ先生のご著書を汚すことにならないかと心配されたのでした。

その翌年六月には『訳注声字実相義』が送られてきて、令和三年には『訳注吽字義釈』が。先生は大師が命ぜられたとお感じになられて、御高齢の上、病を抱えながらもパソコンに向かわれ、大師の著作の現代化のため十巻章の訳注シリーズの出版と総まとめとしての新書版『空海』発刊のために管長退任後の余生を捧げられたのでした。そして昨年一月に『訳注弁顕密二経論』、六月には岩波新書『空海』を出版され、大師とのお約束を成就されました。その都度こちらにもご送付下さり、六大新報社からも連絡が入り、つごう五冊分「新刊紹介」を書かせていただきました。身に余る光栄であります。

この間二度ほど高野山に用事で出かけた際にご自坊にお伺いさせていただきご挨拶もうしあげました。昨年一月二十四日、小雪の降る中お伺いした際には、玄関までお出ましくださりお話させていただきました。六月に予定している『空海』で生涯著作が五十冊となるが、これが最後だと思ってやっている。全く新しい空海像を描いているが難しい表現が入るから一般の人にはどうかと思うと言われるので、最近の読者はよく勉強されるから少しばかり難しくても大丈夫ですと申し上げました。

また、いつも新刊をすぐに読んでまた文章を書いてくれてと言われるので、的外れのことばかり書きまして申し訳ありませんとお詫び申し上げました。ただそれでも先代は喜んでくれている、先代の供養と思って書かせていただいていると申し上げ、またあるお寺様が大師と語れる最後の先生でありこれからもご壮健で頑張って欲しいと申していたことをお伝えしました。これから高野山は寒いので九州に転地療養に行かれるとも言われていました。終始にこやかにお元気そうで、九十三才とは思えないほど声も表情も活気に満ちておられ、かえってこちらが元気をいただいたように思えたのでした。

その後三月十八日のメールでは、送付させていただいた寺報に関連して、上座部仏教の瞑想について今後もっと研究せねばならない領域であるとされ、先駆けて注目している点に深い敬意を呈上する。六月には『空海』の題名で岩波新書を出版する予定で、おそらく最後の著作となると思うが、真言宗の方々の常識をいくつか覆し、びっくりされる内容と思うが、瑜伽にいのちを掲げられた大師のお考えの核心と思う点を一般の知識人に訴えてみたいとありました。

また、六月二十三日にもメールを頂戴し、早速、的確な『空海』の御紹介に御礼を申し上げる。短時間の間にこれほど深いところまで読み込んでくれて感謝している。これを書き上げてほっとすると同時に疲れを感じるとありました。そして、これが最後の著作となると思うが、今年の日本密教学会、種智院大学で特別講演を村主学長から頼まれましたともありました。ですが、その後体調がすぐれず、この講演は先生の用意された原稿を高野山大学の学長先生が代読されたと伺いました。

そして、十二月四日、このメールが先生からの最後のメールとなるのですが、十月に腹痛で入院し、以後医師の指導の下に食生活をし、お酒も甘いものも控えるように命じられている。今年もまた著作の紹介をかたじけなくし感謝している。最後に、くる年もいい年でありますよう祈り上げます、と書いてくださいました。私のようなものにまで体調のすぐれない中メールを送ってくださり誠に申し訳なく思ったことでした。

そして今月十六日、朝八時過ぎに一本のショートメールで先生のご遷化を知ることになりました。通夜葬儀は十八日十九日高野山南院にてと知って、丁度その両日、東京のお寺の法会に出仕する予定であったため、当初出席するのは難しいと諦めていました。ですが、これまで賜ったご芳情を思い、急遽十九日早朝五時に宿を出て、六時品川発の新幹線に乗り高野山に向かいました。

降りしきる雨の中、十一時過ぎに南院へ。門を入ると目の前にずらっと並ぶ供花に、まずは圧倒させられました。広間の建物の外から廊下、門正面の植え込みの周りにも。荷物を置き、上がらせていただき、棺の前に進み線香を立て投地礼。小声ながらこれまでの恩義に感謝の言葉を述べさせていただきました。それから一度退出して、再度十二時過ぎに南院に参り、奥の間で黒衣如法衣に着替え、山内寺院方のすぐ後ろの随喜参列寺院席に着席。管長猊下はじめ山内寺院院家様、上綱様、前官様方が着席され、理趣経一巻唱和。管長猊下と山内住職会会長の弔辞、弔電、挨拶が続きました。この頃から雨脚が強くなり屋根にあたる音がわかるようになります。

そして出棺となり、棺が広間中央に運ばれ、山内寺院方から順に花を棺に入れていきます。私も蘭の花を受け取り棺に添えさせていただきましたが、先生のお顔はお会いした時と変わらず端正な綺麗なお顔でした。そして棺が霊柩車に運ばれるころには土砂降りとなり、棺を乗せた車が動いた、まさに出棺のその時、ひときわ大きく雷鳴がとどろきました。

その時、「人の願いに天従う」という弘法大師の言葉が頭によぎりました。出棺を天が世の者に知らしめ先生を弔わんとされた雷鳴か、はたまた先生が皆のものへの挨拶としてとどろかしめたものかはわかりません。ですがいずれにせよ、霊柩車のクラクションと同時に鳴ったその音は、何か先生のご意思によるものと思われたのでした。

一つの時代が終わってしまったと思われて仕方がありません。先生は戦中戦後どんな思いで補陀落院を継承なされたのか。学問の道を極められた心の源は奈辺にあったのか。また、今の時代に私どもに向けて、もっと多くのことを言い残して欲しかったと思うのですが、いやいや、沢山のことを書き残しているではないかとお声が聞こえるようです。

そうなのです、先生は密教の学問的な研究の傍ら、宗教や信仰の枠を超えて、常に時代であるとか世の中の諸問題について、いかにとらえ対処すべきかを問い指針を示してこられました。それは例えば脳死と臓器移植についての捉え方が西洋の人々とは違った日本人の精神構造の観点からの理解が必要であるとされたり、遺伝子操作については不治の病に対する治療がなされるほかに人間のクローン化などへの不審が払拭されていないこと、終末期医療については長生きよりも命の質の問題への転換が必要とされるなど、医学や生命科学における諸問題の解決のため宗教者からの提言を積極的になされてこられました。

平成十七年には、現在では百四十を超える社寺が参加する西国神仏霊場会が発足していますが、先生は十七人の発起人の一人として神仏の宥和を推進されています。平成二十一年には、天台宗の半田孝淳座主を高野山で行われる宗祖降誕会に招待され、平成二十三年には比叡山を訪問されて、東日本大震災を体験した日本人の心のあり方を宗教人として示すべく、半田座主と千二百年の時を隔ててトップ対談を実現されました。これもすべてのものを包摂する密教的発想からの宥和の実践をお示しくださったものといえます。

さらに平成二十二年、全日仏会長として世界経済フォーラムによるダボス会議にアジアの宗教者として初めて招請されました。その際になされた講演の内容は、まさに現状の国際社会のあり方に対して日本の仏教者の立場から警鐘を鳴らすものでした。自我を中心として対立的に世界を見る近代思想から全体的、相互関連的に世界を見る立場への転換を提案し、先進文明を唯一絶対の価値あるものとして世界を統合するのではなく、地球上のあらゆる地域に存在する文化の独自の価値を尊重し共存すべきこと、私たちが現代社会に生きているとは環境破壊に関与して生かさせていただいていることに気づき、社会のため環境のために寄与奉仕する生き方が求められていると提唱されています。

ところで、先生の著作のいくつかにヘルマン・ヘッセの小説『シッダールタ』の話が登場します。インド人の人生の三大目的であるカーマ(愛欲)とアルタ(富貴)を経験し尽くし、その後無一文となってモークシャ(解脱)を求めて生きる主人公を本当の意味での自由な生き方の手本と書かれています。最後は、わが子とも決別して悩み苦しみつつも、すべてあるがままに現実を受け入れ生きんとする主人公に憧憬を寄せておられるようにも感じられました。

三年ほど前のことにはなりますが、生涯坐禅に取り組まれた仏教学者玉城康四郎先生の著作に学んでいることをメールでお伝えしました。すると、先生からは、生前よく存じ上げており、東大教授でしたが仏教を学問的に研究するだけではなく、ご自身の生き方の中に常に求め、それを生かそうと努めておられた方で尊敬している。今日このような求道的な態度で仏教に接しておられる研究者はほとんど見かけなくなり残念です。老齢ながら、余生の中にこの態度を取り込み生かしたいと考えているとご返信いただいて大変恐縮したことがあります。最後の著作となった『空海』において、先生は大師の思想と生涯の行動が瑜伽(観法・瞑想)に始まり瑜伽に終わると記されていますが、先生ご自身も日々瑜伽観法を丁寧に修法なされ、世俗を超越し無限なる世界と繋がる時間を何よりも重んじてこられたのであろうと思われます。

だからこそ、いつも飾ることなく、一つも偉ぶるところなく、誰にも変わりなく優しいまなざしで、気安くお声がけくだされた。そんな先生に数えきれないほどの多くの人が心癒されたことと思います。私もその中の一人にすぎないのですが、晩年にご高誼を賜りましたことの感謝の気持ちを込めて一文認めさせていただきました。本当にお世話になりました、感謝申し上げます。どうか兜率浄土より安らかにお見守りください。合掌



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大師堂落慶を祝して

2023年04月12日 20時09分25秒 | 備後國分寺の風景
大師堂落慶を祝して



四月二日、めでたく大師堂が落成した。前日まで左官屋さん、大工さん、建具屋さん、清掃の方など職人方が慌ただしく最終の仕上げを施してくれて、何とか落慶法要に間に合わせてくださった。昨年十一月から解体された大師堂と休み堂が一つの建物に生まれ変わった。

明治三十四年五月発行の『廣島県名所図録』という、広島県内の神社仏閣など名所の建物の様子をスケッチして解説を施した図鑑がある。それによれば、ここ備後國分寺の頁には「備後国深安郡御野村真言宗唐尾山國分寺之真景」とある。それを見ると、境内の西側に南北に切り妻屋根の休み堂らしき建物があり、すこし離れた北側に小さな籠堂らしき建物が描かれている。記録によれば明治二十一年に、天保年間に開創された唐尾山八十八箇所の籠堂が造られたとあるのでその建物であろう。

唐尾山は國分寺の山号であり、寺の背面に位置する山を唐尾山と通称している。四国八十八箇所の札所本尊を彫った石仏が山一円に順に設置されている。山の西麓に屋根を設けた一番札所があり、そこから北西の斜面を上がり下御領下組の共同墓地を経て、山上の石鎚社に登る。その西側の三十八番札所から接待堂を経て、途中古墳をいくつか横に見ながら石段が設けられた山を下る。國分寺の庭園を見下ろしながら降りてくると本堂西の裏にあたる八十七番札所があり、八十八番結願所は境内に設けられていた。一巡すると小一時間はかかるだろうか。

江戸時代初期に四国霊場の巡礼は盛んとなり、その後全国各地にミニ霊場が作られていく。その一つとして、天保の大飢饉をきっかけに開創されたという。霊場開創百四十年記念誌に記載された開創当時の施主帳には、「天保十二庚丑年秋八月吉祥日 唐尾山八拾八ケ所本尊施主帳 開眼 寅二月廿一日 結衆中 相頼 相添申候 世話人 当村 平吉、浅七、政右ヱ門、久米右ヱ門 法印 光蓮代」とある。天保四年(1833)に大雨による洪水や冷害による大凶作により始まり、天保十年ころまで続いたとされる天保の大飢饉を乗り越え、風雨順時五穀豊穣を心底願われての開創であったことであろう。

そして、明治二十一年に近在の信者約五百人から浄財をいただき籠堂を建立したとある。それも九十年余りが経過して損壊甚だしきことから再建の話が出たが、おそらくお籠りする人もない時代となったためであろう、境内に置かれた八十八番の本尊と大師像を祀る大師堂として昭和五十六年に建立が発願されて、千五百人近い人々から浄財を頂戴し、八月二十日に落慶された。

それから四十年余り、唐尾山八十八箇所は二十年前頃まで毎朝何人かが巡っていたが、その後一人欠け二人欠けして、巡る人が徐々に減少。接待堂でのボヤ騒ぎや不審者の滞在など風評が広がりさらに減って、近年はイノシシが駆ける道となってしまったことも災いして激減。逆に大師堂は毎月の薬師護摩供の道場として特に十年ほど前から多くの参拝者を迎えるようになり、数名の人たちが外にベンチを並べてお詣りするようになった。加えて、南に位置する休み堂をどのように再興するか以前から懸案となっていたことから、二つの建物を繋いで内拝できるお堂として再建することが検討された。

旧大師堂建立の経緯から、昭和五十六年に建設した際に世話になった大師講の世話人方にこうした事情を説明し了解をとる必要があった。大師講の世話人方も徐々に世代が変わり一人二人となってしまっているが、丁寧にこの度の再建計画に至る事情を説明。お寺の敷地内のことでもあるからと、なんとか了解を取り付けることができ、早速総代で一級建築士の武村氏が素晴らしい設計図を作ってくださった。そして、令和三年四月には建設にとりかかることとなった。

しかし、コロナ禍の中、物流がストップするなど資材が揃わず延期となり、昨年令和四年十一月やっとのこと解体にこぎつけた。四日に午後から石仏を搬出し境内に安置、護摩壇は本堂に移された。七日より解体が始まり、三日ほどで二つの建物の解体が済み、十日に急遽倉敷の宝嶋寺様に伺い土公供の伝授を受け、十一月十二日午前に鎮壇具を地面下に埋納する土公供を執り行った。

当日朝から、六文銭を取り付けた土公申幣、幣足十二本、五寶・五香・五薬・五穀・五色を納めた宝鋲、さらには水、酒、色紙を小さく刻んだ切花、洗米に五色の紙を刻んで入れた散米、五穀粥、塩を用意。お堂予定地の中央と四方に一尺ほどの穴を掘り、その前に幣を立て、穴に納める鎮壇具を前方の机に用意して午前十時から修法開始。四十五分に終わり、中央には宝鋲と法輪橛、四方には法輪橛を納めた。そして翌週からといわれていた基礎工事がその日午後から急遽開始された。

十一月二十六日基礎工事完成。十二月十日木工事のための木材搬入、十二月十九日総代四人と工事関係者七人が参加されて、圓照寺住職に御助法いただき午後四時半、上棟式を執行した。導師が仏式上棟式作法を修法する中、心経発音、立義分を共に唱え、薬師真言、不動真言、日天・月天・地天・梵天の各真言、大金剛輪呪、光明真言、御寳号、一字金輪と次第して唱和を終える。棟梁に、棟木に幣と棟札を飾り、四方に酒・米・塩を供えてもらう。挨拶、乾杯の後祝儀を差し上げ直会を行った。

翌日より今年二月八日までに木工事、瓦銅板など屋根工事を終え、その後左官工事、電気工事などが施された。三月三十日、まず石仏が搬入され、護摩壇を本堂から運んでいただいた。それから茶室などに仮置きされていた仏像を一体一体運んで、橛を差し込んで壇線を張り仏具を移して荘厳し、大師堂入り口の蔀戸など建具が取り付けられた。さらに法要前日に、外にベンチが設置され、流しの横には棚が作られた。そして、大師堂前には紫の寺紋入りの幕、外陣部分には五色の幕が張られ、見事落成を迎えることができた。落成に向け懸命な作業に邁進してくださった職人様方に深く感謝申し上げます。

四月二日、快晴の中、地元神辺の真言宗結衆寺院六ケ寺八名と圓照寺住職により、午後一時から落成慶讃法要が執り行われた。次第は、入堂着座、奠供一讃、心経、慶讃文、諸真言、挨拶、祝辞、退堂。慶讃文は以下の通り。

『大師堂落成慶讃文』
「敬って、真言教主大日如来、両部界会諸尊聖衆、殊には本尊聖者薬師如来並びに
高祖弘法大師、総じては一切三宝の境界に申して言さく。夫れ惟んみれば、堂塔は
秘密荘厳の標幟。伽藍は信心培増の方便にして、本尊之によって威光を輝かし衆生
之を仰いで信心を運ぶ。

 茲に当山大師堂と者、そもそも天保十二年開創せし唐尾山大師道の籠堂として明
治二十一年に建立。九十年余りを経て損壊甚だしきことから、昭和五十六年八十八
番札所大師堂として近在の数多の信徒より浄財を募り再建す。以来、月例護摩供を
修して檀信徒の護持並びに参詣善男子善女人の除災招福を祈願せり。然るに、此の
度新たに建立を企てるは、先住和尚並びに檀信徒の念願にして、護摩供参詣者の便
に資し、精進功徳を積みて人心の暗迷を除き正路に就かしめんが為なり。

 殊に、本年は弘法大師御生誕千二百五十年にあたり、宗祖大師を讃仰し報恩謝徳
に資するは幸甚この上なし。依って本日落慶にあたり、神辺結衆諸大徳の親修を仰
ぎ法会を厳修す。期する所は、

 世界平和 国家安穏 弘法大師 倍増法楽 
 護持檀信 家内安全 息災延命 如意吉祥 
 乃至法界 平等利益

 干時令和五年四月二日
            唐尾山國分寺 住持全雄敬白」

最後にはなりましたが、建設にあたり、檀信徒の皆様からは涅槃会寄付を、また篤信の皆様方からは特別寄付を賜り、さらに多くの檀信徒の皆様からお祝いを賜りましたこと、ここに深く感謝し御礼申し上げます。お寺は福田(ふくでん)とも申します。お参りくださった方々が善行を施し、心を耕し功徳を収穫していただく場であります。是非これからもより多くの皆様が集い沢山の功徳を持ち帰ってくださる福田となりますことを心より願っております。合掌


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