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松長有慶先生著 『訳注 即身成仏義』を読んで

2019年07月23日 13時44分53秒 | 仏教書探訪
【六大新報七月十五日号掲載】

松長有慶先生著 『訳注 即身成仏義』を読んで

 松長先生の最近刊となる『訳注 即身成仏義』(春秋社刊)を拝読させていただいた。そもそも筆者が初めて『即身成仏義』(以下『即身義』と略す)を読んだのは、栂尾祥雲先生の『現代語の十巻章と解説』(高野山出版社刊)においてであり、専修学院に学んでいた頃であるから三十年も前のことである。誠に申し訳ないことではあるが、それ以来まともに『即身義』と対峙することもなかったのである。が、この度改めて松長先生の解りやすく、されど伝統的な解釈に忠実に懇切丁寧に説かれた本書を読んで、新たに様々なことを学ばせていただいた。

 まず巻頭の「『即身義』の全体像」において、『即身義』は当時の天台の学匠や南都の碩学、知識人に、即身成仏という画期的な教えの根拠を示すものとある。それは単に成仏する時間の問題だけでなしに、人と仏、物と心というような二元的な存在の本来的同一、さらに山川星辰など非情も仏に他ならないことが説かれるとされる。

 『即身義』の著作年代については、即身成仏という表現は弘仁の初期に書かれた『辯顕密二教論』中に、密教の四カ条の特色の一つとして登場するが、まだ即身成仏思想の構想は熟しておらず、その後の大師の著作などから思想形成の過程が語られ、弘仁六年以降遅くとも、高野山に金剛峯寺が建立され、東寺を下賜される弘仁の末頃までに『即身義』は出来上がっていたと推定せられる。

 そして、即身成仏、特に即身という語を説くための三種のキーワードについて解説されており、六大については、現実世界を構成する要素ではなく、五大としての物質的なものと識大としての精神的なものとの総合体であり、物と心は元々同体として存在するとされる。

 四曼については、特に法曼荼羅とは行者が金剛微細智の境地に入り体験する音や響き、声、光、根源的なコトバを表すものであり、羯磨曼荼羅は活動智を表現するため本来は五仏以外女尊形で描かれるべきものであることが紹介される。

 三密加持については、加持とは行者と仏との入我我入であり、三密加持とは身口意の三密それぞれが一体化した状態であり、仏・衆生・自然これら三者の三密も一体化し、融合していることをいうのであるという。

 そして本編に入るが、各段ごとに、はじめに【要旨】が説かれ、次に【現代表現】としてやさしい言葉で現代語訳が示され、【読み下し文】と【原漢文】が続き、難解な用語は【用語釈】として、平安時代から戦後にいたる三十四もの注釈書や著作の解釈に斟酌した丁寧な解説が附されている。【要旨】と【現代表現】をまずは読んで、【読み下し文】や【用語釈】を参照すれば、難解な大師の著作が不思議なほど容易に了解できる。

 大師は、二頌八句を創作し即身成仏という四字を讃嘆し説明していかれるが、先の頌において、六大とは、物と心を総合し一体化しており、それはあらゆる存在の本源たる大日如来に外ならないのであり、そこから仏も衆生も万物自然をも生み出し、互いに融合し結びついているという。四曼は、その真理のありかたを四つの形で象徴的に表現したものである。

そして三密加持はその働きを身と語と心と捉え、仏と衆生の三密は本来ともに入り混じり互いに支え合っているので、仏と人との三密の関係をよく心得て三密瑜伽の行法を修すれば速やかに大悉地を得ることが出来るとするのである。さらにこの六大四曼三密は相互に一体化しておりそれを無碍という言葉でまとめられる。そして後の頌においては、人、動植物、環境社会が本体、形相、作用において仏に他ならないことを成仏という語で説明されていく。

 この度、本書を読んで、『即身義』に不読段があることを知った。灌頂を受けていない者には説かない決まりがあるという。その段は、即身成仏を確信して、尚私たちはいかに生きるべきかを教えてくれているように思える。それは、理趣経系統の儀軌である『五秘密軌』を引用したくだりであり、受者が阿闍梨から三摩耶戒を授かり、金剛薩埵の五秘密瑜伽の教えを早朝・正午・夕方・夜半に日常生活の振る舞いの中で絶えず思念し実践すれば現世で初地を得るとあって、

続いて「五秘密の修法を修することによって、覚りとか生死に染まらず、執着せず、果てしなく輪廻を繰り返す生涯の中に身を置きながら、広く衆生の利益と安楽に努め、自身を百億の身に分けて、輪廻に苦しめられている生き物たちの中に入りこんで、彼らを導き、最終的には金剛薩埵の位に到達させる。」(P140)とある。正に『理趣経』百字偈に説く勝れた智慧ある菩薩としての生き方そのものであり、『高野山萬燈會願文』にある大師の誓願にも適うものであろう。なぜなら、その誓願をかなえるべく実働すべきは私たちなのであろうから。

 釈尊はその生涯において、弟子たちの多くを阿羅漢果という最高の悟りをさとらせた。がそれが故に、解脱して死後再生せず、死とともに慈悲行を諦めざるを得なかった。解脱することが目的ではなく、何度も輪廻しつつ菩薩行に挺身することこそが大乗菩薩としての理想であることをここに示してくれていると言えよう。

 『即身義』によって大師は、現代に生きる僧侶である私たちに何を訴えかけておられるのか。大師の思いを私たちの心にそのまま繋げて下さるのが本書である。本書は、今年九十歳になられる松長先生が真言僧侶関係者に向けて宗祖大師の著作を現代に生きかえらせようと渾身の力を振るって、そこに先生の持つすべてを注ぎ込まんとなされた労作である。多くを学ぶことが出来よう。是非御一読願いたい。


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コメント (2)
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