住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

RKK福山教会発足60周年記念式典に参加して

2019年06月24日 07時59分16秒 | 様々な出来事について
本会の機関誌に原稿を書かせていただいているご縁で式典に参加させていただいた。大きな会場に会員の皆様が集結し、厳かにも熱気溢れる式典であった。小中高生の男女により御本尊に供物を供える奉献の儀、福山教会会長導師による読経、功労者表彰、体験法話、本部からお越しの会長ご名代による説教、式典後の青年部による和太鼓や合唱など。そのすべてが誠にありがたく、三世代四世代に亘る本会会員の皆様の世代を超えた総力を結集したものであり、ご参加の会員の皆さんの心に残るであろう素晴らしい式典であった。

式典後場所を移しての祝賀会では一言御祝いを述べさせていただいたが、十分に意を尽くせなかったこともあり、ここに補足し記録として残しておきたいと思う。冒頭に述べたとおり、機関誌の一ページの原稿を書かせてもらっているご縁で参加させていただいたが、実は私自身はこの60周年の式典に参加し、話までさせてもらう不思議な因縁、縁を感じている。

幼少の頃東京中野区南台に住まいしており、父方の祖母は熱心な本会の信者で、友人宅に遊びに行けば、大聖堂を目にし、沢山の信者さんがバスで参拝に来ている光景を見て宗教の力の偉大さを肌に感じつつ成長した。夜間大学時代には昼間勤めをした会社の社長ご夫妻は本会の信者であったし、その後高野山で出家して、後にインドに行くことになるが、縁のあったコルカタの仏教教団は、本会のご寄付でゲストハウスと病院を建設し、私が初めてお訪ねし宿泊した建物が正にそれであった。

一階の踊り場には本会の寄附により建立されたことがプレートに刻まれていた。その後インドの師について再出家するが、その師は本会大聖堂に来訪し親しく開祖様と会見している。コルカタのお寺にあるときには夏休みで来られた本会の青年部の方々がインドの仏教徒と交流する場面も拝見している。インドの僧として東京にあるときには、黄衣のまま本会の図書館に出向き貴重な書籍を借りて勉強させていただいた。また伝統ある仏教雑誌に原稿を長く書かせていただいているが、大層お世話になった編集長は二年前に本会出版社に転職されている。そうした機縁もあり機関誌に原稿を書かせていただいているのであるが、これまでの人生の節目節目に本会との御縁をいただきお世話になり、今日があるように感じる。

式典で拝聴した説教の中に、御先祖から続く縦の縁、今生かさせていただいている横の縁を大切に思うべきであると話を伺ったが、今年数えで六十歳となる。正に縦と横の私と本会との縁がこの日60周年に合致した用に思えて誠に不思議な感覚を覚えたのである。今日本もそうだが世界的に宗教が衰退する時代を迎えている。そんな中、盛大な式典が挙行できたことは暗闇に一筋の光明を見る思いがする。

拙寺では座禅会をしているが、座禅の前後には、この一座が自分の行いではあるがそれは、周りの人たちのため、生きとし生けるものたちのために行うと心の中で念じる。本会の会員の皆さんも、縁ある多くの人たちを導こうとすれば、おそらく身近な家族に負担を掛けることもある。しかしそれは家族のためでもあり、広くみんなのためなのだとの信念をもって励んで欲しい。私が度あるごとに本会のおかげで今あるように、たとえ会員にあらずとも多くの人たちが皆さんの行い導きにより救われてあるのだから。本会の益々の発展と多くの人たちを皆さんがお導きされることを念願します。合掌

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 地域生活(街) 中国地方ブログ 福山情報へにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

功徳を積むにあき足ることなし

2019年06月03日 17時08分26秒 | 仏教に関する様々なお話
功徳を積むということをインドなどではよく口にします。「プンニャ・カルマ・イカッター・カルネー・ケリエ」(ヒンディー語で、功徳を積むために)などといって、インドのお寺で掃除をする仏教徒たちがよく口にしていましたが、彼らは些細なよい行いをして、できればたくさんの功徳を積んでおきたいと考えています。それは何かあったとき、その功徳のおかげで助けられたり、うまくいくことを知っているからです。

私たちがよくお唱えする廻向文の中にも、「この功徳を以て普く一切に及ぼし」とある様に、読経した功徳によってすべての者たちがよくありますようにと願います。ですから私たち誰もが功徳ということをよいものと分かっているのですが、だからといって、普段特別に功徳を積みましよう、功徳を積んで何か願いごとがかなうようにということもしませんし、こんな善いことを私はしたんですと、口にしたりもいたしません。

中国の唐中期の詩人に白楽天という方があります。この方は杭州蘇州などの地方官をされていますが、杭州に赴任したとき、この地に道林禅師という高名な僧が居られることを知り訪ねています。大木の上にのぼり何日も座禅をすることで有名な方であったそうですが、訪ねていった白楽天は、「長年修行をされているとのことだが、仏教を一言でいうとどういう教えであるか」と問うたそうです。これに対し道林禅師は、「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」( 悪いことをせず善いことをして自ら心を浄めること、これが諸仏の教えなり)と答えたといいます。

すると、白楽天は、「そんな三歳の子供でもわかるようなことではなく仏教の深遠なる教えを尋ねているのだ」と言ったそうです。道林禅師は、「三歳の童子これを知ると雖も白髪の老人行いがたし」と返答し、これに返す言葉もなく白楽天は帰っていったということです。道林禅師は、白楽天の高慢な態度をたしなめられたのかも知れませんが、インド人と違って普段功徳を積む、善いことに励むということが宗教観として根付いていないことからくる文化的違和感によるものといえるのかもしれません。

歳を重ねるに従い、何でも自分の思い通りになるが故にかえって、悪いことをせず、善いことに励む、そして謙虚に他を重んじるということは難しくなるものです。お釈迦様の時代にこんな話がありました。お釈迦様の弟子には王様からアウトカーストの人々まで様々な階層の人たちがありましたが、中でもお釈迦様と同じ釈迦族出身の弟子たちには多くの勝れた弟子がありました。成道後二十年ほどして出家したアーナンダはその後お釈迦様が亡くなるまで侍者を勤めるのですが、このアーナンダと一緒に出家した人の中にアヌルッダという高貴な裕福な家の子弟がありました。

アヌルッダは、あるときお釈迦様がシュラーパスティという大きな商業都市のスダッタ長者の寄進による祇園精舎で、たくさんの聴衆を前に法話をされているときに居眠りをしてしまいます。法話を終えたお釈迦様はアヌルッダを呼び、「そなたは良家に生まれ、されど道を求める心かたく出家をしたのに、衆人の中で座睡したのはいかがしたのであるか」と問われました。アヌルッダは威儀を正しひれ伏して「以後たといわが身がただれ手足が溶けようとも如来の前にあって座睡することはいたしません」と誓い、それより不臥不眠をもって自己の行とされたのでした。

横にならず眠らず、それにより、眼病を患い、お釈迦様も心配してジーヴァカというお釈迦様の侍医にも診療させたのでしたが、少しでも眠れば目も治るものをといったということです。そして、遂にアヌルッダは失明したのでありましたが。かわりに天眼を得て天眼第一と言われるようになりました。天眼とは、通常の人が見ることの出来ない、自他の過去世を見る能力のことです。

そして、それからどれだけの時が過ぎた頃のことか、アヌルッダが精舎にあって、袈裟のほころびを直そうとしたところ、針の穴に糸を通すことが出来ず、心の中で「世の諸々の聖者の中でわがためにこの針の穴に糸を通してくるものはないだろうか」と念じると、お釈迦様が彼の心中を察して、「アヌルッダよ、私が糸を通してあげよう」と声を掛けられました。アヌルッダは驚いて、「世尊よ、とんでもない、誰か福分を積み功徳をつもうとするものがあれば、私のために針に糸を通してくれないかということでした」と。

すると、お釈迦様は、「私に福分を積ましてくれてもよいではないか、功徳を求めることでは私に過ぐるものはないであろう」。この言葉にアヌルッダは驚き、「世尊は、無為にして、いまさら何の求むるところがありましょう、生死の海を渡り、一切の愛着を脱しておられるのに、何のために福徳を求められるのでしょうか」と問われました。お釈迦様は「如来は六法においてあき足ることなしという、すなわち①施②教誡③忍④説法⑤慈⑥求道である」と諭され、たとえ如来といえども、求むるところこれでよしということはないのだと教えられたのでした。

確かに、成道された後にお釈迦様は寸時を惜しんで、縁ある多くの衆生に教え諭され、四十五年ものあいだ常に伝道の日々を重ねられています。このアヌルッダの話を伝える経の最後に添えられた偈文に、「この世のあらゆる力のうち、福徳の力こそ最も勝る、人天の世界にこれに勝るものなし、仏道もまたその力により成る」とあります。

私たちも、もうこれでよしということはなく、日々精進あれということでしょう。何事も因果応報、善因楽果、悪因苦果。自らの行いはしてしまってそれで終わりということはないということでしょう。何よりも、今生においてよくあるために。また来世にいっても、ものをいうのはこの功徳しかないのですから。自分にも他者にもよくあることを積み重ねることに尽きるのです。この世のこの刹那のことにしか関心がなく、いまの感情に支配されて他を苦しめたりしていたら、功徳の積みようもなく、後々先にいって困るのは自分なのだということに、現代に生きる私たちも思い至らねばならないのではないでしょうか。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 地域生活(街) 中国地方ブログ 福山情報へにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする